三部1話『九郎と靂の探偵所~韋駄天と飛脚の話~』
──江戸、根津に一軒家がある。
看板には『船月堂』と書かれていて何をしている店なのかは外からは伺えない。
中に入ると、ムッとした埃の匂いと僅かにカビ臭さがあるが、本好きな者ならば落ち着く空気かもしれない。
乱雑とは言わないが特に分類される事無く積み上げられた本。傍から見たら紙片の束が重なっているのみで、一体どんな題名の、いかなる本がそこに紛れ込んでいるのかまるでわからぬ。
控えめに、『題目一覧』と書かれた冊子が何枚か入ってすぐの場所に置かれていた。更には返却本入れも適当に置かれていて、まだ数冊の返本がもとの場所に戻されないままで放置されている。
ここは貸本屋なのだ。
そして店主は、番台で難しそうな顔をしながら筆を取っている青年であった。
「靂」
と、声を掛けてきたのは、店の奥から出てきた羽織の男──九郎だった。
背丈が六尺あまりもある長身の男で、頭をざんばらに伸ばしている。どうも周りに進められても、月代を剃って髷を結う習慣には馴染めそうもない。靂の方も髷を結わずに儒者風にして纏めているが、これは本人が散髪を面倒がるためもあった。
「何を一生懸命書いておるのだ? 新作の話か」
靂はここで、寂れた貸本屋の番頭──というか、店員役が靂と九郎しか居ないので繁盛させるつもりもない仮の店舗である──をやりながら、九郎の手伝いもしている。
幾ら作家とはいえ田舎で日がな一日、女に世話をされて暮らしていては周囲の目線がヤバくなったので、こうして細長く物を縛る道具のように暮らす男同士で職を持っているのだ。
靂は眼鏡を正しながら苦笑いを浮かべて応える。
「いえ……ほら、かなり前に書いた吉良上野介と赤穂浪士の話があったじゃないですか」
「ああ、地味に売れたようなやつ。確か貸本の山にも突っ込んであったろう」
「赤穂浪士物だから売れて当然なので、あんまり僕の実力ってわけでもない気がしますけど……」
とにかく、江戸時代で売れるのは仇討ち系の作品である。曽我兄弟の仇討ちや荒木又右衛門の話などが有名であるが中でも赤穂浪士はどの庶民からの認知度も高く、出せば必ず売れるとまで言われた題材であった。
靂の書いたものは吉良側が主役という多少変則的なものであったが、判官びいきの判官びいきというように少々変わった趣味の一部から人気を得たのである。
しかしながら時はまだ、有名な忠臣蔵物の代表作『仮名手本忠臣蔵』が上演されるよりも前なので、靂の書いた作品は大流行とまではいかなかったようだ。ただ享保17年に『忠臣金短冊』という人形浄瑠璃が上演されているため、靂の作品も再び上演ということになったのだろう。
ふと靂は、目の前に居る九郎も[鳥取藩相原兄弟の仇討ち]に立ち会い、[萩藩杉姉弟の仇討ち]で加勢をして相手の助っ人複数名を素手で叩きのめす活躍をしたことを思い出した。
仇討ちというのは成功率が非常に低く、それだけ成功した場合に快挙として話が広がるので、その二つの話もしっかり物語や芝居になっていたりする。
「ともかく、それがまた再度歌舞伎にするって話を持ちかけられまして」
「良かったではないか」
「ところがですよ? 何年も前に書いた作品を見直すと……その時は太鼓判を押して送り出すぐらいに確認していたのに……誤字やら脱字やら、表現を省いた箇所やら、目を覆いたくなる文法の使い方などが見つかりだして……修正しているところです」
「別に構わんと思うがのう」
出版された本には弟分の歌麿も絵を挿れていたこともあり、九郎も何冊か購入していたのだが、読んでいてそこまでおかしなところは無かったように思えた。
確かに、まだ書いたのが少年の頃なので表現などが拙いところはあったが。
「気になるんですよ! 大体赤穂浪士の名前で間違ってる箇所とかありますし! [潮田又ノ丞]を[瀬田又ノ丞]とか書いてたり!」
「ああ……お主、芝居とか見に行かんで本ばっかり読んで書くからのう。音で聞いてないから地味な間違いが……そうだ。読み合わせでもしておくか」
「……そうですね。なんというか、お遊らに読まれると恥ずかしい気分で、あんまり家の中だと話題に出さないように頼んでいたもので」
