69話『IF/九郎が最初に現れたところが大黒屋光太夫の船だったら』
異なる世界線のIFストーリー
大黒屋光太夫の漂流生活ただしベリーイージー。
江戸には全然関わらない九郎です。漂流生活のチート役が九郎。
出て来る九郎は初期状態です
天明二年(1782年)。
この時代を代表して云うのならば、将軍の名よりも[田沼の時代]と云った方がわかりやすいだろう。
田沼意次がその息子、田沼意知を山城守にしたり、或いは天明の大地震が発生したのもこの年である。
本編の江戸なのであるの時代より数十年未来のことだが、これは何の因果か異世界ペナルカンドから土壇場で転移してきた九郎が、この年の十二月に伊勢から出港した船に出現した物語。
異世界から帰ったら伊勢海なのである。
******
神昌丸と名付けられた商業船が伊勢港から出発したのは十二月九日のことであった。
船長は光太夫と云う名の三十二歳の青年である。
この船は運送業である大黒屋のものであり、光太夫はそこの若い跡取りなのだ。そこらの船乗りとは違って学もあり、リーダーシップも取れる優秀な船長だ。
それに船員十六名を加えて、紀州米五百石と布などの日用品を積んだ船は、江戸に向けて帆を張った。
江戸では天明地震の影響で──震源地は駿河、遠江に近かったのだが──物価が高騰しており、一儲け出来る状況だったのである。
さて、出港から4日程経過した頃だ。
船はあちこちの小さな浦を経由しながら江戸へ向かい、今は遠州灘あたりを運行中であったが、事件が起きた。
「お頭!」
「どうした?」
潮風の匂いが微妙におかしいと他のベテラン船員と話し合っていた光太夫は、船表役(炊事などを担当)の次郎兵衛から呼びかけられて振り向いた。
彼は慌てたように、荷物を積んでいる船室を指差して云う。
「密航者でさ! 奥の方で床に倒れてますぜ!」
「何? わかった。すぐ行こう」
「気をつけてくださいよ、見たことのない格好だった。刀も持っていたかも……」
「そりゃ物騒だな。お侍か?」
一応、船の修理用角材を片手にしながら光太夫は云われた通り船室へ向かった。
船は船員が飲み食いや寝起きする場所と、物品を収納しておく船室が離れている。
船室も簡単に屋根を取り外せるようになっており、積み下ろしの際は船上から出来る構造だ。
そっと船室を覗くと、床にうつ伏せになりながら一人の男が寝転がっていた。
大きな荷物袋を抱きかかえるようにし、顔付きはまだ十四、五といったところで幼い。片手に長大な太刀を持っている。その服装は黒色を基本とした、あちこちにポケットの付いているジャケットにズボン、そして頑強なブーツを履いている。
他はともかく、服装は明らかにこの時代の日本にそぐわないものだ。
異世界からヨグの送還術で、この船室にダイレクトで放り出された九郎である。
光太夫はまず、そこらの荷物に手を付けられていないか見回した。
米俵からこぼれた米の痕も無く、食い散らかした形跡も残っていない。
周りに誰かが居ることに気づいた九郎が、酷く怠そうに云う。
「……すまん。どこの誰か知らんが、ちょっと力が入らなくてのう……」
異世界から追放する抵抗を無くすために、魔女から叩きこまれた倦怠符と云う術符で脱力していた九郎は何とかそう喋った。
何か木張りされた建物の中だということはわかるのだが、それ以外を理解することもできないぐらいに疲弊している。
光太夫は振り向いて、
「おい、このお侍、もしかして密航してから飲まず食わずなんじゃないか?」
「ああ~……そりゃ弱るよなあ」
「はあ……仕方ねえ、こっちに運ぶぞ」
「叩き出さないんで?」
「事情もわからんからな」
光太夫が九郎の体を担いで、船室から出した。
外の部屋で九郎を寝かせて、ひとまず水を飲ませた。
「助かる」
「ったく、密航するなら自分の飯ぐらい準備しておけよな」
炊事係から呆れたように云われて。
九郎は周囲を見回し、潮の匂いと揺れ軋む船内を見て、ここが船の上だと思い至った。
そして、周りを囲む者達は──。
どう見ても九郎が知る、漁師の格好ではない。昔はカニ漁船にも乗っていたのだ。こんな、半裸に近い着物を纏っただけの格好が現代人とは思えなかった。
ひとまず現在地や情勢などを知るために尋ねた。
「ええと、この船はどこに向かっているのかのう……」
「それも知らずに乗り込んだのか? 江戸だよ、江戸」
「江戸……江戸時代……か? うう、時代が合わぬではないか、おのれヨグめ……」
思わず罵るが、ダルくて口を閉ざす。
無駄に考えることすらしんどかったので、むしろ逆に九郎は素直に己が江戸時代に来たのだと理解した。
いちいち何でとかいつの頃とか考えることすら面倒な状態である。
「とにかく、お侍だか知らないが乗り合わせたならせめて大人しくしていてくれ。乗員名簿に入っていない者をお江戸に入港させたとなると問題になるんで、伊豆の下田あたりで降ろさせて貰うが」
「うむ……わかった。世話になるのう」
「随分爺さん臭い子供だなあ」
言いながらも九郎はひとまず、体力回復の為に睡眠につくのであった。
それから、水夫達も寝ている九郎を隅に動かして集まり飯を食いながら、
「いや、しかし密航なんて珍しいなあ」
「ああ。見たところ健康そうで、江戸に行きたいなら東海道を進めばひと月もかからんだろうに」
乗ったとするならばいつのタイミングだろうかと皆は首を傾げる。白子浦から出発したときは荷物の確認はしっかりしたし、途中の鳥羽浦に寄港した際に小舟で近寄って忍び込んだのだろうか。
「……もしかして、凶状持ちで関所が怖ぇとか」
磯吉と云う十七になる少年がぼそりと云ったことで、ぎょっと船員達の目は寝ている九郎に向いた。
しかしその親である三五郎が、
「あんなに若ぇのに凶状持ちになるだろうか。それより、見たことがねえ格好だから……」
「だから?」
「もしかしたら唐人とかが密入国してきた場合の方が……」
「……」
やはり一同、九郎を見ながらごくりと唾を飲み込む。
この時期、江戸は鎖国中であり、ついこの前にハンガリー出身の神聖ローマ帝国軍人がロシア船舶にのって阿波やら長崎に訪れたが役人らが追い払ったことで、一層外国の動きには警戒されている。
いや、そのハンガリー出身神ロマ軍人でロシア船という異様に属性が咬み合わない男は、詐欺師の脱獄犯罪者にして愉快犯的に動乱を起こすのが好きな傍迷惑大冒険男が日本人を無駄に驚かせようと名乗っただけなのだが。
