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72話『天狗の試練と九郎の子供』



 ──山道を滑落に似た勢いで転げ落ちる。


 九郎は必死で頭を両手で守りながら、足を踏ん張りブレーキを効かせようとしていた。手足は既に擦り傷だらけで、打ち身は骨の髄まで痛むようだ。

 自分が数メートルある谷底に落ちたのに続いて上からこぶし大の石塊いしくれが、転がるというか投げつけられるように襲いかかる。当たりどころが悪ければ死ぬか、骨ぐらいなら折れるだろう。

 歯を食いしばりながら全身のバネを使って立ち上がった九郎は複数飛んでくる石の軌道を見切り、躱せぬ一つを掌底で弾きながら体勢を整える。

 石塊に続いて飛んできたのは人型である。ふわりとした軽い落下速度で、手に持った杖で打ちかかってくる。

 その人型は白装束に頭巾と天狗面で足先から頭のてっぺんまで覆われている天狗であった。杖には茨棘が巻きつけられていて、毒が塗られているようだ。


「ええい、天狗めが!」


 相手の動きは緩慢だったが油断せずに、九郎は引き絞った拳を天狗の胴体中央にぶち当てる。

 だが手応えがない。布切れ一枚を打ったように思ったかと思うと、天狗であったものの四肢や背中から無数の鴉が飛び出して四方に飛び去り、九郎の手元には白装束一枚が残った。

 

「鴉を調教して天狗のフリをさせるなどと……もう妖術に近いだろう」


 さっきからこの中身が鴉な天狗を数体も倒しているが、どれだけ鴉を仕込んだというのか。

 鴉が如何に人間の幼児並に知能があると言われるとはいえ、これだけ化ければ立派に妖怪である。


「大天狗め……絶対に破魔矢を頂いてやる」


 九郎は修験服の袖で額の汗を拭いながら、真っ当な登山道ではない森の道を──登山道には閉山しろと言いたくなるほど罠が仕掛けられていた──ひたすらに駆け上がるのであった。

 




 ******* 



 事の起こりは暫く前である。

 

 夕鶴の出産が近づいているが若干遅れていることもあり九郎は落ち着かぬ日々を過ごしていた。

 そわそわと夕鶴の周りをうろついたり、水垢離をしてみたり、思い立ったように女体化して出ていったり。

 初子が生まれる焦燥で女体化する父親はそう居ないだろう。それぐらい緊張していた。


「慌てずとも大丈夫でありますよ。美味しいご飯食べて適度に運動して、お腹のややこも元気って感じがわかるでありますし」


 夕鶴は気楽そうにメシを食いながらそう言う。


「大体これまで、子興さんとかお雪さんとか御主人様が居ない間にあれこれお産を手伝ってきたけど、長州の下級武士なんかよりよっぽど江戸の町人の方が良い環境でお産してるでありますからね」

「そ、そうなのか?」

「ここは屋内で産婆さん──まあ、知り合いの間だと将翁さんがやってるでありますが──があれこれ手伝って出産するでありますけれど、田舎の農民や郷士ぐらいになると汚い馬小屋に押し込められて出産であります。弟妹が生まれるとき手伝いしたでありますが、こりゃ死ぬなーって思ったぐらいであります」

「ぞっとせんな……」


 日本では長いこと出産は穢れを伴うとされて人に忌避されてきたので、同じく穢れた馬小屋などで産むことで穢れが他に漏れないようにしたという。

 しかしながら江戸の超密集住宅環境では一々そのような場所を用意することもできないので、必然と町人は室内で、そして近所に一人はお産の手伝いに長けた者が居るのでそれに頼んで行ったという。

 更には九郎の自宅ならば他と比べても清潔であり、栄養状態はよく、医者が二人も住んでいるので万全の体勢ではあった。


 しかしながらそれでも、自分の体の事ではないから九郎は心配しっぱなしである。

 落ち着かぬように既に子供が居る知り合いを梯子して話を聞きに行き笑われたりもした。

 彼がそこまで心配するのも、九郎の母親は体が弱くて彼が12歳の頃に弟を産んだのだが、これがまた非常に死にそうになっていた記憶があったのだ。

 産後に三日三晩は半死半生であった。まあ、駆けつけてきた九郎の父親からは「お母さんはどんな難病や重傷でも三日で治る体質だから」と子供だましのような言葉を掛けられたが到底安心できなかったのである。実際に治っていたけれども。


