8話『九郎と相撲の話』
「喧嘩相撲?」
「おう、喧嘩相撲よ」
九郎は店に訪ねてきた影兵衛から言われたことをそのまま返したが、影兵衛もまた同じ言葉を繰り返したので要領が掴めずに首を傾げた。
座敷に上がってあぐらを掻いている影兵衛は四十を過ぎた風には見えない壮健な様子で、相も変わらず年季の入った陽気な殺し屋めいた顔をしている。もし一般人が夜道で出会ったら提灯を投げ捨てて逃げて行くだろう。
服装も相変わらず同心の黒袴は着用しないで外行きの煤けた柿色の袴を履いていて髷も雑に結っており本来は武士だと禁じられている髭まで生やしているので素浪人のようだ。
一度などはあまりに自分の父親が毎日そんな格好で出かけていくものだから、仕事ぶりを疑った息子の新助が九郎に頼んで一緒に追跡をしたぐらいである。なお、その際にはあまりグロいところやだらしないところを見せたら父の尊厳に関わるということは、同じく人の親になった九郎にも理解があったので影兵衛に予め相談して品行方正に聞き込みや拷問をしているところを見せるようにした。
それはさておき、影兵衛が持ち込んできた話の続きを促す。
「ほらよ、今度深川八幡で祭りが行われるわけだが、そこでドハデな相撲興行を開くことをお上が許可したわけよ。一般からも参加する一日がかりの大相撲でな、なんでも大阪から大関も来るし、力自慢の武士も参加するらしい」
「ほう。相撲祭りだのう。しかし世間は節制生活なのに珍しいな」
「そこよ」
影兵衛が皮肉げに笑う。
「上様の政策で世間じゃ不満が溜まってるからな。多少の息抜きは許可しねえといけねえ。しかし、名古屋の殿様が城下町を歓楽街みたくしてどんちゃん騒ぎさせてたのを厳しく取り締まった手前、同じような真似はできないってんで皆大好きな相撲と祭りってことになったわけよ。上様も相撲好きらしいからな。なんでも相撲が強いってだけで側近に取り立てた奴も居るらしく」
「そりゃ出世だのう」
「だけど一般の辻相撲ってのはかなり荒っぽい相撲が多いだろ?」
「お主と晃之介とか前にやったら普通に殴り合っておったしのう……」
懐かしそうに思い出して言う。
辻相撲が行われるというので、以前に皆で参加したことがあったのだ。そこでは晃之介がアッパーカットで相手を吹き飛ばすわ、影兵衛は蹴りで相手の体を刻むわで素手でも凶器を持っているような二人に軽く引いた九郎である。
「お上が許可した相撲で人死にでも出たら面倒だってことで、会場警備に町方の連中と、便利な先手組──まあつまり拙者ら火付盗賊改方だな。それが見張ることになってるってわけよ」
「ほほう。大変だのう」
「拙者としちゃ大乱闘になってくれりゃ楽しいんだけどよ」
「役人側が殺してどうする」
刀の柄を叩きながら破顔する影兵衛に九郎はツッコミを入れた。
「なあに相撲に刃傷沙汰は付き物よ。土俵の柱に飾ってる刀はなんの為だと思う?」
「確か……行司が判定に失敗したら腹を切るためではなかったか?」
「いや、物言いをつけた力士がキレた際に使う武装だ」
「刀を!?」
「弓も飾ってるだろ。あの弓も喧嘩の際に使う」
「まるで合戦だのう」
力士フェンサーと力士アーチャーを想像した九郎はまるで外人が日本文化を勘違いして撮った映画のような場面に思えて、苦笑いを浮かべた。
力士にとって武器を使うのはハンデなのだ。その鍛え抜かれたぶちかましはあらゆる武具を凌駕する。
「それに観客も乱闘に加わるからな。相撲を見に行って怪我の一つもしてこねえやつは意気地がねえ……なんて言葉もあるぐらいでよ」
「抑えるの大変に思えてきた……」
「多少の怪我は華のうちよ。そこらは上様も理解してると思うぜ。で、だ」
影兵衛が本題に入るように軽く目を瞑って言う。
「拙者らは無茶しねえように練り歩いて示威するのが役目だが、それ以外でもあからさまに危険な参加者を排除する役目も必要でな。つまり、九郎。お前は出場者として危なそうなやつを先んじてはっ倒していけ」
「なに? 己れがか?」
「そこらの奴より体格いいだろうし、目減りしねえ打たれ強さがあるからな。いつだったかの辻相撲みたいに連戦して勝ち抜け同士で戦うんだぜ」
確かに九郎の体格は身の丈六尺(180cm)程もあって、殆どの江戸住民よりは背が高い。
力士のように体重があるわけではないが素の膂力でも軽く人を投げ飛ばせる力は持っているだろう。
だが九郎は不満げに顔を歪める。
「己れがやる必要があるのか? スデゴロで強いのを生贄に捧げるのなら、晃之介でも呼んでくるが……」
晃之介も九郎と同じぐらいの背丈で、より筋肉質な体をしている。素手で十分に力士とも戦える鍛え抜かれた武芸者である。
他にも年を食っているが甚八丸などは相も変わらず無駄にマッスルな肉体を維持していて身の丈七尺を数える巨体だ。熊とも戦えそうな体をしていた。
だが影兵衛は「ちっちっち」と舌を鳴らして、挑発するような眼差しで言う。
「こいつは良い機会なんだぜ、九郎」
「うむ?」
