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27話『夢の彼方』

 [今はいとまある身となりぬ。心に思ひ出づるをりをり、過ぎにしことども、そこはかとなく、しるしおきぬ。]




****



 天爵堂は物を書く前に、この一文を読み返す。


 [折たく柴の記]


 と、名付けた随筆のような書にある、それを記すに当たって書いた当人からすれば相当複雑な感情が込められた言葉である。

 己は歴史の隅に散らばる小さな屑みたいな、卑小な影響しか後に残せはしないが、自分の経験から学べることを子孫に残しておこうと思って書き始めたものだった。

 後ろ盾も家名も無い身上から学問を修め、一時期は幕府でも将軍側近にまで出世をして、再び全てを失い隠居生活。こんな人生だが、幸い文字を書く腕と痴呆していない頭が残っているから充分だ。 

 若干埃の積もった一室に座りながら、筆を握り時折思い出したかのように動かす。 


 天爵堂はこの静かな空間が好きだった。

 この家が騒がしくなるのは、版元の田所が押しかけてくるか、請われたので仕方なく字を教えている近所に住む数人の子供たちが暇を見つけてやってくるかのどちらかだ。

 仕事で来る田所は仕方ないのだが、件の子供連中はやれ部屋が埃臭いから掃除をするだの、御使いしてきてあげるから駄賃をよこせだの、茶菓子が湿気ってただの文句を付けて来て、とても生徒に思えないような厄介者達ではあった。

 教える天爵堂も教師らしからぬ、教材と説明をしたら後は自習させるような放任さなのだが、そもそも金を取っていないので文句を言われる事もない。生徒の親から野菜を分けてもらったり、子供が田螺を取ってきたりと損ばかりしているわけではないのだったが。


 物思いに耽りながら書をしたためていると、庭を回りこんで縁側から呼びかける声があった。


「おい、天爵堂。生きておるなら返事ぐらいせい。玄関から呼びかけても誰も出てきやせん」

「うん……? ああ、君か」


 天爵堂が聞こえた声に反応して顔を向けると、縁側に座ってこちらを見ている九郎の姿があった。ざんばら髪に眠そうな垂れ目の、見た目は彼の生徒たちより二つ三つ上ぐらいなのだが、若干じじ臭いところがあると天爵堂は思っている。

 実年齢を信じるならば、自分より年上になる。これに関しては阿部将翁も似たような年齢不詳な知り合いなのだが。

 此の家に来るのは二度目だ。顔見知り、程度の知り合いである。尤も、天爵堂から人間関係を聞いても[知人]か[厭なやつ]の二種類しか分類されていないようではあるけれども。

 天爵堂は艶のない白髪を掻きながら来訪の理由を尋ねた。


「なんだい? また面倒事なら回れ右して欲しいんだが」

「違う違う。己れはお主の原稿を取りに来たのだ。その……」


 九郎はやや表情を苦しそうに歪めて、


「『猫耳巫女退魔同心おにゃん恋物語』……の」

「表題を言うのが恥ずかしいぐらいなら無理に言わなくても」

「どうにかしてくれ。作者だろうお主」

「題は版元と百川君が考えたんだ。僕じゃない」


 ため息混じりに首を振る。

 猫耳何某というのは、天爵堂が付け文をして子興が挿絵を描いている共作の連載黄表紙で、若い町娘やマニアックな趣味嗜好の男にそこはかとない静かな人気の作品である。

 内容はまあ、タイトルから読み取れる通りなのだが天爵堂が投げやり気味に書いた軟派というより難破な文章が特徴的だ。市場の人気に寄って話の展開が二転三転し、今は丁度黄泉平坂の底から蘇った死霊真田十勇士と戦闘中であった。

 昔から大衆向け読み物のそういった方針は変わらないようで、有名な処だと[南総里見八犬伝]などは引き伸ばしのバトル展開が続いたり、ちょいキャラ悪役だった年増妖怪に人気が出たのでプッシュされたりとしたようである。

 天爵堂は寝場所を嫌々移動する家猫のようにのっそりと動いて、埃が入ってそうな茶碗に出がらしの白湯みたいな茶を注いで一応、来客である九郎に持って行った。


「お、すまぬ……いや、すまんと言う程には色がついておらぬな、この茶」

「丁度茶葉を切らしてるんだ。それに白湯は腹に良い」


 自分に言い聞かせるように味のない、ぬるい茶を飲みながら天爵堂は言う。


「それで原稿だったね。版元の丁稚にでもなったのかい?」

「いや、たまたま町中で出会って手伝いを頼まれてな。なんでも彫り木師が集団で夜逃げしたとかで田所は新しい職人を探したりして忙しいのだそうだ。己れも手伝い賃が欲しかったからな」

「おや? 君は風説によると、船月堂の掛人(金銭や食事を都合されている者のこと:ひも)だと聞いたから金には困ってないのではないか?」

「誰だその噂流したやつ……」


 人が否定しにくい噂を流すというのは卑劣な行為だと九郎はげんなりとしながら考える。

 しかしどう説明したものか、いまいち自信無さそうに、


「あれだ……なんというか、他人から借りたり貰ったりした金ではなく、己れが働いた対価として得た金が必要な時があるのだ」

「ふむ……」

 

 天爵堂は腕を組んで少しだけ考え、


「……成程。恐らく、君は富籤とみくじを買おうとしているのだろう」

「察しがいいな、お主」


 九郎は目の前の老人を感心した。

 富籤は当時の宝籤のような物のことで、寺社等の修復費用を集める目的で主に行われた。

 当選金は大きな時にはなんと千両ほどにもなり、まさに一獲千金を夢見て町人・武士問わずに挙って参加するのである。

 

