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電子書籍発売記念外伝『いつかどこかの時間軸にて、いつも変わらぬ日常を』

最初に謝っておきます……

エタっていたのに書籍が販売したときだけちょろっと宣伝目的で更新する作品を憎む気持ちはよくわかりますが

そう、それです!


異世界から帰ったら江戸なのであるの新書籍版『RE:異世界から帰ったら江戸なのである─女天狗昔物語─』がAmazonの電子書籍Kindleで発売されました!

www.amazon.co.jp/dp/B0BB5KQY1J

挿絵(By みてみん)

全編書き下ろしの作品で、イラストも公式絵師のユウナラさんが25点も書いてくれています! 前書籍ではイラスト化されてないキャラも登場!

本にして約500Pほどの文量になっています!


表紙の通り九郎がTSして九子になった場合の世界線的な感じで、ほぼ最初の六科と会って居候になるところから開始します

挿絵(By みてみん)

相変わらず変態どもは出てきてワイワイやる感じの内容になっています

お値段500円ですので、支援していただければ後が続いてくれます


それはそうと、江戸のどっかの時間に起きた事件の短編をお送りします

新書籍版でも微妙に言及されたりする話です



 時は享保。徳川家康が江戸に幕府を開いてから百と余年──


 八代将軍吉宗が治める江戸の市中は「憂き世から浮き世」とまで呼ばれた多くの芸能・商売が豊かになる元禄文化が花開き、いかに質素倹約を令として出そうとも留めきれぬ賑わいを見せていた。

 また、街の発展はそのまま火事の増加も招く。薪の使用量が増え、人が夜中まで遊ぶため行灯も多く使うようになったことから、江戸の街を幾度も大火が焼き払った。

 木造家屋のひしめく江戸では大災害とも言える火事だが、住んでいる者からすれば覚悟の上。或いは焼かれても再び建て直せばいいとばかりに開き直っていただろうか。

 ともあれ江戸の街ではそういった事情から大工や人足が地方からも多く集まり、また住まう町人は増える。そしてそういった男はたいてい独り身であり、ろくに食事の用意もやりたがらない無精者ばかりだった。

 そういった者達向けに、市中では飯屋、居酒屋、屋台などが増え始めた時代でもある。

 

 道に面した長屋表の、どこにでもあるような店。緑の暖簾が掛けられていて、そこに狸の絵が描かれている。また、『そば』や『さけ』などと言ったお品書きが表に張り出されているので、まあ見れば飯屋だとすぐわかるようになっていた。

 少々前まではその店はなんとも分からぬ外観をしていて、おまけに出す蕎麦が不味く主も無愛想というので滅多に客も入らぬところであった。店主の名を取り、『むじな屋』などと適当に呼ばれていた、一応は蕎麦屋である。

 ところが暫く前からは流行る……というほどではないが、固定客が足繁く通い、ときには行列が作られることもある程度に店は繁盛するようになっていた。

 長屋の住民が噂するに、


「天狗の旦那を居候させてから店が儲かるようになった」


 と、でも言うだろう。

 天狗──と揶揄されることもある、ふてぶてしい態度をした蕎麦屋の居候。

 九郎という名の男が、まだ客の来ていないその店で温かいかけ蕎麦を手繰っていた。


「不味っ」


 蕎麦を啜って反射的にそう口にして、彼はしげしげと箸でつまんだ蕎麦の麺を眺める。

口の中では刺々しい塩っぱさと、モロモロ、ネチョネチョとした麺の不快な食感。だというのに味の殆どないつゆ。そして鼻に抜ける化学洗剤の如き風味で舌が痺れそうであった。

 本当に今、口にしたのが蕎麦なのか。

 九郎は眉根を寄せて、妙に黒黒とした麺をじっと見つめる。


「久しぶりに不っ味いなこれ……おい六科。一体なにを混ぜればこんな物体が出来上がるのだ。……いや本当に不味いぞ。だんだん腹が立ってきた」


 げんなりとした口調で云って箸を置いた。以前までは、そう旨くはないが不味いわけでもないといった程度の味だったのだが、急激に味が悪化している。

 九郎は青白い着流しを尻端折りにした格好をしている、顔つきは十四、五の少年である。ただ顔つきは稚さが残るが、背丈は江戸の平均からすれば高い方ではあった。腰にはホルスターのような帯付きの小物入れを下げ、頭はざんばらの髪型をしている。眠そうだとよく言われる半眼の目つきで、板場に立つ店主の六科を疑わしげに見た。

 どこにでも居るかというと、江戸でも彼のような者はそう見ないのではあるが……そこまで特異でもなく変哲もない少年が、噂の『天狗』であるという。

 その天狗に睨まれた店の主、佐野六科は巌のように動かない表情のまま頷いて、


「そうか」


 と、答えにもなっていない返事を返す。

 この男、愛想が無いというか、感情が殆ど表に出ないので、ごつくて寡黙なとっつきにくい店主だと世間の評判である。佐野、と名字のようなものがあるが、これは別段彼が武家の出ということも無く、彼の実家が川越でも名店と呼ばれた菓子屋であり、その屋号が佐野であったためだ。そこまで名乗ってもいないので、知っている者も少ないだろう。

 太い首。不機嫌な猩々の如き表情。無骨な包丁を握る腕は太くたくましい。頭を剃る金も無いのか短く刈っているだけの髪の印象も、飯屋の主というよりは盗賊の頭とでもいった方が似合っているに違いない。

 彼の短い返事ですべてのコミュニケーションが終わったような態度に九郎が藪睨みで続ける。


「いや、そうかじゃなくてな。今度はなにをやらかしたのだ。容赦なく不味いぞこれ。おそらく客が食ったら怒りすら覚える」

「むう」


 九郎の評価に不満だったのか、六科が出てきて蕎麦の丼を掴み、啜る。

 咀嚼している六科の目にはなんの感情も浮かんでおらず、機械が人工的な味測定器的な機能を使って調べているような錯覚を覚える。九郎は六科のことを密かにサイボーグかなにかではないかと疑っているのだ。そう思うぐらい、人間味に欠けた無機質な性格と所作をしている。

 そして六科は味を解析して確定的に頷いた。


「うむ。問題ない」

「お主の味覚基準で結論を出すでない……なんかこっちが間違っているように思えるだろう。どう作ったのだ?」


 この六科という男は一言で云えば味音痴としか言いようがない。料理が下手なわけではなく、もともと魚河岸で魚を捌いていた包丁さばきは中々のものがあるのだが、とにかく味覚が壊滅的におかしいのだ。

 そのような味覚の持ち主だというのに蕎麦屋をやっているのは、ひとえに亡妻が始めた商売を引き継いだのだったからだが。彼の亡き妻は料理の腕が良かったというのだから、まったく受け継げていない。

 六科はむっつりとした顔のまま解説めいた言葉を告げる。


「蕎麦……というものはどの食べ方でも、醤油なり味噌なりを付けて食べる」

「まあ……そこは否定せんが」


 この時代ではそばつゆというと、味噌を使ったものも多く使われている。味噌汁のように混ぜるのではなく、味噌を絞った際に出る「味噌たまり」といった旨味の多い汁にダシや薬味などで溶いたものだ。

