RE江戸4巻発売記念特別編『天狗と男たちの飲み会』
お久しぶりです!
「書籍が発売されたときだけ思い出したように更新する作品あるよな」それです。
九郎をTSして九子にした再構成書き下ろし、RE江戸4巻が発売されました!
今回の話はこの電子書籍の第一章を、更に九郎バージョンに変更した話となります
まあ男の世界線もあるということで
──時は江戸時代、八代将軍徳川吉宗が治める享保の頃。
季節は文月(旧暦七月)のことであった。
享保の時代といえば将軍である吉宗が様々な改革を実施し、その影響で世はやや騒然としていた。
お上の出した法令によって物価や貨幣価値は大きく上下し、幕府も底をついた財政を取り戻すため強引ともいえる政策を行っていたのだ。
また、町人の奢侈(贅沢)も規制されて少々不景気な雰囲気が江戸を漂っていた。派手な着物を纏うことを許されず、下着まで贅沢な生地を使っていないか監視せよ、というお触れまで出されたという。
だがつい先日、江戸の街では町人武士問わずに喜ばしい空前の吉事が訪れた。
場所は新宿近く千駄ヶ谷村の外れにて、温泉が湧き出たのである。
温泉は火山活動にて地下水が熱され地上に現れたものであり、普通は火山近くにあるものだ。
江戸近郊だと、箱根・伊豆東部(熱海)・那須・八ヶ岳火山群などいずれも温泉地と火山は重なっている。
一方で江戸は火山のない関東平野に作られた都市である。おまけに市中は河川と海に侵食されていた土地を埋め立て作った範囲が広く、温泉どころか井戸を掘っても塩水が出てくる始末であった。
それ故に温泉など湧くはずもなく、江戸の住民が温泉を楽しむには箱根か熱海あたりまで足を伸ばす必要があったのだ。
一般に、江戸の住民は風呂好きだと言われている。況や温泉をや、である。
だが、旅行というのは現代と比べても金と時間と苦労が掛かる時代であった。湯治など特に、必要な者は体が悪いというのに温泉までは遠く歩かねばならないというので、行きたくても行けない人が多かったであろう。
そこに、江戸で温泉が湧いたのだ。
都市部に暮らしながら毎日でも入りに行けるとなれば、町人のみならず武士も坊主も猫も杓子も大喜びであった。
幕府は直ちに源泉を御用地として利権を得た。予め温泉が出るという情報があっての素早い対応である。
新宿の宿場町に湯を引かせ宿や湯屋で入れるようにし、そことは別に窮民用の無料湯場を作った。怪我や病の湯治客用には小石川の養生所に湯を運ばせて、更には温泉の湯を桶ごとに売りに出した。
温泉の湯を幕府や武士が独占するのではなく、有料だが大盤振る舞いといえるほどに民衆へと分けたのだから大いに江戸の街は沸いた。また幕府も温泉の湯を売るということで、庶民から大名まで買い付けに来たため非常に儲かったのである。
それらの施設で混雑の解消やルールの整備などを担当していたのは温泉奉行として抜擢された大巨漢の御庭番、川村新六である。彼は昼夜問わずに働き回り、関係各所へと頭を下げて江戸の新たな名所である温泉を整えた。
活躍もあって吉宗の覚えもめでたい新六の評判は幕府内、大名家などに大きく広まったが、彼を民間の立場から支えた者たちも居た。
その筆頭である、助屋九郎は千駄ヶ谷から出た温泉の湯を自らの別荘に引くことを許され、身内が使う温泉宿を建てた。
再開発が進む新宿の宿場町から大きく外れ、千駄ヶ谷の廃寺があった雑木林の中に彼の宿──『九郎助屋』がある。
その日、九郎は温泉宿に友人たちを呼んで宴会を開いていた。
少し前に宿の完成記念で盛大にやったばかりなのだが、その時はアクシデントとして半人半鮫のようになっていた改造合成ヤクザ集団に襲撃されたため、どうも楽しんだというより厄介事だったという印象が強かった。
だから改めて、ということで集まれる者を集めて再び楽しむことにしたのだ。主に、襲撃へ立ち向かった男たちを労うつもりで呼んだ。
九郎助屋は廃寺を大幅に改築して作られた二階建ての宿であり、並の旅籠よりはかなり広く屋敷といってもよい造りになっている。かつて講堂か本堂であった広間は宴会場へと作り直され、皆が集まっていた。