「当籤した時に、富札を買っていたのが他人の金だと分前云々で要らぬ問題を起こすからね。そうならないような相手から借りたとしていても、何処か心残りが出来てしまうかもしれない。だから憚ること無く自分の金で買うべきだと思ったのだろう」

「その通りだ。いや、己れもこんな宝籤がそうそう当たるとは思っておらぬが、一度ぐらいは、な」

「まあ……幕府が認めた賭け事だからね。いいんじゃないかな」


 気無く告げる天爵堂。

 九郎とて日々遊んだり食ったり飲んだりする金を石燕から引き出すのは、もはや抵抗なくなっていたのだが、そういった場合ではない遊び金を手元に持っていたいのだ。

 別に首の白い女(遊女)を相手にするわけではないが、まあ色々あまり褒められない使い道というものもある。

 なお、この頃の富札は一枚一分(一両の四分の一)と、とても高価であった。物価や賃金が現代と違うので一概には言えないが、目安として宝くじが一枚二万円で売っているような物だと思うとその値段が想像できるかもしれない。

 故に二人割りや四人割りの複数人で富札一枚を購入する仕組みもあり、その際に争いが起きないよう、富札の販売者が仲介に立って分割させていた。

 しかし天爵堂がそれとなく九郎の心情を読めるのは、何処か似たもの同士なのかもしれない。

 ただ、九郎の取らぬ狸の皮算用にやや呆れているようにも見える。

 

「さて……原稿だったね。この三つから好きなのを持って行くといい」

「三つ? 用意がいい……いや、待てよ」


 九郎は懐に入れてあるメモ帳を取り出して開いた。

 折り目の付いた最近書き込んだ頁を見る。そこには、版元から聞いた[回収するのが厄介な先生名簿]が載っている。天爵堂や石燕の名もあった。

 そして天爵堂の項目に、


 [生徒に書かせた文章を原稿として出す場合有り]


 と、注意書きしてある。

 庭に植えている藤の木へと目をそらして茶を啜っている天爵堂に確認をとる。


「……一応内容を改めさせてもらうぞ」

「さて、僕は用事を思い出した」

「何処へいく。なんの用事だ?」

「ちょっと待ってくれ。今思い出すから」

「思い出せてないではないか!」


 中座しようとする天爵堂を捕まえる。

 危ういところだった。罠を持ち帰っても報酬は支払われない。しかし、書いていないなら書いていないで、この場で彼に書かせでもしなければならない。それが版元の重要な仕事、催促である。

 念のため、渡そうとした原稿に目を向ける。

 明らかに筆跡の違う文が三種類あった。九郎は最初に目のついた、拙い平仮名で書かれた物に目を通す。


「ええと……ううむ……おにゃんと、死霊真田十勇士の必殺技の飛ばし合いしか書いておらぬなこれ……」

「一番格好良いと思うところだけ書いたそうだ。勢いは認めよう」

「あと敵は真田十勇士なのに十一人ぐらい居るんだが」

「……書いたのはうちの生徒の中でも一番頭が悪……その、細かいことは気にしない性格でね」

「むう……」


 諦めて、九郎は次の原稿を取り上げる。

 こちらも仮名書だが、文字の大きさと正中線が整っている為にいくらか読みやすい。丁寧に書かれている事がわかった。


「こっちは死霊真田十勇士を説得して白洲で裁かせておるのか。いや、死霊を裁くってなんだこれ」

「それを書いたのは頭が堅い子で、事件が起きたなら妖怪が起こそうが侍が起こそうが、とにかくお上が裁くべきだと主張してたよ」

「……ところで、島流しは島根に強制送還することじゃないと教えたほうがいいぞ。体感的には変わらぬ田舎かもしれんが」

「真面目なのに変なところで抜けてるんだよなあ……」


 一応、その原稿は保留しておいて最後の物を開き、九郎は軽く顔を顰めた。

 こちらは細かい漢字がびっしりと書かれており、字が汚いわけではないのだが文字同士の隙間も小さいためにいまいち読みにくい。

 漢文を読むような気持ちでなんとか読み解こうとするが、序文ぐらいまでしかすぐには解読出来なかった。


「……『死人憑きと河豚毒の関係についての考察』? ……なあ、これは根本的に書くものを勘違いしていないか。確かに物語は今、ぞんび十勇士が敵だが」

「僕もそう思うが、生徒からそこはかとない自信と共に提出されたものだから。出来れば代わりに朱筆でも入れておいてくれ」

「いや、読むのが凄い面倒そうだから断る。てとろどときしんがゾンビパウダーに入っているのは迷信だったと思うがな」


 九郎がそっと原稿を閉じるので、天爵堂も僅かに面倒そうにため息を一つ吐いた。

 最後の原稿を書いた生徒は、生徒の中でも頭脳はいいのだったが、考えが突飛であり学んだ知識を出したがる年頃なので、内容は小難しくわざわざ書いているものの妙ちくりんな論文もどきなのである。

