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26話『不知火』

 中秋の名月と言える月が真円の光を灯している夜の事である。


 巣鴨の田園には田舎造りの古びて廃屋になった武家屋敷がある。敷地は二百余坪になるだろうか……元の住人が居た頃は立派だったであろうそこは荒れ果てて幽霊屋敷さながらとなっている。

 此の屋敷は二十年前に、幕府の旗奉行を勤めていた相良嘉明の別屋敷であったが、跡取りが居ないために断絶となり屋敷の買い手も居らず、荒れるに任せ捨て置かれているのである。

 が、その夜には屋敷内に明かりが灯り、幾人かの息遣いがすすきの音に混じり聞こえてくる気配があった。

 大きな一部屋の中心に置かれた、床板を剥がし適当に作られた囲炉裏には煌々と火が焚かれ、鮑や帆立を入れた寄せ鍋風のものが煮られている。

 それを囲みながら部屋には十人ばかりの男が、高い上酒を水のように飲み上機嫌で笑っている。

 この男ども、盗賊である。

 [鎖鎌]の一味と呼ばれている、近頃江戸を荒らしまわる兇賊であった。その名の通り、首領である四十絡みの大男は手元に無骨な分銅と鎌を鎖で繋いだものを得物にしている。

 盗賊が使うには実用的と言いがたい凶器ではあるが、何らかの矜持を持って使っているのだろう。実際に、その恐るべき鎖鎌では大店の用心棒すら、為す術もなく殺害たらしめている。

 既に江戸で何人の血を吸っただろうか……。

 強引に店に押し込み、家人を皆殺しにして金品を奪い去る恐るべき連中であった。

 つい先日も事件を起こし、そろそろ充分な盗み働きを行ったので、江戸を離れ大阪京都の辺りで豪遊でもしようかと算段をつけているところであった。

 

 男どもは酒をかっ喰らい過ぎて、目眩がしたのかと思った。

 暗闇がずるりと空間に滲みでた気がしたのだ。

 確かに、ほんの瞬き前まで何も無かった場所に、質量のある漆黒が立っていた。

 真っ先に把握したのは首領の鎖鎌使いである。

 その闇は、黒装束を着た忍びの者が堂々と姿を表した事を認識した。

 全身を深穴の如く染め抜いた、むしろ不自然なまでに黒い服を着ている細身で引き締まった体の忍者だ。目には猛禽すら怯ませる恐ろしい眼光を浮かべている。

 背筋を切りつけられたような寒気を覚えて、盗賊一味は声が出なかった。

 忍びはやおら、覆面の下から殆ど口を動かさぬ発声法で言葉を紡ぐ。


「どうも。五代目・穴山小介です」


 はっきりと名乗る言葉に、若干引きつった笑みを浮かべながら首領が声を返す。


「ど……どうも。おれは由利鎌之──」

「黙れ。貴様らと会話する気など無い」


 名乗りを遮って穴山小介と名乗った忍びは棒手裏剣を一直線に投げ放った。

 

「うぬ!」


 挨拶してきたのは向こうではないかと理不尽に思いつつ、咄嗟に首領は近くに居た部下を引っ張り、盾とする。

 盾にされた盗賊の眼球に深々と棒手裏剣が刺さり、悲鳴が上がった。

 盗賊連中が慌てて立ち上がり忍びの男から距離を取った。

 首領は鎖鎌を手にして怒鳴る。


「貴様、何のつもりだ! 同じ上田の忍を受け継ぐものだろう! おれは、由利鎌之助だぞ!」

「……」

「だんまり、というわけか……」


 金属の擦過音を鳴らしながら由利鎌之助と名乗る兇賊は鎖鎌を構える。 

 小介の目はただ、昏い殺意だけを写していた。

 この鎌之助と自称し、押しこむ先でもそう名乗っている男、上田藩──ひいては現在松代藩を統治している真田家や、かの大阪夏の陣で活躍した真田信繁に仕えた家臣団とはなんら関係のない盗賊である。

 ただ、たまたま生まれ育った信州・屋代近くの郷里にあった道場が鎖鎌を教えていて、本人の筋が良かった為に習得しただけだ。

 若しかしたならば本来の由利鎌之助もその道場に連なる流派なのかもしれないが、知れぬ。真田十勇士の名を名乗っているのは単に、江戸で流行っている読み物の人物だからであった。

 恐らくは本人がなんの気位も無く名乗り、畜生のように殺しを繰り返すそれが死んだとされる穴山小介の名を継ぐこの忍びの逆鱗に触れたのであろう。

 挨拶たらしめたのも、相手に怒りを知らす思惑があってのことだ。

 小介も胸を張れる職業ではない。

 とある目的の為に金一万両を溜める為、江戸中で盗み働きを繰り返している[飛び小僧]とはこの忍びの事だ。

 だがそれでも、忍びから盗賊に名を落としても本格盗賊の三か条は守っていた。

 三か条とは、


 一、貧しきものからは盗まぬ事。

 一、姦淫はしない事。

 一、殺しはしない事。

 

