22話『嵐の夜に』
立春から数えて二百十日の秋口に野分(台風)が来るとその年は凶作になるといわれている……
江戸に野分が近寄っているらしいことは、テレビの天気予報が無い当時の江戸でも気圧の変化を肌で感じるのか、事前に囁かれることであった。
九郎と石燕はその日いつも通りぶらりと食べ歩きに出て、両国の蕎麦屋[丸勘]に居た。
貝柱のかき揚げを、生姜の絞り汁をたっぷり混ぜた辛い蕎麦つゆにひたして齧り、冷の酒を昼間から相変わらず飲んでいる二人である。
蒸籠には山間の高地で取られた早生(春に種を撒いて秋口に収穫するもの)の新蕎麦が良い香りをして盛られている。
「うむ、この貝柱……噛み締めるごとに味が出て旨い」
「新蕎麦も中々のものだよ九郎君。信州風のつゆがまた辛くて酒が進む」
「む? しかし随分小盛りだな、お主の蕎麦。夏バテか?」
「ふふふ、そうだね」
石燕はゆっくりと蕎麦を手繰りながら冷酒を飲んで心地良い息を吐いた。
この前に軽い霍乱(暑さにより体調を崩す事)を起こした不調がまだ続いているのかもしれない、と九郎は石燕の体を酒が障らぬか慮るが、病床についても酒を飲みたがる女になにを言ってもと諦めた。彼女は子供の頃から季節の変わり目と猛暑、厳冬の時にはよく体を悪くするのである。
それにしれも、と九郎は風の強くなりだして昼だというのに暗い外を見ながら切り出した。
「台風が来るようだがお主の家は大丈夫かえ?」
「無論さ。私の家は地獄の悪魔力に守られているからね」
「せめて神仏に頼れよ……魂を持ってかれるぞ」
「ふふふ……既に契約済みさ!」
「手遅れだった」
したり顔で言い切り、猪口の酒を飲み干した石燕に九郎が酌をしてやった。
彼女は上機嫌に三河国の上酒を煽りつついつも嵌めている白い布製の指ぬき手甲を外して九郎に見せる。
五芒星のおどろおどろしい紋章が手に書かれている。
「これが悪魔との契約によって浮き出た呪印……くっ沈まれ腕に秘められし悪魔の力よ!」
「そういうのを拗らせるのは十代までにしておけよ?」
「鳥山石燕十七歳だよ!」
「……」
胸を張って戯言を垂れる石燕に対して、
(聞かなかったことにしよう)
と、九郎は思い店員に追加の酒と豆腐田楽を注文するのであった。
石燕はふふんとばかりのポーズで固まっていたが、九郎が串に刺さった田楽を口元に持って行くとウサギの餌やりの如くもごもごと頬張る。
すり潰した胡麻をたっぷり降ってある甘辛の味噌が塗られた田楽は酒によく合うのである。ある程度石燕に味あわせて田楽を引き抜き、今度は猪口を運ばせると抵抗もせずにくぴくぴと飲み込んでいく。
まさに餌をやってるようで面白いが、
(老々介護……)
という単語が九郎の頭に浮かんで気分が落ち込んできたのでやめた。
いつも通りに二人がそのように過ごしていると[丸勘]に入ってくる客の声が聞こえた。
「ったく風が強くなってきやがりましたねえっと。おい、酒と適当に何か見繕ってくれ!」
「あやつは……」
と、塗笠を脱いで土間の椅子にどっかと座り注文をしたのは、一見土地のやくざ者のような同心・中山影兵衛であった。
九郎の視線に気づいたのか、顎をしゃくりあげるようにして二人が座っている座敷へ顔を向けた。
「あん? ……いよぅ、九郎の坊主と石燕の姐ちゃんじゃねえか。相変わらず昼間っから良いもん食って酒やって御機嫌ってか」
「お互い様であろう。お主もいつも見回りの途中で酒を飲んでおるのに」
現代の警察からすればとんでもない事の気がしないでもなかったが、酒による失態さえ起こさなければある程度は目こぼしされていたのである。
昼間から同心が酒を飲んでいるという目線は影兵衛が普通の着流しなので目に付くことはない。火盗改は盗賊の捜索や追跡の任務が突発的に起こったりするので、聞き込みなどの時は正装の黒羽織を着るが、それ以外の外回りは普通の着流しで行く事も多いのであった。
彼はとりあえず出されたわけぎのぬたを口に放り込んで酒で流しながら、