「それでは改めまして……かんぱーい!」
「おおー!」
「上様居ねえだろうな……」
九郎が乾杯を呼びかけると呼ばれた者たちも温泉にご馳走に酒、更には元遊女の美人な仲居たちがいるため大喜びで酒盃を掲げた。甚八丸だけは、お忍びで将軍が来ていないか疑っていたが。
タダ飯、タダ酒が振る舞われるとなれば嫌がる者はいない。とはいえ、前回に参加したものの大怪我をした同心の美樹本善治は自宅療養中なため不参加で、見舞いの品を持っていったが。
客の前には漆塗りの膳が用意され、カツオのタタキ、アユの塩焼き、焼き茄子、ウニ入り卵焼き、素麺などの料理が並べられている。集まった者たちは良くて下級武士の同心、多くは貧乏独り身長屋暮らしの忍び連中なので正月でも食べられないようなメニューに夢見心地であった。
にこやかに九郎が料理を紹介する。
「えー、今回の目玉料理はなんと!」
「なんと?」
「天狗に因んでテングザメだ。ごぶりんしゃーくとも言うやつでのう。江戸湾の深海からわざわざ獲ってきたぞ」
「ゲテモノかよ!?」
「メチャクチャ見た目が怖い!」
「魔物じゃないんですかそれ……ゴブリンって言ってるし」
九郎が捌いていないテングザメを丸ごと見せると全員がドン引きしながらツッコミを入れた。新六など海のモンスターだと思っている。
テングザメは希少な深海魚の一種で、世界でも発見例が少ない。名前の通り吻が頭の前方へ天狗の鼻めいて出っ張っているのが特徴であるのだが、とにかくグロテスクだ。
皮膚が半透明であり、その下にある血管が透けて見えるため通常でもピンク色の体色をしているのだが、深海から陸へと上げた際に血管が破裂することがあり、全身が赤褐色に染まる。歯はむき出しに、突き出した吻は鋭く突き出て、見た目は宇宙生物のようになるのだ。
はっきり言って食べたくなる見た目ではない。
「これ以外だったら晃之介が獲ってきた熊肉ぐらいしかないが……」
「熊! 熊肉の方でお願いします!」
皆がそう主張するので九郎は仕方なく熊肉の料理も配膳させた。
甚八丸が気になって晃之介に尋ねる。
「そういや道場の先生よ、その熊はそこらに居たのか?」
「ああ。本郷あたりから来たようだ」
東京に熊、というと意外かもしれないが当時は江戸の外れである千駄ヶ谷村、晃之介の道場がある戸塚村などは完全に田舎の農村である。
ぎりぎりで江戸という区分に入っているが、多摩とそう変わらない。
現代でも奥多摩のあたりはツキノワグマが出没するが、この時代では熊の行動範囲は広く、山近くで生活する農民への獣害も多かった。
「マジかよ……鹿や猪ならともかく、熊なら猟銃でも出しとかねえと……」
「む? 甚八丸や。猟銃を持っておるのか?」
「おう。村に十丁ぐれえな」
「ふーん、農民が持てるものなのだのう」
入り鉄砲に出女、などと言われて江戸近郊では火縄銃が規制されていたことは有名だがそれは武士に限りで、農民らは害獣対策に猟銃を持つことが許され、天領では幕府より貸し与えられたという。勿論、それらは一揆などで使うことは農民らも自粛していた。
当然ながら領主や代官などは猟銃の管理を行う義務があったのだがそれはおざなりで、村の誰が所持して合計何丁あると報告さえしていればいちいち検分に来ることはなかった。厳しく規制するより畑が荒らされ税が減ることの方が問題だからだ。
「ちなみに晃之介は銃で倒したのかえ?」
「いや? 熊が威嚇して立ち上がったところを狙って心臓を槍で突き刺してやった」
「身も蓋もないのう」
「上手く毛皮を切る中央部を狙うと毛皮の値段が下がらずに済むんだ」
貧乏性である晃之介は道場収入があまりないので(道場破りを返り討ちにして懐を漁ることが主な稼ぎである)熊を倒して解体するのにも気を使ったようだ。
普通ならば猟銃や罠で仕留める猛獣である熊や猪も、この道場主にかかれば鍛錬相手の臨時収入になってしまうようだ。
酒を飲みながら晃之介の話を聞いていた男、山田浅右衛門がふと尋ねた。
