28話『思春期を殺した少年』
随分涼しい日が続くようになった。
九郎は寝酒を飲みながら、そろそろおでんの季節だと思い始める。異世界にあったコンビニでも秋口から販売が始まる。
彼の過ごした異世界でのおでん串は騎士同士の決闘にも使われていて[オーデーンランス]などという別名があるほど、異世界でも浸透している料理だ。なお、先端に威力の高い熱々卵を刺す形式は国際条約で禁止されていた。
当時、江戸の世間で[おでん]と言えば焼き田楽を指す。醤油系の煮込み田楽は、作りおきが出来てなおかつ魚介系出汁のしるを作りやすい魚河岸から広まったという説もあるが、まだ一般的ではない。
なければ作るのが元現代人・九郎である。
タイムパトロールの追求を受ける要素は、煮込みおでんの発祥に関しては年代が確定していない為に低いだろう。
マヨネーズを作った時は危なかったかもしれないが、江戸の人の味覚好みが西欧化していないおかげかあまり流行りそうにはなく、自家消費分だけ作るようにしているので大丈夫だろうと思われる。キユーピーだって販売のタイミングを見計らって売りだしたのだ。ところで、九郎は其の社名が「キューピー」ではなく「キユーピー」だと云う事を知らされた時に妙なむず痒さを感じた。どっちでもいいことではあるが。
閑話休題。
とにかくおでんをご馳走して、怒らせた百川子興の機嫌を直さなくてはならない。この前、石燕宅に行った時、何気無しに石燕の眼鏡を外して、
「眼鏡を取ると美人になると万葉の昔から言うが……」
などと、高説を垂れようとした瞬間に、
「外道ゥ──ッ!」
と怒鳴られ張り倒されたのである。
彼女は眼鏡属性の女子の眼鏡を外す事厳禁過激派だったのだ。
突然の暴力に九郎は目を白黒したのだが、子興が泣きながら説教のように告げてくる眼鏡狂いには、
(さすがに閉口して……)
九郎も、平身低頭で謝る他無かった。
とにかく、怒らせてしまった子興の機嫌を取らねばいけない。彼女が怒ると、石燕の家で飲み会をする時に出される酒が水にすり替えられる。
一度石燕がそれをやられて、映画[酔拳]の老師みたいなリアクションを取っていた。
「入れる材料は……そこまで拘らんでも、手に入るものでいいか」
おでんの具を幾つかイメージして、それが江戸で手に入るかどうかわからないために探しながら考えればいいかと適当に思った。彼としては餅巾着などが好きなのだが餅が手に入るのはまだ少し先、年末まで待たねばならない。
おでんも魔王城では冬によく出されたものだ。こたつを魔王と魔女で囲み、辛子をたっぷし器に溶いて、柔らかく煮込んだ大根、味の染みたさつま揚げ、歯ごたえの嬉しいイカつみれなどを頬張って、口も体も温まっているところで敢えて冷たい酒をやるのが楽しみであった。
九郎は思い出に耽りながら酒を飲み、明日材料を買いに行こうと決める。
「女の好きなもの……なんといったか。確か──芋、蛸、南瓜、ホトケノザ。あれ? ホトケノザだっけ? 野草じゃないか……」
なんとなく語感だけでうろ覚えした言葉を呟きながら布団に入り、考えこみつつ眠りについた。
*****
翌日……。
朝、六科よりも早く起きた九郎は、出汁の仕込みをしておでんに使う分まで余裕を持って鍋に張った。
出汁や醤油の返しがあるというのは蕎麦屋の利点である。様々な料理に応用できる。ただ、六科に作らせるとドサーっと昆布を煮てバサーっと鰹節を入れるという擬音系の仕込みになるために、この日は九郎が作ったのだが。この適当男の為にキッチンタイマーとハカリが欲しい九郎であった。
飯の準備もしておく。白米に、落とし卵とネギだけ入れた簡単なすまし汁、出汁に使った昆布を細かく刻んで生醤油を絡めた三品だが、とにかく飯は進む。塩っぱい昆布を熱い飯に乗せると、磯の香りが良く感じられる。歯ごたえも良い。
腹を満たした九郎が、
「じゃ、買い出しに行ってくる」