ともあれ。
光太夫が神妙な顔で云う。
「喋った言葉は問題無かった。異国人とも違うと思うぞ」
「そうか」
これは、ヨグの召喚術による副次効果にて、言語の意思疎通が自動的かつ無意識に九郎は可能になっているのである。
イギリス人と会話すれば九郎は日本語感覚で英語を喋るし、オランダ人相手にオランダ語を喋る事もできるという割と便利な能力が掛かっていた。
ただ暗号や符丁などは会話に含まれないので、意図的に侵入者を阻むべく言葉を崩している薩摩弁などは変換不能だ。
「とにかく、陸に辿り着いたらさっさと下ろして関わり合いにならないようにしておこう」
「そうするべ」
「船の上にいる間は一蓮托生だ。積み荷を盗んで逃げることもできないんだからな」
と、話は纏まったのであった。
盗みに乗ったといっても、この船は藩邸に送る米を載せた船なので重要ではあるが貴重ではないものしか積んでいない。それが目的とも思えないので、やはり彼らからしてもよくわからない密航者である。
九郎の為に作られた粥を寝ている彼の枕元に置いた。
彼は、のそのそと起きだして粥を喰い、再び泥のように眠った。
******
翌日の事である。
十二月十四日、未明。
季節外れの暴風雨が駿河湾沖を襲った。
うねりを上げて荒れ狂う海に、真っ暗な空からは大粒の冷たい雨が打ち付け、風は前後左右からわけもわからぬ程に吹き荒れた。
船は跳ねるように揺れ惑い、船員は必死に被った波の水を外に掻き出している。
「帆を畳めええええええ!!! 船がひっくり返るぞおお!!」
「ああっ前の船が沈んでいく!」
「気にしてる場合か、こっちも死ぬぞ!!」
波を浴びながら舵を切り波に跳ね飛ばされないように動かしつつ、光太夫は喉が避けるほど声を張り上げて指示を出した。
船は神昌丸一隻ではなく、見える範囲に二十隻は居たはずだが次々に大嵐に飲まれて沈没していく。
「伊勢大神宮様……若宮八幡宮様……」
「念仏は後で唱えろ!」
「水を掻き出せ、沈むぞ!!」
和船は平たいので水が貯まればひとたまりも無い。更に大風と揺れる船では帆をたたむ作業も難しかった。
そんな大荒れの中で九郎は目覚めた。船室内もシェイカーに入れられたように揺れていてとても寝ていられない。
「おのれ。己れが転移する所は何故こうも嵐の船なのだ」
はるか昔、荒れ狂うベーリング海のカニ漁船から流されてペナルカンドへ出たことを思い出しながら立ち上がった。
アカシック村雨キャリバーンⅢを片手に船上に出る。
目を開けるのも難しい大風大雨の中で、メインマストとなる帆を外そうと四苦八苦していた。九郎から見ても、板っ切れを掲げたような単純構造の帆は頼りなく、それが原因であちこち船が振り回されていることは明らかであった。
九郎は駆け寄り声を張り上げる。
「畳むのは間に合わん! 折れて船が転げるぞ!」
「じゃあどうするんだよ!」
「帆柱は諦めろ! 切って捨てるがいいか船長!!」
九郎の言葉に、光太夫は許可を出した。
「わかった、斧を船室から持ってこい!」
「いい、己れがやる。どいてろ!」
帆柱に集まっている船員を離れさせて、九郎はアカシック村雨キャリバーンを抜き放った。
ぎらりと嵐の中でも刃が輝き、目にした船乗りを一瞬硬直させるほどに凄みを感じさせる。
九郎が野球のバットをスイングするように担いで、刃で帆柱を殴りつける。
「川上の赤バットが唸りを上げた……!」
気合の声と共に抵抗なく太い帆柱は切り離され、帆ごと暴風を受けて海に飛んでいった。九郎は特に剣の達人というわけではないが、とにかく凄いという概念が付与された大太刀に掛かれば木製の柱程度は余裕で両断できる。
目を丸くしている暇はなかった。光太夫が怒鳴る。
「よし、皆! 休んでいる暇は無いぞ! 浸水したところを直しに行く! 海水も汲み出せ!」
「ううむ、参ったのう」
九郎は顔を拭いながら、大荒れする海に浮かぶ船の上で呻いた。
この嵐を何とかする道具は持っていない。こうなればこの船と一蓮托生だ。
しかし今まさに、帆を失った船は嵐でどう進むかわからない。
漂着すればいいほうで、漂流生活が待っている可能性が高かった。
「なるようになれ、だ」
九郎は桶を持って浸水した箇所へと走るのであった。
*******
嵐は翌日の夕刻まで続いた。
幾度も船に押し寄せてくる高波で貯まる水を汲み出し、沈没を防ぐ為に荷を軽くしようと破産覚悟で荷物を海に放り込み、僅かに凪いだ間に倒れたように休憩して、それからまた海水を外に捨てた。
へとへとになった一同がようやく静まった船の上で泥のように眠った。
それから船表役の次郎兵衛が作った飯と味噌汁を皆で食べて、一息つく。
和船では七輪で火を起こせるようになっているので船内で調理ができる。
「いやあ、それにしてもお侍さんが刀で帆柱をばっさり切ったのには驚いたな」
「凄い腕前なんだな」
「刀が良かったのだろうよ」
謙遜したように聞こえる九郎の言葉だが、事実である。
しかしながらあの嵐ではいずれ帆柱を切らねば確実に沈んでいただろうし、早い段階で切り落として正解ではあった。
「そう言えば名前はなんて云うんだ?」
「九郎と呼んでくれ」
苗字を名乗らずにそう名乗った九郎に、船乗り達は「正式な侍ではなく、帯刀を認められた郷士や地主かも」と思って勝手に納得する。
九郎は久方ぶりに食う白米をばくばくと平らげて、できるだけ明るく告げた。
「いやあ、それにしても」
天気が良いので外で食っていたのだが、周囲を見回して。
「見事に遭難したのう。はっはっは」
「笑い事じゃないんだけどなあ……」
船がどこに進んだかさっぱりわからないが、見渡す限り陸地は見えない。
そもそも江戸時代の日本の船は外洋に出るように作られていない。陸地に付かず離れず進むのが常である。
おまけに帆は無い。ガレー船のようなオールも無い。小舟とそれ用の櫂は積んでいるが、小舟で何処か現在地が不明な海を漂流などより危険だ。
九郎とて漂流経験は無い。困ったように頭を掻いていると、光太夫が立ち上がって告げた。
「とにかく、陸地を目指そう。幸い米だけは食いきれないほど積んでるんだ、飯には困るまい」
そう、藩邸に送る米を積む船であったこの船は五百石と云う膨大な量の米がある。
単純に計算して、一石=十斗=百升=千合なので500000合分だ。
一人が一日五合食べるとして十万日分。
九郎含めて十八人居るので分ければ約5555日分。
