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65話『サメの後処理と伊勢原旅籠』





 ──その鮫嵐の日、江戸の町はにわかに灯りで薄ぼんやりとしていた。

 空を飛び回り、川のようになった地を這い回る鮫の群れ。その鮫共は狂乱していて、時に家屋の木戸に食いつき、江戸の町人を脅かした。

 鮫が狂乱しているのも理由がある。鮫は鈍そうに見えて案外に感覚器官は鋭敏なのだ。

 雨が地面を叩きつける音、溢れた水で河川などに流れ込んだ汚水の臭い。それによって、餌が四方八方にあるように思えてどれに食いつけばいいのかまるでわからずに混乱をしている。

 中には、同じ鮫に噛み付いている鮫もいるぐらいだ。

 特に、外桜田に近づいた鮫は一層の狂乱を強める。

 そこにある屋敷──無役の浪人が持つには広すぎる一等地の住居、山田浅右衛門の家があるからだ。

 浅右衛門が腑分けをして土地に染み込んだ血と臓物の臭いが水に混じり、鮫も嗅いだことの無い濃厚な刺激に脳をやられるのであった。

 鮫は血を一億倍に薄めても感知できる嗅覚を持つ。そこに、数百体の死体の臭いを感じ取ってしまうのだから正常ではいられない。

 ただし浅右衛門の自宅からは、妙な怨念でも感じるのか近づきこそ敷地内に飛び込んだりする鮫はまったくの皆無であった。

 屋敷の中ではのほほんと、浅右衛門が妻のお七の膝枕をされて寝ているのだったが。


 しかしながらその日は昼は過ぎたが、夜になったかもはっきりわからない真っ暗な天気である。

 大雨もあって、多くの者は家屋敷に閉じこもっていたことも被害を少なくしていた。

 なにせ、江戸の町は下水は発達しておらず、精々が浅い溝が掘られている程度なので雨になればすぐに溢れ、道は泥だらけになるのだ。

 余程の事情が無い限り、出かける者はそう居ない。特に、このような嵐の日には。

  

 しかしながら鮫台風の中でも無駄に元気な者は居るもので。


「ウシャシャシャシャ!! 斬り放題だぜェッ!!」


 八丁堀は名前の通り堀に囲まれている地域で、海も遠くない。必然、浸水と鮫台風の危険地域に入る。

 そこで切り裂き同心中山影兵衛は刀を持って鮫相手に暴れていた。

 斜め上の空から一直線に影兵衛に突っ込んできた鮫ミサイルを、身を躱しながら片手で構えた刀で頭から尾まで真っ二つにした。

 鮮やかな断面を見せて二つにバラけて地面に落ちる鮫。続けて影兵衛は跳躍して地を迫り来ていた鮫の上を飛び越えつつ、その首を切り落とす。 

 首だけになった鮫の口が歯をむき出しにしてパクパクと開閉し、近くにあった石灯籠に食らいついたまま動きを止めた。

 既に周囲には十や二十ではない程の鮫の死体が散らばっている。影兵衛が殺した鮫の血臭で他の鮫を呼び寄せ、それがまた鋼の刃によって犠牲になるのを繰り返しているのだ。

 

「どうだ新助! 父ちゃん凄えだろ!」

「さ、さすがです父上! さすちち!」

「かっはっは! もっと褒めて目に焼き付けろ! 父親の強さを!」


 やや離れた銀杏の木に登って影兵衛の息子、新助が見守っていた。というか、見させていた。

 子供に鮫退治の活躍っぷりを見せたかったのだろう。さすがに悪党を斬り殺す現場には連れていけないし、子供の前で晃之介と全力で殺し合いをするわけにもいかないのでこれ幸いとばかりに剣の腕を発揮している。

 鮫という生き物が攻撃するには噛みつかないといけない。

 即ち頭をもっとも相手に近づけて寄ることが必要である。当然ではあるが。

 だがそうすると、大抵の場合鮫の口が影兵衛を齧るよりも、影兵衛の持っている刀が鮫の頭を真っ二つにする方が先に発生するので全くもって鮫は相手にならなかった。

 