九郎と靂は誰も居ない店内で向かい合ってお互いに靂の書いた赤穂事件を元にした本、『翁流新問図吉良』を手に、セリフを芝居がかって読み合う。
暇な男たちである。店に他に人を雇わないのも、二人の家族とも言える女性らに手伝わせないのもこの暇ながら一応働いているという名目だけで過ごしている現状をあまり知られないためでもあった。
時々はちゃんと働いている。時々は。
「吉良!! この馬鹿野郎!!! 正義を自爆させる!! 成敗!!」
「それでも守りたい世界があるんだー!」
ノリノリであった。女の目が無ければ大の男でもこんなものである。
「あ、あのー……」
店の入り口から声が掛けられて、九郎と靂は動きを止めた。
同時に二人は咳払いをして本を置き、そちらへ向き直る。四十代ほどの男が一人、訪ねてきていた。
昼間から寂れた店で寸劇をしていた青年二人はぎこちない営業スマイルを浮かべた。
「い、いらっしゃい」
「本の目録はそこ、返却日は10日以内で一冊16文だよ」
「いやあ、ここで頼み事を聞いてくれるって言うんで来たのだけれど……」
ああ、そっちか。九郎と靂は顔を合わせる。
貸本屋ではなく本業の九郎が営むお助け屋。江戸にある人脈による情報収集能力や人手を活かした面倒事や困り事の解決事業。
助屋九郎への依頼であった。
*****
奥の間に男は通されて、靂は茶を淹れて二人に出す。
助屋九郎。これまで幾度も九郎があれこれと人の頼み事、或いは事件を解決してきたことで自然とそう云う屋号になったものである。
仕事内容は多岐に及ぶ。人や失せ物探し、用心棒、盗人の調査、結婚相談、揉め事の仲裁、仕事の紹介、商売繁盛の助言……
本人曰く、やらないのは浮気調査ぐらいだという。
浮気調査は、その結果しだいでは下手をすれば誰かの家庭を崩壊させる可能性があり、恨みを買うこともあるので請け負わないことにしている。と、九郎本人は云うが実際のところ浮気に関しては脛に傷持つ身なのでやりたがらないのではないかと靂は思っていた。
「韋駄天を探してほしい?」
九郎は依頼者からその話を聞いて、首を傾げる。
それからちらりと靂の方へ視線を向けると、頷いた靂が語り出した。
「韋駄天は仏教の神ですね。韋陀とも呼ばれて、護法神として祀られています。足が速い人の事を韋駄天と呼んだりしますが、これは夜叉が仏舎利を奪った際に走って追いかけたという説話から来ているそうですが、そもそもなぜそんな話で走る役目として出たのかというと天竺にもともとあった宗教で韋駄天の元になった『塞建陀』という神が、帝釈天の元になった『因陀羅』と競争をしたという話があり、因陀羅は雷の如き早さをしていてそれと争ったぐらいだから足が早かったのだろうという印象によって生まれた俗説である可能性が……」
「あー。わかった。インドまで遡るな。確実に今回の依頼と関係ないから」
九郎が靂の早口な解説を止めた。
彼をここに雇っているのは、調査員兼事務員兼解説役のためである。一人で何役も兼任できる上に暇なので丁度よい人材であった。チンピラ程度に負けない腕前も、時に役立つ。
恐らくは、と九郎が靂の立て板に水を流すような解説に絶句している依頼人に云う。
「誰かしら、足の早いやつを探してくれということかのう?」
九郎の言葉に、中年の男は頷いた。
「俺は飛脚問屋をやってる与兵衛というもんだ。飛脚ってのは一般庶民からは偉ぶっている風に見られているが、あれで過酷な仕事でな」
「確かに……年がら年中走らねばならんのは大変だろうな」
「三十を超えれば衰えが出て、そのままぽっくり逝っちまうやつも多い。俺だってうちの弟子みてえな皆が早死しちまうのはどうかと思うが、こういう仕事が必要とされてるんだから仕方ねえやな」
「ふむ……」
難しげに九郎も呻く。少なくとも、自分の子供にやらせたい職業では無かった。
だが世の中には時化が起これば容易く飲み込まれる船乗りや、奴隷の如く働かされる一部地域の農民など悲惨な仕事はありふれている。特別に飛脚が酷いというわけでもないことは理解していた。