「ぬうう心配だのう……また安産祈願の壺とか買ってしまった……また豊房に怒られる……」


 以前ならばこのようなインチキ商売は小馬鹿にしていたのだが、自分が追い詰められるとなるとハマる気持ちがよく分かる九郎であった。

 壺を抱えて家に帰ろうとしていると声を掛けられた。


「やあ、菓子屋の。元気かね」

「ん? ああ、寄合の……山末(やますえ)爺か」


 九郎の話しかけてきたのは彼が菓子屋を出している根津の町寄合──土地持ちの町人らが集まっている持ち回りの纏め役をしていた、山末という猿顔の老人であった。

 何度か顔を合わせたこともあり、何をしているか詳しくは誰も知らないのだがどうやら関東で活動をしている修験者らとも繋がりのある男だ。

 老人は人の良い笑みを浮かべながら九郎を緋毛氈敷の茶店に誘って、店先に座らせる。


「子供が生まれるそうだね」


 何処から聞いたのか、或いは案外に有名なのか老人はそう切り出した。


「うむ。この歳になって恥ずかしいことだが……」

 

 百歳越えの初子である。これまで碌な暮らしをしていなかったという証左のようで、何とも面映い気分を人に冷やかされる度に感じていた。

 だが山末は感慨深く頷きながら、


「いや、いや。幾つになっても子が生まれるというのはめでたい事だ。それで、安産祈願のお守りを探しているのだとか」

「こんな壺に効果が無いとは、頭の中ではわかっているのだが……」

「日枝神社にはもう行ったのだろう」

「うむ……有名所の神社には全部通った気がする」

 

 神田明神、亀戸天神、湯島天満宮、富岡八幡宮などなど、ご利益があるのか無いのかわからなくてもとりあえず神頼みはしてきた。

 

「結構、結構。どうすることもできぬことは、神に祈るのが最後の手段だ。というわけで菓子屋の。こんな壺ではなく修験者に伝わる非常に霊験あらたかな安産祈願に子孫繁栄の破魔矢について教えてやろう」

「なに?」


 お祈りグッズに敏感になっていた九郎は興味深げに問い返した。


「かつてはその御利益を広くに齎し、独自の宗教文化を根付かせていたことから天下を我が物にしようとする徳川家康によって潰されてしまった大山の修験者がご神体にしていた破魔矢だ。これを家に持ち帰れば、一族安泰は約束されたようなものだ」


 大山信仰のご利益は雨乞い、病気快癒、災難除けが主なのだが、『大山寺縁起絵巻』には子宝祈願を示す説話などもある。

 また大山で祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)は同じく良縁や子孫繁栄にも関わる神で、九郎と夕鶴も参拝した日枝神社の主祭神でもある。


「それは何処にあるのだ?」

「丹沢の大山を根城にしている大天狗、伯耆坊(ほうきぼう)が持っている。既に話を通して、お前さんに渡すように伝えてある」

「……なぜ? 己れにそんなものを?」


 訝しげに九郎が聞く。

 大天狗というと半分妖怪のようになった修験者として実在しているような世の中である。それ相手に、大事な道具を一般人……まあ関係者目線から見ても新人天狗に渡すとは相当な口利きが必要だろう。

 だが山末老人は手を振りながら告げてきた。


「なに、この前に修験者らの面倒を解決して貰ったことへの礼と……伯耆坊もお前さんに会ってみたいのだそうだ」

「大天狗が?」

「自分の縄張りに出た天狗だからなあ。矢を渡す条件として、お前さんの妖術道具を持ち込まずに山頂まで来るようにとのことだ。恐らく妨害なんかもしてくるだろう。天狗の試験だな」

「うーん……」


 神奈川の大山に行くにはそれこそ飛んでいったら半日と掛からずに山頂へ降り立てるのだが。

 麓から登ってくるとなればかなり大変であるように思えた。

 しかも妖術道具を封印となると、術符は勿論疫病風装も駄目だろう。そうなると中々に不安である。


「効果のある物こそ手に入れるのが困難なものだ。それに、嫁が大変なのにお前さんが何もできない不安もあるだろう。ここは一つ、天狗と勝負をして一家の安心を勝ち取って来てはどうかな?」