飯だけ食ったとして栄養を無視すれば食うに困らない備蓄があった。
「で、ですがそれは藩の米で……」
船乗りではなく、米の管理役として同乗していた作次郎が控えめに言う。
言わずもがな、武士の給料である藩の米を運ぶ業者が口にするというのは大変なことではある。
だが、
「わかっている。手を付けるのは我らの備蓄が無くなってまだ漂流していたらだ。紀州のお殿様も、どうしようもない状況ではお許しになるはずだ」
そもそも、この予定が不明な漂流生活では生き延びるかどうかまったく見通しが立たない。
このまま自分らが死んでは、積んでいる米も何処か海の彼方へ消えていくだけになる。
生きて帰ることを最優先にしなければ何の意味も無い。許されるかどうかは果たして光太夫にもわからなかったが、許されないにしてもまずは陸までたどり着くことが重要である。
なお、一応米以外にも大根の漬物と魚の干物ぐらいは少ないが積んでいる。
九郎が先に告げておこうと手を上げた。
「ああ、そうだ。この極限な状況だから云っておくが」
「なんだ?」
「己れは少しだけ妖術が使える」
嵐で頭でも打ったのだろうか。
そんな顔で注目を浴びている九郎は、腰の術符フォルダから札を取り出した。
「この妖術の札を使えばな……火が灯せる」
「うわっ!?」
炎熱符の先から、軽くぽぽぽと音を立てて拳程の大きさの火が燃えるのを見て一同は腰を浮かせた。
「そしてこっちの札を使えば、飲み水が出てくる」
精水符を使って、だばだばと湯のみを零す速さで水が滴り落ちるのを見て、ぐ、と船員は喉を鳴らした。
飯を食い終わった茶碗にそれを入れて九郎は目の前で飲み干す。
「この通り、中々美味い水だぞ」
「お、俺にも!」
「俺も! 喉が乾いちまって……」
ごくごくと、有限だったので我慢していた水を皆は飲み始めた。
精水符から出る水は魔女がミネラルの硬度を調整して飲みやすい軟水が出るようにしていて、飲みやすく旨い。
九郎は他にも、緩い風を吹かせる符や氷を作る符、疲れを癒やす符を紹介した。
いちいち船員たちは驚いたが、漂流生活にどう使うかをそれぞれが考えだす。
また、九郎の荷物に入っている魔女の猟銃、保存食のうどん、コーラなども見せて、
「これだけだな。とにかく、協力して生き延びよう」
九郎がそういうので、光太夫は恐る恐る尋ねた。
「もしや天狗か仙人では……?」
「空は飛べんしお主らの願いを叶える便利なことはできん。ただこれを使えるだけの人間だよ」
下手に期待をされても困るので九郎は持っているものを明かして、そう告げた。なおこの時点では、九郎はブラスレイターゼンゼや疫病風装を持ち込んでいることに自覚がない。
他の船員もやや怯えの顔色を見せていたが、この太平洋に浮かぶ船の上で生き延びねばならない。
そうなれば天狗でも侍でも仲間として、やっていこうと皆一様に頷くのであった。
「とにかく、これで薪と水には困らねえ。米も十二分にある。お前ら! 伊勢で正月を迎えるぞ!」
「おお──!」
気合の声も高らかに海に響かせて、九郎を含めた光太夫達の漂流生活が始まったのである。
*****
まず行ったのは帆柱の立て直しだ。
風が無くては船は進まないので早急に行う必要があった。
「九郎はあの刀でこの舵柄を切ってくれるか」
「舵もとうに壊れて流されたからのう……よし」
と、まずは巨大な舵を九郎が切断した。
船の舵と云うとあの円形で取っ手のついたくるくる回すやつなイメージがあるが、和船ではやたら大きい、帆柱よりは細い柱が横倒しになっている感じである。
だが嵐の影響で船底についていた舵板はもげて何処かへ流されているので、船の上で操作する舵はもはや役に立たないために再利用したのだ。
それを根本からさっくりと切り、次に帆を用意した。
「ちくしょう帆がねえ……! 全員の服を使って帆を作るか……?」
「十二月だぞ、早まるな」
「あったよ! 積み荷に帆が!」
「でかした!」
正確には帆ではなくゴザのような薄い畳生地であったが、それを繋ぎあわせて帆を作ることに成功した。
帆を張った柱を立ててひとまずは方角こそ不明だが、船は進むようになったのである。
「帆柱はすぐに倒せるようにしたらどうだ?」
そう九郎が提案した。
「嵐が来る度に切り倒してたら次がないぞ」
「確かにそうだな。縄で引き倒して船体に結べるようにしておけ!」
錨を上げて船を動かせるようにしたが、
「どの方角に進むか……」
という点では毎日議論が絶えないのである。
何せ、駿河湾からどこにまで、どれぐらい流されたか不明なのである。
西に進めば、となると日本の南に流されていたら大陸までの遠征になる。北に進むとなると、房総半島の先に流されていたら蝦夷まで行く羽目になる。
とりあえず南と東には進まないようにしながら、慎重に陸地の気配を探しながら北西を目指すことにしているが、まるで陸は見えてこない。
九郎も術符で僅かに風を吹かせることにしたのだが、
「また時化て来たぞー!」
と、一日に一度は時化がやってくるような酷い天候であり、僅かな風で進める分はまるで無駄だと言わんばかりに船はひたすら流され続けていった。
船員達は賢明に現在位置を探ろうと手を尽くした。
海の水を汲んで潮の味を見たりして現在地を測ったり、風の匂いに僅かでも変が無いか神経を凝らしたり、漂流物が無いか一日中海を見張っていた。
九郎はこうなると門外漢だったので、自分の出来ることとして現代の常識で衛生を保とうとした。
「糞をしたら桶に貯めて、ケツは水で洗え。小便はそのまま海にしていい」
「船乗りだと小便は最後の手段に貯めておくんだがな」
「九郎の旦那の妖術のお陰で水は使い放題だからよかった」
肥桶は縄で結んで海に漬け込み、少しでも魚の撒き餌になることを期待した。
陸地から離れた大海では魚の姿は殆ど無く、釣りをしても殆ど掛からないのだ。
それでも魚が寄ってきたのを確認する係を決めて、僅かでもその影が見えたら釣り竿を伸ばした。
「釣れた魚は順番に食っていくようにしよう。栄養のために生の刺し身で、内臓は少しずつ全員に行き渡るように。骨は煮崩して汁にして全員にわける」
「鳥目の予防だな」
神経を張り詰めた状況が精神に及ぼす影響も考えて、
「風呂も毎日入れ。水桶に湯を貯めているからどっぷりと浸かってな」
「こりゃありがたい。船の上で毎日風呂に入れるなんてな!」
こうしてストレスを僅かでも解消させるのであった。