 年を重ねて学問を続ければ良い学者になるかもしれないが、今のところは大人に成りたがり背伸びした物知り博士といったところだと、天爵堂は評価している。

 もっと子供の時分は友達と元気よく遊びまわり、書以外から学んで欲しいとは思うのは天爵堂の老爺心からか、彼自身若いころ勉強詰めだった経験からだろうか。


「……とにかく、これだけでは版元に持っていけん。お主、適当にこの原案を使っていいから再構成してちゃちゃっと話を仕上げてくれ。今からすぐに」

「無茶を言うなあ……」

「なに、絵を書くわけでもなく誰でも書ける文字を連ねるだけだから簡単で手早く終わるのであろう?」

「物語を書いたことの無い読者に限ってそんなこと言うんだ」


 忌々しそうに呟きながら仕方なさそうに筆を取る。


「ええと……三つを混ぜると、殴って説教して謎理屈で締めるような形にしようか」

「成分を抽出すればよくある展開に聞こえるな」

「さて、書き始めようと思うのだけれども……」


 天爵堂が顔を玄関の方に向けた。そういえば、入り口の戸が勢い良く開かれた音がした気がする。

 そのままどたどたと足音を立てて廊下を走ってくる子供がいた。


「てんしゃくどー! 遊びにきたよー!」


 そんなに大声を出さなくてもと思うぐらい、この閑散とした屋敷中に響き渡る声を上げて、向日葵のように明るい笑みを作った少女が駆け込んできたのだ。

 それに続いて少しおとなし目で髪の長い少女と、それに引っ張られるように連れて来られているむすっとした顔の少年も天爵堂と九郎の居る部屋に顔を出した。

 三人とも、年の頃はお房と同じぐらいに見える。

 後から来た方の少女が元気溌剌な方に注意した。


「こんにちは先生。あとお遊ちゃん、足の汚れも落とさないで入っては駄目だって」

「えー」

「それに天爵堂[先生]と呼ばないと駄目だよ」

「むー。ネズちゃんは駄目だしばっかりー! てんしゃくどーから先生って呼べなんて言われてないからいいもん。ねー雨次」

「ああ、そうだね」

「雨次! お前も適当に相槌を打たないでだな、ちゃんと礼儀を……っと、お客さんが来ているじゃないか」


 まるで三人組の中の姉のような少女が九郎の姿を見て佇まいを直す。見知らぬ相手を前にいつもの調子で騒いでいるのはみっともない事だと思ったのだろう。

 彼女はこの辺りの地主である根津惣助の娘、小唄という。天爵堂の勉強会に通う、真面目な娘で纏め役のような子であった。

 もう一人の最初に入ってきた、髪を安い髪留めで括っていて額を出している健康そうな少女が九郎を見て指を突きつける。


「なんだ? てんしゃくどーの新しい生徒か? ならわたしの子分だな!」


 近所にある農家の娘、お遊である。勉強よりも遊びまわるほうが好きなのだろうが、一応生徒だ。恐らくは干菓子が時折隠して置いてあるのを目当てにしている。 

 彼女は挨拶もせずに、天爵堂の家に置かれている本を勝手に読み始めていた少年の襟元を掴んで、


「雨次が一号だから子分二号ね!」


 と、告げてきた。

 件の雨次あまじと呼ばれた少年は煩そうに片耳を塞ぐ。

 こちらはまだ十前後だというのに顔からはすっかり愛想も愛嬌も消えた冷ややかな面をしている少年である。客よりも師よりもともかく、書を読むほうが大事だとばかりにちらりとも九郎に視線を向けない。

 これも近所に住む少年なのだが彼の場合、天爵堂の家に来れば自由に本を読めるということで生徒になっているようであった。

 貸本を借りる金銭的余裕は無いし、天爵堂の家から借りて持ち帰ると、唯一の肉親であり夜鷹で生活資金を稼いでいる母親に本を売り飛ばされるからここで読むしか無いのだ。

 

 とりあえずこのままだと子分にさせられてしまうので、九郎は三人組に向き直って言う。


「いや、己れは版元の使いでな。天爵堂に黄表紙の原稿を催促しにきたのだ」

「? ……? つまり、子分よね?」

「違うが」

「?」

「……うむ?」

「ああもう、お遊ちゃん。お客人まで混乱してるじゃないか」


 全然理解していない顔のお遊に九郎もとぼけた顔を返したので、小唄が間に入った。

 彼女はお遊の肩に手を置きながら、


「版元の人ですか。じゃあ先生は今、執筆中で……」

「うむ。ちょいとすまぬな」

「えー、なんだつまんないの」


 不満そうにお遊がべたりと座り込みながら唇を尖らせた。

 急に忙しそうな素振りを見せて筆を取っている天爵堂は、


「君たちは悪いが、この九郎先生に今日は授業を受けてくれ」

「なに?」

「こう見えて僕より年上の大先生だ。蕎麦とか饂飩とかの歴史と日本神話の類似性についていち早く気づいた先進の学者でね。詳しいことは授業で聞くといい」


 適当極まりない事を口走る。年上なのは、その通りなのだが……

 九郎が俯いて筆を奔らせている天爵堂に向き直るが、彼は煩さ気に手を払う仕草をした。

 早々(さっさ)と子供を連れて部屋を出て行ってくれという態度である。

 座ったまま九郎を見上げるお遊と、僅かに本から視線を半分だけ向けている雨次の目が注がれる。

 ぽかんと口を開けたお遊が聞く。


「せんせーなのか?」

「ううむ……仕方ない。それでは執筆の邪魔をせぬように別の部屋に行くぞ。神話と……その、蕎麦の類似に付いてだ」


 やむを得ず適当に口走る九郎に、小唄が食いついた。


「九郎……先生は神話が得意なのか!? 私も、雨次もそういうのは好きだぞ! なあ雨次」

「……まあ、興味はあるかな」


 無愛想な少年が本から目を話しつつ、歩いて移動する九郎についていく。


「わかった、わかった。いいかまず伊邪那美と伊邪那岐が天沼矛で大地を作っているのは蕎麦生地を伸ばしている暗喩で……」

「ほー」

「伊邪那美が迦具土を産んで死ぬのは、蕎麦粉を粘膜摂取した為にあれるぎぃ──免疫の過敏反応が起きたからで……つまり迦具土は蕎麦の神……」


 などと、胡散臭い即興の持論を唱えつつ九郎は教師役になるのであった。

 嘘を教える教師など碌なものではないが。

 ともあれ、一刻(約二時間)ほどして今回掲載分の天爵堂の原稿を手に入れる事に成功した九郎であった。


 

