9話『茨掲示純情派/お九の偽装身分』
余り物同士というわけではないが──
割りと真剣に、自らの幸せの為に行動を始めた茨の結婚相手に関して。
彼女と同年代で手に職を持っていて、声が良く出せない茨のことを大事にしそうな男。
九郎は微妙に悩みつつも、このご時世に絵仕事一本で食っていけて、女慣れもしている弟分の若き絵師北川歌麿を紹介することにした。
今はまだ様々なペンネームを使い分けて合法非合法な絵を売っている男だが、名前からして将来は売れっ子になりそうだ。九郎でも江戸時代の歌麿ぐらいは知っている。まあ、陰間の玉菊が居候のタマになり、タマが絵を学んで歌麿になるなど思いもしなかったが。
ともかく、茨も歌麿も九郎が言うのなら一度話し合ってみようかと彼の店に招かれて、二人に茶を出したところだった。
靂が死んでいた。
「い、いやだ……茨が嫁に行くだけならまだしも……歌麿さんが義理の弟的な関係になるのは……ううう」
「やかましい。お主は店番をしていろ」
二人が向かい合う部屋をぶっ倒れたまま覗き呻いている靂を九郎は踏みつけながら言う。
「確かに、時々歌麿が挨拶する程度の関係だったので相性がどうか気になるが……」
九郎も気になって部屋を覗く。相変わらずニコニコとした歌麿が茨に熱心に話しかけているところだった。
基本的に歌麿は物怖じしない性格と、甘え上手に馬鹿助平な陽気者なので相性の悪い女というのはあまり居ない。元々女装して女社会に居た影響かもしれない。
まあ殆どは知り合いから「馬鹿な弟」か「馬鹿な兄」みたいな扱いを受けるのだが、蛇蝎のごとく嫌われるということも無い程度に彼は距離感をつかむ能力もあった。
「こんにちは茨ちゃん! 改めまして北川歌麿です! 画号では鳥山木燕とかも名乗ってるマロ。あ、これお近づきの絵をどうぞ」
「おおう゛」
歌麿から浮世絵が差し出されると、美しく着飾った少女と女が正面から抱き合っている絵があり、二人は髪型から茨とお九だと判断できた。ただ微妙に服は後から書き足したような気がしないでもなかったが。
まあ、見事な絵ではあった。着物や看板などに使うことを制限されている緋色の顔料を惜しげもなく使っていて華やかさを演出していた。
「こんな感じの絵を描いててね! いやまあ、靂くんと仕事もしてるから知ってるんだろうけど! まだそこまで売れては居ないけれど、そのうち江戸に名を轟かせる大絵師になろうと思っているマロ!」
「む゛ー」
「でもでも、ちょっと問題かもしれないのは、仕事の為に仕方なく! 仕方なくだけど助平な絵も描いてたりするのでそれは絵師のやむを得ない副業として勘弁してほしいマロ。実際そんなに贅沢はできない程度の収入マロー……」
そもそも絵師というものはこの時代、そこまで真っ当な仕事ではない。殆どの絵師は副業としてやっており、絵のみでは生活に困窮する者ばかりだ。中には同心や旗本の生まれでありながら絵師の道に進むという変わり者も居るには居たが。
非常に売れた絵師であっても、蔵が建つことはないとまで言われている。
そのような業界なので、嫁になる相手はよほど惚れ込んだ物好きなどになってくるだろう。
「うお゛う~……」
茨が懐から筆入れと紙を取り出して、さらさらと文字を書き始めた。
幼少時に喉を潰された茨は、濁った声で短い単語程度なら喋れなくもないのだが、会話となれば難しい。喋らずともお互いに意を組み合う靂や、経験から意思を読み取る九郎ぐらいでなければ。
歌麿もかなり喋りが拙い相手を理解するのは得意な方であるのだが、正しく意味を伝えるために筆談を試みる。
『私は相手となる男の方がどのような仕事をしていて、如何に暮らしが窮していたとしてもそれを由に嫁がないということはないです』
「そ、そうマロ? いやまあそれでも君のお兄さん達がやたら選定厳しくて……」
ちらりと部屋の外から覗いている九郎と靂を見遣る。
茨とていい年頃なのだ。これまでにも男が言い寄ってきたこともあるのだが、とにかくこの二人が相手の収入からこれまでの遊びの遍歴、趣味嗜好に礼儀態度まで評価をして遠ざけてしまった。
少しでも茨にはいい相手が見つかってほしいという親心なのだが、過保護がすぎる。
茨も二人に視線をやると、バツが悪いように兄貴分二人は目を逸らした。
再び彼女は筆を取って文字を記す。
『されども、私は相手に求めることがあります。それさえ認めてくれるならば尽くそうと思っています』
「それはどういう事を求めるマロ? 茨ちゃんぐらい可愛いなら、大抵の男はなんでも応えたくなるマロ。お世辞じゃなくて本当に。君はなんというか、お兄さん二人がそうであるみたいに大事にしたくなるような雰囲気があるマロよ」
歌麿がゆっくりと促してやる。