「それでうちはいつでも走れる若いやつを見つけておかねえといけねえわけだ。年取ってから走り方を覚えるってのは結構大変だからな」
「まあ分かるが」
義務教育として体育を履修していた九郎からすれば、実際に聞いて意外に思ったのだが──江戸の町人どころか武士でも、碌に走った経験が無いという者は少なくない。
そもそも江戸の町中を走っていたら不審者として呼び止められる。足早に進む程度ならまだしも、フォームをしっかりとして継続的に速度を保ち走るという行為は意識しなければ行うことは無いだろう。
現代日本でも子供の頃ならいざしらず、大人になってからトンと走ることが無くなった者も多いはずだ。
そんなわけで一日10kmも20kmも走る飛脚を育てるには、矯正しやすいなるべく若い頃に弟子入りさせるのが狙い目なのだった。晃之介の道場でも子供の方が飲み込みが早いので、結局残っているのは生え抜きばかりだった。
なお全力疾走を子供の頃から教育される薩摩は別である。
「で? どっからかお主の店で雇えそうな元気な子供を見つけてくるのか? 気が進まんなあ」
ともすればその子供の一生を決めるかもしれない斡旋には、九郎も顔を顰めた。
就職のしたい大人ならば本人の責任でなんでも紹介するのだが、子供が望みもしない道に進むのを推し進めるのは抵抗がある。
以前に人形職人になりたい子供を、職人に弟子入りさせたことはあったがそれは本人が望んだからだ。今では、日本橋で美少女人形を作る若き名工として各方面に大人気である。
与兵衛は手を振って否定する。
「いやいや、似てるんだが違うんだ。話を聞いてくれ。この前、うちの若いのと蕎麦屋に刺し身とメシを食いに行ったわけだ」
「刺し身とメシを出す蕎麦屋……」
「そこがな、蕎麦はなんというか微妙なんだが、一品料理がとにかくメシによく合うもんで白飯をどか食いする俺らには好評な店なんだ」
「もう完全に微妙で固定されたからのう……六科の店」
不味いよりはかなりマシではあるのだが。それでも、酒と一品料理でそこそこ繁盛しているようだ。夕鶴のふりかけなども販売している。
もはや無駄に矯正することは諦め、皆の記憶にある「美味かった六科の亡妻が作っていた蕎麦」という情報を抹消して元からこんなのだったと妥協することにしたのである。
何も期待を持たなければ食っていて不満の出ない蕎麦。それがむじな亭の蕎麦だ。
「ところがその店で食っていたら、突然食い逃げをしやがった小僧が居たわけだ」
「ほう。珍しいのうあの店で食い逃げとは」
やけに同心や忍者が通っていたり、ヤクザからおしぼりを買ってる系の店だと噂されているので店にいちゃもんを付けるチンピラすら現れないというのに。
時々、事情を知らない威張った浪人などが酒に酔った勢いで店員に卑猥な言葉を掛けたり料金を踏み倒そうとしたりするが、その末路は悲惨だ。
「そんで居合わせたもんだから、うちの若いのに追いかけさせたわけだ。馴染みの店で、こちとら飛脚だからな。簡単なことだと思ってたんだが……」
「追いつけなかった、と」
「ああ。一里(4km)あまりも追跡したらしいが、見失った。飛脚も早駆けなら負けることもあるが、長い距離になれば軽く走る馬とだって並走できらあ。それから逃げ切るんだから、半端じゃねえだろ」
「確かにのう。短距離で撒くならまだしも、それだけ追いかけさせて消えるとは」
「徐々に早くなったらしいな。だがな、うちの若いのだって全力出せば江戸から川崎宿まで往復(約35.5km)を一刻以内で出来るんだぜ。それをガキが悠々と引き離していったんだから、こりゃ韋駄天か何かだろ」
「それでそいつを探してくれ、と?」
九郎が確認すると、飛脚問屋の親方は重々しく頷く。
「そいつ、見窄らしい格好だった。顔つきだってビクビクと怯えたみてえで、食い逃げだって後ろめたそうで、追いかけたら悲鳴まで上げてやがった。あれだけ走れるのにだぞ!」
どこか怒った様子で、だがやりきれないとばかりに彼は続けた。
「だから俺は勧誘するんだ。飛脚になりゃあ、確かにしんどい仕事だがな。飯を食うに困らねえ。家族を養えるぐれえに稼げる。卑屈になんてなるか。
