70話『剣客勝負とお九』
「はぁー……ダルい」
江戸の街をのそのそと歩いている女が居た。緑がかった路考茶色の振り袖を着て、中着には緋鹿の子。斜め模様の手綱染をした帯を腰に巻いている、全体的に淡い色合いをした着物を身にまとっていた。
目立つ背の高さであり、妙齢の顔立ちは非常に艶があった。気怠げな雰囲気も似合っている。そして胸は着物を大きく膨らませているほどだったので、町を往く独身男の目を引いた。本来は着物に詰め物をして寸胴気味にするのだが、本人が鬱陶しがって外したのである。
(しまったのう。あやつらにこんな特技を見せるのではなかった……)
気怠げで眠そうに見える目元をした女は、菓子屋の主にして噂の天狗──九郎ことお九であった。
また女体化しているのである。
(……浮気をするごとに女体化の罰とは……別に浮気なんぞしておらんというのに……)
彼の様々な病毒を使うことが出来る能力によって、TS(性転換)病という病気を自らに発病させているのである。
これは体の組織をかなり強引に作り変える病で、遺伝子レベルで肉体が変化する。その為に体への負担は大きく、普通の人間ならば一度性転換病に掛かり、治療をしてもう一度同じ性別に戻ったならば次に発病したら命の危険があるとまで言われている。
だが九郎の場合は勝手に病気が治り体の状態をデフォルトで維持する魔法が掛けられているので、行う度に肉体が変化する痛み──強烈な成長痛と股間を強打したような酷いものだ──があるのだが、何度でも男と女の性別を切り替えることができるのであった。
なので、嫁と妾以外の女に手を出した罰としてこうして女に手を出せないように女体化させられているのだが。
(お重の小便癖を治してやろうとマッサージとかしただけだというのに……まったく)
ついこの前に出会ったお忍びの武家娘、お重。それにおしめを巻いたことで疑られたが、更に別の行動でも怒られてしまったようだ。
勿論、既婚者の彼がそんな愛する女らを裏切るような行為をするはずはなく単に勘違いされただけなのだ。
護衛のシンには眠り薬を盛って寝かせ、お重と二人きりというのがマズかったかもしれない。
とは言え完全無罪なのは自分自身が保証するのだが、彼女らの気が済むのならばほとぼりが冷めるまで女体化罰も受けてやろうと甘んじてこの形態になっていた。変身する時は睾丸を殴られたように痛いのだが。
(妊娠中の女は情緒不安定になるというし、そういうアレだろう)
諦め気味にお九はそう思った。夫に女の影がちらつくこと自体にナーバスになっているだけだ。将翁や阿子、スフィにサツ子も全然擁護してくれなかったが。
ひとまずはそう納得して、屋敷に居ても彼女らからの視線が冷たいのでこうして外に出てきていたのである。
(さてどうするか……知り合いの男でも騙して遊ぶかのう)
女体化状態を知っているのは家族と、靂ぐらいだ。靂のところに行くと彼の幼馴染に暗殺されそうなので他を当たるとして。
歌麿は妙に岡惚れをしているからあまり会いたくはない。騙して遊ぶにしても本気にされたら困る。
誰に会いに行くか……お九が適当に考えながら歩いていると、声が掛けられた。
「あっ! 天狗の姐さん!」
「ん? ……誰だっけか」
声を掛けられて振り向いた先には二人の男が居た。
一人は特徴の無い感じの男で町人髷をしている。もう一人は浪人のようで、腰に一本下げているがどうもその重みで体が傾いているようにも見える。体は鍛えられた感じだったが、どうも頼りなそうな印象の若者だ。
「俺だよ俺! 俺俺!」
「今警戒度を上昇させたからな」
「ちょっと引かないで!? ほら、変装の達人の……」
「おお」
お九は手をポンと叩いて言う。
「藤林同心か。見回り中かのう?」
「違うよ!? あいつは知り合いだけど……百面相の百太夫だって」
「ああ、前に変装しておったやつか。印象が無いわけだ」
以前にお九が出歩いていた際に、旗本三男に化けていて連れて遊びに回ったのがこの忍び、百太夫だった。
その後身分詐称で捕まったらしく牢屋敷に入れられていたので、そこまで悪いやつに思えなかったから助けてやったのだが。
とはいえ、当然ながら彼は今その時の顔でもないように思えた。
「というか藤林同心と知り合いなのか」
「お互いに忍の家系で、あいつは藤林家で俺は百地家だから……」
「ふうん」
「というわけでフサキチ! この人が前に話した、俺を助けてくれた凄え美人の天狗のお九姐さんだ。どうだ、良いだろう!」
「フーサッサッサッサ」
「変な声を出した!?」
お九が驚いて思いっきり引いた。
咳払いをしてフサキチと呼ばれた男は気まずそうに頭を掻いた。
「こう……女性と会話するの慣れてないから和ませようとしたでござる」
「怪人か何かの笑い声だと思うわい。忍び共はどうしてこう女慣れしておらんやつばかりなのか……」
「まあそこら辺には事情があって……」
百太夫は苦笑いをこぼした。