帰れるかもわからないこの不安な船の上での、熱い湯船は船員達にとってどれだけ助けになっただろうか。
それ以外でも積極的にコミュニケーションを取り、身の上話や洒落話などをして絆を深めた。
中でも、顔見知りな船員ではなく突然の来客だった九郎の話は皆の興味を引いて楽しませる。
「九郎の旦那、その顔で九十五歳なのか……」
「やっぱり仙人なんじゃないか?」
などと、とにかく妙な術を使うしあれこれと知識を持つ九郎を、見た目通りの年齢で見る者はやがていなくなり、頼りになる仲間の一人として見られるようになったのである。
九郎とて年長だが、航海知識に詳しいものがあるわけでもない。
リーダーの光太夫が皆に毎日指示を出して少しでも成果をあげようと全員が働いた。
やることもなくただ漂流しているだけならば、徐々に精神が不安になり不和が訪れるがそれも来ないように気配りがされていて、
「若いのに見事だのう」
と、九郎も感心するほどであった。
とにかく、伊勢に戻る。
それだけが漂流者一同の願いである。
しかしそうは上手くいかずに───。
「もう、新しい年か……」
漂流してから日付を数えていた光太夫の呟きに、空元気は沸かなかった。
天命三年の正月が訪れたのである。もうひと月近く漂流していることになる……
******
「九郎の旦那ァ! 鮫が寄ってきたぞ!」
「よし来た!」
漂流生活三ヶ月目。船は相変わらず陸にたどり着かない。
どうやら北西方向に向けて主に進んでいるようなので、いつかは奥羽か蝦夷、そうでなくとも大陸にたどり着くと九郎は光太夫と話し合ったのだが全然見えてこなかった。
おまけに未だに時化によって海は荒れ、外は雪が降っている。九郎の炎熱符で暖を取らねば体力の消耗も激しかっただろう。
食料のおかずも尽きてきて唯一の楽しみは、糞桶によって近づいてきた鮫を確保することだ。
鮫は泳ぎ続けねば溺れるが故に遠洋でも泳いでいることがあり、嗅覚は凄まじく鋭敏だ。海に漂う糞便の臭いに反応して船に近づいてくるのを船乗りが発見したら──
「電撃符!」
九郎が船の上から雷を落として仕留めていった。
近寄ってきていた3メートルほどのメジロザメが直撃を受けて動きを止める。
そして急ぎ九郎は縄を腰に結びつけて海に飛び込んだ。鮫は死ぬと海底に沈んでいくので、早く回収しなければならない。
鮫を掴んだまま船員に引き上げさせ、甲板にて鮫を解体して皆で貪り食った。生のままである。肝臓は一気に食うと中毒を起こすので、小さく全員に分けて食べさせる。
「ありがてえ、ありがてえ」
「九郎の旦那がいねえとどうなっていたか……」
「気にするでない。一蓮托生だ」
海面から電撃を放って鮫を仕留めた挙句にそれを掴んで回収するという力強さを見せる彼が居なければ、如何に鮫が寄ってきても釣り上げることもできなかっただろう。
それに水だ。とにかく漂流していては水が重要になる。この船にも大きな水桶を幾つも用意しているが、精々持って二ヶ月もすれば尽きていたに違いない。
何せ飲み水だけではなく食事をするにも玄米を炊く必要がある。
お陰でたっぷりの水と火を使って、ふやけるぐらいに柔らかく炊いた玄米を皆は食べて生活ができる。そうでなければ水不足で固い玄米を食う羽目になり、酷い下痢を起こしていた可能性もあった。
「九郎の旦那は若宮八幡宮様が遣わせてくれた御方に違いない」
「いや、神様が己れを遣わせるぐらいなら最初から漂流させるなよとツッコミを入れたいぞ」
むしろ変な地点に送り込んだヨグの方にケチを付けたいが、あのまま彼女らは魔王城で死んだのだろうと思うことにしていた。
漂流中も嵐に遭い、船がまた浸水をして船員らは死に物狂いでそれを直した。とにかく彼らには温かい飯と風呂、それに鮫だけを心の支えに生き抜いていた。
*******
更に数ヶ月が経過した。
ここまで長期間の漂流となると、食事と衛生の問題をある程度解決していたので光太夫と九郎は皆が絶望しないようにせねばならなかった。
占いで現在地を調べてみよう、と船親父の三五郎が船乗りに伝わる方法で御神籤を引いたのだが、陸から数百里も離れているという見立てが二度続いて、皆は酷く落胆した。それを行った三五郎は特に責任を感じたようで、船室に閉じこもってしまったようだ。
精神状態が良くないと喧嘩なども起こる。
「何か娯楽を与えよう」
と、九郎が提案して船にある材料だけで花札をまず作った。
それに加えてカード麻雀、トランプ、将棋なども作り、ルールがわからぬものは九郎が教えて皆で競わせ遊ばせた。
やることもないので延々と将棋を打つものが増えてきた。
皆の様子を見ながら九郎は危機感を覚えた声を呟いた。
「……後は微妙にアレだな」
「アレ?」
「三五郎の気が塞いでいるのと……」
船親父の三五郎はこの船でも最年長で、船主の光太夫に航海のいろはを教えたベテランである。
それ故に責任を感じて気も落ち込んでいるのだろう。だが、この状況では精神的に消耗するのが危険な兆候である。実際、御神籤から食欲も失せているようだった。
「もう一つはどうも船乗りの己れに対する目線が怪しいというか……」
「ああ……」
食うものも無く、水も少なく、体力も落ち込んで半死半生で漂流しているならば話は別なのだが。
食事に困らずに暇と体力を持て余している船乗りなので、色々と滾るものがある。
そんな中で九郎は月代も剃らず、髭も脛毛も生えておらず、綺麗な肌をしている。
「男でもいいかぁ~」といった欲望が生まれそうになりつつ、漂流生活の大恩人である九郎に手を出すのは憚れるといった境界線にあった。
「よし、こうなったら身の安全を守るためと、三五郎を発奮させるためにひと肌脱がせよう」
九郎はそう決めて自分が持ち込んだ道具袋をあさり始めた。
そして──船乗りの中で二番目に若い、16歳の少年磯吉に白羽の矢が立った。
磯吉は三五郎の一人息子でもある。九郎は彼を呼びつけて、湯桶で体と髪型を整えさせて、何故かヨグが荷物袋に突っ込んでいたバニースーツを着せて皆の前で踊らせた。とんでもねえパワハラである。
まあしかしながら、案外に似合っていたので船乗りたちは喝采の声をあげて興奮した。三五郎が慌てて船室から飛び出してきて息子がバニーに!の出来事に混乱しつつトチ狂った他の船乗りと喧嘩を始め──
まあそれなりに皆は目の保養になり、三五郎も磯吉の身を守るために元気を取り戻したのであった。