『ひとつは、私が声を出せないことに我慢をしてくれて、力が強いことを怯えない人』
「なんのそれしき! ボクなんか吉原で『いあ、いあ』しか喋れない謎の多い[いあいあ太夫]と会話したり、元女相撲が吉原に身売りしてきた剛力の[手力太夫]とだって仲良くできる男マロ!」
ニコニコと歌麿は笑って自信ありげに胸を叩き言い切った。
傍から見ている九郎と靂は声を潜めてぼやく。
「時々吉原上がりを面接しているとイロモノが居るよなあ……前のサメ太夫とか」
「どうもそういう女郎も、普通の女郎は飽きたとか怖いものみたさとかで一定の人気があるみたいですけどね」
「なるほど。靂もそういうのを……」
「違いますから。歌麿さんに連れられて取材に行ってるだけですから」
そして一方で茨は、どこか透き通った笑みを見せていた。達観したような、諦観したような。
どうもそれは九郎の感覚から言うと、歌麿が安心させるように告げた言葉に喜んでいる様子ではないと思えた。
(本当にいい人なのだけれど)
茨はさらさらと文字を書いて差し出す。そこには、
『もうひとつは、相手が浮気をしたり、女遊びをしたり、妾などを作ったりしないで、私ひとりを好きで居てくれる人がいいです』
びしり、と歌麿は笑顔も体も固まった。ひくひくと口の端が動き、冷や汗が顔を流れる。
はっきり言って彼は助平な上に気の多い男である。吉原でも浮名を流して、歌麿の美人画で評判になるというのでタダで抱かせる代わりに絵を描いて貰うという遊女も少なくない。ついでに女装時代のホスト能力で遊女を落とすのも得意であった。
風俗嬢やホステスがホストに金をつぎ込むことが多いように、優しくしてくれる男に騙される女が多い職種なのである。
そんなこんなで歌麿はここ数年女遊びに不自由していないぐらいであった。
さて、茨との見合い。
兄の九郎が勧めたものなのだし、茨は美少女で心優しいことも知っているので歌麿としても受けたい気持ちは大いにあった。
例えそれが、九郎の姉であるお九に懸想していることを鬱陶しく思われていて早めに身を固めさせようという兄の策略であったとしても。
それでも大事にする覚悟は十分にあったのだが。
「あっ歌麿が白目を剥いて天を仰いだ」
「そんなに」
嫁にすると女遊びの一切を禁止。
その条件が血反吐を吐くほど致命的に歌麿の胸をえぐる。
彼ほど口が上手くて、そもそもの職場が吉原なことも考えれば内緒で女遊びをしてバレないように誤魔化すことも可能かもしれない。
しかし嫁にした茨を騙してそのような真似をした場合の罪悪感は想像するだけで動悸を激しくした。
もしそれで茨が九郎にでも相談したらぶん殴られた上に絶縁されかねない。
リスクが高すぎる。
「歌麿が崩れ落ちおった」
「葛藤の内容はわからないけど多分酷いんでしょうね」
更に。
茨を嫁にして、他の女性には一切目移りしないと宣言して。
お九を目の前にした場合、自分は彼女に助平な思いを向けないでいられるか? 或いは向けたとして、それを茨に気づかれないようにこれから暮らせるのか?
「痙攣まで始めた……」
「これ! 歌麿! 起きぬか!」
見てられないので九郎が部屋に入って、歌麿を揺さぶり起こした。
魂が抜けたような状態になっている歌麿が絶望した光を目に灯してつぶやく。
「う、ううう……む、無理マロ。ボクに女の子に惚れるなって言うのは、猫にマタタビ嫌いになれって言うようなものマロ……」
「情けない事を言うでない。いいか、夫婦になるというのはな、嫁を大事にして、他の女に目移りなどしないものだ。女遊びなど……言語道断で……そんなことはきっぱり止めると宣言を……」
「あっ九郎さんの言葉尻が自信なさそうに消えていく」
「……」
自分で歌麿を説教していてまったくの説得力が無いことを実感し、さすがに口をつぐむ九郎である。
嫁一筋という言葉ほど九郎が吐いて薄ら寒い言葉はないだろう。いや、確かに嫁が大事ではあるがその嫁が複数居るのが問題だ。茨の場合とは反対で、嫁らが結託して複数人でも構わないからという条件で娶っている。
同じく、どうにか小唄とお遊をやむを得ず安全に着陸させようとしている靂も気まずそうにしていた。そうしなければ血が流れるからだが。
夫婦になるなら、浮気をするな。
要求して当然の条件であり──それが妙に突き刺さる三人であった。
『故に申し訳が無いけれど、此度は縁が合わなかった』
「い、いや申し訳ないなんてボクの方こそ……」
『いつかきっと、貴方が他の誰にも目を向けなくなるほどの相手が見つかることを願っています』
「優しい……! この子凄く優しいマロ……!」
その優しさが逆につらく、歌麿はうずくまって思わず涙した。
