24話『仇討ち』
秋晴れの頃……。
新蕎麦も珍しく無い時合いとなり、居候をしている[緑のむじな亭]の客入りも再び落ち着き出したので九郎は両国の広小路辺りまでふらりと足を伸ばした。
出かける要件としては店で使う乾物や調味料などの買い出しだが、ぶらぶらと散歩をしたくなったのである。
そろそろ昼下がりだ。朝食の時間は朝の六時から七時の頃合いなので腹が空いてきた。
薬研堀近くにある田舎蕎麦の店に九郎は立ち寄って昼飯を取ることにした。
[しなの屋]という名前のその蕎麦屋は、黒っぽくて太い田舎蕎麦だけを出す店で、流行りの天麩羅など種物は出さない。しかしこれが結構、食ってて飽きない深い味わいがあり好まれている。お房に言わせると、
「じじむさい」
ような店ということであったが、成程、客層は確かに年寄りが多いかもしれない。
しかし天麩羅蕎麦などは旨いものであるが、たまに食うから良いので日常的に蕎麦を食うような者はこの[しなの屋]のような、楽しみ尽くすことのない、変わらぬ味の落ち着いた蕎麦屋へ通うようになるのであった。
九郎も日常によく食う蕎麦というと、六科が打った物のあまりを処分するために夕飯などに出されるのであったが、やはり彼の打った素人蕎麦とこの店の蕎麦では天地ほどの差があると言わざるを得ない。
新蕎麦の良い香りを楽しんだ九郎が食後に茶を飲みながら格子の付いた窓から外を見ていると、道を歩く素浪人風の男に見知った顔があった。
役人だというのに山賊風の髭を蓄えた、殺し屋のようなぎらついた眼差しのやくざ者っぽい男──火盗改の同心、中山影兵衛である。
町中をそのような格好で彼が出かけているのを見かけるのは珍しくない。彼は同心の仕事である見回りでよく出歩いている。サボっているようにも見えるが、実際はどうかわからない。
だが、彼の後を尾行している気配のある知り合いが続いたので疑問に思った。
一見精悍で爽やかな顔つきをしていて、仕事も真っ当であるのだが特殊性癖を拗らせているという社会が手を焼くタイプな男、[青田狩り]の利悟である。
(同心が同心の追跡をしている……?)
その状況について九郎は二つ程仮説を思いついた。
一つは利悟が二重尾行している事だ。これは、前を行く影兵衛が何かを尾行しているのを、更に利悟が追う形になる。本来の目的である相手に顔が知られていたりする場合はそうやって別れて追う事がある。
だがこれは所属の違う二人が協力してやるようなことではない。
もう一つは、影兵衛が何か犯罪行為をやっちゃって町奉行の利悟に追われている場合である。
凄くありそうだった。
「すまぬ、勘定をここに……」
九郎は食台に銭を置いて店を出た。
不自然ではない程度の早歩きで道を歩く利悟に追いつき、小声で話しかける。
「おう、八丁堀の。何をやっておるのだ」
「! なんだ、九郎か。拙者の姿に惚れた男の子でも話しかけてきたかと思った」
「気持ち悪っ」
「酷い」
真顔で告げる九郎に利悟は落胆して俯いた。
歩きながら自然な様子で続けて問う。
「あれを行くは[切り裂き]影兵衛に見えるが……お主が追っておると云う事は、とうとう殺らかしたか?」
「凄くありそうだけど影兵衛さんを尾行するなら、拙者よりは顔の知られていない伊賀者で二十四衆でも一番の変装尾行の達人、[無銘]藤林同心を呼ぶところだよ……ともかく、あそこに居るのは影兵衛さんじゃない。そっくりの盗賊なんだ」
利悟は胸元に入れていた人相書の紙をそっと広げて九郎に見せた。
そこにはやはり影兵衛に似た顔の凶相を浮かべた男が描かれているが、頬にざっくりと傷跡が付いているところが違った。
「最近、江戸で畜生みたいな盗みをしている盗賊一味[赤猿の八重蔵]連中の一人なんだ。この前も乾物問屋で売上金と高級な干鮑なんかを根こそぎ盗んで店の者を女子供関わらず斬った許せん奴らさ。一人、生き残った手代からの顔の覚書を作って驚いたとも」
「ついにあいつが殺ったか! ……と?」
「急いで火盗改に向かったけど意外な事に、その盗賊が襲っていた時間帯は影兵衛さんは役宅に泊まりこみで別の盗賊の拷問してたから人違いだと証明されたんだけど」
「厭なありばいだな……それ」
江戸を騒がせている盗賊は一組では無い。未だに一人働きで隠密に盗みを続ける[飛び小僧]は捕まっていないし、信州から来た[鎖鎌]と呼ばれる盗賊一味も荒っぽいやり口で噂に上がっている。
影兵衛が拷問していたのはその[鎖鎌]一味とされる盗賊だったのだが、実のところ彼は拷問があまり得意でない為にうっかりやり過ぎて、今その盗賊は痛みのあまりに舌を噛み切り、命は取り留めたが口も利けない状態になってしまった。
苦手というか手加減を途中で面倒になって止める癖とでも云うのだろうか。あまりに相手が喋らないと残忍な処刑まがいの行為を始める為、役宅の夜番たちは影兵衛が拷問の日は異様にはらはらしてしまうという。
ともかく……。
二人は相手を見逃さないように尾行を続けながら、小声で会話を続ける。