 同時に元禄頃から関東でも醤油が生産され、それが調味料として普及しだしていた。既に江戸では醤油問屋も存在している。

 六科は続けて云う。


「そこで蕎麦の粉に最初から醤油と味噌を練り込んだら食うのが楽だ」

「練り込むな! 道理で麺が塩辛いわボロボロと食感最悪なわけだ」

「実は切るのが大変だった」

「そこで失敗を悟れ! ……それで、このつゆは? どうしてこんな苦虫を噛み締めたような味がしている。まさか出汁に虫とか入れていないよな」

「薬味として山菜を入れる蕎麦屋もあるらしい」

「で?」

「そこらに生えている草のことだろう。適当に煮込んだ」

「適当に採取して適当に煮込むな! 毒ではないが舌が痺れそうだぞこれは……」


 アク抜きもしていない野草を放り込んだようだった。直接食べなくても汁にすっかりエグ味が溶け込んでいる。もはや蕎麦というか、適当に雑草を煮込んでそば粉も入れた鍋だ。しかも不味い。


「うう……口の中にエグい野草の味がひたすら残る……酒を持ってきてくれ」


 九郎に言われて、六科は九郎が良く使う五合の大徳利に酒樽から酒を注いて机に置いた。

 江戸時代の飲食店ではテーブルに椅子の席や座敷のちゃぶ台など、時代劇でよく見かけるものも普通は無いのであったが……この店の場合、九郎が「その方が食いやすい」という助言で作って置いてある。

 徳利を傾けて湯呑に入れて酒を一気に煽る。まだ朝だというのにもう酒を始めてしまった少年である。だが香草で舌にこびりついたケミカルな清涼感は中々落ちず、二杯三杯と続けて飲む。

 江戸の酒は水で薄めて売るところも多いのだが、この店はそのまま出すように九郎が仕入れをしたので、本人が飲みたかっただけなのだが客からも酒は良いと評判である。九郎も知人の家に飲みに行くときはこの酒を持って行くぐらいであった。

 これ以外にも安い焼酎も置いてあるが、度数を高めているのでとにかく酔える。

「ちょっと九郎。朝からお酒なんて飲んで……まるでろくでなしみたいよ」

 そう言いながら板場から顔を出したのは、髪をかぶろに切りそろえた十になるかならないかの少女である。煤けた古着を着ている六科とは違って品のいい着物に前掛けをした看板娘で、名をお(ふさ)と云った。

 彼女は腰に手を当てて九郎を叱るように言う。


「そんな調子だと先生みたいなだらしない大人になるわよ」

「いや、石燕のやつは随分己れよりも年下で……」

「言い訳しない。だいたい、お酒なんてお金の掛かるものを水のように飲むなんて……」

「まあまあ、そう怒るな。ほら、酒代はちゃんと稼いできておる」


 九郎は懐から二朱金を取り出して机に置く。

 通貨の価値としては現代とは基準となる物価も異なるのだが敢えて一両を約八万円と仮定すると、二朱金は八枚で一両なので一万円といったところか。

 酒代にしては多い金を出してきたので、お房の反論が一時止まる。

 この店、店主である六科が金に無頓着なこともあり、既に読み書き計算を習得しているお房が帳面の管理をしているので、気前のいい支払いに弱い。


「……この酒代って先生から貰ったお小遣いじゃないでしょうね」

「……」

「九郎」

「いや待て。己れが石燕に金を預けていて、時折引き出しているだけであって石燕から金を無心しているわけでは……というか石燕に薬売った分の金でもあるわけだし……」

「つまり……先生がお財布代わり、と」

「人聞きが悪すぎる」


 お房は頬に手を当てて悩ましげな顔をしている。


「結局、細長くて物を縛るアレなのよね、九郎って……」


 細長くて物を縛るアレというと、女性に経済的な支援を受けて生活を送る、『ひ』で始まり『も』で終わる二文字の関係性のことである。江戸の人は奥ゆかしいので直接的にはそう云わなかったとされている。九郎は嫌そうな顔をした。


「不名誉な称号をつけようとするでないぞ。それよりフサ子や、また六科が蕎麦を台無しにしてしまったのだが」

「ええ? ……見た目はちょっと黒黒しててアレだけど、騙してお店で出せないかしら」

「ほれ一口食ってみよ」


 九郎が箸を渡すと、お房はつるりと麺を啜って──すぐさま口を押さえた。


「~~~~!」

「あー……子供には特に刺激が強かったか、カメムシみたいな臭いが」

「むう」

「ほれフサ子。紙をやるから、ペッと吐き出せ」


 九郎がちり紙を渡そうとするが、お房は青くなって冷や汗もかいた顔をしながら、


「ごくん」


 と、酷く癖の強い蕎麦を飲み込んだ。勿体ない、という気持ちが出たのだろう。そして泣きそうな渋面を作る。


「不っ味いわこれお父さん……本当に不っっっ味いの! なんでこんなの作るのかしら? お百姓さんに対する侮辱よ。怒りすら覚える」

「そ、そうか……すまない」


 ちらりと六科が九郎へと伺うような視線を送った。似たような言葉をぶつけてくるのは、この居候の影響だろうか。


「うううー……口がまじゅい……お水ぅ」

「仕方ないのう」


 九郎は腰に帯びているホルスターから、栞に似た形の紙を一枚取り出した。

 白地に薄い青色の模様によく似た解読困難な文字が描かれている、御札のようなものだ。


「『精水符』」


 札の名を口にして、九郎は意識を向けた。

 すると札から水の球が浮かび上がり、湯呑の中に落ちて波々とそれを満たした。

 九郎はそれをお房に渡すと、彼女は酷い味になった口をその水で潤して飲み込む。


「ぷはー。便利よね、九郎の妖術。いざとなったら水を売って生きていけるわ」

「せせこましい使い方だのう」


 そう、妖術の類である。

 九郎という男、己の持つ札に込められた魔術の力を使い、水を出したり火を灯したり、はたまた雷まで鳴らしたりすることができる。

 あまり人前で見せては騒ぎになるので身内の前でしかやらないが、それでも噂は広まるもので、天狗の術を使っていると密かに言われていた。

 この時代を生きる人々は迷信深い。

天狗や河童の類がいないとも言い切れず、江戸の市中であっても暗がりや廃墟には幽霊妖怪が住まうと言われる世では、九郎の如き怪しげな術を使う者が居ても、それこそ天狗か仙人かと思われる程度だった。

九郎もことさら否定はせぬので、知人の間ではそういった存在だと思われている。

 その実彼は、これより二百数十年未来の日本で生まれ育った男であり、ひょんなことから妖術魔法のはびこる異世界へと迷い込み、そして日本に帰ってきたと思ったら江戸時代であったので諦めてそのまま江戸に住むことにした──という事情は、説明してもあまり理解されないと九郎は思ったので、あまり話すつもりもない。

 その異世界から持ち込んだ道具の一つが、九郎の使う妖術の札であった。


「それにしても……このお蕎麦どうしようかしら。台所にたっぷり麺と青臭いつゆが準備されてるのよね」

「六科……なんで材料全部使って試すのだ……」

「むう」

「暫く六科のメシはこれにするか」

「こんなもの食べてたらお父さんの舌が更にバカになるじゃない」

「もう六科の舌の将来性に期待せんでいいだろう……」


 いっそ鶏の餌にでもしてしまうか、と九郎が考えていたときである。

 店の暖簾が大きく揺れて、慌てた様子で客が店内に入ってきた。


「九郎! 居るか!?」

「む? 影兵衛ではないか。どうした。そんなに急いで」


 現れたのは無精髭を生やした侍だ。腰に大小の二本を差しているのだが、胸元が大きく開いた着流し姿で月代も沿っていない後ろに撫で付けた総髪にしているため、まともに禄を食んでいる侍というよりも浪人崩れの用心棒のような印象を覚える。