歌麿はそうしながら自分のやたらと恋多き性根を悔やむ。本当に、こんな優しい相手から申し訳なさそうに断らせるなど自分は最低のクズだとすら思えた。
茨の書いた内容が脳に染みる。
(いつか他の誰にも目を向けなくなるほどの相手……はっ)
歌麿は勢い良く起き上がると、爛々と輝く目をしており九郎と靂は若干引いた。
「お九さん……」
「む?」
「そう! お九さんが相手ならボクはきっとできるマロ! あの人だけを好きで他を全部戒めることができるに違いない! お九さんなら!」
彼の脳裏に浮かんだのは、義兄の姉らしい謎の女お九。ひと目見たときから痺れるような恋心を抱き、暴走するほどに焦がれている存在である。
苦々しい顔をしながら九郎が言う。
「いや、お九はお主のことなんか無理とか言ってたが」
「そんな悲しいことは聞きたくないマロ! ボクのことが今は嫌いなら、好きになって貰うまで努力するマロ! ボクの一番がお九さんなんだ!」
「……いいか、歌麿。自分が他の誰よりも相手のことを好きだからといって、その相手が他の誰よりもお主のことを好きになってくれるわけでも、ならなくてはいけない道理もないのだぞ」
弟分が女体化した自分を狙ってきてかなり面倒。
靂には九郎の表情からありありとそんな意思が読み取れた。
「兄さん! お九さんは旦那とか今居ないマロよね!?」
「ん? えー……あー……い、居るぞ?」
ちなみに最初の頃は靂の婚約者という名目だったが、彼の幼馴染二人が大分に更生したことでそれを解消している。
靂も九郎と嘘の婚約とはいえ気色の悪い関係はなくなったのでほっとしていた。
「今ボクを適当に誤魔化して諦めさせようとして悩んだマロ! とにかく、お九さんの相手が居ないならボクにも機会が訪れるかもしれない! 可能性はあるんだ!」
「……なるほどな。よし、では歌麿。今の言葉を忘れるな」
「マロ?」
九郎はポンと歌麿の肩に手を置いて諭すように告げた。
「お九がどこかの誰かのモノになったのならば、お主ではなく別の者を選んだのだからきっぱり諦めることだな」
「ま、まろーん……」
「お゛う」
「ほれ。茨も応援しておるぞ。まあ、精々頑張れ」
──というわけで、歌麿を諦めさせるためもあって九郎はお九の偽装結婚先を探すことにしたのであった。
*******
九郎の店にて靂と二人だけになり、作戦会議を始めた。
お九の相手見つけ作戦である。
「もういっそお主でいいんじゃないか面倒だから」
「嫌です」
「事情も知っておるし」
「嫌です」
「別に何をするというわけではないぞ。養う必要も無いし。単に公表する関係性として──」
「嫌です死にます」
靂からはソッコーで断られた。彼の目がマジになっていた。九郎はさすがに「う、うむ」と気圧される。
「しかしのう。あんまり己れが女体化しておるという事情を広めるのも厄介だからなあ」
「忍びの人たちから暴動が起きますよ」
「今のところ知っておるのは、うちの嫁達にお主、それと子興ぐらいか……」
適当に始めた女体化だが、様々な理由であまり知られたくはない状況になっていた。
まず忍び連中を動かしたりするのに膝枕だの耳かきだのその程度の行為で、仕事の効率というかモチベーションがやたら上昇していたのだ。今まで散々そうされてきたお九がイロモノ代表の九郎だと知られれば、彼らは嘆き悲しみ以後仕事を引き受けてくれないかもしれない。
ついでに遊び気分で男を誑かしていたのだが、やりすぎたせいで今更男だとバレると世間体も悪い。まあ、彼が世間体を気にしても仕方ないけれども。
「なので条件のひとつは、己れの正体を教えつつ誰にもバラさない相手ということになるのう」
「うーん……言い含めれば可能かもしれないですけど。忍びの人とかそういう口は硬いんじゃないですか」
「更に言うと助平でないやつだな。偽装なのだ。女の務めを求められても困る。ついでに家事とかしてる暇も無いから、本当に名義貸しだけの関係が好ましい」
「一気に忍びの方々が候補から外れましたね……」
ガチ恋愛求め勢は片っ端からアウトであった。いったい誰が、まったく助平NGで家事すらしない相手を嫁にすることを納得するというのか。
「枯れきって嫁も何もいらぬ知り合いでも居れば良かったのだがのう……ううむ、上手いことやれば己れ自身が親戚を嫁にしたとかで誤魔化せたかもしれんが、今更は無理だな」
「姉を嫁にするのは九郎さんのクズ度合いが更に増しますよ……」
一番融通が利いてお九という相手に名義だけ貸してもいいのは九郎自身であったが、さすがに世間体がマッハで悪くなる。
こういうのは知り合いに頼むのがいいのだが、
「基本的に男の知り合い、殆ど嫁がおるしなあ……」
