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7話『晃之介のお九に対する見解/佐脇嵩之の亡霊』




 録山晃之介は言うまでもなく非常に強い武芸者であり、その隙も殆ど無いのだったがその日彼は弱点を突かれて、磔にされていた。



 気がついたらこうであった。晃之介は意識が回復し、縛られていることを確認してどうにか脱出するべく身動ぎをした。

 彼とて捕縛術の一つも習得しており、関節を外したり指先に内功を蓄えて縄をつまみ解したりと抜ける方法は習得しているのだが、どうやらそうやって抜けられる術も考慮されているように完璧に複数箇所を縛られている。これでは脱出マジックの天才でも不可能だろう。

 一本杭のような柱に縛られているが、それも鉄か鉛製のようでへし折れそうにない。重力方向から、磔刑のように立てられているようだ。

 それを確認しながら、どうやら一服盛られたようだと納得する。野山で修行をしていた晃之介は元々悪食であり、少しの毒や腐敗程度ならば耐えられる強靭な腹をしていた。

 だがそれでも、妖術魔法の力で無効化している九郎ほどではない。専用に作られた人を昏倒さしめる薬物を摂取すれば意識も失い──それでいて悪食が味覚を鈍化させているので食い物に混ぜられ多少妙な味だろうと気にせずに食ってしまったのだ。


(俺もまだまだだな……だが、相手は毒を使い慣れている)


 それこそ野山から取ってきた適当な材料の場合は多少気をつける。例えばそこら辺で野生に生えていて香りも良い(にら)の葉などは、有毒の水仙(すいせん)ともよく似ている。水仙は僅か3匁(約10.25g)で命に関わるので、晃之介も弟子らに注意をしていた。

 だが野性味に溢れた料理を食べた記憶はない。最後に意識があったのは、


(確か道場の外で修行をしていたら、覆面忍びの誰がが差し入れとして持ってきた竹筒の水と握り飯を口にしたあたりで……あれか!)


 露骨に不審であった。しかしながらこの江戸では覆面の者も珍しくなく、晃之介の知人にも親しい者が何人か居るのでまったく怪しまなかったのだ。

 恐らくは忍びの秘薬で眠らせて縛ったのだろう。忍術に長けた者ならば、縄抜けができぬように縛る知識を持っていても不思議ではない。

 ちらりと晃之介は自分を縛り上げた何者かに気づかれぬように薄目を開けた。


「──って多いな!?」


 自分を縛っている目の前に、松明を持っておどろおどろしく舞いながら謎の儀式を行っている覆面の忍びが、ざっと十数人居た。


「あ。先生が起きた」

「よぉし皆! 儀式を進めよう。多摩にある暗黒の深泥池(みどろいけ)に潜む蛇神めめろぼりたんでかぼいあ様に願いを──」

「待て!? なんだこれは! 俺が何をした!」

「落ち着いてください録山さん。自分らはちょっと相談があって来て貰ったんです!」


 覆面の1人が松明を掲げながら言うが、まったく安心はできない。

 周囲を確認するとまだ昼間だがどうやら山深くらしい池のほとりであった。杭に縛った晃之介の周りには薪が敷かれていて、持っている松明と合わせ不安しか煽らない。

 ごくりと唾を飲み込む。


(もし燃やされたら縄に火をつけて一気に引きちぎり、体を焼く前に池に飛び込んで逃げよう)


 どこを燃やせば効率的に逃げられるかを身じろぎしながら確認した。


「相談とは何だ。というか相談するのにこれは無いだろう」


 薬で眠らせて拉致して縛り燃やそうとしているのを相談とは言わない。処刑である。

 覆面の中でも代表らしい男が頭を下げながら言う。


「すみません……うちの連中で先走った者も居まして。録山さんへ義憤に駆られたというか……」

「ぎ、義憤?」


 確かに武芸者として挑んできた者を打ち倒したり、他流試合で戦ったりして恨みを買うことは晃之介も理解している。

 だが義憤とは中々に覚えのないことだった。


「そうだ!」


 他の覆面が松明を振りかざして叫ぶ。


「あんな美人の嫁さんも居るのに、俺らの希望であるお九さんにまで手をつけようとするのはあんまりじゃないか!」

「この助平道場の助平師範!」

「九郎さんの義息子!」

「ま、待て!? なんのことだ! お前らは誤解をしている! あと九郎の義息子が女にだらしない系の悪口なのが酷いな!」

「そ、そうだぞ。九郎さんへの悪口は控えたまえ」


 何故か覆面の1人がチラチラと周囲を気にしつつ擁護に走るが、九郎というのは女たらしで美女を全員掻っ攫っていく代名詞のようになっていた。

 それでいて独身の連中に遊女上がりの女を見合いに紹介しているので正面切って批判する者は居ないが、どうしても複数の嫁を侍らせているというイメージは抜けないだろう。

 晃之介を糾弾する忍びの1人が言う。


「俺たちは知ってるんだ! 助平師範が自宅の風呂でお九さんに背中を流させたことを! その喜びで思わず壁を突き破って全裸で走り回ったことを!」

「畜生! 俺らだって全裸で走り回るほど喜びたい!」

「だから誤解だ! あれは急に、向こうから勝手に入って来たから驚いて逃げただけで……!」

「きょええええ!!」

「さすが二枚目は違いますなあ!! 美女の方から勝手に風呂に入ってくるんですからなあ!!」

「……げる……捧げる……」

「くっ……こいつら冷静じゃない……!」


 モテない男たちの僻みは強かった。

 貧乏な農家や郷士の次男三男である彼らは碌に女と接点が無かったどころか、母親からすら愛情を向けられた記憶も少ない。

 そこで元忍びの繋がりで聞いた情報だと江戸にくれば嫁を見つけてくれるというのでやってきて、順番は中々回ってこないもののその間に仕事の報酬としてだがお店で金を払う以外で愛想を振りまいてくれるのがお九であった。