「はぁい。ええと、煮込み田楽の材料お願いなの」
「任せておけ」
と、風呂敷を持って出かけるのである。ついでに店の夕方にもおでんを出す予定な為、材料は多く必要なのだ。
おでんは大量に作ったほうが旨い。
九郎はとりあえず八百屋、こんにゃく屋、豆腐屋などを目指して足を進める。
足取りは軽かった。ここ最近、随分と過ごしやすい気候になっている。この前もお房とお八、晃之助に石燕と子興で紅葉狩りに出かけた時に宴会を初めて楽しんだぐらいだ。石燕から騙されて、紅葉を集めもみじおろしを作ろうとしたのは苦い記憶だが。
道すがら、八百屋や魚売りに声をかけつつ進んでいると、先の方に挙動不審な人物が居るのを目にした。
(あやつは……)
九郎はその、やや前かがみで卑屈そうな睨み顔をきょろきょろとしている、十歳前後の少年の名前を思い浮かべた。
確か、天爵堂の生徒が一人、雨次である。
今日は幼なじみの少女二人組は近くに居ない。天爵堂からのお遣いで、茶葉を買いに町に来ているのである。茶代だけではなく彼への小遣いも少々渡される為に進んで頼まれている。貯めた小遣いで本を買いたいのだそうだ。
しかしさながら、周囲に露骨で過剰な警戒をしながら道を歩く彼は、エロ本を購入した思春期の少年のようだった。
声をかけようと近寄ったら、いきなり彼は近くの路地から伸びた細腕に引っ張り込まれて通りから消失した。
一瞬の出来事で、周りは誰も気づいていない。或いは気づいていても無視したか。
九郎は少し戸惑ったが、町には危険な性癖を持つ同心なども居ることから慌てて彼が引き込まれた路地へ入って追いかける。
左右が大きな医者の屋敷と足軽長屋になっている高い塀で挟まれた薄暗い道だ。あまり人も通らぬ様に見えて、樽や水瓶などが置かれている。
踏み込んですぐ、大きな樽の影で雨次は、三十絡みぐらいに見える手拭いを被った女に壁に押さえつけられて、懐を探られていた。
「おーっすテメエ、うちのシマに入り込んで挨拶もナシに買い物とは超大尽じゃねってか。いくら持ってんだおい、跳ねなくていいぞ全部貰うからよおおお」
「う、ううう……」
「なんすか泣き入れっすか。別にそんなんしてもおれに金払うのは変わんねーんだからよ。水分を無駄にするんじゃねえええ」
「こ、これは爺さんが、茶を買ってこいって……」
「そんなん関係ねえって言ってんのになんで通じねえの? 馬鹿なの? その爺にはおれからありがとう馬鹿野郎って挨拶しててやんからよ、まじシクヨロ」
絡まれていた。
喝上げというか恐喝というか、珍平のような口調の派手目な化粧をした女にめっちゃ絡まれている。
十歳ほどの子供からすれば、こんな上からの激しい口調で要求してくるだけでも恐ろしいだろう。九郎は溜息をついて声をかける。
「おい、そこの」
「あん?」
「朝帰りの夜鷹かしらんが、子供から金を巻き上げるな。あんまり手酷い真似をすると同心を呼ぶぞ。この町には子供のことに関しては呼ぶと飛んでくる輩がいるのだ」
利悟の事である。
特にこの場合は被疑者は夜鷹なので問答無用でしょっ引きにかかるだろう。半ば事案が多すぎて取り締まりを放置気味ではあるが、私娼である夜鷹は禁止行為でもある。
恐喝を制止した九郎にやや涙ぐんだ目を向けて雨次は、
「あ……爺さんの所の……」
「んだよお知り合い? お友達? 悪い友達と付き合うな金持ちと付き合えっておれ言わなかったっけか?」
女が高めのテンションのまま言いつつ、雨次の頭を押さえつける。
「とにかく離れよ。女。とっとと家に帰って寝ろ」
「生意気~。凄まじく生意気なりけり~。っていうかそっちこそ口出してんじゃねえ助平。雨次はうちの子なんだから親子間の問題なんだよオラ。大岡奉行だって当事者間で解決しろって言ってるっつーの」
「なに? ……ええと、母親なのか?」
九郎は顔を顰めながら雨次に確認すると、彼も嫌そうに頷いた。
溜息を付く。
