13話『影兵衛の話~籠釣瓶花街と切り裂き同心~』
久しぶりのリハビリ更新。最近影の薄かった影兵衛メインの話です。九郎がモブ。
まあ二ヶ月休んでる間に長めの短編2つ書いたけど…
暇があればそちらもどうぞ
実の親父(40代ガテン系)がTS病で美少女になったんだがとてもつらい…
https://book1.adouzi.eu.org/n1503ep/
サンソンに出会いを求めるのは間違っているだろうか
https://book1.adouzi.eu.org/n3359eq/
中山影兵衛という火付盗賊改方の同心は、若い頃から悪処通いのならず者であるもう一つの顔を持っていた。
もちろん、幕府に仕える役人という立場であったので偽名と嘘身分を使い、同僚上司らには調査の一環として建前を作ってはヤクザ崩れや無頼漢の手下を連れて色街や賭場に通い、時には喧嘩騒動なども起こしていた。
やがて彼は嫁を娶ってからは女を買って乱痴気騒ぎのような真似は控えて、その分嫁を溺愛した。しかしながら真面目に捜査のためや悪党を探すためにそういった場所へ足を向けることは珍しくない。火付盗賊改方の中でも一等に影兵衛は悪処で不審に思われない容姿と雰囲気をしていて、更に他の悪党への嗅覚に優れる。
悪党への嗅覚というか、勘働き、或いは偶然に彼らを見つける運の良さなどはどうも理屈でないように思えるが、火付盗賊改方では影兵衛が、町奉行所では食い歩きが趣味の同心・水谷端右衛門がその天分を持っているともっぱら噂されている。
無論、二人が突発的な手柄を上げていることには、剣術や柔術で悪党相手に圧倒できる実力があってのことだが。その実績故に、二人はある程度自由な裁量で動いても同僚上司から文句も付けられないのだった。
そんな父を長男の新助も尊敬しているし、自分もいずれは同心になって活躍するのだと意気込んでいる。
「それでは父上! 行ってまいります!」
新助は日課である六天流の道場へ向かうので、朝早くからそう気合を入れて寝ぼけ眼を擦る父に挨拶をした。
「おう。チンピラに絡まれたら練習の成果を活かせよー。木剣でガツンとな。ガツンと」
にかっと笑って影兵衛は刀を振る仕草を見せてそう物騒な助言するので、息子は苦笑いを返した。
「外を歩くだけで普通絡まれませんから」
「なんだよ。拙者とか九郎とかしょっちゅう絡まれてたぞ。奇声を発して素手とかドスとか円月輪とかで襲ってくる輩」
「父上と九郎さんだけですから本当」
「まあ最近は二人共、武闘派ヤクザか何かだと世間様から認識されてるもんで余所者以外突っかかってこねえんだけどよ。あーあ、つまんねえ」
基本的に着流しで月代も剃らずに町を彷徨く影兵衛は真っ当な侍には見えないらしい。
同心としての顔よりも貧乏浪人ヤクザとしての顔の方が町では知られていて、彼が逮捕して悪党を連れて行くのを見られてもヤクザ同士の抗争で拉致られて二度と帰ってこない的なアレだと思われている。
「新助はまだ顔が売れてねえからな。いずれお前も凄い勢いで襲撃されるようになる」
「治安が最悪なんですけど!?」
「なあに、返り討ちにしているうちに男ってのは強くなるもんさ。センセイにも聞いてみろ。絶対よく襲われてたって言うから」
そう言って新助を道場に送り出した。釈然としない様子の新助だったが、実際に録山晃之介に聞いてみたら彼も全国を旅しつつ日課のように襲撃されまくっていたと笑いながら話したので、まだ知らぬ世界に戦慄するのであった。
*******
さてその日も市中見廻りに出た影兵衛は野生動物のような勘に従ってぶらぶらと浪人姿で歩いていた。
「たまにはどっかでイカれた剣術の達人が無差別に暴れ出さねえかなあー」
治安を守る側だというのに酷い期待をしながら、足は吉原近辺へと向いていた。
影兵衛の望むような悪党の性別はほぼ男であるので、自然と男が集まる場所といえば色街界隈になる。
そして大抵の悪党は庶民ほど女を抱くのに我慢が効かず、何かしら後ろめたい金を持っていることもある。それを散財するとなれば女を買うのが普通であった。
だがまあ、吉原の管轄は自治会と町奉行所なので大っぴらに捜査はできず、影兵衛としたら中の脱法版元に所属している歌麿に話を聞くぐらいなのだが。
(九郎の奴が居たら何かしら事件でも起きそうなんだけどなー)
事件巻き込まれ体質を持つ友人のことを思う。ここ何年かは子育ての為に余り一緒に出歩くことも無かった。火付盗賊改方の仕事を振っても、部下のような忍び連中にまわしてしまっていたほどだ。
近頃はまた人助けの仕事などを始めたので事件に巻き込まれているようだったが……
(そういや吉原にも時々行ってたよなあいつ)
人聞きが悪いが、遊女上がりで旦那を見合いで探したいという娘を引き取りに出ているのである。
身請けされずに借金を自力で返し終えたはいいが帰る故郷も良人も居ないという女や、病気やあまりに客が取れないで養うのも厄介になった店から放り出される娘を一旦引き受け、治療などを行って菓子屋で働きつつ旦那を探してやっている。
醜女で客がつかない娘だろうと、これを逃したら一生結婚できないであろう独身男が九郎を頼ってきているので次々に相手は見つかるようだ。
