挿話『新しくて懐かしい世界の音』
玉菊は黄泉の如き底の知れぬ不気味さを背負っている……。
相対する九郎はじわりと汗を流し、厭な気配を玉菊の微笑みからそう感じた。
それにしてもなんという禍々しい笑みだろうか……。
見ていると時間間隔すら狂いそうだ。日が出ているのか月が出ているのか、玉菊と向かい合ってどれほど経過したのかもはやわからぬ。
白粉の匂いがわずかに浮き立つ。
九郎は己の感覚が全て閉ざされていく錯覚にすら襲われた。
(くううっ……異世界で為らした己れの糞度胸は、今まで矢弾飛び交う戦場でも、火吼える竜の前でも引けはとらなかったではないか……!)
研ぎ澄まされた動体視力は恐怖を抑え、冷静に視界に捉えることで飛来する矢すら剣で打ち払える程だったはずだ。もはや、元現代人としては常人離れした実力ですらある。
それでも、彼は今まさに向かい合い、勝負を行っている玉菊の着物の袖に隠した手への不安が拭えないのである。
(こ、この己れが拳を抜き合わす事すらできないでいる……!)
す、と玉菊の袖口が揺れたような気がした。
九郎は目を凝らしながら相手の動向を探りつつ、ぐっと拳を握りこんだ。
(もはや……!)
と、決意をしようとした瞬間に再び玉菊の手元が幻惑せんばかりに動きを止めて、タイミングをずらされる。
既に三度、攻めに出ようとするがその度に異様な気に圧されて拳を出せずにいた。
奴の隠された袖が恐るべき闇に思える。
(い……いかん。先に手を出せば動きを読まれ、やられる気がする……!)
心の惑いはどうしようもなくなってしまっている。
疲弊し時間や空間の感覚も無く、ただ目の前に居る華奢な陰間に完全に圧倒されているのだ。
目も眩み今すぐ倒れ伏してしまいたいと心の何処かが叫んでいる。
気力も闘志も萎え全て投げ出してしまいたい。
が……その時。
玉菊の姦邪な笑みが深くなった瞬間、隠されていた手が動いた……!
対応するために指先すら覚束なくなった九郎も拳を突き出す──
「──夜宵の宵!」
二人の拳はそれぞれ決められた形で勝負に出た。
九郎は手を開きパーの形。玉菊はチョキである。
敗けた……。
「ぬううう…‥…!」
「わぁいまたわっちの勝ちでありんすー!」
くるくると嬉しそうに回る玉菊を前に、九郎は敗北感に膝をついた。
九郎は上半身裸で、腰に元々の持ち物だった化繊のトランクスを履いているだけである。近くの床には着流しと肌着が畳まれて置かれている。
玉菊が上がりきった精神テンションで手を鳴らしながら嬌声をあげる。
「はい脱ーげ! 脱ーげ! あと一枚! あと一枚!」
「こやつめ……!」
野球拳であった。
いや、江戸時代での言葉で言うならば座敷遊びの一つ[拳遊び]だろうか。エロい意味ではない。今で言うじゃんけんとそう変わりがない、遊郭でのメジャーなプレイである。負けたら服を脱ぐのは特殊規則であったが。
九郎は既に四度連続で負けた。負けるべくして負けた。玉菊の使う恐るべき拳遊び技『雲龍拳』の前には所詮アマチュアである九郎は相手にならなかったようだ。雲龍とはすなわち、雲に隠れ襲い来る龍の如き恐ろしさを表したものだ。
史実でも花魁の玉菊はなんか異様に拳遊びが得意だったと伝えられている……
九郎の着た布の枚数からすると、一度目は帯。二度目は着流し。三度目は上の肌着……そして、最後の砦である下着を捧げなくてはならない。
それがルールだ。
予め、決められた約束事である。
誰が決めたかというとまあ玉菊である。
「ぐへへへぬし様、よいではありんすか! よいではありんすか!」
「引っ張るな! 無効だ! 己れはまだじゃんけん十三奥義を使っていない!」
よだれを垂らしながら下着に掴みかかる玉菊はどうも、
「気長に……気長に、な……」
などと呟き正気ではない目をしていて説得の余地が無さそうだった。
九郎は咄嗟に影兵衛の隠れ家である盗人宿の一つを前に案内された事を思い出した。あそこならば、死体を放り込んでも表沙汰になれないので闇に葬ってくれるかもしれない。
玉菊を始末しようかと考えるぐらいピンチであった。このままでは玉菊に一本饂飩(隠語)されてしまう。
手遊びに負けたせいか不思議と抵抗の力が篭もらない。これも奴の能力か……! と九郎は決意を固めようとした時にである。
(……?)