息子が他所で頼まれたお遣いの金をせびる親とは、なんとも……
なお、大岡越前の裁きで有名な、子供を左右から引っ張らせるというのは世界中にある似た話をアレンジして後世に付け加えたものである。古いものではソロモン王が同じ裁判をしたと伝えられている。
ガンをつけてくる珍平女に九郎はどうしたものかと思ったが、持っている風呂敷に入れた野菜からごそごそと二つ程目的の物を取り出した。
「ほーら芋だぞー」
「芋……芋……」
「南瓜もあるぞー」
「おお……うひゃひゃ……おおう」
ぐるぐると手に持った二つの野菜を目で追いかけつつ奇声を漏らしている雨次の母を見て、本当に芋とか南瓜は女の好みなのだなあと感心する。
とりあえず近くにあった大きな水瓶の中に放り込んで、女が水瓶に上半身から飛び込むようにして芋と南瓜を探し始めたので雨次の手を引いてさっさとその場を離れた。なにか、芋南瓜に対して執念的な物を感じるのであった。
やや離れた通りまで来て、九郎は雨次の手を離した。運動は然程得意でないのか、息を切らしている。
「大丈夫か?」
「う……ああ」
「なんというかまあ、親は選べぬというが適当に折り合いつけて仲良くやれよ」
「……ふん。あんな親なんか」
彼は顔を背けて見るからに毛嫌いしている様子で云う。
九郎もなんとも言えずに、頭を掻きながら言葉を詰まらせる。
子供に金をせびる珍平風の性格で水商売の女である。いまいちフォローしにくい。
どうしたものかと思った時、ぬらりとした湿った気配と共に九郎の背後から小柄な影が現れた。
「うぉぴゃああ! わっちはまるで新種の獣のような雄叫びを上げて生意気そうな娼太に襲いかかったでありんす!」
「あああ!?」
「どうする!? この溢れかえらん衝動を停止させるには右か左か好きな方を強く優しく押しこみんせ!! さあ下帯を見せろ今すぐええーい三日までなら待ってあげるでありんす!!」
「落ち着け玉菊」
九郎は突然湧いて出たと同時に雨次へ猥褻行為をしようとしている玉菊の腹に当て身を入れた。派手さは無いが内臓に響く一撃である。
「真ん中ぁ……」
呻いて膝を付く。雨次が薄気味悪そうにその見た目は可愛らしい陰間を見ている。
「なにこれ」
「……新種の獣じゃないか?」
「そう、わっちは人呼んで麗しき夜の雄叫び獣・玉菊太夫でありんす」
「最近とみに復活が早くなってきたなお主。仕事はどうした」
「毎月十三日は決算で休みなのでありんす。だから主様とお楽しみしようと匂いを辿って」
「辿るな! 気色悪い!」
接吻をしようと顔を寄せてくる玉菊の首の骨を軽く捻ってやるが、然程堪えていないようだった。
ややあって、玉菊は雨次に向き直り、指を突きつける。
「それより君!」
「な、なんだよ」
「話は聞かせてもらったでありんすが、お母さんが春ひさぎまくりの売女だからって嫌うのはいかんせん! お母さんが流したり流し込まれたりする体液で得た銭で日頃飯を食ってるんでござんしょう!?」
「おい玉菊。此奴が異様に具合が悪そうな顔になってきたから説教はともかく、生々しい単語は止めろ」
同業者──玉菊のほうが格が上なのが妙だが──である雨次の母を庇っているのか庇っていないのか微妙な言葉であった。
あと別に玉菊に事情を話した記憶はない。
多分、しばらく前から九郎の影に気配を消して潜んでいたのだろう。
それを考えると九郎まで気分が悪くなりそうだったので、止めたが。
玉菊は艶美な顔で雨次の頬を突きながら、甘い声を出す。
「まあ……わからなくもありんせん。君ぐらいの年頃の男は、やれ女なんていらねーよとか、かーちゃんあんまり引っ付くなよとか文句を言い出すって姐さん達が言ってたでござんす」
「ぼ……ぼくはそんな幼稚な反抗心じゃない」
「ほう!? それなら試してみるでありんす! ちょっとこっちへ……」
なにが「それなら」なのかさっぱりわからないがまるで言質を取ったような勢いで玉菊は雨次の手を引いて、また暗い路地へ入っていった。