「この……まあ名前は知らないから仮に偽兵衛とでも呼ぶか。偽兵衛を追いかけて一味の盗賊宿を探さないといけない。拙者、手先とか居ないっていうか皆やりたがらないしすぐ辞めていくから一人仕事なんだよなあ」
「日頃の行いって人間関係に出るよな」
「……。しかし、見た目はそっくりだけど剣術まで影兵衛さん並じゃないといいんだが。それだと確実に拙者が相手をさせられるから」
「影兵衛そっくりの偽兵衛か……む? 何処かで聞いたことが……」
九郎はあの男の人違いという事に引っかかり、思い出すように眉根を寄せた。
そして少し記憶を探り、ぽんと小さく手を打って頷いた。
「そうだ、あれは確か──」
****
二ヶ月程前、夏の夜の事だ。
その日、九郎と影兵衛は品川と目黒の中間ぐらいにある獣肉料理屋に鹿鍋を食いに出かけて、しこたま酒を飲み比べたのである。
夏の鹿は太って旨く、どろどろになるまで味噌鍋で煮込んだ肉を口に運ぶとべったりと脂で唇がてらてらするほどで、その獣臭さと辛口の酒を楽しんだ。
すっかり夜も更けて二人は酔っぱらい、当時は明かりも無く人家もまばらな田舎道を、提灯片手に品川方面へ歩いて帰っていた時だ。
影兵衛の下手くそな鼻歌を聞きながら進んでいると、道の先に妙な二人組が現れた。
一人はまだ二十になっていないぐらいの若者で、もう一人はそれより年若い少年である。ひと目で兄弟と分かるような顔つきだったが、深刻な眼差しをこちらに向けている。
酒臭い息を吐き、赤らめ顔をニヤつかせながら影兵衛が口を開いた。
「あぁん? なんだ? 阿呆烏(ポン引きのことである)にしちゃ若ぇが……」
言葉を遮るように、若者がすらりと腰に帯びた刀を抜く。
そして震えの混じった声をこちらに投げかけてきた。
「鳥取藩、元藩士の佐川兵右衛門! おのれに殺された我が父、相原伊助の仇討ちだ!」
「?」
「?」
影兵衛と九郎はお互いに顔を見合わせて、相手は酔ってでもいるのだろうかと理解を拒んだ。
まったく聞き覚えの無い名前が出てきたので、自分らの後ろに他に誰か居るのだろうかと軽く振り向いた程だ。
しかし相手の若者は、ぐっと刀を握る拳に力を込めて、額に汗を浮かべながら決死の覚悟をした顔つきでにじり寄ってきた。
「うぬは忘れたとしても、その凶悪な顔つき、決して忘れぬぞ! 覚悟!」
叫んで、雄叫びと共に刀を振りかぶって突進してきた。
しかし恐怖からか、剣術の腕にそこまで自信が無いからか、動きは素人のようであると九郎から見ても感じられた。
かなり酔った九郎でも容易くその戯言を抜かしている若者を取り押さえる事はできるだろう。
だが……若者が斬りかかったのは影兵衛の方だった。
彼は虫を殺すほどの気合も感じられないように、ひょいと相手に向かって手を伸ばした。
[切り裂き]同心がいとも軽く向けた手には脇差しがいつの間にか抜かれていて、捻りを加えた真剣の突きが若者の心臓へ一直線に向かった。
「──容赦しないな、おい!?」
嫌な予感しかしなかった九郎が咄嗟に投げつけた百文棒銭が、若者の下顎に叩きつけられて瞬間で意識を刈り取る。
後ろに反っくり返り崩れ落ちなければ影兵衛の突きが必殺していただろうが、なんとか位置が逸れて相手の肩に深々と突き刺さる程度で済んだ。
「あ、兄上ッ! おのれっ!」
控えていた弟らしき少年が叫び声を上げて、彼も毒の塗られた小太刀を抜き放った。妖しげな薬売りから買ったキニーネ系の猛毒だ。僅かな切り傷で死に至る。
倒れた相手に脇差しは刺したまま、影兵衛はもう一本の打刀に手を当てる。
気怠さのような殺意を向けながら欠伸混じりに云う。
「ったく、若えのに不憫だが殺すか」
「……いや、誤解を解くとか少しは穏便に行けよ」
「へいへいお優しいことで……じゃ、死なすか」
「変わっておらぬよな?」
九郎はこの謎の仇討ち兄弟の命は風前の灯だと感じた。
[切り裂き]同心に刀を向けた時点で──いや、下手をすれば夜道で出会っただけで生存確率は限りなく低くなる。
死神か何かだろうか……。
ともあれ、ただの辻斬りならば捨て置くのだが、どうも込み入った事情があるようなので九郎から声をかけた。
「おい、お主ら。ええと、鳥取だか島根だか知らぬが、仇討ちの相手を間違っておらぬか?」
「な……なにを」
少年のほうがこちらに怯えた色を含んだ目を向けながら言った。
九郎は催してきたのか、道の脇で立ち小便をしようかどうか悩んでいる様子の影兵衛を指して、
「こやつは江戸の大身旗本、中山家の三男・中山影兵衛と言って、火盗改で同心をしておる男だが……鳥取には行ったことあるまい?」
「鳥取ってあれだろ? なんか砂嵐とか吹き荒れてる地の果て。んな流刑地みてえなしけた場所に行くわきゃねえよな」
影兵衛が応える。鳥取のイメージは砂丘ぐらいしか無いようであった。なにせ梨はあるもののまだ二十世紀梨は鳥取で作られていない。二十世紀梨自体は千葉で生まれたのだが。
砂丘は現代で見られるそれよりも当時はかなり広範囲にあり、砂よけの樹木を植えては枯れるという呪われた大地の如きであったとされている。目印の柱を立てて数里先から噴きつける砂風に目を伏せ、砂で覆い被された道を進まなければならなかった程だ。いや、勿論鳥取藩全域がそんな土地ではないのだが。