いや、待て。そう思った。
なぜ己れが玉菊と座敷遊びをしておるのだ。
いつから、どこで……?
「は、これはまやかしの妖術ではないか……!」
九郎は己の発言とともに周囲の風景は掻き消え、朧気な認識しか出来ない空間に取り残される。
髪の毛をぼりぼりと掻いて、眠たげな眼差しで把握する。
「というか……夢であるな。布団に入った記憶はある」
夢だから特に躊躇いもなく独り言が呟く。
明晰夢である。
ふと、頭を掻いた手を見ると節刳れて骨張った己の指があった。
(む……?)
と、思い前髪を垂らすとすっかり白髪に染まっている、水気の少ない細い髪だ。
夢なので視覚でものを見ているわけではない。
九郎はなんとなく感覚的に己が懐かしい老人の姿になっている事を自覚した。
深い皺と曲がった腰、老眼鏡をかけて怠そうにしている爺だ。確か、魔法学校の用務員を退職して数年が経過したぐらいだったろうか。年は七十前後だったが異世界での生活からか老化は早く、白髪や体のがたも一気に到来した頃である。
「うっ……そう自覚すると持病の関節痛が……! いたた、夢の中だというのに……今度の老後は食生活に気をつけんとなあ」
最後に住んでいた異世界の市内で受けた定期健診では、尿酸値が高くてげんなりとした事が過去だというのに妙にはっきり思い出された。
若い頃に無茶な傭兵稼業や元の世界へ帰る方法を探す旅に出た身体への後遺症も残っているだろうか。時折酷く体が痛んだ。
腰骨か何処かには骨折時に付けられた固定用の金属ボルトも入ったままだったと思う。なんか恐ろしくて老後も骨だけは頑丈になるように牛乳と煮干しは齧っていた。若返った時に消えたはずだったのだが……
最近の江戸での暮らしのように暴飲暴食をするのはせめて若い時だけにしておこうと考える。病気にかかったら治す事が出来ないかもしれない。
ともかく……。
明晰夢だが、特に何がしたいわけではない。むしろ考えに耽れば再び玉菊が襲来してくるやもしれぬ。
さっさと目覚める為、九郎は夢の中でまた眠るように、
「よっこら」
と言いながら寝転がった。自分でも爺臭いと思う。こんな己を強制的に若返らせて旅に連れ出した魔女のイリシアは鬼だ。
魔法学校で落ちこぼれであった魔女が校舎裏で魔法の練習をしているのを見かねて声をかけたのが付き合いの始まりだったか……。
あくびを一つ。
九郎が目を閉じて元の体の覚醒を待っていると、がちゃり、とドアノブを捻る音がした。
「おーい、くーちゃん。我が遊びに来た……よ……?」
虚空より出現したドアから身を乗り出した虹色に輪転する髪色をした少女は、ごろりと寝ている老人を見て言葉尻を窄ませ、そろそろとドアを閉める。
「うー……間違えました……かな……?」
「む? おお、魔王ではないか」
九郎がゆっくりと目を開けると皺枯れた声で来訪者を呼んだ。
彼女の出ていこうとする動きが止まる。
「夢にまで魔王を見るとは……南無阿弥陀仏。成仏しておけよ」
「我は仏教徒じゃないよ。っていうかくーちゃんだよね? 爺ちゃんの姿だけど……ああ、魔女のいーちゃんに若返りと不老の魔術をかけられたんだったね。精神世界だから元の体をとっているのか」
納得した彼女は謎の扉から九郎の夢へと侵入してきた。
足まで届く長い虹髪に、そばかすを隠すように野暮ったい眼鏡をつけた全身ローブの少女である。
失った片手の代わりにロケットパンチが付いている以外は魔王らしい威厳がまったく見当たらない。逆に言えばロケットパンチが精一杯の魔王成分である。つまりは、魔王の本体なのかもしれない。九郎は一度もそれが敵に向かって放たれたことを見たことはなかったが。
種族・召喚士で属性は『異界物質』。第一級殺神罪と大量破壊兵器不法所持禁止条約違反により国際指名手配を受けて『魔王』と呼ばれるようになったのが、彼女だ。