多くの忍び一族は今の時代、殆どが農民や最下級の士分になっている。そこで生まれた長男は、忍びの技術などよりも家を継いでいく役目があり、嫁も見合いなりでもらえるのが常である。
しかしながら先祖から受け継がれた忍びの技術を廃らせるのも勿体がないという考えもあって、それらは次男三男に継承されることになっているのだ。
当時の次男や三男で生まれた者は武士だろうと百姓だろうと、自分で仕官を決めるか畑を手に入れるかできねば碌に結婚もできないのが常である。
なので必然として江戸に集まる忍び連中は地元では全然女っ気が無いやつらがワンチャンス求めてやってきているのだ。
「まあ良い。こやつは?」
「こいつはフサキチ。尾張の方の知り合いなんだけど、用事があって江戸に来たんだと」
「よろしくござる」
「お主ら二人とも己れの胸をガン見で喋るな」
「ちっ違うでござる! 拙者、女性と目を合わせて喋るなど恐ろしいので自然と目線が下がってるだけでござる!」
慌ててフサキチが否定するが、お九は半眼で疑いの眼差しを向ける。
女体になって胸に視線が集中する感覚というのはそれとなくわかるようになってしまっていた。
「そうだフサキチ。お前の相談事、この姐さんに頼んだらどうだ。空を飛ぶ天狗の妖術まで使えるぞ」
「飛び加藤の忍術ではなく?」
「飛べる忍術があるのか?」
九郎の疑問の声に二人が頷く。
「羽否空所の術というのでござるが、まあつまり高所に縄を打ち込んであたかも飛ぶように移動するという術でござるな」
「なんだその無駄に横文字入ってそうな……」
「歌舞伎でも使われてるからな。上から吊り下げるの」
「ああ、それは見たことがある。それで、頼み事とはなんだ? 今は暇だから話ぐらいは聞くぞ?」
いい暇つぶしができたと、お九は二人を近くにある茶屋に誘った。
すると百太夫は感じ入ったようにフサキチを肘で突いて頷く。
「見ろよ。都会は。女の人とお茶できるんだぞ」
「凄いでござる……拙者、地元じゃゴミカスの出来損ない未満扱いなのに」
「感動のハードルが低いなお主ら……」
特にフサキチが哀れっぽかった。
**********
フサキチという男は尾張の武士に生まれたらしい。
そこも代々忍びに近い家系だが、どちらかと言うと剣術を重視しているのだという。
そんな家に生まれたフサキチだったが、彼にはどうも剣の才能が欠けていた。
故に幼いころから父などに怒鳴られ続けたフサキチは、ついに勘当まで言い渡されてしまった。
「この太平の世に剣術ができんからと言って家を追い出されるとは、何とも厳しいのう」
「太平の世だからこそ甘えてはならぬという考えのようでござるな。道場もやっているので、示しが付かないでござる」
「フサキチは剣以外は器用にこなすんだけど、剣だけ駄目なんだよなあ」
「ふうん?」
お九は茶屋で酒を飲みながら話を聞いていた。男二人は普通に茶を頼んでいるので、昼間からがぶ飲みしている女に若干顔を引きつらせていた。
「しかし勘当されたので食うに困り、尾張藩で大店の用心棒をして暮らしていたでござるが、実家から『江戸で行われる剣術の試合に出るように。さもなければ重勘当にする』というのでござる」
「重勘当とは?」
「勘当にも軽く追い出す程度と、藩に届け出て完全に人別帳から名前を消し去るやつがあるんだ。後者をやられると完全に無関係の人間どころか、戸籍抹消だから無宿人扱いだな」
「ほぼ罪人みたいなものでござる。それをやられては、碌に町にも住めなくなるので非常に困るからやむを得ずにこうして江戸まで試合の為にやってきたでござるが……」
「なるほど。それで剣術ができんのが問題なわけだ」
恐らく実家からは最終通告の類なのだろう。剣術ができないというので追い出したが、ケロリとしている息子に我慢がならなかったのかもしれない。
そこで最終通告として、剣を諦めるならば完全に縁を切るか、それとも剣を認めさせるか。
お九は思案する格好を見せてこう告げた。
「つまりこういうことだな? 試合相手に毒とか盛って有利に勝ちたい──と」
「げ、外道でござるー!?」
「鬼か!? いや、天狗なのか!?」
「違うのか!?」
逆に驚いたようにお九は聞き返した。
「普通にやって勝てないなら搦手を使うものだろう。毒とか。病気とか」
「いやいやいや。野試合とかならそれで良いかもしれないでござるが、ちゃんと審判も居ての正々堂々な戦いでござるからね?」
「審判が居ても軽い食中毒ぐらいなら、証拠を残さなければいいと思うが……」
「こいつの実家に『相手が腹壊してたので楽勝だったみたいですよ』って報告が行ったら台無しだろうし」
「むう」
確かに、勝利が最終条件ではなく実家に認めさせるのが条件なのだ。
フサキチは気まずそうに頭を振りながら言う。
「まあ、拙者的には勘当は勘当で構わないと思うのでござるが……あまりに無様に負けるとひょっとしたら実家から暗殺とかされそうなので、せめていい感じに試合したいのでござるよ」
「抜け忍扱いだのう」