 彼らにとって至高の存在である。滅茶至高(メチャシコ)な相手に入れ込んでしまうのも仕方がない。


「いいから落ち着け! 俺の話をまず聞け──おいなんだその火遁用とか書かれた黒い粉を足元に撒くな!」

「大丈夫です! 火起請なので!」

「焼いてから確かめるやつだろそれ!」

「待て。録山さんの話を聞こう」


 そう代表覆面が抑えて、晃之介の言を待った。

 

「とりあえず最初に言っておくが、俺はまったくお九さんをどうこうするつもりはないし、もし迫られても拒否する。これは誓おう」

「……本当に?」


 疑わしげな、晃之介に向けられたすべての目に彼は迷いなく返す。


「本当だ。もしお前らが恋い焦がれているのならば応援する。大体、俺には嫁も子も居るのだから浮気など出来るか」

「……よかったぁー!」


 どっと忍び連中は安堵の吐息を吐いて胸を撫で下ろした。


「この先生強い上に二枚目とかずるいもんなー!」

「生活に困ってるわけでもなさそうだし、正直俺らじゃまったく敵わないから本気で取りに来られたら負けるし……」

「しかもなんだかんだで近い関係だから自然と両者は仲良くなりそうだったし」

「俺らなんてお九さんが住んでる家すら知らねえもんな」

「それは俺も知らないぞ。というかだな、お前ら」


 晃之介が呼びかけるのを皆は聞いた。


「確かにお九さんは胸が大きいから少し、こう……むっとくるところはわかるぞ。なにせ──胸が大きいからな」

「そこ重要なんですね」

「ああ。それに加えて、実を言うとうちの嫁である子興殿がだな……義理の父である九郎の姉である、お九さんがあまりにも男にだらしないので少し怖がらせてやってくれ、襲うふりなどをしてと頼んできたこともあったわけだ」

「そ、それで!?」

「ちょっと待って下さい! 助平な話ですか!? みんな! 正座だ!」

「違う。だが、一応俺も一晩ぐらい考えてみたのだが……」


 晃之介は苦々しい顔をして言う。


「まず、あのお九さんは九郎の姉だろう?」

「はあ」

「もし手を出してみろ……あの九郎がニヤニヤしながら『うちの姉に手を出すとは物好きだのう』とか冷やかしてくるぞ! いや、それだけならまだいい。最悪、九郎と結託した美人局(つつもたせ)の可能性がある」

「つ、美人局!?」

「大体、もし嫁にでもしたらあの九郎が義弟だぞ! 娘同然だったり妹同然だったりド助平な女医師とか仇討ちで頼ってきた娘とか下女として雇った子とかどう見ても多分石燕殿の実の娘みたいな子に次々と手を出す九郎が! 身内に!」

「うっ……」

「それは確かにちょっと……」

「い、いや、そこまで言うことはないんじゃないかなあ……」


 軽く全員引くが、1人の覆面は擁護をしている。

 晃之介は唯一縛られておらず動く首でうなずきつつ告げる。


「大体、俺と九郎は親友だからな。子興殿は祝言の際に九郎と義理の親子関係を結んだだけだが、親友の姉なり妹なりに手を出すというのはかなり気まずい。それを思うとどうしてもその気になれないことがわかってな。だから俺はお九さんだけは無理だ」

「うーん……九郎さんが身内……うわあ……」

「あいつ女たらしの義兄らしいなとか言われるのか……」

「お、おい。言い過ぎじゃないかなあ。ほ、ほら九郎さんところの関係者がやってるお店なんか、地元のヤクザすら近づかないって評判だし……」


 完全に堅気ではない証拠な気もした。少し顔を曇らせる忍びたちに晃之介は言う。


「嫁を貰うというのは単純に個人と個人の付き合いではなく、それに付属する人間関係もある。お九さんが悪い人間とは言わんが、一度そのあたりを考えてみた方がいいと思うぞ」

「そうかもしれないな……」

「辞めといた方が……」

「まだ九郎さんが見合いさせてくれるもんな……」


 忍び一同は肩を落として、ため息混じりに四方八方へ諦念を示唆するような言葉を吐きつつ去っていく。

 確かに自分に優しくしてくれて、頼むと面倒くさがりつつも膝枕とか耳かきとか、或いは相互監視と不可侵条約により実現していないが、影兵衛がやったように胸を揉んでも問題が無い女性など他に居ないだろう。

 しかし憧れているうちはまだしも関係を持つとなれば、相応の家族付き合いが出て来る。碌でなしで嫁に甘えてばかりでは九郎に伝わって蹴り出されるのが関の山だ。

 故に、お九は高嶺の花として本気になってはいけないものという意識が芽生えるのではないだろうか。




(そう、俺以外は……!)




 一斉に彼らはそう思った。

 次々に他のライバルを自然と諦めさせるような事を発言していた忍び連中は全員が目を光らせて、誰一人とて他人を蹴落とし自らリードすることを狙っている鋭い眼差しをして去っていくのであった。 


「ちょっと待て……! おーい! 俺の縄を解いてから帰れー!」

 

 ──その場に晃之介を残して。

 




 *******





 1人、ぽつんと立てた柱に縛られたまま残された晃之介は顔を引き攣らせる。


「あ、あいつら……地味に嫌がらせか。くっ……覆面の見分けは俺でもつかないからなあ……!」


 とにかく足の指も手の指も何も掴めないように縛られ、筋肉や肺を膨らませて縄目に隙間を作ろうにも巧妙にそれらを除き、関節などを二重に縛っているので殆ど動けない。

 こうなれば体を揺らして立っている杭を倒し、地面に転げてから落ちている石などで縄を削り解くしかないかと晃之介はゆらゆらと体重移動で杭を動かそうとする。六尺も背丈のある成人男性を縛り付けようと埋めた杭なので、かなり地面にがっしりと食い込んでいるようだったが。

 