「美醜の好みなど夫婦になってしまえばなんとかなるというものだのう」
とは数々の仲人をしてきた九郎の言である。嫁が貰えれば御の字な時代だ。身分の差や惚れた腫れたの仲を引き裂くのでもなければ、庶民同士の婚姻は見合いであっさりと互いに認め合うようだ。
余談だが見合いで結婚が決まる確率は戦前ぐらいでも五割を越えていたのだが、2017年の統計では僅か2%程度に落ち込んでいる。現代に比べれば昔は見合いをすればお互いにくっつくことに疑問が生じないのは常識なのだった。
閑話休題。
ひとまず影兵衛は九郎でも居ないかと吉原へと足を向けることにした。吉原自体、自治組織と町奉行所の管轄であるのだが構うことも無く。
さて、江戸市中の何処から向かっても日本堤を通って日本橋に行くことになる。
それ故にこの日本堤の通りはむやみやたらに男が行き交っていて、武士の姿も多い。武士は馬に跨って通うので馬道通りなどと呼ばれるほどだった。
そうすると馬を預ける店や、吉原に行く前に髪を整える髪結処、軽い飲食屋に資金作りの金貸し質屋なども通りには見られ、賑わいを見せていた。
武士は馬で、金持ちの庶民は駕籠か舟でやってくる日本堤だが、影兵衛は憚ることなく徒歩で歩いていく。吉原に入れ込んで駕籠も使えない貧乏浪人のようである。
「おっ! 三郎の旦那ァ! これからお楽しみですかい?」
そう話しかけたのは顔見知りの博徒だった。三人で歩いていて影兵衛の姿を見かけると頭を下げて挨拶をする。
三郎というのは影兵衛が適当に名乗っている偽名である。主に三男だからそう名乗っている。ちなみに実家の旗本家に居る彼の兄二人は似ても似つかない普通の真面目な男である。
高禄旗本の家に生まれたとはいえ三男では冷や飯ぐらいで面白みも無いので、家を出て火付盗賊改同心で跡継ぎの居ない者と交渉し役目を継いだのである。同心職というのは実態として親が子に継がせているものの、建前上は世襲でないことになっているので影兵衛でもなれたのだ。
影兵衛は手をひらひらと振って歯を見せて笑う。
「馬鹿野郎そんな景気のいい話があるか。買えてちょんの間の局女郎よ」
別に買うつもりも無いのだが、下世話に影兵衛はそう応えた。
ちょんの間の局女郎というと、ほんの一ト切(10分程度)で事を済まし回数を稼ぐ最下級の女郎である。客が付かずに食い詰めた女郎が回される役目であり、値段も一回で五十文から百文(約1000円~2000円)という安値で春を売っている。
羅生門河岸というとそういった貧しい女郎が住むお歯黒溝に面した一帯であり、華々しい印象の吉原内にある影の場所であった。
実際博徒三人も顔を顰めて穢れを払うように手を振った。
「うへえ止めたほうがいい。ありゃ汚いし病気で見れたもんじゃねえ」
「いや最近はそういうやつも減ったって話だぜ? なんか金にならねえ女郎はバンバン他所に売り飛ばして入れ替えてるんだとか」
「売り物になるのか?」
「おれの聞いた噂だと物好きで絶倫の天狗が取っ替え引っ替え食い物にしてるんだとか」
「きひひっははは!」
影兵衛は手を叩いて笑った。
慈善事業でやっているような遊女上がりの救済だが、あまりにも常識とはかけ離れているというか、そんな事をして何の得になるのかまったく理解されないので邪推されている友人がおかしくなった。
(そりゃあ嫁を何人も持っているような天狗が、次々に遊女を買い上げて行ったら穴ボコ目的だと思われるわな)
実際は遊女屋の方が手切れ金として遊女ないし引き受ける九郎に金を渡しているほどなのだったが、そういった関係性は他人には更に理解不能だ。
女を過酷に従わせ食い物にし、聖人が持つべき八徳を忘れた外道忘八と呼ばれる楼主らでも目覚めの悪さや悪行の自覚ぐらいはしているのだ。だから自分のところで使い潰して死なせるよりは(死体の処理も厄介であるし)九郎に引き取らせて何処かで幸せにでもなってくれれば、幾らかは閻魔の裁きにも酌量されると思っているのだろう。
「あー面白。よし、拙者ァその噂の天狗が品定めに来てねえかちょっくら見てくる。じゃあな」
影兵衛は足取りも軽く博徒らと別れて衣紋坂を登る。
その途中で彼はふと振り返り、見返り柳と呼ばれる大きな柳の木が揺れるのを眺めた。
「うーん……落語だったら吉原を訪れた若旦那はこの衣紋坂の辺りで発狂した平家の落ち武者に襲われたりするんだが、中々現実には起きねえなあ」
毎度待っているのだが、とがっかりして影兵衛はまた大門へと向かう足を進めた。
──大門に近づくにつれて、やけにがやがやとした大勢のどよめき声が聞こえ始めた。
遠目に見て明らかに、常ならぬ人集りが門前に出来ていて、八尺棒を手にした門番と同心らが一般人を押し留めているようだ。
「おい……」
影兵衛は一瞬立ち止まって、口の端を吊り上げて笑みを浮かべた。
「おいおいおい。なに? なんか事件起きちゃってるの? へへへっやべえな……是非やべえ事件起きてろ百人ぐらい殺されるやつ」
物騒な事を言いつつ難波跳躍るんるんで近づいていく。
門前に集まっている手近な一人の男を捕まえて話を聞いた。
「よう、あんた。こりゃ何の騒ぎだ? 殺しか?」