「ったくよ、野分が近づいてるってのにうちのおんぼろ長屋は放っておいて今晩も仕事なんだぜ? せめて昼間ぐらいは酒を飲んでなけりゃな」
「晩に一番風が強くなると聞いたが……」
彼は教授するように指を立てて、
「いや、この野分の晩ってのがまた盗賊が動きやすいんだわ。ちっとぐらい派手に押し込んでも音が紛れるからな」
「なるほど」
「石燕の姐ちゃんも気をつけたほうがいいぜ? 拙者でも随分と金を貯めこんでるって噂は聞いたことがあるぐらいだからよ」
「ふむ」
言われて彼女は腕を組み考える。
台風に備えた普請は大工に頼み、子興を留守番に置かせて執り行わせているが彼女の家には別段、豪商の屋敷のように盗賊対策があるわけではない女二人暮らしだ。
精々が近所に不吉な噂を流しまくっているのと、番屋に賄賂を渡して夜警を頼んでいる程度だが、台風の晩には流石に番も出歩くまい。
九郎が提案の言葉を口に出す。
「そうだのう、石燕と子興は今晩うちに泊まりに着るといい。フサ子が喜ぶからたまにはいいであろう」
「……うん。そうさせて貰おうか。なに、家の方はそこらの盗賊が荒らしまわっても金目のものが見つからないようにしておくよ」
首を縦に振り、肯定の意思を伝える。九郎の方から自分を心配して提案した事だ。喜ばしく賛同する。
石燕の宅には価値のある骨董がそれなりに置かれているのだが、家の裏にある頑丈な錠前の付いた蔵に置いているのはダミーで本物は庭に打ち捨てられた社に隠していたり、床下に埋めた骨壷が二重底になっていて小判が詰まっていたりと隠されているのである。
念入りに探せば見つけられないこともないが、嵐の夜にわざわざそこまで探す盗賊も居ないだろう。
それに彼女はさほど財産に執着はない。子興やお房など弟子には、
「絵師などというものは墨と紙さえあれば生きていけるものだよ」
と、言い聞かせている程である。
石燕は両手を合わせてにんまりと笑いながら、
「それじゃあ九郎君、晩ご飯作って」
九郎の作る料理は結構美味で友人間では知られていて、石燕も時折彼に頼むのである。
だが彼は朝食の味を思い出しつつ絶望的な顔で、
「今日の夕食は朝に六科が失敗して出来た、限りなく乾燥しぼそぼそしブツブツの食感が不快な蕎麦掻きのような何かをお湯に溶かしたものだ」
「……そんなもの叔父上殿の口に窒息するぐらい詰め込んで置きたまえ」
とりあえず秋蕎麦にチャレンジして蕎麦屋の面目躍如しようとした心意気は買うのであったが、休憩を挟めば挟む程失敗度が大きくなるのが六科の料理の腕である。蕎麦打ちの勘は三ヶ月程で失われていた。
基本的に勿体無い精神のお房と六科なので仕方なく出来た謎団子を消費するのが現在のかの家の食事事情なのだ。
ふと、石燕が九郎の目を見ながら尋ねる。
「ひょっとして……そのまずいものを少しでも消費しようと私を家に誘ったのかね?」
「……」
猜疑の言葉に九郎は真顔のまま無言で蕎麦を手繰りつつ、ちらちらと影兵衛に視線を送った。話を逸らしてくれと視線が訴えかける。
彼はやれやれ、と酒を煽ってから、
「そういやちょいと気になる情報があるんだけどよ、九郎に関係することで」
「己れに? なにぞなにぞ」
話題の転換に身を乗り出して聞きの姿勢へ入る彼へ恨みがましい視線を落として石燕は小さくため息をついた。子興に食材を持参させて泊まりに行ったほうがいいかもしれない。
影兵衛は軽く周囲を見回してこちらの話に耳を傾けている者が居ないことを確認し、告げてくる。
「ほら前によ、[藍屋]を襲った盗賊を二人で殺しまくった事あるだろ?」
「ああ、ハチ子のところの……いや己れは殺してないぞ!?」
「細かいこたぁいいんだよ。とにかく、あの後息の残ってた引き込みの女に自白をさせたんだがよ……その女が作った[藍屋]の嘗紙は押し込み前に他の盗人に売り飛ばしたらしいぜ」
「『嘗紙』?」
聞き覚えのない単語だったので返したところ、影兵衛が補足する。
「押し込み先の店の部屋や蔵の場所を書き取った間取り図の符丁だ。大工なんかに嘗役を紛れ込ませると作りやすいんだが……ともかく、押し込みをする時にそれがありゃ随分楽できる」