 図星を突かれたような気がした。

 出産で色々気を揉んでいるが、一番大変なのは夕鶴や嫁らであり、その間に九郎に何が出来るというのか。

 知り合った何処ぞの世間知らずの娘におむつを履かせたり、女体化して男を誑かしたりしていてもひたすら「こんなことやってる場合ではない」という意識は心の奥底にあった。

 何か彼女らの為にしなければならないが、現実として十分な環境は既に整っているので九郎がやらねばならないことは無いのだ。それが歯がゆいのであった。


 結局。

 九郎はその山末老人の言葉に乗せられて大山まで天狗試験を受けに行くことにしたのであった。

 屋敷に戻り、怪しげな壺を置いてまたかという目で見てくる女たちに、


「大山まで安産祈願の破魔矢を取りに行ってくる。少し時間が掛かるかもしれんが心配するな」


 そう告げて返事も聞かぬほど慌てて空を飛んでいくのであった。

 下手に時間を掛ければ夕鶴のお産に間に合わないかもしれないのだ。


 とにかく、九郎という男は初子の誕生を前に大慌てだった──





 *******





 ひとまず九郎は伊勢原の宿場に降りて、彼が繁盛させた夫婦宿を訪ねた。

 大山詣りのメインシーズンは夏場であり、そろそろ山には朝夕霜が降りようかというこの季節では客も少ないようだった。

 九郎は入ってすぐさま馴染みの女将へと頼み込む。


「大山詣り用の装束を貸してくれ。あと、荷物を預かってくれ。走って登ってくるから」

「いきなり来ていきなりだねえ天狗様」


 女将は呆れたようだが、客の為に用意していた白装束と木太刀を貸してくれた。


「今から大山に登るのかい?」

「うむ。ちょいとそこの大天狗に用事があってな。飛んでくるなと言われておる」


 九郎はというと、この宿では大山から飛んできた天狗の一人だと半ば本気で思われているので、そういうこともあるのかと女将は納得をする。


「なんだか知らないけど、ここひと月ぐらい大山詣りの客が、大山に入ったと思ったら気を失って麓に置かれていたとか、道に迷って同じところをぐるぐる回った挙句にいつの間にか下山したとか、そういう話ばっかりで登れないらしくてさ。気をつけて」

「ううむ、ひょっとして件の大天狗の仕業かもしれんな」


 天狗の妨害もある試験のようなものだ、と山末は言っていたが、無差別に他の参拝客の登山も阻んでいるとすれば迷惑な話であった。

 九郎は疫病風装と着物を脱いで術符フォルダを取り首の術符も外す。これで怪力すら使えなくなる。体に刻まれた回復の術式は外せないのでそのまま行くしかない。

 

「晩御飯どうします? 天狗様」

「お部屋用意しときましょうかー?」

「いや、急ぎだから別に要らん……お主ら。己れの着物に何をしておるのだ」


 脱いだ九郎の着物をフンガフンガと嗅いでいる板子と女中のお菊に半眼で告げる。


「ほつれが無いか」


 何事も無いとばかりに板子は九郎に弁当の握り飯を包んだ藁を渡してくる。


「確認してるところで」


 同じくお菊も水筒を九郎に差し出した。フガフガしながら。


「……そうか」


 あまり深くは気にすまい。九郎はそう判断してひとまず宿を後にした。

 安産祈願のための願掛けのようなものだ。とりあえずその破魔矢に本当に効果があるかどうかは不明だが、何かしら嫁の為に動いていないと落ち着かないのだ。

 普段首に付けている相力符すら外していることで、驚異的な身体能力は無いが体力だけは湧いてくる。九郎は走って大山の麓へと駆け出した。

 

 



 *****




 参拝客が追い返されるという大山の現状では、山の神が怒っているのではないかという連想に人々は容易く行き着く。

 そこから先が本格的な山岳になる中腹の大山寺とその宿坊や観光施設で暮らす人々は祟りを恐れてそれとなく参拝客を追い返すようにしていた。

 しかし九郎は走って大山寺に入り、そのまま走って突破して行ったので誰も止めることはできなかった。 


 飛び跳ねるように山道を進んでいく。石から石へ飛び移り、木の根を蹴って前へ駆けた。

 

(妨害してくるにも、それより先に進めば多少はやりにくかろう)