 

 

 ****




「ええと、次の作家は……[佐脇嵩之さわき・すうし]……日本橋二番小路三軒目……と」


 九郎が住所を書かれた紙を片手に、人通りの多い日本橋を歩いている。

 どこからが何丁目何番なのか、電信柱などに書かれている訳ではないので迂路ゞ(うろうろ)と迷った挙句、なんとか辿り着いた。

 店先から丁寧に飾った鏡が何処か異質さを感じる店、[うんがい堂]と看板のかかった鏡屋のようである。

 ここを見つけた途端、厭な気配に何故か勝手に立ち去ろうとしている自分に気づき、ようやく立ち止まった。

 

「む……? ここ……なのか?」


 つい最近に[紫の鏡]を求めて訪れたことのある店だったため、意外そうな声を呟いた。

 何やら不機嫌な幽霊のようだったという印象だけが残った店主であったが、彼がそうだろうか。

 聞く処によると佐脇も妖怪絵師らしい。

 九郎の見解では、妖怪絵師という人物は、


「妖しげな……」


 連中といういめぇじが定着しそうである。

 やはりやや引っかかりを感じる引き戸を開けて、店内に入る。

 ごちゃごちゃと商品が置かれているのに、がらんとした雰囲気を感じるのは置いている商品が世界を映し込み反射する鏡だからだろうか。

 置かれている鏡が全て、客を向いている気がする。

 それは無数の目がこちらを向いているのと同じなのかもしれない。

 誰かが、見ている。それは自分であり、自分ではない。百を超えた鏡があれば、映らぬ別世界から覗き込む相手を夢想してしまう。

 お八が寒気を感じて怖がった気持ちもわからないではない、と改めて一人で来た九郎は思った。


「すまぬが……」


 静閑とした店内ではそこまで大きくしていない九郎の声も響いた。光だけではなく、音も鏡で反射しているようだ。

 ややあって、店の奥から女性が姿を表した。


「はい、はい。どうもお待たせ致しまして」


 目元に泣き黒子ほくろのある、この江戸では珍しい茶色がかった髪の毛をした妙齢の女性だった。


 和服に(当然だが)柔和な表情と黒子で、九郎はまるで女優のようだと第一印象で思った。

 ともかく、要件を告げようとしたら相手から先に言葉をかけてきた。


「あら、この前に[紫の鏡]をご購入頂いたお客様ですね」

「うむ? 面識があったかの?」

 

 その時応対したのは、幽霊店主だけだった。

 彼女はにっこり笑いながら、


「失礼致しました。鏡の配置で、店の奥から店内が窺えるもので……わたくしだけが一方的に見ていたのです。

 わたくしは店主の妻、てると申します」

「奥方殿か。己れは九郎と云うものだが……今日は買い物ではなく、版元から佐脇嵩之先生の絵を催促に来たのだ。以前に依頼を出していてな」

「まあ、夫の……」


 彼女は口元に手を当てて、


「すみません。夫は野暮用で出かけているもので、絵の仕事に関してはわたくしは知らされておらず……」

「ううむ。いつに帰るのかの?」

「もう少しすれば帰ってくると思いますので、宜しければ……お茶でも飲んで待って頂きませんでしょうか」

「……そうしよう」


 次の作家に催促に行くにも、距離があったために九郎は素直に提案を受け入れた。

 出された茶は天爵堂のところで飲んだ白湯みたいなものではなく、旨いものだ。茶菓子も日本橋にある[鴨屋]という店で売っている銘菓だ。売れてなさそうな鏡屋が出すようなものではないが、とにかく満足気に舌鼓を連打する。

 九郎は前回訪れた時にも思った疑問を、やや躊躇しつつも問いかける。失礼な事であるが、


「この店、あまり流行って居らぬのう」

「ええ。いつものことです」


 日本橋という商業中心区の、やや傍流にあるものの人入りが九郎以外無いというのは店としてどうかと思う次第であった。

 尤も、この辺りは大阪京都から流通してきた高級品を扱う店が多く、客もそれを目当てに来ているためにこの店のような古鏡屋には興味が無いのかもしれない。


「そういえば、店主は何処に?」

「さあ……もしかしたら、出張の仕事かもしれません」

「鏡屋にも出張の仕事があるのか?」

 

 問いかけてばかりだと自覚はするものの、会話が途切れるとこの鏡に囲まれた空間に無音で存在することが苦痛になる気がしたので九郎はとにかく言葉を紡ぐ。

 照は微笑み顔のままで、


「それもありますけれど……夫は、妖怪退治のような事もしておりまして」

「急に伝奇っぽくなったな」

「うふふ、妖怪退治は言い過ぎですね。せいぜい拝み屋とか、相談聞きとかその程度のことですよ」

 

 おっとりと照は告げる。


「そうか、なんだ、知り合いにも変わった妖怪絵師が居てな。この職業の奴はやはり何処か妙な趣味を持っておるなあと感心したのだ」

「まあ」

「はっはっは」


 石燕や将翁の姿を思い浮かべながら九郎は笑う。

 そして暫く取り留めのない雑談を照と交わして、


「お茶を淹れなおしてきますね」


 と、彼女が奥に引っ込んで行った時に、やはり誰が開けても軋むのか、店主が表から帰ってきたのであった。

 毒饅頭でも齧ったような苦々しい顔の幽霊みたいな雰囲気である。今日は更に黒い羽織を着ている為に、青白い顔がより浮き出ているようで夜道を歩いていたら悲鳴が上がりそうだ。