「『お父さんは大相撲で全勝したことがある』」
「むむっ!?」
「……どうよ。子供に自慢できるような経歴の一つになるんじゃねえか? 懸賞金も出るし、賞品も与えられるらしいぜ」
「そ、それは確かに魅力的だのう……なるほど……」
九郎がここのところ働くフリをしているのも、子供にしっかり父親は仕事に出ているのだとアピールするためであった。
いい格好がしたい九郎からすれば、誰でも知っている有名な相撲という競技で優勝したという名誉は中々に垂涎モノだ。
だとすれば自分の優勝を脅かす晃之介などを参加させている場合ではない。
「前にうちの新助が拙者の仕事っぷり探ろうとしたときに知らせてくれたからな。今回は特別にお前さんに名誉を与えてやろうと思ったわけよ」
「わかった。ここは一つ男を見せてやらねばならんな」
「おう! 頑張れよ! ……よし、危ねえ連中は全部九郎に当てるように興行主に告げて……」
影兵衛が黒い笑みを浮かべてつぶやく。人死が出ないように厳命されているので、そのあたりで気を使っているのは興行主も同じであった。
そして既に集まっている中には裏相撲界で名を馳せた者や、異能を持つ力士など怪しげな危険人物が参加を表明しているので、それの相手をして死なないような人員が必要だったのである。
「ん? 何か言ったか?」
「いやいやなんでもねえ。あ、これ興行主の出してる広告摺りだ。日程なんか書いてるから置いとくぜ」
そう言って影兵衛は懐から一枚の紙を取り出して広げて見せた。
深川八幡にて大相撲開催の知らせが書かれていて、江戸での名だたる相撲取りの紹介や、大阪から最強と名高い大関・谷風が参戦するなどと言う内容が目を引いた。
参加者も募っていて、本来の大相撲場所とは別にリーグ戦として力士一般入り乱れたものを目玉としてやるようだ。武士・町人どころか女相撲さえ特例として参加が許可されているのは思い切った興行であった。
見物席や櫓などもかなり大規模なものを組み、八幡の祭りということで普段は女が見物できない大相撲でも、これに限っては見に来れるようだ。
「家族に見物させるのにちょうど良いではないか」
九郎は得心して頷き、相撲へのやる気を見せるのであった。
*********
参加をするにあたって家族から指摘されて若干九郎には不安要素が追加された。
何かというと、
「クローや、大会に出るなら魔法は禁止した方がいいのじゃないかのー。ペナでもスポーツ大会の殆どは魔法禁止じゃぞ」
そうスフィに指摘されて、もうなんかデフォで自分の力のように使っていた、首に巻いていて無双の剛力を出してくれる[相力符]を外すことになったのだ。
いつも付けていたのでまったくそれを取るという意識も無かったのだが、確かに言われてみれば一人だけドーピングしているようなものである。
お父さんは相撲の大会をズルして勝ったんだぞ!とはまったくもって自慢できない。
なので外すことにしたのだが、さすがに九郎もこのままでは危ういと見た。あれが無ければ彼は戦い慣れた成人男性に過ぎない。
そこで、自分の体由来の力はセーフということにして期日まで内功を習得することに費やした。
いわゆる、[気]の類である。中国人の拳法家に憑依されて強制的に全身の気を満ち溢れるように操られた九郎は、多少だがその気功と拳法が身についている。
内功を体に巡らせれば打たれ強く、体を重く或いは軽くもできて、強力な素手での攻撃も可能になる。
しかしながらここ数年の自堕落な生活でさっぱり使い方を忘れていたのでそれを思い出すことから始める必要があったが、どうにか間に合った。
さて当日。
相撲会場となる深川の八幡宮は徳川将軍家から保護を受けている将軍家御用達のブランドと、庶民が通いやすい位置にある親しみやすさを共存させている広大な敷地を持つ神社である。
周辺には様々な店が連なる門前町があり、海に近く堀が多いため交通の便が良かったこともあり、会場にはところ狭しと大勢の人が集まりごった返していた。
合わせて五百人足らずの町奉行所、火付盗賊改方の同心では目を光らせるにはとても無理があるように思える人の山である。
異例の土俵二つ体制で同時に相撲を行わねばならないほどに参加者も集まっている。
「おう! ご苦労さんよ」
まわしをつけて上半身には寒さから半纏を纏っている九郎に影兵衛が声を掛けてきた。
半纏にふんどし姿の男は数えるのも嫌になるほど居るのに九郎を見つけられたのは単に群衆の中でも頭一つ出ている程度に背が高いからだろう。
ばしばしと九郎の背中を叩いた影兵衛は「ん?」と首を傾げて、九郎の胸や腹をベシベシと叩く。
「なんだ気持ち悪い」
「いや、今日に備えていつもより鍛えてるじゃねえか。キレてるキレてる」
「ちょいとやる気を出さんといかんと思ってな。子供からも筋肉は人気なのだぞ」
まあただし、体が通常に戻るという術が掛けられているのでサボったらすぐに筋肉もデフォルトの状態に戻るのだったが。