磯吉は九郎の代わりに延々とアレな目で見られることになったが、
「やむを得ない犠牲だのう……」
「こ、この旦那最悪だ!?」
光太夫は恐れ慄くのであった。
*******
さてそれから、光太夫一行は誰も脱落することが無いまま、現在地は不明だがどうにか陸地へ辿り着いた。
漂流して八ヶ月もの時が過ぎ去っていた。むせび泣いてしまう者も居るほどに待ち望んだ陸であった。
大喜びして皆は小舟で順番に降りていく。
「上陸するのは構わんが、この船はもう限界だぞ。嵐でも来たら沈む。積み荷を降ろしておくべきだ」
と、九郎が提案したので船に残されていた米俵も次々に運び出した。
その助言は的を射ていたことは翌日には判明した。海が荒れて沖に錨を降ろしていた船は翌朝には消え去り、海岸には木材が散らばるのみになってしまったのだ。
ともあれ船員一同は海岸近くの洞穴に一時避難して生活環境を整える。
水と火と米だけはあるので、船に揺られて弱った元は船乗りではない作次郎などを休ませて、一番元気の良い九郎と責任者である光太夫が島を調べることにした。
背中に刀と腰には猟銃を巻いて島を歩くと、すぐに人に出会った。
ぼさぼさの髪の毛と髭。顔は何か染料で色を塗りたくり、衣服は鳥か獣の皮を縫い合わせたものを身に着けている。貝や骨を装飾品として首や耳から下げている風体だった。
あからさまに、原住民といった姿をしていて光太夫は引きつった顔で後退りをする。
九郎は頭を掻きながら、両手を上げて話しかけてみた。
「あー、こんにちは。言葉は……通じぬか?」
「! なんだ、お前はウナンガンの言葉を話すのか?」
「ん?」
驚いた様子で原住民の一人が返事をしたので九郎は首を傾げた。
光太夫が九郎の背中を突いて小声で言う。
「何を言ってるんで? 旦那も変な言葉を喋るし」
「……無意識に翻訳言語になっておるのか。そういえば過去なのに光太夫たちとも言葉は通じるしのう……」
ヨグによる異世界転移の副次効果で、言語がどこでも通じるようになっているのである。
それで原住民が喋る言葉もわかるようだ。九郎は頷いて会話を試みた。
「己れらは船で漂流してきてここに打ち上げられたのだが、ここは何処の島かのう?」
「ここは我らウナンガンの住む列島の一つだ。ロシア人共は、アリューシャン列島のアムチトカ島と呼んでいる」
「アリューシャン……相当に北まで流されたようだのう……」
九郎も北の海でカニ漁に出たことから大雑把な位置を思い出して顔をしかめた。
日本がどうこうというレベルではなく、ロシアとアラスカの間に入ってしまっているのだ。
おまけに帰るための船が無い。九郎はどうしたものかと考えつつ、ウナンガン──アレウト族(アリューシャン列島の先住民族)の男に尋ねた。
「ロシア人……というと、ここにロシア人が来ておるのか?」
「そうだ。ロシア人は、海獣の毛皮を求めて我らに小麦や芋と交換しに来ている」
「ふむ……」
どうやらしっかりと目的があってやってきているということは、航路を持っていると見える。
そのロシア人の船に同乗させて貰えれば島から少なくとも大陸までは移動することができるのではないだろうか。
九郎はそう考えていると、足音が近づいてきた。
「わーははは!!」
大声で笑いながら、銃声が鳴ったので九郎はとっさに光太夫の頭を掴んで伏せた。
アレウト族の者らも嫌そうな顔をして振り向く。
そこには五名程の羅紗を身に纏って帽子を被った髭面のロシア人が歩いてきていた。二人ばかり手に長銃を持っていて、銃口を空に向けて僅かに煙が立ち上っていた。
「景気付けだ。ん? 誰だそいつらは」
先頭のロシア人がそう言うので、九郎はしかめっ面で魔女の猟銃を取り出して同じく空に向けて三発ほど連射した。
周囲の人間を不安にさせる恐ろしい銃声が響き、ロシア人は露骨に驚いて警戒を交えた顔を九郎に向ける。
「景気付け──だな。お主らが毛皮を取りにきたロシア人か?」
「な、なんだ!? 中国人か!?」
「日本人だ。実は斯く斯く然々でのう──」
*********
九郎がニビジモフと名乗るロシア人と会話をしたところによると、どうもこの辺境オブ辺境であるアリューシャン列島にまで派遣されている彼も、商人としては本社から左遷されたような扱いらしい。
しかも残念なことに迎えの船が来るのは二年以上先になるという。この島で海獣の毛皮を取る手伝いをしてくれれば、同乗しても構わないと提案された。
九郎はため息をつきながら、船乗りの皆に大雑把な現在位置とロシア人の商船の到着予定を告げると、まずロシアという国すら知らなかった彼らは圧倒されつつも長い期間に落胆を隠せなかった。
それでも船の上で待つよりは、鳥も魚も海獣も居るここの方が随分マシだと光太夫と二人で励まして、一同のアムチトカ島での暮らしが始まった。
当然ながらアリューシャン列島は彼らの出身地である紀州に比べると非常に寒いので、毛皮服を作らせる。住居は小屋の一つをロシア人から借りて、九郎が術符で暖を取ったので厳冬でもむしろロシア人達より余裕があったほどだ。
しかしながら暮らしていると、ロシア人とアレウト族の間での対立が目につき始めた。
時代背景を考えると当たり前だが、公平な取り引きというよりも武力で脅して小量の対価で物資を集めさせているのだ。
更にロシア人はアレウト族の女を差し出させて妾にし、更に言うと九郎と磯吉にもセクハラをし始めた。
「磯吉はもう穢れておるからともかく、このままでは……」
「九郎さんが変なの着せて踊らせたんでしょう!?」
仕方がないので九郎は簡単な解決法を選んだ。
ロシア人の代表であるニビジモフを殴り倒して暴力で言うことを聞かせたのだ。
同時に、アレウト族相手に術符で脅かしてこちらに襲って来ないようにさせる。彼らは謂わば銛で武装したインディアンのようなものである。油断はできない。
九郎の妖術にアレウト族は精霊信仰から崇めだした。ロシア人も恐れて、無体は働かなくなった。
さてそれから二年後、ロシアの商船がやってきて一同は大盛り上がりした。
ところが着岸直前になんと破砕して船は大破。漂流民が増えるだけの結果になった。
九郎がいっそ海面を凍らせて歩いてカムチャッカまで向かおうかと、一般人には絶望的な計画を立て始めたのだが光太夫が、
「流れ着いた木材などで船を建造しよう」
と、DIYな事を言い出したのでそれに乗ることにした。