「それでフサキチのやつ、もう何年も剣を振ったこともなくて碌に実家の剣術も覚えてねえってんで、江戸で何処か付け焼き刃でも教えてくれる道場はねえかなって探してたわけだ」
「道場か……」
お九がぱっと思い浮かぶのは六天流の道場。正確に言えば剣術道場ではないが、実践向けの武芸を教えている。
入門者はいつでも歓迎でとにかくスパルタに鍛えてくれる。あまりにも厳しいので、普通の者では耐えきれずにすぐに辞めてしまうほどだ。
「ふむ。ならば己れの知り合いのところへ行ってみるか。助けになってくれるやもしれん」
「助かるでござる」
「俺も江戸は最近来たものだから詳しくなくって……よかったなあフサキチ!」
そして三人は店を後にするのだが、男二人が代金を支払う前にお九がサッと財布から銭を出して店員に渡した。
ひたすら二人は困惑して金は払うだの、むしろこっちが奢るだのと言い募ってきたが、
「気にするな気にするな」
と、お九は取り合わずに道場へ急がせた。
釈然としない二人の顔を見て、お九は納得する。
(男が女に奢られると、ああいう凄まじく気まずいような、プライドが折れるような、何とも言えぬ顔をするのだな……面白い)
何となく知人女性らがやたら男に奢るタイプが多いのが理解できたような気がする。
同性同士や、男が女に奢る場合にはない──強制的に恩を売りつけているような楽しさがあった。
(よし。今度靂でも連れてバンバン奢ってみよう。奢りで遊女屋とか連れて行ったらどんな顔をするだろうか)
含み笑いを漏らすお九を不気味そうに男二人は見ていた。
********
「とりゃー! ぎゃー!」
「ええい! ぎゃー!」
六天流の道場では児童虐待が行われていた。
正確には受け身の練習である。門下生であるまだ小さい新助と正太郎が、小太刀サイズの木剣を手に晃之介へ殴り掛かり、近づく端からぶん投げられているのだ。
当然ながら振るう木剣は当てるつもりの全力で挑むのだが、かすりもせずに逆に投げられまくる。床に落ちたらすぐさま木剣を持ち直して再び接近して投げられる。二人で連携を取って前後から挟み撃ちをして投げられる。
体に受け身を覚えさせなければ怪我をするので強制的に身につくという特訓だ。様々な武器を持って挑んだのだろう。道場には木剣だけでなく稽古用の槍や棒も散らばっている。
「あそこまで投げられたら頭が悪くならんだろうか……」
受け身を取っているとはいえ、ひたすら道場の床に落ちているのだ。少しばかり不安になった。
お九の呟きに晃之介が気づいたようで、子供二人を片手で床に押さえ込んで「それまで」と告げた。
そして玄関に居る三人組へ視線をやる。
「見ない顔だが……何か用事だろうか」
言いながら相手の様子を観察した。男二人は鍛えた体つきをしている。女は……大きい。大きいのを注視しながら、害獣退治を依頼しに来た農家の者では無さそうだと判断をする。
大きい。
「おい。何を見ておる何を」
「はっ!? い、いえ……ん? どっかで会ったことがあるか……いや、やはり見覚えはないな」
一瞬顔を上げた晃之介だったが、また視線を大きいのに落としてから首を傾げた。胸で記憶の判断をしているようだ。
お九は怪しまれても面倒なので告げる。
「己れは九郎の親戚で、お九という。お主のことは九郎から聞いて知っておる」
「九郎の親戚……なるほど、目元とかが九郎に似ている」
騙しておくことにした。浮気が原因で女体化女装させられていると思われるのは、誤解を招くからだ。
しかしながら九郎が怪しげな術を使うのは知り合い皆が知っていることで、よくよく観察されれば九郎が術で女に化けていると想像されかねないため、予め親戚と名乗り雰囲気が似ていても仕方ないと納得させることにしたのだ。
「このフサキチという男が剣術を教えてほしいそうだ。どうも試合があるらしくてな。コツだけでも掴めればいいのだが」
「ふむ……」
晃之介が紹介されたフサキチに目をやる。体は鍛えられているが、どうも腰に帯びた刀でバランスが悪そうな立ち方をしている。
「……良いだろう。だが、まずは立ち会いをしてみよう。そちらにしても、弱い道場主では納得行くまい」
「……わかったでござる。百太夫、刀を持っていてくれ」
「お、おう」
刀を腰から外すと、フサキチも重りが取れたように体を揺らして慣らしながら道場の中へ進み出る。
子供二人はそそくさと道場内に散らばった武器を片付けようとするが、晃之介が止めた。
「そのままでいい。そちらも好きな武器を使ってくれ」
「……」
そしてお互いが向き合う間合いになっても、どちらも無手であるように見えた。
お九と百太夫が首を傾げて見ていると動きがあった。
晃之介の両手がぶれたと思うと背中から小弓を取り出し、射法も無視して抜き打ちの速射を行った。
本来ならば弓を構え、矢を番え、弦を引いて打つ三動作が最低限必要だというのに、弓を前に突き出すと同時に弦を引き絞り矢を放ったのだ。一動作で放たれるこの技は向かい合った相手は、晃之介が弓を手にしたと思った瞬間には既に矢が到達しているだろう。