「あ、ああ。今まさに、門のすぐ近くにある茶屋の[蔦屋]で男が暴れているらしい。遊女を切ったとかで……」
「おほーっ!」
「なにその叫び!?」
影兵衛は興奮して吐息を漏らした。まさに自分好みの案件だ。
蔦屋という店は表向きは茶屋であるが、金貸しをしたり吉原の遊女を描いた美人画などを販売したりしている脱法版元でもあったりする謎の大店だ。そこに所属する絵師の一人に歌麿も居たり、九郎も時折吉原で楼主忘八と話をつけるときは利用している店だった。
それはともあれ、刀を持って暴れる男。まさにうってつけだった。
「拙者の正義の心が悪を見過ごせねえな! ここは加勢して斬り殺さねえと……うっ禁断症状で手が震える!」
「うわあなんかこっちにもヤバイ人が!?」
話しかけていた青年がドン引きしたが、影兵衛は笑いを堪えきれない様子で人混みをかき分け、民衆を近づけまいと守っている同心へと声を掛けた。
「おい! 拙者だ拙者! 助太刀に来たぜ!」
「うげえあんたは……!」
嫌そうに町方の同心が呻いた。
火付盗賊改方と町奉行所は仕事が一部被っているので、お互いに顔見知りも多い。特に影兵衛などは目立つ存在であった。
顔を顰めた平同心に親しげに影兵衛は肩を組んで耳元でささやく。
「なぁー拙者も参加させてくれよぉーたまたま事件に巻き込まれた浪人の某ってことで全然報告に出さなくていいからさぁー手柄とか全部やるしよー」
「な、なにが目的なんだ……!?」
「殺し合い。いやまあ、その刀振り回してる奴が強ェかどうか知らねえけど少なくとも拙者を殺すつもりで掛かってくれそうじゃん? 相手は拙者を殺そうとして拙者は相手を殺そうとする両思いの関係じゃん? つまり因縁の好敵手よ! 因縁の相手と決着をつけるのを邪魔しねえでくれ……! あいつは仇なんだ……!」
「そういうのを因縁つけるっていうんじゃ……とにかく今は、うちの美樹本さんが捕縛に突入したのでもうすぐ解決するはずだ」
「ちぇっ。美樹本の爺っつぁんか。事故って負けねえかな」
影兵衛は舌打ちをして大門から現場らしい、すぐ近くにある2階建ての茶屋を覗く。
町奉行所の同心筆頭を長年勤め上げている美樹本善治は腕の確かな古強者である。飄々としていて一見昼行灯に見えるが彼の捜査・捕物・尋問の様々な技能は与力からも大きく信頼されている。
だが彼は時折凄まじい運の悪さを発揮して現場で重傷を負うことがある。例えば足場の床が抜けた、刀の目釘が折れて刀身があらぬ方向へ吹っ飛んだなどで大怪我をしたことが何度もあった。
不謹慎な事を影兵衛が願っていると──
「美樹本さんがやられたぞー!」
「急いで医者を呼べ!」
店の入り口から血まみれの善治が肩を部下に担がれて運び出されてきた。べっとりと肩口から胸に掛けて血が付着しており、また左手の下腕部にも出血があった。
影兵衛は親指を立てて叫んだ。
「いいね!」
「何もよくねえよ!? あああ美樹本さん……!」
大門近くの詰め所に運び込まれる息も絶え絶えな美樹本に同心は焦る。重傷のようだが意識ははっきりしているようで、顔を顰めて痛みに耐えていた。
「よう爺っつぁん!」
影兵衛が大怪我しているにも関わらず、飲み屋でばったり出くわしたかのような気楽さで話しかける。
「今度はどんなドジをしたんだ? 腐った畳にでも足を取られたか?」
「ぐっ……よう切り裂きの。いやはや、俺も年だわ……普通に切り合いで負けたんだな、これが。参ったね」
苦しげに応えながら傷口を押さえる。
だがその痛々しい様子に、影兵衛は歓喜を禁じ得なかった。そこらの道場でブイブイ言わせてる程度の剣客や、人を十人や二十人殺し慣れてる程度の悪党では相手にならない程に強い善治が地力で負けたという。
「おほ、おほほほほ」
笑みを浮かべて気色悪い嬌声をこぼす影兵衛に同心らはドン引きした。
善治のため息混じりの証言が続く。
「偶然、現場に居合わせた九郎と協力して店のやつら逃したりしてたが……」
「九郎来てるのか!? やべえ獲物を取られねえように……」
「俺の代わりに戦い始めたはいいが──見たところどうも九郎でも抑えきれねえやつでな……困った困った」
「いやっはァァ!」
「うわ──! 喜び勇んで店へと向かっていった──!?」
影兵衛はもはや所属組織の領域を気にせずに現場へ向かっていった。
善治を倒すだけでも見どころがあるのに、九郎とタイマンをして抑えきれないような使い手で、しかも切っても誰も咎めない悪党だ。
まさに天の巡り合わせだ。そう影兵衛は感じた。久方ぶりに彼はいきり立っていた。
********
なんでこんな、と九郎は心底逃げたくなっていた。
彼はその日、引き取る遊女らに関する打ち合わせとして吉原にやってきていたのだ。
蔦屋にて楼主組合の忘八と会合して帰るだけの簡単な用事だったというのに、たった今死にかけていた。動かなくなった片手をだらりと垂らし、もう片方の手で刀を構えて相手へ向けている。
電撃符を巻いた刀からは露骨に青白い火花が放電されている。それを相手が警戒しているから膠着状態になっているだけで、とりあえず隙を突いて逃げなくてはマズイと九郎は自覚していた。既に腕を一本切り落とされて無理やり凍らせくっつけている状態である。
この状況は非常に九郎には相性が悪いのだ。