「ちょいさァ!」

「さすちち!」


 とはいえ普通に影兵衛は鮫を蹴り殺したりもしているのだが。影兵衛の蹴った鮫が水の上に吹き飛んでから再び落ち、水の底に沈んでいく。

 軟骨魚類である鮫は内臓を保護する肋骨などが無いために衝撃に弱く、影兵衛の凶器めいたつま先が腹に突き刺さると内臓を爆裂させて即死する。

 或いはここが水中で、影兵衛の動きも鈍りより多数の方向から襲える環境ならば違ったのかもしれないが、足元と空から襲いかかる程度の鮫密度では切り裂き同心相手には不足であった。

 組屋敷の玄関から妻の睦月が呼びかけている。


「鮫を相手に父親の威厳を見せる人なんて聞いたこと無いですよう旦那様ぁー! 危ないから戻ってきてくださいなぁー!」

「大丈夫だむっちゃん! 拙者が鮫なんざに負けるかよ!」

「鮫じゃなくて、雷にでも打たれたら大変ですから!」

「それも大丈夫! 雷なら九郎のやつに打たれたことあるけど、案外避けれるしな! かははは!」

 

 笑い声を上げながらバッサバッサと鮫を切りまくる影兵衛。

 元々は八丁堀の組屋敷を守るために打って出たのだが、楽しくてテンションが上がっているようだった。

 というか、被害の大きな地域なので影兵衛の守ってる自宅以外からはあちこち悲鳴が上がっている。それでも、影兵衛が派手に暴れていて鮫の多くがそちらに行っているのではあったが。


「父上ー! 正太郎の家なんかが危ないのではー!?」

「ここが一段落したら助けに行くからよう! ハッハァー一本釣りィィ!!」


 影兵衛が縄を結んだ十手を投げつけ、鮫の口の中に直撃させながらも食い込ませてその縄を振り回して鮫を他の鮫にぶつける。

 

「うわァー!?」


 新助の元にも飛来した鮫が襲い来るが、なんとか銀杏の幹に隠れて避ける。幹に鮫が食いついてびちびちと体を動かし、感情の無い目で新助を睨んだ。

 思わず小便をちびるかと思った紳助だが、睨み返してやると次の瞬間に鮫の脳天を槍が貫いていた。


「無事か?」

「せっ先生っ!?」

 

 鮫に槍を突き刺して新助を助けたのは、彼の通う道場の師範、録山晃之介だ。

 両の手にはそれぞれ大身槍と金砕棒を持つという町中では一発で声を掛けられる重装備である。


「兄ちゃん先生じゃねえか。なんでここに?」

「うちまでは鮫台風の影響は殆ど無いのだがな、たまたま庭先に落ちてきた鮫の口に利悟が咥えられていて、怪我をして動けないからと八丁堀の救援を頼まれたんだ」


 実際、この台風の中でも鮫飛行現象は更に局地的なもののようで、竜巻の範囲外ならば流れ鮫が飛んでくる程度であり、洪水を起こしていない地域ならばそれほど脅威でもないだろう。

