表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
225/249

68話『徳川の女』

関係ないけど九郎天狗対策法


・怪力:重機レベルなのでまともに組み合ってはいけません。柔術の達人なら組み伏せることが可能です。

・飛行:強風や乱気流の中ならば飛行が乱れます。煙幕なども有効。

・透明化:体に触れると透明化範囲の問題で一時的に解除されます。勘で捕まえましょう。

・自動回避:一部武芸者の特殊スキルで突破可能です。また、レーザー攻撃、熱放射攻撃なども有効です。

・病毒無効化:ただし睡眠、催眠には耐性がありません。寝込みを襲いましょう。

・病気感染:人口密集地などでは使うことを躊躇います。

・雷:気合で避けてください。避雷針など有効。

・氷:直接触れられなければ周辺の気温を下げていく程度なので厚着をしましょう。

・炎:弱点らしい弱点は無いです。炎耐性のアクセサリーでも装備してください。



※今回の話は尿的な描写が多いので苦手な方は注意してください。




 江戸は日本全国の武士が集まる街である。

 江戸時代の諸藩といえば実質、国が異なるのと同じようなものであり、津軽藩と薩摩藩ほど遠い国になれば江戸で生まれ育ったの人間とはまるで言葉も所作も違ってくる。

 そういった様々な出身の者が江戸に参勤交代などでやってくるのでお上りさんが多く見られる。

 故に多少町並みをキョロキョロ見回していたり、戸惑っていたりしても殆どの者は「そういう者か」と納得して殆ど気にも止めないという。

 それと同じく、多少奇妙な格好をしていても、他所の国の者や大道芸人なども多いので目立たない。町中を覆面被って服装は町人といった江戸在住忍者が普通に生活しているだけはある。


 だが、その手を繋いで町中を歩いて行く男女二人組は異様に目立っていた。

 正確にいえば、片方はそう奇抜な格好ではない。妙齢の女は髪の毛をおすべらかし──頭の上で結わずに背中に流して、かもじで結んでいる髪型をしているのは若干変わっている程度だ。町人の娘がすると、動くに面倒な髪であった。

 姿は紬無地に黒繻子の帯と地味な色合いをしているが、顔つきはひと目でわかるほどに美女ではある。年の頃は十八前後だろうか。

 目を引くのはむしろもう一人の方であった。

 身の丈八尺(240cm)ほどもある僧体の巨漢である。胸は米俵のように分厚く、腕は大人の胴体ほども太い。腹が出て足が短いところなどはまるで地獄の鬼を彷彿とさせた。顔は編笠で隠しているから、本当にその顔は鬼なのではないかと周りに思われている。

 そしてそんな目立つ相手と手を組んでいる女の方も何者なのだろうと、合わさって注目を浴びていた。

 隣町からでも見つかりそうな男はため息混じりに、自分よりも三尺あまり背の低い隣の女を見下ろした。


「うーむ、どう考えてもお前は隠密に向かぬと思うのだ、シンよ。目立ちすぎる」

「そうは言われましても」

「お陰でわれまで目立って仕方ない。気分が悪いぞ」


 江戸城に住まうオークのシンはげんなりと首を振った。

 確かに自分もそう思わなくもないのだが、身分として将軍吉宗から与えられたのだから仕方がない。

 正体不明のオークが江戸城をうろついているというのはやはり問題があったので、シンは吉宗が紀州から連れてきた隠密──御庭番だということになっているのだ。苗字帯刀も許され禄も与えられ、公式の名は川村新六(かわむらしんろく)である。

 余談だが吉宗は『徳田新之助』という名を与えようとしたのだが、流石に吉宗の名をそのままやるわけにも行かなかった。御庭番の一人、川村弥五左衛門の親族という辺りに落ち着いたのである。

 

「姫様が外に出かける条件として、僕が護衛で付いていくって上様が決められたんだから仕方ないですよ」

「姫様云うな! お忍びなのだぞ!」


 女にキンキンと高い声で怒鳴られて、シンは肩を落とした。


「すみません……家重(・・)様」

「本名も却下だ! 外ではおしげさんと呼べ!」

「ううう」


 シンは呻いて、なんで自分がこんな役目になったのかを嘆いた。

 女の名は、徳川家重。


 徳川吉宗の長男にして、後に9代目将軍になる女である。




 *******

 



 家重が生まれたのは正徳元年──

 江戸の紀州赤坂藩邸にて、女児である家重が誕生したのだが、そこで一つ決め事がされた。

 吉宗はその近年で家族兄弟が次々と病死しており、或いは自分もいつ頓死するかわからぬと周囲の者を引き込んで策を練ったのだ。

 それは、生まれた子の性別を偽り、嫡子が誕生したと発表すること。

 吉宗がこれから男児を得るとも限らない。大藩である紀州藩主を継いだ者として後継者をしっかりと決めておきたかったのである。

 

 それから家重は人目から隠されて育てられた。

 生来の病気と告げて面会を避けさせ、女声を出さぬように人前では喋らないように徹底された。

 その後、五年後に男児である徳川宗武が誕生する。

 しかし江戸時代では幼児の死亡率は非常に高い。武家の子であってもそうだ。念のために吉宗は宗武が生まれても家重を男児としてあくまで次男とさせた。 

 その後、吉宗が江戸の将軍になることになりあちこち周囲が忙しくなり、家重が女とは言い出せないまま時が過ぎまくった。

 吉宗は時々うっかりするのだ。


 結果今でも、家重は事情を知る家臣らから男扱いを受けている。

 碌にものを喋れないということで兄弟と顔を合わせたことも僅かしかない。他の家臣などと顔を合わせる際は化粧をして女という印象を消していた。

 それでも何処か素顔の美しさは出るのか、徳川家重は代々の徳川将軍でも珍しく美形であったという話が残っている。


 実際、徳川家重が喋っている声を聞いたことがある者は側近の大岡忠光しか居ないという。これは脳障害により声が出なかったのではなく、女声を他人に聞かせるわけにはいかなかったからだという説もある。

 後年に遺骨が調べられた際には頭蓋骨や骨盤が女性の形に似ていて、他の将軍と違って胡座ではなく女性を葬る形の正座で埋葬されていたことも調べられている。

 

 その家重(女)であったが、性別を偽るためにひたすら窮屈な生活を送っていた。

 基本的に人に会わず、家族すら吉宗ぐらいしか殆ど接しない。母親は彼女を産んで三年後に亡くなっていることもあり、彼女の事情は他の家族──特に弟の宗武とその母──には固く口止めされていた。

 家重派とでもいうべき秘密を守る者らが側に居て、部屋に引きこもることを推めてくる。それ故に勉強か本を読む毎日である。

 しかも今度は女だというのに、体面のために嫁の手配までされつつあるという。何人かは彼女の世話役として女官が専属でいて、それを部屋に呼んで遊んでいるので女遊びをしていると思われている。