「ほう……」
確かに、こっそり入って盗んでいくにせよ、店の者の口を塞ぐにせよ建物の間取りを知って置かなければ不都合が起こる。
勿論それを用意せずに、侵入して店の主などを脅して金を奪うなどの方法を取る賊もいるが……
つまり、[藍屋]は今だ何処かの盗賊に狙いを付けられているのである。
「ま、拙者も手先を使ったりしてそれとなく様子を伺ってたんだが新しい引き込みが入った様子もねぇ。それで無理やり押し入るなら今晩が野分だろ?」
「火盗改に張ってもらえば……」
「ところがぎっちょん。今晩は確定情報で別の押し込みがあるから拙者も含め、皆そっちに行くからよ。[藍屋]の事は証拠の無ぇ拙者の勘ばたらきだから人は出せねぇんだ」
「ふむ」
九郎は蕎麦を啜りながら頷く。
「念の為に今晩は己れが[藍屋]に見張りに行くとするか。棒があれば実際転びにくい、と諺にもあるからのう」
「そりゃ御立派。お八嬢ちゃんも惚れなおすってなもんだ。あ、情報料としてここのメシ代ぐらい頼むぜぇ?」
「むう……仕方ない、石燕」
「はいはい」
「あと明日にでもまた一緒に吉原行かねぇか? 人殺すと女抱きたくなるからよう」
「むう……仕方ない、石燕」
「はいは──いや待ちたまえ九郎君」
石燕の悪魔の呪印が刻まれた手が九郎の肩を強く握った。
彼女は目に動揺の色を浮かべて、頬を引き攣らせた笑みで震えた声を出す。
「き、君は私のお小遣いでいつも女を買いに行っていたのかね?」
「……落ち着け石燕よ。これはあれだ、誤解から起こるすれ違い系どらま風味な展開であって、早とちりして無駄に拗らせてはいかんぞ」
「はっ。そ、そうだね。お約束の勘違い話だね。ふふふ、九郎君みたいな女なんて別に興味ねぇし系男子が……遊郭なんてね……」
「その系統の男子は只の小学生な気がするが……ともかく、さっきのは冗談だ。お主の金でいかがわしい店や賭博になどは行った事はない」
言い切る九郎の様子に嘘は感じられないのでとりあえず石燕は納得した。
他から貰った礼金などではそのような遊びに使ったことはあるが……まあ本当にただ遊んだだけで疚しい事はしてはいないので言う程のことでもない。後ろめたいとかそういうわけではなく。
とりあえず疑いの眼差しを振り切った九郎と他二人は轟々と吹き始めた風の音を聞きながら昼間から酒杯を重ねるのであった。
****
強い風を浴びていれば酔いも早々と抜けそうである。
幸い雨は降っていないので笠は要らないが、舞い上がる砂埃は現代とは比にならない程多いために軽く目を伏せながら九郎は晃之介の道場へ歩いて向かった。
薄暗い道場の中では半分に切った竹をトタン板のように組み合わせて簡単な雨戸を制作している晃之介が居た。
入り口の引き戸が開かれると同時に強風が中へ吹き入って、晃之介は顔を上げて九郎を見やる。
「こんな天気の日にどうした? 九郎」
「うむ。風で道場が潰れていないかと心配になってな」
「ああ……だが、俺達で何度でも建て直してやればいいさ」
「ふっ──」
軽やかな口調で何かやり遂げた顔をしながら、ぐっと拳を突き出してきた晃之介に九郎も拳を合わせる。
そして二人して冷静になり真顔へと戻った。
「ツッコミ役が居ないのに」
「芝居をするのもな」
流石に台風の日にまでお八は練習に来ていない。少しだけ寂しさを覚える。
早速、九郎は要件を晃之介に告げる。
「のう、どうせ暇であろう? 共に[藍屋]へ用心棒に行かぬか」
「お八の実家にか?」
晃之介が首を傾げるので九郎が、
「信ぴょう性はわからんが、今晩の大風に紛れて[藍屋]に押し込みが入るやもしれぬと情報が入ったのだ」
「成程。見過ごせないな」
領得した晃之介はその話に賛成の意を表した。
お八はただでさえ晃之介の唯一の弟子である上に、[藍屋]では大名屋敷へ行くための立派な袴を拵えて貰った恩義がある。
それに多少なりとも報えるのならば盗賊から店を守るのは吝かでは無い話である。
