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2話『火付盗賊改方失態帳/女遊びは適切に』




 九郎も靂も、朝飯を自宅で食べた後に如何にも出勤といった様子を家族に見せて、船月堂探偵事務所へ向かう。

 ちなみに屋号の[船月堂]は鳥山石燕の俳号でもあるのだが、なぜそれを店に掲げているかと云うと、


「放っておくと流される船みたいにどっかに行っちゃいそうだもの。船着き(・・・)場に繋ぎ止めておかないといけないという意味なの」

「そう細長くて縛るアレでね……!」


 船を繋ぐのは細長くて縛るアレではなくてつなだろうと思わなくも無かったが、ともあれそういう理由で名付けられた店だった。

 さり気なく豊房と石燕の二人が自分の名前で繋ぎ止めているというアピールとまじないだと将翁は気づいたが。


 家を出て店についた二人は朝礼から初めて店の清掃、商品のチェック、今日の貸本回収予定の確認などを──

 特に、しない。

 二人は軽く会釈を交わして、靂は番台に座って売り物の本を読むか自分の作品を書く。九郎は奥で朝寝を始める。子供が多いので案外に家では気づかれして寝足りないようだ。

 商品の納入も、靂が本屋に行って自分の好みの本を購入して読み終えた後で店に並べるという雑な経営である。

 時々、九郎の嫁が子供を連れて様子を見に来たときなどは、九郎も特に意味もなく帳簿を睨んでソロバンを弾いたりして仕事している様子を見せる。嫁には完全にバレているが、大事なのは子供の印象である。

 

「いやあ、午前中に仕事を一切しないで食う嫁の作った弁当は罪悪感の味がするな」

「僕は一応少しはしましたし……返還本を並べたり」


 昼時になって二人は弁当を広げて、茶とそれを食い始める。

 九郎は重箱に握り飯と煮しめ、ゆで卵が詰まったものだ。上に山椒の粉をふりかけていて、冷めていても良い匂いがする。 

 九郎一人には多めの量だが、靂にも食わせる分が入れられていた。特に姉弟子であるお八は靂の貧弱さをやたら気にかけている。年頃も二十を越えて、靂は背も伸びて体格も悪くはないのだがどうも細面の役者顔で、何年も厳しい武芸の稽古を受けた風には見えない。

 

「おっ、今日は茨が弁当を作ったのか。相変わらず丸いな」

「ええ、丸いです……」


 靂の弁当も三人娘の誰かが作るのだが、小唄はバランス良く野菜などの煮しめを盛り付け、お遊は塩辛い梅干しが三つも入ったソルティ系弁当で、茨のは丸いおにぎりが一つである。

 大人の男が手で握り込めば隠せるぐらいに小さいおにぎりなのだが、どういうわけかそれだけのサイズに米二合ほども圧縮されてできている。茨の握力によって。小さいからと一口で口に放り込むと、ほぐれた際に大量に膨らんで口を埋め尽くすだろう。

 

「時々茨から圧力を感じるというか……いやこのおにぎりに掛かるやつじゃなくて」

「お主がお遊と小唄の間でフラフラしていて、それに付き合わされておるからだろう妹として。一時期は茨を取った方が有利とばかりに争奪戦になっておったし」

「フラフラしてるわけじゃないですよ。闇払いです。皆の命を守るために必要なんです」

「まあ……己れもあまり関わりたくないが」


 九郎もこの数年間、お九に化けたりして暴走を止めたりしてみたが徐々に立場が姑みたいになってきたのでここのところは控えている。

 なお二次被害としてお九にたぶらかされた独身忍者でこじらせた者も何人か出たりもした。


「しかし、お客さん来ないですかね。報告書にも書く内容が無いと」


 九郎がこの店での活動を嫁や子供に聞かせるように、靂も三人娘──というか主に小唄に報告をしているので何かしら仕事にも動きが欲しかった。

 何もない時は店の経営を捏造して伝えているのだが、それを何度も行うにしても無理が出て来る。

 依頼がくれば立ちどころに忙しくなるのだが、そうでない時はひたすら暇な貸本屋であった。適当に作って宣伝もしていないだけあって、近所の人間もあまり貸本屋と知らないぐらいだ。