 いい加減彼女のストレスは限界だった。そこで彼女は吉宗に直訴したのだが、


「まだ待て」


 と、にべもなく突っぱねられ、どうにか引き出したのが遊びに出かける許可である。

 武士の頭領たる将軍の嫡男が町中に遊びに出るなど普通はできないことなのだが、外に出てしまえば家重の見た目はただの娘である。そうそう立場を求められることもない。

 窮屈な思いをさせていた負い目もあり、吉宗は家来の中で一等に腕力が強く、悪い輩への威圧感もあるシンを護衛にしてこっそりと外出させたのであった。



「よし! シン! どこぞ案内せい!」

「そんなこと言ってもなあ……僕もあんまりこの町に詳しいわけでは……何処か行きたいところあります?」


 異世界出身であり、何年か江戸で暮らしているが基本的に江戸城に居るので困った顔でシンが呟くと、お重は考え込むような仕草を見せて、


「うーむ……ひとまず」

「ひとまず」


 シンが繰り返すと、お重はびくりと身を震わせて告げてきた。


「……か、厠に行きたい」

「……」


 もじもじとし始めたお重にシンは目をむいた。

 顔を赤らめてシンを見上げ、彼女は急かしてくる。


「こ、これ! 徳が──吾が町中で粗相をしたとなると大変なのだぞ! 一大事だ!」

「ううう、わ、わかってますよ! ええと、公衆トイレとか何処にあるんだ? 全然知らないぞ?」

「急げ! いかん、動くとぴゅーっといきそうだ!」

「うわあああちょっと!?」


 まずい、とシンは思う。

 彼女に恥を掻かせたことが知られれば、下手をすれば腹を切らされる。吉宗もあれで、お重のことを酷い扱いをしている後ろめたい気持ちもあるのだが、かなり娘を大事に思っていることをシンは知っていた。 

 

「耐えてくださいねお重さん! らいどおーん!」

「むうーっ!」


 シンがお重を担ぎ上げて肩に座らせる。そしてドスドスと足音を立てて近くの店に入ろうとした。


「すみませんトイレを──」


 ごっ!と鈍い音が出てシンとお重は店の入り口の低くなった屋根に頭をぶつけた。編笠のせいで目測も間違っていたようだ。

 江戸の建物は基本的に八尺もある人外レベルの高身長に対応していない。


「ほぎゃー!」

「ああっごめんなさいお重さん!」


 頭蓋骨の硬さが鋼鉄並のオークと人間では痛みも異なる。お重は涙目になって打ち付けた額を押さえた。

 悲鳴が上がったのは店内からもだった。


「ぎゃあああ!?」

「あの、トイレを──」

「ひいいい!」

「だからちょっと厠を貸して──」

「お助けええええ!!」


 店の者が大騒ぎをした。何せ超巨漢が押し入ってきたようにしか思えないのだ。

 話を聞いてもらえるどころではない。このままでは番所の辻番でも呼ばれそうである。

 それに捕まりでもしたら面倒なことになる。一応、シンは吉宗から御庭番の鑑札を渡されていてそれを見せれば番所でも関所でも止められることはないのだが、担いでいるお重の膀胱は限界を迎えるだろう。

 そのときは死が待っている。シンは胃が痛むのを感じた。


「と、とにかく近くでトイレを貸してもらえるのは……」


 町に知り合いなども居ないシンが思いついたのは──


「──若干僕にダメージが入りそうだけど、致し方ない! お重さん、もうちょっと待ってね!」

「大學之道,在明明德,在親民,在止於至善。知止而后有定,定而后能靜,靜而后能安,安而后能慮,慮而后能得。物有本末,事有終始,知所先後,則近道矣……」

「呪文みたいなの唱え始めた!?」

「急げっ! 吾が四書五経で気を紛らわせているうちに……!」

「それで紛れるんだ……!?」


 脂汗を浮かべながら勉強してきた内容を口にする彼女。

 これまでの生活でやることは無かったので、もし科挙があれば合格するレベルに彼女は勉強をしているのだ。教養や詩の才能だけでいえば、どちらかと言うと体を動かすことが得意な父よりも上だろう。

 肩でぶつぶつと呟いている彼女を連れて、シンは目立ちながらも急ぎ走った。




 *******




 緑のむじな亭にて、九郎が珍しく一人でやってきて昼飯を食っていると表から牛でも走っているかのような足音が響いてきた。

 それは店の入り口で止まると、腰をかがめて店内に入ってくる。


「す、すみません! ト──厠を貸してください!」


 九郎も一瞬ぎょっとするような大男である。だが、よくよく見れば名は知らないが何度か目にしたことがある巨躯の僧であった。

 最初に彼を見たときも、この店にやってきて盛大にお雪に告白して振られていたのだが。

 彼の肩には顔を青くした女が虚ろな顔で載っている。


「……告子曰はく『性は猶ほ湍水のごときなり。諸を東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す……水が、水が漏る……」

「この子限界なんで!」


 かなり焦った様子でシンが言うので、九郎は板場の方を振り向いて六科と顔を合わせて頷いた。


「便所なら店の裏口を通って奥だぞ」

「ありがとう! ……うわああ通れない! これは通れないぞ!?」


 シンが店に入って、その狭い裏口に絶望し、更にそこから長屋の隙間のような裏通りに悲鳴を上げた。

 何せ長屋の通りというのは、人二人が腹ばいにならねばすれ違えないほどの狭さだ。人間三人分はあるオークでは支えてしまうだろう。


「お重さん! あとちょっとだから歩いてくれないかな!?」

「無理……一歩でも動いたらぷしゃる」

「ぷしゃる!? ううう」


 シンは慌てふためきながら店内を見回し、何度か見たことのある九郎を見つけた。

 もはや頼み込むか、長屋の壁を壊しながら突き進むしか方法が無い。


「そこの君! ヒッジョーに申し訳ないんだけど、この子を厠まで連れて行ってくれないかな!?」

「……まあ、切迫しておるようだし構わぬが」


 九郎は丼を置いて立ち上がり、シンが壊れ物を運ぶように慎重に渡してきたお重を受け取った。

 背中と膝裏に手を当てて体の前で持ち上げる、いわゆるお姫様抱っこの状態で揺らさないように厠へ連れて行く。

 そうしながら死にそうな表情をしているお重を見やる。


(どこぞの武家の娘のようだが……はて、誰かに似ているような?)