例えば六科などはまったく頓着せずに付き合ってくれそうだが、お雪が嫌がるだろう。それにそこらの蕎麦屋の店主が名義だけとはいえ妾を持ったなどとなれば、店の評判もあまり良くない。ついでに藍屋との関係も怪しくなる。
晃之介はこの前拒絶されたばかりだし、影兵衛は絶対手を出してくる。元男とか気にせずに。伯太郎はせっかく阿子を嫁入りさせたのに関係を乱すのも心苦しいというか年増が云々で腹が立つ。利悟は……嫌な事件だった。
「嫁が居ない人でもアレですよ。お九さんと偽装結婚したら、今後嫁を貰うアテも無くなるわけで」
「ううむ……面倒くさい女だのう。お九は」
「なんであんなことを始めたんですか」
「お主の為だろうに」
「うーん……条件を纏めると……」
靂が紙にさらさらとお九の相手条件を書き記す。
・事情を聞いて納得してくれて、その秘密を家族友人などに漏らさないこと。
・嫁としての務めを求めず、家にも居着かないことを認め、お九がこれまで通り忍び連中に愛想を振りまいて働かせるのを許容すること。
・お九を嫁にすることで社会的不利益を受けないか、受けても気にしないこと。
・忍び連中や歌麿がある程度納得する相手なこと。
靂は頷いて告げた。
「諦めましょう」
「早すぎるだろう!」
「相手に求めることが多すぎますよ! どんな罰を受ければこんな女を嫁にするんだってぐらい!」
「だからもういっそ小唄とお遊に事情を通して、名義だけお主の妾にでもしとけばいいだろう」
「死ぬほど嫌ですよ今でも忍びの人から嫌がらせ受けてるんですから」
「カネなら払う!」
「暮らすに困らない程度持ってるので要りません」
「むう」
靂も九郎と同じく、埋蔵金を探しに行った結果として千両の大金を自宅に隠し置いている。
それに元々彼の祖父である新井白石が生活費として残した分に、多少ながら靂も作家として働いているので千両は目減りせずに所持したままだ。
買収はどうやらできそうにない。というか、金銭に無頓着なのでよほど貧しくても靂は断る案件だろう。
そもそもが相手に迷惑をかける前提なのだ。よほどの理由が無ければ引き受けるだけ損である。
「こんな面倒な……将翁のやつが妖術で男に化けれぬかのう……イモ子に男装して貰うとか……いや待て」
九郎は一人、該当者を思いついて顎に手を当てたまま考え始めた。
そして恐らくは──相手の恩義や情に訴えかけるようではあるが──納得してくれそうだと判断する。
(まずは後で嫁らに相談してからだな)
********
翌日。嫁たちからも「一番面倒が少なそうな相手だ」という太鼓判を貰ったことで九郎は目的の家まで昼下がりに出かけていた。
それでいいのかとも嫁たちに対して思うが、彼女らからしたらお九形態は着せ替え人形のようなもので、むしろお九が男にモテたりしているのを笑って見守っているぐらいだ。
とりあえず土産の菓子に酒にと買い集めてから向かったのは江戸城が南、外桜田。
言わずと知れた桜田門の外側に広がる市街であり、松平家や井伊家など大名に高禄旗本の屋敷が立ち並ぶ江戸の中でも一等地の武家街であった。
そこの平川町にひっそりと建っているひと気は無いが敷地は広い屋敷が首切り役人・山田浅右衛門の住居であった。
このような一等地に屋敷を構えているのは、彼が高収入だからということもあるが、主な収入の一つである試し切りの依頼をしてくるのは大名などが多いので彼らの屋敷が立ち並ぶ近くに住んでいるのであった。
九郎は門から無造作に屋敷へと入っていく。扉こそ閉められているが門番などは居ない。屋敷も広さに較べて人の気配が希薄であった。
武士というものはその身分の高さに応じた家来を家に置いて養わなければならないものだが、首切り役人と言えども浅右衛門は浪人身分であり、幕府にも藩にも所属していないためそのような規則の範疇外にあたるのだ。
ここには家族と、あれこれと仕事を手伝う老僕が居るぐらいであった。
九郎は玄関に入って屋敷の中に声を張り上げた。
「おーい。誰か居らんかー」
すると、奥からバタバタと走ってくる足音が複数に聞こえる。
「九郎伯父上だー!」
「おじうえー!」
「じーちゃん!」
「はっはっは。なんだ居たのか。元気だったかのう」
やってきたのは浅右衛門の娘三人組である。年子で生まれた三人で、それぞれ名前をお吉・お時・お貞という。三人ははしゃいだ様子で九郎を取り囲み、彼が手にしている土産物に視線を注いでいた。
お七によく似て可愛らしい娘で、いつも三人で遊んでいる。時折、九郎の屋敷にお七が連れてきて九郎の子供らとも仲が良い。
「おうなんだ兄ちゃん来たのかよ。土産? 酒か? いっひっひ」
娘らに続いてお七も奥から出てきた。家事をしていたようで着物の袖をたくし上げて結んでいる。九郎が持ってきた酒の入った角樽を見て、歯を見せて嬉しそうに笑った。