だがフサキチは半身になって避けながら飛んできた矢を掴み取った。如何に小弓が速射の犠牲に弦を手元から胸元までしか引けぬ作りで、威力が低いとはいえ信じられぬ早業である。
そして掴んだ矢を手の中で反転させ、そのまま晃之介自身へ一直線に投げ返した。更には矢に続いて棒手裏剣が回避先を縫い止めるように飛来する。一瞬で袖に仕込んだ暗器を放ったのだ。
投げた矢は威力が無いが顔を狙っていた。晃之介は躱しつつ棒手裏剣を弓で受け止める。手裏剣の突き刺さった弓は諦めて落とした。明らかにフサキチは弓矢を受け止め、投げ返すという状況を想定して訓練を積んできたことが伺える対応だ。
同時にお互いの足元から長大な棒が浮かび上がる。晃之介は棍、フサキチは槍を手にした。横から見ている者は磁力に引っ張られたかのようだが、足で正確に蹴り上げたのである。
するすると振れのない動きでフサキチは槍の間合いに入る。怯えも迷いもない。槍を使って鍛錬を積んでいた自負がある動きだ。
鋭い突きが晃之介の足元へ打ち込まれる。人というのは足を攻撃されることに慣れておらず、またそこを打たれれば一気に戦闘能力が落ちる。
焦らずに晃之介は槍の先端を力強く踏みつけて押さえるが、すぐに槍は横に払われ、腰へ向けて横打ちの薙ぎ払いへ派生した。
十文字槍を使う者の動きである。穂先から左右へ飛び出た十文字槍ならば致命傷に十分なる。
晃之介は横薙ぎの攻撃を棍で打払いながら接近し、脳天から打ち下ろす一撃をフサキチに見舞った。
即座に石突きで対応して受け止めると同時に、晃之介は棍を手放し更に接近。その両手にはいつ拾ったのか木剣がそれぞれ一本ずつ握られていた。
「くっ!?」
近接の間合いから二刀が振られる。フサキチは下がりつつ避け、或いは石突きで受け止める。
距離を空けたいのだが晃之介はそれを許さずに張り付いて攻撃を加える。如何に槍が持つ長さを変えれば近くでも対応できるとはいえ、剣とひたすら打ち合うには不利になる。数度は耐えたが、フサキチが歯噛みした。一撃に込めるのではなく避けられても隙を見せぬ連撃だった。小気味の良い風切り音が道場に響く。
晃之介が挟み込むように槍自体を木剣で叩くと、半ばから木が断ち切られる。
やむを得ずフサキチは槍から手放し大きく下がりながら拾い上げたのは相手と同じ長さの木剣だ。
フサキチは僅かに焦った表情を見せるが、構える。
次の瞬間には彼の手に持っていた木剣は晃之介に巻き上げ宙に浮いていた。唖然とするフサキチの手元に晃之介は寸止めで木剣を添え、勝負を付ける。
お互いの動きが止まった。
お九は感心して拍手をする。
「おお、なんだ。剣術が使えぬというから余程弱いのかと思ったら……」
「言ったろ? フサキチは剣以外は使えるんだって」
槍。弓。暗器。体捌き。そういった武芸はフサキチも納めているようだ。
剣が使えぬ分他でカバーしようと思ったのだが、結局実家に求められているのは剣術であったので意味を為さなかった。
晃之介が木剣を納めながら言う。
「基本はかなりできているじゃないか。確かに剣を持った際にのみ弱々しかったが……そこらの武士より余程戦えるようだぞ」
「ううう」
「なに、槍が使えて刀が使えないなんてことは無い。鍛えれば上達するはずだ」
「ううう」
「頑張れ! お前はできる奴だ! 努力が足りない! 気合をいれろ!」
「うううううう」
「……なんか顔が真っ青になってきたな」
「うつ病患者を煽るような事を言ってやるなよ……」
苦しげに呻くフサキチの前で晃之介がきょとんとしているので、お九が突っ込みをいれた。
彼とて剣術の努力をしてこなかったわけではあるまい。家から勘当されるほどだ。他の武芸に力を入れる前に散々努力はしてきて、それでも駄目だったのかもしれない。
というか、剣を握っただけで具合が悪そうである。先程の立ち会いも、木剣を拾った瞬間から動きが悪くなってしまっていた。
どうもそれも含めてフサキチは消沈しているようだ。それまでは勝負になっていたのに、剣で打ち合ったら一瞬で負けた。先行きは不安である。
「うーむ、あまり落ち込むでない。晃之介が無闇に強かっただけだ」
「左様でござるが……」
「よし。ここは一つ。己れが仇討ちをしてやろう」
良いことを思いついたとばかりにお九は指を立てて告げた。
皆が目を見開く。
口に端を釣り上げて笑みを作り晃之介に言う。
「確かこの道場は、道場主に挑んで勝てば稽古代を貰えるのだったな?」
「あ、ああ。確かにそれはやっているが……」
晃之介に武芸で挑戦して、勝てば小判が貰えるというものだ。負ければ挑戦代として二分支払わねばならない。
大体の勝負では晃之介が勝てるのだったが、一時期は小遣い稼ぎに影兵衛が通いつめて晃之介から金をむしり取っていった。五分と五分程の勝率だったのだが晃之介が負けた場合の支払う額が大きいので赤字だったのだ。
今でこそ影兵衛の息子を門下に通わせているので、大人げない父親の襲撃は無くなったのだが。
「貴女がやるのか?」