 首を傾げながらも、まあ武士の娘ならば小便を漏らす漏らさないは死活問題だろうと納得して厠の中に座らせる。

 ようやっと安心できるところに入り、お重は周囲を確認するが──


「んなっ!? お、おい! この厠、扉の上半分が無いぞ!?」

「長屋の惣後架(そうこうか)というのはそういうもんだ。しゃがめば見えぬから安心しろ」

 

 江戸の長屋にあるトイレ──総後架というものは、個室の扉が下半分しか無いのである。

 臭いがこもらぬ為とか、人が入っているのをわかりやすくする為などと言われているが、割りと不評な記録が残っていたりする。

 

「覗き込まれたら見られるだろう!」

「そんな眼張入道のようなやつはこの長屋におらん」


 眼張入道は鳥山石燕の創作妖怪で、便所を覗き込んでくるという。このような形の厠が多かったことから生み出されたのだろう。

 少なくともこの長屋では、助平な目的で便所を覗こうとした男は苦情が来た途端に六科にしこたま殴られると知っているので誰もやらない。過去にお雪相手にやった男は未だに殴られた顔面が変形しているという。

 だが、江戸城の個室で普段は用を足しているお重にはとても考えられないことだった。特に彼女の場合は、突発的に催した際に人を呼ぶ暇も無いことがあるので普段は自分一人で処理しているため、他人に見られるというのは一大事である。事情を知っている小姓か女官ならまだしも、単なる庶民相手にだ。

 

「こんなところで──ううっ」


 ちょろりと尻を雫が伝った。限界だ。

 彼女は顔を真っ赤にしながら九郎に言う。


「そこで見張っておれ!」

「……わかった」


 九郎はため息をついて厠の外からじろじろとお重を見た。


「誰がこっちを見張れと言ったかたわけー! 人が来ないようにだ!」

「注文が多い女だのう」


 面倒そうな声を出して九郎は背中を向ける。それを確認して、お重は着物をたくし上げて下腹部に力を入れた。


「ふう……」 

 

 割りと短い時間で用を済ませ、お重は厠から出てきた。

 そして耳糞を小指でほじっている九郎を憎々しげに見つつ呟く。


「まったく……本来なら一大事なのだぞ、一大事」

「そうだのう。戻るか」

「これ。手を」

「うん?」


 何故かお重が手を差し伸ばしてくるので九郎は疑問の声を上げる。

 彼女は唇を尖らせて言う。


「外を歩き慣れておらんのだ。転んだら一大事だから、手を引くのだ」

「何処のお嬢様だよ……仕方ないのう」


 生まれてから殆ど、紀州藩邸と江戸城で過ごしてきたお重にとって地面を普通の履物で、というのは中々歩く機会が無いのである。

 しかも江戸城では長袴を身に着けているし、引きこもっている。吉宗や二人の弟は外に鷹狩りに出かけるが、彼女はひたすらインドア派であった。そんな生活をしていれば、歩き方も忘れる。しかも普段は着ない女物の着物姿である。

 何せ、江戸城で着替えて試しに動いただけで何度も転んだぐらいなので、シンもやむを得ず手を繋いで歩いていたぐらいであった。


「それならまず手を洗え」


 九郎は術符を取り出して溝の上でホースから出す程度の水流を落とした。

 いきなりの水芸にお重が驚く。


「うわっ!? なんだ!?」

「……妖術だ」

「か、怪力乱神を語らずだぞ!」

「語らんで実際使うのはいいだろ。多分」

「そういうものかな……」


 恐る恐る、お重は水流に手を入れて拭う。冷たい水が札から出てくるのを目を丸くして見ていた。

 九郎が懐から取り出した手ぬぐいを渡してやり、それから手を握って店へと向かった。

 その途中で長屋の扉を開けっ放しにしている住人から冷やかされる。


「おっ! 九郎の若旦那、また新しい妾さん!?」

「やかましい! 誤解を招くような噂を流すでないぞ!」


 そのやり取りを聞いてお重は、


(吾が徳川の嫡子とも知らずに、それを妾などと何と笑えることか)


 そう考えて僅かに微笑むのであった。


 店に戻ると居心地が悪そうに隅の方でシンが待っていた。

 それから九郎にぺこりと頭を下げて言う。


「どうもでした」

「お姫様のお守りか? 大変だのう」

「え、ええまあそんなところで……」


 さすがの九郎も、まさかお重が本当に将軍家の姫だとは想像もしていない。

 ただ何処かの大名か高禄旗本あたりのお転婆な娘が、家来に無理を言って外出しているのだろうと想像していた。

 排泄をして余裕を取り戻したお重は店を見ながら訪ねる。


「ところでここは何だ? 便所に付属した小屋か? ちちう……公方様が、確か江戸市中に公衆便所を何箇所か作ったと聞いたが」

「失礼な娘だなこやつ……ここは飯屋だ、飯屋」

「ほお。ごちゃごちゃしておるからとてもそうは見えぬが……なんだこの机は」

「そこの上に膳を載せて椅子に座って食うのだ。便利だから己れが用意した」


 江戸時代にはあまり無かった、テーブルと椅子の食事スタイルである。むじな亭では詰めれば六人座れるテーブル席が二つと、座敷が四つある構造になっている。座敷も一番奥まった、九郎がよく使っていた席にはちゃぶ台が設置されていた。

 九郎が「時代劇ではよく見たので、無いと寂しい気がする」と思って店を改造していた来た当初に作ったのである。数年経過した今では、幾つかの店舗が真似をしてテーブルを置くようになっていた。 

 お重は顎に手を当てながら呟く。


「変な食い方だが……確か唐国ではそうやるのだったか」

「なんだ、詳しいのう」

「本で読んだだけだがな。それも娯楽本で。『水滸伝』とかでよく酒を飲んで肉を食う店は机があるものだろう」

「渋い趣味だのう……」


 若い娘にしては変わっていると、九郎はお重を見るのだった。

 するとシンがまた頭を下げながら名乗ってくる。


「ええと、名乗り忘れまして。僕はシン……川村新六と言う、しがない者です。こっちはお重さん」

「お主、名字もある武士なのだろうに。その立派な体格でペコペコするものではないぞ」

「い、いやあ……そうはいっても僕なんて、庭で花とか植木とか弄る程度の仕事をしているものですから」

「ふうむ」


 御庭番、という名の通り近頃シンは江戸城の庭にあちこち手を入れる手伝いをするのが仕事であった。

 何せ背が高くて力も強いので手伝うには便利だ。それに、場内で栽培しているサトウキビや薩摩芋などを管理するのは、他の者が未経験で失敗したら困るためやりたがらなかったのでシンの役目になっている。