(偏見を持ってはいけないな……鳥取は良い所だ。パチンコ屋とか多いし。今の時代は無いが)
何か、影兵衛の偏見をフォローするようなことを九郎は思った。
二人の言葉に少年は目を白黒させて、とりあえず慌てて倒れ伏した兄を起こす。
「あ、兄上、兄上」
「う……ぐ……はっ、信五!? 其れがしはいったい……?」
「いや、速攻で負けたのですけど……あの、相手様が人違いではないかと。江戸の旗本であり鳥取藩など知らぬと……」
「なに!?」
肩に脇差しが刺さったまま、黒々と服を血で滲ませつつ兄のほうが血走った目を影兵衛に向けた。
じろじろと提灯の明かりに照らされている、影兵衛のカタギでは無さそうな顔を確認して、
「あっ……!」
と、声をあげた。
仇の佐川某には頬に目立つ傷があるはずなのだ。
影兵衛にはそれが見えない。
そしてあろうことか、勘違いでまったく他人──しかも旗本に斬りかかったのだと把握した。
旗本と云ってもピンからキリまであるものの、いずれも将軍直参の武士であるという事には変わりない。正確に言えば影兵衛自体は嫡男でなかった為に旗本ではなく、如何なる複雑な人事があったのか、下級役人の御家人同心として実家とは別の禄を食んでいる身分だ。
しかし実家の中山家は三千石の大身旗本であり、いうなれば幕府でも中堅幹部クラスの身分に付くのが普通である。
それを仇討ちの兄が知る由は無いが、そもそも藩から仇討ちの免状を貰った手前、間違った相手を切るなど言語道断である。
夜でも分かるぐらい彼の顔が青白く血の気が失せるのが見えた。多分、物理的にも現在進行形で血が失せているのもあるのだが。
飛び跳ねるように土下座をした。並び、弟の信五と呼ばれた方も倣う。
「申し訳ござりませぬ! 人違いでござった!」
しかし当の謝られた影兵衛は、
「んあ?」
道の脇で立ち小便をしていて気の抜けている返事をした。
そしてふらついた足取りで先ほど殺しかけた兄へ近寄る。
「頭ぁ上げな」
「面目ありませぬ……」
「いーから上げろボケ。拙者の脇差し返せ」
「は……」
と、体を起こさせて刺さったままの脇差しを無造作に引き抜き、袂から出した紙で血を拭って腰に収めた。
九郎はふと場違いなことを思いついて思わず呟いた。
「脇差しなのに……脇じゃなくて肩に刺さるとは。いかんな、晃之介が入ればかなり大爆笑」
「なるほどな。すげえ笑える。ところでよお、兄ちゃん。手前の名前すら拙者ぁ聞いてねえんだけど」
「其れがし、相原道実と申します」
影兵衛は名乗らせて、その場で瓢箪酒を飲みながら道実の話を聞いた。
鳥取藩の目付役であり、道実と信五の父・伊助が斬られたのは一昨年の夏であったという。
目付は内部監察官のようなものであり、江戸の幕府のみならず諸藩にその役があって他の役目からも恐れられる存在であった。目付の監察報告は直接家老や大名に届くこともある。
恐れられると同時に、煙たがられたり、陰口を叩かれる事も多い。物の本には、
[友無く有利は目付けと質屋]
などと云う言葉が残っている程であり、大げさに囃し立ててはいるが、金貸しと同じぐらい嫌われる役目だということだ。それ故に、実直で信頼の云った人物しか目付に選ばれない。
伊助はどちらかと云えば温厚な人柄で、目付という立場ながらも他の役職から相談も多く受けていた程だ。
そんな彼がある日、町奉行所の剣術指南役である佐川兵右衛門が城下町で無礼討ちをしたという報告を受けたが不審に思い、緻密に真の情報を集めさせた。
するとその実態は博打で借りた金のやりとりが原因で殺害したという事が判明し、佐川を訴訟しようと決めたのだが、それを知った佐川が逆上し伊助を斬り殺し脱藩したのである。
初七日を終えたら即刻、息子である道実は仇討ちの許しを家老に申し立てて、また普段の伊助の仕事振りをよく知っている家老達も是非仇を討ち武士の本懐を遂げよと後押しを受け、許状を下賜された。
こうなればもはや仇を討たねば兄弟二人も元の家を継げない。まだ元服前の弟を連れていくことには不安があったが、何年かかるかわからぬ仇討ちである。その間、国元に残しておく事も武士の息子としては出来ないのだ。
二人は佐川のような悪漢じみた性格の男が逃げるならば、京都や大阪か江戸のような賑やかな場所だろうと家老から言葉を受けて探してきたのだという。
それでこの日、たまさか見かけた影兵衛を仇と見間違え、追いかけて夜道で挑んだのだったが……。
相手を間違えたとなると道実や彼の家のみの罪ならぬ、許可をだした藩にも責めがかかるかもしれない。
腹を斬らんばかりに謝り倒すのであったが、そもそも当の影兵衛は襲われたというほどの感覚はなかった。
むしろ、なんかいきなり自分に殺されに来たとしか思えない相手である。
辻斬りならぬ辻斬られとでも云おうか。
この鳥取藩とか云う田舎から来た仇討ちのしょぼい兄弟の命は尻毛の先程も興味も無いが、自分とそっくりの無法者に対しては関心が沸いたようだった。