「あれ? 録山氏が熊を解体もした……ってことなら、熊の胆も取ったかな」
「家で干しているところだ。あれもいい値段になったはずだが……江戸の薬種問屋は買い取りもしているのだろうか」
熊の胆嚢である熊の胆は中国から伝わる漢方の生薬であり、江戸期に大きく広まりその需要を高め、価値も上がっていた。
「や。じゃあ某が買い取ろうかな」
「山田殿が?」
浅右衛門の提案に晃之介が聞き返す。
「ん。うちは薬も作ってるから」
首切り役人である山田浅右衛門の主な収入は、首切りではなくてその後の胴体を使った試し切りと、死体を素材にした薬作りだ。
それ故に薬屋とは深い繋がりがあり、生薬を持ち込むこともできる。
九郎が興味深そうに尋ねる。
「ほほう。ちなみに浅右衛門や、幾らぐらいになるのだ?」
「うーん。干した後の重さによって値段変わるけど、一匁で一両ぐらい? だいたい普通の大きさで十匁だから十両ぐらいかな」
「十両!?」
晃之介が驚いた様子で訊き返した。
そしてなにやら深刻な顔で呟く。
「今まで、旅先で売り払った際にはその半額も貰えなかったが……足元を見られていたか……?」
「や。ほら、江戸は需要も多いから値段も高くなるのかも」
「……まあいい。十両あれば武具を研ぎに出せるし、道場の雨漏りも直せる」
「良かったのう。……浅右衛門、己れの獲ったテングザメも買い取れんかのう」
「それはちょっと」
ただの気味が悪いだけの鮫は薬の範疇外である。見世物小屋に持っていくぐらいしか引取先は無いだろう。
「おっ! なんだこの熊肉、すげェうめェな九郎!」
中山影兵衛が料理に舌鼓を打って、九郎は頷いた。
「葱味噌に漬け込んだのだがのう。熊の臭みも消えるし、肉も柔らかくなる」
「ほーん。熊公の肉は滅多に『ももんじ屋』にも並ばねェからな。この旨さだと、誰かお偉いさんに献上されてるから庶民に回らねェんじゃないか?」
「隠れて肉を食っておるのかもしれんのう。大名なども」
実際、仙台藩の名物である牛肉の味噌漬けは大名、将軍にも人気の贈り物で、ごく一部の武士などは伝手で手に入れては珍重していた。『忠臣蔵』の大石内蔵助も討ち入り前に食べた、という伝説も残っている。
肉食は忌避されることが多かったが、隠れた愛好家は結構いたようだ。
なおこの宴に集まっているのは『ももんじ屋』の常連である影兵衛に、修行のため野外生活に長けた晃之介。それに食べられるなら害獣でも食べる農民出身である甚八丸や忍び連中なので、浅右衛門以外は普通に肉を食べる。
家業として人の首を切り、胴体を何度も輪切りにして、内臓を取り出して薬にする仕事をしている浅右衛門はどうも血肉の見た目や臭いが苦手になり、肉や魚を食べることがあまりないのだ。
「山田浅右衛門大先生はなに食ってんだァ?」
影兵衛が卑しくも他人の膳を覗き込んで舌舐めずりをしている。
「豆腐。おいし」
浅右衛門の膳だけは魚や肉を除き、豆腐と煮豆などが追加されていた。
「浅右衛門のそれは豆腐の味噌漬けだな。これがこってりしておって酒のつまみにピッタリなのだ」
木綿豆腐を水抜きして美濃紙で包み、味噌を煮切り酒と混ぜ合わせてゆるくしたものの中に一晩ほど漬け込んだものだ。中の水分が更に抜けて味噌と酒の合わさった旨味たっぷりの成分が染み込み、チーズのようなねっとりとした食感と濃厚な大豆の味、味噌の塩気が合わさって非常に酒に合う。
「なんだ美味そうじゃねェか! 拙者にもくれ!」
「手間だからあんまり用意しておらんのだ。浅右衛門と己れの分ぐらいで」
「ええーずりィぞー」
「子供みたいに駄々をこねるでない。オッサンなのに」
「オッサンじゃねェ!」
口を尖らせて文句を言う影兵衛に九郎はやれやれと肩をすくめる。
「仕方ないのう。己れの食べさしでよければ」
「汚ェな!」
「や。それなら某の食べさしを……」
「そこまでして要らねェよ!」
意地汚い影兵衛だったが、男の食べ残しまでは食おうとしなかった。そこに玉菊がやってきて言う。
「主さまの食べ残しならわっちは全然イケるでありんすが? むしろご褒美でありんす」