「なあに、そんなことを言っておったらすぐに客が来るものだ」

「おーっす九郎ー! 悪党殺そうぜー!」

「……ほら」


 玄関から響いてきた胴間声に、靂は残った握り飯の塊を飲み込んで胸を叩きながら茶で胃袋に押しながした。




 *******





 店にやってきた切り裂き同心・中山影兵衛は昼間から酒気を帯びたような赤い髭面で、貸本屋の座敷に腰掛けて九郎らと応対した。

 本来ならば侍というのは髭を剃ることが礼儀であるのだが、御目見得もできない下級武士であり「お役目のため変装する必要がある」と届け出ている影兵衛は立派な髭を、剃ったり生やしたりしている。どちらにせよ悪党面ではある。

 靂が茶を出してやると酒を飲むように呷って、オヤジ臭い吐息を出す。その呼気にも酒の臭いが濃く漂っていた。

 

「お主、お役目は? 昼間っから酒か」

「いやいや、ちょいと面白えことがあってな。ま、お前に頼む仕事にも関係してるんだけどよ」

「なんだ。また正体不明の殺人鬼でも出たのか? どうなっておるのだ江戸の治安は」

「今回はそんな物騒なこったねえよ。物盗りを探せ……ってなまさに盗賊改の役目だな」

「物盗り……?」

「そうよ」


 影兵衛は嘲るような笑みを浮かべて説明をし始めた。


「火付盗賊改方の長官ってのは度々入れ替わるわけだ。下手すりゃ一年以内に交代することもある。ま、1000石ぐらいの旗本がどんどん受け継いでいく」

「どうしてですか?」

「カネがねえからよ。予算は町奉行所に比べりゃ雀の涙。するってえと、長官の私財を削って赤字運営しないといけねえんで音を上げる。これでも吉宗公になってから増額されたんだがな」


 靂の疑問に応える。同心与力らの給料こそは幕府から出るのだが、備品代などでかなり掛かるし捜査するにも諸経費が掛かる。それをまさか同心らの薄給から出せとは言えないので、長官負担になってくるのである。

 1000石ぐらいの旗本となれば屋敷は広く使用人は数多く雇い、祭礼や典儀に費やさざるを得ない費用も馬鹿にならずに台所は苦しかった者が多い。それを、殆ど幕府からの予算が少なく旨味が無い役目に付けば早々と交代を願うのも当たり前だろう。


「で、今の長官をやってる浅岡って御人が居るわけだが、拙者の親戚でな」

「ほう」

「と言っても拙者っつーか、拙者の実家である中山家と付き合いがあるだけなんだがな。ほら、一応拙者別の家なわけだし」


 影兵衛は初代火付盗賊改長官とも言われる中山直房の孫であり、旗本3000石の中山家三男として生まれたのであるが、部屋住みを嫌った影兵衛が火盗改メの同心という最下級な武士に就職したのである。家柄は相当に落ちたが、自由は手に入れた。


「それで今日だけどよ、拙者が長官に呼び出されて秘密指令を受けてきたわけだ」

「……秘密?」

「まず長官の部屋で人払いをしてな? 周囲を警戒して脂汗を流しながらキョロキョロと見回し始めたわけだ。こりゃなんかあるぞ、と思った拙者は悪戯で、大声を上げて小柄を天井にぶん投げてみたら死ぬほど驚いてメッチャ笑ったわ」

「意味もなく脅かすなよ。というかいきなり奇声を上げて小柄投げ出すやつ居たら薩摩人以外は驚くと思うが……お主も四十を越えてそんな悪戯を」

「いやそれが腰抜かすほどに動揺してんだって。異常だろ。そんで『ネズミが居たみたいです』とか誤魔化して話を聞いてみたんだ。そうすると、自分が拙者の実家と昵懇の仲であるって念を押して、秘密裏に調べて欲しいことがあるって声を潜めて云うわけよ」

「……秘密裏……って凄い喋ってるじゃないですか」


 秘密の割にペラペラと喋っている影兵衛に、靂が疑わしげに云う。


「おうよ。だから酒を飲んで口を滑らせてるってわけ。拙者一人じゃ面倒くせえしどうにもならねえからな。持ちつ持たれつ協力頼むわ」

「仕方ないのう」


 この事務所にしても聞き込みなどの際に火付盗賊改方の御用聞きとして名乗ったりもしているので、影兵衛からの依頼は名前代としても引き受けなければ義理が果たせないので九郎は話を聞くことにした。