 だがまあ、そんな事情を知らないので九郎はシンの事を「中間のような低い身分で庭仕事を任されている」と受け取った。


「吾がお重だ。単なる女だから気にするでない」

「……わかった」


 こんな単なる女が居るかと九郎はツッコミ掛けたが、まあどこぞのお嬢様がお忍びで外に出ていることはバレバレだったので敢えて言わなかった。

 恐らく家来の中で一番体格の良い者を護衛として無理やり連れ出したのだろうと納得する。何処か悲哀を感じる所作をしている巨漢に少しばかり同情した。


「それにしても飯屋とな? 庶民の食う飯とやらを吾も食ろうてみようか。腹も減ったのだ」

「え、ええとじゃあ僕は外で待っていようかな……」

「これ! シン! お前のようなデカブツが外に立っていたらしょっ引かれるぞ! お前も食うのだ!」

「うううう」


 シンが呻いて、小声で言う。


「お雪さんに振られた店だから居づらいというか……」

「なんだそんなこと、気にするでない。長屋の男なんぞ全員振られておるからのう。でかい図体の割りに気の弱い男だ」


 笑って九郎がシンの背中を叩き、座敷に座らせる。

 その対面にお重も座ってから、楽しそうな声を出す。


「食べ物は何があるのだ? ヒエとかアワとかか?」


 庶民に対するイメージが貧困だった。


「そんなもん客に出す店は潰れるわ。とりあえず今日のお勧めは……葱鮪(ねぎま)蕎麦だな」

「うむ」


 六科の肯定が聞こえた。


「じゃあそれを一つずつ!」

「ちなみに卵と白飯も付けたお得な満腹セットもある」

「ならそれも!」

「酒もある」

「酒! 飲まずにはいられないのだ!」

「毎度」


 勧められるがままに、客単価アップ作戦に乗るお重であった。彼女は酒も大好きだ。

 葱鮪蕎麦は、葱鮪汁に茹で置いた蕎麦を入れてやるだけだから非常に簡単で作り置きが利くので六科でも失敗しない。時々する。

 妙な二人組を九郎が椅子に座って観察していると、娘のお風が盆の上に葱鮪蕎麦を二つ載せて運んでくる。


「ど、どうぞ……」

「うっ……」

「どうしたのだシン。突然目頭を押さえて」

「放っといてください……」


 初恋の人の娘であることを認識してそこはかとないダメージを受けるシンであった。

 それはそうとまだ五つ程の子なので、丼二つも持っていると危なげに見えたからシンは掌だけでお風の頭が収まりそうな大きな手を差し出して蕎麦を受け取った。


「はいお重さん」

「おおお! 見ろシン! 湯気が立っておるぞこの料理! 見たことなかったのだ!」

「どんな食生活をしておるのだ……」


 呆れたように九郎が呟いた。

 基本的に徳川将軍の嫡男として扱われる家重が食す料理も、最大限毒味など注意が行われている。特に他に男児の兄弟もいるので、何かあってはいけないと丹念に調べられるのだ。

 その結果、将軍が食す場合もそうだが──とにかく料理が冷める。

 料理を作って三十分かけ毒味をして、二十分掛けて広い江戸城を運び、一時間掛けて二度目の毒味をして、更に食す直前にも毒味をされて食べるのである。

 作ってから二時間は掛かる。途中で温め直す場合もあるのだが、その途中というのが二度目の毒味前ぐらいなのでそこから一時間は経過するだろう。

 冷めてまずい料理ばかり食べていたお重が、温かい蕎麦に初体験であった。


「うーむこれは知っておるぞ。元禄の頃に出版された『料理物語』に載っておった、葱鮪なのだ。食うのは初めてだが……ちゅるん」


 慎重に蕎麦を啜ると、お重は頬を押さえて微笑んだ。


「うまい!」


 そう評価して、麺を勢い良く取って口にいれて食べた。葱鮪蕎麦は、鮪のトロを蕎麦の返し……醤油と酒と砂糖を混ぜて寝かせたつゆで煮込み、生姜を入れて臭みを押さえた。それを鰹出汁で割って薄め、蕎麦を入れたものだ。

 最初に濃いつゆで煮ているのでトロの旨味は汁に溶け込み、また切り身の中にも醤油味が染み込んでいて噛みしめるとたまらない。

 シンもまるでミニチュアのように見える丼を器用に持って、


「じゃあ……ちょっと頂こうかな。あんまり気持ちのいい顔じゃないのはごめんね」


 そう言って編笠を外して横に置いた。笠の下からは、毛髪の生えていない頭、前を向いている鼻孔、薄い唇から見える太い歯、全体的に薄桃色めいた肌色、少し尖った耳、黄色い目と異形の顔が出てきた。オークの顔だ。それを見たお風は「ぴゃっ」と言いながら板場に逃げてしまった。

 静かに傷つくシンだったが、吹き出しそうになったのは九郎である。


(そう言えば前にもちらっと見た気がするが、オークにそっくりだなこやつ)


 と、以前は一瞬だが天一坊事件の際にシンが笠を上げた際に一瞬目にした事を思い出した。

 というかモロオークなのだが、九郎はそれに気づかない。

 何せ九郎の知り合いであってオークと言われると真っ先に思い浮かぶオーク神父は肌の色が浅黒いタイプのオークなのだ。如何にも黒豚といった印象だが、シンはギリギリで人の肌でもありそうな範疇の肌色をしていた。

 ついでに言えば、例えばゴリラにそっくりな人間というのは現代日本でも居るだろう。だがそれを見ても、ゴリラにそっくりだと驚き笑えるだけで、まさかゴリラ本人が人間の格好をしているとは思うまい。

 それと同じく、まさか江戸にファンタジー種族のオークが居るはずもないので、オークにそっくりな人間が居るものだなあと九郎は感心するのみであった。

 シンは落ち込みつつも蕎麦を啜る。


「あっ本当だ。鮪の脂でこってりとした辛目の汁に、蕎麦のもそっとした麺が良く合う」

「シン! 吾の語彙が貧相みたいではないか!」

「大丈夫だよ。君のお父さんは料理の評価で『今日出た魚は鮮度が悪かった』しかこれまで聞いたことないし、いつも無言でモソモソ食べてるから」


 吉宗はあまり食い物の好き嫌いはないのだが、紀州藩時代から新鮮な魚にはこだわりがあるようだった。

 前述したように冷める上に温め直して出された料理でも、ある日に鮮度が悪いとつぶやき、調べたところ確かにその日は江戸城に入る前に死んでいた魚を料理したことがわかったという。


「父上は味音痴の上に醜女専で……うっ」


 突然、お重の箸が止まった。

 はてと九郎とシンの視線が集まると、彼女は気まずそうに言う。


「……厠に行きたい」

「さっき出しただろ!?」


 九郎がツッコミを入れた。歯を食いしばりながらお重が九郎と言葉を応酬させる。


「残りがあったのだ! 我慢できん!」

「ええい、一人で行って来い!」

「手を引かれんと転ぶぞ! 転んで便所に頭を突っ込んだらどうする!」

「どうもせんわ!」

「あ、あのー……大変申し訳ないですけど、どうか、どうかここは押さえて……連れて行ってやってください。僕通れないんで」


 シンが手を合わせてちゃぶ台に額をこすりつけるように頼むので、九郎は嫌そうな顔をしつつ、板場にいる六科の後ろに隠れてこちらに顔だけ見せているお風に言った。


「お風。このお姉ちゃんを便所まで連れて行ってくれるか」

「や。こわい」

「そうか……」

 

 あっさりと断られて九郎はがっくりと肩を落としながら、お重を連れて厠まで向かった。

 またしてもあっさり用を足して、釈然としない気持ちで店に戻る。

 