晃之介は再びお九を眺め回して聞いた。大きい。
確かに背丈は普通の女よりも高いのだが、とても戦えるようには見えなかった。大きい。
お九は袖捲りをして道場の中央に進み出る。白くて細い腕は晃之介が掴めば折れるように思える。大きい。
挑まれたことに困惑しつつも晃之介は尋ねる。
「ぶ、武器は何を……」
「素手で行かせて貰うかのう。碌に使ったことが無いから」
散らばっている武器を拾わずに拳を見せてそう告げる。
何せ武器を使った場合、お九というか九郎は晃之介にまったく勝ち目はない。唯一格闘のみは有り余る膂力と格闘術の記憶で戦えるのだ。
晃之介の方も女が殴り合いを挑むというので戸惑いが見える。無手のまま、押さえ込もうと思っているのか構えた。
お九はにやりと笑う。油断というか相手の土俵に付き合うつもりだ。それならば虚を突いて勝利に持ち込める。
フサキチの仇討ちというか、知人をからかうという気持ちの方が強い。
「行くぞ」
一言お九が告げつつ、床板が爆ぜるような踏み込みで晃之介に接近。
本気で対応するまで晃之介に僅かな隙があった。お九が掴もうと手を伸ばして弾かれ、投げようとひねりを外され、逆に迎撃に出された拳を打ち払い、一瞬で互いの手が幾度も交差して攻防が繰り広げられた。
お九の指が晃之介の襟に引っかかった。そこを起点にして、剛力で地面に引き倒す。だが完璧に受け身を取る体勢はできていてダメージは無いだろう。
それを予め把握し、押さえ込むための技をお九は掛けた。
「~~!?」
「秘技──膝枕乳固め」
引き倒した晃之介の後頭部に自分の太ももを割り込ませて枕にし、更に頭の上から乳房を載せて頭を挟み込んだのだ。
これが関節や頚椎を破壊したり極めたりする攻撃ならば晃之介も瞬時に対応していたのだが、これは相手のダメージを和らげたどころか頭に乳を押し付けているだけである。
危険度は無いに等しいが故に、対応に遅れた。というか、晃之介は頭を太ももと胸で挟まれている状態で動きを止めてしまったのだ。
(こ、ここから抜けるには胸をどうにかしなくてはならないが──!)
柔らかい。大きい。いい匂いがする。
そんな状態で抗えるだろうか。危険ならばどうにかする。だが、頭を柔らかに挟まれて手で肩を押さえられているだけだ。まるでサンドイッチ伯爵の死因である。
「う、羨ましい……!」
「先生……」
大人二人は拳を握ってわなわなと震え、弟子二人は見てはいけないものを見てしまったとばかりに目を逸らした。
「ん? どうした? 反撃がなければ己れの勝ちだぞ?」
「くっ……不覚……!」
「はっはっは。お主が巨乳に弱いことは百も承知────」
言いかけて。
ぞくりとお九は背筋に氷を放り込まれたような感覚に鳥肌を立たせた。
恐る恐る振り返ると──道場の奥、住居へ繋がる戸から晃之介の嫁、百川子興が顔を半分だけ出して見ていた。
底冷えする虚ろな目で。背後から冷気すら感じる。
(あ、あれは……! 昔にイリシアがしていた目つきだ……! 己れが何処ぞの女騎士団長にとっ捕まって逆セクハラされまくってたのを目撃したときの……!)
異世界にて魔女と逃亡生活を送っていた時期のことだが、魔女討伐は国際的に同意されているものの最も積極的に動いていたのはとある魔法大国であった。
そこの美人女騎士に九郎は魔女の仲間として捕まり、あわや拷問かと身構えたらどうも重度のショタコンであったらしくペロペロされたのである。
魔女がキレて大規模魔法で大陸の地図が書き換わった。女騎士は逃げつつその後も九郎を狙ってきたのであったが。
イリシアの転生体である子興が今見せているのとそっくりの目をして魔女は睨んでいたことを思い出した。
むにむにとまだ晃之介はお九の胸の下でもがいている。子興が見ていることには気づいていないようだ。
しゅばっと子興は道場に出て来る。そしてつかつかと近寄り、お九の手を掴んで奥へ引っ張っていく。
「あ、いや、そのなんだ? 己れは試合をしていただけで……」
「し、子興殿!? ち、違うぞ! 今のは決して──」
「──静かに」
冷たい子興の声に二人のどもった言い訳はそれ以上続かなかった。
奥の部屋にお九を連れ込んで子興はピシャリと戸を閉め、尻もちをついているお九の両肩に手をやる。
「何してんのお父さん。妖術かなにかでしょその姿」
一発で見破られた。お九は引きつった笑い顔で言い淀む。
「いや、あの」
「いきなり義理とはいえ自分の父親が、女体化して旦那にオパーを押し付けて誘惑してるのを見た娘の気持ちってわかる?」
「わかったら凄いと思うぞ、そんな特殊な状況……」
「なんなの? 寝取るつもり? 欲求不満なら縛り上げて歌麿くんに引き渡すよ?」
「それはマジで止めろ」
お九は冷や汗を浮かべながら言う。
「勘違いするな。別にそんなつもりはない。己れがわざわざ女体化して浮気なんぞしにくるはずがなかろう。常識的に考えて」
「じゃあなんで女体化を?」
「浮気っぽいことしてたら嫁たちに怒られて罰として女の姿に……」