 影兵衛が持ちかけられた話は以下の事であった。

 身内の恥なので非常に言いにくく公にできないことなのだがと非常に勿体ぶって言われたが、子息である浅岡何某が物を盗まれたらしい。

 事件は数日前、北高輪町で起こった。品川の北にあるこの街は武家屋敷も多いが、街道沿いであることから遊び場も充実している。

 ここで浅岡何某が客引きに声を掛けられた。阿呆烏と呼ばれる遣り手の仲介屋である。


『うちではそこらの白粉臭い商売女を扱っておりません。暇と体を持て余した武家の奥方や娘さんを、客の方も互いに身分を隠して一時の逢瀬するだけでして。その証拠に代金は部屋代ぐらい。しかも向こうからも折半させて貰っているので、ほんの気持ち程度になっています』


 などと心惹かれる売り文句を並べるので、フラフラとついていったらしい。実際に支払う料金は僅かに一朱(5000円)程度。相手がムラついた武家の女というレアリティも含めればお得だっただろう。

 それで高輪の西側にある三田村近くの、草庵に案内されたという。人気の無い林に囲まれた場所で、庭草も伸びているようなところだった。

 だが庵の中で、ほんの四畳敷の畳みとその上に置かれた布団だけは綺麗なものだったという。

 暫く待つように言われて、出された酒などで口を潤していると──女がやってきた。

 さてはて、現れたのは年増女であったが匂い立つようないい女であり、仕草もそこらの遊女とは一線を画した上品なものだった。それがどこぞの武家の妻で、体を持て余しているのだと思うと余計にそそるものがあった。

 妙にそのあたりを熱っぽく影兵衛は語られたのだが概ね省いて、夢中になりやがて眠りについて気がつけば翌朝だったという。

 女はもう庵に居なかった──そこまでならまだしも。 

 浅岡何某が身につけていた、お家伝来の刀と印籠が消えていたのである。

 盗まれたのだ。

 そこまで来て、ここは決められた遊女部屋ではないし、お互いの秘密を守るというので相手の名前も知らないということに気づいて浅岡は頭を抱えた。

 とりあえず騒動にならぬように慌てて家に戻り、刀は研ぎに出したことにして代わりを身につける。そして改めて草庵に行くと、布団まで撤去されてて余計に手がかりが消えていて思わず膝をついたという。

 探さねばならないのだが一人では限界があるしノウハウも無い。家来を多く使うわけにもいかない。なので、ベテランの同心である影兵衛を頼ったということらしい。

 

 九郎と靂は話を聞きながら二人して微妙そうな顔をしていた。


「その話って……」

「子息じゃなくて長官本人がやらかしたことを、うちの子供の話なんだけど!って言っておらんか」

「そう。それよ。なんか聞いてもねえところをやけに鮮明に語るし、長官の帯びてる刀が普段と違うしで絶対ェそれだろうな」 

「情けないのう……それが江戸の治安を守る侍の長官か」

「あの……」


 靂が控えめに手を上げる。


「偉い武士って普通出歩くとき、お供の人とか付くんじゃないんですか?」

「ところがギッチョン。火盗改メの長官だけは例外なんだな。そもそも火盗改メじゃ捜査するのにぞろぞろ引き連れてちゃ警戒させるってんで、同心与力でも伴は連れねえもんなんだが、実は長官も同じだ。長官自ら出歩いて事件の捜査をしてもいいんだからな」

「へー」


 『鬼平犯科帳』で長谷川平蔵がよくよく一人で町を散策している描写もあるが、実際に長官は──やるかやらないかは人によって違うが──そのような伴を連れない街歩きが許されていたという。中には長官自らが盗人を捕まえた事例も存在している。

 ただしそれが必ずしも好意的に周囲に捉えられていたかは疑問であり、町人の間では「騎馬の町方、徒士(かち)の火盗」と噂し、高禄旗本なのに歩きまわっている長官を揶揄したりしていた。

 

「それで何か用事があって高輪あたりに出向いてたところをカモにされちまったわけだな」

「まあ……男は幾つになっても助平というからな。仕方がないか」

「九郎も引っかかるんじゃねえぞ」

「相手がうちの嫁並に美人でなければ引っかからんわ」

「惚気なのか、暗に美人相手には引っかかると言ってるのか……」

「冗談だ」


 真顔で九郎が云う。嫁妾だけで6人も居るというのにこれ以上女に手を出す余地が彼にあるだろうか。いや、無い。


「しかし印籠も盗まれたのか。中には印も入っておったのだろうな」

「おうよ。うちの長官の場合、伴が居ないわけだからいざという時に身分を証明できるものを幾つか持ってたわけだな」

「印が悪党の手に渡ったとすると悪事に使われかねんな……己れだったら偽造文書などで強請りとかするぞ。

 例えばその浅岡何某の名前で100両ほど借りた証書を作り、印を押して訴訟されたくなければ払うように通達するとかな。

 そんな文書を奉行所に回されたらいい恥晒しだし、火盗改メ長官ともあろう者が女に騙されて抱いて盗まれたとなればそれも恥になるように言い聞かせてな。侍というのはそういったものを公にされると致命的だろう。