 そう考えての事だった。身体能力を強化せずとも、バランス感覚と運動神経に優れた九郎は問題なく荒れ果てた山道を走ることができた。

 江戸時代でも年間十万人以上が訪れる観光地だというのに道がかなり荒れているのは修行のためも兼ねてだろう。折角大山に来た参拝客も、スイスイとロープウェイなどで登るよりは多少苦労した方がありがたみもある。時間さえ掛けてゆっくり進めば素人でも登れないほどではない。

 現代よりも更に道が荒かったとされる大山は江戸時代に書かれた物の本には『足場悪し、雨多く道崩れる』『度々水溢れ登ること能わず。道中の印消ゆ』などと書かれていたこともある。

 

(それにしても……いや、合ってるのだよな? この道)


 修験者が付けたと思しき指示に従って九郎が進んでいると──


《天狗落とし》


 と、山の何処からか声が響いてきた気がした。

 同時に九郎が踏んだ岩がスッポ抜けるように崩れ、草むらで隠れていた崖に落ちようとする。

 慌ててその岩を蹴って元に居た道に跳び──道ごと崖崩れを起こした。


「うおおお!?」


 さっきまでそこに崖があったことさえ気づかなかった九郎は咄嗟に杉の木に飛びついて危ういところで難を逃れる。

 大きく傾斜した杉の幹に登る。急いで崖の崩れていないところまで移動せねば、この樹木もいつ倒れるかわからない。

 バランスを取って根本に移動していると、


《天狗の落石》


 また、声が聞こえたかと思うと九郎の目の前──足場にしている杉の木の根本に一抱え程の岩が何処からか落ちてきて幹に直撃。 

 その衝撃で木が大きく押されて、崖へと真っ逆さまになる。

 九郎は幹に捕まって崖の表面を柱に乗ったまま滑り落ちていった。 

 

「なんだこれはあああ!?」


 そして沢にまで落ちて水しぶきを上げて樹木は止まる。九郎は憎々しく滑り落ちた崖を睨むが、ここから登るのは難しいように感じた。

 疫病風装を呼べば別だが、術は使わない約束ではある。

 飛沫で濡れた装束が体に張り付くのを鬱陶しく感じながら、九郎は沢から上がろうとする。

 

「……?」


 沢の苔が付いている部分が妙に目立った。


「妙にこの沢、水が少ないような……マズイ」


 ご、ご、と上流から激しい音が聞こえてきて九郎は飛びつくように岸へたどり着き急いで登る。

 

《天狗の山水》

 

 鉄砲水である。何者かが上流で意図的にせき止めていたものを、九郎が下流に落ちたと同時に解き放ったのだ。

 大山は通称雨降山というだけあって水量が多く、山の中に無数にある沢でも水を貯めれば強烈な勢いになる。

 その場に留まっていれば水と同時に流れてくる石や木によって全身を打たれ、また流された衝撃であちこちに叩きつけられていただろうが間一髪で九郎は逃れることができた。


「……殺す気満々ではないか。上等だ、大天狗め!」


 九郎は傾斜のキツイ崖を四つん這いで這い上がり、どうにか斜面の緩やかな上り道を探して足を踏ん張り駆けていく。

 しかしその先々で、鴉の擬態した天狗や隠された崖、落とし穴に転がってくる丸太などが九郎の道を阻むのであった……





 ******





 本日何度目かの崖を這い上がった九郎は、さすがに息を切らして岩に腰掛けた。

 体中が痛む。幾ら受け身を取っているからといって、数メートルの崖を幾度も転げ落とされれば打ち身は数知れず、頭も揺らされて精神的な疲労も溜まっていった。

 幾ら自己治癒力が高いとはいえ負傷する端から治っていくわけではない。特に片腕など骨にヒビでも入っているのではないかという痛みが続いている。体勢を崩したところで天狗が襲ってきて尖った木の棒で刺してきたのを防いだせいで、手のひらなど貫通して血がまだ止まっていない。

 

「いかんな……転げ回されすぎて現在地もどれぐらい登ったのかもさっぱりわからん」

 