 佐脇嵩之である。普段は売れない鏡屋を営んでいる30絡みの中年だが、[百怪図巻]という有名な妖怪絵巻を後に制作することになる。鳥山石燕と同時代に生きた日本の妖怪画界隈では知られた絵師だ。

 彼は店に入ってきて、番台の近くで座って茶を飲んでいた九郎も見つけ、顔を半分だけ顰めるという器用な表情をした。


「おや? 店先に[骨休め]の札を出し忘れていたか……君は確か──九郎といったな」

「うむ。あれ? 名乗ったか? 己れ」

「前に来た時に連れにそう呼ばれていただろう。覚えていただけだ」


 そう言いながら、怠そうに番台にあがり込み、尻に敷かれ続けて厚みがすっかり消えた座布団にどっかと座った。


「それで今日は何をお求めに?」

「ああ、絵師の佐脇先生に、[為出版]から絵の催促に来た。妖怪系のあんそろ本……ええと、集合本を出す件についてだ。話は通っているのであろう?」

「なんだ最近の版元は子供まで使うのか……まあいい。出来てるさ」


 佐脇は近くにある小さな箪笥の引き出しを開けて、何枚かの絵と解説文を取り出す。

 そうしながら、ちらりと九郎の手元の茶碗を見て、


「表で待つならまだしも、勝手に茶を飲むのはどうかと思うな」


 と、言ってくるので九郎は叱られる理由がよくわからず、


「いや、お主の奥方が茶を出してきたのだが……照さんと言ったな」


 返答すると、佐脇の幽霊顔が更にむすりと不機嫌になりながら彼は手を組んで少し瞑目した。

 眉根にしわが寄っている。

 九郎はただ首を傾げた。


(何も変なことは言っておらぬが……)


 やおら、佐脇が薄く口を開いて問いを投げてくる。


「その奥方というのは、目元に泣き黒子があって、髪が少しばかり栗色に見える女性かい?」

「ああ。ちょっと珍しいが、美人であったぞ。なんだ? 嫁自慢か? 今しがた、茶を淹れてくると奥に引っ込んだばかりだが」

「……」 

 

 無言で彼は奥に行ったかと思うと、すぐに帰ってきた。

 そしてまた座布団に座り、不機嫌極まりない顔で腕を組んで、唸った。


「どうしたのだ?」

「いいかい、九郎君。自分はだね、今日は亡妻、照の一周忌に行ってきたんだ」

「……なに?」


 佐脇の険しい目が、まだぬるい茶の入った茶碗に注がれている。


「自分の妻は──1年前に死んでいるのだが」


 差し込んだ西日が鏡に乱反射している。 

 光が、九郎の体中を探るように見ているようだった。


「君は、誰と会っていたんだい?」


 厭な気配が背筋を這う。                

 振り向くと、眩い鏡の中から無数の己の瞳が九郎を見返していた。  

 鏡の中誰かの表情が、光を屈折し歪んで嗤ったように感じる。    

 茶碗の水面に浮かんだ影が見ている。あちこちから、鏡という彼岸の境目から此方を見ているのだ。


 九郎はなんだか酷く、気分が悪くなってきた。


 何処かで風鈴が、風もないのに、鳴った。


 



 ****





「軽くほらぁになるところであった」


 無事に佐脇の絵も回収し終えた九郎はぶつくさ文句を言いながら神楽坂へ足を伸ばしていた。

 家から影も形も消えていた佐脇の妻、照の事はとりあえず常識的な判断として、彼に取り憑いたサイコ系のストーカーか何かが妻の振りをして応対したのだろうと決めつける事にしておいた。

 それはそれでぞっとしない話であるが、妖怪の実在よりは現実的ではある。この世には不思議な事など何も無い……


(己れが言っちゃ駄目か)


 小さくかぶりを振った。どちらにせよ、妖怪退治をするなりストーカー対策をするなりせねばならないのは佐脇だ。心の中で応援を送るだけで深く考えるのは止めた。

 次の原稿回収対象は彼もよく知る奇行作家、鳥山石燕だ。版元から聞いた特徴では、


「回収するのが地獄先生」

「仕事は早いが逃げ足はもっと疾い」

「催促に行ったと思ったら安達ケ原に取材に行かされた」


 などと怨嗟の篭った証言が得られた。

 しかし噂で若い燕などと呼ばれてはいるが九郎は石燕との信頼関係がある分、しっかり回収してくれるだろうと期待されている。


「ま、朝方に後で取りに来ると伝えておったから大丈夫であろう」


 軽い気持ちで神楽坂の幽霊屋敷、石燕宅へ辿り着いた。

 

「おい、石燕。原稿を取りに来たぞ」

 

 言いながら戸を引いて家に上がり込む。

 しかし珍しく静まり返った室内には、慌ただしくおさんどんをする子興も、酔っ払い半裸で万葉の歌を絶唱する石燕も見えない。

 閑散と片付けられた石燕の机に置き手紙が置いてある。

 それを読むと、


 [子興と二人で温泉宿に行って仕上げてくる]


「……」


 九郎はくしゃりと紙を握りつぶして屑籠に放り込み、石燕の布団がいつも敷いてある畳を掴んで、握力で無理やり剥ぎ取る。へらのようなものか、専用の仕掛けを作動させて開けるものだが、九郎の指がめりめりと畳に食い込んで引き抜いた。