「まったく、何をしているのか」


 声がかけられて晃之介が顔を上げると、そこには呆れたような表情の九郎が腰に手を当てて見ていた。


「九郎! どうしてここに……」

「覆面の1人が、仲間がお主を掻っ攫って良からぬことを企んでいると教えてくれたのでこっそり付いてきたのだ。危なくなれば助けるためにのう」

「そ、そうだったのか……」


 そういえば、やけに1人だけ周囲を気にしながら九郎に配慮した発言をしていた覆面が居た気がしたが。

 ぎくりとそれに気づいて晃之介は表情を凍らせ、唾を飲み込んで聞く。


「……ひょっとして、ずっと姿を消して見ていたのか……?」

「美人局を仕掛けてくる、女狂いの身内の恥で悪かったのう」

「待て! あれは説得するための方便で──火打ち石を鳴らし始めるな!」


 その場に放置されていた火打ち石で晃之介の足元に火花を散らし始めた九郎を止めようとぐいぐいと晃之介は動いた。


「冗談だ」


 と云うと九郎は石を捨てて、刀を抜いて縄に当ててゴリゴリと引き斬る。

 やがて自由になった晃之介は地面に降り立って、気まずそうに九郎に頭を下げた。


「すまん。お前の陰口を云うつもりは無かったのだが……俺が言いたかったのは、親友の姉に手を出すというのは色々難しいということだけだったんだ」

「まあ良い。あれもこれもと嫁に貰ったときに女好きだと思われるのは覚悟していたことだ。それに実際お九とお主が変な関係になったら、確かに己れからしても微妙な気分だからのう。お主をからかってはいるが……」

「だろう。というかだな、九郎」


 晃之介は真剣な顔をして九郎の肩をがしりと掴んで云う。


「お前がちゃんとしてやらないでどうする」

「な、何がだ?」

「お九さんのことだ。彼女も年頃なのだろう。きっと巨乳を持て余しているから男にちょっかいを出すんだ」

「なんだ巨乳を持て余すって!?」

「他人の嫁を見つけてやる前に、お九さんの旦那を見つけてやればどうだ。いや、是非そうするべきだ。あの忍び連中も、大勢に希望を持たせ続けては殺し合いが起こりかねないぞ」

「う、うーむ……」


 割りと真っ当な意見ではあった。お九の正体を知らなければ。

 しかしながら九郎としても、戸籍も何もあったものではない自分の女装であるお九に旦那など作れはしない。体は一つなのだ。それに、忍び連中にいい顔をしているのも彼らに働かせるモチベーションを持たせるためである。

 

「いいか九郎! 俺は駄目だが必ずお九さんの相手を見つけろ! あと子興殿の顔が怖いからなるべく俺にはちょっかいを出さないように言っておいてくれ!」

「でもお主トラブってお九の乳を揉んだ際にギンギンに」

「うおおおお!! そういうところが無理なんだ!! お九さんに何か反応したら即! お前に伝わるじゃないか!」

「わ、悪い」


 頭を抱えて悶える晃之介である。

 シモ事情が確実に友人に伝わるというのは人によってはかなりつらいものがあるだろう。これがあるので、どう妄想してもお九を相手にすると九郎の影がちらつくのである。

 まあ、変身している本人なことを武芸者の勘で無意識に見抜いているためかもしれないが。

 そもそも性転換した親友を抱ける男は少数派ではないだろうか。


「とにかく! 九郎! お九さんの相手を見つけろ!」

「し、しかしあやつは己れと同じで妖怪天狗みたいなものだからのう。別に適齢期があるわけでもないのだが……」

「なんなら靂で構わん!」

「構うわ! 血の雨が降るぞ!」

「じゃあ歌麿!」

「……気分的に嫌だ!」

「……うちの長喜丸とか」

「息子を差し出すな! 息子が反応したからって!」

「言い方!」


 ぎゃあぎゃあと二人は言い合いながら、多摩から江戸の方へと帰路につく。



(それはそうと晃之介と飲み宿で酒でも飲んで、夜寝たあとで女体化して朝になったらウケそうだな……やらないけど。絶対やらんけど……)



 などと九郎は邪悪なことを考えながら、三十路になっても反応が初々しい友人と肩を並べて歩いて行く百歳越えの大人げない男であった。





 ********






 いつだったからだろうか、と男は自問自答する。

 鏡の中に死んだ妻の姿を幻視するようになったのは。

 もう妻が亡くなってから十年以上は経過していて、それ以来男1人暮らしであった。

 職業は鏡屋。婿入りした妻の父から受け継いだ老舗……というほど大店ではないが、立地は裏通りとはいえ日本橋近くにあり、親の代からの鏡磨(かがみみがき)を頼む仕事先でなんとか食っていける程度に稼ぎはあった。

 それ故に趣味が高じて副業に出来る程度の暇もあった。

 男の名は佐脇嵩之(さわきすうし)。妖怪絵師をしている鏡屋である。


 さてはて、彼は様々な魑魅魍魎から妖怪変化に絵筆を取り絵に表しているのだが、妖怪というものをこの目で見たことは無かった。

 しかしながら信じていないわけではない。

 妖怪は存在しているし、実際に影響を及ぼす。だが、目に見えるものは錯覚に近い。そう考えている。だからこそ、錯覚に名前をつけて、姿を決めることで意味不明の恐れから身を守ることにも繋がると考えていた。

 そのような彼だったが、ここ十年ほど。

 妻の姿が、鏡に映るように思えて仕方がなかったのだ。


 彼の妻は十年以上前に流行り病で亡くなっている。近年の江戸ではとんと流行り病が少なくなったようだが、昔は珍しくもない運が悪かっただけの死に方であった。

 死ぬまで妻を看病して、しっかりと死に水を取ってやり、葬式の手配から月命日の供養まで律儀に行っていた。

 恐らく、仏教的な観点から云えば正しい供養を受けた妻の魂は現世に留まることはなく、成仏したか輪廻転生したかだろうと思う。

 幽霊や悪霊、鬼──この場合は日本的な鬼ではなく餓鬼などの悪鬼のこと──は概ね供養されなかった者が陥る形態である。天部の四天王はそういった悪霊などを調伏し、部下としている。

 

 だというのに、妻の姿らしいものが鏡に映るばかりか、破れた着物がいつの間にか縫い直され、時には料理をする音すら聞こえてきた。

 まさしく、妖怪の仕業である。

 実際の作用として妖怪が物を動かせないとしたら、無意識に自分がやっているのを他人がやっているように感じるか、或いは他に誰かが家に侵入しているのに気づけていないのか。どちらにせよ、妖しくも怪しい──妖怪の仕業である。