「ところでよ、その……誰だっけ? 佐川なんたら云う奴ぁ強えのか?」
「は……。その、剣術指南役もやっていただけあって、新陰流を使う鳥取でも指折りの剣術使いでござって……其れがしも真っ当にやっては敵わぬと思い、恥ずかしながら酔ったところを見計らい挑んだのでござる」
「酔っぱらおうが寝っ転がろうが、手前さんの刀が当たる鈍牛は居ねえっつーか。ミチザネなんて物騒な名前なのにどうも気迫が足りねえ。なあ九郎」
「うむ……ちゃんと剣術を習ったのか? お主」
「……面目ござらん。幼少の頃より体を動かすより、書を読む時間を多く取ってしまっていて。それでいざとなるとこの有り様なれば、この身を恥じるばかりでござる」
確かに道実の体つきはお世辞にも鍛えられている様ではなかった。太っているわけでも痩せているわけでもない中肉中背だが、体の動かし方もぎこちない。
一応、仇討ちの旅に出てから欠かすこと無く剣の素振りを続けてはいるが、誰に教わるわけでもなく基礎鍛錬のみでは、斬り合いの心構えが生まれる事もさほど上達する理由も無かったのだ。
話を聞いて、何かいいことを思いついたように影兵衛がその兄弟を拉致して行った。
九郎は十中八九、兄弟は江戸湾に沈められたと思ったのだが、本所にある[芝道場]という場所で二人を寝泊まりさせ、同心や手先らが通うそこで剣術を学ばさせていると後で知り、二三度様子を見に行ったところ練習に励んでいた。
その姿を見た九郎は微笑ましい光景ながらも[鉄砲玉]の育成という印象が抜けなかったのであるが。
****
話は現在に戻り……。
(やはりあの偽兵衛は、相原兄弟が探しておった仇の佐川何某に相違あるまい)
と、先を行く男──佐川の背中を追いながら九郎は考える。
こんな凶悪な非合法めいた顔つきの男が何人もいるとは考えたくない。
もしかしたら目つき悪い谷のチンピラ里とかそういう集落があったらそこの住人はこうなのかもれしないが、その恐るべき想像はすぐに頭から滅却した。
隣を歩く利悟も、あの兄弟の弟が守備範囲内ということで良く世話しようとしては道場仲間にリンチされているのであるが、さすがに兄弟が追いかけている仇の人相までは知らない。
道実も、人違いで斬りかかった上に道場の手配までしてくれた恩人にそっくりの相手とは口が裂けても言えぬ。
さて……。
(なれば、影兵衛にでもあの佐川の居所を伝えてやればよいか)
その為には、少なくとも佐川の宿なり根城なりを調べておかねばならない。
九郎は成り行きで利悟と共に尾行を続けるのであった。
利悟にも伝えておこうかと思ったが、彼は町方同心として盗賊を追っているのであって、仇討ちに堂々と肩入れするのは職務上よろしくないだろうと考え、やめておいた。
暫く大通りを歩き、やがて佐川は新吉原のある上野の辺りへと向かった。色街で女でも買うつもりなのだろうか……。
ただ、吉原に客として入るのは普通、駕籠か舟が原則であるのだが偽兵衛は徒歩で吉原外の女郎部屋が並ぶ通りへ足を運んだ。吉原ほど高級でも無いが、それでも良い女が揃っていて法としてはグレーゾーンにある事で危うげな雰囲気の漂う場所である。
仕事だからついて来てはいるが、利悟の気分は酷く悪くなっていく。
「っ……年増の加齢臭が最悪だな。特に二十を超えた女なんぞ化物と同じだ。くさいし。拙者を馬鹿にするし。そんな女を買うのに金を払う意味がわからん。そもそも女という単語を当てはめるのが気に食わない。下は三歳から上は……多く見積もって十六ぐらいまでしか女と呼ばんでよろしい」
「おい、何をぶつぶつと気色の悪い事を言っておるのだ……いや、ちょっと考えたが三歳は無いだろ、三歳は。園児だぞ。……死ねばいいのに。ああもうそんなことより、あやつが店に入るぞ」
佐川が引き込み女を側に連れて宿に入っていくのを確認した。
ここに今日は泊まるのであれば九郎もさっさと戻って影兵衛に伝えに行くのだが、近頃はちょんの間ご休憩をとってお楽しみする宿も多い。
辺りは女郎部屋ばかりで飲み屋に入り宿を見張るという事も出来ない。
さて、どうしたものかと思ったら何やら二階から黄色い声が上がる。
「あー! ぬし様ー! 空からわっちがー!!」
叫びながら、玉菊が背面跳びのような姿勢で降ってきた。
九郎は冷酷な表情を浮かべて素早い動きで利悟が被っていた円錐方の塗笠を奪い、地面に仕掛けて場所を離れた。
正確な位置に置かれた笠の尖った頂点は落下してきた玉菊の尻に直撃する。
「ぬぐー!?」
「た、玉菊ちゃんの菊が酷いことに!?」
「心配するところはそこか、変態が」
吐き捨てるように九郎は言いながら、したたかに尻を地面に打ち付けて悶えている玉菊を、通りで目立つ前に引き起こした。
「玉菊よ。お主の店は品川ではなかったのかえ?」
「あいたた……うちの御主人が遣り手だからお店の場所が一等上がったのでありんすよう。ぬし様にも教えにいかなきゃと思ってたけど……そっちから来てくれるなんて嬉しやす! にゃーん!」