 という三つである。

 それを守ったとて盗みは盗みであるのだが、守ると守らぬとではやはり、世間の目は、


「違う……」


 と、されるのが当時であった。

 

 

 鎖鎌の名手、自称・由利鎌之助と穴山小介の差し迫る戦いが始まった騒動を、[鎖鎌]一味を捕らえるべく屋敷を囲んだ火盗改の衆は困惑とともに察知するのであった。



 

 ****




 屋敷の中で起こった騒動に、火盗改はすぐには踏み込まなかった。

 むしろ、逃げるものが居らぬように警戒の網をより厳重に構築する。

 悪党が仲間割れするのは珍しいことではない。たまたま、穴山小介の襲撃と火盗改の手入れが重なってのアクシデントなのだ。

 静まったのならば押し入ろうと見張っていたのだったが……。

 まずは、[鎖鎌]一味に所属する小悪党共が、蜘蛛の子を散らすように屋敷から逃げ出てきた。

 首領を小介にやられ、慌てふためいて逃げ出したのであろう。小介も然程下っ端の命に執着していないので、追撃は無い様子であった。

 火盗改長官、黒門は即座に屋敷から飛び出た盗賊どもを、


「捕らえよ!」


 と、指示を出して捕まえさせた。

 刺叉を構えた同心らが一斉に抑えこんですぐさま盗賊はお縄となる。

 だが、続けて出てきた者は一筋縄ではいかない。

 火盗改が配置されていてなお、忍びの小介は宙を滑るような脚さばきで屋敷から飛び出し、退路を取った。

 小介は以前にも、偶然に近い行き違いで同心の包囲を受けて黒装束の姿を晒したことがある。

 故に誰かが叫んだ。


「飛び小僧だっ!」

「すこぶる飛んでやがる!」

 

 忍者はいわば遁走のプロである。御用聞きや同心らが小介を捕らえるために差し出された無数の刺叉の柄を踏みつけて、飛び越える。

 同心はぎょっとしたが、忍びの者の体術は特別な訓練を習得しているのだ。

 上に六尺(約1,8m)、前後に五間(約9m)は飛び跳ねてこその忍びだと文書には残っている。

 ひらりと包囲を避け、近くにある芒林すすきばやしを越えれば追跡が不可能になる。もしもの時の逃走経路は予め用意していた。

 だが、賊が逃げる道筋を野生的な勘働きで予測していた者もいた。

 [切り裂き]同心、影兵衛だ。


「いよう、そんなに急いでどこに行くんだ? ちょっち、拙者の相手もしろよお!」


 謹慎明けであったが、兇賊捕縛のための後詰めに参上していたのだ。

 ただ、この時彼は長官からの指示で刀を帯びていなかった。彼が刀を持っていた場合あまりに死人が発生するからである。火盗改の任に於いてそれは起こらざるをえない事態だが、影兵衛は特に多すぎるのだ。