 頭が軽く眩々(くらくら)とした。方向感覚も距離感覚も惑わされている。まっすぐに山頂を目指せばいずれ登頂できると進んでいたが、ちゃんと登れるか怪しくなってきた。

 道という道が崩れる可能性があるのだ。何らかの人為的細工が仕掛けられているのだろうが、大山の山体が変わりそうな勢いである。

 九郎は埒が明かないとばかりに木太刀を杖に立ち上がり、声を張り上げる。


「大天狗め! 隠れていないで出てきたらどうだ! お主が山を崩してでも妨害するのならば、己れは山を燃やしてでも突破するぞ!」


 こうなれば一か八か、山頂到達ではなくこの罠を仕掛けた大天狗伯耆坊を直接叩くことで破魔矢を奪おうと九郎は考えた。

 罠に自ら突っ込むよりは相手を誘い出した方がマシだ。散々掛かって於いてなんだが。

 九郎が呼びかけると、やはり前後左右どこともわからぬ方向から笑い声が響いてきた。


《カカカ! 術を使えぬお前が、この山にどうやって火を放つつもりだ!》

「むう。呼びかけたら応えるならさっさと出てこい」


 そう言うものの、伯耆坊は様子を伺っているのか出て来る気配が無い。

 

「……上等だ。幸い今日は天気が良いからな」


 九郎は立ち上がり周囲から落ち葉を集め始める。更に乾燥している枝を拾って石で潰して解し、燃えやすいおが屑を作った。

 それから念のために持ってきた貫文銭を解いて一文銭を取り出す。

 その銭の穴に水筒から水を垂らすと、表面張力によって穴に水の膜が出来上がった。

 水の膜をレンズ代わりにして太陽光を集めて落ち葉を照射する。じっと数分待っていると、ブスブスと煙が出始めた。

 九郎は本気である。苛ついたので山に放火する系の主人公の悪行が今まさに──


《天狗の雨宿り》


 ──にわかに雨が降り出して、九郎の顔がまったく目が笑っていないのだが、笑ったように引きつった。


「あの野郎」


《天狗風》


 更に暴風雨となり、九郎は顔を押さえながら逃げるように雨風を遮れる場所へと走って下った。

 一時撤退だ。全身打ち身の上に血もかなり流していて、ついでにこれほど先を読まれて心を乱されればまともに戦って勝てる相手ではない。

 もはや山の神並の存在となった伯耆坊はあたかも天候まで操るように思えて、酷く己の無力を感じる九郎であった。





 ********





 逃げていく九郎を木の上から見ながら伯耆坊は薄く笑みを浮かべる。

 天狗の総元締めである山末から頼まれて九郎へと天狗試験を受けさせることになったのだが、これがまた大変な作業であったのだ。

 伯耆坊は大天狗という名目だが、大山修験者の頭領が代々受け継いでいる人間でもある。

 先程から妖術の如く襲い来る土砂崩れに落とし穴、道の封鎖から偽装山道は、一ヶ月以上掛けて修験者たちを使って用意した理不尽な罠まみれの舞台装置である。

 山中のあちこちに修験者が忍んでおり、九郎の動きを見て都度罠を発動させ、彼を次々に弱らせていった。手加減は無かった。そもそも崖崩れでどう手加減しろというのか。運が悪ければ一発目で頭を打って死ぬだろう。

 暴風雨は山風と、よく雨の振るこのあたりの天候では珍しくもなく、九郎がどういう行動を取ろうが吹き荒れる算段だった。

 これだけ準備すれば軍に攻められても撃退できる自負もあった。この山を慣れ親しんだ伯耆坊ならば突破できるが、他所の山の修験者でも命が危うい。

 

 いや、果たしてほぼ不可能なのだ。集団で見張られ、人為的に崖崩れを頻発させ、弱り目に祟り目とばかりに追撃の罠が襲いかかるこの山を何も知らない者が登るのは。例え腕の良い忍びでも怪しんで進むのを止めるだろう。

 

「さてはて、あの天狗がどう出るか……魔縁まえんにならぬようにさせよとは山末様からの指示だが……」


 魔縁というのは天狗の種類で、驕りきった修験者が魔界に堕ちて人に害をなすようになった悪天狗である。

 かの九郎という者の諦めの悪さ、苛立ちを見れば大凡これまで、自らの望むままに生きてきた事がわかる。

 普通の者ならば山の神が荒れているというだけで怯み、山中で崖が崩れただけで天狗の仕業と慄き、這々の体で逃げ出そうとするものだ。

 人はそうして山を畏れ、崇めることでとても自然の力に敵わぬ人間という存在を認めて驕りを捨て生きてきた。


 しかしながら九郎からは、いざとなれば自分の力でどうにかできる、という自負が見て取れた。

 それではいずれどうにもならぬ際に魔の物へと転じて大魔縁となり大きな災いをもたらすかもしれない。それを山末は危惧したのだろう。

 九郎という妖術使いにして新人の天狗は、業界では案外に注目されているのであった。

 