逆に意識して現状を維持することもまた可能ではあった。パワーアップの術符は外したが、肉体操作の術は九郎の体に刻まれているので外すことは不可能だ。もうこれは身体能力の一部だと思うしか無い。
「そうそう、迷ってるんじゃねえかと思ってな。九郎の土俵はこっちだぜ。家族はどうした?」
「うむ。将翁が伝手で良い席を確保してな、女中のイモ子が場所取りをしてしっかり櫓の三階席に移動させてきたところだ」
「そっか。よし、良いところを見せるんだブッフーククク」
「なんでいきなり笑い出すのだ」
口を押さえて笑いだした影兵衛について九郎が移動し、片方の土俵にやってきた。周囲は力士などが集まっていてギュウギュウにすし詰め状態で見回すこともできない。
影兵衛はニヤニヤしながらその場を離れていくと、集まった参加者らに先程まで祝詞を上げたり神事を執り行っていた行司から声が掛かった。
「えーそれでは、東の土俵[色物場所]を開催───!」
「ちょっと待てええええ!!」
一斉に参加者からツッコミが入った。
「なんだイロモノって!?」
「変な名前にするな!」
「どういう分け方をしたんだ!?」
「っていうか己れイロモノ側かよ!?」
口々に、自分は真っ当だと信じている参加者が声を上げた。
興行主はとりあえず無数に集まった参加者対策として、強そうではあるが明らかに怪しい参加者は隔離して色物場所として集めたのであった。
西の土俵では精々力自慢や、武家大名家から代表の相撲取り、現役力士などそれなりに真っ当な者が集まっている。そういった一般人及びプロ選手が変な相手とぶつかって怪我でもしたら堪らないということで分けられた。
「皆さん。落ち着いてください。ここはむしろ裏の王者を決める取り組み。集まった各方はいずれ劣らぬ魔人揃いで、真っ当な相撲よりも見応えがある戦いになることでしょう。勝者の懸賞金は変わらず、名誉も変わらず。己が持つ技量を活かして競い合ってくだされ」
参加者が黙ったのは、とりあえず懸賞金などは貰えるという行司の言葉からか。或いは土俵に居る行司四人が鋭い鏃を向けて弓を彼らの方に引いて構えていたからか。
ともかく、こうして色物場所が始まったのである──
案内に従って色物力士らは土俵の東西に分かれ、出番を待つ。
力士は体が大きい者が多く、そのような者が土俵近くに突っ立って集まれば周りから一切土俵が見れなくなると云うので地面に座らせられたが、そうするとうず高く盛り上がった土俵の様子などは前に座った力士の背中で砂かぶりの席以外では一切見れない。
今回は勝ち上がりで連戦するので幕下力士から順番に始めるようなこともしない。純粋な相撲トーナメントであった。
「はあ……己れは色物扱いか。影兵衛の仕業だろ……あやつ笑っておったし」
若干肩を落としながら九郎がつぶやく。近くに参加していた忍びの一人が居たが、
(九郎さんが色物じゃなかったら誰が色物なんだ……)
と、思わなくもなかったがさすがに声には出さなかった。
そうしていると九郎に話しかけてくる者が居た。力士の集まる中、羽織姿の初老男である。
「九郎殿」
「ん? おお、鹿屋かえ。なんだお主も参加か?」
「ははは、この通りでっぷりとはしておりますが、相撲はとてもとても……」
話しかけてきたのは日本橋の大店、鹿屋黒右衛門である。腹を叩きながらにこやかに彼は言う。
「いえね、実はちょうど江戸に来ていたうちの若い者が参加するのでその応援に来ておりましてな」
「ほう。薩摩相撲取りか。強いのかえ?」
「それはもう」
頷いて流暢に彼は説明をした。
「出身は薩摩の南に浮かぶ徳之島。徳之島といえば闘牛が盛んでしてな、彼の者は日々その牛を相手に鍛えている者でして。軽々と荷車を曳き、船を陸に引っ張り上げるほど! その力は島津の殿様の耳にも入って、江戸におわす島津殿に面会をしにやってきていたところなのですよ」
「ううむ、強力なライバルだのう……」
「せっかくなので身分に関係なく募集しているこの相撲にも参加させようということになりまして。いやあ、皆の度肝を抜きますよ」
「名前は?」
「茂助と申します……おや?」
そうしていると行司から呼び出しが掛かる。第一試合が始まるようだった。
「西の方~九郎~……東の方~茂助~」
きらりと黒右衛門の目が光る。
「これはこれは……最初から頂上決戦となるかもしれませんな?」
「ふむ。面白い。手加減はいらんぞ」
「九郎殿。小判を握らせながら言わないでくだされ」
「ちっ」
まあ、買収で優勝しても自慢にはならない。九郎は気息を整え、土俵へと向かっていった。
一斉に数万人の視線を浴びているようで、それだけで全身に軽く汗が浮かぶ独特の緊張感がある。
筋肉を張り詰めらせて気分を落ち着かせ、九郎は行司に渡された塩を土俵に撒いた。そうしていると、向かい側の人集りが割れるようにして相手の茂助が姿を表した。
どし、どしと茂助はゆっくりと歩みを進め、皆の驚愕の視線を浴びながら土俵に上がる。
そうして唖然としている行司が持つ塩をおもむろに食い始めた!