「なんで張り合っておるのだ。ともあれ今日こそは無礼講だ。上様もおらんしのう。皆も酒をお酌してやるから飲むのだぞ。ほれ、影兵衛も。晃之介も」
「九郎に酒注がれても嬉しくねェよ! 可愛い姉ちゃん呼んでこい!」
「今日は……九郎の知り合いの女性らは来ていないのか?」
「うむ。仕方ない。宿の女中らに頼むかのう」
「そうか……」
どこか残念そうに晃之介は肩を落とす。九郎の知人女性は心なしか巨乳が多いため、目の保養になるのだが。晃之介も助平な男の一人である。
九郎が手を叩くと宿で働く元遊女の従業員らが空になった酒盃に一人ずつ酒を注ぎに回った。忍び連中も中には酒に弱い者も居たのだが、若い娘からお酌されるのでぐいっと飲み干す者ばかりだ。
甚八丸が訝しげな顔で注がれた酒を眺める。
「なんか妙に辛い気がするんだが……この酒よう」
「うむ。原酒が樽ごと手に入ってのう。割っておらぬから強いぞ」
普通、日本酒というものは醪を搾った後に水で割り、飲みやすいアルコール度数にして販売される。
現代では十五度前後だが江戸ではそれよりも低く、ビール並の五度前後から、更に薄めて一~二度というところもあった。なにせ店の裁量で薄めるのだから、水で嵩増しして売上を増やせるのでどこでもやっている。
そんな割る前の原酒は度数が二十度ほどで、好みはあるがこのまま飲んで濃厚な味で悪くはないが──普段から酒を飲み慣れている者であっても酔いが回りやすいほどに、江戸の人々にとっては濃い酒であるだろう。
晃之介や浅右衛門はちびちびと舐めるように抑えて飲んでいるが、タダ酒だからと調子良く飲んでいる他の者は絶対に酔っ払うと甚八丸は確信した。
「酔っ払いに暴れられても知らねえぞ、俺様」
「はっはっは。すっかり責任者が板についておるのう。安心せよ、無礼講だ無礼講」
「キェー! やりたくて大人の対応してるわけじゃねっつの! なんだったら俺様も張り切っちゃうもんね! 野郎共! 一発芸大会やるぞ! 見てろ俺様の秘技『徳利粉砕棒』!」
こうなったら甚八丸も責任など考えず酔っ払ってしまおうと、ぐいっと徳利を一本飲み干した。
そしてやおら、空になった徳利を股間にあてがい、なにかを挿れる!
「ふん!」
気合の声と共にすっぽりと股間にハマっていた徳利が内側から膨張して破砕した!
下品かつ男根崇拝の見られる男らしい芸に、皆が指を差してゲラゲラ笑った。酒を注ぎに来ている女たちも元々は遊女。それぐらいの下ネタは笑い話である。
九郎の連れ合いな女たちが一緒に飲みに来ていては使えない、男同士の集まりでのみの芸であった。
「イヒィ~! 徳利の破片が俺様の甚八棒に突き刺さって痛っぴぃ~!」
「はっはっは。まあ程々にのう」
こうして甚八丸が芸の副作用で転げて悶えるのもおかしく、九郎は楽しげに次の者へと酌へ向かう。
「おや、利悟や。箸が進んでおらぬではないか」
「むむむーむむーむむむ!」
「猿ぐつわをとって欲しいとな? 仕方ないのう」
そこに座らせられていた同心の菅山利悟は目隠しをされ、口を塞がれ、両手両足を拘束されて置物になっていた。
勿論九郎も把握していたのではあるが。
まず目隠しと猿ぐつわを外してやると大きく息を吐き出した。
「ひ、酷いじゃないか! 拙者を呼んでくれたのは嬉しいけどこの待遇は! 泣くよ!?」
「うちで働く女中たちから、お主の目つきが嫌らしいとか、頭の匂いを嗅がれたとか、ねちょねちょした手で握られたとか苦情が出ておってのう。きもいぞ」
「それは──仕方なくない?」
「開き直るな!」
本気で疑問に思っている様子で首を傾げる利悟の頭を小突く。
彼は年若いというか幼いぐらいの少女ばかりに興味を示す性的嗜好の持ち主で、同僚知人からの評判は限りなく悪い。幾ら江戸時代が早婚とはいえ、年齢一桁代の子供へガチで迫る男は気味が悪かった。
「っていうか拙者だけ乾杯もしてないし! あんなに頑張ったのに! たぶん一番頑張ってたよ拙者! この宿が鮫人間に襲われてたとき!」
「まあ……確かに一理はあるが」