 嵩之からすれば、幽霊の存在は妻の霊魂が現世に留まっているようで──どうもそれを感じる度にバツが悪い思いをした。

 

 この嵩之という男、基本的に頼まれれば鏡磨に行くことを主な仕事としており、古鏡を店に並べているのはおまけのようなものだった。それでも時折、作りの良い高い鏡を買い求めてやってくる客もいるが。

 外に出かけるか、店でむっつりと無表情に本を読むか、或いは絵でも描いているというどこぞの靂に年を食わせたような暮らしをしていて、飯ぐらいは炊くがおかずは近所で煮しめを買うかふりかけを常備するか程度で非常に無精者でもある。

 店の風景は何年も変わらず、時折思い出したかのように商品を磨いているので埃が溜まることもないのだが、まるでこの店は時間が止まったようであった。


 そんな折、[魔鏡]が欲しいと密かな連絡が嵩之に寄せられた。

 魔鏡というのは魔の宿った鏡──ではなく、鏡面に見えないほどの凹凸を加工することで、光を反射させると磨いた形が反射して浮かび上がるという代物である。

 依頼してきたのは匿名だが、真っ当な相手ではない。隠れキリシタンである。こうした魔鏡は、仏を彫ったものもあるが、十字架やマリアの姿などを彫って作られたものが江戸時代に隠れキリシタンによって制作されたのである。

 そのうちの一つが嵩之の店奥に隠されていた。

 別段彼はキリシタンではないが、先代の頃から店に保管されていたので持ち続けていたのだ。持っていることが幕府に知られれば大変なことになるとしても。

 必要な相手に渡るならそれで良いし、口止め料込で中々の値段で売れるために彼は取引に応じた。そのために、普段は手をつけない押し入れを探していると。

 残念ながらあったはずの魔鏡は見つからなかったが、折りたたまれた文が見つかった。

 それは生前の妻が宛てた手紙だった。


 日に日に弱る自らの体を自覚しながら、心配なのは残された夫の生活であること。

 無精者の嵩之は自分が居なければ店の中で孤独に干からびてしまうのではないか。

 なのでなるべく早くに後妻を貰って欲しいことだけが心残りだと──そう書かれていた。


「……なんということだ」


 嵩之は思い悩む。どうやら、妻の霊魂が漂っているのは自分が後妻を貰わないせいではないだろうか。

 例えば、と思う。もし後妻が居れば破れた着物ぐらい縫うだろうし、食事の準備ぐらいするだろう。そうなれば怪現象も無くなる。まさしく、妖怪が消えるのである。 

 そうと決まれば、とすぐに行動を起こせるものではない。

 嵩之はあまり人付き合いは無く、ずっと昔なじみ相手に商売をしているので交友関係が狭い。絵師の界隈でも、碌に女の知り合いなどは居ない。鳥山石燕などは文でやり取りをした程度だが、それにしたって人妻だと聞いている。

 そもそもにすぐ再婚などしなかったのも、縁が無かったこともある。

 四十も越えた無愛想な妖怪絵師兼鏡屋に嫁いでくる女など、そうは居ないだろう。

 

「ふむ……」


 鏡に映る自分の顔を見ても、月代にまで毛の生えた落ち武者といった様子で髪の毛は伸び放題、髭も生え放題であった。

 これでも仕事で外に出るときは髭を剃り、頭に手ぬぐいを巻いて行くのだが、このままの風体で町を歩いていたら素浪人か何かと間違われるかもしれない。

 これでは嫁など来ようはずもなく、見合いで嫁いできた前妻もよく平気だったものだと改めて感心した。

 何はともあれ、嫁……か、とにかく生活を改善して亡妻の残念を晴らさねばならないだろう。 

 既に自分は、妻の念を自覚してしまった。

 ならばそれは呪いのようなもので、今後延々とその遺された文から生まれた妖怪に関して罪悪感を抱いて生きねばならない。

 

「妻が残した(まじな)い……か。見事に呪ってくれたものだ。は、ははは」


 1人で嵩之は、久方ぶりに小さく声を出して嗤った。




 さて、嫁探しだがほんの僅かに当てがある。

 出版統制の折、読み物を求めて彼は配達制の瓦版を購入していた。

 そこには様々な広告も掲載されており、その中には[見合いをするなら是櫛(ぜくし)]と嫁相手を探す男向けの三行広告と連絡先があった。

 嵩之も会ったことのある九郎が主催をして見合いの斡旋を行っているようだ。

 ひとまず嵩之は、髭でも剃るかと剃刀を取りに行った。


 いつ研いだか覚えていない剃刀は曇り一つ浮いておらず、近所の井戸に汲みに行かねばならない水瓶にはたっぷりと新しい水が溜まっていた。

 



 ******





「ん? おお、久しぶりに見る気がするのう。上がっていけ。靂、茶を」


 九郎は店に訪ねてきた佐脇嵩之を見て人懐っこそうに招き上げた。

 彼を見るのは久しぶりで、なにせ九郎の屋敷では鏡は何枚かあるものの、将翁が綺麗に磨く技術を持っているのでわざわざ日本橋に居る彼に頼むことも無かったのである。


「邪魔するよ。何も押し売りに来たわけじゃないから警戒しないでくれ」

「そんな無愛想な顔をした押し売りが居るものか。いやまあ、別に買ってもいいのだがな」


 座敷に招いて向き合い、茶を勧めながら九郎は聞く。


「それで今日はどうした? 世間話か?」

「いや、実はこの広告を見てね」


 嵩之は瓦版を取り出して見合いの欄を指し示すと、むっつりと告げる。


「この見合いなのだが、私でもできるのかい」

「お主が? うーん……」


 意外な事を告げられて九郎は彼の生活などを思い出し、顔を軽く歪める。


「なんか幽霊の嫁だかなんだかおらんかったか。お主のところ」

「そう。どうもうちの嫁が成仏していないと思ったら、どうやら後妻を貰わないことが気がかりのようだと文を見つけてしまった。こうなれば嫁を探すしかないじゃないか」


 それを先に告げて、嵩之は一通りの事情を九郎に話した。

 九郎自身も嵩之の嫁らしき朗らかな女性を見た覚えがあり、それは九郎と共に居たお八も目撃しているので本当に居てからかっているものかと思っていたが、どうやら違うようである。