事の始まりはこの店で突発的な惨劇が起こったことだった。客の一人が痴情のもつれで遊女とその情夫に切りかかったのだ。
正確に言うならば、抜刀即斬首だったという。一撃で吉原一丁目の大店、兵庫屋の遊女八ツ橋は首がころりと落ちた。
絶叫と惨劇の始まりであった。
このご時世、侍のみならずドスを手にした無頼悪漢も多く江戸に居て、そういう連中ほど花街を好むので荒事は吉原でも日常茶飯事だ。
となればどうするかというと、吉原でも揉め事に強い力自慢の用心棒を雇っている。彼らは普段、料金を回収したり遊女が足抜けしないように見張っていたりする掛廻や油差しといった役職についている。
彼らは迷うことなく、凶刃を振るった相手へと飛びかかった。
刀を持っている男の容姿が、強面に慣れた彼らへの油断も誘ったのだろう。下手人はとても精悍とも凶相とも言えぬうらなりなあばた顔の醜男であったのだ。
はっきりいって女に相手にされないのもわかる醜さだ。メチャ醜といったところだろうか。
掴みかかろうとした大柄な用心棒らが、刀の間合いに入ると同時に首筋から血を吹き出して倒れていった。
そして向かってくる者を切りつつ、発狂した醜男はゆっくりと店を歩きつつ何事かと部屋から顔を出した他の遊女まで切っていった。
大慌てで店の者が飛び出して大門に詰めている門番と同心を呼び、この日に当番であった美樹本善治が部下を連れて駆け込んできたのだが……
結局彼もやられ、どうにか店に居合わせて客の非難を助けていた九郎が善治を致命傷ギリギリで救助して今は対応しているのだった。
「おのれ……! 喰らえ!」
距離を取り、真正面に居る醜男に向けて精水符で水の塊を打ち込む。
最初はいつもどおりに掴みかかって怪力で引き倒してやろうとしたのだが、腕をバッサリやられた挙げ句に必死に避けたが脇腹も軽く切られた。
着ている青白い羽織──お八が仕立て直して羽織にしてくれた──は自動回避をしてくれる疫病風装だが、特定条件の攻撃では突破される。達人の使う日本刀もその一つだ。これは日本刀が病や呪い、魔を払うための儀礼道具としても使われることから霊的な相性が悪いのである。特に腕の良い相手が振るうと九郎自身が頑張って回避しなくてはならない。
なので、九郎の次の狙いは術であった。
まず水の塊をぶつけて濡らす。次に極寒の空気を作り出して凍らせる。これで大抵の相手は行動不能になるという目論見であった。
だが──
「ああああ!」
醜男は呻いて泣きながら怒っている奇妙な表情のまま、勢いよく宙を進み自分に飛んでくる水流に刀を翳した。
すると刀で切ったところからあたかも新田義貞が海を引かせたかのように水が別れて彼を濡らすことなく左右に散った。
「どうなっておるのださっきから!?」
何度試しても刀で水を切ってくるのである。
それもそのはず、彼の持つ業物はかの有名な村正作、水も刃を濡らさぬ切れ味を誇るが故に名付けられた[籠釣瓶]と云う名刀であった。なれば水が切れるのも道理だ。
「殺す殺す殺す殺す売女はみんな殺して殺して殺して殺して殺さないと……」
「ぬう!?」
ゆらりと近づいてくる醜男に、障害物のように氷の柱を生み出して後ろに下がる。だが一抱えほどもある柱も彼の振るう刀に即座に四分割されてがらがらと床に落ちた。
スタンロッドと化した九郎の刀を打ち合わせれば電撃を浴びせられるかもしれないが、そんなことが許される間合いに入ると一気に斬り殺されそうであった。刀同士が当たる間合いは、半歩踏み込めば九郎自身が切られてしまう。
(ええい……! 今度から影兵衛とか剣の達人とやり合うときは絶対に屋内でやらんようにするぞ!)
一気に状況が不利になるというか、屋外ならば空高くに浮かんで遠距離攻撃連発ができるかもしれないが屋内ではそうもいかない。
水をぶっかけずに周辺一帯を凍らせようとしても、この店には逃げ遅れた人が何人も部屋に隠れているのでそれらまで凍死させかねない。
当然ながら密集地である屋内で火も使えないし、突風も切り裂かれた。雷なんて飛ばして意味があるだろうか?
ブラスレイターゼンゼで即効性があるぐらいキツイ毒なんてこの水で濡れまくっている中撒いたら確実に被害が広がる。病毒の回収も万能ではないのだ。体内深くに浸透した病気は吸い込めず、障害を負った臓器血管神経系が回復することもない。この店にまだ隠れている人らや、下手すれば畳に染み込んで後々に感染者が出るかもしれない。
普通に接近戦で敵わない上に術の殆どを封じられて九郎は逃げ回りながら大変苦戦していた。
彼が完全に店から脱出しては、障害の無くなった男が次々に部屋を回って惨殺を繰り返してしまうか、追いかけてきて野次馬に集まっている人の群れに突っ込むかするだろう。
(こんな時に利悟が居れば……押し付けて逃げるのに!)
一閃を皮一枚で避ける。パッと胸元に赤い線が生まれ血が滲んだ。
なぜこんなぽっと出でこんな発狂した達人が現れるのか。誰が望んだのか。九郎は理不尽を感じた。
刀を指で弾く技を使う余裕も無いぐらいに振りが早く、大きく下がって避けねば切られてしまう。
(マズイマズイマズイ。こうなったら李自成をインストールしてパワーアップするか!?)