 床下に作られた隠し小部屋に、子興と石燕が車座りをして潜んでいて、九郎を見上げている。

 渋い表情で憮然と云う。


「原稿を出せ石燕」

「ふ、ふふふ流石だね九郎君! 一発で居留守を見抜くとは! あ、ところで見抜くって言葉なんか助平っぽくないかね!?」

「原稿を出せ子興」

「も、もう殆ど出来てますんであと一刻! あと一刻あれば完成するから待って九郎っち!」

「まったく」


 呆れ返った様子で、床下に潜む二人の首根っこを猫のように掴んで引き上げる九郎であった。

 

「だいたい、温泉などに行くのなら石燕が己れも誘わずに行くわけなかろう」

「あ! 九郎君がデレた! よしじゃあ一緒に温泉とか浸かりに行こう今すぐ! 箱根がいいかね!? 熱海がいいかね!?」

「仕事を終わらせろ。子興も、お主が天爵堂に共作を持ちかけておいて自分の仕事が終わっておらぬとかどういうことだ。よくわからんが、筆で紙にぺたぺた墨を塗りつけるだけならすぐ終わるな?」

「絵を描いたことのない人に限ってそんなこと云うんだよ……」


 何故か涙を流しながら退魔巫女同心の挿絵を書き始める子興であった。

 九郎はこうして二人が描き上げるまでしっかり監督をして絵を回収していったのである。




 ****




 その後も、他の絵師のところに周り、


「先生、お客さんが来てますけど……」

「あん!? 版元のやつだったら追い返せ! 俺ァ鴨居で首吊ったとか言ってよ!」

「いえ、先生の絵に心服したので是非お会いしたいという少年が」

「なんだよ俺の絵の信者か……へへっ仕方ねえな!」


 などと奇襲気味に面会し絵を集めて行った。中には版元の催促に対する用心棒を雇ったり、女郎宿を転々と逃げまわったりしている作者も居たが、玉菊や利悟なども道すがら協力させてことごとく捕まえて描かせていったのだ。

 絵描き物書きはまるで借金取りに追い込みをかけられたかのようであった。

 もちろん書かせる為には圧力をかけるだけではなく、感想で褒めたりお気に入りに登録したり様々な手段も用いた。重要である。

 そうこうして、九郎はどうにか版元から頼まれていた作家の絵などを回収し終えたのだった。

 九郎に依頼した田所氏は大層喜びつつ、版木職人が充分集まらなかった為に本人も彫刻刀を持って版木彫りに勤しんでいた。

 そっちの事情に触れると九郎も手伝わされそうな雰囲気だったために、報酬を貰ってすぐさま退散した。 


 一分金を受け取ったその足で富札売り場へと向かう。

 だいたいは開催前の寺社にて販売される。この時は深川八幡だった。

 富籤の形態自体は現代の宝くじとそう変わらず、富札を売る日と抽選をやる日は分かれている。

 今回は富札に四桁の数字と、富士・鷹・茄子・扇のいずれかの模様が描かれている作りの富札になっている。抽選で選ばれた絵柄と数字が一致すれば一等の千両である。二等や三等、払い戻し番号などの小さな当たりも存在する。

 売り場は人で賑わっている。下世話なもので、他人が買う番号が気になっている者もきょろきょろと覗きこんだり、時には喧嘩も起こっているようだがすぐに売り場近くに詰めている同心が取り押さえた。

 なにせ、一枚一分の富札を何百枚も売る店なものだからその売り上げも、


「かなりのものが……」


 ある為に、警備も厳重だ。

 九郎は行列ができているのに顔を顰め、近くの屋台で売っていた箸に巻きつけた薄焼きの油揚げを肴に酒を飲んでしばし待った。揚げ置きの油揚げに醤油をさっと塗って、炭火でかりかりに炙ったもので、口の中を火傷するように熱いが、焦げた醤油の匂いと心地良い歯ごたえが旨い。