「も゛ー」
「牛だろこいつ!?」
皆が思っていたことを九郎が代弁したので、一斉に観衆は頷いた。
真っ黒い毛並みに、まわし飾りを腹に巻いている角の生えた大牛である。地面に巻かれた塩をしゃぶっている。
「BEEF! 百パーセント牛肉だろ!? なんで参加許可降りてるんだ!?」
「頑張れ茂助! 九郎殿は怯んでいるぞ!」
「怯むわ! 闘牛で鍛えたっていうかこやつ自体が闘牛だろ!?」
「いいえ! 茂助は闘牛と親しみすぎて自分が牛だと思い込んだだけの人間です! って言ったらなんか参加許可が降りて」
「馬鹿!」
土俵下に控えている黒右衛門とそうやり取りをするが、行司は軽く目を瞑って見ないふりをした。
「双方、見合って~」
「そのまま進めるつもりだし!?」
「も゛お゛ー」
「そしてビーフはやる気がある!」
牛の方は闘牛で慣れているのか、土俵中央まで進んで九郎に頭を向けて睨みつけてきた。
いかん、と九郎は思う。さすがに牛の突進をこのままで受け止める自信は無い。体重の差が大きいのだ。目の前の牛は数百キログラムはあるだろう。踏ん張りが効かずに押し出される。
ちらりと嫁と子供らが見ている櫓に視線をやる。父の面目があり、一回戦で負けるわけにもいかない。
「待ったなし! はっけよい──のこった!」
「チェスも゛ー」
「チェスも!?」
変な鳴き声を出した牛に不意を突かれた九郎に、大質量の先に備えられた尖った角が襲いかかる。
「ええい!」
舞の海の八艘飛びではないが真っ向勝負をしては敵わぬと見た九郎はひらりと横に身を躱し、牛の勢いのまま土俵外へ出ることを狙った。
だが見た目よりはるかに機敏な闘牛は、ぎゅるんと前足を蹴って体を跳ね上げるようにし方向転換をして九郎を追う。
(よくあの重さであんな動きをして足がどうにかならんな……!)
感心しながらも横を向いた牛の頭に拳の突きを入れる。
上から打ち下ろす一撃で人間だったならば即昏倒するか首の骨がどうにかなる威力だったが、牛の目を閉じさせるほどの痛痒も与えられなかった。
「も゛ー」
牛が頭を振り回すと刃物のような角が襲いかかり、九郎は咄嗟に見切って角を両手で掴んだ。
だが牛が今こそとばかりに両手で角をホールドした九郎を押し始める。土俵を削るほど足を踏ん張りつつ、九郎は歯を食いしばった。
「こうなれば……!」
と、九郎は一気に角を掴んだまま飛び上がって牛の背にまたがる。
ロデオの如く暴れだす牛を九郎は足でしっかり挟んで乗りつつ、牛の進路にひやひやとし始めた。
こんな暴れ牛がみっしりと集まっている土俵外に出ては非常に危険だろう。
(やば……スフィあたりに来てもらわねば……)
スフィの歌ならば暴れる動物を鎮められるだろうが、まさか土俵に牛が出て来るとは想像もしていなかったので離れた櫓に居るだろう。
「ままよ! そっちの連中道を空けろ! 牛が飛び出るぞ!」
九郎は角を強く握ってなるべく視界を一方向に固定させることで、なんとか牛を特定の方向に出させようとした。
人の少ない深川八幡の庭園にでも離せば良いだろうと思ったのだ。
慌てて人混みが割れて道が出来ると、牛が一気に走り出した。
「待て待て待て!!」
角を引っ張り上げて速度を落とそうとするが、中々に上手く行かずに暴走に焦る。
周囲から悲鳴があがり──そして、
ど、と人にぶつかった。
否。
正面から一人の巨漢が牛の突進を受け止めていた。
「──大丈夫だよ。怖がらなくていい。落ち着いて。ゆっくりと歩こう」
男がそう牛に囁くと、あたかも通じたかのように牛は徐々に鎮まり──そして漲っていた闘志を抜いた。
頭に虚無僧が被るような編笠で顔を隠した巨大な男は、身の丈七尺を超えて体つきも相撲取りをスケールアップさせたような、脂肪が筋肉によって張り詰められた体型をしているのが、編笠以外はまわし姿なのでよくわかった。
若干桃色がかった肌色の、落ち着いた声をした彼には九郎も知っている相手だった。
「お主……シンか! 参加しておったのか」
「あれ。九郎さん。いやね、僕もうえさ……上司の人から、危なそうなら止めるようにって言われて……まさか牛が走り出すとは……」
彼は時折、九郎のところに箱入り娘のお重を連れてくる謎の大男、シンであった。
その真の身分は徳川吉宗側近の御庭番衆に所属しており、大抵は吉宗の無茶振りに応える役目であって、吉宗が許可を出した相撲試合のあるここにも派遣されてきたようである。
体躯も人より大きければ、骨の密度も筋肉の強さも人間とは種族を画している彼にかかれば暴走した牛どころか、ちょっとした象でも止められる。