 晃之介のところでも、精々一匹が落ちてきたぐらいだった。それに利悟が人魚のように腰まで飲み込まれていたのだったが。

 今は晃之介の自宅で治療を受け(幸い、噛み傷はあるがもげた箇所などは無かった)代わりに晃之介が武装して駆けてきたのだったが。

 影兵衛が唾を吐きながら言う。


「何やってんだあの馬鹿。つーか九郎呼びに行ったんじゃねえのかよ」

「九郎なら……」


 と、晃之介が顔を上げると遠くの空には、嵐の中でもやけに目立つ青白い光とそれに尾のように周囲を渦巻く赤い炎の帯が見えた。


「あの派手派手さは九郎の術か……なんでもありな野郎だからな。空で鮫でも燃やしてるのか?」

「しかし九郎の場合、様々な術を使えるが実際に戦うと素手のときが一番強い気がするがな」

「おっ、それわかる。拙者も素手のあいつ相手に、刀噛み砕かれるはぶん殴られるわで……」


 などとあるある話をしていたが、晃之介が木から飛び降りつつ着地と同時に鮫の頭を金砕棒で砕いて影兵衛に言う。


「というわけで、ここらの鮫を片付けることに協力しよう」

「ちぇーっ。拙者の独壇場だったのによう」


 影兵衛は刀を担いで周囲を見回す。まあ確かに、一人でカバーするのは範囲が広すぎる。


「じゃあ兄ちゃん先生も居ることだし、より派手に暴れるか! 秘技[鮫に乗った中年]!」

「ああっ父上が飛んできた鮫の上に!」


 ひらりと跳躍した影兵衛は空を飛んでいた鮫の背中にまたがって乗り、その脳天を脇差しで一刺しした。

 そして刺したまま、それを操縦桿のように操って謎の揚力が発生している鮫で風に乗って空へと舞い上がる。

 空いている片手で刀を振り回すとすれ違いざまに他の鮫を斬り殺していき、竜巻がにわかに血の嵐へと代わっていった。


「うひょー!! ひゃーははははは! 拙者は飛行能力を手に入れたぁー!」


 空を飛び回る鮫に乗った中年を見上げながら、晃之介は彼の息子に話かけた。


「……新助。お前の親父はちょっと」

「言わないでください」

「落ち着きが……」

「わかってます」


 新助の、6つ程とは思えないしっかりとした認識に晃之介は頼もしく思うのであった。

 


 それから晃之介が地を這う鮫を退治し、影兵衛が空を舞う鮫を斬り殺していき江戸城から見て東側の鮫台風は被害を減らしていったという。

 また、北側では吉原にて眼鏡を掛けた絵師と小説家の二人組が、術符やら棒やらで鮫退治をして一躍吉原にて有名になったりしていた。



 なお、着地に失敗して影兵衛は足首を捻挫した。

 見舞いに来た九郎に思いっきり馬鹿にされる影兵衛であった。


「馬鹿かお主は」

「うっせえ九郎! そこはちゃんと下ろしに来いよ飛べるんだから!」

「知るか。中年が鮫に乗って空を飛んでるなどと想像もしておらんかったわ」

「けっ……あーあ。兄ちゃん先生に軽功の術でも習うかな」

「やめろ。手がつけられなくなる」



 


 **********





 さておき、鮫台風の翌日。

 雨も止んで空は晴れ渡り、降り注いだ鮫の被害をどうにかするべく江戸中で町人武士問わずに駆け回る姿が見られた。

 鮫が直撃して破損した家屋、鮫に食われて怪我をした人の治療や、命を落とした人の供養。そして江戸の道端や溜池、井戸などに落ちている鮫の処理である。

 かなりの量の鮫が打ち上げられている。一つの長屋あたり、三匹程度は手に入れているのが普通なぐらいだ。当然ながらそれらを逃がすわけにもいかず、埋める場所も無いので処理としては食べることが推奨された。

 九郎の屋敷では庭が広いので、知り合いに声を掛けて庭を簡易的な鮫の処理場に提供することにした。

 

「うむーん」

「えーいクソ。鮫なんて昨日で切り飽きたっつーの」

「ほらほら、影兵衛のおっさんも文句言わねえの。身分隠して魚市場で魚捌いてただろ?」


 ズバズバと大小様々な鮫を手際よく解体していくのは、六科と足に包帯を巻いた影兵衛とお八であった。体力もあって包丁さばきも得意な三人組である。

 大きな鮫は顎下から刃を入れて体を広げるように開き、ぶよぶよとした内臓を寄り分けて桶に放り込んでおく。

 小ぶりの鮫は頭とヒレを落としてから次の処理人に渡す。

 