光太夫は非常に学のある男で、造船の方法すら知識にあった。それに三五郎などの熟練した船乗りが助言し、船を建造することにしたのだ。
その頃になるとロシア人とも光太夫は会話を覚えて、指示を出しているのだから大したものである。
九郎はというと、造船はさっぱり知識が無いので木材の調達、加工をして手伝うことにした。ざくざくと刀で大木を切り倒して、それを素手で持ち上げて運び、刀で製材する九郎に皆が慄いた。
実際の歴史における大黒屋光太夫一行で日本に生きて帰れたのは僅か二人──光太夫と磯吉のみだった。
多くの者の死因は寒さ・飢え・体力の低下・絶望のどれかである。
だがこの状況では、寒さは九郎が完全にシャットアウト。飢えは皆がまだ体力的に余裕があるので漁生活をしてどうにかなる。体力の低下では、疲労困憊したものは九郎の術符で癒される。そして絶望は、若宮八幡宮様の遣わしたとしか思えない万能の妖術を使う男が居てくれるという希望──そして女装した磯吉によってどうにか耐えられることができた。
何回も女装をして慰安している磯吉は一行のアイドルになっていて、本人も悲しみながら光太夫や九郎に諭されてやむを得ず延々女装する羽目になったという。代わりに食事などは優先して良いものが与えられている。そのお陰か、だんだん色気が出てきたという皆の評判である。ロシア人もドハマリした。
なお卑猥なことは何もない。
そうこうして皆が協力し、一年後には船が完成して九郎が特にアレウト族から惜しまれながらも皆は全員生存したまま島を脱出するのであった。
*********
船ができても、アリューシャン列島から紀州への航路など誰も知らないのでロシア人に任せてカムチャッカを目指すしかない。
なんとか一行はカムチャッカにたどり着き、そこの代官であるダニロヴィッチと会話したところ、
「皇帝陛下に頼めばヤーポンに帰りの便が出せると思うでビッチ!」
というので、九郎が軽く頭を抱えた。
「それは……まず皇帝に話を通さないと絶対帰れぬということだよなあ」
「当たり前ビッチ。国交の無い国にいきなり送り届けようとしたら国際問題になるビッチ」
「うわあ……っていうか、皇帝って何処に居るのだ? モスクワか? サンクトペテルブルクか?」
「よくロシアの地名をしっているなこのヤポンスキー……」
どちらにせよ、カムチャッカからの距離は世界の反対側レベルである。
一回の使節で渡航許可を取ってこちらに許可証などがくればいいが、何往復もやり取りをしないといけないとなると、膨大な時間が掛かるだろう。
ひとまず一行はカムチャッカに滞在することになり、パンやスープなどこれまでとは違った文明的な食事に涙した。
しかしながら毎食出て来る白いスープは、美味なのだがと疑問に思った一人が材料はなんだろうと九郎に聞くと、
「む? 牛乳のスープだろう」
そう答えたので、一斉に吐き出した。
彼らからすれば牛の乳など、食べ物と思ったこともない。牛馬は農耕に使うもので、それを口にするのは穢れるものだと心の底から嫌悪感を持って九郎に訴えた。
片っ端から拳骨が落ちた。
「贅沢を言うな。この寒いど田舎で栄養のあるものを分けてもらえるだけありがたいのだぞ。牛の乳がなんだ、お主ら船乗りはいざというときは小便を飲むではないか。小便は良くて乳が悪いなどということがあるか」
「ううう、でも気持ちが悪くて……」
「お釈迦様でも牛の乳で作った粥を食ったのだぞ。徳の高い料理と思え。念仏を唱えてでも食え」
九郎がそう言うので、日本人一行は念仏を唱えながら牛乳スープを口にするのであった。
そのせいで「ヤポンスキーは牛乳を飲むときに変な呪文を唱える」という謎の噂が後にロシアで残ったのだが。
味をしめて九郎はその後も、牛肉だのを食いたくないと文句を言う彼らに「お釈迦様が食っていたから」と言って食わせる方法を何度も取ることになった。
帰還した光太夫の記録には「お釈迦様は『ぼるしち』や『ぴろしき』を食べていたらしい」と残されている。
*********
カムチャッカで厳しい冬を乗り越えた。最初から準備をしていたわけではないので食料の備蓄が少なくなったが、磯吉を女装させて営業に回らせ分けてもらい事なきを得た。
というか極寒の中、漂流者の様子を見に来た役人がやたらぬくぬくとしてる日本人らの宿に入って、
「なんかズルしてるだろ!?」
と言い、代官とその家族が住み着きに来たぐらいだ。
それから、任期を終えた代官と共にオホーツクへと渡った。その船には、イギリス人、ポルトガル人、中国人、インド人が同乗しているので九郎が話しかけると、
「東廻りでアリューシャンを通ってアメリカに行こうとしたら難破して……」
「とりあえず本国に帰して貰おうかと」
「ネルチンスク条約で旅券があれば清に帰れるヨ」
「ナマステ」
などとそれぞれの言葉で話すのを九郎は全て理解して会話をしているのを見て、代官は何やらしきりに頷いて手紙を書いていた。
そこには語学非常に堪能な日本人、九郎という男の情報が時の皇帝エカチェリーナ2世に向けて記されており──
それはモスクワで日本語教室を作り、シベリアから南下して不凍港を手に入れるべく日本と交渉したいロシアにとって喉から手が出るほどに欲しい人材であることは、代官もよく知っていたのである。
オホーツクから長い陸路をヤクーツク、イルクーツクと移動する。馬の毛も凍りつくような気温であったが、九郎がそれぞれのソリに炎熱符で防護したのでまったくもって平気であった。
イルクーツクの寒さは尋常ではなかった。うっかり九郎の周囲である防寒範囲から、女装していた磯吉が出てしまったことがあった。
薄着でも寒くないことに油断したのだろう。
瞬く間に吹き付けた寒気に悲鳴を上げた磯吉は悶え苦しみ、膿とも見える何かを冷気に晒された部分から吹き出した。
慌てて医者を呼んできて治療を頼んだが、
「ウォトカ(ロシアの万能薬)を塗ったが時すでにスパシーバ……残念ながら彼のチンはもげたでビッチ」
なんということだろうか。哀れ、最年少だった磯吉は凍傷で逸物を失ってしまっていた。父親の三五郎は卒倒した。
このまま付属しているとマズイのでチンとタマまで切除し、上手いこと手術した。幸いなことにその医者はロシア生まれのキリスト教宗派スコプツィ……通称『去勢派』と呼ばれる、性器を切り取ることを教義にしている当時有名だったカルト信者だったので、手術はお手の物だったのだ。
「磯吉……とうとう男の象徴まで失ってしまって……すまん、己れが女装をやらせたばっかりに」