久しぶりに見る魔王の不健康そうな笑みを見ながら胡乱げに九郎は言う。
「夢に死人が出てきたら墓参りに行った方がいいらしいが……」
「残念な事に我は死んでないので不要な心配だよっ」
「そうか……なんか残念だ」
「なんで!? 友達でしょっ!?」
騒ぐ魔王を寝そべったまま見上げて九郎はため息を付いた。
魔王が髪と同じく、虹色の輝きを持つ瞳を向けつつ断定した口調で、
「どして夢に我が出てきたのか、とか考えてる?」
「ううむ。前も何か夢で会った気もするがな……む? 少し太ったか? ハンバーガーとコーラの食い過ぎであろう」
「女の子に失敬なぁ! ええいともかく、今回はこれを使ったんだっ!」
彼女はローブのヘソの辺りにつけている半球形のポケットから冊子を取り出して掲げながら高らかに言う。
「『あらかじめ夢日記』~! この日記にあらかじめ内容を書いておくとその通りの夢が見られて、他の人の夢にも入れるって道具だよ。これに『九郎と夢を共有して雑談する』って書いておいたのさっ!」
「はあ」
「テンション低いなあ……」
「いや……老人の体になると血圧の関係かしんどくてなあ……やっぱり精神が身体に引っ張られるものなのだろうよ」
しみじみと言う。
子供の体でならば野球拳でもなんでもできる気分だが、どうも年を取るといけない。いや、これが正常なのだから或いはいいのかもしれないが。
どちらにせよ、旧友に会いに夢を伝って九郎の精神世界へ来た魔王は意気を挫かれるのであった。
「まったく、くーちゃんと来たら……我が気まぐれで遊びに来てあげたのに」
「すまんのう」
「というか! 聞きたいこととかあるんじゃないの? 今ならなんでも答えてあげるよ!」
「おお」
九郎はわずかに顔を綻ばせて、
「実は、江戸だと卵と油と米酢はあるのだが……マヨネーズってどうやって作るのだったか」
「えっ? ちょっと待ってええとウィキペドるから……
卵黄1個に対し、酢を大さじ1程度、水小さじ1、塩、胡椒を少々。
好みによりマスタード大さじ1。
それをボウルにいれ十分にまぜあわす。
卵黄1個に対し300cc程度までの食用油を少しずつ加えながら、好みのマヨネーズの食感にまで攪拌する。途中分離しそうになったら酢やワインビネガーを足すこと。
料理に合う塩と胡椒を加え完成させる。
──って違うよ!
死んだはずじゃあなかったのかとか聞こうよ!『残念だったなあ、トリックだよ!』って返す準備してたのに! こんな時しか使えないのに!」
律儀に夢のなかに持ち込んだ魔法端末で検索した後に悔しそうに地団駄を踏んだ。もともと世界観測用の神鏡だったのを天界から強奪し、魔女と二人がかりで改造して作ったそれは超越違法則電波の送受信が可能で三千世界中どこでもネットに繋げる機構になってる。たとえ夢の世界でも。魔王が一番気に入ってるのは値段(無料)だが。
彼女はひとしきり騒いだ後大きく肩を落としてうなだれた。
「はぁ~……まあいいか。どうせ気まぐれにくーちゃんの顔見に来ただけだし。ふんだ。どーせくーちゃんは我のことなんて興味無いみたいだから!」
「そう拗ねるな。……そうだの、お主──よくあの皆殺し三人衆から生きて逃げれたなあ。アレか。お主の切り札、亜神搭載型兵器が頑張ったか。創世の力で超速再生するから破壊不能とか言ってた機動戦士」
自信満々に魔王が説明していた機械巨兵を思い出す。
彼女が大部分の力を失う前は軽々しくそういった物騒極まりない兵器を手駒としていたが、その残りで最も高性能だったものである。前は玉石混交にもっと大量の機械兵が魔王城の地上部を守っていたのだが、バイオレンスな討伐隊に全滅させられるのを九郎は目撃している。
魔王が自嘲気味に笑い首を振って、
「いや、あれは神殺しの魔鳥に一瞬で壊された……いーちゃんのおかげだよ。我もくーちゃんも逃げれたのは」
「ほう……」