侍だって怒鳴り散らして道を開けさせていいんだぞ。荷物を奪おうとするやつは脇差しでぶっ殺していい権利もある。関所でネチネチと旅人をいじめるのが趣味の役人だって、飛脚相手にはへえこらと関を通す。
何より俺らは仕事に誇りがある。走りに誇りを持ってる。だから俺らより走れるあいつが、あんな顔してちゃあいけねえんだよ」
「……なるほどのう」
九郎は親方の顔を見て僅かに顔をほころばせた。
悪い男じゃない。彼はきっと飛脚を使い捨てだとは思っていない、しっかりとした問屋の主人なのだろう。
恐らく前には彼自身が飛脚として走っていた、とも九郎は思う。店内を歩いて奥の間に来るときに、僅かに足を引きずっていた。飛脚としての寿命が来て、雇う方に回ったのだろう。
確かにつらい仕事をさせようとする大人に、子供を連れてくるのは気が進まないが。
「わかった。探してみよう。ただし、今の調子でちゃんとその韋駄天小僧を説得してみることだな。そやつが否と云うのならば無理にやらせることではない」
「頼むぜ、お助け屋さんよ」
「掛かる諸経費と日雇賃は請求するからな」
「当たり前だ。俺がケチケチするとでも思うのか」
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幸いなことに犯行現場が自分の身内の店だったので、九郎は早速調査に乗り出した。靂の方は同時にその韋駄天小僧が他に犯罪をして訴えが出ていないか、町奉行所の伯太郎に確認しに行った。犬好き同心の伯太郎は幼妻の阿子を九郎から授けられたので魂を来世分ぐらいまで売り渡している従順さだ。
相も変わらぬむじな亭に九郎が入る。たまには子供を見せるために店へ訪れているので、幾ら九郎が無職同然の生活になっている期間でも長く付き合いはあった。
「いらっしゃい──あっ九郎兄さん!」
「やあお風や。相変わらず元気そうだのう」
「九郎兄さんは相変わらず昼間からぶらぶらしてるのが似合ってる」
「なぜだろう。嫁も貰って職にもついてるのにそんなに己れはアレか。顔つきが悪いのか」
「うふふ」
にっこりと笑うのは六科とお雪の娘であるお風である。もう9つになり、かつて出会った頃の豊房と同じ年頃だ。
寺子屋などには通わずに店の手伝いをしているが、豊房や石燕・歌麿などから教育を受けているので今では店の金勘定を管理するまでになった。盲人のお雪は当然ながら、大雑把な六科も月ごとに帳簿を見にくる豊房にいつも叱られているのでお風が見かねたのだろう。
入ってきた九郎を確認して店主の六科が板場から頷く。
「うむ」
「待て。今のうむはどういう意味だ」
「うむぁー」
「謎の返事をするな」
六科も相変わらずの仏頂面……と言いたいところだが、頭に白髪が混じって全体的に灰色な髪の毛になっていた。
しかしながらその灰色頭には意味不明な経緯がある。
豊房に子供が出来てから、ある日に彼女が「お父さんもとうとう孫ができたお爺ちゃんなのだあ。それにしてもあんまり老けてないわね。おぐしとか白くなっても良さそうなものなの」と、あまり容姿の変わらぬ父に疑問を呈した。
その翌日、何故か六科の髪の毛が真っ白になっていた。
いきなり老けすぎだと総ツッコミが入った更に翌日。半々ぐらい白黒が混じった灰色に髪の毛が変化していた。
そういう問題じゃないだろとまたツッコまれたのだが、面倒そうに唸るだけであったという。もう六科ならそれもありかな、と皆も諦めたようだ。
「ところで二人共。近頃、この店で少年が食い逃げしておらんかったか?」
「あ、見たわ。凄い速さでびゅーって走って逃げて……近くに居た長屋の人も追いかけたけど、すぐに諦めて戻ってきたわ。食べたのは16文のお蕎麦だったんだけど、どうせ逃げるならもっと高いもの食べて逃げるべきよね」
「誰に似たんだそのセコイ発想は」
「もっと原価率が高いものを」
「完全に豊房だ……しかしまあ、飛脚から逃げ切るぐらいだからな。ところで顔や風体の特徴などを覚えておらんか?」
九郎の問いに、六科があたかも録画を示すかのように目を光らせて応えた。
「人間だった。男の可能性が高いが、女であるかもしれない。年齢は十代から二十代、或いは三十代から五十代」