性根は異常者なのだが腕前はかなりのもので、自分の趣味を棚上げした正義感も持ち合わせている利悟は一応活躍していた。
全身に鮫人間の好物となる豚の血を塗りたくり、囮となりながら何度も噛みつかれていた。
だから呼んだのだが、つい気持ち悪くて縛り上げてしまった。
「しょうがないのう。解いてやるか」
「そうだそうだ! あ! なんなら玉菊ちゃんと一緒にあーんでも可! 拙者は美少年もいける!」
「キモ」
九郎は少々考え、しかめっ面で玉菊に指示を出した。
「玉菊や。おでんを持って来い。煮えたぎったやつな」
「かしこまりござんす!」
「えっ! ちょっと!? 縛ったままおでんは……残虐行為で武家諸法度違反では……!?」
利悟の眼前にカンカンに熱された土鍋とおでんが用意され、簀巻きにされたままの利悟の口元へと湯気がもうもうと立ち込めるコンニャクが差し出される。
「あっ! あああー! 止めて! あちゅっ! あつつつつぎゃああああああ!!」
熱々のおでんを口元へ次々と運ばれて泣き出す利悟を助ける者はいない。口元を冷やすには濃い酒を飲むしかなく、酒が回るのであった。
利悟を無力化した九郎は次へと向かった。見ていた忍び連中も「あーんはともかく、あのおでんはつらい……」とやや引いていた。
次々に通りかかる忍び連中にも酒を飲ませて進むと、一際巨漢の客が先に手の平を向けて制止してきた。
「いや、九郎さん。僕はちょっと本当にお酒弱いもので」
「なんだその図体なのに」
ひっそりと下座に座っていたのは温泉奉行の川村新六。身の丈八尺で相撲取り体型をした大男である。
飲み会だというのに相変わらず編笠を被ったまま、器用に笠の下から飲み食いしているようだ。まあ、他の忍び連中も皆が覆面をつけたままどうやってか飲み食いしているのであったが。忍者とかの技術なのかもしれない。
仮にもお奉行という名のついた幕府の役人なのだが、本人が気弱なもので邪魔にならない隅っこを好んでいた。
「見た目はほれ、一升二升ぐらい入りそうなドデカイ大盃で一気飲みしそうなのに」
「本当、酔って寝ちゃうんですよ。毒物とかは割りと平気なんだけどなあ。それに僕、明日も早くから仕事があって二日酔いになると困りますから……」
「真面目だのう。あの同心連中は明日のことなど考えずに飲んでおるのに」
「片方は九郎さんが無理やり飲ましていたような……」
新六は現在でも内藤新宿の温泉街開発で東奔西走、ひたむきに現場の調整や嘆願の受理、発生した問題の解決に励んでいて非常に忙しい。
夜は夜で毎日のように老中と将軍に報告を上げて、報告書も作成しているためこの飲み会が終わったら江戸城まで帰らねばならないという忙しい身であった。
なので、無理に飲ませるわけにもいかない。
「まあ、せめて美味い物を食っていくのだぞ」
「熊肉かあ……上様が羨ましがって獲りに行くって言い出したらどうしよう」
「献上品でよければ次に捕れたときに用意するとでも伝えておけ」
「……もしまたお忍びで宿に来て食べたいって言ったらその時はよろしくお願いします」
微妙に嫌そうな顔をする九郎だ。将軍がお忍びだろうと宿に泊まることは大変な名誉で箔がつくものの、対応が面倒ではある。客の絶えない有名店を目指しているわけでもないのだ。
ともあれ九郎はそうやって、宿に来ていた客たちに酒を振る舞った。
程々に酔っ払った皆がやる宴会芸で盛り上がりを見せる。
「一番佐助! 尻から火を吹きます! ……危ないから外で!」
庭に出て火縄をつけ、屁の勢いで派手に火炎放射を披露する。尻に火薬の粉末を加えることで激しい勢いで燃え上がり、下品な特技にゲラゲラと男たちは腹を抱えた。
「二番才蔵! 尻から煙を吹きます! ぽわわ!」
才蔵の方は煙管を使って尻から煙を吐き出して、その形を輪っかにしたり螺旋状にしたりと器用に変化させる芸を見せた。これも盛り上がった。
「三番、作三……女装変化の術!」
覆面の男がポーズを決めたと思ったら煙に包まれた。白い目隠しの煙幕が散るとその場には一人の少女が現れた!