彼女はひとまずの身分として九郎の妹ということで浅右衛門の嫁に出しているので、血の繋がりこそ無いものの浅右衛門は義弟で娘は姪っ子達である。家族ぐるみで仲良くやっていて、浅右衛門本人だけは人死にを扱う仕事をやっているというので九郎の屋敷に来ることは殆ど無いが。
「よしよし、うちの菓子を持ってきたぞ。あと鹿屋が正月向けに販売しようとしたがさっぱり売れんかった薩摩名物の引き独楽もあるぞ」
「わあー!」
「これどうやって遊ぶの?」
九郎から手渡された引き独楽という遊具を手に少女らはきゃっきゃと声を上げて喜ぶ。
引き独楽は一節分の竹筒を彩色し、穴を縦に空けて真ん中に棒を通したものである。竹筒の部分に細長くて独楽を巻くアレをぐるぐると巻いて一気に引っ張ることで、真ん中の棒を中心に竹筒が回転をする。
お七に菓子を渡しつつ彼女らにそれを説明してやる。
「特にこの筒には唸り窓という穴が開いておってな。回すと音が鳴るのだ」
「やってみたい!」
「模様はなんなのー?」
「ふふふ、この独楽の模様は火縄銃の銃口でな。薩摩では子供向け簡易肝練りとして、幼児らは集まって囲みこの独楽を回して、銃口が止まった位置に居た者が打たれたという設定で教育をするのだ。そう思えばこの唸り窓から鳴る音は火縄銃を勢い良く回しているのによく似て──」
「うちの娘らに変なのを教えないで欲しいんだぜ兄ちゃん?」
「あいたたたよさぬかお七」
お七から耳を引っ張られて怪しい薩摩教育を止められる九郎であった。少女らは母に頭の上がらぬ伯父にくすくすと笑う。
「ま、とにかく上がれよな。うちの旦那様は奥で剣の手入れしてるからよ。晩飯も食っていくだろ? いい肉が入ったぜ」
「……なんの肉だ?」
悪い笑みを見せるお七に不安げに聞くが、彼女は大笑して九郎の背中をバンバンと叩いた。
「安心しとけって。牛の肉だよ。彦根の殿様のところで試し切りをしたらしくてな。名物を土産に貰ってきたんだ。味噌漬けのやつ」
「牛肉か……滅多に食えんからな。いただこうか」
九郎は嬉しそうにそう云った。
日本の牛肉食で江戸時代から食われていたものといえば彦根藩の味噌漬け肉が有名である。徳川の将軍も好んで食べたぐらいで、大名なども買い求めるから一般人に回ることは非常に少ない。
ちなみに、実は九郎も牛を飼っている。というか、甚八丸のところで飼わせているのだが。徳川吉宗が牛乳採取用に飼育している白牛だが、当然ながら牛という生き物は妊娠していなければ乳も出ないので延々と種付けされているのだ。
当然ながら年ごとに牛が増えていくが、幕府の飼育小屋とて無限に育てられるわけでもないために、よく牛乳を利用する業者として子牛を購入することができたのである。
しかしながら乳牛を食うわけにもいかないので牛肉が手に入らないのは同じなのだが。
お七の娘らが独楽を手に遊びに向かい、酒と菓子を持ったお七が台所へ行ったので九郎は奥に居る浅右衛門のところへと進んだ。
何度も来て知った間取りで──実は一度この屋敷は火事で焼けたがすぐに建て直され、ついでに娘らの目に腑分けの仕事場が触れぬように別の場所に移したのであるが──迷わずに浅右衛門の部屋へと入る。
入ると同時に、刃の輝きが目に入り、切っ先から感じる圧力に足を止めた。
浅右衛門が刀を構えて待ち受けていた──わけではなく、彼は座ったまま刀を抜き放って刀身をひっくり返したり、目線と平行にしたりしながら眺めていたのである。その剣先が九郎の入った入り口へ向いていただけのこと。
「おう。浅右衛門。仕事中だったか?」
「や。九郎氏。ちょっと人に頼まれた刀を見ていたところ。手入れは大丈夫だけど、研ぎのむらがあるからいい研ぎ師に渡さないとね」
「むら?」
「ほら。こっち来て覗き込んで見て」
と、浅右衛門が手招きするので、彼の後ろに回って目線を同じ方向へ向ける。
特に刀は歪んでも曲がっても見えないが、
「刀身に映った障子がちょっと曲がって見えるね。これが研ぎのむら部分」
「こ、細かい……何か変わるのかそれ……」
「武士なら持ってる刀はほんのちょっとでも劣化のない、万全な状態の方がいいよ。某はなまくらでも首を切れるけど。それに手放さないといけないとき、鑑定眼のある人が相手だとこういうところで値下げされてね」
そう言われると、浅右衛門から貰った恐らく高級な刀の手入れをあまりしていない九郎は少し後ろめたい気分になる。自分でやるより将翁にやらせた方がやり方に手慣れているので任せてしまっているほどだ。何故か御札を鞘などに貼られまくったが。
かち、と浅右衛門は座ったまま器用に納刀をして刀置きにそれを戻し、九郎へ向き直った。