 念のためにその場でとっ捕まって拷問とか掛けられぬように第三者も噛ませるのがいいかもしれん」

「強請り方に堂が入っている……」


 呆れたように靂が呟いた。時折九郎の行動がヤクザに思える。

 影兵衛がビシリと指を向けて二人に告げる。


「つーわけでお前らは、その美人局だか盗人だかを探してきてくれ。拙者は九郎が云うような強請り野郎が長官の近くに現れないか気を付けてみるわ」

「うむ。お互いに手がかりがあったら連絡をし合おう。この店に居なかったら自宅にでも伝えてくれ」

「おうよ。まー直接的に強請りが来たら片っ端から捕まえて拷問かまして関係者引きずり出していけばいいんだろうがな」

「火盗改メ物騒過ぎる……なんというかもっと簡単な相手を強請るよなあ僕なら」


 町奉行所などは拷問をすることは老中の許可が必要なのだが、火付盗賊改方はその場の判断で斬り殺してもいいし、拷問も独自にやって構わなかったりしたのだ。特高警察を脅迫するようなものである。


「じゃあ捜査開始だ。とりあえず己れは現場の草庵を確認してきてみる。靂は……こういう女絡みは歌麿が詳しいことがあるからな。あやつの職場がある吉原に行って、絵の仕事で忙しくなければ手伝いを頼んでこい」


 こうした美人局は見た目と男を誘う技能に自信のある遊女崩れが、ヤクザの情婦になって行うことが多い。

 歌麿は絵師という身分上、あちこちの遊女部屋に入っては美人画を描いている。現代からすると風俗店にカメラマンが出入りするようなものだが、春画絵師は結構な割合で遊女らからは受け入れられ、綺麗に描くようにと指示されもした。

 そうして描かれた美人画を見初めて身請けの金持ち客が訪れる……というのも実のところ結構あったのである。遊女屋の宣伝にもなるので楼主からしてもありがたく、歌麿はあちこちにフリーで出入りし放題であった。

 同時に、九郎の勧めている遊女が借金を返し終えて年季上がりに行くところが無い場合に見合いをさせる事業への宣伝も兼ねている。


「いいですけど……また手伝ったんだからお九さんに合わせろと言ってきますよ」

「成果が上がったらお九の作った握り飯でも食わせてやると言っておけ」

「……本当は?」

「最近深川に大量の握り飯を出す店ができて繁盛していてな。販売は娘がしていて華やかなのだが……見えない位置にある厨房からオッサンの威勢のよい掛け声と、よくよく観察するとオッサンに多い感じの菌が握り飯本体に付着しているのはどういうことだろうな」

「よくわからないですけど凄く嫌な感じがしますが、なぜ今その話を!?」


 何となく歌麿に手伝いを頼むのが申し訳ないような気になりながら、靂は顔を曇らせて吉原へと向かっていった。





 *******





 九郎は姿を消して高輪近辺を空から探してみる。海沿いの街道周りは店が並び、それより内陸側には武家屋敷が連なっている。 

 また寺なども多いが、北西部は笹などの低木樹が生い茂っていた。道沿いには幾らか小さな社などが見当たり、九郎は降りて事件のあった草庵を探してみる。

 

「うーむ。己れに声を掛けてくれれば話は早いのだが」


 一応今は見栄えとして慶喜屋の羽織を身に着けているが、腰に太刀を帯びているので商人か武士かさっぱりわからない身元不明の格好になっている。

 影兵衛は過激なことを云ったが、確かに江戸での捜査では怪しいやつを捕まえて自白をさせるのが一番なのである。状況証拠や物的証拠よりも自白が一番の証拠となる社会であった。

 

「草ぼうぼうで碌に手入れをしていなそうな草庵……ここか?」

 

 九郎が条件に合いそうな廃屋の敷地に踏み入って、そっと襖を開けてみる。

 荒れ果てた室内には半ば腐ったようになっている布団。ぼろぼろになったむしろ。雨漏りから木がぐずぐずになった箇所があり、欠けた茶碗などが散らばり、誰かが家探(やさが)ししたのか泥があちこちに付いている。