「うおおおお!」
にっこりと美少女は微笑み、声援に応える。
「み゛んな゛アアア! あ゛り゛がどヴォオオオオ!」
「うえーっ!」
「あいつ、女装は得意なのに声がマジでだみ声……」
「見た目とのギャップで気色が悪い……」
「いや……逆にいい! いつか、見た目は美少女で声はオッサンの流行が来ると見た!」
「三百年は来ねえよそんな流行!」
などと、出来はともかく盛り上がりを見せた。
「あの女装にはわっちも化粧の手ほどきをしたでありんすが、声がイマイチざんすなあ」
玉菊も残念そうにそう呟くのであった。
宴会芸大会も終わってそろそろお開きという頃合いになった。
かなり酒は回っているが、意識を失っている者は居ない。幾人かは宿に泊まるつもりでもあるようだ。
「それでは宴もたけなわになりましたが……最後に一つ」
九郎が音頭を取って皆に呼びかける。じっと皆の顔を見回してから言った。
「己れの温泉宿だが、ここにいる皆のお陰でついこの前は随分と助けられた。その礼をしておきたい」
「礼だなんて……」
「ご馳走とお酒だけで十分ですよ!」
「こっちがお礼したいぐらいで!」
皆が恐縮したように騒ぐが、九郎としては宿の者に怪我人も出さずに事件を終わらせたことは代えがたい恩でもあった。
なにせ押し込みに来たのは三十名近くの大人数。
九郎一人でも術を使えば対処できたかもしれないが、それだけの大人数では宿ごと吹き飛ばすような大規模破壊になるだろうし、取りこぼした者が宿の従業員に危害を加えた可能性もある。相手は全員、半人半鮫の合成ヤクザだったのだ。なにが起こっても不思議ではなかった。
勿論、礼としてこうやって宴会を開いて旨い酒と料理を振る舞ったのであるが……
「それだけでは気が済まんからのう。そこで! お主ら一人一人に褒美を渡そう」
「褒美……!」
遠慮はしたものの、褒美と言われて喜ばない者はいない。なにが貰えるのだろうか。
皆が注視していると、九郎は大きな丸い円盤のついた立て札のような物を取り出した。
「……?」
その円盤は円グラフのように放射状に線が入っている。線で区切られた範囲は様々だが、文字が書かれていた。
一番大きい面積のところに『肩揉み券』次に大きなところに『一分金』。
狭いところに『米一俵、味噌一樽』『上酒一斗』『一両』『助屋一ヶ月無料手形』
更に凄く狭いところに『十両』『九郎助屋永続無料手形』
一番細いところには文字すら書けず、円の外に張り紙で『願いを叶える権』とある。その左右は『たわし』で囲まれていた。
九郎は面白そうな笑みを浮かべて説明した。
「ハズレ無しの褒美的あて遊戯~! この円を回すから、遠くから投げて当てた物が手に入る遊びだ。一人一人、褒美を選ぼうかと思ったが差に文句が出るかもしれんからのう。自分の手で褒美を取るのだ」
まあ、いちいち欲しい物の聞き取りをするのも面倒だし、一括で現金にして渡すのも味気ないと思って余興に作ったものなのだが。
投げるのは専用の羽つきダーツを九郎が自作して持ってきていた。棒手裏剣でもよかったのだが、そうすると忍び連中が有利になりそうだったので変えたのだ。
九郎の提案にどよめいた一同だったが、忍びの一人が手を上げて質問した。
「はい! そ、その『願いを叶える権』……ってなんですか九郎さん!」
「うむ。まあ、己れが現実的に叶えられる範囲でなにかしら願いを叶えてやろうと思うがのう。死人を生き返らせろとかは無理だぞ。自分の家にも温泉を掘って欲しいとか、商売を始めるので店を用意して欲しいとか、地球にやってくる悪い宇宙人を倒してくれとかそれぐらいなら」
考えるように言う九郎の言葉に対して、一同のざわめきは言葉にならなかった。謎のうめきに近い声があちこちから漏れる。
なんでも。
叶えてくれる。
「それって、九郎さんのお知り合いの絵師に頼んで好きな春画本描いて貰うのでも!?」
「おお、いいぞ」
「嫁を見つけてくれるのも!?」
「どうにかしてやろう」
「世界一周旅行!」
「超カッコいい牛車!」
「美人側仕え!」
「まあ、叶える努力はしてやろう」
皆の欲望に九郎は苦笑いで応えた。
九郎とて考えなしに願いを叶える権利を思いついたわけでは無い。
そもそもの問題としてこの一等の枠は非常に小さい。ほぼ線みたいな領域だ。試しに投擲術の達人である晴海に狙わせたが、的中したのは十回に一回のみだった。
おまけにこの場の男たちは全員酔っている。九郎が濃い酒を飲ませたせいだ。
酔っ払いが、使い慣れない道具で練習もなしに一発で一等を当てる可能性などほぼゼロに等しい。