以前魂に融合していた亡霊を呼び起こせば無双の武侠になれるが、隙を見せるとそれだけで殺されそうだ。
下手をすれば、剣術の腕前だけならば録山晃之介よりも上だろう。なんでそんな達人がぽっと出で現れて発狂して暴れ、自分は巻き込まれているのか。理不尽を九郎は感じていた。
「くっ! 落ち着け! モテないからって人生捨て鉢になっちゃあいかんぞお主!」
どうにか説得して動きを止めようと九郎は呼びかける。必死であった。
「ううううるさい! もうおれは死刑なんだ! こうなったら死ぬ前に一人でも売女を切って、おれのような男を減らすのが生きた証だ!」
「どういう理屈だ!?」
醜男は遊女に手ひどく振られたばかりであった。彼が通いつめていた遊女、八ツ橋に身持ちを崩すほどに彼は金をつぎ込んでいたのだ。
身請けをして嫁に欲しい、とまで言った。だが八ツ橋は貰うものを貰っても頷かなかったばかりか、しつこい醜男を痛めつけて諦めさせるために情夫の浪人までけしかけて来たのである。
今、その浪人と八ツ橋の首はこの店に転がっている。
「おれが醜いのも売女のせいだ!」
「とにかく話を──!? あぶっ! 話を聞かせてみうおおお畳が真っ二つに!?」
転げるように九郎は逃げつつ、剛力で引っ剥がした畳を手裏剣のようにぶん投げたというのにあっさりと切り払われてしまった。切れ味が影兵衛とか浅右衛門並である。
醜男は我慢ならないとばかりに口にする。
「近所の坊主の話によれば、おれの親父が遊女を身請けしたけど梅毒だったから惨殺した恨みで息子のおれが醜男の呪いを受けたとか」
「それ遊女じゃなくてお主の親父がクズなだけだろ!?」
「なんだと!?」
思わずツッコミを入れたら逆上してまた襲いかかろうと構えてきたので、九郎もかなり嫌気が差した。
なんで日常から急に、何の因縁もないクズな達人に殺され掛けなくてはならないのか。こんなところで死んだら嫁やらスフィやら悲しむだろうな、とも思った。
かと言ってもはや九郎がこの事件に関わっていることは明白なので、被害を無視した大規模攻撃……例えば店が燃えることを厭わず火炎放射などを行うと確実に容疑者に挙げられる。正当防衛で放火は明らかにやりすぎで、嫁や子供巻き込んで重罪になっては堪らない。
(こうなったらどうにか外に逃げて対抗できそうなやつを連れてくるか……!)
これは明らかに影兵衛とか晃之助案件だった。他にもスフィでも音波攻撃で勝てるだろう。とにかく九郎とこの状況は相性が悪かった。
と、そのとき。
「───いいいいいやっはー! よう九郎! 元気してるか!? 冷やした甘酒でも飲む!?」
影兵衛が障子を2つ同時に蹴り倒して部屋に参上した。爛々と目を輝かせて、対峙している九郎と醜男を眺め見る。
一瞬影兵衛に相手が意識を向けたので九郎は大きく飛び退りながら逃げて影兵衛に叫んだ。
「良いところに来たな! お主好みの変態だ! もう後は任せる!」
「おほーっ! 九郎ちゃんてば、ボロボロの助じゃん!? よっしゃ!」
九郎の負けそうな様子を見て、冴えない容姿をした彼の相手が実力確かなことに大喜びをする影兵衛。勇んで腰に帯びた刀を抜こうとする。
その瞬間。
早いというか、一切無駄の無い動きで醜男は新たな敵とみなした影兵衛へ踏み込むと同時に、必要なだけの間合いに入った刀を上段から打ち下ろしていた。
影兵衛の意識が凄まじく研ぎ澄まされてその動作の一瞬一瞬が鮮明に見えた。
(……早いな。刃筋が寸分違わず拙者に向いてて、素人の腕じゃねえ)
まっすぐに空間を滑るように迫る刃は力を込めずとも骨肉を切り落とせるだろう。幾度も正しい振りを追求して、ひたすらに練り上げた達者のみが振るえる迷いのない太刀筋だった。
影兵衛はまだ刀を抜けていない。ゆっくりと近づくように感じる相手の一撃を見ながら、判断する。
腰の捻りと半身ずらす動きを合わせた抜即斬の居合抜きを放つことが可能だが、相手の早さが思ったよりも鋭い。
影兵衛は並の相手ならば、おのれの額のすぐ上に刀を置かせた状態と腰に刀を帯びたままの状態で、ヨーイドンで勝負をしても抜き打ちを先に决められる自信があるが、この醜男相手では出来て相打ちだろうと思った。
迎撃することをせずに刀の間合いを完全に見切って、紙一枚の遠さで後ろに体を逸らし上段からの切り下ろしを躱した。
相手が空振りさせた刀を戻すよりも早く影兵衛は抜き打ちを放とうとした。狙いは前に出ている腕だ。腕を切れば剣士同士の戦いはほぼ終わる──無理やりくっつける九郎みたいなの以外は。
ぴっ、と鞘を弾く音を立てて刀の切っ先が振り下ろされた手首へと向かった。だが、相手は自然な動作で手首を返して刀を上向きに変え、軽い棒きれでも振り回すかのように切り上げの動きで影兵衛の刀を弾いた。
澄んだ金属音が響く。
(殆ど振り下ろしに力を込めて居なかった……力みも全然ねえのな)
普通、真剣での殺し合いなどをしたら必要以上に力を込めて一撃一撃が全力になってしまうものだ。
だが目の前の相手は最速の振りでありながら最低限の力しか使っていないので、空振りの反動も殆ど無い。練習で素振りをしているようなものだった。
また、力を込めずに握っていながら絶妙なねばりが刀を保持しており、打ち合った勢いで弾き飛ばそうとしたが巧く力を合わせられてしまった。
一瞬の判断で影兵衛は刀を滑らせずに合わせたまま大きく左へ押さえつけた。お互いの切っ先が体から離れ無防備になる。
「ちょいさァッ!!」
体勢の崩れた状態からの軽業技能は影兵衛の得意技だ。半歩踏み込んで蹴り足が伸びた。爪先から打ち込む彼の蹴りはちょっとした板切れならば、割れるのではなく穴が空く威力がある。
神速の踏み込みと蹴り足は男の腹部に突き刺さり──吹き飛ぶようにして男は下がった。だが、倒れていない。
「ごほっ……!」
「ほう……腹になんか仕込んでやがったな」
咳き込んで苦しそうな顔をしている男に油断なく影兵衛は刀を構えると、男は胸元に手を突っ込んで腹に入れていた冊子を取り出して床に投げた。
趣味で持っていた春画本である。それの表紙が蹴りの威力でえぐり取られていた。