 独身男性の部屋をそのまま数年も放置したような有様だった。あまりにも薄汚く、新たな住み手も現れていないのだろう。誰の許可を得て住む場所なのかもさっぱりわからぬ、郊外の廃屋だ。


「ここじゃあ無さそうだのう……さすがにこんな部屋では盛り上がらん」


 腐ちかけた部屋で僅かに色を持つのは、くすんだ橙色の三角布とこぼれた紅殻(べんがら)の顔料ぐらいだった。

 ふと九郎は、この近くに芝の魚市があることが連想され、連鎖的に芝に出現した恐るべき化け猫が思い浮かび──


「……呪われておらぬだろうな……」


 そう呟いてさっさと廃屋を後にした。

 どうも碌な者が住む界隈ではないのじゃなかろうかと、九郎はそれぞれが藪によって視界など断絶されている小さな社や廃寺などをめぐり思う。

 そうしてやがて人気の無い庵にたどり着いた。

 ここがその現場かはわからないが、一つだけ影兵衛の話から他の庵とは違う特徴を覚えていた。

 中を覗いてみると、敷かれた四畳の畳だけは綺麗な状態なのである。

 他の廃屋めいた建物では、中の畳は相当に痛むか草臥れているが、ここの畳だけは寝ても問題がないぐらいだった。

 敷かれていた布団こそ持ち去られたというが、さすがに畳までは持っていけない。

 

「ふむ……見た目こそ廃屋だが作りはしっかりとしておる」


 畳が腐っていないということは雨漏りもしていないのだろう。建物というのは人が住んで手入れをしなければすぐに傷み、住めなくなる。だがここは誰かが使っている痕跡がある。


「とりあえず怪しいやつからとっ捕まえて話を聞くしか無いしのう。ここを見張らせるか」


 自分が姿を消して待機していてもいいのだが、次にいつ来るかわからない忍耐の居る仕事になる。

 何もかも自分がする必要はない。九郎は場所を記憶して、暇な忍者を日雇いするために一旦千駄ヶ谷へと向かった。




 ******





 暇な忍びの男に草庵を見張らせて、客引きや女らしき人物が現れたら報告にこさせることにした。

 仕事とあれば普段は相当にうだつが上がらず、アリの巣とか眺めて一日過ごしている忍びだったが気配を消して竹やぶからじっと草庵を一日中見張る仕事ぶりを見せる。

 なお報酬として日当と、お九が差し入れの握り飯と水を持ってくるという条件で募集したら忍びが殺到したという。

 現れて数年経っても、背が高くてガードが甘く巨乳で美人のお姉さんは憧れであるようだ。多くの者がワンチャンスで付き合うのを狙っているが、殺意を交えた相互監視で行動には至れていない。

 監視の忍び、助蔵はお九の手を覆面の奥から目を光らせて凝視しながら、やたら種類の多い菌のついた握り飯を満喫して食べていた。


 その間に九郎は浅右衛門に声を掛けて、江戸の刀を売り買いできる店を回ってみた。案外に江戸では、貧した武士が顔素性を隠して家宝の刀を売りに来ることも少なくないので、盗人が持ち込むことも考えられる。

 刀の品級を決めて、試し切りの達人で大名からも引く手あまたな山田浅右衛門の名を出せば下手(したて)に出ない刀商人はおらず、怪しげな刀が持ち込まれれば相手を探るように頼んでおいた。


 靂と歌麿は品川から芝界隈の遊女屋を探った。靂はあまり遊女屋に上がり込むと匂いが移って同居人が病むので、外で違法のポン引きについて聞き込みを行うことにした。

 歌麿は遊女が客からの情報を言葉巧みに聞き出すことを得意とする。もともと彼のほうがホスト側で客をもてなしていたので、どうすれば相手を自分に引き込ませるかはお手の物であった。現代でホステスがホストに貢ぎまくるのはそのあたりの事情もある。

 紅顔の美少年から、すっかり男前になっているが二枚目であり愛想もよく、仕事は遊女とシナジーがある絵師となれば遊女屋でモテないはずもないのだ。


 一方で影兵衛は長官である浅岡の様子を伺いつつ、時々捜査情報などを伝えて逆に浅岡から詳しい話を聞き出そうとしていた。

 それにしても、九郎が云う通りにこの長官は事が公になるのを相当に怯えていることが影兵衛にもよくわかり、更に彼は同心を長年やっている嗅覚で、


(どうもこのオッサンは何か重大なことを隠してやがるな)