 名を、中山影兵衛と云う。これでも立派な、火付盗賊改方の同心であった。

同心の中でも市中を見廻りする役目にあるものは、袴を着ることもあるが、あまりに同心らしい格好で出歩くと盗賊が逃げるというのでこういった武士らしからぬ格好をすることもあった。

 九郎はひょんな事からこの影兵衛の仕事を手伝い、それ以来時折、盗賊の捜索や見張りに手を貸すことがあった。非公認の岡っ引きや、手下のようなものである。

 身分は相手が武士なのだが、影兵衛はさほど気にせずに「己れ、お前」の仲で付き合いがある。飲みに出かけることも多々あった。

 いつも不敵で剣呑な笑みを浮かべている影兵衛だが、今日はなにか焦った様子で、九郎の姿を認めると近づいてきて彼の両肩を握った。


「おい九郎! 大変だ! とにかくヤベえぞ!」

「お主がやべえと云うのは大抵ろくでもない事態な気がするが」

「とにかく一大事だ! ええと、手前の刀どこだよ刀! あれを持て!」


 有無を云わせぬ勢いで影兵衛がそう要求する。

 刀。

 武士の象徴であるその武器だが、似たような形状のものを九郎は異世界から持ち帰ってきていた。もっとも、そんな物を振るう機会はこの江戸ではあまり無いので、部屋干し用の竿として主に使っていたぐらいなのだが。

 影兵衛のただならぬ様子に、お房が二階から九郎の刀を持ってきた。刀身の長さが四尺を越える太刀であり、子供のお房が持つだけでよろけそうだった。

 渡しながら首を傾げて興味深そうに聞く。


「はい九郎。討ち入り? ねえ討ち入りするの?」

「そんなもんに参加してたまるか。荒事ではあるのかもしれんが……」


 普通、手助けといっても切った張ったの現場には連れて行かないものであるが……

 ただ影兵衛の場合、『普通』の同心ではないので、非常識な働かせ方をすることも珍しくなかった。

 彼はとにかく焦った様子で囃し立てる。


「いいから九郎! その刀を持って立ち上がれ! 酔っ払ってねェな? よし、刀を手に……嬢ちゃん達はちょっと離れて……」


 と、やけに具体的な指示を出してきたあたりで、九郎は半眼で彼を睨みながら警戒をした。

 そして影兵衛は突然、目頭を押さえるような仕草を見せて芝居がかった声音で告げてきた。


「拙者ァ悲しいぜ九郎……まさか手前ェさんが、巷を騒がせる『天狗の盗人』だったとはなァ……」

「は?」


 いきなり語りだして、悪名を九郎に押し付けてきたのでそう言葉が漏れた。

 影兵衛は気にすることなく、そして驚いたような仕草を見せて早口で云う。


「おっとォ? こいつは大変だ。知り合いのよしみで説得に来たんだが、その犯人である九郎大先生が刀を手に抵抗する気満々じゃねェか! 大人しくお縄に付く気はねェみてェだな! よし殺し合いで犯人確保ォ!」

「おい──ッ!」


 ぎゃり、と云う鋭く短い音が目に映る火花と同時に聞こえた。

 九郎の眼前には影兵衛が持つ抜身の刀が押し付けられていて、それを九郎が鞘に収められたままの刀で受け止めていたのだ。

 咄嗟のことであった。

 影兵衛が刀を抜く瞬間など一切知覚できなかった。腰から即座に抜き打ちで放ったようだが、信じられぬような速度であった。

反応して防御したというよりも、長年の経験と影兵衛との付き合いで、この男なら話の流れで切りかかってくるという確信を持って予め防御に動いたのが功を奏した。

 僅かにでも遅れるか、まさかいきなり切りかかっては来ないだろうなどと甘い考えをしていたならば、既に九郎の首は胴体と別れていただろう。

日常から流れるように発生した命の危機であった。


「お主マジふざけるなよ……!」


 腕に力を込めて刀を押し返す。単純な腕力ならば九郎の方が上なのだが、影兵衛の刀にはねばりとでも云うべき絶妙な力が込められていて、拮抗している。


「残念だぜ九郎……ここで手前と殺し合うなんて……いや? 残念じゃねえな。むしろ念願か? よーし、存分に抵抗して殺されろォ!」


この影兵衛という男、剣の腕前は並外れている上に火付盗賊改方として数多くの盗賊を惨殺してきた実績はあるのだが、その実は誰かを斬り殺したくて仕方がない異常者でもあるのだ。

 基本的には悪人ばかりを、職務上やむを得ずという形で斬っているのだが、ときに条件さえ整えばこうして友人だろうが殺そうとしてくる。


「誰だこんなヤツ同心にしたのは! 『起風符』!」


 お房が腰を抜かしたように床にへたり込んでいた。ここで暴れては巻き込まれかねない。

 九郎は腰から風を起こす術符を取り出して影兵衛に正面から破壊力を伴う風圧を叩き込んだ。

 さすがの剣客も、実体の無い風を切ることはできない。しかも殆ど密着している距離で打ち込まれたのだ。避けることも不可能である。


「あらよゥ!」


 しかし自ら風に乗って後ろに飛びながら、驚異的な体幹の感覚で転びもせずに通りに退いた。

 その目はまだ爛々と殺し合いを楽しむ光が浮かんでいて、九郎を警戒させる。


(ほとぼりが冷めるまで逃げるか)


 と、話しにならない相手と戦う面倒臭さを感じ取って九郎は思った。相手はかなり腕利きの剣術使いであり、多少腕っぷしに自信がある程度の自分では分が悪い。勘が一回外れただけで斬り殺されるだろう。

 しかし誤解を解かねば人相書きなどが出回る手配犯になるかもしれない。どうにか術符で拘束できないかと思いながら、九郎は影兵衛を追って店の外に出た。

 そこに、


「ああああ! なんかもう、危惧した通りになってるうう⁉」

「利悟、影兵衛さんを止めて!」


 駆けつけてきたのは同心の羽織を着た二人の武士だ。一人はまだ若く二十もそこそこぐらいの男で、もう一人は頭から頭巾を被って目元すら黒布で覆い隠している、羽織が無ければ──いや、あっても不審者にしか見えないような者だった。

 覆面に背中を押された若い武士が冷や汗を浮かべながら云う。


「うわあ拙者に危ない役目を押し付けてきた──こんにちはー中山殿! 本日はお日柄も──あっぶな! 今マジで刀振られたよ! 殺されるかと思った!」


 両手を上げて無害アピールをして近づいてきた彼に、気づかなかったとばかりにさり気ない動きで刀を振る影兵衛だったが、間一髪で袖を切られながら避けた。

 そして影兵衛は吐き捨てるように云う。


「チッ! なんだなんだ。町方の犬どもじゃねェか……もしかして手前らも九郎と殺し合いをしに来たのか? 譲らねェぞ」


 ギロリと二人の乱入者を睥睨する。

 彼らは影兵衛が所属している火付盗賊改方とは異なる、町奉行所の同心である。最初の一撃ぐらいは事故で済んだが、さすがにしっかりと互いを確認しては斬りつけることもできない。影兵衛は不満そうに刀を収めた。


「なんで聴取とかじゃなくていきなり殺し合いになるかなこの人は!」

「この事件は町方が情報持っているから、火付盗賊改方は下がってくださいよ!」


 腰の引けた二人に説得されて、影兵衛は不機嫌そうに云う。


「ちぇっ。なんでェ。そんな言い方だと拙者がろくに情報も持たずに思い込みで先走った……ように見せかけてドサクサで九郎を斬りに来たみてェじゃねェか」

「完全にそれ」


 九郎と同心二人のツッコミが重なった。

 ともあれ町方二人が現れたのでやむを得ず、影兵衛はその場を任すことにしたようだ。彼はいきなり斬りつけてくる異常性と、自分が罪にはならないように振る舞う常識を兼ね備えている。