魔王は邪悪に顔を歪ませて腹を抱え小さく思い出し笑いをした。
「君を日本に送った後、破れかぶれで彼女が『狂世界の魔剣』を凌駕駆動させて……くくく、周辺平行世界と高次元低次元まで合わせて消滅しかけた時はどうなることかと思ったけれど」
「グッバイ己れの半生を過ごした異世界……永遠に」
「大丈夫。一応完全消滅する前にいーちゃんがあいつらのヤバイ級反撃で力尽きて世界は再構築されたから。正義側補正ってズルいよね。まあちょっと壊れた影響で世界軸が歪んだけど。そのおかげで我は世界の認識概念にロックをかけて死んだ事にできた。
あの世界では極悪魔王は退治され、唯一栄光を受け取った戦士が魔王城跡に新たな国を築いている。もう一人の召喚士は名誉なんて嫌いだしね。吸血鬼の爺は再生まで99年かかる……まあそれはどうでもいいや」
殺神罪で天界からも滅殺啓示が出ていた魔王を倒した勇者には、超栄光特典という神の祝福が与えられる。戦士はそれを使って王になったようである。魔女と魔王の力の影響で異次元ダンジョンと化した地下を封印するように地上では街が作られていくのであった。
もはや元の住処に未練は無いようで、魔王は九郎の夢に入ってきた扉の側に立ちながら九郎に言う。
「我がくーちゃんに伝えたかったのは魔女の魂の事だ」
「あやつの?」
魔王は頷く。
「魔女は何代か前、遥か昔に魔神を殺した呪いでその体と魂をあの世界で転生し続けていた。だけれども、世界崩壊級にやり過ぎて神々から目をつけられたんだね。あのままだといーちゃんの魂は消滅させられる事になるから、我はせめてもの義理で君の世界に転生させるように送り込んだんだよ」
「……なんだって? 魔女が日本にか? なぜそれを己れに?」
「君はそっちの世界で彼女の魂の転生体を見つけなくてはいけない。じゃないと、君の体に刻まれた不老の魔術が消えないよ?」
いつの間にか、九郎の体は実体である少年形へと変化している。
中学生ほどの発展途上の肉体だ。背も低く顔つきも幼さが残っている。魔女が若返らせた時、当時の彼女と同年代に九郎を戻したのである。
魔女が死ねば不老も解けると思っていた。
だが、この成長期で止められていたはずの体は江戸に来てから半年程の間に背は伸びていない。魔女の付与魔法は術符と同じく、破壊するか魔女が解き放つかしなければ効果を発揮し続けるのだ。
魔法があり長命・不死種族なども居る異世界と違い、こちらの日常世界に不老で居続けるのは異常である。ナチスとかムーとかに拉致されて解剖を受ける図を九郎は想像する。
苦々しい顔をした九郎に魔王はにやにやとした笑みを見せた。
「魔女の魂は一応人間に転生する事になっているけれど、それが男か女か、もう生まれているのかこれから生まれるのか、既に君と知り合いなのか今後出会うのか……それはわからない。体はこっちの世界でレイズ物質化して消滅したから、そちらの輪廻に乗ったから魂には記憶も魔力もほぼ継承されないしね」
「どう探せと云うのだ」
魔王はドアを開けながら告げてくる。
「『金枝篇』で解説されている『共感の法則』は覚えているだろう?」
「……確か、繋がりがある相手同士は何らかの相互干渉を持つようになる、だったか」
魔王から渡された文庫本の魔術解説書を思い出して応えると、魔王も頷いた。
「そう。だからいーちゃんの転生体は君との間に発生する運命力が干渉して出会えると思うよ。頑張って探して……なんとかして魂に残された記憶を取り戻させれば解呪ぐらいはしてもらえるはず。がんばれくーちゃん!」
「なんとかって……はずって……」
九郎は軽い頭痛を覚える。
記憶のない魔女の生まれ変わり──それが本当に居たとして、だ──に出会ったからといってなんと言って魔法の解呪を頼めばいいのだろうか。
前世で共に戦った魔女と使い魔であるという話題の切り込み方では痛すぎることは分かる。