 正直なところ、刀を使わなくても負けない腕前なのは誰もが認めるのであったが為、今回は置いてくる羽目になっている。

 無刀故に逃げる飛び小僧相手に、影兵衛は鉤縄を一直線に放った。

 鉤の部分が鋭い返し付きの銅で出来ている特注品である。先端が直撃すればそれだけで肉に食い込み行動力を削ぐ威力だ。

 小介は駆けながら、影兵衛の前で横軸に方向を転換し回り込み逃げる進路であったが、正確に飛来してくる鉤縄に対して、


「変わり身」


 とでも言える早業で厚手の風呂敷を展開し、飛翔してきた鉤縄を絡めとったのである。

 鎌之助の鎖分銅も同じ手で防いだ対策であった。

 鉤縄に巻きついた風呂敷を捨て置いて、更に身を低くし小介は加速して離脱を図る。

 一度逃げてしまえば、もとより火盗改は[鎖鎌]一味を捕らえる為に集まったので去った一人よりは現場に残された一味を優先するだろう。

 小介が背の高い芒原に入り込もうとした瞬間、危険察知の感覚により足を止め、振り向いた。


「いけよ小柄ァ!」


 追いかけ来た影兵衛が両の手に持っている小柄(手入れなどに使う極短い刃物)を合計六本、小介へ向かって投擲したのだ。

 余人の投げる小柄ではない。

 服の上からでも骨にまで突き刺さる威力がある。

 月光を僅かに反射する鉄色の刃を小介は正面から見切り、五本は当たらぬように身を躱して一本は手にした苦無で弾き飛ばした。

 後ろを向いて逃げるために走ったままでは、体の何処かに突き刺さっていただろう。

 だが、小柄が宙を切り裂いて通った軌跡に残滓のようなものがあるのを見て、小介は反射的に飛び退こうとする。

 影兵衛が避けられたにも関わらず、嗤い声を上げて手を振り回した。


「テグスがついてんだよ!」


 小柄に結び付けられた半透明の糸は、天蚕糸てぐすと呼ばれる、蛾の仲間が吐き出す糸を編み上げた本来は釣りに使うものである。

 影兵衛の手に繋がるそれは頑丈性と弾力を兼ね備え、彼の引っ張る動きに連動し小介から外れた小柄が巧みに運動エネルギーを反転させ再度、彼の死角方向から襲いかかる。

 有線誘導式小柄である。訓練もそうだが、影兵衛の空間把握と糸使いのセンスによる特殊な技であった。

 最初に投擲された時よりも誘導により戻された小柄は威力を大きく損ない、軽く肌に刺さる程度になっているのだが、それよりも六本に張り巡らされたテグスが小介の体に巻き付き、動きが僅かに封じられた。

 鎖骨付近に一本、背中に二本刺さる痛みを感じるが疾いか、テグスの絡まった小介に、


「いただくぜ!」


 大上段から十手を振りかぶった影兵衛が襲いかかる。

 銀や真鍮で綺麗に作られたものではなく、玉鋼で拵えられた実戦用の頑丈な和ソードブレイカーだ。

 当たれば骨など軽々と砕ける。

 小介は持っていた苦無で振り下ろされた十手をなんとか受け止めた。もし、この時に影兵衛が持っていたのが刀だったならば一巻の終わりだったのだが、運が良かったとしか言い様がない。

 火花を上げ、小さな金属片をまき散らしながら打ち合わされた苦無だったが、次の瞬間には影兵衛が十手の鈎部分に引っ掛けて苦無をもぎ取り地面に打ち捨てた。

 そして、


「──逝ッちまいなア!」

 

 怒声と共に放たれたのは影兵衛の蹴りだ。

 ことさら、同心の体術訓練では彼の足技が怖れられていた。火薬が爆発したような威力を自在に放ってくる蹴りはまともに受けたなら、骨など枯れ木のように折れるか、二日は飯が食えなくなる程に強力だ。あと、あまり関係ないが足が臭い。中年の悩みである。

 脾腹に向かって打ち込まれた爪先を、小介は懐に入れていた、手のひらに収まる程の陶壺で受け止めつつも全力で後ろに飛び下がった。

 壺が蹴り砕かれる感触と、肋の下がばきばきと立てる音を聞きながらも寸での所で耐える。

 そして、壺の中に入れられた粉末を周囲の乾いた芒原に撒き散らした。

 中身は炭粉と木屑、火薬を混ぜたものである。

 影兵衛は匂いで察して相手の算段を読み取った。

 が、影兵衛が対応する前には小介が投げつけた火打ち石が、十手に弾かれ地面に突き刺さっていた苦無の柄に撃ち当てられる。苦無にも、火打ち石を仕込んでいるのだ。

 強い火花がにわかに浮遊物となった可燃性の火薬に燃え移り、爆発的に火が付く。少しのあいだで燃え尽きる程度の火薬であったが、周囲の芒に燃え移るには充分であった。

 燃えやすく乾燥している頭を垂れた芒が、秋風に吹かれて炎を広げた。

 火の光に目を取られて我に返った短い間に、巻き付いたテグスも燃やして解いた小介は何処かへ逃げ延びていたのである。


「野郎……味なことやりやがる」


 見事な火遁の忍術に、さすがの影兵衛も驚き入ったようであった。

 火の色を見て、[鎖鎌]一味に捕縄を付けた火盗改の同僚、小川同心が慌ててすっ飛んできた。


「うわっ! も、燃えてますよ影兵衛さん! 火属性の必殺剣でも使ったんですか!?」

「拙者じゃねえよ。おい、それより消すの手伝え。おかしらに怒られんぞ……」

 