九郎に斬りかかったのも、もしあの場で斬り殺していたとしてもどうにか自分の正当性を訴えられる目算があったのだろう。なにせ火付盗賊改方は荒っぽいので、現場で盗人を抵抗されたとして斬り殺してもお咎めがほぼ無い。


「……社会に潜む殺人鬼の類だな、あれ。逮捕せんでいいのか」

「中山殿捕まえるとなると拙者が絶対矢面に立たされるから嫌だなあ」

「町方でギリギリ影兵衛さんと勝負になるのが利悟ぐらいだからなあ」

「勝負になるって云ってもね。多分一合か二合ぐらい切り合いで持つかどうかってぐらいだからね。ほんとアテにしないで」


 同心二人は改めて、店の中に入り座敷で九郎の対面に座りそうぼやいた。

 若い男の方は菅山利悟。この店にもちょくちょく顔を出す同心である。腕は悪くないのだが──


「はい利悟さん。今日の特製お蕎麦なの。残さずに食べてね」

「もちろんだよお房ちゃんうぇひひひ! お房ちゃんが持ってきてくれるならこの店の蕎麦が泥団子みたいな味でも食べちゃうよおおお」

「きしょい」

「それはまあ、同感なんだけど」


 九郎と覆面同心が口々に云った。この利悟という男、年若い少年少女に興奮する稚児趣味を持っていることが知られていた。

 お房は引きつった顔をしながら蕎麦の入った丼を渡す。利悟が間髪入れずに啜り込んで──


「……」


 真顔になった。不味い。毒を食らったような、鼻に抜ける清涼感と塩辛さが襲いかかる。

 だが幼女が渡してきた料理だ。これを吐き出すとか残すといった選択肢は利悟に存在しない。

 なるべく味を感じないように、若干白目を剥きながら利悟は噛みもせず蕎麦を喉奥へと流し込んだ。胃の腑から青臭いカメムシの臭いが漂ってくる。


「ご、ごち……」

「おかわりもいいの」

「……」


 利悟が子供好きで断れないことを前提に、ここぞとばかりに六科の失敗作蕎麦を提供するお房。これで金もちゃんと取るのだから、がめつい子供である。


「それでえーとお主は……見たことはあるのだが」


 心を殺しながら蕎麦を咀嚼している利悟を置いて、九郎が覆面の同心へと視線を向けて聞いた。彼は火付盗賊改方だけではなく、町方の利悟にも仕事手伝いを頼まれることがあるので、町奉行所同心も幾らか知り合いはいる。

 そんな中で話したことはないのだが、こうして目立つ覆面なんて付けている同心は一人だけであった。


「あ、自分は町方の隠密廻り同心、藤林尋蔵です。どうぞ宜しく」

「ふぅむ。……なんか見た目、忍びの者みたいだな」

「ししし、忍び!? や、やだなあそんな、忍びがこの太平の世にいるわけ無いじゃないですか!」

「まあ確かに、こんなに目立つ忍びはおらんか」


 九郎はひとまず納得した。だが実のところ、尋蔵は忍びの家系に産まれて幼い頃より修練を積んでいる身である。得意な術は変装で、それ故に普段は本来の顔を隠していた。

 尋蔵は咳払いをして話をする。


「それで件の盗賊なんだけどね、手口が特殊なんだ」


 彼の説明によると江戸の市中、金貸しもやっている刀剣商の店が立て続けに三件襲われたという。

 武士の魂とも云われる刀であるが、太平の世にあっては持ち歩くに重く使うことも無い上に、武士が金欠で手放すということも多くあった。

 手放した後でやれ仕官が決まっただの懐が温まっただので買い戻すことも珍しくない。

 なので刀剣商は刀を担保に金を貸したり、その利子を得たりして金を稼いでいた。

 その金貸しの店が襲われた、という。

 盗まれたのは小判が数十枚と、店にある一番良い刀だという。


「主を脅して刀を出させて、物の序でと小判も懐に入れて逃げていったようでね。その逃げ方が、屋根に上がって天狗かなにかのように、屋根と塀の上をあっという間に走り去っていったそうだ」

「なるほど……それで天狗、と。天狗だか仙人だか呼ばれておる己れが容疑者として影兵衛が殺しに来たわけか」

「おまけに犯人は用心棒を一人斬り殺している」

「どんな凶悪犯だ己れは」


 金貸しのような大金を抱え、恨みを買う仕事をしていると盗人対策に浪人などを用心棒として雇うところも少なくない。


「だが刀剣商の間で噂が広まったのか、三件目で盗人は店が臨時で雇った腕利きの用心棒と切り合いになり、人相を晒すことになった。生憎と逃げられたようだけれどね」

「ほう。運が良かったのう、その店は」

「君の知人の用心棒じゃないかな? 録山晃之介っていう武芸道場の主だそうだけれど」

「晃之介か。あやつならそこらの盗人では敵わんだろう。むしろよく逃げられたな」


 九郎は友人である道場主を思い浮かべながらそう云った。

 録山晃之介は『六天流』と名乗る武芸の道場を府外に開いている若い男で、かなり腕が立つ。

 ただしその武芸は剣術のみならず、棒術、槍術、弓術、短刀術、格闘術まで教えるという、太平の世からすれば時代錯誤なものであり、その鍛錬も非常に厳しいものだから門下生は殆ど居ない、寂れた道場であった。

 弓術を百発百中の腕前で習得しているので、逃げる相手を撃つのも容易に思えるが。


「空中を走るように飛んで逃げる相手に矢を外したことを驚いていたようだけれど……それで自分の情報網にある人物が引っかかった。人呼んで『空走り』の穴吉」

「『空走り』?」

「特殊な歩法で、細い塀や柵、木の小枝さえ踏み台にして跳躍しあたかも空を走っているように地面に降りずに移動する忍術……ごほんごほん、技術を身に着けた盗人だ」

「忍術って云ったか?」


 九郎の指摘に尋蔵はブンブンと頭を振る。


「いや? 云ってないよ? ……ともかく、その穴吉。昔はそう悪いやつでも無かったんだけど……顔を大火傷してから怪しげな宗教にハマって悪党の世界に入ったみたいだ」

「顔に火傷……それが特徴か」

「そう。だから町中で顔に火傷の、四十歳ぐらいの小柄な男を見かけたら尾行して住処を突き止めといてくれたら嬉しいかな」

「そんなもん一般人である己れに頼んでいいのか……というか、盗みを失敗して顔を見られたならもう江戸を離れて逃げるのでは?」

「録山さんの話だと、ほんのチラッと覆面から火傷痕が見えたって話だから向こうは見られたとは気づいてないかもしれないし……ついでに穴吉、剣術がやたら強いから気をつけてね。用心棒を斬るぐらいだから」

「気をつけろと云われてものう」


 別に探しに行くつもりはないのだが、と九郎は頭を掻きながら眠たげに呟いた。

 幾ら現代の東京に比べて人口が少ないとはいえ、大江戸八百八町は人を探すに多すぎる。

 享保の頃に将軍の命で町人の数を調査されたが、その結果は五十万人を超えていた。少なくとも戸籍のある町人の数なので、無宿人や流れの者、更には参勤交代でやってくる武士の人口も加えれば百万人はゆうに住んでいるであろう。