相変わらずどこか儚いというか、覇気に欠けるような印象を受ける男である。これでも嫁を貰ってから少しは血色良くなり、娘が生まれたことで幸薄そうな雰囲気も善くはなったのだが。
「いらっしゃい、九郎氏。今日はどうしたの」
「うむ。ちょいと厄介な頼みがあってな。話だけでも聞いてくれぬか」
「うん。何の頼みかわからないけれど、某に出来ることならなんでも引き受けるよ」
「……いや、内容も聞かずになあ」
「何を水臭い。やれって言ってくれればいいのに」
浅右衛門は残念そうにそう述べた。
彼は九郎に対して並々ならぬ恩義を感じている。九郎の方は別段そこまで恩に着せたつもりではなく、あんまりにも幸薄そうな友人にぐいぐいと引っ張ってくれる姉さん女房な妹分が居たので宛てがっただけなのだ。
しかしながら嫁も子供も諦めていた首切り役人の男には、励まして世話までしてくれた九郎は義兄というか親も同然なぐらいに感謝している。
そんな彼だからこそ、お九の相手として偽装に付き合ってくれそうだと思ったのである。
「とにかく、お七も来てから話す」
条件の一つとして、浅右衛門は九郎に言われれば秘密は守るし、そもそも彼は親戚付き合いも無くて嫁と娘以外は精々剣術道場に顔を出しているぐらいだから他人が家庭のことを把握しづらい。
お七も一緒に口止めしておけば問題はない。お七は家族ぐるみで付き合いもあるし、彼女も親族などは居ないので問題が無い。
次に浅右衛門の嫁はお七が居るのでお九が嫁として働かなくても問題はない。また、彼は無禄ながら武士なので妾を持っていても不思議では無いだろう。
大体、妾というのは別居させるのが普通なので家に住んでいないことも問題にはならない。それでいてしっかりと戸籍などには妾として記されるので家族の一種にはなる。
そしてお九を妾にしたことによる世間体だが、これも元々立場があるわけでもなく、首切り役人は賤業でもあるので人にどう言われようが気にしないだろう。
最後に他の男への納得だが、浅右衛門は試し切りや刀の鑑定、薬の販売で年に千両ほども稼ぐ男である。忍びや歌麿がぐうの音も出ない高収入だ。お九が欲しければ収入で勝ってみろといえばいい。
(そういう理由で浅右衛門を選んだのだが……そういえばお九の姿で浅右衛門に会ったこと無いな)
理由は簡単であった。念願の嫁と娘を得た彼をからかったり誑かしたりするような外道な真似はしたくなかったのである。
晃之介や影兵衛は面白いから騙すが、浅右衛門を騙しても悲しくなるだけだ。
やがてお七が部屋に茶と菓子を持ってやってきて二人の前に差し出す。
改めて夫婦を並び見ると、お似合いの幸せな夫婦である。この関係はあまり壊したくはない。
(お七が嫌がったら止めるか)
そう思いつつ、九郎は話を始めた。
「実はな、名義だけで良いのだが、浅右衛門に妾を貰ってやって欲しいのだ」
「あーん?」
やはりお七が藪睨みで九郎をねめ上げた。
「うちの旦那様みたいなアレがお妾さんなんて貰って発奮するとでも思うのかよ兄ちゃん」
「ま、ま。もっと詳しく九郎氏の話を聞こう。きっと妙な事情があるから」
威嚇し始めたお七を留めて浅右衛門が話を促す。
九郎は頷いて、
「実はな、己れの姉でお九というのが居ると聞いたことが無いか?」
「忍びの人達の間で話題になってたけど」
「うむ。それでそのお九という女は碌に嫁入りするつもりも無いのに男を惑わす悪女でだな。相手を本気にさせては面倒なことが起こるというので一応名目上は誰かの妾だということにして、相手を本気にさせない理由付けにしたいのだ」
「なんじゃそりゃ。兄ちゃんの姉……ええい姉ちゃんでいいか。そんなちゃらんぽらんな女はうちの旦那様を巻き込まねえで、さっさと無理矢理にでも適当な相手に嫁入りさせちまえ」
お七の意見も尤もであった。九郎はため息をついて、裏の事情を説明する。
「ところがそうは行かぬ理由があるのだ」
「あんだよ」
「実はそのお九というのが、妖術で女の姿に化けた己れ自身でな」
「は?」
「え」
「……忍び連中を効率よく働かせる為に愛想を振りまいていたら、ガチで恋してくる連中が現れて色々面倒なことになっておるのだ。そこでガチ勢を断るために浅右衛門の妾という身分になっておけばいいかと思ってのう。他に頼めそうなやつが居らんのだ」
「いや待て待て。えーと兄ちゃんが姉ちゃんに? なんでそんなアホな……」
「だから、実際にお九を妾にするわけではない。お九というのは存在せん女だからのう。お七を煩わせることもあるまい。ただ事情を把握して、確かにそういう身内が居ることにしてくれれば助かるのだが……」
九郎が申し訳なさそうにそう言うと、浅右衛門は首を傾げながら言う。
「よくわからないけど、いいよ」
あっさりと。だが、或いは九郎の予想通りに、無条件で浅右衛門は頼み事を受け入れた。