「とりあえず肉を柵にして取ればいいんだな? しかし、鮫は内臓がデカイな……」

「うわ。なんか胃から指輪の付いた手首とか出てきたぞ……外人の手かのう」

「クロー……頼むからその指輪を私にプレゼントしたりするんじゃないぞ」

「どんなシチュエーションだ……」


 などと会話をしながら、晃之介や九郎、スフィなどが鮫を切り身にしていく。


「鮫肌も売れそうだわ。晃之介さん、良いところを残して頂戴」

「ヒレは是非うちが買い取りますので! 薩摩の旦那様方も解体よろしくお願い致します!」

「よか!」

「肝臓はあたしが買い取りましょうかね。そこが一番薬になる」

「残った骨は俺様が貰っていくぜ。畑に撒くのと、鶏の餌に混ぜりゃちょうどいいだろ」


 ワイワイと騒ぎながら大勢が鮫を切り分けてはそれぞれ必要な部位を手に入れるのであった。

 一時的に屋敷の庭では溝と大穴が九郎の[砂朽符]によって掘られており、精水符によって鮫の血などをそこに流して埋めるので川辺でなくても処理が楽であった。

 ほくほくの体で桶に溜まっていく鮫のヒレを見ている鹿屋を見て九郎が言う。


「しかし鹿屋よ、フカヒレとは良い部位を取るのう。食うのか?」  

「とんでもございません! これは唐国と貿易をする際に使える、通貨のようなものなのでございます」

「ほう?」


 九郎が首を傾げると鹿屋が説明をする。


「なにせ異なる国同士の取り引きですからな。日本の小判などは使えません。なので、金・銀・銅そのものが基本的な代金となるのですが、代わりにフカヒレ・アワビ・ナマコの干物などでも取り引きができるのです」

「そうなのか……結構便利なのだのう」

「まあ、抜け荷なのですが」

「堂々と言うな」


 薩摩が密貿易を頻繁に行っていたのは琉球まで勢力を伸ばしていたこともあるが、国内に菱刈金山があったため取り引きできる金が採掘できたことも理由にあげられる。

 将翁と阿子は白子のような大きな肝臓をザルに取り分けている。肝油のとり方は案外に簡単で、湯煎して濾せば採取できる。


「うわ。それ全部肝臓か」

 

 鮫によっては腹の半分ほども肝臓が詰まっているような種類も居る。鮫やエイなどの軟骨魚類は体内に浮き袋を持たない代わりに、大きな肝臓に脂質を溜め込むことで浮力を得ているのである。