 それを三百人足らずの町奉行所同心で探すのだから、大変な仕事だ。それ故にこういった民間の協力者を同心らは多く持っていたのであった。




 ******




 同心二人が帰った店内にて(利悟は結局不味い蕎麦を三杯食べてぐったりとして担がれていった)お房が九郎に云う。


「金貸しを狙う、人殺しもする盗人ね。空を走るだけだったら妖怪の類なんだけど」

「そうだのう」

「……あ! ちょっと九郎。先生の家って危ないんじゃないかしら」

「石燕の家か?」


 お房の従姉妹であり、読み書き計算に加えて絵描きの師匠のことである。

 名を鳥山石燕。江戸でも有名な、奇抜な格好で奇行をして奇妙な妖怪話ばかり集めて回る、とにかく奇天烈な女だった。

 彼女は若くして夫を亡くしており、その夫は業突く張りの金貸しをしていて今はその遺産である屋敷に暮らし、遊んで暮らせるだけの財産で生活をしながら絵描きを営んでいた。

 女中のような弟子と女二人暮らしで金があるという、確かに盗人からすれば狙い目の家なのだが……


「確かあやつの屋敷周辺は、木戸番などに金を渡して見回ってくれるよう頼んでいるそうだが」

「木戸番なんてうろついていても、相手は屋根の上を飛び回るのよ。大変だわ。九郎、ちょっと暫く先生のところに泊まり込みで用心棒してきて欲しいの」

「己れがか? いや別に構わんが……この店は心配じゃないのか?」

「こんな店に泥棒に来る人なんて居ないの」

「……」


 六科が無言で頷いた。それでいいのか、と九郎は呆れる。

 だがまあ、この店はいかつい六科がいる上に長屋に繋がっていて二件先のイビキすら聞こえるような場所だ。密かに盗みに入るなど難しく、狙わないだろう。

 お房が心配しているので、九郎は一応自分の刀を持って石燕のところへ向かうことにした。




 *****




 神楽坂にある妖怪屋敷。

 武家地が多くある神楽坂に構える屋敷というだけでそこらの町人が住まうようなものではないが、鳥山石燕の住まう屋敷はまた異様な雰囲気に包まれている。

 いつ訪ねてきても不吉に鳴いている鴉はもしかしたら彼女が飼っているのかもしれない、と九郎は思いつつ、逆に不安になるほど塀に貼り付けられた御札を辿り、屋敷の門をくぐった。

もともとは金貸しの亡夫が武家の屋敷を買い取ったらしく、立派な門に玄関まで備えてある。ある程度以上の身分がある武士にしか認められない様式だが、門番も居ないで蟄居しているかのように門は板を打ち付けて閉ざされている。

 中に入るには門にある、ただの朽ちた穴に見える部分に指を差し込んで引っ張るとどんでん返しになっていて中に入れる、絡繰り仕掛けがついてある。不便極まりないが防犯のためでもあるらしい。塀に延々と貼り付けられている不吉な札も、中に入るのを躊躇わせる心理的な効果を期待してのことだ。

 敷地内に入ると、なにやら二人の女性が盛り上がっている話し声がする。九郎は玄関から入って来客で会話を遮るのも悪い気がして、庭から縁側の方へと回った。もっとも、家主とは勝手に上がっても文句も云われぬ仲ではあるのだが。

 九郎が開け放たれた縁側へと近づくと、二人の女性が屋敷内でかしましく言い合っている。


「ど、どうだね! いけるかね⁉ まだまだ現役で、若々しいかね!?」

「凄く似合っていて可愛いですよぅ師匠!」


 拍手でもせんばかりの調子で若い──といっても二十がらみの女が囃し立てている目の前には。

 本来ならば若い娘が身につける振り袖姿をした、年増の女性がいた。(誤解を招かぬために補足すれば、この時代で年増とは二十歳から三十歳までの女性を指す。その中でも中年増、大年増と分かれるのだが、敢えて言及はすまい)

 長い黒髪を腰まで伸ばし、顔にはこの時代の女性に珍しく眼鏡をかけている女だ。目つきはやや鋭いものの、どこか照れたように顔がほころんでいる。振り袖の上からでも見えるぐらいに手足や首は細いが、胸や尻は豊かであった。

 名を、鳥山石燕。年甲斐のない格好をしているが、腕のいい妖怪絵師である。

 二人は、ハッとした様子で庭からこちらを見ている九郎の姿に気づく。


「……ふー」


 九郎はノーコメントで、懐から煙管を取り出すと『炎熱符』という術符で中の煙草に火をつけてから煙を吸って吐いた。


(煙草のよいところは間が持つところだなあ)


 知人女性の恥ずかしいところを見てしまったとしても。

 石燕は動きが固まったままスッと目を閉じて考えた。何事も無かったかのように振る舞うか、敢えて自分から笑い飛ばすか、或いは九郎が唐突に記憶喪失にでもならないか。そんな事を思い浮かべ、この醜態を見られたことをどうしようか悩んでいる。

 慌ててお付きの女──石燕の弟子である百川子興という名の絵師が九郎に詰め寄って声を潜め話しかけた。


「ちょっと九郎っち! なに反応しづらいなあみたいな空気で固まってるの!?」

「いや、己れに気にせず続ければどうだ?」


 九郎の率直な意見に、子興は彼の肩を掴んで揺らしながら云う。


「続けられるかー! 九郎っちは細長くて物を縛るアレなんだからもっと師匠に気を使って! 可愛いねとか抱いてやろうかとか云えないの!?」

「面倒臭いのう……たかが振り袖姿を見たぐらいで……おおい石燕。気にするでないぞ。可愛いものだ。抱っこしてやろうか」


 百を軽く越えているという見た目以上に長生きをしている九郎からすれば、石燕も孫みたいな年なので気安くそう呼びかけた。

 しかしながらそんなやる気のないフォローみたく聞こえる言葉を受けた石燕は、顔を赤くしながら頬を膨らませてヤケクソ気味に云った。


「そ、そんな取ってつけたような褒め言葉なんて慰めのつもりかね!? 『うわキツ』とか『婆婆無理するな』とか云えばいいじゃないか!」

「別にそこまでは思わんが……」

「言いたまえ!」

「……『うわキツ』『いい年して無理するな』」

「死にます」

「うわーっ! 師匠が人生に絶望したような顔で首に帯を巻きつけ始めたーっ!」


 云わせておいて悲しくなり死のうとする石燕を、子興が必死に止めるのであった。

 九郎はひとまず、煙管をもうひと嚥みして煙を吐いた。




 *****




「ほう? 金貸しを狙う怪しげな盗人とな?」

「うむ。まあフサ子も心配しておるから、暫く用心棒として己れが泊まり込もう」

「ふふふ頼もしいではないか……はいお小遣い」

「よせよせ。子興が見ておる」


 挨拶のように金子を押し付けてくる石燕であったが、哀れんだような、或いは失望しているかのような目で見てくる子興を気にして九郎は押し留めた。

 子興は石燕の弟子であり、屋敷の家事を受け持ち、また酒に酔ったり風邪を引いたりする石燕を介護するために住み込んでいる。単なる弟子というよりもダメな親の面倒を見る娘か妹分のような関係だった。