迷いなく、当然だとばかりに。
「おいおい旦那様。あたしもよくわかんねえぞ」
「うん。でもまあ、九郎氏が頼んできたことなら恩返しに受けたいからさ」
「かぁー! ええと、話を整理するぞ。兄ちゃんは女に変化できて、その女状態での立場として旦那様の妾という名目が欲しい。忍び連中がやっかんでくるかもしれねえけど、話を合わせといてくれ……って感じか。ん? なんだそう纏めると大したことでもないな」
そもそもが首切り役人と、その嫁になった身元不明の女の夫婦である。世間体など気にならない。
それならばこれまでの生活に何も変化が無い条件であるなら別に構わないかとお七も思った。
「うむ。お主らの気分が悪くなるかもしれんというだけでな。何かしら被害やらを被ったら賠償もする」
「あー……まあ、旦那様が認めてることをあたしが認めねえわけにもいかねえから、いいよ。ところで兄ちゃん」
目を悪戯っぽく光らせてお七が笑みを浮かべた。
「その女に変化ってのやってみてくれよ。いったい、このデカ男がどんな化け女になるか楽しみだぜ。なあ旦那様」
「え? ああ、うん」
「むう。確かに話だけ聞かせて了承させ、実際に見せぬわけにはいかぬか……」
九郎は言われ、やむを得ず見せることになった。
体の凹凸が変化するので羽織を脱ぎ、腰に巻いていた術符フォルダを外し、着物の帯を緩めておく。
そして小型の注射器型ブラスレイターゼンゼを作製し、二の腕に挿し込む。
血流が病毒を全身に巡らし、九郎の細胞を作り変えていく。人体をまるまる作り変える病。効果以外は九郎も殆どわからないのだが、石燕曰く肉体が量子変換されて意識のみを保ったまま並行世界における女体の本人をこちらの世界に再構成転移させているのではないかと解説していた。聞いてもよくわからなかった。
九郎が痛みに耐えていると胸は重さを覚え、股からは重さが消え、着物は窮屈になったりスカスカになったりしていき、髪の毛が長く伸びていった。
そうして、浅右衛門とお七の目の前にお九という妾の女が姿を現した。
「……ふう。こんなもんだ。どうだお七。自分で言うのもなんだが、中々の美人だろう」
「いやデッカすぎるって。夕鶴ねーちゃんもそうだけどよ。胸までバインバインじゃねーか」
「はっはっは……浅右衛門?」
髪の毛を掻き上げながら浅右衛門の方を見ると、彼は狐に化かされでもしたかのようにぼけーっと放心していた。
いつもどこか緩い雰囲気を出しているが、ここまで呆けるのは珍しい。
「どうした? えー……ひょっとしてアレか。生理的に無理とかそういうのだったか?」
女体化した元男という存在が本気で気色悪いと思う人間も別に珍しくはないだろう。
呼びかけても、お七が目の前で手を振っても起きない浅右衛門にお九が身を乗り出して浅右衛門の頬に手で触れてみる。
「浅右衛門?」
彼の視界を、伸ばされたお九の白い腕と、緩めた胸元から覗く谷間。それに心配そうにしている髪の毛の乱れたお九の顔が埋め尽くした。
ぴたり、と頬に冷たい手が触れる。
「大丈夫か? まるで幽霊でも見たように」
「え……九郎氏……だよね?」
「眼の前で化けただろう」
「うん。ああ、驚いた」
「驚くとフリーズするタイプか……意外だのう」
しげしげと浅右衛門を見ていると、お七に胸を両手で掴まれた。
「ちょっとちょっとー。お妾さん? 正妻のあたしの前で旦那様を誘惑しないで頂けます?」
「馬鹿を云え。浅右衛門がこんなことで誘惑されるものか。揉むな」
「ったく。旦那様は兄ちゃんが大好きだから困るぜ。寝とるんじゃねーぞ」
とりあえず見せるものは見せたのだから元の姿に戻ろうと思っていたら、
「父様ーお独楽で遊ぼー」
「かか様ーその人だあれ?」
「おじーちゃんはー?」
三人娘が部屋に入ってきて騒ぎ始めた。お九はしまった、と思う。子供らには内緒にしておくつもりだったのだが。
羽織も外していることで、少女らは九郎とお九が同じとは気づいていないようだ。
お七が娘の頭を撫でながら言う。
「おう。この姉ちゃんは父様のお妾さんでな、伯父さんの紹介で今日挨拶に来てたんだ。もう兄ちゃんは帰ったんじゃないか?」
「おめかけって?」
「まー言うなれば母ちゃんの妹分だな。ほら、挨拶は?」
「宜しくです、お姉ちゃん」
「おっきい」
「抱っこー」
「う、うむ……」
手を引っ張ってくるので、小さい方のお時とお貞を両手で持ち上げてやるときゃっきゃと喜んだ。よくはわかっていないのだろう。
お七は「にしし」と笑いながら、残ったお吉を抱き上げて頭を撫で回してやっていた。
そんな光景を見ながら、浅右衛門はふと自分の目が潤んでいることに気づいて、涙を拭った。幸せな家族が居て良かったと彼は思う。