「ふうむ……仕事的には大丈夫そうに見えるのだが……」


 あまり儲かっていないとはいえ一等地である日本橋で小さな店を潰さない程度に暮らしている男である。

 日雇い仕事や畑仕事の手伝いをしている忍び連中よりも条件は遥かに良いだろうが……


「……そこまで嫁が欲しくてガツガツしておらんように見える」

「……わかるかい。まあ、正直を云えば妻の残念を晴らすのが目的だからね」


 嵩之は細い顎に手を当ててざりざりと剃り残しの髭を触りながら、眉根を寄せる。

 その姿は気難しい職人が寝不足のまま葬式にでも出ているような、他人ならば話しかけづらい雰囲気を醸し出している。どうもこの男は九郎の知り合いの中でも中々に人相が悪い。

 影兵衛を殺人鬼の人相とするならば、嵩之は恨み深そうな悪霊の人相だ。


「1人で暮らしていてもそこまで不足は感じないといったのが本音だよ。どうにか、嫁に合わせてはみようと思っているのだが気が重いことは否定できない」

「うーむ……紹介する立場上、微妙に困るところだのう。大体、結構お主まで前に立候補している者も居るので、順番というものがある」


 とはいえ、必ずしも先着順に決まるわけではないことは予め独身者には告げているところである。

 遊女上がりの女側の都合もあって、なるべく希望が合う相手を選ぶようにしている。故に独身者側も、美人だの二十代前半までだの料理が得意だのと好条件を足せば足すほど後回しにされる。

 もし嵩之に合う相手ならば、相当に夫が無愛想でも立ててくれる献身的な嫁でなければ難しいだろう。他の連中はだいたい女にガツガツしているので、嫁となれば大喜びで迎えるのでそこまで心配はいらないのだがこの男の場合は嫁もやむを得ず、といった様子で探している。

 

「……店のお祓いとかしたのか?」

「知ってる限りはね。しかし、私が居ない際に客人が妻の姿を見て、茶まで出されたというので中には私の事を狂人扱いする者も居るぐらいだ。狐や狸ももちろん住み着いていないよ」

「ふうむ……それではこうしよう」


 九郎が指を立てて提案する。


「己れの姉をお主の店に派遣して、家事だの嫁の仕事をやらせつつ幽霊の気配を探らせよう。もし本当に亡妻の念が居るならば、嫁らしい女が来たことで消えるかもしれぬし、他の要素があるかもしれないことを調べるのも意味があるかもしれん。まあ、お試しに数日な」

「君の姉を? こちらとしては試してみる価値がありそうだが……」

「ま、少し調べて駄目だったならばまた別の手段を考えてみればよい」

「ならお願いしておくよ」

「うむ。後で向かわせるから先に店に戻っておけ」


 ということで話が纏まった。嵩之が帰った後で九郎は残った茶をすすって感慨深く頷く。


「ううむ。やはり何かと役に立つのだがな。女体化」

「九郎さん……女体化に抵抗がなくなりすぎてる……」


 靂が気味悪そうな視線で見てくるのであった。





 ********





 嫁らにも依頼について話して、貞操に気をつけるよう注意を促されつつ、


「念のために(わし)もついていくのじゃよー」


 と、スフィも同道することになった。もし悪霊だった場合は彼女の聖歌によって強制昇天できるからである。

 ついでにお九を心配してでもある。ちょっと男を騙す程度ならまだしも、数日泊まり込みとなると何かしら問題が起きかねない。 

 お九的には枯れきったオーラを出している嵩之は平気だろうと思っているのだが。

 二人が鏡屋にやってきた頃合いは夕暮れの日差しが店内に入り込むぐらいの時間帯であった。

 昔に入ったことのあるお九の記憶通りに、鏡が整然と並んで無数に光を反射し、様々な景色が入り乱れて見える店内は幽玄さを感じる。

 その奥で置物のように嵩之が本を片手に座って待っていた。


「やあ。いらっしゃい。ところで……どちらが九郎の姉なのかね」


 そう聞くとスフィがぶふっと吹き出してお九の横腹を肘で突付いた。


「どうやら私もクローの姉っぽい雰囲気が出とるようじゃな!」

「そんなわけがあるか。己れが姉のお九だ。これは友達でな、念のために連れてきた」

「スフィじゃよー。事情は聞いたのじゃ。クー子一人じゃ心配じゃから手を貸そう!」

「やれやれ。うら若いお嬢さんが二人も来たらうちの亡霊も驚くだろうね」

「亡霊のー」


 スフィが店の中を見回す。道中に聞いた話では、鏡に亡霊の姿が映るというが。

 きらきらと西日を反射している鏡では、あちこちにお九と嵩之とスフィの姿も小さく映っていた。一部は鏡合わせになるように配置されていて、錯視が起きそうではある。

 この頃鏡の多くは銅鏡に銀色の錫を鏡面としたものが多く、時間が経てば曇るので継続的な鏡磨が必要であった。店のものは暇を使ってかさすがに綺麗に磨かれ輝いている。

 それでも現代やスフィの居た異世界の鏡に比べれば映す影は少しくすんでいるようで、なるほど何処かに亡霊が潜んでいるのではないかと気にはなる。

 

「今のような黄昏時によく見える気がするのだけどね。まあ、上がってくれ。茶ぐらいは……出涸らししか残っていなかったか」

「だらしがないのう。まあよい。スフィよ! 程々に嫁ムーブをして亡霊を誘い出して見るぞ!」

「いやまあ私はサポートするからクー子が頑張るのじゃよ」

「えー」

「……しまった。三人になるなんて思ってもいなかったから、夕飯の準備はまったくできていないのだけれど」

「ほれほれクー子。最初の仕事は飯炊きからじゃ」

「むう」


 自分よりもかなり小さい子供に押されて台所へ向かう、嫁のふりをするために来た女を見送って、嵩之は頬杖を付いたまま夕日を照らす鏡を見回した。

 一人になった店内を映すそれらのどこかで、人影が動いた気がした。



 