「すみません……」

「お主が悪いわけではないのはわかる」


 ひたすらに謝ってくるシンに九郎がため息混じりで返した。

 だが当のお重は、二回目ともなれば羞恥も薄れたのかむしろ堂々と言う。


「仕方なかろう。排泄をしない人間など居ないのだ」

「せめて自分で歩け」

「家の中なら平気なのだが……」


 それにしても、と九郎が葱鮪汁に飯と卵をいれておじや風にして食べているシンを見やる。


「そんな立派な体では量が足らぬのではないか? おかわりはどうだ」

「いえ、いいです。というか最近食べすぎたから、減量してて……」

「その体でこの量では持たんと思うがのう……」


 まさに相撲取りを巨体にしたような大男の姿を眺め回しながら九郎はそう呟いた。

 

「酒だ」

「待ってました!」


 お風の代わりに六科が冷酒を持ってやってくるのを、お重が両手を上げて迎える。 

 葱鮪蕎麦のつゆに沈んだ鮪のトロを摘んで口に入れて、じゅわっと脂と塩気を味わってから酒で洗い流す。

 この店は地味に九郎の好みで、良い灘の上酒を仕入れている。それはお重の口にも合ったようだ。

 あっという間に一合徳利を湯呑みで飲み干す。


「くはぁー! 家で出される酒は薄いのだが、これは良いのだ! もう一本!」

「おい、あまり飲み過ぎると……」

「……厠に行きたい。連れて行って」

「もうかよ! 早いだろ! バカか!」


 凄い勢いで催した表情に変わりながらお重は九郎の袖を引っ張ったので、思わず罵倒も入った。

 シンが頭を抱えながら言う。


「お重さんは重度の頻尿ひんにょうなんだ……っていうかよく考えたらそんな体質でよく上様の外出の許可が出たな……」






 ******






 江戸城にて、吉宗が政務中にふと尿意を覚えて思い出した。


(そう言えば家重は厠が近いのだったな……まあ、シンがどうにかするだろう)


 吉宗は時々うっかりなのだ。





 *******





 史実でも江戸城から、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺まで行くのは将軍の義務のようなものなのだが、その道中にすら尿意が我慢できないとして二十三箇所も便所を設置したというほどに徳川家重は頻尿であった。

 通称が小便公方とまで呼ばれたのは伊達ではない。

 

「どうか優しい気持ちを持って、彼女を厠に連れて行ってあげてください……」

「そうするのだ」

「頻尿の気持ちはわからんでもないが……ええい、一々面倒な」


 何はともあれ、小便の度に九郎が手を引いて連れていき、便所の前で待つというのが面倒すぎた。

 三度目となれば長屋から厠へ二人連れで向かう九郎の姿にあからさまに訝しがられる。

 そして再びお重を厠に入れてその前で待ち──


「ふう、スッキリした」

「早い! お主あんまり出してないだろう!?」

「し、失礼な! しっかり用を足したのだ! もう出ないぞ!」

「ちゃんと出さんから何度も行く羽目になる! 下っ腹を押して絞り出してやろうか!」

「やめろー! 触れるなー! 無礼者ー! もがっ」


 騒がれると既婚者である九郎は具合が悪い。

 酷く徒労している気分になりつつ、お重を連れて店に戻った。


「とりあえずもう酒は禁止な」

「おのれ……」

「こんな調子では外も出かけられんのではないか?」

「ええ……どうしましょうか。お重さん、何処に行きたいんだっけ」

「とりあえず本屋で家に無い本を持って帰りたい。それから、前に父上から貰った『けいき』という菓子を食べたいのだ! 旨いのだぞ~頬がとろけるようで……」

「さっぱり店の場所がわからない……」


 シンは軽く頭痛をこらえながら絶望的に呻いた。

 その様子に同情が募り、九郎は声を掛けてやる。


「……ケイキという菓子ならば、売っている店を知っておるから連れて行ってやろう」

「いいんですか!?」

「これも何かの縁だろう。今日は暇だし……それに、ちょいと思いついたことがある」


 シンは大喜びで立ち上がる。江戸に詳しそうな人が案内してくれるなら、それほど助かることはない。

 きっと彼は良い人なのだろうとシンは思った。何か前に、凄まじい怪力を出していた気がするので少し怖かったのだが。


「では吾の手を引く名誉をやろう!」

「いらん」

「できれば僕からもお願いできたらなーって……ほら、身長差がとんでもないから僕かがまないといけないのでお互いに歩きにくくて……」

「なんで外出しようと思った……このコンビで……」


 九郎は顔を顰める。これでも案外知り合いが多い上に近くにいるシンが容赦なく目立つので、知人から知らない美女と手を組んで歩いているところを見られると嫌な噂が流れそうだった。

 

「とにかく、出発するか。メシ代を払え」

「ええ──お重さん」

「なんだ? シン」

「……」

「……」


 二人は気まずい沈黙をして目線を合わせて、九郎らに背中を向けてこそこそと喋りだした。


「あ、あれ? お重さんがお金持ってるんじゃないの?」

「馬鹿者! 吾が持っているわけなかろう! 生まれてこの方、銭も小判も触ったことも無いのだぞ!」

「ええええ……でも出かけるってお重さんの都合だから、買い物代ぐらい持っているのかと……」

「シンこそ父上から貰わなかったのか? というかシン。お前は父上から給料を貰っている身だろう。幾らか持っているはずだ」

「ふっ……世間知らずのお重さんに重大な事実を教えてあげよう。これを聞かされたとき僕もびっくりした。この国はお給料をお米で払っているんだよ! 僕の場合は年間三十俵! 結構な量で、頑張って食べてるんだ。そのせいで最近太ってきた気がして、減量中で」

「馬鹿かお前は!? 役人が給料を本当に米だけで貰うやつがあるか!」

「え」

「あの米は米屋に売って現金収入にするのだ! 一人で食いきれるはずがなかろう!」

「そんな……たしかに三千石の大岡様とかすごい沢山食べる人なんだなあとか思ってたけど……」

「発想が食いしん坊すぎる!」


 そうやって絶望的な会話をしている二人が、ジト目で見ている九郎と六科の視線に気づいて振り向いた。

 思わず揃って作り笑いを浮かべる。


「あ、あはは……」


 九郎は大きく肩を落として首を振った。


「……わかった。己れが今日はこの店とケイキの代金は立て替えておいてやるから、後日に支払いに来い」 

「あっありがとうございます~!」

「お前、案外に良い奴なのだな! 家来に取り立ててやろうか!?」

「いらんわ」


 九郎は六科と目配せをする。この店では九郎は身内なのでツケでもいいと六科は思っているのだが、豊房に怒られるので代金を受け取った。

 それでは慶喜屋に案内しようかと入り口に向かったが、声が掛けられる。


「待て! 厠に寄ってからにしよう」


 ……九郎は厠で喚いて嫌がるお重の下っ腹をぐりぐりと押してやった。



 一方でシンは、おずおずと店先に出てきたお風から、


「……また来てね」


 そう声を掛けられてまたなんとも言えない感情に目頭を押さえていたら、たまたま近くを通りかかった稚児趣味同心・菅山利悟が児童ポルノ犯罪の気配を嗅ぎつけて、不審者シンを逮捕しようと十手で打ちかかったのだが、シンから御庭番の鑑札を見せられて土下座していた。