 火付けを取り締まる役人としては、逃げた飛び小僧を追うよりも火を消し止めなくてはならない。

 現場に居た者総出で芒刈りとなるのは当然であった。

 影兵衛が小川の脇差しを借りて無造作に伐採しつつ、


「そういや、盗賊一味はどうだったよ?」

「ええ。首領の[由利鎌之助]を除いて、他の者は生きたまま捕縛に成功しました」

「鎖鎌使いは……殺られてたか」

「踏み込んだ時には既に……飛び小僧の仕業でしょうか」

「だろうよ。あ、おい。その辺に苦無が落ちてるはずだから拾っておけ」


 適当に指差しながら告げる。

 未だ火で照らされて明るい為に黒光りする道具はすぐに目についた。

 小川が拾ったそれを受け取り、しげしげと眺める影兵衛に尋ねる。


「影兵衛さん、なにかわかります?」

「いや……普通の刀ならまだしも、忍びの道具は専門外だな。こういうのは……そうだ、町方の[無銘]のやつが詳しいんじゃねえか?」

「藤林さんですか? 確かにあの人は伊賀の出でしたっけ……よし、聞いておきます」


 肯定して小川はひとまずその苦無を預かった。

 町方の隠密廻同心、通称同心二十四衆の一人[無銘]の藤林勇蔵ふじばやし・ゆうぞうは伊賀衆に連なる男で、追跡や変装の名人である。それも伊賀に伝わる、


「忍びの技」


 を使っているともっぱらの評判ではあった。

 餅は餅屋と言うが、苦無の流通や製造など一般には知れることのない事情を知っている可能性がある。

 また、よく事件の取り合いをする火盗改と町奉行所であるが、隠密廻はやり口が火盗改にも通じるところがあるので口利きは多少楽である。


 ともあれ、証拠品の苦無を手にしてその日飛び小僧は逃がしたのであった。

 生かして捕まえ無くてはならない相手なので手加減せねばならず、厄介ではある。十両盗んだら死罪とされる江戸の世だが、なんと飛び小僧は既に表沙汰になっている金額だけで三千七百両あまりも盗みを続けている。その隠し所を取り調べなければならないのだ。

 影兵衛は欠伸を一つ零して、髭を剃ってつるりとした顎を撫でながら、


「逃げ一択の相手は趣味じゃねえんだがよ」


 と、面倒そうに呟くのであった。




 ****


 

 

 池袋村の辺りに[狐囃子]と呼ばれる怪奇現象が囁かれていた。

 これは江戸の三大七不思議の一つにも上げられる有名なもので、農村も何も無い原っぱで夜だというのに祭囃子が聞こえてくるという不思議な話である。

 化け狐が祭りを行っているのだろうと噂されるそれを探しに出たのが、神秘狩人・鳥山石燕と助手の九郎であった。

 夜だというのに油揚げと酒を持って、提灯片手に出かけるあたり、暇な二人である。

 勿論、狐を呼ぶために用意した油揚げは道中、酒の肴にどんどん消えていくのであったが……。

 ひと通り噂の出処を探った二人はそろそろ帰途へと足を向けていた頃だ。


「いや、[狐囃子]の正体は将翁の奴だったなどと、人騒がせなやつめ」

「そうだね。陰陽儀式のために集めた野良犬達に鳴子をつけていた音が祭囃子に聞こえただけの話だとは……拍子抜けだね」

「やれやれ……」


 並んで歩きながらやや無言になり、


「──それはそれで魑魅魍魎めいた怪奇話であるな、よく考えたら」

「ふふふ。確かにさっき見てきたけど絵面が、夜な夜な謎の儀式をする狐面陰陽師の時点で超怪しいすぎる」

「なんかもうあれだな。知り合いだけで七不思議行けそうだな」

「真実は巷説よりも奇なりけりだね」


 などと言い合い、夜道を歩いていると、妙な焦げ臭さを嗅覚に感じた。

 きょろきょろと夜目の利く九郎が辺りを見回す。


「妙な……」

「どうしたのかね?」

「いや、気配を感じぬか?」

「ふむ……」


 石燕も鼻を鳴らし、小さく頷いた。

 狐に化かされぬように眉に唾でもつけようかと考えていると、九郎が何かを見つけた。

 遠目には黒い頭陀袋が落ちているようにしか見えぬが、それはどうやら黒装束の男のようだった。少しばかり服が火で炙られて焼けているようで、また提灯の明かりで照らすと何箇所かから出た血でべったりと服が張り付いている。

 そして苦しげに息を凝らしたまま、腹を抑えて倒れている。

 九郎は特に驚いた風も見せず、しゃがみこんで顔を見ながら言う。


「こやつは……」

「知り合いかね? いや、凄まじく怪しいのだけど。なにそれ? 忍びの者?」

「はっはっは、忍びなど居るわけはなかろう。これは不忍池で蓮根料理を出しておる[穴屋]の男、小介だ」 


 もはや忍び装束など見慣れたものであった。

 盗賊も夜間にはこの服を着るし、お忍びで町を歩く御大尽だって顔を隠す。それでいて忍者など居ないのだと九郎が納得するまで時間はかかったが、ひとまず諦めたように認めたようである。