 江戸庶民の家庭料理というと、基本的に朝に一日分の飯や味噌汁を作り上げる。

 一般家庭では凝った料理はあまり作らず、それに加えて魚がある程度なのだが……

 嵩之の竈の場合、味噌も無く鍋は埃を被っていてあるものは米と夕鶴の売っているふりかけぐらいだった。


「これは酷い」

「栄養偏ってそうじゃのー」

「と、とにかく米を炊くか……スフィはちょいと鹿屋に行って茶とか酒でも買ってきてくれるかえ?」

「わかったのじゃ」


 そう指示を出してお九は米びつに入っていた白米を大雑把に掬って釜に移す。お九の顔が映り込むほどによく磨かれた銅製の釜であった。

 精水符で水を出して適当に洗って釜に水を浸し、炎熱符で火を焚べた。


「……そういえば己れ、米を炊くのいつぶりぐらいだろうか」


 ここのところ何年も嫁に飯を作って貰っているし、六科のところで暮らしていても飯を炊くのは六科の仕事だった。

 ぐつぐつと強火でたぎる釜の蓋からあぶくが上がる。


「確か米を炊くコツは……赤子泣いても蓋を取るな、だ」


 自信満々にお九は頷く。赤子っていつ泣くのだろうかとか、それって結局いつ蓋を取るのだろうと首を傾げながら。



 偽装嫁の最初の仕事。釜を焦がした。




 *********

 



 底が完全に焦げ付いた部分を諦め、ギリギリ食えそうな飯をこそぎ落としたものをスフィが買ってきた茶で解して三人は夕食にした。

 居住用の奥にある部屋にも店に飾れない分の鏡があちこちに飾られていて、部屋を灯す行灯一つで明かりを反射させるのでそれなりに明るかった。

 焼けた銅を口にする閻魔大王のようにしかめっ面で食べている嵩之にお九は無言の威圧感を勝手に感じていた。


「初っ端から失敗してすまなんだのう」

「いや、別に気にしてないから」

「うううう」

「にょっほっほ。すまんのーうちの駄娘はろくすっぽ料理もできんで」

「お主らがあまりさせてくれんのだろう……」


 恨めしげにお九はスフィを見る。毎日しているならまだしも、殆どやってなかったのだからうっかり失敗しても仕方がない。

 お九がこれまでに使ってきた釜も鉄製のものばかりで、銅製は熱伝導率も高いために加減が異なってくるのだ。

 

「と、とりあえず。今日はどうだった? スフィ。異様な気配を感じるとか」

「いやあ、そもそも鏡だらけでなんか気になって当然みたいな環境じゃからのー。また明日になってから考えるのじゃ」

「明日……しまった。いきなり来ることになったもので、布団とか用意していない」

「え」

「十年押し入れに仕舞いっぱなしだった布団ならあるけど……」

「仕方ない。クー子。それを乾かせばなんとかなるじゃろ」

「そうだのう。幽霊探しに来たのに夜に帰っては何にもならん」


 どうにかこうにか三人は押入れの底に潰れていた布団を取り出すと、お九が炎熱符の熱風モードを使って乾燥させる。これで多少は膨らみ、巣食う虫なども死ぬはずである。

 それから三人は同じ部屋で並んで寝ることにした。

 嵩之は相変わらず気難しそうな顔をして他の部屋を進めたのだが、


「もし幽霊が出て来るのならば、己れかお主のどちらかの前だろう。ならば同じ部屋なら出現率二倍ではないか」

「怪しい物音がしたら私が聞き逃さんのじゃよー」

「わかったよ。解決を頼んだのはこっちだ。任せることにする」


 そう彼は言って、部屋に布団を二つ並べ──スフィはお九と同じ布団で十分だった──灯りを消して眠るのであった。

 もし共に寝るのが独身忍者共ならば興奮のあまり悶々とした夜を過ごすか、或いは他の忍びに連れて行かれるかするのだったが、さすが鬼瓦がくたびれたような仏頂面をしている嵩之は寝返りひとつせずに静かに眠るのであった。





 *******





 翌日の朝。お九が妙な圧迫感から一番に目覚めて布団から上体を起こした。

 寝ぼけ眼で僅かに明るくなった障子を光源に周囲を見回すと、スフィは自分の体に抱きついて寝ているし、嵩之も同じく少し離れた布団で寝ていた。

 

(はて。布団同士そこまで離れておったかのう)


 頭を掻きつつ部屋を見回すと、薄ぼんやりと鏡に自分の姿が映る。

 その姿に違和感を覚えて、首を傾げると。

 首の片側に、赤く手形がついていた。


「──っ!?」


 ぞく、と背筋を震わせて背後を振り向くが、当然そこには何も居ない。

 お九の動きでスフィが転げて目を擦る。


「なんじゃ? 朝かクー子」

「スフィ。この部屋では誰の足音も聞こえなかったか?」

「うみゅ。静かな夜じゃった──ってうわ!? なんじゃクー子! その首は!」

「朝起きたらこうだった……」


 スフィがお九の首を確認すると、左右から手で掴んだような痕が残されている。

 

「誓って云うが、絶対にこの部屋に誰も入ってこなかったのじゃよ。寝ていても気づくわ」

「お主がそういうのならばそうなのだろうが……なんとも不気味な話だ」

「……うん? どうしたんだい」


 それから嵩之が目覚めて、彼にも説明をする。

 そうすると嵩之も渋面を作り、


「実は覚えがある。あの釜は亡妻のお気に入りでね。私も自炊した当初、焦がしたりしたのだけれどその夜は首が苦しく、朝には痣が残っていたことがある」

「というと、妻の亡霊が釜を雑に扱ったので害してきた……ということか?」


 周囲を見回した。相も変わらず鏡が向けられ、この家ではどこに居てもいずれかの鏡に姿が映るようである。

 