防御を失ったが、腹に異物を抱えたままの状態よりも彼は動きやすくなったことを感じる。この相手では、僅かな障害すら危険だと判断した。
ピタリと、醜男も刀を上段に振り上げた。両手を挙げて構えた相手を見て、影兵衛は試す。
「小柄が避けられるかよォッ!」
片手で懐から四本の小柄を取り出す。ほんの指ほどの刀身しかない小型の刃物だが、彼が投げると決して無視できぬ威力で骨まで通る投擲武器になる。
腕の一振りで同時に、醜男の体を四箇所狙った投擲が放たれた。
更に影兵衛は小柄の攻撃結果を待つまでもなく、脇構えに刀を引きつつ踏み込んで接近する。投擲と接近戦。隙の生じぬ二段構えである。
醜男は上段に構えた刀を、振り下ろしたかと思ったら迷わぬ動きで身を躱しつつ、腰を落として薙ぎ切りへと移行した。振り下ろす動作で小柄二本を撃ち落とし、腰を落とすことで一本を避けてもう一本をおのれの袴で絡み取り無効化する。
そうしながら、接近してきた影兵衛の脇構えから放たれる一撃と打ち合い──
(やべッ)
ぎゃり、と刃が触れ合い、鉄片がわずかに砕け散った音を立てる。手応えが通じると同時に影兵衛は接近していた動作に急制動を掛けて刀を引きつつ身を低くした。
彼の頭上を、影兵衛との打ち合いに勝った醜男の刃が薙ぐ。危ういところで躱した。離れたところから見ている九郎も緊張のあまりに汗を浮かべる場面であった。
一瞬、打ち合う寸前に影兵衛は自分の一撃よりも相手の方が迷いない太刀筋で腰と丹田の力が篭った一撃であることを察したのだ。
正面から打ち合えば、弾かれて自分の刀は相手の肩を切り、相手の刀は影兵衛の首を切っていただろう。それを気づいて咄嗟に避けることに成功したのだ。
迷いがないとは、尋常なことではない。
普通、相対して殺し合いをすれば、何かしら心の動きがあるものだが──相手はまさに、誰も居ない空間に素振りをしているかのように恐れも気負いも見当たらない攻撃をしていた。
半端なフェイントは通じない相手だ。だが、剣士同士の戦いというのは相手が惑わされようがそうでなかろうが、お互いの心の動きを読み合う一環として何かしら仕掛ける機があるものであり、無意識のうちにそうしているものだ。
しかしこの相手にはそれが無意味であり、圧倒的な正しい素振りが余計な動作をしたこちらを上回った速度で襲ってくる。
「面白え」
再び距離を取った影兵衛は舌なめずりをした。
そして遥か昔、物心が付くか付かないかの頃に祖父に言われた言葉を思い出す。
彼の祖父・中山直房は現場主義で活動的な武官であった。火付改の長官を勤め、自ら江戸中を駆け回り盗賊を一網打尽にし、赤穂浪士の吉良邸襲撃にも見物に行くほど切った張ったの場が好きであり、そして剣術の達人でもあった。
老齢の彼は孫に剣術の手ほどきとしてこう教えていた。
『いいか。剣術なんてのは単純に云えば先に当たった方が勝ちなんだ。つまり振りが早ェほうが勝つ。
じゃあどうすりゃ早くなるかっつーと、腕力を鍛えるには限度があらぁな。相撲取りだって爺だって、腕は骨と肉で出来てるのは同じなんだからそうそう違いが出るもんでもねえ。
大事なのは最小の動きで、最短の距離を、最適な動作と必要なだけの力で振ることだけだ。そのコツさえ掴んじまえば、ひ弱な爺だって剣客相手に一本取れる──まあ理想で云えばな?』
実際は体力とかその他諸々でなー、一人二人ぐらいならなーとか惜しそうに言っていたことを影兵衛は微妙に覚えている。
小さい頃に亡くなってしまったのでその強かったであろう祖父からはあまり手ほどきされなかったが、それでも正しい構えと正しい振りは教えられた。
軽業のように無造作に戦うことが多いので滅多に使わないが──
「──火付盗賊改方同心・中山影兵衛だ。いざ──尋常に勝負」
彼が正眼の構えを取り、無駄と隙と遊びを無くした真っ当を突き詰めた姿勢でそう相手に告げた。
相手と同じく正面から、最速の振りを持ってした勝負を挑むことにしたのだ。下手な小細工を弄しても無意味だと思えた。
普段邪剣ばかり使うのでこうして教え通りに構えるのは、面映い気分もしたが……なるほど、普段よりも早くなるのは間違いがなさそうだと構えながら影兵衛は感じる。
相手も同じ構えをして、醜男は唾を飲み込んで名乗る。
「野州が農家、佐野次郎左衛門……しょ、勝負だ!」
次郎左衛門は始めて緊張を覚えた。同時に、奇妙な高揚もあった。
彼は下野国野州(現在の栃木)で養蚕農家をしている豪農である。武芸百般に通じた武士でも、忍びの末裔として厳しい訓練を積んだわけでもない農民である。
ただし彼は幼い頃に野盗に襲われ、その際に偶然通りかかった浪人がそれを助けたことがあった。
浪人を家に招いたが、彼は家を失ってから送っていた世捨て人のような放浪生活が祟り病を負っていた。
もはや旅も出来ぬと悟った彼は家の主人、佐野次郎兵衛に頼んでそこを終生の地にした。さすがに遊女を斬り殺す父親でも、息子の命の恩人を無下にはできなかったようだ。
その僅かな余生の間に、彼は次郎左衛門に正しい素振りを教え──そして死ぬ際におのれの持っていた名刀・籠釣瓶村正を形見として与えたのである。
それからというもの、暇を見ては次郎左衛門は愚直に素振りを繰り返した。
何度も何度も何度も繰り返し、正しい振りを追求し、より早くより無駄を省き研ぎ澄まされたのが──今彼が使う剣術であった。
たかが素振りを十年二十年続けても達人にはなれない。もしそれでなれるのならば、示現流の稽古で毎日振り回している薩摩人などは達人だらけだ。
彼の場合は常に最高の振りを繰り返してきたことが上達の原因だった。素振りで得られる経験の値がピンからキリまであるのならば、彼はその何万回もの素振り全てを最上の経験を得て腕を磨いてきたようなものである。
奇しくも得難い才能があったのだろう。影兵衛は思う。
(年は三十の手前ぐらいか? そんなガキみたいな青二才が、百も数えた大天狗やらこの年まで実戦積みまくった拙者やらを脅かすとは……だから剣術って面白え!)