 この紛らわしい男の店に行ったことも数度、ある。なにせ酒に良く合う小鉢を出すのだが、どれも一つ六文で提供していてとても安いのだ。

 石燕はただ客観的に小介を見て凄まじく不審がっているが。

 気を失っている様子の彼を揺り起こすようにして具合を伺う。


「む……怪我をしておるようだな。仕方ない、将翁のところに運ぶか」

「大丈夫かね? 何やら危なげな事に巻き込まれている気がするけれども」

「なに、どうせ真実は拍子抜けするような事が多いのだ。差し詰め、焼き栗でも食おうとしたら弾け飛んで怪我をしたのだろう」

「それでここまで怪我をする尺玉みたいに危険な栗は明らかに妖怪変化の類だと思うがね」


 呆れたように、石燕がいった。

 九郎はひょいと小介の体を担ぎ上げる。己よりも身の丈が大きな相手だが、彼にとっては軽いものであった。

 しかし丁度近くに将翁の隠れ庵があって幸運である。

 二人は来た道を、忍者を運んで戻っていくのだった。




 ****




 夜が明けて……。

 次の日の昼間のことである。

 厳しく[鎖鎌]一味が取り調べを受けている中、火盗改同心の影兵衛と、同じく探索方で二十四衆が一人[家屋解体]の奥村政信おくむら・まさのぶは不忍池の周縁にある煮売り屋で酒を飲りながら、[穴屋]の入り口を見張っていた。

 昨夜、飛び小僧の追跡調査として追加任務を与えられた影兵衛は、仕方なく八丁堀にある藤林同心の自宅へ夜中に訪ねて苦無について聞き込みを行った。

 すると、以前に浅草・不忍池方面を調査していた時に同じ作りの苦無を見たと証言を聞かされた。

 それは[穴屋]という料理屋で、鯉の鱗取りなどに使うのがちらりと見えたという。伊賀者である藤林は、その忍び道具を使っているのを特に記憶していた。

 すぐに踏み込んでも良いのだが、もし[穴屋]に居るのが本格の忍びだとすれば、逃げに入られれば厄介である。

 とりあえず様子を伺っているのだったが……。

 

「中山殿。誰か来たぞ」

「あん?」

 

 奥村同心の静かな言葉遣いに、煮しめを肴に一杯やっていた影兵衛は酒で赤らんだ顔を向けた。

 結局昨夜は忙しくて酒も飲んでいないというので、昼間から酒を飲んでいるのだ。 

 仕事中だが、影兵衛が酒に酔ってしくじった事は無い為に黙認されている。当時の認識としても昼に飲む酒は栄養ドリンクや気付け代わりともされていた為、肉体労働者などはとりあえず一杯と飲んでいたらしい。江戸でよく喧嘩騒動が起こっていたのは、案外昼間から酔っ払い同士が多かったためかもしれない。

 ともかく、影兵衛が視線を向けると小柄な少年の如き人物が[穴屋]に入っていった。


 店に入ったのは九郎であった。

 昨晩、将翁に怪我の治療を受けさせた小介は今だ池袋村にある廃寺で体を休めている為に、小介の父(父もまた、小介という名前なので紛らわしい)に伝えに来たのである。

 

「すまぬが……」

「へえ、いらっしゃいまし」


 泥鰌のような髭の生えた愛嬌のある老爺が厨房から顔を出す。

 老齢ながら背筋も曲がっておらず、すらりとしたやや大きめの体躯をしている。そこと無く、若い頃に何らかの修行をしていた事が見え隠れする体つきであった。

 彼は九郎の顔を認めると、


「どこにでも好きなところに座ってくだされ」


 と、声をかける。

 実際の所、九郎の顔はあちこちの店で覚えられている。酒をたらふく飲んでいき金払いも良いが見た目は少年のような客ならば、三度も通えばすぐに記憶に残った。

 九郎は手のひらを老爺に向けて、


「あ、いや今日は食いに来たのではないのだ。この店の小介が怪我をしてるのを拾ってのう」

「……左様で御座いますか」

「大したことはないのだが、知り合いの家に預けておる。一応お主にも知らせておこうと……」

「助かります。すぐに引き取りに参りますので、案内をお願いしても……」

「おお、よいよい」


 九郎は快く引き受けると、老爺は彼の手に小判を握らせた。


「これは心ばかりのお礼でして……どうか気持良く受け取ってくだされ」

「む、そうか……」


 と、この薄利であろう料理屋から、礼にしては貰いすぎな気がしたが、断るのが逆に失礼な気がして、九郎は小判を懐に収めた。

 そして老爺は[本日やすみ]と書かれた札を店の奥から持ってきて、入り口に貼り付けてすぐに出かける事にした。

 九郎が、


「店の用心はしなくてよいのか?」


 と尋ねるが老爺は頷いて、


「盗まれるようなものは置いてませんので」

「そうか。はっはっは己れが居候している蕎麦屋もな、碌に金など置いていないから盗人対策をしておらぬし、似たようなものだな」

「まったくで」


 などと笑いながら二人は歩き去っていった。

 