「大事なのはあれが負けを認め、素直に山の神への慈悲に縋り、懇願することだ」


 そうすることで山岳信仰の天狗と認められ、これからの天狗社会の一員になれる。天狗会報誌とかも送られてくるし、温泉旅行の案内も届くようになってモグリ天狗と比べても一人前の扱いになるのだ。

 素直に山の神に呼びかけて願うようならば、霊験あらたかな破魔矢を渡す準備はできているのだ。

 

「さあどうする九郎天狗……もしお前が妖術を使って挑むようならばこちらにも考えがあるぞ」


 どうやら一旦山から抜けて、宿場へと戻ろうとしていると報告を受けて泰然と構える伯耆坊。

 今回、彼に敗北を味わせる為に術を封じた状態で挑ませたが──有名な飛行や落雷、炎の術などを駆使してくるならば伯耆坊たちの対策も決まっている。


「その時は山頂に捨て台詞を書いた手紙を残して即座に逃げて隠れてやる……! 破魔矢も手に入らぬし、腸が煮えくり返るほど後味が悪くなるだろう……!」


 伯耆坊は恥ずかしげもなくそう言い放って、九郎が再び挑んでくるのを待っていた。





 ******





 あの罠だらけの山で雨風も強いとなれば、日が暮れれば自殺行為だと九郎は一旦伊勢原の宿まで引いた。

 体中泥だらけ、打ち身の箇所は腫れて傷口は固まり、髪の毛はぐしゃぐしゃで酷く不機嫌そうな九郎が帰ってきたので宿の者も慌てて、ひとまず熱い風呂でお菊が背中を流してやり、旨い食事を板子が手ずから食べさせ、女将が包帯やらを巻いてやって落ち着かせた。

 このままでは収まりも付かない。布団を一組敷いているお菊を見つつ、板子から勧められた茶を飲んで九郎は呻く。


「まったく、あの大天狗めどうしてくれようか……やはり術符で攻めるか? いや、下手に見せたら逃げるかもしれん……相力符を目立たぬところに巻いて、軽功を使って山を飛び跳ねて行こうか……」


 体を軽くし一跳躍で木々の間を飛び跳ねることも可能な軽功での移動術だが、力加減が難しいために素の身体能力では連発すると失敗するのである。それでも崖から落ちる際などに咄嗟にやって被害を押さえていたのだが。

 

「むしろ隠形符で姿を消して行くか……いや、隠れてそうなところを透明化して探してやるのも……」


 何はともあれ、明日にならねば再登山もできない。こうなれば意地でも天狗に勝利してやらねば、という九郎の気持ちから、ひとまずこの宿に今晩は厄介になるかと思った。お菊がいい笑顔で布団をパンパン叩いている。

 

「しっかり干してるから気持ちいいですよーう」

「そうか」

「明日も干すから大丈夫!」

「何が?」


 そんなことを言ってると、一階から咳き込むような犬の鳴き声が聞こえてきた。 


「ぶふん」


 それから女将の、


「なんだいこりゃ。ひょっとしてお参り犬?」


 あちこちの宿場で噂される、首元に銭をぶら下げて東海道を旅する犬のことである。その銭で食事を買ったり、或いは施しを貰ったりして伊勢や江ノ島へと向かっていると噂され、江戸時代に幾度も目撃例があった。

 九郎が何処かで聞いたような鳴き声に、宿の玄関まで降りてきてみると、


「む? 明石ではないか。どうしたのだ、こんなところまで」


 九郎が神楽坂の屋敷で飼っている犬の明石だった。土間に置かれた足洗い用の水桶から水をビチャビチャと飲んでいる。

 