「どうやら、深い海に居る鮫も上がってきていたようで……種類によって大きさは違うのですが」

「肝油か……なんとなく健康に良さそうな気もするが」

「鳥目にも良く効く便利な薬ですぜ。鹿屋殿も買われますかい?」

「それは船乗りにありがたい! 是非お願いします!」


 船乗りを有する鹿屋も大喜びで、ニコニコとしていた。


「それにしてもやたらと多い量の鮫肉だのう……食いきれぬぞ」


 必要部位を取り出してから薩摩人や忍者などに切り分けられる鮫肉を眺めて九郎は呟く。

 将翁が指を立てて解説をした。


「あと、妊婦の方々はあまり食べない方が宜しいかと」

「そうなのか?」

「ええ。鮫で妊婦といえば豊玉姫の昔話を暗示し、つまりは子供を産むなり夫に逃げられるから食べてはいけないと昔から言いまして」

「じー」

「じー」

「己れを見るな」


 九郎は豊房や夕鶴の視線をうるさげに払った。

 豊玉姫は海幸彦と山幸彦の説話に出てくる海神の姫であり、海に釣り針を探しに来た山幸彦と結婚をする。

 しかし出産の際に和邇わにか龍の姿に戻ったところを山幸彦に見られて夫は逃げ出してしまうという。

 そのことからあまり妊婦が食べるには縁起の良くない食べ物という謂れがあった。


「しかしこれだけの量は知り合いに配っても余るのう……江戸中は暫く鮫が激安だろうし、毎日鮫でも飽きる」

「おう、そこでだ!」


 甚八丸が手を叩いて注目を集めて告げた。

 すると彼はずいっと腰を前に出して、ビチビチと跳ね回る股間の鮫を見せながら言う。


「このコバンザメを股間に貼り付けたんだが取れねえのどうにかしてくれねえ?」

「電撃符」

「サメエエエエ!!」


 いきなりアホなことを言い出した甚八丸の股間に雷を落としてやった。力尽きたコバンザメは外れたが、大男は股間を押さえてビクンビクンと身を震わせている。


「い、今ので俺様がちんちんから雷出る男になったらどぉーしてくれるんだこの野郎!」

「歌麿に頼んで錦絵にでもしてやろう」

「あらやだ……ちょっとそれで人気が出たらどうしよう」


 格好良く描かれたチンチンから雷が出るマンを想像して甚八丸の怒りが一瞬で収まる。

 それを見て周りの手下らも囃し立てた。


「お似合いですよ頭領!」

雷神(らいじん)ならぬ雷チン!」

雷切(らいきり)ならぬ雷カリ!」

「バァカ野郎共が! そんなチンコしてたら嫁さんから雷が落ちるっつーの!」

「のろけだあああ!!」


 一斉に騒ぎ出す忍びに、九郎などは苦笑いをした。


「ええと、鮫肉をどうしようかという話だったのう……どう考えてもここに集まったやつらと家族に配っても食いきれん」

「そこでだ。うちの可愛くない手下共に鮫肉を持たせて走らせる。そして山奥の村や宿場町で売りつければちょいとした儲けになるって寸法よ」

「おお、それは良い考えだのう」


 九郎は手を叩いて頷いた。食いきれないし、江戸では溢れかえる程なので近所に配ることもできない。ならば遠くに売りに持っていくのが一番だろう。

 特に甚八丸の手下は皆ある程度鍛えていて、少なくとも健脚でない者は居ないので持って行かせるには打ってつけである。

 現代のようにトラックや冷凍車で運送できることはないので、海に面していない村などでは海魚などは非常に珍重されていた。漁村から山へと歩いて一日掛かる村へ、朝に取れた魚を持っていく仕事で日に現代の価格で数万円儲けることもあったほどである。

 

「特に鮫肉は切り身にしてからも十日経っても刺し身で食えるほど持ちがいいってんだ。その分臭くはなるけどよう」

「ほう。そんなに持つのか」


 食中毒の原因となるヒスタミンが肉に含まれる尿素で抑制されるために鮫では食中毒は起こらないとまで言われている。

 冷凍技術の発達で冷凍された魚介類が内陸部に届くようになるまで、日本中のあちこちで鮫肉は食べられていて、特に刺し身を山奥で食えるとなると鮫ぐらいしかなかったので正月料理としても用いられた。


「うむ。ならば存分に稼ぐが良い。嫁を見つけてやろうにも、生活苦の者は難しいからな。せめて嫁共々飢えぬ程度に蓄えがあれば、優先的に見合いを用意してやるぞ」

「うおおおお!」


 九郎の言葉で忍びから気合の叫びが上がった。


「よしおめえら! 行く場所かぶらねえように相談してから突っ走れよ!」


 と、手下に甚八丸は言い含める。

 近場よりも木曽路の宿場など遠くに売りに行ったほうが高値がつくだろう。しかし、近場ではサッと売ってまた鮫肉を取りに江戸に戻ることも容易になる。

 じゃんけんで場所を決めている忍びらを見ていると、九郎の隣で石燕が何やら考え事をしている様子だった。


「ふむ……宿場などに持っていくのか……」

「どうしたのだ? 石燕」

「いや、そういえば伊勢原宿に送ったお柚と晴太は元気だったかなと思ってね」

「ああ」


 九郎も思い出したように手を打った。

 お柚と晴太というと、以前に石燕が赤子の晴太を預かったこともある親子である。碌でもない高禄旗本に手を付けられた挙句に命を狙われたり、その旗本家が改易になったらなったで逆恨みをされて離散した旗本家の者に命を狙われるという不幸な目に合っていた。

 このまま江戸で暮らすには危ないということで、九郎の提案により彼が以前に世話になった伊勢原の旅籠を紹介して、そこに住ませて働いて貰うことにしたのである。

 石燕からしても、その二人に彼女が声を掛けたことで繋がった縁なのでふと気になったのだろう。

 

「ふうむ……誰かに様子でも見て来て貰うか……」

「別にそんなことせんでもよかろう」

「そうかね?」

「うむ」


 九郎は頷いて告げる。


「己れも鮫肉を持って伊勢原まで飛んでいってみよう。石燕も掴まっていくか?」

「……うん!」


 パッと顔を輝かせて石燕が言うので、九郎も運ぶ鮫肉を見繕うのであった。





 *******






 石燕と鮫肉を運んで九郎は疫病風装で空を飛び、一直線に伊勢原へと向かっていった。

 直線に進めば六十キロメートル程度の近場で、空路を進めば一時間もあれば辿り着く。

 移動・運搬能力があまりにも圧倒的なので「他のところでまで鮫肉売らないでくださいね……」と忍びから釘を刺されたほどである。

 ともあれ、伊勢原は大山詣りを行う旅人が立ち寄る宿場町として栄えているところである。

 江戸の町人でも一度は旅行をしたいという者が多く、一番の憧れはお伊勢参りなのだがそこはさすがに遠い。となれば近場で、大山詣りから江ノ島めぐりのルートは人気の旅行地でもある。

 