九郎も偶然に何度か力比べをしたこともあるので彼の膂力を知っているが、
「思いがけぬライバル登場だのう……お主は強そうだ」
「あ、いえ。僕はこっちの本場所で、九郎さんはそっちの色物場所なので戦わないかと」
「なんでだ!? お主モロ色物だろ!? オークックック! 人間などイチコロオーク!って感じの体つきをしているではないか!?」
「ひ、酷いな! 好きでこんな体なわけじゃないんです! そんな変な語尾しないし!」
九郎はさっぱりこの眼の前の巨漢が、オーク種族だとは気づいていないので単に例え話として似た体型のオークを出しており。
シンの方もオークという存在がこの世界に居ないものとは知らないので、オークに例えられても九郎が同じ世界から来たとは思い至らない。
微妙なすれ違いを続ける二人であった。
それに幾らなんでも、興行主側も将軍から派遣された力士を色物組に入れるわけにはいかなかったのだろう。明らかに強そうなシンはまさに本場所の大本命であった。
「くう……まあいい。己れの優勝を阻む相手が少しでもこっちにいれば」
ともあれ九郎は、慌てて駆けつけてきた鹿屋と薩摩人らに牛を返して色物場所へと戻っていった。
勝負の結果は九郎は背中に乗り、牛の茂助が土俵を割って外に出たということで九郎の勝利に収まった。
********
次の試合まで再び土俵の周りに座って待つのだが、さっぱり土俵の様子は見えずに他にどんな相手が居るのか把握できなかった。
しかしながら櫓などから観戦している客などは大盛り上がりをしていて、どよめきや囃し声が次々に上がり、会場は熱気に包まれている。
そうして再び九郎に声が掛かり、土俵へと上がった。
相手は先に土俵入りして待ち構えている。小柄な相手であった。体つきは全体的に細くて青白く、肘の内側や脇腹など色の薄いところはむしろ僅かに青く見えるほどだ。それはかつて全身に塗られていた色素が定着してしまったためだろう。
髪の毛を結っていないのは癖毛が角のように勝手に纏まるからであり、感情の薄い目を九郎に向けていた。
「お゛」
そう濁った声をあげた親しい少女・茨はまわし一丁の女力士姿で九郎と対面していた。まろび出ている乳房を、両手を組むことで先端部だけ隠しつつ。
「いーばーらー!?」
「お゛う」
「馬っ鹿お主嫁入り前の娘がうおおお!」
九郎は嫁なども見たことがないぐらいに狼狽をして慌てて自分が羽織っていた半纏を脱いで、茨に着させて前をしっかりと結んでたゆんとした胸を隠した。
「てめー!」
「なに女力士の胸隠してるんだー!」
「まろび出せー!」
会場から、茨の胸を楽しみに見ていた観客たちの罵声が上がった。
女相撲は殆ど珍妙な見世物として扱われ、スケベよりは笑いを取るものだったらしい。
それは美女の女力士など殆ど居なかったからだ。当たり前であるが、美しければ力士より他に嫁などに貰い手がつく。
しかしながら相撲大会に参加した茨。あまり相撲に詳しくないので人に聞いて、言われた通りまわし一丁で出てきたのだったが。
紛うことなき美女である。かつては発育不良なところも否めなかったが、今では実年齢よりも幼く見られる程度で肉付きも良く男から人気があった。
そんな子が乳を出して試合していたのだから会場も盛り上がるはずだ。
故に九郎が乳を隠させたらブーイングが出るのも当然である。
だが彼は逆ギレした。
「やかましいわ! うちの茨を助平な目で見るな! 文句があるなら土俵に上がってこい!!」
九郎にとって茨は保護する対象である。しかもかなり過保護な方だった。そのせいで未だに彼女も旦那はできないのだが。
挑発を受けた観客や他の選手らが土俵に駆け上がり次々に九郎へ掴みかかり、殴り掛かる。
容赦なく九郎は反撃をして蹴り飛ばし、叩き伏せ、跳ね飛ばす。
十人も蹴散らせば文句をつける声が随分と静かになった。
肩で息をして九郎は汗を拭い、茨と向かい合う。
「というかお主はなんでこんなところに……」
「れ゛」
「なに? 靂が仕事に出かけてて最近暇?」
「ち゛」
「力には自信が合ったのでこういう勝負で懸賞金を稼いでみようと」
「て゛」
「出会い……ああ、自分の腕力に引かぬ男とか居ないかなーと……婚活の一環で」
「ん゛」
「いやすまんかった……ちゃんと相手探すから……」
(なんであの人、うめき声一つだけで会話内容掴めてるんだろう……)
と、聞いている周りの者はそう思った。表情やらニュアンスやら相手の現況やらから判断する技術である。