九郎も相手が大勢となると不利とまでは思わないが、店に被害が及んだり取り逃がしたりする可能性も高いので友人の中でも腕の立つ晃之介を誘いに来たのであった。
だが、どうでもいいことなのかもしれないが小さな問題があった。
「それで、[藍屋]に泊まりこみに行くのだが……相手方に頼む泊めて貰う理由を考えねば」
「普通に盗賊用心のため、では駄目なのか?」
不思議そうに返すが九郎は考えをあぐねる顔をしながら、
「いや……それだとなんというか……恩着せがましくならないであろうか。自信満々にそんなことを告げた挙句、情報が外れて盗賊が来なかったら一寸恥ずかしい気が」
「確かにそうだな……」
「あの家族も一度盗賊に襲われたのに、また来るだの告げて恐ろしがらせるのもな」
と、九郎は頭を掻きながら数カ月前に偶然から[藍屋]に押し入った盗賊を相手取った事を思い出すのであった。
確かに店の者に予め盗賊が来るという事を教えて避難するなり、部屋を移すなりしてもらったほうが安全で楽ではあるのだが、確実に盗賊が今晩来るという保証もない以上、余計に心配させるのも気が引ける。
なので適当な理由が必要なのだが……
「晃之介の道場が風で壊れかけて泊まる場所がないとかどうであろうか」
「そこまでぼろじゃない。生きのいい川魚でも手に入ったから分けに来たとでも云えばいいだろ。多分一晩ぐらい向こうから引き止めてくれる」
「もう川は濁りだしておるぞ。鮒など釣れるものか。道場の……厠が氾濫してとても過ごせなくなった。これだ」
「お前は俺の道場をどうしたいんだ。お八が練習に来なくなる。そもそも俺の道場だけの問題だとお前も来る理由にならないぞ」
「むう……」
などと、晃之介の道場を出る準備をしながら二人は話し合うのであった。
今日は夕焼けは見えず、空は既に徐々に暗くなって雨脚も見え始めている。
****
「──という訳で一晩都合してくれぬだろうか」
「それはご不運なことに……九郎殿も晃之介殿もさあさあ、お上がりくだされ。おい、誰か手拭いを」
結局、濁流で岩の隙間に逃げる川魚を捕るために二人でガチンコ漁をしていたら川に落ちた上に家を閉めだされた(晃之介の道場は崩れて厠が溢れた二重苦にあったことになった)という設定で[藍屋]にやってきたのだったが、店の主・芦川良助は疑い持たずに歓迎の態度を見せた。
なおガチンコ漁とは川の岩に強い衝撃を与えて水中に衝撃波を流し魚を気絶させる漁方で、概ね現代は禁止されているので注意が必要だ。岩と岩をぶつける為に[がっちんこ]という音が鳴ることから名前が付けられたとされている……
これがやってみたら意外と楽しく、二人して本気で川に流されかけた為にずぶ濡れになってしまっている。だが腹がぷっくりと膨れた落ち鮎が何匹か捕れて、桶に入れて土産に持ってきている。
ひたすらにずぶ濡れで酷い身なりの九郎と晃之介を、嫌そうな顔もせずに主人どころか、番台や手代まで急いで替えの着物を用意したり、体を拭う為の水を張った盥を用意して持ってきてくれた。
理由なく[藍屋]を訪れることが気まずいと思っていた二人だが、店からすれば九郎は盗賊から守ってくれた恩人であるし、晃之介は末娘の師匠であり無役ながら大名にも顔が利く店贔屓の侍である。土産を持たなかろうがこの二人ならば喜んで店に上げて世話をしてくれるであろう。
二人が汚れた足を持ってこられた盥で洗っていると、二階から転げるように茜色の着物の少女が下りてきた。
「九郎! ……と、師匠! なんでここに!?」
「お八か。お前と、いつも世話になっているお前の家族に鮎を取って来てな」
「すげえぜ! 師匠の食通!」
「あと晃之介の家の厠が粉々に飛び散ってとんでもない臭いになっていたからのう。二人して避難してきた」
「師匠……練習は厠を直してからにしてくれよ……」
やや身を引きながら鼻をつまんでお八が言うので、晃之介は小声で九郎に、
(おい、溢れただの爆裂四散しただの、理由もなく俺の家の厠がどんどん酷いことになって云ってないか?)
(すまぬ……特に反省はしないが言葉だけでいいなら幾らでも謝るから許せ……)
(馬鹿か!)