 行列が無くなったのを見計らい、油揚げは齧ったままで矍鑠とした動きで売り場に寄り、一分金を台に置いた。


「一枚おくれ」

「うん? 小僧、お遣いか?」

「そんなところだ」

「人に取られねえようにしろよ」


 少年が購入していくのはやはり珍しいので、売り人は一応の注意をしておく。

 九郎は頷いて、


「わかってる、わかってる」


 と返事をし、丁寧に居られている富札を受け取った。

 そして売り場からやや離れ、富札を確かめてみた。


「どれ、番号は……鷹の」


 転瞬……。

 鷹の絵が見えたと思ったら、荒々しく手元から富札と、咥えていた油揚げが強奪された。

 並みの速度ではないし、そこらの掏摸すりや引ったくりが九郎の不意をつける筈は無い。

 奪ったのは、奇しくも九郎の富札の絵と同じ、鷹であった。

 何故か上空から鷹が飛翔して来て一瞬のハンティングで九郎の油揚げと、ついでに富札を鷲掴みして飛び去ったのだ。

 九郎は僅かに呆けた。


「人には……取られてないが」


 つぶやくと、周りで見ていた町人らが哀れそうな視線を向けてくる。

 そして甲高い声で鳴きながら飛び去っていく鷹を見て、いつも眠そうな顔かツッコミの呆れ顔が多い九郎にしては珍しい、凶暴そうな表情を浮かべて足に力を入れる。


「……鷹狩りだ」


 恐らく、鷹狩りって鷹を狩るのではないと思いつつ、凄まじい疾さで駆け出した。


 新手の都市伝説になりそうな勢いで九郎は町を走る。

 時には屋根を伝い走りぬけ、武家屋敷の塀を踏みつけ、何事かと道行く人が見上げたらその時にはもう遥かに見える。

 平坦でもなければ高さもばらばら、走り易いわけでも無いのだが、驚異的な脚力と平衡感覚で無理やり一直線に突っ切って行く。

 飛行する鷹を見失わないように全力で追跡しているのだが、さすがに鷹が巣か何処かへ帰り着くまで追跡が成功するかはわからなかった。

 しかし九郎は現在走っているルートに丁度、[緑のむじな亭]がある事に気づいて顔を昏い笑みに染める。


 むじな亭二階、九郎の自室の窓から瞬時に入り込み、己の道具袋から銃を取り出して再び九郎は江戸の屋根瓦を砕かんばかりに飛び跳ねる。

 手に持った銃は[魔女の猟銃]という異世界の魔法道具である。見た目は銃身を切り詰めたライフル銃のようであり、弾は呪詛可変式精霊弾が装填されていて、これは当たった物を劣化破砕させてしまう呪いの散弾なのだ。

 対魔物用の強力な武装であった為に、江戸ではまったく使う機会が無かったのだがとうとう訪れたようだ。

 九郎は本気である。

 他人の金で買ったものならば、不幸な事故で無くしてもまた買えばいいと諦めが付くのだが、あの富籤は己の稼ぎで購入した物だ。

 あの鷹に自分の労働時間全てを無駄にされたようなものだ。

 九郎が苦労して手にしたものを、たかが、鷹ごときに。


「笑えない話だ」


 言葉を吐き捨てる。九郎は下らない駄洒落を許せぬのだ。

 大きく響く金切り声によく似た特殊な銃声が数発、江戸の町に響いた。

 音の正体は分からないが、遠雷のように響き渡る恨みの篭った音に江戸の町人らはざわつく。

 黒く淀んだ煙に見える呪いの銃弾が拡散しつつ音速以上の速度で空を飛ぶ鷹に向かった。

 しかしそこはこの鷹、只者ではない。

 射線を完全に把握して宙で羽ばたき、広がる呪いの放射から回避した。


「ええい」


 舌打ちをして九郎は呪い放射の収束率を下げ、広範囲に薄い呪いをばら撒くように調節し恐怖のおどろおどろしい銃声を空の下で奏でまくる。

 精神値をごりごりと削る音を垂れ流し続け、周辺の青空が病でも持ってそうな薄黒い呪い雲で覆われ出したので江戸の一部地域では、なんらかの祟りが起こったかと騒ぎになったようだが、ともかく。

 実体弾ではないが故に霧のような細かい呪いの粒がやがて鷹の羽根を掠めた。

 拡散し効力を弱めていたとはいえ、触れただけで翼の毛細血管が次々と断裂したり、極端に疲労を与えたりして鷹は大きくバランスを崩す。

 そのはずみで、足に掴んでいた富札がゆっくりと風に吹かれながら落下していく。

 鷹は市谷鷹匠町に蹌踉めきながら降りて行った。さる高貴な方の[御鷹様]が謎の怪我をしている事で鷹匠の肝を大いに冷やすのだがそれよりも、


「むっ!」


 落ちた富札を誰かに拾われたら堪らぬ。

 九郎は尋常ではない加速で連なる屋根を飛び走り、ゆらりゆらりと頼りなく落ちる富札を、宙空で捕まえた。


(よし……!)


 おのれに対する喝采と同時に、足場が無い事に気づいて九郎は眼下にある一階建ての建物へその身を落とすのであった。




 ****




 版元[為出版]の彫り木場では、なんとか編集役の田所が集めてきた彫り木職人達を集めて今度出す妖怪集合本を熱心に彫っていた。

 結局人出が足らなかったので田所も討ち入りのような格好で彫刻刀を握り、版木に彫りつけている。

 なにせ、江戸でも初の妖怪アンソロ本だ。

 名だたる作家達も集めた版元肝いりの一冊に仕上げる算段である。

 途中彫り木師が夜逃げしまくるというアクシデントに襲われたものの、一万冊は刷る予定のものだから気合も相当であった。当時の書籍販売形態は貸本が主であるので、それで一万ともなれば実際に手に取るのはその十倍にも二十倍にも及ぶと思われる。

 

「田所さん! 彫った版木は何処に置いておけばいいですか?」

「ああ、とりあえずそこに重ねて置いていてくれ」


 指示を出して部屋の一角に置かせ、作業を続ける。

 こう彫り作業に移行出来たのも元になる絵を回収してきてくれた九郎のおかげだ。とにかく、昔の絵師は逃げるのが多かったと言われている。現代よりも連絡手段の少ない江戸である。一度姿を眩ませたら二度と捕まらない。

 やれ妖怪退治に出かけただの、妖怪探しに出かけただの、奉行所中傷の内容で書いただのと扱いにくい連中に限って人気作家だったりする。

 それでも、それらを纏めて原稿を揃えたのならば──最も良い本が出来上がるだろう。

 侍という身分から落ちぶれて版元で編集や催促、はたまた木彫までやっているが、やりがいはある。

 近頃江戸で流行っている、同心二十四衆の一人[美食同心]が書いた食べ歩き随筆の出版は惜しくも別の版元に取られてしまったのだ。ここで一大ムーブメントを巻き起こす作品を我が社からも出さねばならない。