しかしながら彼女は自分の婚活を九郎や靂が口うるさい保護者目線で邪魔してくるもので、こうして自分から動くようになっていたようである。
実家の仕事や農作業のある小唄やお遊と違って、茨は靂が居ないとわりと屋敷では暇をしているようであった。
ともあれ、相撲は相撲として勝負だと茨が云うので両者は向かい合って構える。
(あとで茨の後ろあたりで鼻の下を伸ばしてるやつは始末しよう)
向かい合ってそう思いながら、試合が始まった。
お互いに前に出ながらすっと何気なく茨はつっぱりというか、軽く手を伸ばしてくる。
九郎はそれを額で受けてがっぷり組み付いて投げ倒そうとした。
だが、茨の小さな手が九郎の額を掴んだ瞬間に頭蓋骨の合わせが軋んだような音が耳に響いた。
「ぐっ!?」
更に尋常ならざる握力で九郎の額を掴んだ茨は、そのまま地面に投げつけるモーションで無理やり引き倒しに掛かる。
鍛えられた成人男性の体が踏ん張るが、明らかに茨の腕力の方が強い。
見た目からは想像できない剛力を彼女は生まれつき持っているのである。
(やばっ)
膝が崩れそうになる。九郎は腰を落として耐えつつ、自分の頭を掴んでいる茨の手を取り、腕力を利用して関節を捻った。
茨が躊躇いなく軽い体をぐるりと九郎の捻る方向へ宙返りするように回転させて九郎の手を外した。同時に、九郎の額を掴んでいた茨の手も外れる。
再び手を伸ばすが彼女の握力にかかれば危険であり、九郎はそれが近づく前に払う。
すると茨は手を払われた瞬間に肩を使って鉄山靠を仕掛ける。彼女の踏み込み足が地面を砕いて打ち込まれる体当たりが脇腹に直撃し、九郎は内臓が潰れたかのような衝撃を受けて更に吹き飛ぶ。
(強っ! 普通に茨強いのだが!)
ギリギリで土俵際に残った九郎へ、茨が両手を開いた構えをしてにじり寄る。
覚悟を決める。九郎は茨が掴みかかった両手を、自分の両手で力比べするように絡ませて受け止める。
九郎を凌駕する握力がびきびきと手を握りしめ、手首をへし折らんとした剛力を出すのに必死で九郎は耐えつつ、
「ぬううう……!」
と、体重差を活かして無理やりに組んだまま茨を持ち上げた。異常に力が強いが、体重は軽い。
持ち上げられても握力は変わらず九郎の手首を破壊しかけるが、寸前のところで九郎は茨の体を土俵の外へ下ろすことで行司が彼の勝ちを宣言した。
負けた茨は少しだけぽかんとして、すぐに力を緩める。
それからあと数度曲げられてたら危ういところだった九郎の手首をさすってやり、
「た゛じょぶ」
「あ、ああ。大丈夫だ。しかし子供は見ていないうちに強くなるものだのう」
「こ゛め」
「謝るでない。試合だったのだからな。しかし、いい子だのう。くう……ちゃんとした旦那を見つけてやらねば……」
心配そうにしてくれる茨に九郎は目頭を抑えるのだったが、彼女が九郎に気に入られれば気に入られるほど、彼が探そうとする旦那候補のハードルが上がって見つからないことになるのだったが。
九郎はこうして二回戦も勝利したのであった。
*******
相も変わらず試合の様子は見えず、周囲の声から「サメが出たぞー!」とか「出た! 必殺のまわし切り! 本日3人目のフリチン!」「絡繰殺戮力士人形」「どう見ても狒々か猩々」などといった断片的な情報のみ伝わる程度である。
色物組は色物同士で潰し合っているようだが、さすがに色物だからというべきか怪我ぐらいはともかく死人は出ない程度に実力の伯仲した色物揃いであったようだ。
それでも離れた櫓などから見ている分にはかなり盛り上がっているらしく、弁当屋に甘酒屋も走り回って販売をしていた。
三回戦の相手は修験者風の服を着たままで土俵入りした色物であった。
というか知り合いの修験天狗な伊佐入道であった。主に関東の山で修行を積んでいる修験者らの顔役で、根津甚八丸の義弟でもある。
「ふははぁぁああ!! 大天狗様と云えども拙僧の秘奥義[拝み渡り]の呪縛には勝てまい!! 南無八幡大菩薩ぅぅ!!」
「ぬううう!? 意味がわからんが体が動かん!?」
九郎の手を取って土俵を囲む勝負俵の上を伊佐が念仏を唱えつつ歩くと、不思議と九郎の体は言うことを利かなくなり彼についていくしかないという謎の技であった。
周囲は怪しげな術を使う修験力士に固唾を呑んで見守る。
「秘技[輪廻]!」
更に伊佐は俵から宙返りをしつつ九郎の延髄へと蹴りを叩き込む。
ギリギリで体が動くようになった九郎が防御をするが、土俵に着地した伊佐が九郎の胴体を完全に捕まえた。
「うおおおお! 決め技[高野落とし]──! 南無八幡大菩薩!!」