などと囁き合うのであった。
お八はいつも通りころころと猫のように変わる表情で嬉しそうに、
「二人共今日は泊まっていくよな! 外は大風だぜ?」
「あ、ああ。そうさせて貰おう。六科のところには今日は泊まりに行くと伝えてあるからな」
彼の住む六科の家には石燕が泊まりに行っている為に、九郎が[藍屋]に行っているという話は伝わっているだろう。
その頃石燕は九郎が居ないのをいいことに、彼の着替えを勝手に着てごろごろ転がったり彼の布団に潜り込んでふんすふんすしたりしているのだがそれを知る由は無い。
お八の母であるお夏がはしゃぐ彼女をたしなめる。
「お八。また恩人様と先生に端ない言葉遣いを……」
「あー……その……よ、ようこそいらっしゃいませた?」
「こなれておらぬなあ」
九郎は彼女の言い慣れぬ口調に苦笑いをこぼした。
「さあ九郎殿も先生もどうぞ客間へ。鮎を焼いて夕飯に出しますから……」
「うむ、すまぬな」
と、二人は案内されて奥座敷に向かった。廊下を歩く際、大粒の雨が風と共にけたたましく閉じられた雨戸に打ち付けられている。[藍屋]の彼方此方には行灯が置かれて足元を照らしている。
六畳間程の部屋に案内されて、とりあえず九郎と晃之介は敷かれていた座布団に腰を下ろした。
「くくく……なんとか中に入り込めたな……」
「悪党側みたいな科白を云うものじゃない」
「後は酒でも飲みながら盗賊を待つだけなのだが……」
言い淀んだ九郎に晃之介は問いかける。
「不安要素があるのか?」
「そうだな、一番いいのはさっさと早いうちに盗賊が来ることだ。一見物騒だが、己れ達が頑張ればすぐ解決する」
「ああ。その為に来たんだからな」
晃之介が首肯するのを見て九郎は二本指を立てた。
「いま一つ良くないのが、今晩盗賊が来ない事だ。楽そうに思えるが、いつ[藍屋]が襲われるか今後わからぬままになってしまう」
「……その場合はどうする?」
「ううむ……主人に事情を話して警戒を強めさせるか、用心棒を雇わせるか……」
[藍屋]の見取り図を持った盗賊が捕まれば安心なのだが、そう簡単にはいかないだろうことは想像がついた。
火盗改の者が毎日見張りをしてくれる程彼らも暇ではないのである。当時の江戸は人口の流入もあって治安も悪化しており、日置に火事や盗み騒ぎが起こっていたのだ。
できれば晃之介のような、武術道場の師範が用心棒だという噂を流せば盗賊も押し込みを行い難く成るのだが。
「ちなみに今晩起こったら最悪の可能性は、己れをここに呼び寄せておいた影兵衛が盗賊に扮して己れと斬り合いをする為に襲ってくる」
「知能の高い異常者でしかも公権側とは一番厄介な感じの相手だな」
「その場合だと己れ一人では危ういからお主を呼んでおいたのだ」
九郎は晃之介の背中を叩きながら言った。
「頼りにしておるぞ、先生よ」
「ごほっ」
軽く彼が咳き込んだ時に二人のいる座敷の戸が開けられ、膳が運ばれてきた。
落ち鮎の塩焼きと、小松菜を茹で生醤油と柚子の絞り汁をかけたおひたし、油揚げと昆布の煮しめが皿に盛られていて、酒の銚子もある。
持ってきたのはお八とお夏だ。少し老いた風貌であるお夏は頭を下げながら、
「手の込んだ物もありませんで……」
「いやいや、済まぬな、晩飯まで。十二分に有り難いぞ」
「御二方はお酒をよく嗜まれるらしいので御用意しましたがよろしかったでしょうか」
「ああ、俺も九郎もこれは大好物でな」
言いながら晃之介が手酌で注ごうとすると、母親の光る眼差しを受けたお八が硬い動きで動いて酌手を取って、
「し、師匠どうぞ」
慎重な手の動きで零さぬよう、晃之介の盃に注いだ。
上等な酒はあまり飲む機会のない晃之介は、
「うー……いけるな」
と、顔を綻ばせて注がれた酒を服する。
そして九郎にも、
「どうぞ……」
「今日は飲んでばかりの気がするな」
昼間も結構飲んでいたのだがとりあえず酒を受け取る。襲撃に備え、足元がふらつかぬ程度に止めておくつもりではあるが。
箸でとってきたばかりの鮎の塩焼きを解して食べる。初夏の頃にとれる新鮎よりかはいくらか見た目の瑞々しさと西瓜のような若々しい香りは減っているものの、落ち鮎は子持ちで白身のふっくらした味と腹に持った卵のぷちぷちとした食感がまた美味いのである。
江戸時代では落ち鮎は[子持ち鮎]や[さび鮎]などと呼ばれていて、見た目の色が新鮎よりも落ちていることから鶏卵を塗って火で炙り色をつけたり、醤油で照り焼き風にしたりとする料理法が伝わっているが、晃之介も、