九郎もさすがに落ち込んだが、どうにか磯吉も快復をして、皆に気にするなと告げて冷気の怖さを忘れぬように注意を促した。
男性器を失った磯吉は開き直って女装がデフォになり、なんか女性ホルモンもドバドバでて余計に女らしくなっていったという。もう二十は越えているのに、小柄なこともあり女装の影響で美少女のようだ。イルクーツクの鋳物師が求婚してくる程だった。
だがまあ漂流者のアイドルなので当然ながら首を縦には振らず、皆に愛想を振りまいて楽しむようになった。
「お磯って呼んでよね!」
三五郎はショックで寝込んだ。
「あと九郎さんは責任取ってよね!」
「うむ? 嫌だが?」
「凄い容赦の無さだ……」
マッハでお磯を振る九郎に光太夫は戦慄した。
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さてそれから、九郎らはイルクーツクに居る名士にして著名な博士らしいキリロという男に頼んで、ペテルブルクの政府に帰国の嘆願書を送ってもらうことにした。
博識で語学が17カ国も堪能なキリロだったが九郎のペラペラと喋るロシア語に驚きつつ、彼らの境遇を聞いて九郎の持つ不思議な力に大いに興味を持った。幾らか便宜を図ってくれることもあり、九郎は術を見せてやることもした。
しかしながら政府からは、『漂流者はロシアに居住して士官するべし。生活は苦労のないように保証する』とだけ返事が来て、帰すつもりが無いとばかりであった。
彼らは日本語の教師を欲しがっていたし、九郎のみならず代表者としてよく折衝を行う光太夫と、よく口説かれるお磯もロシア語に堪能になっていたのだ。教師として丁度いい人材である。
だが当然ながら漂流者らは、帰れると信じてここまで一人も脱落することなく頑張ってきたのである。誰ひとりとしてその提案を受け入れる者は居なかった。
九郎はキリロに再度の要望書を出してもらうことにした。
「帰る許可が出ぬのなら、我らは国境破りでもなんでもして、徒歩で清に渡ってそこから日本に戻ると伝えろ」
そう無謀とも言えることを言うが、漂流者たちは九郎というサバイバルに置いてズルいほどに役に立つ助っ人が居るのならば、中国を横断してでも帰れるのだと気概に溢れていた。
寒暖の気候を無効化して、疲れ知らずの護符を持ち、水をいくらでも出せて、そこらの盗賊相手ならば逆に襲って金品を奪いかねない九郎がついているのだ。苦しい旅になるだろうが、希望はあった。
全てを売り払って馬と食料を買いあさり出ていく算段まで話すと、キリロもイルクーツクの長官もこれはマズイと政府に報告をする。彼らならば本気でやりかねない。
「本国から返事があった! 日本から来たのに歓待もしないとなれば、皇帝陛下の名折れとなる。ペテルブルクまで来て歓待を受けてくれれば許可は出すと!」
「ペテルブルクのう……日本から遠ざけて歩いて帰れなくする作戦ではなかろうな」
疑ったが、まあいいと九郎は仲間を説得することにした。
皇帝の膝下まで行けるというのならば、どうしても許可を出さないという場合は直接交渉に行けるということだ。
姿を消すことの出来る怪力無双の魔法使いが持つ暴力というのは誰にも止められない。実際、魔女と旅をしている際に国ぐるみで追いかけてくる相手に、直接九郎が国王のもとに出向いて脅し命令を解除させたこともあった。魔女にやらせると被害が出過ぎるのだ。
「しかし、九郎の旦那。皇帝陛下ってのは、うちでいう公方様とか天皇陛下みたいなものじゃないのか。会ってくれるのか」
「向こうが会うって言ってるんだからさすがに無下にはされんだろう」
「恐れ多い……話が大事になっている気が……」
「なに、気にするでない。己れがどうにか上手いこと纏めてやる。ほれ、ウォトカを飲め」
ぐい、と飲ませると皆はすぐに陽気になった。
精神を病まずにどうにか帰還への希望を持ち続けているのも、このウォトカのお陰である。
彼らが日本に帰還する際に、土産を希望してウォトカ一樽持って帰ったのは有名な話だった。
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イルクーツクから一ヶ月ほども馬車に乗って、ロシア西部のペテルブルクへと辿り着いた。なお、道中の食料や馬車の人数もあってペテルブルクまで出向いたのは九郎と光太夫のみで、他は炎熱符による自動暖房を置いてイルクーツクに残っていたが。
漂流民の中には三五郎など、もう老体といっても良い年齢の者も含まれるので無理な移動は避けさせたのである。
ペテルブルクは1703年に新設された首都であり、街並みは真新しい美麗さが整然とならんでいて辿り着いた光太夫は口を大きく開けて唖然と都会の姿を見た。
人口こそは彼も行ったことのある江戸の方が多いのだが、白い石造りの町と大きな通り、高い建物の数々を見れば江戸がごみごみとした窮屈な町であるように思える。
キリロに案内されて二人は来て早々に王宮をも見学した。大砲が二百以上。壮麗な花壇が広がり、噴水からは水が溢れ、まるで異界に迷い込んだようだった。九郎は観光気分だが、光太夫は目眩がするようだ。
彼らはキリロの知人として各国の公使などにも顔合わせをするのだが──
「日本人!? しかも言葉ペラペラだな君!」
「よし! 皇帝が帰さないって言ったらまずうちの国に来てから日本まで船を出してあげるから貿易交渉をだね……!」
「オランダに任せておいてくれたまえよそこは!」
などと食いついて九郎とついでに光太夫を歓迎していた。
何せ日本と貿易をしているオランダは非常に儲けているとヨーロッパ中から羨望の的であり、あわよくば自分たちの国も貿易をしたいと狙っているところばかりなのだ。
そこに困っている漂流者で、しかも言葉がペラペラな者がいればもう完全に窓口係として確保しておきたいところであった。
「はっはっは。そうだのう。キリロさんや、皇帝陛下に、無理なら他の国を頼るように伝えないとなあ」
有利な条件を次々に他国から引き出そうとする九郎に、キリロは冷や汗を浮かべるのであった。
強気で政府は漂流者らを引き止めるつもりだが、かなりマズイことになりつつある。
とりあえずは他国を頼るにもロシア皇帝への義理がある。少なくともこれまで生活を保証してくれた恩だ。だから、そちらから明確に要求を突っぱねられない限りは他国に鞍替えというわけにもいかない。