「説得力無さすぎー!!」
「誤解だ!」
言い合いをして、子興は大きくため息をついて頭痛をこらえるように頭を押さえた。
「まあ……とにかく晃之介さんを寝取らないようにね。女体化した経緯があまりに恥ずかしいから、正体は黙っておくけど」
「あまりに恥ずかしい」
「身内の恥だから」
「恥……」
お九は呆然としてうなだれた。
とりあえずその日はフサキチの事を晃之介に任せて、家に帰って嫁たちに謝り倒すお九であった。
*******
翌日、九郎の姿に戻ってから一応フサキチの様子を見に行こうと道場に出向く。
中ではギクシャクした感じに見える素振りをしているフサキチが居た。晃之介を呼んで話を聞いてみる。
「九郎か。昨日、お前の姉みたいなのが来てたぞ」
「ああ。話は聞いた。胸で挟んだら鼻の下を伸ばしていたとか」
「誤解だ!」
「それよりフサキチとやらの様子はどうだ?」
すると晃之介は難しげに腕を組んで言う。
「試合まであと十日ということで、泊まり込みで鍛錬をさせているのだが……どうもチグハグな男だ」
「というと?」
「槍や弓、棒術に体術はかなり修行を積んでいてかなりのものなのだが……剣を持つと途端に心が乱れるようで、弱くなる」
「他の武器はちゃんと使えるのか。今時珍しいな。お主の流派のようだ」
「剣さえできればうちで代稽古を任せてもいいぐらいだぞ。だからこそ、剣だけ使えないというのが妙だ」
晃之介がどうも納得ができないとばかりに思案している。
彼のように多くの武器に熟練しているケースは稀だが、同じように習得していて一番メジャーな剣術が使えないというのはおかしい。槍や棒に比べて非常に習得難度が高いというわけでもなく、基本すらできていないのだ。
棒を両手で構えて振り下ろす動作は決まっているというのに、手に持つのが木剣となると途端にへっぴり腰になるという。
「わざとやっているのかと思ってしまったぞ」
「ううむ……何か剣がトラウマになっているのかもしれん」
「虎馬?」
「よし、ここはまずメンタルケアからだな。少し待っておれ」
九郎は晃之介にそう告げて、一旦屋敷に戻り必要な人員を連れてきた。
スフィに阿子に将翁である。
「な、なんでござるか……!?」
フサキチを座らせて九郎たち四人が配置につく。
そして九郎が目の前で細くて長いアレで結んだ銭を揺らして、スフィが耳に催眠音声を流し込み、阿子が怪しげな臭いのする香を吹き付け、将翁が頭に妖術を掛けていた。
四人がかりの催眠術である。
「精神がバラバラになりそうな集中攻撃だな……」
見ていた晃之介が引いていた。
そこで素直にしたフサキチの精神に剣への忌避感を尋ねてみたところ、
「相当に父親が厳しかったようだな……というかやりすぎだ」
「そうなのか?」
「うむ。息子の剣が下手なのが癇に障ったのか、そのうちフサキチが木剣を持って素振りしているだけで無様だ無駄だと殴っていたようだ。これでは上達などすまい」
それのせいで今でも剣を持つと、理不尽に殴られるのではないかと竦むのだろう。
剣の腕前など、努力に努力を重ねればある程度は伸びる。素人だろうが達人だろうが、腕二本に肩に足腰を使っているのは同じだ。どうしてもまともに振れないなどという者は極わずかだ。
しかしながらひたすら練習を邪魔されて、剣を持てば殴られ、あまつさえ勘当を受けて、しかも今度は勝手に試合を組まされているとは。
フサキチはなかなか不幸な男であるようだった。それでも槍などを覚えてそこまで性格もねじ曲がらずに生きているのだから、立派なものだ。
九郎も晃之介も同情して、こうなればなんとか使えるものにしてやりたいとは思う。
「……最初、俺は何か特殊な技でも身につけさせて試合で勝たせようかと思っていたのだが」
「特殊な技?」
「初見殺しとかびっくり攻撃とかそういうのだ。聞いた話では試合の相手は真っ当な剣客らしい。十日ぐらいで付け焼き刃に鍛えるよりは勝ち目があると思ってな。だが──」
晃之介は倒れているフサキチを見下ろして言う。
「それよりも、こいつの持っている剣への忌避感をどうにか消してやったほうがいいのかもしれないな。これでは剣を持つ度に過去に苛まれる。勘当されるかどうかより、そっちの方が問題だ」
「そうだのう……なら、こういうのはどうだ?」
九郎は晃之介にその方法を提案し、道場主は「なるほど」と受け入れるのであった。
なお強烈な催眠攻撃を食らったフサキチは涎やら涙やら垂れ流しになり、精神が戻るのに半日必要だった。
*******
「フサキチ。これからお前は抜き身の刀を持ったまま鍛錬を行う」
「抜き身の……でござるか?」
「ああ。常に左手に持っておけ。走り込みをするときも、受け身の訓練をするときも、槍を使うときも、飯を食うときも、便所や風呂も寝るときも常に離すな。そしてその刀で自分や人を決して切らないように気をつけろ」
「りょ、了解でござる」
九郎が考えた方法は簡単だ。
恐怖も忌避も怯えも何も、大体の感情というのは長続きしないものだ。