「いや、鮎は塩焼きが一番だと俺も思う」
と、嬉しそうに身を齧るのであった。
九郎が煮しめに箸をつけるのを、隣でじっとお八が凝視してきた。
何事かと思いつつ、味付けされた油揚げは噛みしめるとじゅわりと甘い味と鰹節の辛めの出汁がよく染み込んでいて、中々のものだ。
「美味いな、これ」
「だろ! あたしが作ったんだぜ、あたしが! へへん」
「偉いのう」
自慢気なお八にほっこりと笑顔を返しつつ九郎は酒を飲んだ。
お夏が云うには、
「最近では九郎殿に料理を敗けぬとこの子も練習をしてまして……」
「はっはっは。らいばる視されておったか」
「私共も、嫁に行ったら殿方を台所に立たせるような事になるなと厳しく教えていますので何卒……」
「な、なにが何卒だよ母ちゃん! そんなことは言わなくていいよ!」
「?」
(何卒──ライバルで居てやって欲しい。そんなところであろう。目標があったほうが良いからのう)
と、九郎は考えつつ小松菜のおひたしに手を伸ばす。
小松菜の旬は冬であるが夏や秋でも種を撒けば収穫できる。また、一説によると小松菜と名づけたのは時の将軍・徳川吉宗が小松川で食べて美味かった為に命名したとも言われていた。
上に乗せられた柚子のまだ青い皮が程よい苦味と酸味を出し、味わい深い。
「師匠達の相手はあたしがするから母ちゃんは戻ってくれよ」
「そう? しっかりご迷惑をおかけしないようにね。お酒のお代わりでしたら幾らでもありますので、その時は申し付け下さい」
「何から何まで、厄介をかける」
「いいえ、九郎殿と先生でしたら、来ていただけるだけで家のものは喜びます故……」
そう言って柔和な顔でお夏はしずしずと下がっていった。
途端にお八は足を崩してほっと息をつく。
「はあ……息が詰まっちまうぜ」
「礼儀というものは若いうちから身につけておかねばならんからの。頑張るのだぞ」
「まったくだ。大名の前に行く時などに困る。……困った」
体験から語る晃之介は若干の気苦労を思い出している顔つきであった。
「それより九郎。今日はなんでこっちに来たんだ? 閉めだされたっつっても言えば開けてくれるだろ」
「いや、それがな。うちは今晩の飯が激まずで耐え難いものがあったので無理に帰ることも無いかと思っての」
「六科の兄貴、時々エグいの作るからなあ」
「うむ。それに比べてハチ子はちゃんとした味付けでいいぞ」
「そんなに褒めるなよ! あっお酒お酒」
お八は上機嫌で酌をする。
一方でその頃[緑のむじな]亭では失敗新蕎麦を石燕とお雪が打ち直して上等な味の蕎麦に仕上げていたのであったが、翌日に九郎が味わう分は残されていなかった。六科がばくばくと全て食った。
「あ、そうだ」
と、お八が思い出したように呟いてどたばたと座敷から走り去って、また布みたいなものを持って戻ってきた。
「九郎! 九郎に……ええとその、着物作ってるんだけど……ちょっと丈を合わさせてくれよ!」
「よいぞ」
着物の雛形を広げて九郎の背中から大きさを合わせる。肩幅から袖幅、身丈に脇縫を細々と布に印を付けた。
お八が楽しそうに、
「待ってろよ、今年中には作って渡すから」
「おう、楽しみにしておるぞ」
「ところで袖はさ、九郎はよく動くから先が細くなってる鉄砲袖がいいかな? 切れ込みが入った袂袖にしようか?」
「……いや、服飾用語を出されてもなあ。己れのふぁっしょん知識と言えば『こっとん鉄○』を読んでおったぐらいだから」
「なんだ、それは」
訝しげな晃之介の声に九郎が顎に手を当てながら応える。
「ふぁっしょん漫画なのに話の構成が流行ってた料理対決少年漫画みたいだった変なやつでなあ……出てくる服とか主人公のらいばるとか出た瞬間に呻くような怪しげな最尖端ふぁっしょんだったのが印象的だの」
「いや、知らねえけどさ」
はるか昔に日本で読んだ漫画であったが、数年前魔王の書架で発見した時に読み返したがやはり珍妙な漫画であった。とはいえこの時代の人に言っても意味不明なことだ。この世界でも1980年代はあんな尖ったファッションが流行するのであろうか。
若干未来を憂いている九郎に、たたみ直した着物を軽く彼の頭に、ぽふっと当てて、
「変な服の話はどうでもいいけどよ、ちゃんとあたしが作ったら着るんだぜ?」
「わかっておる」
「絶対だぞ! その……絶対……ちゃんと、貰って、くれよな?」
「? あ、ああ。それは当然」
何故か言葉尻が窄んでいく、もじもじしたお八の言葉に肯定した途端座敷の衾が開けられて、彼女の父の良助が入ってきた。