「ふむ。私は行ったことがないのだが、どういう知り合いなのだね?」

「己れが空を飛んでたら雷に打たれて墜落してのう。それを助けてくれた宿の者達なのだ」

「……雷に?」


 石燕が不安そうに空を見回す。自動的に攻撃を回避する機能のついた疫病風装だが、質力が極端に小さい投射物には反応しにくいという難点もある。雷やレーザービームなどは意識していなければ避けられないだろう。

 

「今は大丈夫だろう。嵐の日に飛ぶには、電撃符で雷の気を散らしてやれば良いしな」

「ううう、落とさないでくれたまえよ」

「わかっておる……よし、伊勢原についたな。宿に寄る前に、鮫肉でも売ってから行くか。土産にしては持ってきすぎた」


 九郎は担いでいる風呂敷に包んだ鮫肉を意識しながらそう言った。

 中には切り身にして和紙で包み、湿らせて氷結符で冷やして持ってきている。まさに新鮮そのものである。

 街道からやや外れて人気の無い建物の影に九郎は降り立ち、


「子供の体のままでは買い叩かれるかもしれんな。大人になっておこう」

「ううむ、その姿になって私と並ぶとまるで親子みたいなのが気になるのだよね」

「別に構わんだろう」

「昔は私がお姉ちゃんに見られてたのに!」

「悔しがるところか」

 

 より身長差の開いた石燕を肩車しながら、九郎は旅籠や茶店が並ぶ大通りへと出ていった。

 小間物屋などの屋台も勝手に商売しているように、店として建物を作るのでなければ小商売の場合そこまで煩く言われない。

 九郎は地面に風呂敷を拡げて商品を並べた。何事かと、道を通る旅人や近くの茶店の娘が視線を向けてくる。

 和紙で包んだそれを用意した薄いまな板の上に乗せてはらりと開くと、赤みを帯びた白っぽい魚肉が艶を出して現れる。

 アダマンハリセンを取り出してパンと快い音を出して注目を集めて、九郎は売り文句を口にした。


「さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。昨日の野分で江戸は空前の鮫地獄。海から川から竜巻から、江戸中を鮫の群れが騒がした。脅かしやがって食っちまおうと、そこで取れたのがこちらの鮫肉」


 九郎の言葉に合わせて、石燕が自分で描いた鮫台風の絵を拡げて見せる。

 なにせ旅先で江戸のことを把握していなかったり、そもそも伊勢原に住んでいて他の町のことを知らないので興味深げに皆が鮫の台風が起きたという絵を注視した。


「今朝に捌いたばかりの新鮮そのものな鮫の肉。十日置いても刺し身で食えるとはいうから、これを買ってもあと九日は食えちまう。こいつを持って宿の板場に渡せば、今晩は旨い刺し身に酒だ。ほら見てくれよこの身の弾力」


 言って、石燕にまな板の上で薄く刺し身にさせた。包丁によって身が潰れることもなく、鮮やかな断面を見せた。

 そして九郎はそれを箸で摘んで、小皿に用意した味噌と味醂と酢と砂糖を混ぜて作った酢味噌に和えて、一番前で見ている旅人風の男に差し出した。


「酢味噌を塗って一切れ食べてみなよ、そこの兄さん」

「う、旨い!? 舌の上で鮫がシャッキリポンと踊る!」

「……鮫だと色々絵面が酷いな」


 何処かの美食漫画と同じ表現なのに魚種が違うだけでかなり印象が変わることを九郎は想像した。

 咳払いをして九郎は告げる。


「さあさあ、他の方にも食べさせたいが、何せ遠く伊勢原まで持ってきた新鮮な鮫肉は現物限り! 全員に配ってたらあっという間に無くなっちまう。残念ながらこの旨さは、買って宿で確かめて欲しい。値段は張ってもこの伊勢原で、新鮮そのものの刺し身を食える贅沢さだよ。え? 買うって? 結構結構、結構毛だらけ猫灰だらけだ。さあ無くなったらおしまいだよ、早いもの勝ちだよ」

「……九郎くん、微妙に手慣れているというか」

「昔バイトしていたからのう」


 若い頃に所属していた九郎のバイト先では倒産や店を畳んだところの在庫を一括で引き取って転売する業務を行う関係者も居て、一部の商品は香具師に売らせていたのであった。

 一人買い始めたら、次々に人が集まってきて鮫肉を買い求めだした。

 鮮魚というのはそれだけ有り難いものだ。伊勢原もそこまで海と遠いというわけではないが、生魚は川魚以外殆ど流通していない町である。

 旅人だけではなく、地元で暮らす人も買い求めに来る。九郎も鮫肉を五貫(約18.75キログラム)ほども持ってきているので、どんどん売った。買う方も保存が効くとなれば明日明後日でも食えるので、多少なり多めに買っていく。