「なんで猫の鳴き声を……いや別にお主に会いに来たのでは。む、待てよ? この店なのか?」
と、佐川も入った店を指して尋ねると玉菊は嬉しそうに頷いた。頷きながら頭をぐりぐりと寄せてくるので鬱陶しげに顔を鷲掴みにして動きを止める。
「うむ、仕方ない。玉菊を相手にすれば多少は融通が利くだろう。……利悟よ、いくら持っておる?」
「ええと一分と三朱」
「むう……己れが割り勘を多く持つか。どうせ石燕の金だしのう」
石燕の『女や賭博に使ってはいけないよ』という声がふと胸中に蘇った気がしたが、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
まあでも、後で柏餅でも土産に買ってやればいいかと気楽に考えた。
玉菊は九郎が客として入るとなると喜んで彼の手を引き、店へと引っ張る。
「ぬし様も、お兄ちゃんもお店に入りんせ」
「お兄ちゃん?」
「利悟さん、なんかそう呼べって前お店に来た時に」
「……」
「そろそろ九郎からの軽蔑の眼差しも慣れたかな」
涼しい顔で受け流す利悟であった。
玉菊の所属する店は、玉菊のような陰間も入れば普通の女郎も雇っているという拘りが無い店の形態をしている。
綺麗どころが揃っているのでかなり繁盛しているのだが、その中でも美少女の姿に着飾った玉菊は人気の高い花魁である。
九郎のところに遊びに来るときなどは高級ながら簡素な着物を着ているのだが、店での仕事時は豪奢と言ってもいい綺羅びやかな服に袖を通して、匂い立つような色気と童女のような可憐さを兼ね備えた美しい姿をしている。
いくら九郎が不能とはいえ、何も知らなければそのような美しい相手に饗されたら悪い気はしないのであるが、相手の性別と性格がエロ小僧だと知っている為に気乗りは全くしない。
九郎と利悟は部屋を借りて玉菊を指名し、佐川の隣の座敷で壁越しに様子を伺っていた。なお、利悟は玉菊と九郎を連れていた為に複数行為で女装で少年趣味の、
「凄いやつだ……」
と、店の者から思われたりした。
しかし、隣を探るばかりでこちらの部屋の中で何もしていないのも怪しいので健全な座敷遊びなどをしつつ時間を潰す。
玉菊が持った三本の箸を九郎と利悟が引き抜き、箸の先に書かれた番号を確認した。
「はい、殿様だーれだ! またわっちでありんすー!」
「絶対いかさましておるだろ! お主はじゃんけんの時からどうも怪しい!」
「してござんせんよーう!」
殿様遊戯という、参加者の中から無作為に殿様を選んで絶対服従の命令を出させるという……現代には王様ゲームと呼ばれ伝わっている格式ある遊びだ。
勿論女郎側が連続で勝ちまくって相手に要求しまくる遊びではない。負けたら服を脱ぐ拳合わせもだ。しかし玉菊にはまったく容赦というものがなかった。九郎の注意深さをしてもどのようにずるを行っているのか、まったく読めない。
「こやつと勝負しておると魔王城でのつらい記憶が……」
ため息と共に呻く。
あの城の連中、魔王と魔女と侍女の三人とギャンブルなどの勝負を行ったら必ずあからさまなズルで完敗させられていたのだ。
麻雀を囲むと何故か九郎以外に三人が天和したり、ポーカーをすると三人がそれぞれロイヤルストレートフラッシュを揃えたり、ゲームとして可怪しい事になっていた。許せぬ。
ともあれ、殿様になった玉菊は早速命令を出す。なお、健全なものに限るという制約付きだ。
「それでは二番の人、殿様に膝枕をするでありんす!」
「……うん、さっきから思ってたけど、玉菊ちゃん九郎の番号も把握してるよね? 拙者一切触れられてないっていうか、玉菊ちゃんが九郎に命令する遊びになってるよね?」
「あれあれ? お兄ちゃん。殿様はお兄ちゃんの発言を許可したでござんすか? んー?」
「……」
利悟が泣きそうな顔で運ばれてきた酒を手酌で飲んでいる。
ともあれ九郎は殿様玉菊からの命令を、
「仕方ない……」
「っしゃあ!」
「晃之介から一つ貰った、最近柳川藩が一般向けにも売り出し始めたこの『膝茂君』を枕にしていいぞ」
「一般向け!?」
九郎が背負っていた荷物から何故か用意していた膝茂君を玉菊に押し付けた。
西国一の兵、立花宗茂の膝を出来るだけリアルに再現した張型である。投げて良し、射て良し、枕に良しの多能ツールとして武家の奥方から静かなブームが広がっている。なお、立花家専用が『膝茂様』で一般販売用が『膝茂君』の名称だ。
それにしても、
「どうも隣もこう……少なくとも後二刻ぐらいは居座りそうだのう」
「そうだな」
「この間に己れが知らせに行ってくるか。利悟は見張っていてくれ。偽兵衛が出て行くようなら尾行に出る前に玉菊に言付けを」
「あいわかった」
告げて、九郎は立ち上がると名残惜しそうに玉菊は袖を引いた。
「えー、ぬし様もう帰るでありんす?」
「ううむ。そもそも己れは仇討ちにも盗賊捕縛にもあまり関わる理由は無いのだが……まあやることがあるのだ。成り行きで」
「ちぇ。お尺とかしたかったのにー」
「シャクの発音にゅあんすは微妙に違わないか」
べったりと足に張り付いてくる玉菊を引き剥がして、九郎は窓に足をかけた。