 厠から帰ってきた九郎は気にせずにシンを連れて土下座稚児趣味野郎を無視し、慶喜屋に向かうのであった。





 ********






「厠」

「またか! 病気だぞお主!」


 慶喜屋への道中でやはりさっき済ませたというのに、歩くことで膀胱を刺激したせいか催したお重が言ってきた。

 厠の中でぐりぐりと腹を押してやったのはあまり効かなかったようである。


「仕方ないのだ! いきなり大きな波がやってきた! 我慢ができん……もうすぐに出るぞ!」

「ええい、ここらは武家屋敷ばっかりで厠を借りれそうな場所も無いというのに……」

「ど、どうしましょう!?」

「今度は近い……! もう出そうなのだ……!」

「そこらの道の隅で野ションしかあるまい」

「嫌だー! 何が悲しくてこの吾が、犬畜生と同じように壁に引っ掛けねばならんのだー! それに、そこらの者に見られたら腹を切って死ぬー!」

「じゃあ出歩くなよ……!」


 九郎が舌打ちでもせんばかりの表情でお重を近くの壁──木材や樽などが無造作に積まれたところへと担いで素早く連れて行った。ギリギリ人目から隠れられる場である。

 そうしている間にもお重の尿管を液体が通り始める。完全に限界が近かった。

 

「はい座れ!」

「父上……吾は身に余る恥で命を断ちます……!」

「人に見られねばいいのだろう」


 言うと、九郎は術符を使って座り込んだお重の体を完全に透明化させてしまった。

 

「なんなのだこれは!? どうなっているのだ!?」

「天狗の隠れ蓑とかそういうのだ。姿を見えなくしてやった」

「お、お重さん。体が見えない状態になってるよ……そういえばこの人、前も透明になってたんだった……江戸にも魔法使いっているんだなあ……」

「手も足も見えん……こ、これならしても……」

 

 覚悟を決めたような声と共に、僅かに水音が聞こえるのを九郎とシンは口笛を吹いて誤魔化していた。


「ううううう……」

「済んだか? よし、いっそ透明なまま運ぶぞ」

「え? ちょっと」

「ちんたら歩いていたらつくまでに何度野ションをするかわからん。シンとやら、付いてこい」

「あっはい」

「いや待っ──変なところ触るなぁ!」

「見えん」


 暴れる透明人間を適当に担ぎながら、九郎は走って慶喜屋へと向かうのであった。

 その後ろをシンがドスドスと音を立てて追いかける。微妙に不審だが、担いでいるお重が見えていたら更に危険な絵面になるだろう。

 途中で一度辻番に止められたが、シンの鑑札で事なきを得て二人は急いで走っていった。

 最初は文句を言っていたお重だが、抱えられたまま流れる街の景色に目を奪われて、躓かぬように歩かなくていい分だけそれを楽しめた。


(おお……これはすごい。よし、この男を御用達の駕籠かきとして雇ってやろうか)


 しかしながら将軍家の者が、江戸の市中に御用達の駕籠など持っていたところでいつ使うかは不明だったが。

 徳川を徳川とも思わぬ不敬な態度──身分を隠しているので当然だが──に腹立たしい思いをしたが、ころっと忘れて気に入るお重である。あまりにこれまで不自由に暮らしていたもので、楽しい経験にとても弱くなっていた。

 人から疎まれたり、悪意を向けられたり、出来損ないだとため息を貰うことなどは慣れているが、こうして楽しい思いをしたことなど能を見る時ぐらいであったのだ。

 無言になったので時折不安げにシンが九郎の担いでいると思しき空間を見ていたが、ひとまず一同は慶喜屋へ辿り着いた。

 お重の透明化を解除してシンにひとまず預け、九郎が暖簾をくぐる。それに続いて二人も入った。


「いらっしゃ──あら、旦那様──うえええ!? 旦那様!? 後ろー!」


 客対応をした女性店員が入ってきた九郎と、シンを見て大声を上げる。しゅんと編笠を被った巨漢は肩を縮めた。

 その声に反応して他の店員や客も注目してにわかに騒ぎそうになったが、


「気にするな。己れの友達だ」


 九郎がよく通る声でそう言うと、


「なんだ天狗殿の友達か……」

「大入道とかそういうのだろう……」


 と納得したように店員らと常連が落ち着いたので、見慣れない他の客は戸惑いながらも「騒ぐことじゃないのか……?」と思ってひとまず座り直したようだ。

 九郎の知り合いならどんな変なやつが居ても不思議ではない。

 よくこの店にも覆面を被ったふんどし一丁の卵売りが来るぐらいなので、それに比べればシンは服を着ているだけマシであった。

 

「よし。奥に上がろう──いや、まずは便所か」

「いや待て。今お前、旦那様とか呼ばれていなかったか?」

「己れの店だ、ここは」

「はぇーっ」


 感心したように繁盛している菓子屋を眺め、人が持ち帰りで箱に入れてもらったり、座敷で皿に載せて食べているケーキを見て唾を飲み干す。

 するとそれを呼び水にしたかのように、お重は膀胱が危険信号を送り始めたので素直に九郎について店の厠へと行って、用を足した。やはりほんの少ししか出ないが、我慢できないのは仕方がない。

 それから店の一室に入る。そこは空き部屋で物置にしていて、色々と道具が積み上がっていた。


「ケイキは?」

「まあ待て。それよりお主の頻尿の話だ。こんな調子では毎日面倒であろう」

「大きなお世話だ」

「お世話を受けまくった後に云う言葉ではないよお重さん……」

「うっ……」


 怯んだお重だが、歯噛みをして目元を熱くしながら云う。


「だが治らんものは仕方なかろう! お薬も飲んだのだぞ! だけど、尿ゆばりが出そうなのにひたすら我慢するのは本当に辛いのだぞ! お腹も痛くなるし!」

「わかっておる。我慢などしていては、別の病気に掛かるかもしれん……そこで逆転の発想だ」


 九郎は積み上げられた荷物の中から小さな木箱を取り出して、そこから中に入っていた厚めの布を広げて見せた。


「なんなのだ? それは」

「名付けて、我慢できないならいつでも漏らせばいいじゃないか作戦。おしめだ」

「吾におしめを巻けというのか!?」


 九郎が取り出したのはおしめ──布おむつとも云う──であった。

 勿論昔から、それを使うのは赤子の頃だけである。ただし現代でも女性は頻尿などのために着用することもあると九郎の知識にはあるので、それを勧めているのだ。


(この徳川将軍家嫡子の徳川家重に赤子のようなおしめを!? ……いやまあ、女なのに嫡子ってのもおかしいからそのうち変えられるんだろうけど)