 当然ながらそんな師匠に対して小遣いを貰う関係の九郎へは微妙な視線を向けてくるのだが、ある種諦めているところもあった。


「へー……九郎っち泊まるんだ……あ⁉ ひょっとして小生、お邪魔じゃないですか!? 蕎麦屋の方にお泊りに行きましょうか!?」


 師匠がこの細長いアレ的な男の事をかなり気に入っているのを知っている子興が、そう冷やかすように提案したが、否定の言葉が帰ってきた。


「なにを云っているのだね子興。洗濯とか風呂焚きとか晩酌の用意とか色々仕事があるではないか」

「あまり気を使わんでいいぞ子興や。酒はぬるめの燗で、肴は炙った烏賊でいいから」

「注文までつけてきた!」


 割と図々しい客人だったがすっかり石燕の弟子教育によって下女気質になってしまっているので従う子興であった。

 九郎が泊まるというので子興が準備をしようと、押入れや食器棚を確認したが、これが改めて考えると呆れたもので、石燕によって九郎用の布団からお膳、猪口や湯呑、着替えまで揃っているのである。

 一緒に暮らしているわけでもなければ、蕎麦屋で寝泊まりをしている彼が泊まりに来るのは稀だというのに。

 子興は師匠の準備の良さに割と引いた。

本気で細長いアレとして囲い込むつもりがあるのかもしれない。

 だが彼女は知っている。


(それはそうとして、師匠はヘタレなところがあるから九郎っちを誘えないわけで)


 なんとも不憫な気がしてならない。

 しかしながら落ち着いてくつろぎ始めた九郎と石燕の様子を見ていれば、なんとなく子興は、


「まあ、これでいいのかな。二人は」


 と、納得するような気持ちになる。

 縁側で茶を啜りながら将棋を打ち、腰が痛むだの温泉に行きたいだのとのんびり語り合っている。なお石燕の服装は可愛らしい振り袖から、いつも着ている真っ黒い喪服へとすぐ着替えた。

 未亡人と情夫とか、貢ぐ女とヒモとか、或いは色恋沙汰の男女にすら見えない。

 枯れきったがなんとなくずっと一緒に居る老夫婦のようだ。

 子興はあまり良い両親に恵まれなかった。その上まだ少女とも言える年に親を亡くして、頼る宛てもなかったときに石燕から拾って貰った。だからこうしていると、自分には居なかった穏やかな親というものが居るようで、少し心が暖かくなった。


(ごちそうの材料でも買ってくるかな)


 結局、師匠や九郎が家に居ても酒や肴を甘やかすほどに与えてしまうのがいつものことであったのだが。





 *****




 さて、落ち着いた老夫婦なのは酒を飲まない間だけである。

 日が暮れ始めて、今か今かと石燕が待ち構えていた酒が解禁されると途端に駄目な飲兵衛の二人になる。

 九郎などはまだ楽しみながら飲んでいる方だが、石燕ときたらへべれけになるまで飲む。そして絡む。九郎と知り合う前は、酔っ払うにしても一人であったのだが、飲み仲間が出来てからというもの、


「でひひひひゅふふふ九郎くーん! 飲んでいるかねー? 美味しいかねー? かね……おかねをあげよう」

「酔っ払いながら金を握らせてくるでない」

「幾らだねー? 九郎くん幾らなのだねー?」

「キャバ嬢に絡むおっさんかお主は」

「師匠飲みすぎですよう」


 子興が嗜めるとやや据わった目で彼女を見ながら石燕は云う。


「なら子興も飲めばいいではないか!」

「なにが、ならなんですか……」

「九郎くん、子興は酔うとすぐ脱ぐから見モノだよ。はしたない。その癖を直さない限り嫁には出さないからね」

「うわーっ! なに云ってるんですか師匠! 脱がないからね小生!」

「なら子興も飲めばいいではないか!」

「話が戻った!?」


 と、無理やり石燕が湯呑に注いだ酒を子興にも飲ませた。二人で鯨飲しているものだが、一升で五百文はする上方から下ってきた上酒である。並の酒より四倍から五倍は値段が高い。

 高級品故につい、飲みやすくて子興はぐいぐいと飲んでしまい──

 半刻もしないうちに酔って着物を脱いだ挙げ句に眠りこけて、布団に入れられた。


「本当に脱いだな」

「師匠ながら心配になるよ。彼女を娶る男は酔っ払って前後不覚になった全裸の美女を襲ったりしない、鋼のごとき自制心を持つ誠実な者でなければならない!」

「それはもう誠実というか相当の堅物か、或いは不能か……あ、己れ不能だから平気だ」

「九郎くんは駄目だよ!?」


 もう九郎は高齢のためか、体は若いというのにさっぱりと使い物にならないのであった。


「それにしても、金貸しの家を狙って名刀を奪う……か。なにが目的だろうね?」

「刀を売るのではないか? 名刀なら百両とか二百両とかで売れるのでは?」

「いやいや、名刀というのは名があるからそう呼ばれるわけだよ。つまりどこで売ろうとも出自を問われるし、同業者が盗まれたものだと証言されれば返さねばならない、ということにもなりかねない」

「ふぅむ。商人が売り買いする物ではない名刀収集家がいるとか」

「武蔵坊弁慶みたいだね。……ふむ? そういえば……」

「どうしたのだ?」


 なにか思い出した、という様子の石燕に九郎は首を傾げて尋ねた。

 顔は赤らんで酒気が口から吐き出されるが、生来の解説好きからよどみなく珠のような声を転がして語り出した。


「刀を奪って集める、という話で有名なものがもう一つある。『太平記』での大森彦七だ」

「……知らんのう。太平記、というと……楠木正成とかが出てくるやつだったか?」


 九郎も日本史の記憶は数十年昔に学校で習ったきりなので記憶に乏しい。

 そんな彼の曖昧な知識に対して、石燕は我が意を得たりとばかりに眼鏡を光らせて続ける。


「そう、その楠木正成公を討ち取ったとされる武将が大森彦七だ。彼の伝説ではその後、怨霊となって化けて出た楠木正成が三本の刀を探しているという。仏教における『三毒』を宿した妖刀だね。三毒とはつまり、


『貪』……むさぼり求める欲。

『瞋』……怒りと憎しみのこと。

『癡』……無知と愚かさ苦しみ。


 それぞれの名を取った妖刀を集めれば、足利の幕府をも滅ぼす猛毒を生み出せるという」


 酔っているのに手付きは確かで、サラサラと取り出した紙に刀名に解説の文字を書いて見せる。


「物理的な毒というか呪いのような話だのう」


 そして石燕は酔っ払った顔をにやつかせながら誇らしげに云う。


「そしてなんと! その物語の後で行方不明になった『貪』の妖刀がこの屋敷の蔵にあるのだよ!」

「そんな不吉なもの、なんで持っておるのだ……」

「死んだ夫は阿漕な金貸しでね。色んな道具を質草として取り上げ収集していたのさ。その殆どは処分してしまったがね、呪いだとか妖怪だとか曰く付きらしいものは取っておいた。なにせ『貪』が保管されていた日吉大社の札に、大楠公が祀られている湊川神社の札、そして大般若経が鞘に巻きつけられている厳重封印されている刀といったらそれぐらいだからね」