「話は聞かせてもらった。晃之介殿にも証人となってもらいます」
「なにの?」
「九郎殿には一度口にした以上ちゃんと貰って頂きましょう」
「着物をだよな?」
「……」
「なんとか言えよ!?」
真顔で押し黙る良助に妙な気迫を感じて確認の問いを投げかけるが、帰ってくる言葉は無かった。
九郎が謎の言質を取られている頃、石燕は九郎の部屋で彼が最近着なくなった異世界から持ち込みのジャケットを無理やり着込んで胸元をチャックボーンで破壊してしまっておろおろとしているが彼がそれを知るのは大分後になって久しぶりに荷物の整理をしてからである。
ともあれ晃之介はぐいっと酒を煽ってから、やれやれと首を振って冷笑気味に告げる。
「九郎……進んでるなあお前」
「知らん」
などとお八とその家族が入れ替わり立ち代り、妙なやりとりをしつつ[藍屋]での夜は過ぎていくのであった。
江戸の夜、多くの家は日没すれば早々と眠りに付く。野分で雨戸も閉め部屋には月明かりも無く真っ暗になるとなれば就寝時間も早くなる。
藍屋の店の者が全て寝入っただろうか。外の猛烈な風と雨音以外は人が活動している気配が消えていた。
九郎と晃之介は二人、座敷で簡単な見取り図を囲んで相談しあっていた。
厠に行くとき藍屋の一階を歩きまわり、間取りを大まかに製図したのである。
「外の壁の位置からして賊が入り込みやすいのはこの南の廊下に続く裏口あたりだな」
「表は頑丈な雨戸で補強してあったからな。裏口程度なら大木槌を使えば破れるはずだ」
「と、なるとこの廊下で迎撃するのが良い」
「ああ、そうしよう」
盗賊が来た時の対応を改めて確認した後、二人は壁に背を当てて座りしばし耳を澄ませたまま時を待った。
子の刻を過ぎた頃だろうか。吹返しの風が最も強くなった気がする。江戸の細い通りを無理やり入り込む風が山鳴りのような音を立てている。
時折外で桶か何かが飛ばされた音もする。そんな中、九郎は確かに裏口付近から破砕音が紛れ、店に風が吹き込む空気の変化を感じた。
お互いに言葉も交わさず、晃之介も脇差しを手に立ち上がる。二人は滑るように現場へと向かった。
廊下の端まで来た時にはもう裏口の方向から薄い明かりを見せる提灯を持った人影が見えた。店の中は完全に暗いので明かりが必要だが、使っても雨戸で光が外に漏れることはない。
九郎も晃之介も夜目が利く。
盗賊たちは恐らく全員中に入ってきた筈だ。通常の盗み仕事ならいざ逃げるときの為に出口を見張る役をつけるかもしれないが、嵐に紛れて盗み働きをする連中である。いかに店の者が騒いでも外に漏れる事は無い。
廊下を進んでくる一団を無言で誘うが、
「待て」
と、盗賊達の先頭に立つ男から制止の声が上がり彼らは動きを止めた。
その男は腰に帯びた刀をゆっくりと抜き放ち、薄暗い先に廊下を塞ぐように立っている九郎と晃之介を蛇のような目つきで見ながら、
「この店の用心棒か……? 我らを察知したとは中々のぬっ!?」
くっちゃべり出した男へ九郎と晃之介が次々に薪を投げつけ出した。竈から十数本拝借していたのである。
闇に凄まじい早さで飛来してくる薪の一本を男は抜き打ちで切り払い、もう一本を身を捩って躱した。
続けざまに薪がどんどん飛んでくる。二の腕ほどの大きさの棒とはいえ余人が放ったものではない。当たれば手酷い打撲を負うだろう。
この狭い廊下で一発、二発避けることが出来ただけでも奇跡的なのだがまったく容赦なく二人は薪殺法を続け、十本目程で全身打撲の上に顔面に薪が直撃したちょっと凄腕風の男は実力を発揮することもなく床に沈んだ。
相手が影兵衛だった場合、遠距離から倒すために用意した算段であったがとにかく誰であれ襲ってきた相手に使わぬ手はない。
おそらく一味の頭か、手練が倒されたことで盗賊に動揺が走る。
九郎と晃之介は駆けた。
「迷惑になるから殺すでないぞ」
「わかっている」
身を低くした踏み込みで九郎は盗賊達の横をすり抜ける。薄暗い廊下では影のようにしか見えないだろう。最後尾で何が起こったかわからないままの賊の脾腹に当て身を叩き込んだ。
「ぐぬ……」
と、苦痛の声を出して、寝静まった商屋を襲うだけの仕事と油断していた賊は、一撃で内蔵がはじけ飛ぶような痛みに襲われて倒れ伏す。
九郎が退路を塞ぐ形で、晃之介が先頭から順に峰を返した刀で肩や膝を叩き割って戦闘不能にする。
逃げようとすれば既に後ろに回った九郎から薪で殴り倒され、また背中を向けたら晃之介は見逃さずに一撃を入れて打ち倒していった。