殴り合いの喧嘩では人と人には体格や年齢で勝負をするにも限界がある。
如何に子供が無抵抗の相撲取りを殴ろうが蹴ろうが、或いは急所に一撃を当てたとしても敵わないだろう。
だが子供が振るった刀が油断した達人を殺すことはあり得る。正しく刀を振る方法さえ学べば、子供でも大人を殺せる。瞬き一つも気が抜けないやり取りを強いられる。それが真剣勝負というものだ。
命を掛けての勝負の高揚を互いが感じていた。
精神が集中される。自分の指先にまで流れる血液さえ感じ取られ、宙を舞う埃さえ目に見えるようだった。
一秒が引き伸ばされてあらゆる感覚が純化されていく。
(これが──)
と、次郎左衛門は思った。
(これが勝負……!)
実戦など知らず、ひたすら刀を振り続けて、憤りで悪鬼に堕ちてしまったが──今まさに始めての勝負を味わっていた。
これまでは八ツ橋を切ったときもその情夫を切ったときも、おかしな妖術を使う天狗を相手にしたときも勝負という感覚は無かった。
だが今はまさに、これだと云う感覚があった。
自分と相手、それぞれが持つ領分を、得意とする力をぶつけ合い挑むことが出来るのである。
歓びと共に、冷静な勝利への分析が刹那に脳内へと駆け巡る。
(あの構えの迫力からして、本気になった中山殿の剣は自分と同じぐらいの早さだろう)
最大限に無駄を省いた剣の一撃は速度にそう差が生まれない。猩々のような万力があったとしても、人間の手で振るうという条件である以上は頭打ちがあるのだ。
(そして恐らく、踏み込みの速度は圧倒的に向こうが早い)
これはひたすら素振りをしていた次郎左衛門と、駆け回り飛び回り戦ってきた影兵衛の差だろう。
(ならば、足は捨て──間合いに入った瞬間に迎え撃ち、切る)
相手の勢いは自分を勝るだろうが、このような技量の達人相手では相打ちを覚悟しなければならなかった。
自分は死ぬだろうか。次郎左衛門は飲み込んだ唾が妙に苦く感じられた。
引き伸ばされた感覚で機を待っていると──ぞくり、と耳の後ろから後頭部の頭髪が引きつるような怖気を感じた。
目はそちらを見ることは出来ない。眼前に居る影兵衛を映している。だというのに、背後が見えた気がした。
おのれの背後には、自分を切り終えてすれ違った影兵衛が立っている気がした。
それは精神集中のあまりに現実と錯覚するが如き幻として浮かんだ、未来の予測であった。
あらゆる情報を脳が総合的に判断した結果、確実に影兵衛に負けて彼は立ち自分は死ぬという結果が浮かんだのだ。
(駄目だ! このままだと負ける!)
ならば、
(前に──出る!)
予測した、待ち構えた先に訪れる未来を変える為に。
次郎左衛門は前に踏み込んだ。同時に、踏んだ畳を脚力で爆発させる勢いで影兵衛は急な接近をして刀を振り上げる。
急激に影兵衛の体が大きくなったように感じた。目の前に巨大な熊が飛びかかってくるのに似た、生物の本能が恐れを感じる気配だ。
それに対して一歩でも二歩でも前に出るのは困難だったが、次郎左衛門はやり遂げた。
「おおおお!!」
叫びを上げる。情けないうめき声でも、怨嗟の嘆きでもない雄叫びを上げたのは次郎左衛門の人生でこれが始めてだった。
正しさを追求した刃が空を断つ。互いに振り上げてからの切り下ろしだ。
真正面から刀がぶつかり合う。僅かにでも刃筋がぶれていた方が弾かれ、相手の一撃を頭に受ける。だが完璧な振りを重ねた刀同士は、ぶつかり合ってお互いの頭寸前で停止し、鍔迫り合いの形になった。
どちらかが並の腕前ならば刀ごと切り落とされていただろう。あるいは反応の一つも出来ずに切られたか。少なくとも九郎は見ていて絶対に真っ向からやり合いたくなかった。
重たい。影兵衛のぶつかってきた勢いを受け止め次郎左衛門は動きを止めて──そしてすぐ目の前にある刃と影兵衛の顔を見ながらハッとした。
(この状態から……どうすればいいんだ!?)