 影兵衛はそれを目で追いつつ、


「あの二人は手先に追跡させる。拙者と手前はあの店ェ捜索すっぞ」

「了解」


 と、指示を出した。

 家宅捜索において右に出るものが居ない、と評判の[家屋解体]奥村ならば、隠し棚だろうが床下に埋めた物だろうが発見できる。

 確実な任務という点では影兵衛が追跡に付いたほうが良いのだが、一緒に去っていったのが九郎だから顔が知れている為に感付かれる恐れがあるのだ。

 仕方なく二人で、裏口から[穴屋]に侵入して捜索を始めた。 

 盗んだと思しき大金が出てくれば御の字である。

 そうでなくとも、同型の苦無でも発見できればしょっ引ける。だが問題は責め拷問を施したとて、忍びの者が口を割るかどうかだ。

 忍びについて詳しい者はそれこそ伊賀者の藤林同心ぐらいのものだが、彼の話すところによると、拷問尋問を受けた際には、


「すぐさま舌を噛み切り死ぬるか、尤もらしい嘘八百を並べてかく乱させるか……」


 という訓練を受けている可能性がある。

 飛び小僧が盗んだ金を取り戻さなければ、被害者から不満が口々に囁かれるだろう。勿論、通常の盗賊でも盗んだ金は捕まえた頃には既に使いきっていたということも多くあるのだが、だからといって納得されるものではない。飛び小僧の犯行では少なくとも命が奪われる事はなかったので、助かっただけ得と思えばいいものを。

 

 やがて、奥村同心により隠された苦無と忍具が発見された。

 同時にその頃、追跡者を察知した老爺と九郎の機転により、影兵衛の密偵はまんまと撒かれてしまっていたのである。九郎も正体不明の相手につけられているという状況では積極的に逃げたようだ。

 そして、二度と老爺と小介が店に戻ることは無かった。

 火盗改は後手に回らされたのだ。




 ****

 



「──よし、落ち着こう」

 

 九郎は石責め用のゴツゴツとした石版の上に縄で巻かれ正座させられ、回りを囲む怖いお兄さん達に言い聞かせるように告げた。


「まずは弁護士だ。次に保険屋。坊主は最後でいい。そしてお主らも心安らぐ挨拶を唱えるといい。アッマーテラス・アレイクム。あなたの上に天照大御神の平穏がありますように」


 男たちは目配せをして、九郎に抱かせる重そうな石版を持ち近寄ってきた。


「待て待て、拷問の前に少しは事情聴取をしろよお主ら。なんでも話すぞ己れ。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えとかどうだ? 完璧な計算で出された答えは42らしいのだが……」

「……」

「賢い動物らんきんぐ一位は鼠で二位は海豚、三位が人間で……いや無言で石版を載せようとするな! とりあえず何が知りたいか教えろ! 己れは航時法以外では無罪だ!」


 本人も何の情報に価値があるのかわからなくなってきて訳の分からない事を叫んでいるのも、拷問要員達は惑わす虚言と受け止めているらしい。

 

「ああぁ~……悲しいぜ九郎」


 焦る九郎に、入り口からゆるりとこの拷問ハウスに入ってきて話しかけてくる人物が居た。

 影兵衛が憂いを帯びた様子で目元を手で抑えつつふらふらと寄って来た。


「おい、影兵衛! どうなっておるのだ!」

「いやなんだ……せめて盗賊の仲間なら鉄火場で会いたかった……そうすりゃ楽しく楽しく、殺して嬉しい斬り合いが出来たってのに、最初から拷問責めなんてなんて悲しいんだ……」

「だから、拷問などする必要がどこにある! 理由を言え理由を!」

「拙者からの情けでは指に刺す竹串を、焼けた鉄串に変えてやることしかできねえ……じゃっ、始めっか」

「始めるなボケエエエ!!」


 此の後、なんとか九郎の必死の説得のようなものが受け入れられて何とか拷問は回避されるのであった。

 事情はつまり火盗改が、[飛び小僧]と関係があると思われる[穴屋]の老爺と共に動いていた九郎を、彼の居候している[緑のむじな亭]で待ち構えて捕縛し拷問室へ一直線にしたのであった。 

 九郎としては寝耳に水の案件であった為に、心底驚かされることとなった。

 