不老である事は困るが……果たして宛ての無い相手を見つけ、更に前世の記憶を呼び戻さなければならないとなると九郎はほとほとに困ってしまう。
そもそも、と思い出ていこうとする魔王に声を届かせる。
「なぜお主は今更、それを告げに来たのだ?」
「うーん……一番の理由は気まぐれ。なんとなく昨日思いついて『あらかじめ夢日記』を使ってみた」
「むう。召喚士はどいつも気分屋だの」
呆れた様子で九郎が肩をすくませる。
魔王と呼ばれる異物召喚士である彼女とは暫く魔王城で暮らしを共にしていたが、基本的に我儘で自分勝手な性格だからよくメイドに物理的に粛清させられていた。
他にも何人か知り合った事のある召喚士は居るが、一番酷く感情的な奴になると茶菓子を食われたというだけで魔王を殺しに来た程である。恐らくワニと同等の脳構造になっているのだろうと結論づけた。
ついでのように魔王はそっぽを向きながら云う。
「後は──いーちゃんとは友達だったからね。あの子は本当にくーちゃんが好きだったからさ。居なくなった後に世界を滅ぼすぐらい。だけどそれをこらえて君を元の世界に戻すことを選んだ友人の魂に対するサービス……かな」
「……」
「くっくっく」
喉を鳴らすように笑う。
「それじゃあバイバイ、くーちゃん。そっちで元気で」
「会おうと思えば、また会えるであろう」
「……気が乗ったらね──あ、最後にいーちゃんの魂を探すアドバイス」
空間に開いたドアから半身だけこちらを向いて、魔王は指を立てた。
「一番怪しいフラグを立てている人物以外が魔女だ。だけれどもそれは大きなミスディレクション」
「むう……?」
「彼女の約束を忘れないでね──じゃっ!」
魔王は夢の扉を閉じる。虚空に現れていた扉は下から薄れて消えて行った。
九郎は軽く手を振る。
木っ端微塵に殺害されて埋められでもしたと思っていた魔王であったが、引き籠りつつ結構気楽にやっているようだ。それを思うと、九郎はため息混じりに小さく笑った。
我儘な魔王に性悪の魔女、冷酷な侍女と自分の四人で暇しながら過ごした日々は、結構思い返してみると楽しかったのかもしれない。
九郎を振っていた手を止めて、目の前に翳したままぽつりと呟いた。
「そうだな、あの世界でただ一人、家族だったからな──イリシア」
転生を繰り返すため忌み嫌われていた小さな魔女に、なんとなく伸ばした手から繋がった縁であったが……。
あの日魔女と出会い、その時交わした約束はなんだったか……大事なことだった気がするが、思い出すことも出来ない。
どっと、夢の中だというのに眠気に襲われて九郎は目を閉じた。
****
「──郎! 九郎! いつまで寝てるの!」
「おや……」
九郎は自分の手を握ってぐいぐいと引っ張るお房の声で目覚めた。
脱力した彼の体を無理やりお房は起こし上げて、窓を指さし怒鳴るように云う。
「もうお天道様がこんなに高くなってるのにいつまでもぐうたら! 『石屋』だか『医者』だか知らないけど早く起きるの!」
「眠い……なにか夢見が悪くてのう……」
ぼんやりと九郎は目を擦った。もう片方の、お房が握ったままの手に暖かみが感じられる。寝言でなにやら呟いていたのを聞かれたらしい。
懐かしい顔を見た気がする。そして、誰かと合わねばならぬと焦がれがあった。
年をとると物忘れが激しくなるというが。
九郎は見ていた夢が急速に朧気になっていくのに、己でもわからぬ不安感を覚えた。
「む、いかぬ。フサ子よ、何か書く物を……」
「起きて早々どうしたの?」
「大事なことだ。ええと……」
九郎は渡された筆と半紙に、忘れてはならない夢の内容をメモしておく。
その妙な様子にお房は、
「狐にでも憑かれたのかしら」
と、首を傾げるのであった。
「……よし」
九郎は書き終わった紙を日で透かすように広げ確認した。