「お主の場合記憶力じゃなくて判断能力が悪すぎる。例えばこの野菜はなんだ」
取り出した野菜は、店を放置していたら貸本の料金入れ箱に代金代わりに突っ込まれていた大根である。
貸本屋は時に二人共店を開けたまま出かけるので、借りるやつは勝手に名前と住所を記して金を入れておくようにと箱に説明書きが書かれているぐらい適当な仕事だ。
「それは大根だ。煮物などに使う」
「ではこれは?」
同じく料金代わりのゴボウを取り出して見せた。
六科の目がそれを鑑定する。土のついた細長い根菜。恐らく煮物に使ったことがある記憶が呼び起こされた。
「それは大根だ。煮物などに使う」
「ゴボウだゴボウ! お主はトマトとリンゴの区別がつかんAIか!」
「ゴボ……ウ?」
「そこからか!」
「冗談だ。ところでこのゴボウは貰おう」
「そっちは大根だ」
「どっちでも食べられれば同じよねお父さん」
「無論だ」
「ああ……嫁の実家が雑な暮らしになっていく……」
六科の料理の腕が固定され気味になったのも、嫁のお雪と娘のお風が徐々に六科の手料理に染められてしまったことが原因だろう。
常に身内からダメ出しを受けていれば改善する気にもなるが、それで満足させられているなら上達はしない。
まあ、一品料理は九郎や石燕が教え込んだ六科でも出来る簡単メニューばかりだから失敗はしていないようだが。
「話が盛大にズレた。食い逃げ男の顔などは誰か見ておらんのか?」
「えーと、わたしもあんまり印象にないんだけど……あっ、そのときお店に長喜くんが居て食い逃げした子を熱心に見ていたわ」
「長喜丸が?」
「座敷の対面に座って何も食べずにひたすら無表情で見つめてたわ」
「逃げた原因それじゃないだろうな」
怪奇・店に入ったらスゲエ見つめてくる小僧。
実際恐ろしい気がする。晃之介の長男である長喜丸は、武芸を仕込むために何度も修行に巻き込まれているのだが、時々それを抜け出して幼馴染であるお風が居るこの店や九郎のところに遊びに来ていた。
「というか今も来ているわ」
「なに? どこに居る?」
「九郎兄さんの背中に……!」
「怪談か」
「わーお」
「っ……」
耳元に突然聞こえた長喜丸の声に、九郎は思いっきり驚いた顔をして体を震わせたのでお風に笑われてしまった。
いつの間にか長喜丸は九郎の体によじ登り背中に張り付いていたのだが、まったく気づかなかったのだ。
「こ、こやつ……無駄に軽功なんて謎武術を応用しておる……」
背中に乗っかっているというのに長喜丸の重さはまるで感じない。内功という体内に留める力を応用して身軽になるという六天流で教えている技術を使っているらしい。教えているというが、使えるのは晃之介ぐらいなのだが。
義兄の威厳が損なわれそうだとお風の笑みを見て思った九郎は咳払いをする。
「ご、ごほん。うちじゃあ、ちび共によくよじ登られたりするから、自然すぎて気づかなかっただけだ。というか、長喜丸も孫だしな」
背中に手を回して長喜丸の襟首を掴んで下ろす。こちらも10歳前後になり、肉体年齢も活発な頃合いだ。晃之介をとぼけさせたような顔つきをしていてとても武芸者の才能があるように思えないが、素質はあるようで晃之介は惜しがっている。
門下生で同年代の新助や正太郎に頼まれれば鍛錬に参加することも多いのだが、それ以外はもっぱら子興から絵を習っている。
九郎もそれで良いと思っている。身を守れる程度に武芸が使えた方がいいが、晃之介のところも飛脚に勝るに劣らず過酷な鍛錬を受けさせて寿命が縮むのではないかと不安になるからだ。
嫁の一人であるお八が息子を通わせようと思っているのが心配でならない。
それはともあれ、
「長喜丸や。お主がこの前に見た食い逃げ犯の特徴を覚えているか?」
「さてー……食い逃げ犯なんて見飽きてるからー」
「嘘を吐け。例え見飽きたとしてもその一人を凝視してたからだろう。こやつ、なんというかうーむ……」
微妙に。ほんの僅かに。悪意を感じない程度に子興の前世である魔女イリシアを彷彿とさせる自由さを見せるのが、九郎にとっての悩みどころである。