 と、感じ取るのであった。



 数日の調査を終えて、調査を行っていた皆は九郎の貸本屋に集まり影兵衛に報告を行った。

 九郎の刀下取り調査は成果が出ず、忍びの草庵見張りは歌麿の情報後に阿呆烏を捕まえることに成功していた。

 大体の事情を調べることができたのは歌麿の班で、彼が咳払いをして語りだす。 


「どうやら浅岡さんという人は、私娼──夜鷹を買っては踏み倒す常習犯だったみたいマロ」

「私娼を?」


 私娼というのは広義的には幕府の公娼ではない、つまり吉原以外で働く遊女を表すのだが、狭義的には更に岡場所にある普通の遊女屋や宿場の飯盛女などを除いた、江戸市中で個々に売春していた者を指す。

 影兵衛が顔を顰める。


「なんでまた夜鷹なんぞを買うんだあのオッサン。カネぐれえあるだろうに」


 当時は遊女屋に売られると大金が入ってくるので、家族が生活苦でだとか借金の型にだとかそういった理由で大概は遊女になるので普通は店に居る。

 では店に居ないで外で売春をしている女というのはどういうものかというと、店ではとても扱えないような醜女。追い出された病気持ち。或いは老女などが夜鷹には多かった。

 おまけに夜鷹の相場は24文(480円)から100文(2000円)程度の安売り。これを好んで買うのは、相当に金がなくて飢えているような男だろう。好き好んで、2000石の旗本が買うものではない。

 靂の母親などは割りと美人なのに夜鷹をしていたが完全に例外である。性格がまともなら旦那ぐらいすぐに見つけられる容姿だった。

  

「どうやら遊女屋に行って身元がバレるのも嫌だし、かといって最下級の私娼にお金を払うのも煩わしいみたいなワガママだったみたいマロ。それに夜鷹は社会的に弱いし江戸では認められていない仕事マロ。手荒く扱って放り出しても訴えられないから踏み倒した感じ」

「このあたりは町奉行所の範囲内でもねえからなあ。私娼が訴えに出してもまず取り扱われねえ。つーかせこいな! あのオッサン!」


 ブスの安い違法風俗で我慢をしつつ代金は踏み倒す。

 それをここ一年ほど、どうやら延々と繰り返していたらしい。

 

「火付盗賊改方の長官になって鬱憤でも溜まっていたのかのう」

「何の得もねえからな、長官になっても。拙者からすりゃ悪党をぶちのめせて気持ちいいんだが、夜鷹も確かに違法の存在だけどいじめようなんて思いもしねえぞ」

「……それで、被害に沢山合った夜鷹たちが泣いているのをたまたま見かけた人が居たマロ」


 歌麿は続けて述べる。


「その人は目黒村に住んでいる農家のお嫁さんで、立場の弱い夜鷹にこんな酷いことをするなんてけしらかぬ侍だ、懲らしめてやろうと立ち上がったマロ」

「するってえとそいつが犯人か。切っていい? 切っていいのか?」

「駄目マロ! それでお姉さんは、知り合いの客引きに声を掛けて、化粧も久しぶりにバッチリめかし込んで、それでホイホイ誘われてきた浅岡さんを高等な技術で搾り取って気絶させてから、侍の証である刀と印籠を拝借して逃げていったマロ。売ったり強請ったりする目的じゃなくて、これぐらい痛い目に合えば二度と夜鷹を買おうなんて思わないだろうと判断したマロね」

「じゃあまだその刀と印籠はあるわけか……」

「保管してるマロ。正直、扱いに困って兄さんでも呼んで処分を頼もうかと思っていたらしいマロ」


 影兵衛は難しそうに腕を組んだ。

 ひとまず上司が依頼してきた品は無事だと確認できたが、色々と問題も判明した。

 上司が間抜けにも女に引っかかって盗まれた、ならば馬鹿だなあと思いつつも取り返すことに依存は無かったのだが。

 上司が無体を働いていた復讐として騙されて盗まれたとなれば、そもそもそんなことをしていた浅岡が悪い。

 とはいえ江戸の法に照らせば窃盗は罪であり、少なくとも十両以上はする刀ならば重窃盗になり首を刎ねられる。 

 だが同じく武士の法度からすれば浅岡も処分は免れない。 

 