やるべき事ができた。果たせるかはわからぬが、やらねばならぬ大事なことだ。
既に昼近いだろうか。とりあえず九郎は布団を跳ね除けて立ち上がる。
まずは行動からだ。
そうして九郎は、マヨネーズの作り方を書いた大事な紙を片手に、一階へお房と共に下りて行くのであった。
****
マヨネーズが和食に合わないと誰が決めたのか。
九郎は一、二度失敗しつつも完成した緩めのマヨネーズを味噌と溶き和わせ、輪切りにした秋茄子に塗りつけて串で刺し炙ったものを作り[緑のむじな亭]の本日の一品に出した。
当の九郎も昼下がりに店へやってきた影兵衛とそれを肴に酒を飲っている。
味噌の香ばしさと焼いたマヨネーズの濃厚な味が合わさり、上に振りかけた胡麻も嬉しい食感なその焼き茄子は、びろびろとした口触りでまたこれが酒に合う。
焼き茄子というと皮が焦げてしまう為に剥がして食う者も多いが、
「茄子と鯖は皮が旨ぇんだよなあ、おい」
「うむ、このぷっつりとした歯ごたえがたまらぬ」
と、二人して言い合いながら、あちあちと串から歯で引き抜いて味わう。
生姜醤油をちょっと付けすぎだろうかと不安になるぐらい染み込ませて、びたびたになった焼き茄子を食うのもまた別のにんまりするようなさっぱりした旨さがあるが、どちらかと言うとそれは夜に食べたい味だ。味噌マヨネーズで濃い味を楽しむのは昼の味と言ってもいいだろう。
九郎は嬉々たる顔で、
「この調味料な、鰹の刺し身につけてもまた旨いのだ。お主の行きつけの店のほれ、鮪柵切りの油煮にも合うぞ」
「ほぉ。そいつぁ御機嫌な話だ。持って行こうぜ──おっ……この山芋の串もうめぇ。さくっとしつつねっとりした芋に塗られたこいつがまた乙でなあ……」
影兵衛が破顔しながら酒のお代わりを注文する。串料理は基本的に材料を切りタレを塗って串を刺し焼くだけなので、六科でも簡単に作れるからこの店ではよく提供される。タレの味付けを九郎が工夫しているので結構評判が高い。
串を咥えながら影兵衛は厭らしい野獣のような目つきをした。
「しかしよぅ、山芋食ったらあれだろ」
「あれ?」
「おうさ。この後、品川の岡場所にでもしけ込まねえかぁ?」
と、影兵衛から女遊びの誘いがあった。
九郎は不敵に笑い、
「いいな。己れもそっちに少し用事があってのう」
「おっ! なんだなんだ? 今日は珍しくやる気満々じゃねえか! けひひ、そうかいそうかい。結構九郎先生もお好きなもんだ!」
「む……勘違いするなよ。己れはやらねばならぬ事があるから行くのだ」
そう言って九郎は夢で見た大事なことメモの内容を意識した。
そこにはマヨネーズの作り方以外に、
『玉菊にじゃんけん勝負でリベンジすること(油断せず奥義も使用すべし)』
と、夢の中のお告げらしき事を記録に残したのだ。
いまいち夢の内容は思い出せることが少ないが、起床して慌ててメモをするほどの重大さを持っているらしい。
ならばやらねばなるまい……最近、玉菊の姿をあまり外で見かけないので、こちらから訪ねてでもだ。
九郎の財布には石燕から貰った小遣いが充分にある。
しかしこの前、彼女に『まさか私のあげたお小遣いで女を買ったりしていないよね?』と釘を刺されたのを覚えているとはいえ……
(まあそのなんだ……玉菊は男だからセーフ)
自分に言い聞かせる。
それにじゃんけんで勝負を決めに行くだけである。多少会うのに金がかかるが……やらねばならないことだと夢で誰かに念入りに告げられたような気がするのだ。
なので、故あって九郎はその日、影兵衛と共に品川界隈の色街に繰りだすのであった……。
****
その日、正夢のように玉菊に拳遊びでボロ負けし、出した十三奥義の[買収][超高速破壊拳]すらも躱され惨敗となった九郎がひん剥かれてかなり危うい目にあったのは云うまでもない。
飛んで火にいる夏の虫のようだった、とは玉菊の言である……。