「何やらうす気味が悪くなってきたのう……」

「とにかく異常事態じゃな。こんな調子では嫁を見つけても逃げられてしまうのじゃよ」

「そうだのう。よし、ひとまずは腹ごしらえをして……その亡くなった嫁の事を聞かせてくれぬか」


 相変わらず材料は無かったので、今度はスフィ監視の元でお九が焦がさぬよう飯を炊いて、炊き上がったそれとふりかけで朝飯を終えた。

 茶を啜りながら嵩之が話を始める。


「私の妻は鏡職人の娘でね。この店は妻の父親がやっていた店なんだ」

「そうなのか」

「古鏡を購入して綺麗に銅を均し、錫を塗って作っていたそうだ。娘である妻も手伝ってね。私は磨く程度で作るのはあまりやらないのだけれど、大層腕の良い職人だった」


 それから妻の話を聞いたが、無愛想でまだ世間受けもしていない若い絵描きによく尽くしたものだとばかりに、朗らかで不満を口にせず、言葉を交わさずとも理解しあっていた夫婦のようだった。

 

「何か変わったところとか無かったのか?」

「そうだね……確か、婿入りした当初は妻も大して家事の腕は良くなかったが、努力したのかそのうち上達したよ。それと……そう。遺言で、あまり商売で売る場合は仕方がないけれど、あまり住居の方に飾っている鏡を動かすなとか……それ以来、模様替えをしていないな」

「鏡を……?」


 妙な指示を出すものだと、お九が何気なく近くの鏡をじっと見る。やはり室内のも定期的に磨いているだろう綺麗な鏡であった。


「……それはそうと、洗濯でもするか」

「ん?」


 唐突な話題の変化に嵩之が聞き返す。


「洗い物があるなら出しておけ。これでも洗濯は得意なのだぞ」

「おや? クー子、家でも洗濯しておらんじゃろ」

「出先で……ごほんごほん。洗濯ぐらい誰でも出来るわい」


 そうしてお九は嵩之の着物などを纏めてタライで洗い、干して乾燥させるまでした。

 本人が云うだけあってさすがに手際がよく、熱で一気にホカホカになった洗濯物は良い匂いもした。

 それからお九とスフィは建物の中に誰か潜んでいないか調べるべく探して、何も見つからなかったのでお九が提案してひとまず生活に必要な食料などを買い出しに出た。

 戻ってきてから今度はスフィがいっその事と嵩之に許可を得て、幽霊を昇天させる唄を歌ってみた。さすがに首を締める幽霊は危険だと嵩之も納得したのだろう。だが念のためにもう一晩泊まることにした。


「とりあえず、では湯屋にでも行くか嵩之」

「え? クー子、風呂に行くのかえ?」

「おう。スフィもどうだ」

「いやー私は混浴慣れとらんから遠慮しておくが……いいの?」

「何がだ?」


 嵩之は若干揃って行くのに難色を示したが、話を聞くとどうやら亡妻が居た頃には毎日二人で湯屋に出向いていたようであり。

 敢えて亡霊の反応を見るためもあるとお九が主張して二人は近所の湯屋に行くのであった。

 残ったスフィは一人店の中で腕をくんで唸る。


「ふーみゅ……どうも妙じゃ。クローが自然と嫁ムーブをしておる……」


 幾らなんでもあの物臭男が、嫁のフリをして他人の家に調査に入ったからといって積極的に飯炊きや洗濯をしすぎている。

 サポート役とはいったがスフィは家事を丸投げしてくることを予想していた。だが、失敗したり工夫したりしてこなそうとしているではないか。

 花嫁修業というわけでもあるまいし、怪しい。

 徐々に日が傾いてきた午後に一人でスフィは店に並ぶ鏡を見ていた。


「……ん?」


 ふと視界の端に、何かが映った気がする。起ち上がって確認しようとしても見当たらず、座ってさっきの角度から見てももう見えない。

 だが何か、女の姿のような……




 一方で湯屋ではお九の目を引く高身長グラマラス裸体にも嵩之は表情を変えず、お互い義務のように体を洗って風呂に入り、それから出て店に戻った。 自然とそういう行動を取っている自分と嵩之を自覚してお九はまるでやらされているような違和感を再び感じる。

 それから夜になり、お九は一つの提案をした。


「大事なのは追証だと思うのだ」

「追証?」

「同じ条件で同じ事態が起こるのか確かめてみらねばならん。というわけでまたあの釜を焦がしてみる。スフィは悪いが、己れらが寝た後も起きて番をしてみてくれるか?」  

「わかったのじゃよー」


 そうして、再び焦げた飯を我慢して食ってから布団を並べて夜になる。

 スフィは念のために姿を消して部屋の隅に待機している。


(こうしているとクローと再開した頃の夜、どこかに消えぬか見張っていたことを思い出すのー)

 

 女体になっていても九郎は九郎。変わらぬスフィの大事な親友だ。

 それにこうして、九郎が夜の番を任せてくれる女はそうは居ない。頼りにされていると、満足感をほのかに覚える。

 二人が寝入ってから一刻以上は経過しただろう。

 寝息などの変化から、浅い眠りから深い眠りに以降したことがスフィには判別ができた。深い眠りに陥った者は夢を見ず、多少のことでは目覚めない。彼女も深い眠りにある九郎にイケナイ悪戯をしたことが何度もある。


(そ、そう……寝ているクローの耳先を噛んだり……! 首元の匂い嗅いだり……!)


 恋愛クソザコ敗北者のイケナイ悪戯はそのレベルであった。

 そんなことを妄想して待っていると、やがて変化が訪れた。


(……寝相?)