「面倒くせえなあ。切って捨てればいい問題ならまだしも……」


 かといってこのまま何事も無く、刀と印籠が落ちてたなり質流れしてたなり、騙した犯人のことを有耶無耶にして渡しても浅岡は何も罰せられていない。

 それで安心させてやっていいのだろうか。


「悩んでいる時点で、一泡吹かせたいと思っておるのだろう?」


 九郎の言葉で、影兵衛は小さく鼻を鳴らして笑った。確かに、このままじゃ人としての道理が通らない。


「それじゃあ九郎大先生よ。何か効果的な解決法をご教示してくれよ」

「ふぅむ……だが、まあ無くもない。浅岡に手頃な恥を掻かせて後悔させつつ、刀を返してやる方法だな」

「さすが悪辣な九郎大先生!」

「誰が悪辣だ。しかし、お主も手伝ってもらうが構わんな?」

「おうよ!」


 そうして九郎の考えた、単純にして明快な嫌がらせに影兵衛は膝を叩いて笑うのであった。




 *********




 翌日の夜。

 火付盗賊改方の役宅は、多くの同心与力が集まる職場であると同時に、長官の家族が住み込んでいる屋敷でもある。

 行灯も点けられて外は大分薄暗くなってきた夕刻のこと。

 同心らも仕事終わりで自宅へ戻っていった頃合いである。

 浅岡の一家も屋敷の方で、夕食の膳をそれぞれが食べていた。

 妻のお(きん)。二十歳の長男。十八歳の次男。十歳の長女が浅岡と同じ部屋で箸を進めている。

 静かな食事であった。特に浅岡は刀と印籠を盗まれてから特に家族とも目を合わせないようにしている。

 そのことが特に妻に知られるわけにはいかなかった。高禄旗本である浅岡家の血筋はお芹の方であり、彼は婿養子として家を継いだのである。だというのに浅岡家に伝わっている刀などを失くしたと知られれば……

 固くなった白飯を冷えた味噌汁で飲み干して、浅岡は額に浮かんだ汗を拭った。早く、早く見つけて欲しい。

 影兵衛に頼んだのは親戚であったことと、同心の中でも影兵衛は手下が多く情報収集能力に長けていると聞いたこと。それに、今は愛妻家らしいが昔は女遊びも派手だったらしいので、こちらの気持ちも考慮してくれると思っているのだ。

 そうして静かに一家揃った食事を過ごしていると──


 慌てたような足音が響いてきた。

 襖がガラリと開けられると、笑み満面の影兵衛が現れた。


「ここに居やしたか、長官! おおこれは坊っちゃん方も! 丁度いい!」

「な、中山?」


 問いかけるが影兵衛はお芹が眉をひそめるような声量で、周囲を見回してから声を張り上げて云う。


「いえね! 身内以外には秘密って言ってた例のアレ! おや!? 身内しかいねえからいいのか! そう! 長官のところの坊っちゃんが客引きで他所様の人妻と不義密通をしたら先祖伝来の刀と印籠を盗まれて紛失したって事件のことですよ!! 拙者に調査を任せてた!!」

「なんですってえええええ!?」


 影兵衛の言葉の意味を理解した瞬間にお芹が立ち上がった。彼女の前に置いていた膳が床に溢れる。

 同時に、息子二人がぎょっとして顔を見合わせる。それから指を向け合い、お互いに首を振るジェスチャーをしてから父親へ向き直った。

 浅岡は顔色が真っ青である。


「あの事件どうにか解決しやしたぜ! ことの起こりはどうやら長官が夜鷹などを買っては代金を踏み倒して無体にしていたんで! 夜鷹の大将みてえな姉さんが長官をだまくらかしてまぐわった後で刀とかを盗んで懲らしめようと──あれえ!? いつの間にか長官の話になってるな! 調査したら自然と!」