「完全に呪われておる道具だのう……」

「楠木正成の怨霊が開放されたら夜な夜な、糞便を油で煮込んで人にぶっかけてくる凶悪な妖怪に……! もしかしたらその刀も糞便が塗り込まれているかもしれない……!」

「威力が凄まじく高い攻撃だ……」


 楠木正成といえばウンコを使った攻撃である。

 更に油を加えれば皮膚がただれるほど高温の毒物を使うようなものだ。九郎は幾ら自分が、毒が効かない体質だからといって想像するだけで嫌だった。


「よし、離れの蔵に置いてあるからちょっと見に行こうではないか九郎くん!」

「こんな夜中にか? 別に明日でよかろう」

「今晩のうちに盗まれたらどうするのだね! 隠しておくとか、『名刀ウンコ丸』とか名前を掘って盗む相手への嫌がらせをしてみるとか」


 などと言いながら庭へ降りようとするのだが、既に飲酒で足元も覚束ない。

 こう言い出したら石燕は話を聞かないので、仕方なく九郎は肩を支えて蔵まで連れて行ってやった。


「うふふふー夜風が気持ちいいね、九郎くん」

「そうだのう。刀を確認したらもう寝るか」


 そして、九郎が蔵の戸を開けた。

 彼は夜目がかなり利く方である。庭の明るさに慣れた目は、最初から蝋燭の火で照らされている蔵の中を一瞬で見渡せた。

 その中央で、刀を手にして不意に入ってきたこちらを見ている黒ずくめの男がいることも、九郎は即座に把握した。


「はれ?」


 石燕がとぼけた声を出している間に九郎は酔いを一瞬で冷ました。蔵の中にいた黒ずくめは、片手に札などで鞘ごと封印されている刀を持ち、もう片方に白刃を晒した直刀を構えて入り口へと突進してきた。


「──ちぃっ!」


 九郎は側に石燕がいるので迎え撃つのを諦め、彼女を脇に抱きかかえて跳び退いた。

 それでも一撃を加えようと云うのか、黒ずくめは更に接近して九郎と石燕に向かって刀を突き込む。近づく切っ先に九郎は息を飲んだ。躱すことは可能だが、下手に避ければ石燕に当たる。

 刹那の判断だ。九郎は迫りくる剣先に掌を翳した。勢いのついた直刀は、殆ど抵抗もなく九郎の小さな掌を貫通する。盗人は勝ちを確信した──その時、挿し込んだ刀が半ばからへし折られた。

 貫通して僅かに勢いが削がれた刀身を無理やり九郎が万力の如き握力で握りつぶし破壊したのだ。常人の力ではない。彼が首に巻く『相力呪符』は、人間離れした力を彼に与えることができるのだ。

 黒ずくめの行動は早かった。折れた刀を手放すと、垂直な蔵の壁を駆け上がるように登り塀を飛び越えて逃げることを選択したのだ。

 その手には盗んだ『貪』の刀が持たれたまま。


「縁起の悪そうなものだが……追いかけるとするか」


 九郎はそう言いながらもひとまず石燕を抱えて縁側に戻り、彼女を邸内に置いた。そして持ってきていた自分の太刀を掴んで、傷も塞がぬまま飛び出した。


「九郎くん!」

「すぐ戻るからのう」


 そう短く返した九郎は青白い着流しに手を掛けると、僅かにそれが夜闇に薄ぼんやりと光った。

 次の瞬間には風に乗って空へと舞い上がり、九郎は自在に空中を狼藉者が逃げた方向へと飛んでいった。

 異世界より持ち帰った妖術の籠もった衣である『疫病風装』というそれを身に着けた彼は、まさに天狗のように空を飛ぶことができるのである。

 たださすがに常識的に考えて空なんか飛んでいるのを、身内ならまだしもあまり他人に見られるわけにもいかないので、なるべく人目につかないように使うのだが。

 それでも九郎が飛んでいた、という噂は知られ、まあ天狗だから仕方ないか、と割と納得されたりもしている。

 空に舞い上がり、現場から逃げていく相手を探す。こんな夜中に走って移動するものなど限られている上に、相手は道を走って目立たぬよう屋根や塀づたいに逃げていたのですぐにわかった。

 九郎が飛行して追いかけるとやおら追いつき、相手の頭上を並走して飛んだ。


(さてどう止めるか)


 と、手を軽く振って血を払いながら考えた。

 接近して捕まえるとまた刺されそうである。相手はどう見ても忍びだ。寸鉄だの苦無だのを持っている可能性は大いにある。

 かといって妖術で、市中に火球だの雷だのを落とせば大変なことになってしまう。自分が起こした火事で大きな被害が出ては目も当てられない。


「よし」


 と、九郎が取り出したのは影兵衛にも使った風の術符だ。


「『起風符』」


 そう唱えると同時に、空走りの穴吉が動きを止めた。

 彼は驚いたように足をジタバタと動かすが、完全に足場となる屋根から浮いてしまっている。

 九郎が起こした風が局所的な激しい上昇気流を生み出し、穴吉を下から押し上げて浮遊させ、前後左右から吹き付ける風の檻で拘束したのだ。

 いかに脚力や逃げ足に自信がある者とて、宙に浮かされては天狗ならぬ身では移動することもできない。

 相手の前に九郎が姿を現すと、妖術で動きを止められたことを悟ったのだろう。驚き、目を見開いたのは一瞬だけだ。即座に判断をすると、懐から取り出したのは──なんと短銃であった。

『火打絡繰り』と呼ばれる、火打ち石を使った火縄銃は江戸時代に職人の手によって試作品が作られている。それが主流にならなかったのは、日本産の火打ち石が適さなかったことと、既に太平の世では使う場所もなければ、兵器開発を幕府は推奨しなかったこともある。下手に製造しているところを咎められれば死罪になるのだ。

 そのうちの一つ。既に発射準備が整っていた火打ち石式の短銃が容赦なく九郎へと火を吹いた。


「危なっ」


 だが、軽い声を上げると同時に弾丸はまるですり抜けるかのように九郎から外れる。穴吉は舌打ちをした。もとより、命中精度はあまり良い武器ではない。

 九郎は落ち着いた様子で呼びかける。


「危ない輩め。こそ泥ならともかく人殺しまで躊躇わんとなれば、捨て置くわけにはいかん。大人しく捕まれ──ん? お主、さっき盗んだ刀はどこだ?」


 首を傾げる。札で厳重に封印されていた刀を盗んだはずなのだが、穴吉が片手に持っているのは予備の忍者刀だけであった。


「どこに隠した」

「法師と共に」

「……法師?」


 短く呟いた相手の言葉を聞き返すが、穴吉はブツブツと呟いている。


「法師はどこにでもいる。俺とお前の間にも。石にも。木にも。法師はいつでも俺と共にある。法師を感じろ。法師の暗黒面を受け入れろ。法師に選ばれし者は俺だ……」


 九郎は相手の目に正気の光が灯っていないのを認めた。 

 見たことがある雰囲気で息を呑む。


(シャブ中の顔だ……)


 どうやらかなりマトモではないようだった。


(宗教に傾倒したと、尋蔵は云っていたが……変な薬までやっておるのか?)