クラッチしたまま高々と九郎を抱え上げてそのままパワーボムの要領で投げ落とそうとするが、
「フランケンシュタイナー!」
九郎は相手の頭を両足で挟み込むと、全身のバネと軽功を使って相手を足で持ち上げたままバク宙の動きをし、逆に相手をダイナミックに一回転させて地面に投げ倒した。
鐘が鳴り響き、九郎は片手を上げて勝利をアピールする。
「プロレス見てて良かったが……なんで相撲がプロレスになっておるのだ」
若干疑問に思いつつ、どうにか九郎は三回戦も勝利した。
********
その後も九郎は背中に入れ墨を彫った角乗り七人衆の一人を撃破し、自称八丈島から脱出してきた流刑囚五人組の一人を倒して同心に引き渡した。
楽な戦いは無かった。七人衆はサメの形意拳を使ってきて見ている観衆すらもサメの姿を幻視するほどだったし(恐らく本物のサメも使っていた)、流刑囚は相手の関節を外すことに興奮を覚える異常者で危ういところだった。
時折隣の土俵を見ると、普通の力士が真っ当な相撲の試合をしていてそれはそれで盛り上がっていて、ふと九郎は自分が何をしているのだろうと悲しくなる。
そして迎えた決勝戦。相手は以外にも普通の力士タイプの男であった。
「くくく……我輩は武御雷流相撲術の伝承者、十束! 貴様を我が手刀で切り刻んでくれるわ……」
訂正。全然普通ではなかった。
「というかお主なんだその腕!? 露骨に仕込み刀あるだろう!?」
九郎が指摘する通り、両腕の外側に沿って刀身がくっついているのである。カモフラージュなのか薄茶色に色を塗っているが腕に刀を括り付けているようなものだ。
「ふっ……我が流派の祖である武御雷は建御名方と相撲を取る際に手を剣に変化させた……ならば相撲に於いて、手が剣になるのは伝統の範疇内!!」
「酷い理屈だが既に決勝まで勝ち上がっているのが一番最悪だ!」
既に行司はその腕に剣を括り付けているのを容認したのだろう。
牛が初っ端に出たこともそうだが、運営側もこの色物場所ではなんでもアリだと思っているフシがある。
「はっけよい残った!」
合図と同時につっぱりの嵐が飛んでくる。そのどれも、掌よりリーチの長い刀の先端が付与されているのだ。
まずこいつを逮捕しておけよと警備の同心らを恨むが、九郎は後ろに下がりつつ刀を避ける。
だがすぐに土俵際に追い詰められて、九郎はつっぱりに合わせて指で刃を摘み取って受け止める。
「ふん!」
だが相撲取りの腕全体でホールドされている刀に込められた力は強く、すぐに指から外されてしまう。
すると十束は逆水平チョップの動きで刀を薙ぎ払う。武器の通り、腕をぶつける打撃系力士のようだ。
九郎は屈んで避けつつ土俵際を逃げようとした。
「──!?」
「そりゃあ!」
すり抜ける寸前で九郎のまわしに十束の指が一本かかっており、その指一本の力で寄せるようにして土俵の中央に引いた。
よろめいてたたらを踏む九郎に再び二刀流のジャマダハル使いめいた動きで凶刃が襲いかかる。
(くそ)
茨とは違う理由で組み付けない。相手の奮ったつっぱりを受け止めればぐっさりと刀が突き刺さってしまう。
両手に武器があり、もぎ取れないように保持しているのも問題だ。同時に防がなくては刃による致命的な反撃を受ける。
九郎は左右から迫る刃を、十束の腹に直蹴りを入れつつのけぞるようにして後方に飛んで間合いから逃れる。手刀が古来の相撲だからアリならば、蹴りも古来の相撲の技だ。野見宿禰も蹴り技を使っていた。
だが腹を蹴り飛ばされたのに何も気にした様子は無く、十束は再び追い詰めようと迫ってきた。
(おまけに力士体型だから多少のダメージは我慢が利くと来たものだ)
いっそ拝み渡りのような念仏呪縛攻撃でも使えれば別なのだったが、さっぱり理屈はわからない。
こうなれば、と九郎は全身の筋肉を奮い立たせる。後は力と力のぶつかり合いで勝利するしかない。
「これで──終わりだあああ!」
十束が叫びながら刀のつっぱりが来る。みしみしと九郎は肉と骨の軋む音を全身から出して──
つっぱりを──無理やり受け止めた。
刀の先端が九郎の上腕と胸部にそれぞれ突き刺さっているが──硬気功で固めた筋肉が食い込んだ刃を掴み取ってあたかも岩に刺さったように動かない。流れ出る血も僅かだった。
九郎の体格が変化していた。より筋肉を膨らませ逆三角形に。かつて拳法の達人が取り憑いていたときのように。ひたすら九郎が体を鍛え抜いた最大の状態に自らを変えたのだ。
無茶なズルではなく鍛えた範疇なのでまだ刀を振り回すよりはセーフだろう。
「おお……!」