「ぶふっ」 


 明石は九郎の方を向いて首元を上げると、そこには細長くて物を縛るアレが首輪のように巻かれて、文が縛り付けられていた。

 それを抜き取って九郎が読むと、夕鶴からの手紙であるようだ。

 内容は、


『御主人様が色々と気遣ってくれてるのはありがたいのでありますが、自分にとって一番嬉しく、子を安心して産めることは御主人様が朝夕側に居てくれることだけであります』


 手紙を読んで、九郎は冷水をぶっかけられて頭を殴られたような衝撃で正気に戻った。

 天狗をやり込めることが重要なのではないし、謎の霊験あらたかな道具を手に入れることも大事ではない。

 一番大事なのは、お産が近づいていて不安になっている嫁の近くに居てやること。

 焦り、慌てすぎてそんな簡単なことも失念していたことを思い出されて、冷や汗すら浮かんできた。

 こんなところで臨月の嫁を置いてワクワクアスレチック登山や放火を企んでいるのを客観的に見て馬鹿のように思えたのだ。


「こんなところで浮気をしておる場合ではない」


 なおこの場合の浮気というのは夕鶴ではなく天狗退治が第一目標になったことへの比喩であり、宿に泊まろうとしていたことは何も関係がない。言うまでもないことだが。

 九郎は急いで部屋に戻り術符と疫病風装を持ち出して皆に告げた。

 

「己れは帰る。世話になったな。ええと、この小判は礼だ取っておけ!」


 財布から小判を出して女将に渡すが、突然の宿泊キャンセルに彼女は目を白黒させる。


「あっちょっと天狗様!? 大山に入れない件は!?」

「後でなんとかする! よし明石、背負うから暴れるでないぞ!」

「ぶふっ」

「またなー!」


 九郎は犬を背負ったまま夜空を飛んでいき、江戸へと戻っていった。

 何処か不貞腐れたようにお菊に板子は見送って手を振るのであった。





 *******





 夜も更けてから九郎は屋敷に帰り着き、既に皆は就寝しているようで灯りも消えていた。

 そっと雨戸を外して屋内に入り、夕鶴の部屋へと入る。

 彼女の寝床に隣接して空き布団が敷かれていて、九郎は静かにそこに入った。布団の中は冷たかったが、隣の夕鶴から伸びた右手が九郎の布団に入り込んでいて、そこだけが温かった。

 

(すまんなあ……)


 九郎はなんだか泣きそうになりながら、夕鶴の手を布団の中でさすってやった。

 眠るまでずっと、温かい手を撫でていた。




 その日から九郎はあまり外出もせずに夕鶴と──豊房やお八もあまり出かけずに居るので彼女らとも──屋敷で過ごしていた。

 これまで焦燥感に突き動かされるように出かけて何かをせねばならないという強迫観念から解放されたように、穏やかに嫁たちを労って穏やかな一日を送るようになった。

 

「んー♪ 九郎くんの腕枕で二人並んで怠けるのは快適でありますな!」

「そうかえ」

「今に子供が生まれて、間に一人入れて幸せな川の字になるでありますよ」

「そうだのう。それは何とも、幸せそうだ」


 こうしていると天狗にボコボコにされながら安産祈願の矢を取りに行く意味がまったく意味不明なぐらい、夕鶴の体温を感じて九郎は安心していた。

 嫁に妾に阿子にスフィからも心配しすぎだと説教を受けたほどだ。あの頃はどうにかしていた、と九郎も思うのであった。



 それから数日後の夜中、夕鶴が産気づいて将翁にスフィが手伝い、九郎も右往左往しながら見守り──

 

 彼女は立派に女の子を出産したのであった。


 九郎は初めて自分の赤ん坊を抱きかかえて、


「おお、おおおお……これが……己れの子か……」


 顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと涙をこぼした。

 百年以上生きてきて初めて自分の子が生まれるところに立ち会えたのだ。

 

(生まれてきてくれてありがとう。己れを愛してくれてありがとう。生きてきて、よかった……)