止めようか、見なかったことにして立ち去ろうか微妙に悩んだ九郎は十間(約18m)ほど離れた茶屋で、看板娘の幼い少女にデレデレしている利悟を見つけたので仕方なく呼んでくることにした。
玉菊が少年を性的に襲っているというとこの男はホイホイ付いて来た。
二人が現場に戻った時に、
「ぎゃあああ!!」
と、叫び声を上げながら雨次がぼろぼろ泣きながら飛び出してくるところであった。
強いショックを受けたようで、顔面から血の気が引いている。ぱくぱくと口を鯉のように動かし、怯えた様子でとりあえず利悟の後ろに隠れた。
利悟が舌打ちをして路地に目をやる。
「しまった、遅かったか」
「本当に悔しそうに云うなあ……お主」
うんざりと半眼になるが、路地から爽やかな笑みで帯を正しつつ玉菊が帰ってきた。
「いやあ、ちょっと見せた程度でありんす。えへっ」
「犯行を自供したな……おい、捕まえろよ利悟」
「子供の犯罪は叙情酌量の余地ありとして注意だけに済ますんだ、拙者は」
「ムラっとして少年に悪戯をかました玉菊という存在を許せる余地があるのかよ……」
「女の人に棒が女の人に棒が」
カタカタと震えている雨次である。九郎は、
(トラウマにならなければ良いが……)
と、若干心配するがまあばっちり雨次は女への不信と恐怖をこの件で植え付けられたようで、後年に彼と仲の良い幼なじみの女の子は、まったく雨次との距離が近づかないと焦れる事になるのだが九郎がそれを今知ることはない。
ともあれ、
「利悟、お主暇であろう?」
「暇って。市中見廻りの途中だよ。拙者は真面目な町方同心なのだから」
「見廻りついでにこの雨次の買い物を手伝ってやれ。懐の金を狙う三十路の夜鷹がうろついているようでな」
「それは許せん! 雨次きゅんは任せてくれ! 何処に行くんだって? 茶葉屋? よしそれなら此方だ!」
「えええ!? ちょっと待ってくれ……!?」
雨次を肩車して利悟は走り去っていく。
一見大人が子供に肩車をしてあやしているようだが、二次性徴前で毛も生えていない少年の太ももを楽しんでいるということはすぐに知れた。
唾棄するような眼差しで見送りつつ、九郎は唸る。
「新たな拉致現場を目撃した気がする」
「ま、利悟お兄ちゃんは罪になる瀬戸際で手を出さない男だから安心でありんす」
「ううむ」
唸りつつもとりあえずは大丈夫だろうと納得して──或いは諦めて、九郎は玉菊を連れて買い物を続行した。
腕にまとわりつきながら玉菊が訪ねてくる。
「なにをお買い物するでありんす?」
「煮込み田楽を作ろうと思ってのう。野菜や練り物、油物にこんにゃくをな……」
「こんにゃく! わっち具合がいいこんにゃく屋さんしってるでござんす!」
「なんか評価箇所が違うような気がしてならないんだよなあ、お主の場合」
果たして食用と考えていいのか、悩みものであった。
その後は特に変哲も無く、二人であちこちに寄って買い物をしただけであったが、終始に玉菊は楽しそうであったという。
****
結構、おでんの材料は普通に手に入った。
卵、大根、こんにゃく、厚揚げ、薄揚げ、蛸の足、ちくわ、ちくわぶ、さつま揚げ、がんもどき。
茹で卵にして玉菊がつるりと綺麗に殻を剥く。現代よりも当時は卵は高価ではあるが、せいぜい価格にして十倍ほどであり手が出ないほどじゃない。
大根は桂剥きにして輪切りし、下茹でしておく。包丁を扱わせる分には六科も充分に働ける。
こんにゃくも切れ目を入れて塩で揉み臭みを取って、軽く茹でる。おでんの具は大体、下茹でしておくものと考えれば良いから次から次へと湯を沸かしては煮たりしておく。火力調節が容易な術符を使っていると便利であった。
蛸も煮ておくとおでんの汁に赤色が混じらない。だが、蛸を煮た汁にはうま味がかなりあり、捨てるのももったいないので、そこにぶつ切りにした蛸の足と米、塩と酒を加えて炊き込むとうっすらと赤色をした桜飯が出来上がる。それに、青紫蘇を乗せて食うと実に旨いのである。