 嵩之が布団の上でもぞもぞと体を動かして、敷布団ごと畳の上をずれるように移動し僅かに離れた。

 それからの今度はお九の変化に、スフィは息を飲む。

 お九は布団の中から自らの手を出すと、仰向けに寝たまま自分の首を締め上げ始めたのだ。

 苦しげに顔が歪むが、深い眠りにある彼女は目覚めようとしない。


「──クロー!!」


 大声を出して強制的に二人を目覚めさせる。跳ね上がるように二人は起きて目をぱちくりとさせた。

 スフィが肩で息をしながらぶるると震えて指をお九に向けた。


「お、お主が自分の手で首を締めておったぞ! なんじゃあれは! 呪いか!?」

「ふむ……なるほどのう」


 だがお九は納得がいったように首を撫でる。


「昨日の段階でスフィが部屋に誰も入ってきていないというので、首を締めたのは自分かスフィか嵩之かの誰かだと思っておったのだ。なるほど、自分か……」

「そ、それよりどういうことじゃ? そんな寝癖無かったじゃろ?」

「うむ。だがな、どうもここに来てから己れの行動に妙な指向性があるように感じた。嵩之の日常にもな」

「私の?」

「そうだ。お主のようなタイプの人種はうちにも居るので知っておるのだが……男やもめに暮らしておるのにやけに規則正しく生活をしておるのが気になっておったのだ」


 お九は部屋の鏡を手にとって、一つずつ床に伏せつつ告げる。


「男二人で暮らしているだけで片付けはせぬし飯は外食で済ます、店に埃は溜まりまくる様になったところを知っておる。だが、ここはお主が一人でしているにも関わらず、多少は埃っぽいが片付いておるし、料理こそせぬが飯はちゃんと炊く。碌に売れなくても鏡はしっかり磨いていると、生活の体裁が整っておる」

「店主として当然じゃないか?」

「それがやる気のある店主ならまだしも、商売をするか読書をするかといった様子でむっつりと接客もせずに番台に座っておるお主には非常に似つかわしくない」

「では……どういうことなんだ?」


 お九は一枚、手触りの違う鏡を手にして嵩之に放り投げた。


「触ってみろ」

「これは……鏡面に微妙な凹凸がある? それもあちこちに……ほんの僅かで、光にはぼやけた程度にしか見えないぐらいに」

「それには恐らく暗示が彫られておるのだ。恐らくは生活に関わることだろう」

「暗示?」

「うむ。湯屋にいけとか、店の鏡は定期的に磨けとか、洗濯は毎朝しろとか……それを意味する文字や図形が光に反射して、目に刷り込まれる。そうすると日々の行動に影響を及ぼしてくる。なにせ、別段奇異な行動を取らせるわけでもないから、本人も無意識的に行動を起こすようになる」

「では、首を締めるのは?」

「恐らくあの釜だな。妙に磨かれておったあそこに暗示が彫り込まれておる。『上手く飯を炊くこと』とか『失敗したら自分に罰を与える』などかもしれんな。当初はお主の嫁も家事が下手だと言っておったろう。自分に言い聞かせるために作ったと考えられんか?」

「……」


 確かに、嵩之の妻は腕の良い鏡職人で魔鏡すらも作れたのである。


「故に、自分が死ぬ間際にも、暗示をそのままにしておけばそこで毎日暮らすお主は暗示に掛かって生活を維持できるだろうと考えてのことだな」


 過程に過程を重ねるようだが、お九も催眠術のような行為は使うために視界から刷り込む暗示の強さはよく知っていた。

 自分に罰を与えるのは強いストレスになるので暗示は上手くいかず、意識が完全に失われる深い睡眠の最中に効果を発揮するために寝ている間に首を締める結果になったのだろう。

 

「じゃがクロ……クー子や。時々幻視する女の姿はなんなのかえ?」

「うむ。それなのだが見つけておいた。店の暗がりに置かれたこの鏡だ」


 お九は一枚の鏡を取り出して灯りを差し出し、角度を調整すると、反射した光に女の姿が浮かんできた。

 ぼんやりとした輪郭だが、確かに女性だとひと目でわかるように作られていてアルカイックスマイルを浮かべているようにも見える。


「これは魔鏡じゃないか。探していたものがなんだってそんなところに」

「しかもこれは一定の角度から光を当てねば像が出てこないように作られておるようだ。店には目立たぬところに飾っておかれて、西日が差す本の僅かな時間に、女の姿がちらりと反射する程度の角度でな」

「──というと、その図を店の鏡が受け取って、いずれかの鏡に女のような姿が映ったように見えたということか」

「うむ。だが恐ろしいのは、お主の前妻の読みだな」


 お九は鏡を見ながら云う。


「恐らくは中々後妻も取らないと見たから生活が出来るように暗示の鏡をあちこちに残してから逝ったのだろう。魔鏡の女は、化けて出るから早く嫁を見つけろということかもな。何せしっかり者の嫁でもできれば模様替えや飾りの変更をして意味をなさなくなるだろうし、或いは半人前の嫁ならば暗示で家事を鍛えられるようになる。どちらにせよ、残ったお主へ向けた想いの念は、確かにあったのだろうよ」

「……そうかい。でも、まあこれからは一人で頑張ることにするよ。いつまでも念を残し続けるのも、無念だろうからね」


 そう言って、パタリと嵩之は魔鏡を床に伏せるのであった。


 一瞬だけ床に、寂しいような満足げなような女の影が鏡からの光に現れた気がしたが、お九は何も言わなかった。





 *******





 それから嵩之は魔鏡を秘密の何処かに売りさばき、店と住居に飾られた鏡も模様替えをした。

 亡妻の心配を振り払い、面倒くさがりながらも一人暮らしでそれなりに規則正しく生活を送っているようだ。 

 そのうちに絵の師匠筋から見合い話が来て、トントン拍子で再婚したと聞いて九郎も安堵した。


「でもよ、旦那様。むかーしに見たよな。あたしと二人で、あの鏡屋の奥さん」


 お八との思い出に九郎は頷いて返す。 


「そうだのう。だから実は、暗示などなく、或いはそれはそれとして別に本物の幽霊が来ていたのかもしれん。そういう不思議なこともあるだろうよ」

「ふーん。じゃあ、あたしも死んだ後で、旦那様がくよくよしてたら一回ぐらい説教に来てやろうか」

「……」

「……そんな寂しそうな顔するなよ。大丈夫」


 九郎は、ため息をついてお八に肩を寄せた。

 嵩之の店で買ってきた鏡台の鏡が、そんな二人の姿を切り取ったかのように映していた……

 






あけましておめでとうございます

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