 心からそう思って、九郎は赤子と、夕鶴を抱きかかえて泣くのであった。

 百年生きたからこそ堪えられない涙がそこにはあった。



 こうして九郎に長女が生まれた。

 名を初めての子供故に、お初と名付けられたという。

 多くの九郎の知人から祝福された彼女は、よく笑う太陽のような娘であった。








 ********






 伯耆坊はまんじりともせずに数日待ち続けて呟いた。


「来ない」


 待てど暮らせど九郎天狗がやってこないのである。

 帰ったのでは?とも思うが、これがまるで巌流島の決闘ではないがこちらを焦れさせる作戦の可能性もある。

 大体、九郎が向かうというだけで期限が設けられていないことを思い出していた。

 一ヶ月以内に破魔矢を取れなければ失格とか、そういうルールを作っていなかったのである。


「大天狗様! 何者かが山に侵入しました!」


 部下の修験者の報告に伯耆坊はすっくと立ち上がる。


「来たか!」

「いえ、その目標の九郎天狗様ではなくて……」

「旅の修験者や参拝客か? いつものように追い返せ」

「それが、山肌を矢のように飛んで駆け上がってきていて……」

「なに!? ええい、只者ではない。天狗礫や崖崩れで対処しろ!」


 そう伯耆坊が指示を出すが、相手は最短距離を馬が走るような速度で突っ切ってきており、更には広範囲に土砂崩れを起こして足元を攫ったというのに土砂崩れで流れる岩の上を足場に意に介すことなく全身してくるのだ。

 風と共に天狗礫が飛び交えば手に持つ木太刀で尽く打ち払い、山の木を一斉に倒して道を塞いでも木を駆け上がって抜けてくる。

 

「こうなれば! 秘技《天狗雹》!」

 

 伯耆坊は花火のようなものを周囲に立ち込めていた雨雲に向かって砲術の要領で放った。

 それには天狗霜と呼ばれる微生物が含まれる粉薬を打ち込んだのだ。後に人工雪などに使われる、周囲の温度が多少凝固点よりも高くても氷結させてしまう性質を持つ微生物によって刺激された雨雲内部で、猛烈な勢いで雹が生成されて広範囲に降り注いだ。

 雨の如く降り注ぐ氷の塊は避けることができず、まさに自然の脅威だ。


「山の恐ろしさを味わえ!」

「駄目です! 背中に担いだ木箱を頭上に掲げて雹を防ぎながらこっちに来ます!」

「どこの妖怪だ!?」


 すると、その場に現れた侵入者──録山晃之介が天狗面を被り豪奢な袈裟を身にまとった伯耆坊へ、木太刀を向けて訪ねてきた。


「貴殿が大天狗か」

「何者だ?」

「九郎からの伝言だ。『破魔矢はもう要らんから、他の参拝客の迷惑にならんように山を元に戻してくれ』だそうだ」


 子供が生まれて忙しくなった九郎の代わりに、正面から突破できそうな要員として晃之介がここまで派遣されたのであった。

 実際に山歩きに慣れている上に軽功で地形をほぼ無視したかのような三次元機動ができる彼ならば、無能力状態の九郎では難しかった強行突破も楽に可能だったのだ。

 しかしながら九郎の伝言に、伯耆坊は愕然と肩を落として告げる。


「……要らないの?」

「そんな道具より嫁を大事にした方がいいと気づいたらしいな」

「はあ……凄い山改造するのに時間掛かったのに……無駄骨……」


 だが彼は首を振って、


「いや、己の驕りよりも大切なものを知ったならば……それは魔縁にはならないからいいのか」


 魔縁とは魔の縁。すなわち、天狗道魔界へと通じる者の繋がりを表す。

 己が高みにある者だと断じて、他を下らぬと吐き捨て、冥府魔道へと突き進む者の成れの果て。

 決して、自分の嫁と子が一番だと決断を下すような輩が成り果てることは無いだろう。

 伯耆坊は山末から託された破魔矢を取り出して、どうも厄介そうに晃之介に聞いた。


「これでいい……お前も要らないのか、安産祈願の破魔矢」

「うちにもそういったお守りは沢山あってな、また持ち帰ったら子興殿に呆れられる」

「そうか……」

「ん? そういえばさっき立ち寄った宿で、何やら子ができたとかなんとか言っていたな。それもまた縁だろう。その人に渡していいか?」

「好きにするが良い」


 そうして晃之介は破魔矢を受け取り、九郎から紹介された伊勢原の宿に安産祈願、子孫繁栄の破魔矢を渡して江戸に帰るのであった……。

ウェム子「えっ……初めての子?」

ノウェ男「よかったじゃねーか! あのクズは親父じゃなかったんだ!」

阿部少年「おやおやまあまあ」


九郎「知らんし……」



手が滑って鬱展開をメッチャ書きそうになったことを白状します

読みながら不安を感じた方は行間の殺気を読んだので正しい

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― 新着の感想 ―
[良い点] 鬱展開じゃなくて良かった! [一言] 本当ぉーに良かった!!
[一言] あとがきにもあったけど、これで死産で夕鶴も死んだ。ってなってたらさすがにキレてたかも
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