結局、子供も居るので元の姿に戻るタイミングも掴めないままお九は浅右衛門亭で晩飯を饗された。
牛肉の味噌漬けに舌鼓をうち、明るい酒を三人で久しぶりに飲んだ。お七などはよく子供を身籠っていたので酒を控えていたのだ。
なんとなく酒が進めば帰るのも億劫になり、結局泊まっていったという。
翌日。朝帰りをしたお九を嫁一同から滅茶苦茶冷やかされた。
「早速妾の仕事してきたの……?」
「しとらんわ!」
なにはともあれ、こうしてお九は浅右衛門の妾という一応の落ち着きを見せたのであった。
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忍び連中にその噂は積極的に流された。
お通夜めいた集会で皆は体育座りをしながら幸せが全力疾走で逃げそうなぐらいため息をつきまくっていた。
「はあ……」
「お九さんが……」
「おのれ浅右衛門……お七ちゃんを取ったのでも有罪なのに……」
「でもぶっちゃけ剣術の腕前も収入も全然敵わないからなあ……」
「あんなのっぺりした男の何がいいんだ!」
「金だろ……」
「それを言ったら絶対勝てないだろ……」
「女なんて星の数ほど居るさ!」
「星に手は届かないけどな……」
「お九さんは永久に手の届かない星になったのさ……」
ガチ勢は結構な人数が居たようだ。しかしながら暴挙には出ないのは浅右衛門という相手への納得からか、或いは暴挙に出るほど重症化する前にお九が手を打ったからだろうか。
ともあれ彼らは自分たちに唯一優しくしてくれて距離感が近い美人のお姉さんを失ったのである。
世界から色が抜けたように感じた。
そんな集まりに、一人が慌てて飛び込んできた。
「──おい! 九郎さんからの仕事だ! 江戸の堀に侵入してきた人喰鮫を皆で探してくれって!」
だがそんな言葉も、集まった皆は一応聞いた上で「はあー……」と大きくため息を零して動こうとしない。
依頼を達成できたご褒美も今は無くなってしまったのだ。そりゃあ金は貰えるが、それとこれとは話が別である。
金を集めれば遊女屋で似たようなことをしてくれるという意見もあるが、金を払って遊女に頼むのと素人の女性がお礼に甘やかしてくれるのは似て非なるシチュエーションだ。
話を持ち込んできた忍びは続けて言う。
「見つけたり捕まえたりしたらお九さんがお礼してくれるって」
ぴくん。その言葉に皆は耳を立てたが、誰かがかすれる声で告げた。
「馬鹿。お九さんは今や首切り役人殿のお妾になってだな……」
「だからなんだ!?」
話を持ち込んできた忍びは力強く言う。
「確かにお九さんはもはや俺のものにはならないだろう。だがな、前々から儚い願いではあったと思ってるよ。俺たちだけでも恋敵多いし、あんないい人は俺たちよりもいい男が放っておかないだろうし!」
「泣くな! 悲しくなる!」
「だけどそんなお九さんでも、これまでと変わらずお礼で太腿とか触らせてくれるんだぞ! 本来だったら誰かのものになったらもう二度とそういうことやらせてくれないだろうに! もうそれだけでいい! 俺は行く! お前らはそこで朽ちていけ!」
言い捨てて忍びは走り去っていった。
九郎の策として、彼らを本気には決してさせないものの、なるべくこれまでを維持するという方針である。まるで浮気のようだが、浅右衛門にもそういった餌を使って仕事をさせる旨は説明している。
彼の言葉に、胸を打たれたようになった者たちが居た。
確かに仄かな希望であったお九を嫁にすることはもうできない。だが触ることも見ることもできる。
星に手は届かないが、その光を美しく感じることはできるのだ。
「俺も行く」
「俺も」
「まったく……馬鹿だよお前らは。俺もか」
「しかしそんな条件を姉貴に飲ませるとは、九郎さんは相変わらずのさすクズ(さすがですクズ)だな」
「まったくだ。だが嫌いじゃない」
などと言いながら、彼らもいつも通りご褒美を狙って九郎の仕事を手伝いに向かうのであった。
一方で歌麿は。
「わかったマロ。ボクじゃあお九さんの一番にはなれないから、ボクも素直に諦めるマロ。ただお九さんから見たら二番目でも三番目でも、ボクはお九さんのことが好きだということは知っておいてほしいマロ」
「うむ。それはそれとして、出会い頭に胸に頭を突っ込んで抱きついて腰をカクカクさせた意味は?」
「大逆転あるかと思って……」
「靂。この馬鹿をサメの餌にしておびき寄せよう」
まったく懲りずにお九にワンチャンダイブで突っ込んでいって撃沈し、殴られて縛られた歌麿であった。
夫婦になるのは諦めても、助平心は変わらないらしい。
お九さんがとんでもないビッチでさすクズすぎる件
浅右衛門が金持ちでなんでも言うこと聞いてくれてがっつかない超都合のいい男すぎる