表から出るとなると不審に思われるかもしれないからだ。
ひょい、と素早く店の屋根に上り、裏路地の目立たぬところへ降り立つ。そのまま何事もなかったように通りに出てするすると進んでいった。
それを見送って玉菊は残念がりつつため息をついて、
「はあ……仕方ないでありんす。お兄ちゃんの健全なお相手でもしておくでござんす」
「仕方ないって言われても拙者も代金払ってる筈なんだが」
「肩とか腰とか揉んであげるでござんすから……」
玉菊は座ったまま、利悟に向けて足を向けつつ仰ぎ見下ろすような目線で、妖美な色を瞳に写して告げる。
「さ、足で揉んであげるから寝転がりんせ」
「くっ……」
屈辱的な感情が芽生えながらも、責め系エロ少年の足の前に屈する利悟であった。結構嬉しそうだ。
断定的なまでに健全である。
****
さて……。
九郎が[知らせ]と言って宿を出たのは、当然利悟は町奉行所へ知らせてくれるものだとばかりに思っていたが、実際のところは影兵衛へ知らせに行くためであった。
火盗改の役宅に来ると、そろそろ門番も九郎の顔を覚えていた。どうやらここでは、影兵衛の手先だと思われているようである。
市中見廻りの同心らはその手先や密偵として町人を雇うこともあるのだが、その分の給金はただでさえ少ない己の棒給から払わなければならない。その為に、ほぼ無給で本来別の仕事をやりつつ手先となる者が多い。
影兵衛の場合は複数の宿や店舗、旗本屋敷などに繋がりがあり、みかじめ料のような形で寄付を貰っている為に金回りが良い。本当に合法的な収入なのか、九郎は怪しむほどである。
ともあれ、影兵衛の手先になったつもりはないが、話を通しやすくするために否定はせず役宅に居る影兵衛を呼んでもらった。
「いよぅ。そっちから訪ねてくるなんて珍しいじゃねえの?」
「うむ。いや、な。ほれ前にお主を仇討ちの相手と間違えた兄弟がおったであろう」
「相原兄弟な。それがどうしたのかよ」
「粗奴らが追いかけていた、お主にくりそつな盗賊一味の者を見つけたから教えに来たのだ」
云うと、影兵衛はにんまりと悪い顔で嗤って、
「ほーう……そいつぁ御機嫌だ」
と言った。
「拙者ぁこれから丁度見回りだからよ、ちょっと待ってな」
一旦戻って出かける旨を告げてきた影兵衛と九郎は役宅を後にした。
まず、二人は大川を渡り清澄にある[芝道場]へと向かった。
そこに仇を追う相原兄弟が日々修行をしながら寝泊まりしているのである。
始めた頃はそれこそ、近所の年が一回り下の子供にも勝てなかった兄の道実であったが、必死に二ヶ月程鍛錬をしてどうにかこうにか、見れなくはない程度の剣の振りになってきたのはやはり仇を追う身である心持ちと、若さがものをいうのであろう。
当時江戸では、
[ 一、富士。 ニ、鷹。 三、仇討ち]
と、並ぶように縁起が良い、或いは好まれるものの一つに上げられる程、武士から見ても町人からしても、
「立派な……」
ことだと思われていたぐらいなので、相原兄弟は大いに歓迎され道場で厳しくも大事に鍛えられたという。
しかしそれにしても、どうもそのような理由でこの惨殺同心が同情なりして面倒を見てやるとは思えないので九郎は道すがら問いただしたのだが、
「いや何、その佐川だか偽兵衛だかなんだか云う仇がよ? 拙者と同じ顔で調子こいてると思うと殺意度数万端って感じじゃん?
すぐさま拙者が斬り殺すのもいいんだが、腹の虫が収まらねえ。
そこで、だ。あのションベンみてぇなガキの剣にぶっ殺される屈辱でも与えてやろうかと、たまにゃそう思ったのよ」
「こやつめ」
趣味がいいのか悪いのか。
今ひとつ判断が付かなかったが、少なくともあの相原兄弟には悪い話では無いので良いことなのだと納得することにした。
そうして[芝道場]に着くと、道場を預かる笹田孫六という初老の主に話を通す。見た目こそひょろりとした男だが、小野派一刀流の名人で人柄も良い尊敬される人物である。
仇が見つかったことを伝えると、驚いたものの喜びつつ相原兄弟を呼んだ。
そして、
「いいかい、実戦では力まず、怯えず、先に当てることを考えて戦いなさい。大丈夫、ここでしごかれた中で、利悟や中山殿に比べて強い相手などそういやしないから」
「はい」
「そして、信五。お前はもし道実がやられたのなら帰ってきなさい。仇討ち許状は二人に出されているのだから、その時は信五が鍛えて兄と父の仇を討てるようにならねばならん」
と云う孫六に、
「はい。兄上がやられたら、そっこで一時撤退します」
「時々薄情というか卑怯なお前を兄は心配するでござるが」
「お気になさらず。兄上、負けないでくださいね」
励ますような弟の言葉に、微妙な表情を浮かべつつ、兄弟を連れた二人は岡場所へ向かうのであった。
その頃には江戸の空も深く昏い青色に沈んでいく時間だった。
すっかり、日が落ちるのが早くなってきている。
****
丁度、四人が佐川の居る宿についた時である。
一勝負終えたのか、店から出て行く佐川を道の端に寄ってやり過ごした。