九郎はため息をついて、大根とゴボウだけではと思って買ってきた土産を長喜丸とお風の前に出す。
「ほれ、うちの店からケーキを買ってきたから食っていいぞ」
「九郎兄さんが兄さんで良かったわ……! うひひ久しぶりの甘味だわ! お父さんにこの慶喜作ってって頼んだら、味噌を塗って作ったのよね」
「六科甘いの苦手だからなあ」
「わー。うちだと甘い物って倒れた弟子に砂糖水を流し込むとかだからー」
「晃之介は砂糖水をなんだと思っておるのだ……とにかく、長喜丸。そのお主が見た相手の特徴を教えておくれ。ケーキをやるから」
「ん」
云うと長喜丸は懐から紙と絵筆を取り出して、墨つぼに軽く筆を付けたかと思うとサラサラと迷いなく紙に人相書きをかき始めた。
相手の特徴を箇条書きにしたものではなく写実的な似顔絵のついたものである。ほんの三十秒ほどで出来上がったそれを、無造作に九郎に渡して長喜丸は座敷に上がり、お風は二人分の茶を用意してお互いに向き合ってケーキを食べ始めた。
九郎は気弱そうな少年の描かれた紙を見ながら呆れたように呟く。
「なんというか……才能だけはひたすらあるのな」
******
靂の調査報告では、同じような少年による犯罪は町奉行所には出ていなかった。
幾ら飛脚問屋の親方が雇いたがっても窃盗の常習犯などでは厳しいものがある。連座刑という刑罰があり、罪を犯した者の家族や職場の者まで累が及ぶことがあるからだ。
ひとまず安心し、逃げた地点と描かれた人相書きを使って暇をしている忍びの連中に調査を依頼する。普段はシャイだというのになぜか仕事となると一般人に成りすまして人探しをするなどお手の物な男が多いので、九郎靂の二人で探すより余程効率が良い。
足が速いのとあまり裕福そうでないこと、顔の特徴などで翌日の夕方には所在が知れた。
『幽霊長屋』と呼ばれる堀切のあたりにある、いつから建てられているのかもわからぬボロ長屋。雨漏りも隙間風もうんざりするぐらいにどの家にもありそうな場所だ。
住み着く者も半ば浮浪者のような身なりをした貧しい者ばかりで、乞食や落ち毛拾いといった仕事をして食うや食わずの生活をしている。
その中に住んでいる早助というのが食い逃げ犯らしい。
早助というのは本名ではないらしいが、周りの者に使いっ走りのような事をさせられて足が早いので次第にそう呼ばれるようになった。
もともとは母親と二人で幽霊長屋に住んでいたのだが、乞食の母は首をくくって亡くなったらしい。
それでも住処から離れられず、周りの者から細々とした仕事を与えられ生活をしている。
「よし。居場所はわかった。では、靂よ。行って話をしてこい」
「僕がですか」
「己れの顔が利く現場なら行くが、単に子供を捕まえてくるぐらいお主でもできることだろう。雇い主だぞこっちは」
「わかりましたよ」
靂は修正しかけの本を置いて、念のために腰に刀を帯びて堀切へと向かっていった。
幽霊長屋からは妙な懐かしさを靂は感じる。
そういえば、と思い出すのは子供時分に母と暮らしていたあばら家だ。あちこちが壊れて寝転がれば星が見えるほどだった。あの建物にどこか似ている雰囲気がある。
靂はとりあえず近くの戸を叩いて住人に話を聞く。
胡散臭そうな表情で長屋の住人が訪ねてきた靂を見やる。
「すみません。早助という少年はどこに居ますか?」
ピシャリと戸を閉められた。
肩を落として靂は次の部屋へ向かう。今度は円滑に話を進めるために、九郎から借りている十手を手に持って長屋の戸を叩く。
中から人相の悪い男が顔を出す。
靂は十手を見せながらにこやかに聞く。
「すみません。奉行所の方(方角の意味)から来たんですが……」
半ば開けられた長屋の中が靂の目に飛び込んでくる。
二部屋ぶち抜いて男らが集まり、サイコロを振って小判をやり取りしていた。
露骨に違法賭場だった。靂の笑顔が引きつる。
「野郎ども! 手入れだァ──ッ!!」
「相手は一人だ! やっちまええええ!!」
「なんでこうなるんだ!?」
靂は刀を抜いて十手と二刀流で、ドスや薪棒を手に突っ込んでくるヤクザ相手に戦う羽目になった。