がんもどきについては現代と違う形で、牛蒡、人参、木耳などを細かく刻んだ具を豆腐で包んで揚げるという変わった料理であった。旨そうだと九郎も喜んで購入している。
材料の下ごしらえが終わったら出汁を張った鍋に入れて、沸騰させない温度で煮込んでおけば準備は完了である。
「あと二刻ほど煮込めばよいさな。出せるのは夕方以降だ」
「ううむ、俺が思うに、火力を倍に強めれば煮込み時間は半分で済むのでは」
「済まねえよ。どんな理屈だ」
料理下手な六科の意見を切って捨てる。
「さあさ、そろそろお昼のお客さんが来る頃だから準備をするの。玉菊さんも暇なら手伝うの」
「あはぁん? いいでありんすか? うっかりわっちが人気看板娘に為ってしまいますよーう?」
「別に誰が看板だろうが儲かればよかろうなの。人気ぃ? 食えるものなの?」
「……ドライだ」
ばっさりとしたお房の態度に九郎は呻く。
しかし偶の休暇だというのに、玉菊に仕事なぞ手伝わせていいものかと思う所があったが、本人がきゃぴきゃぴと喜んで前掛けを着物の上からつけ始めているので、任せるままにした。
昼飯の時分だ。食えなくもない蕎麦と簡単な一品、酒を目当てに客がまたぞろ訪れる。
「いらっしゃんせ~」
「ん? あれ、新顔のお嬢さんだな」
「今日はわっちが特別なお手伝いでござんす」
「ほう……」
客は小奇麗な格好をしていて、町娘にはない色気がある玉菊に目を奪われつつ手を引かれるままに席に案内される。
「お蕎麦を食べて精を付かしませ? たくさぁん注文なさったらわっちが楽しいことを上の座敷で……」
「別の商売を始めるんじゃないの!」
景気の良い音を立てて玉菊の横っ面がアダマンハリセンで引っ叩かれた。
店が儲かるのはともかく、陰間茶屋にしてもらっては困る。
「はいはい、玉菊さんは焼き味噌の握り飯とお酒持ってきて! あと蕎麦! このおじさんいつもこれしか頼まないから!」
「お房ちゃんは常連に冷たいなあ……」
「この店は笑顔有料なの」
「むう……じゃあ笑顔二人分」
客がお房に小銭を渡す。
江戸では実際に看板娘にチップのように銭を渡すことで覚えを良くしても貰おうと企む客も多かったそうである。
[緑のむじな亭]でも小さいお房がばたばたと目まぐるしく働く姿はそこはかとなく小動物的可愛らしさがあるので、時折小遣いを貰うのだ。客は夜になり小銭を入れた袋をじゃらじゃらと鳴らし「うふふ」と笑うお房の姿は想像できない。
とにかく、笑顔料金を貰ったお房は酒の銚子を運んできた玉菊を呼び寄せて、
「はい、玉菊さん笑顔でお酌なの」
「旦那さんのいいとこ見てみたいでありんす~」
「そして笑顔の追加注文ー。九郎、お酒もう一本だって」
「ええ!?」
玉菊から酌をされながらも強制的に酒を追加された客は驚き顔で振り返るが、玉菊が飲ませに来るので止めることも出来なかった。もちろん、追加分はサービスなどではない。
手慣れた酌をする美少女玉菊の雰囲気に飲まれ、ええいまあいいかと諦めつつ鼻の下を伸ばす客であった。
九郎は銚子を運びつつ、
(まあ……玉菊の店で部屋に呼んで酌を頼めば確か三分ぐらい金がかかるから破格であろう)
と、思っていた。
しかも九郎だから割りと容易く会えるのであり、初見の客などはニ度三度通い金を使わねば、玉菊から直接酌を受けられないぐらいの格にあるのだという。
徐々に名が知れて玉菊も高級な花魁になりつつある。いいことなのか悪いことなのかはわからぬが。
とにかく、玉菊は楽しそうにむじな亭で接客をしていった。
その日は彼のおかげか、それなりの客が入って酒やつまみを次々に追加し長居する客も多かった。
昼営業を終え、四人は余った食材と蛸の桜飯をむしゃむしゃと食って、六科以外は昼寝をした。