深く被った編笠の目からそいつの顔を見て、ぽつりと影兵衛が漏らす。
「あんな悪党面か? 拙者ぁ」
「うむ」
「はい」
「ええ」
「……髭でも剃るか。前々から煩く言われてるしよぅ」
顎を撫でながら云う。
火盗改の同心らの間では、影兵衛がその日適当に抜いた本数分の人間を殺すという獄長系の噂が囁かれているために、顎が綺麗になった彼をみたら大事件扱いされるかもしれないが。
それにしても、と九郎は二階を見上げながら云う。
「利悟は隣の部屋に居たはずなのにどうしたのだ。お楽しみ中だったらあれだが……様子を見てくる」
さながら天狗のように九郎は壁を蹴って二階に飛び上がる。
暗くなれば上を見上げる者も少ない。岡場所が他よりも夜間明るいとはいえ、現代に比べれば充分薄暗いのだ。
そのまま玉菊と利悟を残していたはずの部屋に窓から入る。
部屋の中では、息荒くうつ伏せになった利悟が嗜虐的な笑みを浮かべた玉菊に椅子にされているという特殊なプレイを行っている最中であった。
見なかったことにしたかったが、我慢した。
「おいこら利悟よ、隣の客はもう外に出たぞ」
「うううう……立ち上がれ、立ち上がるんだ拙者。いや、ある意味もう立ち上がってるんだけど」
「……早く起きねば大岡越前に告げ口をするぞ」
「やべえ二つに裂かれちゃう! 名残惜しいけどここまでぁー!」
「にゃー!」
がばりと起きた利悟の頭から玉菊が転げ落ちて、猫のような鳴き声をあげた。
転がったまま九郎を見上げて、
「またおこしんせ、ぬし様~」
「来んと思うが、またな。ほれ、行くぞ利悟」
「あ、ああ……しかし、今月の生活費が見事に消えた」
「知らん」
懐が寂しいを通り越し絶滅した利悟は、僅かな時間の満足感と共に今後の見通しの悪さに薄ら悲しくなるのであった。
店を出て、佐川を追跡する一行に加わる。
利悟は不思議そうに、
「あ、あれ? 町方の皆は? なんで影兵衛さん達がここに?」
「おう、話を差っ引くとだな、今からあの野郎をぶっ殺そうと思ってよ」
「その時──拙者は『あ、尾行して盗人宿を探すの失敗したわこれ』と確信した──」
何故かモノローグ風に云う利悟に道実が、
「すみませぬ利悟殿。あの男は我ら兄弟が追っていた父の仇なのでござる。奉行所に捕まえられ、一太刀も浴びせぬまま獄門にでもなられたら二度と仇は打てぬ身となってしまう。どうか、お目こぼしを……」
「うっ……しかしなあ」
「兄上は説得が下手で。こうやるんですよ」
弟の信五は袂から冊子を取り出して隠すように利悟に手渡した。
「稚児系の春画本です。お納めください」
「ぬう……よっしゃ」
「性癖を知られすぎておる……」
素直に買収される利悟に苦々しげな視線を送る九郎であった。
ともあれ一行は追いかけて巣鴨村の辺りに来たであろうか。殆ど明かりもないが、月明かりが眩い為に足元ぐらいは見え、先を行く佐川の提灯を見落とすこともなかった。
この近辺に盗賊一味の根城があるのだろうか……。
「この辺りで怪しい所といえば……前に盗賊が使ってた廃寺があったな」
「ほう」
「影兵衛さんが中の盗賊を殺しまくったから血の臭いが取れずに、土地の者からは呪われた廃屋扱いされてた場所だけど」
「気軽に殺しすぎであろう……」
「んじゃ、盗賊どもの居場所も見当が付いたことだしよ、そろそろ襲うか」
「あれだな、人数差的にこっちが悪者のようだな」
相談しあって、佐川との距離を詰めた。
そして道実が中心に立ち、刀を抜いたまま前を行く相手へ声をかける。
「待てい!」
「あん?」
やはり見た目の通り治安の悪そうな声が返ってきた。
腰に帯びた刀に手を当てて、鷹揚な態度でゆっくり偽兵衛は振り向く。
「元鳥取藩城下奉行所付、剣術指南役であった佐川兵右衛門でござるな?」
「誰だぁ? 確かに身共は佐川だが」
「間違いないでござるな! 後から人違いとか云うなよ!?」
「なんでそんなに必死なんだ貴様」
念入りに確認してくる道実に訝しがりながらも、提灯を地面に置いて警戒の色を見せる。
「おのれに殺された父、目付役の相原伊助の仇討ちに参った! 勝負だ!」
「相原……ああ、あの凧の骨みてぇな爺か。つうことは貴様、わざわざ鳥取くんだりから返り討ちに来たのかよ。馬鹿が」
そう告げてゆるりと刀を抜こうとしたがそれよりも先に道実が、
「──鋭ッ!!」
掛け声を上げて切り込んでいった。
間合いだとか、構えだとか深く考えるよりはいまだに剣術の基礎を習っただけの場合ならば、勢いをつけて正しい剣筋で相手より早く切ったほうが有利だと教えられたのだ。
すでに抜刀していた道実から一手遅れていた佐川は、
「うぬっ!」
と、声を上げて、三分の一ほど抜いた刀身で袈裟懸けに振られた道実の刀を受け止める。
この機を逃さぬとばかりに気合の声を上げて押しこむのだが、佐川はにやりと嘲笑った。
受け止めていた刀を下げてがら空きになった道実の腹を横一文字に割り切る。
肉に冷たい鉄が侵入する感触を感じながらも、道実は刀をおもいっきり相手の胸元で引くように刃を滑らせた。
(殺った……!)