確かにずっと苦手だというものは存在するだろうが、それが常に側にあったら人はいつかその感情に慣れる。
幽霊を怖がる者が居たとして四六時中見えていて、こちらに害を及ぼさなければそのうち驚かなくなるだろう。
如何に怖がっていても飯を食ったり、忙しかったり、眠かったりするとそちらの感情がやがて優先されるようになる。
それを刀でしようというのだった。
抜き身の刀を常に持っているというのはかなり危険なことである。
特に危ないのが晃之介から投げ飛ばされて受け身を取るとき。古今、転んだ際に自分が持っていた刀が刺さって死んだ者は多い。
それでもフサキチはなんとかこれまで培った武芸と忍びの技術で転びながらも刃が自分に向かないようにしていた。
剣術の訓練はひとまず忘れて、槍や棒術を晃之介から教わった。
フサキチの習っていた流派とは異なるが通じるものも大いにあるのでお互いに研鑽が積める。
そして稽古で打ち合う際にも片手には刀を。
六天流は基礎体力を鍛える訓練も行っている。
重りを持って走り込みや水泳などである。
フサキチはそこに更に刀を持ち、子供らに混じって肩にずしりと来る背負子を担ぎながら走っていた。
「はぁ、はぁ……」
と、息を荒くして刀を手に子供を追いかけるように走るフサキチ。
保護者が駆けつけてきた。
「何処行きやがったァ変質者が!! ぶち殺してやらァ! 勝負しやがれ!!」
「子供を襲う者全てを抹殺する。それが拙者の使命。うおおお!」
「ん? おお利悟。やる気だなちょっと勝負しろ」
「ぎゃー!! 今それどころじゃないでしょ影兵衛さんうおアブなちょっ」
パワーアップした利悟に目を付けた影兵衛が襲いかかっているところで、隠れていたフサキチはこっそり逃げ出したのだが。
忍びやっててよかった、と彼は思った。
五日経過したら今度は九郎によって、持っている刀を隠形符で消された。
見えない刀。しかしずしりと手には重さがあり、そこから伸びた刃には殺傷力がある。
それを持ちながら自分と人を傷つけず、決して手放さないように指示をされて道場での稽古は続いた。
消えた刀身に最初は怯え、人にそれが向かないように神経質になっていたが既に五日も持ち続けた愛刀だ。
手の延長となったそれは見えずとも感覚的に捉えられ、次第に怯えることをやめていった。
最後の一日は刀を持たせないままで修行をさせた。
この十日、殆ど剣術の稽古は行っていない。
だが晃之介は翌日試合に挑むフサキチに言う。
「あれだけ槍も棒も扱えるのだから、そのつもりで刀を振るえ。付け焼き刃などより、お前が自分で体を苛め抜いて鍛え上げた強さは決して無駄なんかじゃない。それを見せてやれ」
折角なので九郎も発破をかけてやることにした。
お九の姿で彼に言う。
「勝ったら膝枕乳固めをしてやろうか」
「是非にござる」
「え。そんな真顔で頷くところかこれ」
「是非にござる」
「……」
ともあれやる気は出たようだ。
翌日の試合場は寛永寺近くの道場で行われるのだが、どうやら偉い立場の者が観に来るようで晃之介や九郎は応援に行けない。
だが九郎は透明化して見物してくることにしたのであった。
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その道場で行われるのは一種の御前試合であった。
九郎が想像していたものより立派な公式の試合である。
上座に座るのは、次期将軍と言われる徳川家重。まったく剣術に興味が無い家重に少しでも触れさせようとこうして腕利き同士の試合などを見せることになったのだという。
やはりどうでも良さそうにぼけーっと座っている家重の姿を遠目に九郎は見る。
(ん? 誰かに似てるような……気のせいか)
さすがの九郎もまさか近頃知り合いになった娘、お重が徳川将軍家とは連想もできないし、男装もしているので気づかなかった。じっくりとも見なかったので、単なるやや細面の青年といった印象しか残らない。
それよりも、と御前試合の様子を見る。行うのはフサキチだけではなく、何組か居るようだった。
(影兵衛とか利悟とか浅右衛門とか出した方が盛り上がると思うのだが)
そんなことを思いながら九郎は常識的な試合の様子を観戦する。
影兵衛と利悟はお目見えのできぬ下級武士であることと、町方と火付盗賊改方の同心は死体に関わる穢れがある職業ということで将軍なども前には出れないのである。
浅右衛門も同じようなものだが、彼の場合は同じく刀マニアであった吉宗と直接会ったことがある。しかしながら普通は忌避される仕事をしているので滅多に呼ばれない。
やがて試合は進み、フサキチが無造作に木剣を持って進み出た。
相手は10ばかり上の年頃の、目つきの鋭い武士である。鋭いというよりもギラギラとした強い意志を何処か九郎は感じた。
審判の老人が旗を持って、その相手を向く。
「東の方、新陰流・柳生宗盈」
九郎は目を見開く。宗盈という名前こそ知らなかったが、
(フサキチの相手、柳生一族というやつか?)