 そう勢い込んで云ったが、


「おしめを巻くより小便を漏らしかけて毎日騒動するほうが恥ずかしいだろう。それにこれはただのおしめではない」

「……一応聞いてみようか」

「己れが嫁の実家である呉服屋と協力して開発した、超吸収保水発散おしめだ」

「ちょ、ちょうきゅうはおう?」

「……要するに、このおしめは普通の布おしめよりも沢山の水を吸い取って、ついでにあまりびちゃびちゃにならん。肌触りも考慮されておる。絹繊維の綿と干した天糸瓜へちまを組み合わせて天然吸水性高分子素材のようにして、上質の綿布を何枚も組み合わせて挟み込んで……多少分厚くなったが、巻けないことはない」

「つ、つまりお前は……この吾に、いつでも人前で小便を垂れていろというのか!?」


 信じられないようにお重は云うが、九郎は苦い顔で返事をした。


「だからお主が小便をこれに漏らしても、外からはわからんようになっておる。見たところ、一回で出す量は少ないから五回や十回ぐらいは絞らんでも良いはずだ。まあ、このおしめは試作したのが三枚あるから頃合いを見て取り替えて干せばいい」

「なんでそんなのを作ったんです?」


 シンから聞かれて九郎は「うむ」と暗い顔をし、


「今度子供が生まれるのだがな、嫁やら妾やらが子育てに張り切っていて父親である己れにはとても手伝いが回って来そうにない。そこで何か赤子に役立つ道具でも作ってみようかと、予算度外視でこっそりと作成してみた」

「よかったじゃないですか、完成して」

「ところが、だ。あの女ども、『おしめは普通の布のを毎回変えて洗ったほうが綺麗でいい』とか『子供の面倒を見る人手は足りてるから手間でもない』などと根本的に己れのズボラアイテムを否定してきて……そりゃあそうだよな……」

「た、大変なんですね」

 

 父親の無駄になった努力の結晶が、江戸ではオーバースペック気味な高吸収性おしめであった。

 

「設計上、素材を重ねているから分厚いが……着物だったらどうせ腰や尻は帯で盛るから目立たんだろう」

「うーん……これを付けていつでも尿をなあ……」

「ウンは出すなよ」

「出さんわ! 頻尿だけだ!」

「まあ……要らんならそれでもいいが、正直お主ぐらいしか使い所無さそうでな。一般販売しようにも材料費かかりすぎで高いから絶対に買い手がつかんとお墨付きを貰ったからな。嫁の実家に」

「うーん、うーん……」


 悩んだ挙句にお重は、


(まあ……気持ち悪かったら捨てればいいか)


 そう決断しておしめを貰うことにしたのであった。


「よし! 早速付けてみよう」

「そうか、頑張れ」

「何を云っておるのだ。付け方なんぞ知らんぞ。お前、作ったのなら吾に付けてみよ」

「……」

「……」

「おいシンとやら」

「僕に言われても、僕もやったことないし……へ、部屋の外で待ってますから!」

「逃げおった! おい護衛! 止めろよ!」


 いそいそと逃げ出したシンに取り残され、九郎はゲンナリと微妙にズレた女へと向き直る。

 まあさっきから何度も排泄の介護をしまくって今更だと九郎は思う。お重もそう考えていた。シンにやられるよりは、まだ九郎にされた方がマシであった。

 九郎は追加の道具も取り出した。


「これもくれてやる。天花粉を詰めた瓶だ」

「天花粉というと……烏瓜の根を潰して乾燥させた薬だったか?」

「うむ。とりあえず設計上、股の中はじっとりするからな。肌触りを良くするので気になったら使うといい」


 天花粉、つまりこれも赤ん坊に使えると思って用意していたベビーパウダーである。汗疹の予防、治療になって肌に良い。こちらは嫁たちにも受け入れられた。

 九郎も今更、十八ぐらいの娘の股ぐらを見たぐらいで特に思うことはない。

 帯を緩めて着物を開けさせたお重の股にさっさと天花粉を塗りつける。独特の匂いと、粉の感触で彼女は僅かに声を出して笑った。

 それからさっさとおしめを巻いてやると、お重は分厚いパンツを履いているようになった。


「手慣れているな」

「親とはそういうものだろう」

「そういうものなのか……? うちの父上では、想像もできないが」


 自分に謎の不自由を強いている、偉大で比較されるだけで嫌になってくる父親が、子供のおしめを替える姿など想像もできなかった。

 むしろ千尋の谷から突き落としそうだと思った。

 

「親になると不器用で、やってやろうと思うことは沢山あるのにそうもいかんものなのだ……よし、ちょっと立って動いてみよ」

「ん……」

「歩けるな? 腰が曲がらんなどということも無いか?」

「大丈夫だ」

「ふむ……」


 やはり和服の上からでは分厚いおしめなど一切履いている気配を感じさせない。

 見下ろしながら、これなら袴でも大丈夫だろうとお重は思う。江戸城内では基本的に袴姿だが、かなり大きい物を身につける上にいつも座っている。

 後は世話役の者におしめの説明をして履かせて貰うだけだが、それはその者の仕事なので恥ずかしいとも思わなかった。決してお重についてのあれこれを外に漏らさぬ者しか居ない。


「あのー……お店の人がお茶とケーキをって」


 部屋の外からしずしずとシンの声が掛けられて、お重は感情を弾ませた。


「ケイキ! 持って参れ!」


 云うので、用事も済んだかとシンと店員が部屋に入る。なおその際に、九郎が手直しした事もあって若干お重の着衣に乱れがあった為、それを目ざとく見つけた──元遊女なのですぐにわかった──店員が勘違いをするのだが……

 基本的に九郎はそういうことをするタイプの男だと認識されていたので、特に噂が流れても騒がれなかったという。

 まあ、正直に「今日出会ったばかりの女におしめを履かせていた」という情報が流れるよりは女をコマシていたという噂の方がマシかもしれないのだが。


「うまぁー! 別物! この前食べたのとは別物ではないかぁ~!」


 焼きたてのケイキを全力で頬張りながらお重が涙を目に浮かべる。やはりというか、吉宗から渡されたのはすっかり冷めていたしかなりぺしゃんこになっていた。それでも革新的な旨い菓子だったのに、焼き立てを味わったら堪らなかったのだ。