「さあ、全員参加で始めるぞ。順番は誰からだ?」
「うおおおおお!」
男たちは今日一番の盛り上がりを見せるのであった。
さて、忍び連中は基本的に手裏剣術をある程度収めている。
使い慣れないダーツであろうとも狙って投げることができるのだが……
「うううう、目、目が回る……」
的は常にゆっくりと回転している上に、酒で体も直立できずにふらついている。
それでも的には夢があるのだ。もし一等を当てたら……
「デュフフフ! とあー!」
くじ引きで勝って一番に投げた忍びの一投は──『肩揉み券』であった。
「うああああ……! せめて一分金が良かったぁああああ……!」
崩れ落ちる男。嘲笑する周囲。最低の商品でも、九郎のゴリラめいた腕力で肩を揉まれるだけなのと、日本円にして二万五千円ぐらいの一分金では大きく価値が違うため嘆いた。
次々に男たちは意地を見せて挑戦していく。
だが、やはり酒の影響で狙いは覚束ないため、ほとんどランダムのような結果に誰もが一喜一憂していた。確率の問題で多くは一分金か肩揉み券で終わる。
九郎は的の近くで当たった褒美を判定しながら発表していく。
「山田浅右衛門、褒美は『肩揉み券』……残念だったのう」
「や。凄く嬉しい」
なにも後悔がないような微笑みを見せて浅右衛門は肩揉み券を受け取った。
穢れ仕事の首切り役人、誰もの鼻つまみ者で嫁も見つからない。心優しくもそんな男であった浅右衛門からすれば、初めて出来た友人から肩を揉まれるのは親しさを感じて嬉しいものだった。
「家宝にしよう」
「いや使えよ」
九郎が突っ込みを入れた。
「はあ!」
裂帛の気合と共にダーツを打ち込んだ晃之介が手に入れたのは、
「晃之介、『米一俵と味噌一樽』! 実用的なのを当てたのう」
「……まあ、こんなものか。一等に当たれば九郎に道場を徹底的に掃除して貰おうかと思ったがな」
「自分でやれ、自分で」
「最近、道場の周りに草がぼうぼうと生い茂ってな……あれもどうにかできないか……」
「熊を狩るよりやることがあろう」
なにせ男一人の貧乏暮らし、門弟の一人もいないので晃之介が日々の暮らしのために狩りなどに出かけると、途端に道場の整備は回らなくなってしまうのであった。
晃之介も投擲術に関しては一流の武芸者で、動体視力も非常に優れているのだが、酔いによって狙いは外れたようだ。
次も気合の入った投擲であった。
「いけよォ! そらァァァ!」
「やたら全力だのう」
密かに九郎がぼやいたが、影兵衛の投げたダーツが深々と的に突き刺さる。
「影兵衛は……はい残念『一分金』~」
「くああああ……ちょ、ちょっと待て九郎ォ……拙者、持参の小柄を投げていいか? 手元が狂っちまってよ」
「ダメに決まっておろう」
「くそァ! 正々堂々殺し合いをしたかったのによォ……あっ! そうだ! 別に願い叶えなくても襲いかかればいいじゃねェか!」
「お主が襲ってきたら透明になって空を飛んで逃げて、三日三晩ぐらいお主の周りだけ大雪を降らせてやるぞ。家の中だろうが便所の中だろうが」
「そういう陰湿な戦い方は止めろ!」
がっくりと肩を落とす影兵衛であった。やはりこの天狗とまともに戦うには合意の元で条件を整える必要があるのだ。
一方で甚八丸が手に入れたのは、
「なんでェ『たわし』って」
「売っとらんから己れが自作した掃除道具だが……聞いたことないのか?」
「知らねえ……」
九郎が渡した亀の子束子は明治以降に作られたものであり、元々は足ふきマットの一部を手に持って使ったものだ。
一方で完成形を既に知っている九郎は、棕櫚を使って(江戸では箒の材料として使われていた)束ね、亀の子束子みたいな形で作ったのである。
単に本人としては、こういったルーレットではたわしが必要だと思っただけなのだが。パジェロも用意したかったが無理だった。
甚八丸が訝しんで手に持つのを九郎が身振りで示す。
「こうして鍋とかを洗ってだな。よく汚れが落ちて便利なのだぞ」
「……なんか俺様、これを量産しないといけない? もしかして」
「頑張れよ。石鹸とも相性の良い新商品だ」
「ぐえーっ! 仕事が増えやがった……!」
たわしを手に入れたのは甚八丸だけだったのだが、いかにも便利で流行りそうな道具を出されて、他所に真似されるよりは先に作らねばという義務感から彼は頭を抱えた。
この天狗と付き合い始めて以来、畑の作物や鶏の育成から新商品開発まで、とにかく口出しされて忙しくなった。
どれもが利益を上げていて、家族や手下を養うことを考えるとやらねばならないのだ。
「ちゅぎは拙者が!」
口元を赤く腫らした利悟が進み出てダーツを投げる!