何かするなら蹴っ飛ばして吊るそうと思っていたが、それなりに疲れているのか、くてんと九郎に引っ付いたまま玉菊は寝入ったのでそのまま九郎も横になった。九郎の腹を枕にお房も寝息を立てている。
なんとも平和な午睡であった。
暫くして、日が傾いてきた頃。
誰と無くのっそりと起きだし、九郎は欠伸をした。そして隣で寝ている玉菊の頬をぺちぺちと叩いて、
「おい、玉菊や。目覚めよ」
「がしぃん玉菊起動します。魂魄回路に誤動作確認。人類へ反逆するでありんす」
「起動失敗するな! 寝ぼけてるのか!」
頭を揺らしてやるとようやく目の焦点があった。
「おでんの様子を見に行くぞ。そろそろ味も染みているころであろう」
そういって、一階に下りて厨へ向かう。昼寝をする前に殆ど火を落とす程度の火力にして置いた鍋の蓋をあけると、もうもうと湯気が立った。
鰹節を多めにして取った出汁に多くの油物から滲み出た味が溶けこんで、良い匂いがする。
「美味しそうなの!」
「どれ、味見をしてみるか」
九郎が大根を掬い上げると、程よく全体が茶色に染まっていて、繊維が僅かに見える。
柔らかな大根は箸で簡単に千切れて噛むとじゅわりとおでんの汁と大根自身の辛味やほのかな苦味がして、
「旨い……」
と、九郎も満足そうに頷く。
お房もねだるので半分に割った大根をやると、はふはふとして頬張って両手で幸せそうに頬を抑える程に喜んでいる。
玉菊もこんにゃくを齧ってあちあちと言いながら、
「成程、煮れば使用後のこんにゃくも気にせずに食えるのでありんすね」
「使用後も何もこんにゃくは食用だ」
不穏なことを言っていたので釘を刺す。
大鍋で作ったので夜営業用に出しても、家族の夜飯と明日の朝の汁ぐらいにはなるだろう。
「よし、己れはこれを幾らか重に入れてちょいと石燕のところに持っていってくる」
「じゃあわっちも」
「そう言えば子興さんを怒らせたんだったの。大丈夫、蛸が入ってるからきっと『蛸ぉ~ふへへきゃっほふぅ』とか言いながら喜びまわるの」
「厭な事を聞いたな!」
「女の好むもの、芋蛸南瓜イヌノフグリって云うでござんすからねえ」
「イヌノフグリ!?」
女とは一体。疑問に思いつつも機嫌取りの為に蛸を重に詰めつつ、九郎と玉菊は神楽坂へ出かけるのであった。
****
江戸で一番黄泉平坂に近い坂と石燕が噂を流している神楽坂・呪われし鳥山石燕宅から帰る途中である。
おでんを含めて様々に料理が出され夕飯夜酒を馳走になった。やはり予め知らされていた通りの反応を子興がして、更に九郎に眼鏡を掛けさせて、
「眼鏡少年……ふへへへ」
などと喜んだ調子ですっかり機嫌を直した様子であった。機嫌はともかく、九郎が子興に向ける視線に混じる残念度数は跳ね上がっているのだが気づく様子はない。
やはり蛸は女に好まれるようで、石燕も嬉しそうに食って、
「そう言えば狩野派に新しく入った少年絵描きは、蛸と女の絡みの妄想について熱く語っていたね」
「ああ、北川と仲良く艶絵話してたと思ったら責めか受けかで殴り合いの喧嘩になっていた子ですか」
「北川が尻に竹槍刺されて負けたけどね」
などと談笑していた。
ともあれ、酌が得意な玉菊が居ると酒がぐいぐいと進んで、上機嫌な石燕子興が早々と泥酔し始めたので帰路についたのであった。
先に玉菊を上野の色街に送り届ける。日が落ちるのも早くなってきているので、用心のためだ。
「主様はその気遣いをもっと性的な方向に向けて欲しいでありんす」
「……いや、そっちの方向に向けるのがさも当然の様に云うでないぞ」
「ええぇ~?」
不満そうに云う。
「しかし、お主、料理も接客も酌もできるとなるとうちの店に欲しいぐらいだ」
「主様の嫁に来いって!?」
「誰もそうは言っておらぬ」
「じゃあお房ちゃんの婿に」
「節操が無いのにはうちの看板娘はやれん」
九郎は呆れを大分に含んだ溜息を零しながら、