それでも光太夫はオランダ公使に、長崎へ手紙を届けてもらえるように頼み込んで渡していた。
******
それから九郎と光太夫はエカテリーナ女帝との拝謁を行うことができた。
「何故己れが袴姿なのだ。お主が代表だろう。己れは護衛とでも云え」
と、光太夫が正装として九郎に袴を勧めてくるのだがそう断ったので、仕方なく彼がそれを着用した。
九郎は用意されたフランス仕立ての羅紗を微妙に息苦しそうに着て、女帝に帰国の嘆願書が渡されるのを見た。
エカテリーナは、
「窮状、よくわかった。これまでこの嘆願書が私の手元まで届いて来なかったのだ。可哀想なことよ。正式な書類を整えるまで、暫し待て」
そう告げたので、光太夫はホッとした。
大臣も他国に知られた以上は国際問題になりかねないと判断して急ぎ話を取りまとめたようである。
その後二人は皇太子に離宮へ呼ばれて旅の話をせがまれ、光太夫は九郎の行う不思議な術の話とともに彼らにこれまでの話を聞かせてやった。
「はははまさか」
そう術に対しては懐疑的な皇太子や皇孫相手に九郎が術を見せてやると当然ながらメチャクチャに驚かれた。
「これぞ東洋の神秘、忍者パワーだ」
適当に九郎がそう説明したのでロシアの記録に忍者がとんでもない存在だと書かれることになるのだが、九郎は別に気にしなかった。
また九郎の方も語学が堪能で小柄な護衛として宮中で有名であった。
報告書には彼が大木を切り倒して丸太を担いでいたともあるので、
「こんなお嬢様がフカシをコキすぎだぜ!」
と、巨漢の将軍が腕相撲を挑んできたので倒したら更に一目置かれるようになった。
のは良いのだが……
「ムハハハハ!! クロフスキー! ワガハイと閨を共にするのだ!! ムハハハハ!!」
「おのれ! また来おったか! 逃げる!」
「宿は完全に包囲されているぞムハハ!! このポチョムキーナと結婚するのだ!! そしてロシアに骨を埋めるがよい!!」
という謎の女ポチョムキーナに気に入られて毎晩襲撃を食らう羽目になったのだった。
何故か近衛兵が援護として九郎を捕まえようと大量に動員されていた。彼女はエカテリーナとその愛人ポチョムキン将軍との間に出来た隠し子であり──九郎の有用さに目を付けた皇帝側からのハニートラップだったのだ。
「見た目は悪くないけどノリが無理すぎるし、己れは不能だ」とは九郎が光太夫にこぼした言葉である。姿を消すことのできる九郎なので、逃げるにも隠れて寝るにも十分であったが。
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それから帰国の許可が出て、光太夫はイルクーツクに居る皆と大喜びをした。特に八十歳になろうかという三五郎など、息子の息子がもげてもうなんか最近完全に女体化しているがそれでも故郷で死ねることに打ち震えて涙した。
彼らを見ながら、九郎は一人微妙な顔をしていた。
「これも九郎の旦那のおかげです!」
「そうかのう」
「必ずこの御恩は、故郷伊勢にてお返しを!」
そう云うのだったが──
九郎のみは、別に日本に帰らなくてもいいか、と思い始めていたところであった。
故郷に帰りたい、とずっと思ったいたことだが、この時代の日本は彼の故郷とは云えないだろう。
ならば何処の国に居ても同じであり、折角この時代の外国に居て言葉も通じるのだから暫く世界旅行でもしてみるのも良いかもしれないと考えたのだ。
一度日本に戻れば、鎖国されていて外国にはなかなか出れないだろうことは想像がついた。
下手をすれば幕府から取り調べを受けるかもしれない。身元の怪しい九郎はそれも問題である。
世界情勢は怪しいものがあるが──まあ、自分一人なら何処ででも生きていけるだろうという気持ちもあった。死んだらそれはそういう運命だったということだ。
「ま、とにかくお主らを帰すことができて良かったと思うよ。誰一人欠けることなく」
「私のチンは欠けましたけどね」
「お主はそういう性別になる運命だったのだ……なんか知らんが異常に似合っているし女装」
お磯も一度ペテルブルクに呼ばれて延々と政府高官らにちやほやとされて、愛妾にされかけていたのだがどうにか引っ張ってきて帰国の準備もさせたという。
********
そうして大黒屋光太夫とその船員らはオホーツクから帰国の船エカテリーナ号に乗ったのだが──その途中で、何処を探しても九郎が居ないことに騒ぎ出した。
『故郷でも達者でな』と書き置きを見つけて──皆は突然の別れに泣きわめいた。
彼らは蝦夷に渡り松前藩に証書と共に引き渡され、それから幕吏に連れられて江戸で経緯を話すことになった。
その際に、道中ひたすら助けてくれて、最後に煙のように掻き消えた正体不明の密航者に関しては──どうあっても仏の使いとしか言いようが無かったという。
思い返せば十数年も一緒に居たのに、誰一人として九郎の郷里も過去も詳しくは知らなかった。
彼らの中で九郎という男は別れてからというものの、実在する助けてくれた人ではなく、神仏の類であるという念が強くなり、後年には伊勢白子にて九郎の社を建てて、海難を避けるご利益として祀られたという。
それから九郎はしれっとオホーツクからペテルブルクまで戻り、国境の兵士には旅券代わりにエカテリーナの顔が描かれたメダルを見せると、敬礼されて通行を許可された。
餞別として光太夫と九郎に渡されたそれはロシア国内で最高勲章に値して、欧州各国でも持っている者ならば国賓として扱われるレベルの代物である。
当然ながらロシアの国境程度は旅券代わりに見せて素通り可能であった。
「さて──ぶらぶらとヨーロッパでも旅してみるか。いつか落ち着いたら、また日本に寄ってみようかのう」
それから欧州の歴史に、あちこち日本人の九郎という人物が破天荒な行動で関わり、記録に残されていくのであったが……
これもまた、とある一つの異なる世界線の話である。
江戸の人々「ロシア行くと女体化するの……? 怖っ……!」
その後光太夫は小石川に住むように幕府に命じられ
お磯と祝言をあげた
光太夫「なんで!?」
ちなみに史実では漂流者17人中日本に戻れたのは光太夫と磯吉(TSはしない)のみというハードモード
こっちの九郎は海外の方が有名になり、戦闘服姿で糞長い刀とショットガンを手に持ってる図が絵に残されたりする
ヨーロッパ旅行のあとアメリカに渡って通訳として黒船に乗って日本に来たり