しかしながら腐っても六天流の修行を受けた身。晃之介から切り紙(初段のような最初の認定)を与えるかどうか真剣に悩まれる程度の腕前でも、そこらのチンピラ相手にはさすがに負けなかった。
突然の戦闘で肩で息をしながら靂は次へと向かう。
「はあ……はあ……僕はこんな切った張ったの世界じゃなくて、作家なのに……そもそも事件の記録係として雇われたはずなのに……」
愚痴を言いながら次の戸を開ける。もう確認すらしなかった。さっきの騒動でチンピラ以外誰も外に出てこないあたり、本当に幽霊ばかり住んでいそうである。
そうして開けた長屋の部屋に、目的の少年が驚いた顔で靂を見てきた。
「あ、君」
逃げた。勝手口なのか大きく空いた穴を戸で塞いだのか、とにかくそっちから早助は飛び出して逃げ出したのだ。
「待っ」
靂も慌てて追いかける。長屋のある通りを抜けて江戸の外側へと少年は走り始めている。
靂は武器をしまって必死に追いかける。
(大丈夫……! 先生のところでは延々走らされるところから始まるんだ! 相手は子供だから追いつける───)
*******
「で、逃げられたと」
「……」
「負けたと」
「……」
「鈍っているのではないか? 少し晃之介に鍛えてもらっては?」
「そんなこと言いますけどね! 本当に早かったんですからねあの少年! なんなら九郎さんが今度は追いかけてみてくださいよ!」
「おお、おお。吠えよるわ。だがよかろう。部下にお手本を見せねばな」
「じゃあその、筋力上がる首に付けてる札とか、体力回復する札とか、空飛ぶ衣とか禁止ですからね」
「余裕だ。相手はたかが中学生ぐらいだぞ。なあに、では明日にでも勝負してくれるわ」
*******
翌日の夕食時。
「……」
「旦那様、どうしたんだぜ」
「何か凄い敗北感に溢れてる顔をしているわね。負けね。負け九郎ね」
「……違う。己れは負けておらん。そもそも走ることが己れの仕事ではない」
「ととさまー! お仕事頑張ってるのー?」
「うむ。そうだよお初。ととはな、足を使って毎日頑張って真面目に仕事をしているのだ。凄い働き者だからな」
「必死でありますな……」
「逃げる相手なら私がバインドボイスで止めてやろうかのー?」
「恐ろしい声を出して追いかけるなら、薩摩人を手配しましょうか」
「おっと、おふた方。あまり手伝いを申しかけると、働き者で仕事熱心な九郎殿の役目を奪ってしまいます、よ。ここは信頼して任せましょうぜ」
「……ああ。任せておけ」
*******
また翌日のことである。
靂に続いて九郎まで素の状態の走りでは逃げ切られてしまった少年を捕まえるために、九郎は大声を出して追いかけながら火炎と稲妻を周囲に放ちまくって脅したところ、恐怖のあまりに腰を抜かし泡を吹いて早助はぶっ倒れた。
「ふっ……少し大人げなかったかのう」
「かなり大人げないですよ。記録に残すんですよこれ」
「むっ、それはいかん。何か上手いこと書いといてくれ。早助に取り憑いた韋駄天と戦闘したとか」
「捏造記録すぎる……」
靂を雇っている大きな理由は、助屋として解決した事件を記録に残せるからである。
父がこのような仕事をしたという記録はいつか子たちに伝えられ、尊敬を集める……と画策している姑息な作戦であった。
同時に二人からしても、嫁やら幼馴染やらへの活動報告として見せることで決して仕事をサボっていたわけではないと伝えられる。
靂にしても文章表現の訓練になるので業務として請け負っているのであった。
「……っていうか九郎さん!? 早助息してませんよ!?」
「いかん! 心臓マッサージ!」
慌てて九郎は応急処置を施して、念のために将翁に診せるために屋敷に引っ張っていった。
ひとまず色々止まったのは九郎の放った攻撃のショックからだったのだが、靂と口裏を合わせて「何やら悪霊に怯えていて」と応える男どもである。
しかしながら妙に足が早いということで将翁が足などに触れて確認すると、
「おや、これは……」
「どうしたのだ?」
「ふむ……なるほどねい。どうやらこの少年、非常に珍しい足の関節をしているようですぜ」
「珍しい?」