「体を売る商売が悪いとは言わぬが、長く続けられるものでもあるまい。別の仕事を、とお主が望むのなら、己れが金と話をつけてやるからうちの店で働くといい」
「……」
「無理にとは言わんさ、好きに生きるのが一番だ……」
しばし、玉菊は口を噤んだ。
遊女の中でも身請けを待ち望んでいる者は結構多い。遊郭の生活は年に百両から、吉原の位の高い太夫となると五百両もかけている優雅なものだが、別名は[苦界]とも呼ばれている程で、自由は少なく体を壊す事もあり、また借金を抱えている遊女とて多くいるのである。
身請け金は遊女の抱えている借金に加えて、一般庶民からするととても届かない金額を要求されることになる。
玉菊の楼主は業突く張りなので身請け金も相場より大きく要求するだろう。
いかに九郎が良心から言ったとはいえ、また石燕が小金持ちだからといって少なくない額を好きな人達に負担させる事になる。
玉菊はそれが心苦しい為に、笑顔を作り、
「大丈夫でござんすよう。わっちは結構楽しくやってるんでありんすから」
「そうか」
曇りの無い笑みに九郎は納得して頷いた。
九郎から気遣って貰えた事は嬉しかったから、笑顔に偽りは無い。
今はこの関係で満足だと思いながら、玉菊は並んで宿へ歩いていく。
「いや、しかし。さすが色街は夜でも明るいな」
「そうでござんす。ほら夜だというのにあちらこちらから怒号が聞こえる賑やかさ」
「激しいな……鐘とか打ち鳴らしてるぞ」
異様な熱気を持つ上野色街を進んで行くと、やがて大騒ぎの現場に辿り着いた。
玉菊の住処の遊郭一帯が燃えまくっていた。
どこから出火したか不明だが、天まで明るくなるような火を上げて町火消が暴れまくり延焼を防ぐために周辺の建物を破壊していっている。
江戸は当時、火事が非常に多く、また蝋燭や行灯などを夜中まで使う色町では特に多く発生していたという。心中目的の付け火なども流行して、まさに色焦がれる町であった。
茫然と、燃え上がる遊郭を見上げる玉菊。
九郎は考えをあぐねながら、
「えーと──とりあえず、今日はうちに泊まっていくがよい」
「……そうするでござんす」
こうも火事騒ぎになればもはやどうすることも出来ず、何処かぐったりしたように玉菊は九郎に連れられて緑のむじな亭に戻るのであった。
****
ところで……。
無事に買い物は終えたものの、軽く女性恐怖症に陥った雨次は自宅に帰ろうとせずに、天爵堂の家で引きこもってそこらにある本の活字だけ目を追っていた。
さすがに凄まじく攻撃的な態度で迎えに来た母親に渡すのも気の毒だったので、喚く彼女に干し芋を投げて渡すと目的を忘れたように帰っていったが、どうしたものかと天爵堂もほとほと困り果てていた。
母親との関係が上手くいっていないというのは知っているが、人生の先輩として助言してやろうにも天爵堂も母親の事はまったく覚えてなど居ないのだ。物心ついた時には居なかった。明暦の大火で亡くなったと聞いている。
気むずかしい年頃である。具体的には、面倒臭い。
居ないものと決めて茶でも飲んでいると夜も暗くなっていたというのに玄関から声とどたどたした足音が聞こえてきた。
「てんしゃくどー! 雨次が来てるでしょ!」
「ああ、連れて帰ってくれ」
耳を軽く抑えながら、相変わらず大きい声と高いテンションの少女、お遊に適当に答える。
しかし彼女は腰に手を当ててふんぞり返りながら、
「わたしに内緒で美味しいものとか食べてるのよね! ずるい!」
「……面倒なのが増えた気がする」
うちは託児所じゃないんだが……思いながらも、干し芋を渡すとお年玉を貰ったように喜びながら、彼女の声にビクビクしている雨次につっかかりに行った。
騒ぐ子供二人組にげんなりとしながら、天爵堂は蝋燭の明かりで書物を始めるのだった。
秋の夜長というが、早く寝静まって欲しいと思いつつ。
若いころの苦労は買ってでもしろというが、年をとってからの苦労はだいたい避けにくいものである。