「っっやったー! 助屋一ヶ月無料券! うぇへへ、助屋はお房ちゃんに小唄ちゃんが居るからなあ! 明日から毎日合法的に通える!」
「えー、皆の衆。明日からふんどし一丁の姿で助屋に働ける者を募集する。フサ子と小唄は休ませるからのう。給料は弾むぞ」
「はい!」「はい!」「俺やります!」
「嫌がらせが過ぎない!?」
利悟が通うというので臨時で子供たちを避難させてむさ苦しい男を増やそうとする九郎であった。
それで多少は客足が遠のいても平気なぐらいには稼げているのである。
そうして概ね、全員がチャレンジし終わった。
ほとんどは肩揉み券か一分金で、それ以外が少数。十両や温泉宿の宿泊手形は誰も手に入らないという、大当たりのない結果ではあったが、実質のところ褒美はタダ酒タダ飯で還元されているのでプラスアルファのおまけでは不満も出ないのである。
「えーと、これで終わりかのう?」
「新六さんまだやってないんじゃないのー?」
「おお、そうだった。これ新六や、遠慮をするでない」
「は、はあ……よいしょ!」
おずおずと巨漢がやってきて、控えめな感じで投げた。
そうすると欲がなかったのが功を奏したのか、見事にダーツは『願い叶える権』に突き刺さったのである。
おお、とどよめきが広まる。最後の最後に大当たりであった。
「やったのう、新六。さあ、なにか願いを言え」
「ええええ……願い事と言ってもなあ……」
と、新六は腕を組んで悩む。
彼は元々から出世欲もなければ物欲も少ない。体は大きいが威張ることもなく、食事も質素なもので満足をしている。
日々、生活ができればそれで充分な男である。なんならその頑丈な肉体によって、山奥だろうが無人島だろうがのんびりそれなりに幸せに暮らせるだろう。
だから大金が欲しいだとかそういった願いは持っていなかった。
だが──彼は今やっている、温泉奉行の仕事でふと思いつくものがあった。
「あのー、なんでも……だったら九郎さんの術を借りても?」
「うむ? 江戸の街を焼き払いたいとかだったらさすがにちょっと困るが」
「違いますよ! 僕をなんだと思っているんですか! 実は……新宿にいい感じの水源地が欲しいなあって」
温泉を掘り当てたことで大賑わいを見せ、店は増えて客足は途絶えず、移住者も順番待ちになっていた。とにかく新宿で活動をする人数はここ一ヶ月だけで倍以上に増えただろう。
そうすると様々な問題が起こるのだが、ちょっとやそっとでは解決しないのが水である。
もとより江戸では井戸水があまり出ず、玉川上水から水道を引っ張ってくるぐらいだ。それだって新宿で大量に消費してしまうと更に下流の人々が困ることになる。
熱い源泉を薄めるのにも水が必要で、川から取るのも衛生的な問題もあった。
「なるほどのう。いや、見よこの世のため人のためにと考えておるお役人の鑑を。聞いておるのか?」
「知らねェ」
「子供専用の温泉場を作って欲しい」
カス同心たちに期待するのは止めて、九郎は新六へ向き直って頷いた。
「よし、では『精水符』を一つ使って、たっぷり湧き出す泉を作ってやろう。温泉の隣ぐらいにあれば管理も楽かえ?」
「よろしくおねがいします!」
──こうして新六の願いにより、新宿には半永久的に湧き出す綺麗な水場が作られた。ここから生み出される水は様々な生活に利用されたが、まず第一に飲むと非常に美味であると評判を呼び、水の販売で幕府財源の一つともなるのであった。
水場は永く、現代日本にも残り、新六温泉と共に新六湧水として名所になるのであった。
これは、異世界から帰ったら江戸なのであった、とある男の物語。
至って平穏で、男同士下ネタも交えてゲラゲラ笑うただの宴会話である。
だがそれが、主催者が女であった場合にどうなるか……それはまた異なる物語になるであろう。(電書版PR)