 感慨深そうにシンも呟く。


「うーん美味しいなあ。ケーキ屋もあるんだなあ江戸って……」

「おかわりは!? なあおかわりは!?」

「わかったわかった」


 九郎の方も、可愛い娘が全力で喜んで食べていて悪い気はしない。

 店員に頼んでもう二、三枚焼いて持ってくるように注文しておいた。

 その間に口の甘味をリセットしようとお重がお茶を飲んでいると、


「……き、来た!」

「お主……口から水分を入れたらダイレクトに膀胱に入っていくのではないか?」

「違う! きっとおしめでお腹を巻いたから……ううう、厠ぁー!」

「いや、漏らしても大丈夫なのだろう……多分」

「多分って言ったぁー! あっげっ限界っ」


 ピタッとお重の動きが止まる。

 九郎とシンの言葉も無く、静かに部屋の時間が流れた。

 それから店員が追加のケーキを持ってきたのだが、押し黙った三人を見て首を傾げる。

 店員が去った後で、お重は恐る恐るまず自分が座っていた床を探り、次に着物の尻部分に触れて、最後に手を突っ込んで巻いているおしめを確認した。


「も、漏れてない! 結構出たのに、おしめもまださらさらしておる!」

「おお、成功か」

「これは便利だ! これさえあれば父上などから『またか』と言った顔で見られんですむ! ありがとう、お前を吾がお菓子兼おしめ係として家来にしてやろう!」

「それは全力で断る」


 九郎は真顔でそう応えたが──

 まあ、少なくとも使わなくなったが捨てるにも惜しい道具を渡す相手が居て良かったと思うのであった。

 それから、九郎が顔の利く版元に連れていき、置いてある本を幾つか選んでお重はシンと帰っていった。

 その間には一度も便所に向かわなかった。


「何度も云うが、保水力は限界があるから時々変えて洗って干すのだぞ」

「わかっておる。この礼はまた今度持ってくるからな!」

「色々お世話になりました。立て替えた代金も用意しますから……」


 そう言って去っていく変な二人組を見送るのであった。






 ********






 さて、それから。

 江戸城にて、家重は毎日九郎に貰ったおしめを付けて生活するようになった。父親にも内緒であり、シンにも口止めさせた。まさか市中に遊びに出て、出会った男におしめを履かされたなどと将軍家の娘が言えるはずもない。成敗!される。

 すると頻尿こそ治らないが、本当に尿もれしないのである。

 念のためにおしめは一日二回ほど変えて女官に洗わせて干させていれば充分であった。

 元々頻尿ではあるが、大量に水分を取っているというわけではないので尿の量は少ないことが幸いした。また、ヘチマには抗菌作用もあるので菌増殖も防げて、天花粉を付けていることもあり臭いも気にならない程度である。


 家重は江戸城内では、脳に障害があってあまり人と関わらず、物を喋らないという設定で通っている。

 本人もそのように演じて、特に弟などと会う際には余計にまともではないフリをしていた。それは吉宗にも厳命されていたのだ。

 その日はたまたま、家重が旗本の中から能舞の名人を呼んできて舞わせるのを見物しているときに、武芸の稽古から帰ってきた弟の宗武が通りかかった。

 徳川宗武は家重とは腹違いの弟で、聡明で勉強もできてまた武芸も得意であった。

 そういう存在なので家臣の中では家重ではなく宗武を次期将軍に、という声も多かったという。本人もそれを知っており、むしろ賛成しているようなフシが見られた。

 宗武が近づいてきたのを気づいて即座に家重は、


「あうあうあー」


 と曖昧な声を出して呆けた顔つきになる。

 宗武は舌打ちをして愚兄と思っている家重を睨んだ。


「ふん。兄上もたまには武芸を稽古したら如何ですかな」

「あーうー」

「いずれ将軍になる方がそのような様子では困ります。将軍というのは、武士の頭領として武芸百般に通じ、日頃から自らを厳しく戒める生き方をせねばなりません。果たして兄上はどうでしょうか……?」


 家重は喋れないし、反論も告げ口もできないと知っているので言いたい放題である。


「うー」

「ちっ……何故このような男が……」


 苛立たしげに宗武は当てつけをいい終わったら去っていった。

 だが罵られていた家重は、


(これまではうんざりで、宗武が来るだけでおしっこが近くなっていたけど……)


 彼女の心の中は、弟に散々言われても余裕の静寂であった。


(ふふふ宗武ェ……お前が顔を真っ赤にして罵っている間に、吾はお前の目の前で顔色一つ変えずに放尿をしてやったのだぞ……! 吾は精神的優位にある!)


 嫌な趣味に目覚め、謎の自信を手に入れていた。ぞくぞくとした、もしバレたら危険だという背徳感に家重は確かな満足を覚えるのであった。


 さてはて、そういった宗武の次期将軍への自負と家重への反応を家臣や忍びなどの情報調査から聞いている吉宗はこう考えた。


「宗武は勉学も武芸も優れているが、性格に問題があるな。もし孝心があるのならば、不自由をしている年上の兄を助けてやり、積極的に力になってやろうとするものだ。それが、兄を廃して自分がその位置に成り上がろうという心が気に食わん──む?」


 そこまで呟いて吉宗は気づいた。


「孝心があるならば、兄を助けて宗武は将軍にならぬ。無いのならば、そのような者を将軍にするわけにもいかぬ……なるほど、どちらにせよ宗武だけは将軍にはならんな」


 なんというか彼の中で結論が出てしまった。


「むしろ家重を今更女だとするほうが混乱を招く。やはり儂がなるべく長く在位し、家重に譲ってからもそれを助け、早めにその次の代にしてやれば良いか……」


 そんなこんなで徳川家重(女)は今後も嫡子として扱われるようになるのであった。



「最近、家重も儂の前で妙に堂々としているというか……丹田に力が入っているように見えるから頼もしいしのう」


 

 それは下腹部に力を入れて、父親の前でこっそりおしめに放尿しているだけであったのだが──


 吉宗は時々うっかりしているので、気づかないのであった。







後日。

お重「よーし、また町に遊びに出れたのだ。シン! あやつに土産を持っていくぞ!」

シン「ええと、とりあえずお店で屋敷の場所を聞いたからそっちに行こうか」

お重「……ところであやつって名前はなんだったか?」

シン「そういえば聞いてなかった……」

お重「お前、と呼びつけるのも今の吾はただの娘だから失礼ではなかろうか」

シン「年上っぽいから『お兄ちゃん』とかでいいんじゃないですかね」

お重「わかったのだ」


神楽坂屋敷

九郎「ふぅースフィの浅草ライブについていけば良かったかのう」

豊房「スフィは熱狂的な支持者がいるから、あなたが行くと荒れるのよ」

夕鶴「誰かお客さんが来たでありますよ?」

お重「おにいちゃーん! 吾におしめを巻いてくれたお礼に来たのだー!」

お八「……」

サツ子「……」

将翁「おや、あれは……」

九郎「待て。お主らは勘違いをしている。あれは、その……」


 テンパった九郎が口を滑らせた。


九郎「遊びでやっただけだ」


 すごい目でみんなから見られた、スフィからあんな目で見られたら死にたくなったはずなので居なくてよかったと九郎は後に語った。




・徳川家重の日記に九郎という商人が記述され、名を伏す道具を購入したと書かれていることが発見されたとWikipediaに追加されました。




※徳川家重女性説は実際ある与太話です


徳川家重の死因は尿路感染症とも言われていて、オムツ着用でリスクが高まるとされているけど、50歳まで生きたから早死したわけでもないし関係ないよね!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