驚いていると、審判が今度はフサキチへと向いた。
「西の方、新陰流・柳生房吉」
思わず九郎は混乱した。フサキチの方も柳生一族である。
正確に言うならばフサキチ──百太夫が付けたあだ名であった──房吉は尾張柳生家の者で、宗盈は江戸柳生の者である。
そして両者共に共通しているのが──廃嫡させられているはぐれ者だということだ。
宗盈は岸和田藩の藩主・岡部長泰の五男であり柳生藩の跡取りとして養子に来たのだが──何か事情があり、廃嫡させられたのである。一説には、養父である柳生俊方と確執があったと言われている。
彼が廃嫡となり、その後に新たに養子になった柳生俊平が今は柳生藩を継いでいる。
折り合いの悪かった養父が居なくなり、岡部でも柳生でもない中途半端な立ち位置になった宗盈に与えられた機会がこの御前試合なのだ。
ここで勝てばまた何処となり、仕官の話も出てくるだろう。
そしてその相手となるのが尾張柳生の房吉である。
問題なのは、房吉が負けた場合は嫡子ではないが尾張柳生が江戸柳生に負けたという風聞になることだ。
柳生の剣術宗家を自負する尾張柳生と、将軍の剣術指南役で大名でもある江戸柳生は反目しあっている。
(これは負けれぬな……頑張るのだぞ、フサキチ)
九郎は無言で応援するのであった。
試合場で宗盈と相対して房吉が思うのは、剣が軽いということだ。
真剣を一時も離さずに鍛錬と日常生活を送っていて、今は木剣を持っている。頼りないほどに軽く、怯えの感情も浮かんでこない。
自然体で木剣を手に構えることができていた。
肩から力がスッと抜ける。
臍の奥から怯えていては出せない力が湧き出て、呼吸は浅く腹筋は固まっていった。
(今ならば父上に怒鳴られ殴られようが、何も気になるまい)
審判の開始の声も遠くに聞こえ、目の前の宗盈だけがくっきりと浮かび上がった。
足を進める。体には微塵の揺れも一切無い。水面を滑るように前に出る。手の届く範囲まで。手の延長である刀の届く範囲まで。
宗盈は突きつけられた房吉の持つ木剣がにわかに大きく見え、その存在感はまるで持つ房吉を覆い隠すように思えた。隙だらけに自然体で木剣を持っているように見えて、全身からいかようにも打ち込んできそうな気配を感じる。
宗盈とて廃嫡されてから、「今に見ておれ!」と気炎を吐いて鍛え上げてきた。
だからこそわかる。
このような達人相手には、捨て身の覚悟で挑まねばならない。
入り身に構えた木剣を相手に向けて、剣の間合いに入るのを待ち構える。
ぎゅ、と何かが引き絞るような音がした。筋肉か、足と床の摩擦か。
刹那に交差した木剣同士が触れ合う。僅かにお互いの剣の軌跡がずれたかに見えた。
次の瞬間には、宗盈の木剣は房吉の肩を切り落とす手前で止められ、房吉の木剣は諸手突きの形で宗盈の首に突きつけられていた。
見ていた他の剣士らが目にも止まらぬ撃剣にどよめき、言い合う。
「おおっ……」
「相打ち……か?」
否、と審判が告げる。
「宗盈殿の刀は房吉殿の腕を切り落とすが、次の瞬間に房吉殿は片手でも突きを打ち込めたであろう。よって、房吉殿の勝ちとする」
僅かに、木剣を打ち合った際に宗盈の方は狙いがずれた。
そうでなければ腕ではなく袈裟斬りに房吉を切り裂き、突きも無効化していただろう。
だがそうはならなかったことが、宗盈にも悔しいほどにわかった。
(そうか、勝ったでござるか)
他人事のように房吉はそう思った。途中から勝利も何も気にしなくなっていた。だが自分の鍛えた成果は十分に発揮できたという満足感があった。
(晃之介殿に礼を……それと……!)
膝枕乳固め──それを想像するだけで房吉は血の巡りが早くなるのを感じるのであった。
********
その後房吉は実家から連絡があり、戻っても良いことになったのだが、今の自由な立場のほうが気楽であり、得意とする槍術などの研鑽もできるので固辞して江戸にとどまった。
実際、尾張柳生家に戻ったところで既に房吉以外に後継者は居るので、行かずとも問題はない。
柳生房吉に戻るよりは、フサキチとして生きる方を選んだのだ。
晃之介の道場にしばらく通い、武芸を習うのだという。晃之介の方も似たような武器使いがいれば己の鍛錬にもなるので大歓迎であるようだ。客分として道場に招いた。
それから。
「はぁ゛ぁ゛い、お兄さん今日は沢山甘えていいんどゎぜぇええ」
「ぎゃあああああ!!」
「あんまりだ……あんまりだ……」
その後、報告に戻ってきた房吉を待ち構えていたのは褌一丁の甚八丸であった。
問答無用でとっ捕まえて正座した太ももに頭を押し付け、上からムキムキの上体で覆いかぶさる。
筋肉膝枕大胸筋固めである。
友人が酷い目にあっているのを、百太夫はホロホロと涙を流して見守るのみであった。
「たすっ助けてっせめてうつ伏せにするのやめてでござるううううう!!」
「あんっ吐息が褌に当たっちゃって刺激的だぞぃ♥」
「ひうううう!!」
「なんでこんなことするんですか九郎さん!」
「いや……特に意味はないのだが何となく」
「外道かよ!!」
その後、ちゃんとお九さんが膝枕やってくれたそうである。
ただしまだ嫁の見つかっていない独身忍び連中にお九の膝枕サービスの事が知れ渡り、色々面倒なことになるのだが。
それはまた別の話である。
九郎が女体化した場合の知り合いの対応(独身時代編)
晃之介:巨乳にめっちゃ悩むめっちゃ悩む巨乳に
利悟:もうちょっと幼くなれないのか頼み込む
浅右衛門:凄い童貞みたいな対応できょどる
六科:特に対応に代わりはないのだが周りから見たら親密に見える
影兵衛:スケベする