相手の両腕を掴んだまま、筋肉が浮かび上がった丸太のような足で十束の足を刈り取る。
牛だろうが骨をへし折るほどの威力を持つローキックは、きつく大地を踏みしめた力士の脚すら動かした。同時に、掴んだ腕を反対方向に投げることで十束の体は完全に半回転し──地面に叩きつけられた。
「馬鹿なぁぁ……」
「くっそ痛いわバカタレ!」
九郎は顔を顰めつつ刺さった刀を抜いて、緊張していた筋肉を元に戻すと血が出てきて嫌そうにうめき声をあげた。
見ていた人らからすると一瞬だけ九郎が超筋肉になったように見えたが、こうしてすぐに元に戻ったので何かオーラ的なアレだろうと納得された。
兎にも角にも、ついに優勝した九郎に向けて大歓声が上げられて、九郎は苦い笑みを作って腕を上げて応え、遠く櫓の上に居る家族にも手を振ったのであった。
「おかしいのう。相撲で優勝したはずなのにローマの見世物闘技場とかで勝ち抜いた奴隷の気分だ」
そして隣の本場所で決勝戦は、一般参加のシンと大阪の大関・谷風の一騎打ちであった。
谷風は有名な大関で身長180cm体重150kgもあるこの時代では大柄な力士だったが、一方のシンは身長230cmで体重は300kgほどもある。
巨人とも言われた谷風ですらシンと並ぶと大人と子供に見え、これまでの試合でもシンは優しく押し出して勝利してきたので今回もそうなるかと思われたが──
谷風の熟練した立ち回りと、そもそもシンには相撲の技術も無ければ人と戦うのも精神的に苦手意識があったことから伯仲した戦いになり、やがて谷風は身長差を活かしてシンの膝を手で取って転ばすことで見事に勝利を掴み取った。
本命の大関が一般参加の相手を倒したというのに、まるで大金星を取ったかのような大騒ぎになり谷風は男を上げるのであった。
「ああいう普通の大物倒しを己れもやりたかった……」
見ていた九郎も嘆くようにそう云った。自分の相手は牛・女相撲・怪しい修験者・サメ拳法・脱獄囚・刀を振り回す力士と真っ当なのが居なすぎたからだ。
そうして谷風と九郎は並んで表彰され、懸賞を受け取ることになる。
のであったが……
「九郎関はこれにて、日ノ本一のイロモノ力士として表する!」
「待て」
「八幡宮の記録にも永遠に残るだろう!」
「残すな」
とりあえず行司を説得してどうにか普通に勧進相撲優勝として扱うようにするのがまた一苦労なのであった。
また、結果として死人はどうにか出ずに、乱闘は起きたが喜々として影兵衛が鎮圧しまくっていたのでそこまで大きくはならなかったという。
過程はどうあれ、父親が勝って凱旋したことに子供らは素直に喜び、皆の笑顔を見れば何事も頑張った甲斐があったかと嬉しくなる九郎であったという。
嫁達からも多少笑い話のような試合もあったが、何はともあれ久しぶりに男らしいところを見せたので褒められ、満更でもない様子であった。
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翌日、九郎の店では。
「……で、なんでまた女になってるんですかお九さん」
「町を歩くと天下一のイロモノ!とか声を掛けられて見ろ。鬱陶しいというか腹が立つ。世間の噂が更新されるまで己れはお九になっておく」
「そういうところがイロモノなんですが」
「うるさい。茨とどこか遊びにでも行くかのう。茨の旦那も探さんと。うちの息子がもうちょい大きければ……歌麿は……うーん歌麿と茨ってなんか接点あったか?」
「……押し付けようとしてません? 歌麿さんを」
一方で、歌麿のところではファンの忍びが菓子折りを持ってやってきていた。
「歌麿先生!! この前の相撲で茨ちゃんがまわし一丁で出てたの見ました!?」
「良かったマロ……性的に無知な女の子でもさすがに大勢から視線を浴びせられて胸を隠す仕草とか最高マロ……!」
元々歌麿は茨のことも気にかけているのだ。セクハラなどは殆どしないが、九郎が大事にしていることもあるし弟分な靂の妹なので、殆ど妹みたいに思っていた。
「ところで歌麿先生。お九さんも相当力が強いらしいですよね」
「晃之介さんをぶん投げたとか聞いたマロー」
「つまり! 茨ちゃんとお九さんの女相撲している絵を……!」
「そ、それは……!」
女同士、まわし一丁でがっぷり組み合う美女&美少女。がちりと歌麿の脳内で絵が完成してすぐさま筆を振るい始めた。
まるで別の扉が開いたようだ。
「至高ー!!」
まさか噂をしている義弟が、自分と茨のカップリング絵を描いているとは思わないお九であった。
今日も江戸は平和である。