「あんたあああああああ!?」

「ひえっ、こ、これは何かの間違いで……!」


 目を怒らせて怒鳴り声をあげる妻に、腰を抜かしたように後ずさる浅岡。

 まさか夫が先祖伝来の刀を女遊びで盗まれた挙句にそれを息子になすりつけようとして、更には夜鷹に無体まで働いていたという。


「ちなみに長官から被害にあった夜鷹の一人からの情報提供でして! なあ夜鷹ちゃん!」

「シャッチョサンお金払ってヨー。東京湾にチンするヨー」

「……ちなみにお金払ったら拙者でも買える?」

「ヨメに云うヨー?」

「ごめんね!」


 謎の口調で被害者Aとして登場しているのは女体化した九郎だ。顔やら手には包帯をぐるぐると巻いているので容姿はわからないようにしている。

 あんな包帯まみれまで抱いた挙句に金を踏み倒したのか。

 そう思うと妻の怒りは頂点に達した。


「腹を切るか刺されるか選べええええ!!」

「ご、ごめんなさい許して!!」

「父上最悪です……」


 影兵衛が返した先祖伝来の刀をお芹が抜き放って浅岡を追いかけ回し、長男次男は泣きそうになりながらそれをどうにか止めようとする酷い家庭崩壊が展開された。

 少なくともこれで二度と浅岡は夜鷹を買ったりすることはできなくなるだろうし、一生妻に頭は上がらないだろう。

 九郎が取った方法は、周囲にバラしたら切腹モノなので少しは容赦して家族全員にバラしてやろうということだった。こうなれば夫の威厳も父の尊敬もあったものではない。


「しかしのう。うちの方針的に家庭を壊さんような依頼を──って九郎が言ってたのだが」

「大丈夫だって安心しな。武士の家庭ってのは庶民よりよっぽど強いんだ。離婚なんて余程じゃねえとできはしねえからな。これぐらいいい薬だろ」

「それなら良いが」

「だけどうちのむっちゃん未だにあんたの乳を拙者が揉みまくったことを恨んでるんだよなあ……ううう」

「大丈夫? おっぱい揉むか?」

「くそ……! あのヤクザ野郎の姉だから、性格悪いぜ」


 からかうようにお九は笑って、二人は騒動になった役宅から逃げ出すのであった。




 それから。

 どうにか問題は浅岡の家庭内で解決したようで、彼は社会的制裁こそ免れたものの家庭内ヒエラルキーが極度に低下し、かなり意気消沈してしまった。少なくとも、多少の罰は与えられただろう。

 影兵衛に何かしら恨み言を云う元気すらないようで、何事も無かったかのように影兵衛は火盗改メで働いている。

 ただし今度は影兵衛の行動にやや怯えるようになり、どうも仕事がやりやすくなったと彼は笑った。

 

 夜鷹の復讐を買って出た目黒の農民、美人妻の紫には万事上手く行ったことを報告して一件落着である。

 もう30はとうに越えていても美しさに磨きが掛かっているが、農家の素朴さも同時に併せ持つ彼女に歌麿が凄まじく悩ましげだった。浅岡とかいう行きずりの侍を相手にしてもいいなら自分を相手にしてくれてもいいのではないか。そう思ったが口には出せなかった。

 紫に歌麿は、好きな女の人ができて頑張って好かれようとしていると報告して応援されるのであった。


 悲しい知らせがもたらされた。

 あまりに九郎の行動が慚愧に堪えないと思っていた靂が、美味しそうに握り飯を食っている歌麿と助蔵に、それはお九が握ったものではないこと。

 深川にある握り飯屋から九郎が購入してきたものだが、靂が術符を借りて姿を消し潜入確認したところ中年のおっさんが座ったまま器用に足を使って握っていたことを明かしたのである。

 びっくりして思わず姿を現し、なんで足を?と聞いてしまったぐらいだ。


「悪気があってこうしているわけじゃないんだ。単にその方がこっちが興奮するから」


 とオッサンは答えた。明瞭な答えだった。靂はこいつ狂ってると素直に思った。

 それを靂から聞いた瞬間に歌麿と助蔵の口からゲロの虹が出来た。

 胃袋がひっくり返るぐらいに二人は嘔吐した。

 それからマジギレした。

 

「兄ぃぃぃぃさぁぁぁぁぁぁんを殺してボクも死ぬうううううマロオオオオオ」

「あんまりだ……! 絶望がオレを強くする……! うおおおお!!」

「お、落ち着け。血涙流しながら刃物を突きつけたり、体から変な湯気を吹き出して変身するでない」


 どうにか説得して、目の前でお九が握った握り飯を、彼女が二人の口元に運んで食べさせるというリクエストに答えることになった。

 やむを得ずお九は多少歪な握り飯を作っては鳥の雛に餌をやるように食べさせた。

 二人の頬についた米粒を取ってやることもした。

 その勢いで求婚して振られる二人であった。



「しかし、今回の依頼はまったく儲けなかったですね。影兵衛さんが打ち上げと称してお酒持ってきて飲み会になったぐらいで」

「なあに、火付盗賊改方の依頼を受けておくことで、こっちも向こうの名前を出して他の用事の際に使えるのだ。損して得取れ。情けは人のためならずだ」

「そういうもんですか──ところで千駄ヶ谷の男衆皆さんからおにぎりが欲しいと連絡が」

「深川から買って届けとけ」

 

 ──その後、千駄ヶ谷で悲鳴が響いたとかなんとか。




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