盗賊の全てを倒すのに五分と掛からなかったのではないだろうか。
手はず通りに用意していた縄で全員縛り付けた後、主人の良助へ報告に行った。
彼は捕縛された賊共を見て大いに驚きながら、拝むようにして感謝の意を二人に告げる。
「おお……まさしく、御二人はこの店の守り神でございますなあ」
「言い過ぎだ。己れらはただ居合わせただけよな、晃之介」
「そうだな。日頃世話になっているんだ。危ない時ぐらいは役に立つ」
兇賊と相対したというのに気疲れも無く笑いながら応える二人はやはり只者ではないと、良助も舌を巻くのであった。
夜が明けてから番屋でも呼ぼうと、裏口の土間に盗賊連中を転がしていると目を擦りながら寝間着姿のお八が手探りでやってきた。
「ん……なにやってるんだ……? 九郎も師匠も部屋に居ないし……?」
「おやお八、起きたのかい? いや九郎殿と晃之介殿がまたしても盗賊をお捕まえになってね」
「……んだって!? な、なんだよ師匠! 盗賊退治ならあたしにも教えてくれよ!」
顔を振って目を覚ましたお八が慌てたように晃之介に言うが、彼は軽くお八の頭を抑えて、
「お前にはまだ早い」
「そうだ。お八や、お前はちゃんと九郎殿が守って下さるから危ないことはしなくてよろしい。ねえ九郎殿」
「でもよ……」
不満そうな彼女に苦笑しながら九郎が軽い調子で、
「そうであるなー」
と、云うと九郎の両肩を後ろから良助がしっかり掴んで喜ばし気に、
「ほら九郎殿もこんな──お八の事は一生守ってやるという覚悟に満ち溢れた宣誓をして下さっているぞ!」
「ちょっと待て」
「九郎……」
「なんでハチ子も信じちゃっておるのだ」
やや顔を赤らめているお八と、妙な勢いを感じる良助に不可思議な策略を九郎が感じていた時である。
既に破られた裏木戸に、簡単に板を立てかけ塞いでいた場所が再び外からの衝撃で破壊された。
一拍置いて、柿色の盗人装束の男がこそこそと、
「へっへっへ……野分の日に押しいりゃお釈迦様でも起きるめぇ」
などと言いながら入った来た。
別件の盗賊のようである。
そして裏口にいた四人と目があって、固まった。なんで野分の夜中に裏口に家の者が居るのだろうか。理解不能な脳と視覚が捕らえたのは、転がされた呻いている盗賊達とゆらりと近寄ってきた九郎である。
ツッコミ混じりな九郎の拳が盗賊の顎に突き刺さる。
「──やたら盗賊入るなこの店!?」
結局、晃之介と二組目の盗賊を店の外に出てまで全員捕まえてきたのであった。
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昨晩に捕らえた盗賊総勢十七名を荷車に鮨詰めに乗せて九郎と晃之介が、火盗改の役宅まで運んだのは雨の止んだ朝早くの事であった。
もっとゆっくりとしていけば良いという店の者の言葉を、いつまでも盗賊を置いておいても気味が悪いだろうと二人は固辞して出て行ったのである。
すっかり[藍屋]では九郎と晃之介の株が鰻登りになったようだ。特に他所で居候をしている九郎などは再三、[藍屋]に住まないかという誘いを受けるのだったが、今の所に義理があるなどと適当に理由を語って断るのであった。なにか、[藍屋]に住むとまずい予感があったのだ。
火盗改の役宅では、昨日の捕物でごたついていたものの、晃之介が以前に[似非同心]逮捕事件で顔が知れていた事と、影兵衛が取りなしてくれたので然程手間取らずに盗人を引き渡す事ができ、簡単な調書で帰された。詳しくはまた[藍屋]の主人に伺われるだろう。
捕まえた盗賊の、先か後かは分からないがとにかくどちらかが[藍屋]の嘗紙を持っていた事も判明し一安心である。
晃之介が眠気をこらえながら己の道場に戻れたのは昼九ツ(今の十二時頃)ごろであった。
道場の雨戸を外して、少しばかり昼寝でもするかと考えながら辿り着いた彼は異臭に気付いた。
(これは……?)
と、思いよく見れば、道場の隣に立てた厠が大風で根本から倒れていた。
ついでに雨水が流れ込んだ厠の穴が溢れて、中の肥水溶液が外に溢れ広がり便臭を台風一過の日差しの下で強烈に放っている。
(──九郎の呪いだ。)
晃之介は確信しながら、頭を抱え寝場所を借りようと便臭立ち込める道場から[藍屋]へと足を返すのであった。
できればもう一度野分が来て全てを洗い流してくれないだろうかと願いながら。
この臭いによりまた六天流道場の評判が下がった。当人の意志とは関係なく、それでも残念なことに。