 すると、穴吉は空中で両手両足を大の字に伸ばして、支離滅裂なことを叫んだ。


「──お前が憎い! 愛していたのに! 俺が父だ!」

「そんな事云われても──うおっ!?」


 穴吉は手足を覆っている装束を風に翳して膨らませたかと思うと、空気抵抗と体移動を巧みに浮遊状態のまま行い──なんと空中を短距離だが疾走して九郎へと斬りかかったのである。

 まさに『空走り』の忍術である。

 一度勢いをつけたら今度はムササビが滑空するように九郎に迫り、不意打ちを受けた九郎は風の檻を解除してしまった。もとより、全方位から風を一つの座標に吹き付けるため、少しでもズレたら効果が無くなるのだ。

 九郎の頭に向かって唐竹割りに振り下ろす穴吉の刀を、九郎は鞘に入れたままの太刀で受け止める。

 空中に居ながらも全体重を九郎に押し付けて二人は墜落していきながら、少しも互いに隙を見せられない状態だった。


「地の利を得たぞ! 俺が上だ! 法師の力を! 理力の剣に!」

「ぐぬっ……!」


 引き剥がせずに九郎は地面に降りて後ろに下がるが、穴吉は距離を空ければまた妖術に掛かると判断したのか、何事か叫びながらも接近しては斬りかかる。

 間合いを測ったり、相手の出方を探ったりといった駆け引きも無い猛攻である。薬物によって恐怖も躊躇も失ったかのようだった。

 二撃、三撃を受け止めて九郎は舌を巻く。


(ヤク中なのに強いぞこやつ……)


 実際のところ九郎はそこまで剣術が得意というわけではない。長年の経験と勘は受け太刀に回れば容易に崩せぬほど耐えるが、後は精々が凄まじく膂力が強いぐらいの実力であった。片手を怪我したままということもあり、穴吉の方が腕前は上だろう。

 九郎は早々とケリをつけねば危険だと判断した。

 背後に飛び退り、相手が再び近づこうとするより早く、九郎は己の刀を抜き放った。

 それは、月の輝きすら霞むような美しい刀だった。

 その刀身は闇夜の中でも妖しげなほど白く輝き、圧倒されるような気配を放つ。

 恐るべき名刀、いや神剣か天狗の妖刀とでも云うべき凄みを感じる刀。

 刀を重要視する武士ならずとも、女人や子供が見ようとも目を奪われるほどの迫力だ。

 盗人として名刀を奪い集めていた穴吉も、呼吸を忘れてそれを凝視した。

 そして──


「ほれ、くれてやる」


 九郎は無造作にその凄まじい刀を、抜身のまま穴吉の方へ軽く投げた。

 それこそ材木を投げ渡すように、ぽんと。

 咄嗟に、法具の如き尊みを感じるその刀を受け止めねば、と穴吉は思う。目の前で重要文化財や数千両の価値がある芸術品を投げ捨てられたようなものだ。両手を差し出して刀を受け取った瞬間──


「隙あり──」


 九郎は完全に意識を刀に向けていた穴吉の胸ぐらを掴んで固定し、もう片方の固めた拳で鳩尾、胸、顎を次々に殴打した。

 余人の放つ拳ではない。

 相撲取りに匹敵する威力の打撃が次々に防御も出来ず直撃し、穴吉は顎を砕かれて悲鳴も上げられずに倒れ伏す。

 彼の持つ、抜けば煌めく凄まじい刀は単なる目くらましであったようだ。


「ふう……あ、いかん。盗んだ刀の場所を聞くのを忘れたが……後で取り調べられるだろう」


 そう云って、気絶した穴吉を担いで近くの番小屋へとひとまず連行するのであった。

 



 ******




 捕らえた盗人はすぐさま同心を呼ばれ、九郎は面倒になりそうだったので利悟と尋蔵の名を出して二人に指示されて捕縛した、と責任を丸投げして早々と退散した。

 もとよりこういった同心が民間の手先を使って得た手柄の殆どは、その手先の者などほぼ関わり合いもなく同心の手柄になるものである。だから深くは追求されずに済んだ。

 しかしながら日頃から噂話と世間話に飢えている江戸の町民らの間では、


「天狗泥棒が捕まったそうだ」

「もう一人の天狗がとっ捕まえたらしい」

「空から落ちてくるのを見た親方がいる」


 などと噂され、九郎天狗説は根強いものになっていく。

 石燕の家が盗人に狙われている、という予測を見事的中させたお房は一安心したが、手を怪我してきた九郎を心配したため、泊まりの予定は無かったことにされた。

 石燕宅でも治療ができるのだが、


「怪我に悪いのに平気だとか云ってすぐにお酒呑むから」


 という真っ当な理由に反論は出来なかった。

 翌日、同心らによる様々な聴取を終えた石燕は六科の蕎麦屋にやってきて、


「ううう……九郎くん、いつでも泊まりに来ていいんだからね?」


 そう残念そうに石燕は云う。相変わらず客は他に居ない。今日は酒の代わりに九郎が茶を飲んでいた。


「……そういえば石燕。お主、未来予知とか占いとかできるのではなかったのか? 盗人が家に来るとか知らなかったのか?」


 彼女は自称・未来予知によって様々な情報を知っている女であり、ときに奇妙な事を口走るのもそういった知識によるものだった。

 話によれば、己が死ぬところまで予知することが出来たという。しかし彼女は晴れやかに云う。


「ふふふ、全然知らなかったね! まさかこうなるとは!」

「胸を張って云うことか……」

「九郎くんが絡むと未来予知が外れてしまうのさ。今回も九郎くんが泊まりに来なかったら、いつの間にか盗まれて私は気づきもしなかったかもしれない」

「ふぅむ」


 と、九郎は今更どうこう云ってもなにがあるわけでもなし、ひとまず納得をした。

 九郎が石燕の人生に関係することで、彼女が知る未来は変わる。これは九郎という存在がこの世界にとってイレギュラーだからだろうか。

故に彼が関わることで石燕自身が予知した、そう遠くない未来に自分は死ぬという出来事すら変わるのではないか、と望んでいるのであった。


「しかしながら、どういうわけかお主の妖刀は見つからなかったのう」


「犯人は正気じゃなくて話が通じなかったそうだね。ただ根城にしていた稲荷神社のお堂には、他の刀が放置されていたようだが……私のだけどこに行ったのだろうね?」

 江戸の街は『伊勢屋、稲荷に犬の糞』と呼ばれるほど、そこらに犬の糞が落ちているように伊勢屋という名前の店や稲荷の小さなお堂が存在していた。その中の一つに寝泊まりしていたようだ。

 小屋どころか厠ほどの狭さで居住性はまったく良くないのだが、常に薬物で正気でないのならば気にもしなかったのだろう。


「……そこまで薬物中毒だというのに、何故刀を集めていたのだろうね。それにそういった麻薬は薬種問屋でも取り扱っていない、殆どご禁制の品として抜け荷(密輸)で入ってくる程度だと聞くが……どこから手に入れたのだろうか。それに法師とはいったい……」

「キノコでも食べてラリっていた可能性もあるぞ」

「食べたら押し込み強盗をやりだすキノコなんて無いと思うがね……」


 石燕は考え込む仕草を見せて、遠い目を空に向けた。


「どちらにせよ、三本集めると国を滅ぼせるという伝説のある呪いの刀が一つ、どこかに消えたということは確かだね。九郎くん! つまり江戸は狙われている!」

「なんか江戸ってちょくちょく狙われておる印象あるよな。時代劇の話だと」

「ちなみに現場付近で、妖しげなお面姿で薬箪笥を背負った不審者が目撃されていたようだね」

「なんか聞いたことのある不審者だな」


 九郎はそう言いながら、運ばれてきた蕎麦を手繰る。


「そんな事件より六科の蕎麦が唐突に不味くなることの方が己れには問題なのだが……」

「今日は大丈夫よ。作り方をちゃんとさせたの」

「問題ない」


 お房と六科がそう云うので、九郎は蕎麦を啜って頷いた。




「うむ。普通に不味い。いつもの六科のやつの味だ。不味い。なんで旨くならんのか」




 お房が九郎の頭を叩くハリセンの音が響く。いつも通りのむじな亭での光景であった。

 これは異世界から帰ったと思ったら江戸時代だった九郎という男が。

 様々な人や事件と関わり、妖術や腕力で解決したり、料理や商売を広めたり、そういった日常を江戸で過ごす物語の一幕──




詳しくは活動報告か、Twitterにて!

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