口元に熱い血が登ってくる感覚がある。
ずるりと断ち割られた腹からびたびた音を立てて血が流れていくようであった。
相打ちになったとしても、弟が生きていれば家は守られる。まともにやっても勝てぬ相手ならば、腹を切られようが腕を落とされようが、意地でも一太刀浴びせようとしたが、成功したようだ。
これで父の無念も晴らされる。
蹴り飛ばされ仰向けに倒れながらも道実は安心していた。
月を背後に顔が見える。憎き佐川ではなく、傷のない顔の影兵衛だ。
ごぼ、と肺から息と共に大事な何かが漏れだす感触を覚えたが、なんとか言葉を出す。
「先生……」
「おうさ」
「や、やりました……」
「そうだな」
「……」
「死んだか」
短いやり取りをして、道実は死んでいった。
影兵衛は特に感慨の無い顔をして、味噌っ滓でも見るように道実と対峙していた相手を見やり、言った。
「んで、手前はなんで倒れてねえの?」
佐川は立ったまま、刀を手に侮った笑みでこちらを見ている。
着流しの胸元は裂けているが、血がにじむ様子はなかった。
「身共はこれでも慎重でな。鍛錬の効果もあるために普段から鎖帷子を服に縫いこんであるんだ」
着物の下に金属質の光が見える。
細い鉄を束ねて作った鎖帷子は殴られたり、突かれたりすることに対する耐性はあまりないが、引き切るという刀の動きに対しては非常に強い。
決死で挑んだ道実の一撃は帷子に受け止められていたのだ。それを知って、敢えて攻撃を受け止めて相手の腹を掻っ捌いたのであった。
どうでも良さそうに影兵衛は耳をほじりながら云う。
「いや、お前さん死んでるよ」
「何を馬鹿な事を言ってやがる。次は貴様か?」
「こいつが殺した」
影兵衛は死体となった道実を指して続ける。
意味のわからぬ虚言に嗤ってでもやろうかと佐川が思った次の時である。
「こんな風にな」
佐川が聞いたのは鍔鳴りの音だけであった。
風切り音も無ければ閃いた白刃も見えなかったのである。
ただ、体に寒気と口に苦いものが走った。
いつの間にか、目の前の男が刀を振るえば当たる距離に詰めている事実を認めたくなかった。
「う……う……」
「鈍牛め。お亡くなりになるのも遅かったか」
道実が振るい、鎖帷子に阻まれた剣の筋とまったく同じ所が断たれ、血を吹き出す。
それ以上言葉を喋ることも無く、佐川は死に倒れ伏した。
見ていた九郎にも、剣の達人の利悟にも見きれなかった影兵衛の恐るべき絶命奥義である。防御も回避も出来ぬ即死攻撃を先制で打ち込むという、身も蓋もない技ではあるのだが。
影兵衛は大きな体を竦めるようにして、
「あーあ、つまんねえの。見掛け倒しの雑魚で遊び甲斐がねえっつーかよう。
ま、いいか。信五よう、手前の兄ちゃんは相打ちだったがうめえこと仇を取ったぜ?」
「はい。見事でした」
「後でこいつらの死体は藩邸に運ばせて、立会もしたって証言すっから安心しとけ。しかしあれだな、このままじゃ収まりが付かねえな……よし!」
影兵衛はいい笑顔で振り向いて云う。
「利悟に九郎! これからちょっくら盗賊どもの根城行って皆殺しにしようぜ!」
「いやカラオケ行こうぜみたいなテンションで言われても」
「町方は捕縛が原則で」
気晴らしとばかりに勢い込んだ影兵衛に冷静な言葉を返すのだが、血の滾ったこの男は聞いていない。
刀片手に新手の刺客の如く影兵衛は夜道を走りだした。
「よし! それじゃあ競争だひゃはははは!!」
「やばい」
「まじやばい」
慌ててそれを止める為に追いかける二人であった。
信五は兄の死体の側にしゃがみ、小さく呟く。
「兄上──」
満足そうな死に顔をした兄と、心の中で影兵衛に礼を告げてしばし佇んでいた。
その後、影兵衛の手先から連絡を受けた火盗改が駆けつけて、首領を含み到着時生き残っていた盗賊らを残らず捕縛することに成功したのだった。
仇討ちの顛末も鳥取藩の上屋敷に伝えられ、片方は相打ちになったものの成し遂げたということで相原信五は国元で家禄を継ぐことになる。
盗賊の根城に討ち入って多数を殺傷した影兵衛の自己弁護と偽証は巧みであったが、手柄を立てたとはいえやり過ぎな為にひと月の謹慎を申し付けられた。だが、どうせまたぶらぶらと休みの間に遊びに出かけるだろう。
九郎は買い物をしてこなかった上に夜遅くになったので怒られた。機嫌を直させる為に『膝茂君』を渡したが、キレたお房にへし折られた。
なお、利悟は間抜けにも火盗改に手柄を奪われたということで大層同僚から叱られることとなったという。
****
「これにて一件落着……」
秋の高い空を見上げれば何もかも煩雑な問題は吸い込まれていきそうだった。
九郎は茶を飲みながら縁側でごろりと横になり昼寝をしようとする。
「落着してないよっ」
だが、無慈悲にも両脇に手を入れられて起こされ、子興から引っ張られて布団に団子みたいに丸まった石燕の前に連れて来られた。
「九郎っちが師匠に貰ったお小遣いを使って岡場所で遊んでるってんで拗ねちゃったんだからどうにかしてよっ! ヒモなんでしょ!」
「ぬう……ヒモではないが……ヒモではない……」
「別に私は拗ねてないもん」
「ほらぁ! 『もん』とか言ってるよいい年して──ふべっ」
布団から文鎮が飛んできて子興の鼻っ柱に当たった。
九郎は癇癪を起こされぬように優しく声をかける。
「そう怒るな石燕。使ったのはだな、公儀の仕事を手伝う為であってやましい事は一切していない」
「知ってるさ。九郎君の体の匂いで判別は付く」
「……それはそれで怖いが。と、とにかく今度紅葉狩りでもいかぬか。酒と煮しめでも持ってな」
「松茸も」
「うむ、うむ。松茸もな。ほら布団にこもっているとせっかくの秋晴れなのに黴が生えるぞ」
元気の無い石燕を布団から引っ張りだして、とりあえず、涼しげな風とからりとした日が差し込む縁側で二人ごろごろし始める。
子興は苦笑して、
「九郎っちが絡めばすぐに機嫌を治すんだから」
と言い、二人分の茶菓子を用意するのであった。