「まさかあの、全身黒装束で目つき鋭く鍛えられた体で苦無などを扱う小介が、忍び筋の盗人だったとは……」


 九郎の呟きに一斉に火盗改の役人たちは「せぇの」と声を合わせてツッコミを入れた。


「怪しめよ!!」

「ここまで怪しいと逆に怪しくないであろう……」


 もごもごと目を背けながら言い訳するが、聞き入れられる様子ではない。

 詮議の場を取り仕切る、火盗改長官の黒門が九郎に問い詰める。如何にも無骨な、実戦派とでも言えるがっしりした男で周囲に与える威圧感はいっそう強いものを感じる。


「それで、その飛び小僧と老爺は今どこに居るのだ」

「うむ……己れが案内した頃には、小介も動けるようになっておってな。将翁は暫く安静にした方がいいと言ったのだが、親子揃って何処かへと……そこで別れたから知らぬ」


 九郎の応えに、同心の一人が紙縒こよりを片手に怒鳴りつける。


「隠し立てすると容赦せぬぞ!」

「知るかっ! 己れは別段、あやつらと親しいわけでもないのだ!」

「なにを生意気な小僧めっ!」

「おい」


 どすの利いた、閻魔が呟いたような低い声が影兵衛から放たれた。


「止めろ。そいつぁ拙者の友達だからよ。嘘ぁついてねえさ」

「……いや、お主さっき己れの指に焼けた鉄串刺そうとしてたよな?」

「んなことより何か手がかりを探さねえとな。あいつら、間違いなく江戸を売ったぜ畜生め」


 半目で言及した九郎を軽やかに無視して影兵衛は話を逸らした。

 手がかり……。

 一応、誤解とはいえ居合わせた九郎も考えてみた。しかしそもそも、あの親子と会話したことなど数えるほどしか無いのであったが……。

 ふと、思いつくことがあって九郎は発言した。


「小田原」

「どうした?」

「いや、前に江ノ島に旅行に出かけた時、小田原に向かう途中の小介と同じ宿に泊まったのだ。あの格好だからな、すぐにわかった」

「ほう……」

「宿の者に何気なく聞いたが、それなりに頻繁に小介はその宿に訪れているとか……」

「宿の名は?」

「東海道の旅籠[すずや]だ」

「……よし!」

 

 長官、黒門が決断して指示を出す。


「馬を走らせて[すずや]までの街道を調べさせろ! 少なからず怪我を負っているはずだ!」

「はっ!」


 [穴屋]の店を調べても盗んだと思しき金銭は一切見つからなかった。となれば何処に運び出したかである。

 江戸の市中にある蔵などは所在がはっきりしていないものほぼ全てを調べあげてあるが、今まで出てこなかった。ならば、江戸の外に保管しているのだろう。

 その場所が、盗みの実行犯である小介が何度も訪れているという小田原である事は有力な説であった。

 近年では多くの、押し込み殺しを行う兇賊が増えているがその中でも[飛び小僧]は鮮やかに盗みを行い人を傷つけぬということで、盗人ながら町人に人気が出てしまっている。

 それではいかぬ。

 盗みは盗みで許されない行為なのだ。飛び小僧を捕まえないまま逃したとあれば、更にその名声は名高いものとなってしまう。それは火盗改や町奉行の怠慢を色飾るものであり、警察機構への不信を招く世の乱れとなる。

 昨日捕らえた鎖鎌一味の聴取もせねばならないが、動員して火盗改はにわかに忙しくなった。


「……あー、それでは、己れは帰るから」

「きひひ、最後まで付き合ってけよう、九郎。ちょいと小田原まで行こうぜぇ?」

「ぬう……」


 冤罪とはいえ、飛び小僧の仲間と思われた九郎が断れる雰囲気ではない様子であった。

 やむを得ず、再び火盗改の捜査に協力する事となったのである……。




 **** 

 

 


 南千住にある小塚原は当時、刑場があり罪人の首が曝される場でもあった。

 臭気が強く残る死骸が殆ど捨て置かれるようにされていて、変色した罪人の首が木台に置かれ罪状が書かれた紙が貼られていた。

 九郎は寂しそうな目で、晒し首になっている泥鰌髭の老爺の顔を見ていた。

 江戸を[飛び小僧]として騒がせた盗人として、あの老人は首を刎ねられてここにいる。

 九郎の他にも、ひと目[飛び小僧]の末路を見ようと小塚原には人が集まっていた。

 隣に並んで見物している石燕が声をかける。


「小僧という割には、随分と老盗だったのだね」

「うむ……」

「しかし、本当にあの老人一人で三千両以上も盗んだのかね? 盗み金は見つかっていないのだろう」


 その通りであった。

 読み通りというべきか読まされた仕組まれたというべきか、小田原への道中、東海道筋で老爺は捕らえられたのであるが、囲まれたと見るやいなや、かの老人は、


「そうだ、儂が盗人・飛び小僧よ!」


 と、堂々と名乗ったかと思えば即座に皺腹を掻っ捌いて果てたのだ。

 止める暇も無かった。 

 また、彼の息子の小介はその所在を完全に眩ませていたのだ。老爺は、陽動だったようにも思える。

 自決した罪人相手では盗み金の在処を尋問する事も、犯行の裏付けを取る事も出来ない。

 それでも疑わしき証拠はあり、また老爺自身が盗賊を名乗ったのであればそう扱う他無かった為に、ひとまず飛び小僧の死という形で事件は一応の解決を見せるようにしたのである。