 田所は気合を入れて彫刻刀を振るっていた。遠くから聞こえだんだん近寄ってくる悲鳴のような銃声も気にせずに。


 その時。

 が、という音が上からした。

 続けて板が割れ砕ける音が、天井からする。

 同時に天井に穴が空き、体を耐衝撃姿勢で丸めた少年が落下してきた。

 その体は、完成した版木を重ねて置いてあった場所に上手いことに落ちて──九郎が無理やり着地の姿勢を取るため、踵を着地面に叩きつけると、足元にあった完成品の版木がことごとく砕け散る。


「あ」

「あ」

「……おや?」


 踏み砕いた版木を前に、固まる田所らと九郎。

 九郎は、罰として彫り木と版画作業を延々と手伝わされる事になったという……




 ****




 富籤の抽選発表日。その日は深川八幡に溢れかえらんばかりに人が集まっていた。

 富札を購入した人数は万を超える。誰もが当籤を夢見て、神仏に祈りつつ出来れば一等千両、そうでなければ二等百両、最低でも払い戻しは……と富札を握りしめていた。

 千両に当たれば一生遊んで暮らせる。一朱出しあい四人で購入した割札とて、一人頭二百五十両だ。人々の怨念に近い願いが神社に集っている。

 いつもは境内で売り子をしている飴売りや、菓子屋台などもこの混雑ではとても店を出せぬと営業停止していた。

 みっしりと埋まった人垣に、九郎の姿もあった。

 ついでに一緒に来ていたお八とお房も一緒に当たりの発表を待つ。


「そういえば九郎。お前の番号はなんだぜ?」

「確かに聞いてなかったの」


 二人が九郎に尋ねると、彼も思い出したように、


「己れも確かめてないな。迂闊に確認すると鷹に攫われそうな気がしたから、験担ぎで今日まで見ていない」

「へえ。まあ、今見ないでいつ見るんだって話だぜ」

「確かにそうである」


 お八の言葉に、懐に入れていた富札を取り出す。

 鷹の絵が描かれているところまでは見たのだが、番号までは見ていないのだ。

 折りたたまれた富札を開くと、


「ええと、鷹の……九千九百、九十九番……」

「当たらなそうだな!?」

「なんでそんな目を引いちゃうの?」

「はあ……」

 

 九郎は九九九九と並んだ、ある意味珍しい富札をピラピラと振りながらため息をついた。 

 当たる確率は例えば全ての位が違う数字で並んでいる札と、まったく変わらないというのになんだろうかこの当たりそうに無さは。

 しかしまあ、外れるのも賭け事の醍醐味だ。 

 期待もせずに九郎は当選番号の発表を待っていた。

 当選番号は金額の低い、富札の値段丁度の払い戻しから発表される。

 場所によって異なるが大体百番まで当選番号があるのだ。

 抽選の方法は閉ざされた大箱に札を大量に入れていて、上から長い錐で突付き、引き上げて選ぶのが習わしだった。このことから富籤を[突き富]と呼ぶこともある。


「只今より~本日の突き止めぇ~!」


 八幡神社の宮司が高らかに声を上げ、どん、と太鼓が打ち鳴らされる。

 固唾を呑んで大衆は、箱の中から引き上げられる札を見守る。

 

「御富のいちばぁ~ん──鷹の、九千九百……」

「おお!?」

「来たのか!?」


 九郎が手元の富札を握り、ゆっくり発表する宮司をじっと見る。


「──九十の……」

「来た来た来た」


 なんという偶然か、期待が膨らみ爆発寸前であった。

 


「──八番!」


 

「ぐう……」


 一つ違いの番号に、九郎はがっくりと頭を垂れるのだった。

 生憎と、前後賞は無い。

 笑いながらお八がばしばしと背中を叩いて、


「八とは末広がりで縁起が良かったじゃねえか。きひひ」

「富籤なんて換金率の悪い賭けに参加した時点で負けってお豊姉ちゃんが言ってたの」 

「はあ……」


 気を落とす九郎であったが、力なく笑みを作って価値の無くなった富札を懐に仕舞い、背筋を伸ばした。

 大人が、子供の前で籤に外れたからといって落胆してばかりも居られぬ。

 働いて鷹を追いかけまわした苦労分は、夢が見れた。

 

「ま、いいさな。さて、どこぞの茶店にでも行くか」

「おう! 白玉食おうぜ!」

「あたいはお饅頭にするの」


 九郎は神社から立ち去る人の流れに乗りつつ、二人を連れて出かけるのであった。

 懐にあったのは、追加で田所を手伝わされた手間賃が僅かに残っている。それを使ってしまうのもいいだろうと、九郎は思った。



 なお、一番富は火盗改勘定掛同心、二十四衆の一人[備品改竄]外園雪乃進ほかぞの・ゆきのしん同心が当籤した。

 なにやら不穏な渾名だが、金の出納を任せれば赤字の役所でもぴたりと帳尻を合わせてしまうので、


「まるで備品を売っているか、帳簿を改竄しているか……」


 と、不思議がられて名付けられたのであり、当人は倹約質素が服を着たような人物である。

 そのような人物が、一獲千金の富籤に手を出したことも不思議ではあったのだが……。

 そして何より彼が当籤金に特に執着せずに、冥加金(高額の場合当籤金から更に寺社に寄付分として差っ引かれる代金である。おおよそ二割程度)を払い残った金は、何かと調査費用がかかる火盗改にそっくりそのまま寄付してしまった事は大きく噂になり、節制を令にしている幕府でも、


「今どき珍しい、無私で奉公心のある者よ」


 と、老中から褒めの言葉がかかったという。

 本人はそれを気取るでも気負うでもなく、金回りが少し良くなった火盗改の役宅でも贅沢もせず湯漬けにした飯などを食っていている。

 やはり同心二十四衆は変人が多いようだ。


 

 

 


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