「これが奇形か、はたまた後天的かは不明ですが……絶妙に組み合わさった股から足指までの関節がどれも滑らかに柔らかく動くようになっておりまして……つまり、走るときに殆ど足に負担が掛からない体質をしているのですよ」
将翁が実際に曲げ伸ばしをして見せる。ぎこちなさなど無いように少年の足は柔らかく動いた。
「これならば長距離を走っても息切れをせず、裸足で全速力を出しても足裏を怪我しない。地面を強く蹴った分だけ、足ではなく前方に進む力になる。極稀に戦国時代なんかだと腕利きの伝令として役立つんですが、太平の世だとこういった体質の人も殆どは気付かず、特に合った仕事にも付かずに一生を終えることが多いですぜ」
九郎は寝ている早助を見やる。
確かに人の中には筋肉の付き方や手足の長さなどで、有利になるスポーツなども多くある。それに似たようなもので、奇跡的に組み合わせが良くて走ることに特化している体質というのもまた存在するのだろう。
例えば短距離選手のウサイン・ボルトも背骨の湾曲や骨盤の形が走法に影響して世界一の速さを得たという話もある。
「ふむ……まさに韋駄天の宿った体とでもいうべき、天才の走者なのだな」
「ええ。こういう体でしたら、飛脚をやっても負担は少なくなるでしょうぜ」
そして、早助が目を覚ましてから九郎は落ち着かせてやった。天狗というと気絶仕掛けたが、他に説明のしようもないので仕方がない。
それから飛脚問屋の親方を呼んできて、彼の方から話をさせた。
早助は堀切での生活が嫌になり、自暴自棄になる寸前だったという。
しかし元来の弱気な性格で、食い逃げを一件しただけで腹を壊したように胃痛を覚えて閉じこもっていた。
「うちにくれば飯も面倒を見てやる。気の荒いやつは多いが、お前より足の早いやつはいねえ。母ちゃんに貰った立派な体だ。そいつをどうか活かさせてやってくれねえか」
九郎も付け加える。
「なに、もし嫌なことがあったらこう思え。『自分は誰よりも早く走れるのだから、逃げてしまえば追いついてこない。いつでも誰からでも逃げられる』とな。これからつらいこともあるだろうし、泣きたくなることも多いだろう。だがな、いつでも逃げれると思えば他人など屁のようなものだ」
そう二人に励まされて、早助は大きく頷き──飛脚になる道を選ぶのであった。
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さて、これにて僕と九郎さんと解決した韋駄天と飛脚の話は概ねおしまいだ。
記録に追記することとして、あの事件から暫くのときが経ち、早助はあっという間に一人前の飛脚になりかけていた。
しかし飛脚という職業は足が早いだけじゃあいけない。
大事な文や荷物を届けるには信頼が必要だ。その文の内容如何によっては、人が死んだり破滅したりすることもある。飛脚が文を途中で開封したりしたら斬首だし、奪われてもいけない。
そこで最終試験として、親方と相談した九郎さんは早助に百両の小判を伊勢原の夫婦宿とか云う場所に一人で運ばせることにした。
百両は当然ながら目の眩む大金で、盗めば小塚原に首が十人分は並ぶ価値がある。
飛脚なんてしなくてもどこか遠くに持ち逃げすれば遊んで暮らせるだろう。
というのは浅はかな考えなのだけど。当然、飛脚問屋は名誉回復のために盗んだ飛脚を指名手配。まるで仇討ちのように追いかけ回すだろうね。なおこの百両は九郎さんの自費で送るのは私事だけど、盗まれた場合は飛脚問屋が借金してでも返却するらしい。
さてそれはともかく、飛脚になったばかりの早助がしっかりと大金を運べるかどうか。色々と意地汚い仕掛けもしたみたいだよ。葛籠を空けないかとか、小判の包紙に触れないかとか仕掛けを施して。
果たしてどうなったかというと、早助は一切百両に目もくれずにしっかりと伊勢原の宿まで届けたみたいだ。
これにて飛脚の試験は終了。晴れて彼は一人前になれたとさ。
自分に合った仕事を生きがいにできるってのは、大事なことだよね。
……ところで九郎さんはなんで百両なんて大金を伊勢原に送ったんだろう? あれ? これって記録に残していいのかな。
九郎「養育h……いや、なんでもない。ちょっと知り合いが病気で見舞金を」