 最も疑わしいのは息子の小介であったが、飛び小僧の体格に老爺が当てはまらないこともない。また、体には生新しい刺傷や、腹部・影兵衛が蹴った場所と同じ所に打撃痣が残されていた事もあり、こちらが真犯人と言えなくもないのだ。

 少なくとも、まんまと本命には逃げられたと発表などできはしない。

 そうして腹を切った老盗の死体は江戸に運ばれ、更に首を斬られ小塚原に晒された。

 

「しかし……小介を逃がす為に、体にわざわざ傷までつけてすぐさま死んでみせたとなると……」

「親子の情というものかね?」

「いや、何かもっと、大義のような覚悟をこやつの目からは感じたが……」


 もはや、それが何だったのか知る事は出来ないのである。

 江戸に潜んでいた忍びの末裔、穴山小介という名も誰にも知られること無く盗み金と共に闇へ消えた。

 この時の失われた、実質五千両以上の大金が後に恐るべき事件を巻き起こす事になるのだが、それを予見していた者は居ない……。

 しみじみと死に顔を見遣りながら九郎は呟く。

 

「そこまで悪いやつには見えなんだが……安くて美味い飯を出していたしのう」

「人の内面など、他人が推し量れるものではないよ」

「まあ、そうさな」

 

 九郎は頷いて、石燕の袖を引っ張りながら、


「さて、帰るか。ここはどうも、空気が悪い」

「確かに腐臭が強い」


 しかしふと、九郎は腐った体から作り出される、不純なメタン臭以外に、何やら鼻孔をくすぐる燐のような匂いを感じた。

 最近、何処かで嗅いだような匂いだ。


(確か……焼け焦げた小介の体から……)


 思い出そうとすると、石燕が白い指を晒し首に向けて言う。


「──鬼火だ」


 ぽ──。

 ぼぅ──。

 軽い音を立てて、青白い火がそこに浮かんでは消える。

 死人の成仏しきれぬ残念や煩悩が火となっているのだと伝えられている、妖怪だ。

 見物に来ていた町人たちがざわめいて、怯え泣き出したり念仏を唱え始める者も居た。


「飛び小僧の鬼火だ……!」

「祟りがあるぞ……」

「坊主を呼んでこい!」


 そうして蛍のようにい点滅していた火はやがて、晒し首台に燃え移り──手が出せぬほどの勢いで火勢を強めた。

 台に何らかの仕掛けを施さない限りここまで燃え上がらないだろう。首を、火で包んで大きな火の玉になったそれを見て見物客らは恐慌を起こした。


「火消し! 火消しはどこだ!?」

「火盗改を呼んでこい! あいつらが捕まえた盗賊の怨霊だぞ!?」

「うわああ!」


 逃げ惑い、遠くでは町火消しの鐘が打ち鳴らされ、混乱を極めた。

 嬉しそうに鬼火を、竹筆で紙に写し描いている石燕の袖を掴んだまま九郎は冷静に周囲を見回した。

 蜘蛛の子を散らす如く右往左往し離れていく人の群れに、黒頭巾を被っていたせいか不思議と目元しか思い出せない小介が居た気がした。

 火を見ている石燕が、ぽつりと呟いた。


「消えろ、消えろ、つかのまの燭火、人生は歩いている影にすぎぬ──ってね」


 謳うようにな言葉に、九郎は問い返す。


「誰の言葉だ?」

「シェイクスピアの[マクベス]からさ」

「いや、時代考証を考えろよお主。なんでシェイクスピアを引用する。マンハッタンの企業家ではないだから」

「和蘭陀人から聞いた。百年前の戯曲家だろう」

「便利だな、和蘭陀人」


 二人はなんとなく、火消しが来るまでそこに留まって飛び小僧最後の火を眺めているのであった。  


 罪人とはいえ首を晒し死体を捨て置く事が悪霊を招くとされ、後に小塚原刑場には首切り地蔵が置かれるようになったのである。


 秋風が、狐囃子を遠くまで運んでいる……。



 


 

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