完全な素振りを追求してきた彼は唯一人、富農の若旦那がやる道楽として回りに見られてきたので一人稽古以外はやってこなかった。
それ故に、鍔迫り合いからどうすればいいのか──などといった経験は無く、戸惑いが生まれたのだ。
「うおおお!」
その戸惑い悟られる前に、距離を置くべきだと影兵衛を強く押して離れようとした。
だが駆け引きが得意な影兵衛は自ら力を抜いて軽い跳躍で後ろに下がり、改めて刀を振りかざして接近する。
焦り。
思いっきり力んで押した力を流され、しなった竹のように素早く戻ってくる影兵衛の攻撃に次郎左衛門はそれを感じた。
迎え撃たねば。
そう思って、刀を構え──刃筋を立てて──振るった刃は……影兵衛の着物一枚を切り裂いたのみだった。
次郎左衛門の脇腹を深く切り抜いて背後へ抜けた影兵衛は確かな手応えに、刀を振って血を払う。
全身に力が入らず、急速な血圧の低下で次郎左衛門は膝を付いて倒れた。
(予め見ていた通りになったな……)
やはり影兵衛には敵わなかった。直感で幻視したように、彼はおのれの背後に居る。
すると、予想もしなかった声が掛かった。
「おめえは強かった!」
薄れゆく意識に、影兵衛の声が耳へと届いた。
「江戸でも腕っこきな拙者が認めてやらあ。おめえさんの剣術は凄かったぜ」
「そ……そうか」
次郎左衛門は口の奥から血の味がするのを感じながら、喋る。
「おれの剣は……凄かったか……強くなれたか……」
「ああ。その年で大したもんだ。だがちょいと拙者には及ばなかったな。生まれ変わったら鍛え直して、また挑んできな。そんときゃ勝てるかもしれねえぞ。佐野次郎左衛門」
「ありが……とう……中山……殿」
咳き込んで喋るのも難しくなってきた。
暗くなっていく視界の端に、転がっている八ツ橋の首が見えた。
(すまないことをしたなあ……女の相手をするより……ずっと刀の方が楽しいことに気づいていれば)
もっと鍛えていれば。様々な道場にも通って、対人戦も積んで、もっと強くなっていれば届いたかもしれない。
もはや彼の心には非常に勝手ながら、八ツ橋やその情夫に対する恨みも全て消え去っていた。
ただもう一度、剣の道を極め──そして挑みたいという後悔だけがあった。
(きっと……来世には……また……勝負を……)
──佐野次郎兵衛の命が止まった。
こうして、吉原で起きた惨劇は幕を閉じた。醜男で嫉妬に狂った純粋な剣客は、正当な勝負の果てに尽きていったのである。
非常に迷惑な男ではあったが、その死に顔は安らかであった。
「いつつつ……あーもう、酷い目にあったのう。っていうか腕千切れたぞ。己れの腕は着脱可能じゃないんだぞまったく……」
部屋の隅に居た九郎が腕を押さえながらぼやく。
再生力のやたら高い九郎ならば、一日ぐらいくっつけておけばまた動くようになるだろう。しかし何度も切られたいものではない。
「骨折り損どころか、骨切り損だ。ろくすっぽ活躍できずに子供にも自慢できぬではないか」
「そうか? 拙者ァ久々に楽しかったぜ? 大体、九郎が足止めしてなかったらもっと殺られてたんだから、ちゃんと役に立ってたって」
「これだからお主は……しかし世の中、唐突に無茶苦茶強いやつが居るもんだのう。お主が居なかったら、百人ぐらい犠牲者が出てたのではないか?」
「んー……そうだな。百人ぐらい切ってたかもな。だけどよ、雑魚百人より達人一人がやっぱり殺し合うには楽しいわけよ」
さてはて、この事件は吉原という閉ざされた狭い世界で起きたこと。町奉行所の不手際。或いは一般大衆への悪影響を懸念されてか、記録には曖昧にしか残っていない。佐野次郎兵衛の出自も諸説あり、起きた年代も元禄年間だとか享保年間だとか様々に言われている。
犠牲者の数も定かではないことから、通称[吉原百人斬り]事件と呼ばれた。
このことは後に歌舞伎の舞台となり、[青楼詞合鏡]や[杜若艶色染]、或いは一番有名な明治になって上演された[籠釣瓶花街酔醒]などと言った形で脚色されて知られたという。
その後、死体であっても捕縛連行された次郎左衛門は、町奉行の裁量で斬首の判決が下った。
罪人の首を切るなど同心であってもやりたがらないもので、故に山田浅右衛門に任せることも多いのだが──その際に、管轄外の火付盗賊改方同心の影兵衛が名乗り出た。
逮捕の立役者で色々と借りがあるのでやむを得なく町奉行所は彼に死体の首を切らせるのを認めた。
自分からやろうとした理由としては、
「あの山田浅右衛門の菩薩みてえな剣で首を切られたら、コイツが成仏しちまうだろ。生まれ変わって勝負でも挑んでもらわねえとな」
近頃の浅右衛門の首切りは更に磨きが掛かっていて、彼が刑場に現れるだけで泣きわめき押さえつけられていた罪人が死を悟って項垂れ首を差し出すほどであったのだ。
影兵衛は次郎左衛門の首を切って、その体は適当に野山に埋めてやった。供養もしない。恨みや怨念で戻ってきても、それはそれで構わなかった。
「じゃあな。そんときまで刀は預かっておくぜ」
そうして、籠釣瓶村正は影兵衛の手に残り──いずれ再び相まみえることを願うのであった。
あのような凄まじい剣客が起こした恐るべき事件があっても、江戸はいつもと変わらぬ賑わいを見せている。影兵衛はまた、何か騒動を探して今日も街を歩く───
時は下り21世紀の日本
「ふひっふへへへへへへっ!! 見つけましたぞ中山殿ォ~!! おれと勝負を致せー!! 前世からの因縁を果たそうぞ~!!」
「ぎゃあああ!? なんか真剣持ったメンヘラ女が襲いかかって来るんだけど!? 知らねえええ!!」
「生きるか死ぬかの殺し合い! ひひっひひっふー! 女の身になれどあの昂りが忘れられず……! 今度こそ相打ちになって一緒に死にましょうぞー!」
「こえええええ!? こういうクソ地雷女は九朗かアサギのおっさんにでも絡んでろよ!? おーい助けろー!」
高校に乱入してきた他校の女子生徒に襲われているクラスメイトの不良生徒を見ながら、厄介者係の九朗少年と三十路生徒のアサギ青年は頷いた。
「無視しよう」
「──怖────関わらんとこ───」
二人は背中を向けて足早に立ち去っていく。
「助けろおおおお!! うわああああ!!」
不良生徒
佐野継花17歳
次郎左衛門の転生体。剣道女子。憧れは山田朝子アナウンサー。
前世の記憶がある。佐野六科の子孫。
中山景子17歳。
ギャル系。図太く気兼ねしない性格でクラス内の交友関係は広い。
影兵衛の子孫だが転生体ではない。