 値段は五十匁(刺し身十枚分ほどの柵)で50文(1000円)。すべて売り切れば、5000文(10万円)ほどの儲けにもなる。

 だが九郎の担いだ分はまだ軽い方で、忍びなど九郎の倍以上は鮫肉を持って売りに走っているだろう。

 20万円の臨時バイト代が入るとなると、彼らのやる気もわかるというものだ。

 

 そうして九郎がハリセンを叩きながら売り文句を煽り、石燕が商品のやり取りをしているとそこと無く無頼風の男が取り巻きを連れて近づいてきた。

 顔に傷があり目つきが悪い小さな熊のような中年の男で、藪睨みに客を睨めつけて九郎へとだみ声を出す。


「てめえ誰の許可を得てここで商売を──」


 九郎が、


(面倒だな。鮫を売り切るまで気絶させてその辺に転がしておくか)


 と思って顔を向けると、無頼は大いに怯んだ。


「げ……ま、まさか[めおと宿]の天狗……!?」

「ん? ああ──」


 そういえば、と九郎は思った。この前に伊勢原に来て、めおと宿にお柚親子を置いていいか確認を取った際に、宿に嫌がらせをしているヤクザが居ると聞いたので──

 白昼堂々殴り込みを掛けて、そのヤクザの親分を連れ去って上空からぶら下げて脅してみたのである。

 泣いて謝り手を出さないことを誓わせたが──その親分当人が、勝手に商売(シマあらし)をしている九郎へと文句を付けてきたようだった。


「へ、へへえ……」

「おお、そうだ。挨拶をしてなかったのう──お控えなすって」

「お、お受けします」


 と、言うのは宿場町でのヤクザ同士のやり取りの挨拶定型である。

 昔の宿場というのは役人よりも土地のヤクザのほうが顔役であったので、香具師や無宿人が通りかかった際には彼らに挨拶をして決して敵意を持っているわけではないと挨拶をするのが「お控えなすって」という言葉だ。仁義を切ると業界用語では言う。

 しかしながらこうして、勝手に商売をやらかしている方が明らかに上位というのも妙な状態ではある。ヤクザは怯えたように、九郎の前から去っていった。

 呆れたように石燕が言う。


「九郎くん……ヤクザが板についているよ……」

「おかしいのう。真っ当なシノギばっかりのはずなのだが」

「シノギという時点でアレだからね」

「むう」


 若干不満そうにしながらも九郎は鮫を売っていると……


「あれっ!? 天狗様じゃないか!?」

「ん? おお、吾輩娘」

「うあー!」


 九郎に話しかけきたのは、めおと宿の板前──板子(いたこ)であった。二十過ぎぐらいの年頃で、頭に手ぬぐいを巻いて髪の毛を纏めている。化粧っ気は無いが、垢抜けた雰囲気の女性である。

 なお、九郎命名であるようだ。「吾輩の名前はもう捨てたんだ───」とすまし顔で言っていたので適当に九郎がつけてやった。

 五年前は自分のことを吾輩と呼び、どこか高慢な態度を見せつつ、妙な気取り方をしていた娘だったのだがすっかり落ち着いた雰囲気になっている。


「なにしてるんですか、宿にも来ないで。っていうか大きくなってません? 背丈」

「いや、鮫肉が沢山あるから売り払ってから行こうかと思ってのう」

「えーうちでも使うから残しておいてよ! 美味しい鮫料理作るよ! 泊まって行こう今日は!」


 上機嫌そうに板子は近づいてきて、九郎の袖を引っ張る。


「はっはっは……なんだ石燕。何故つまむ」

「私の方が美味しい鮫料理作れるし……というか誰だね九郎くん! 紹介したまえ!」


 どこか不満そうにしている石燕に言われて、


「これが例のめおと宿で料理人をしておる板子だ。ええと、他に人が代わっていなければ、女中のお菊と女将がおるのだよな?」

「そう。あと天狗様の紹介で入ったお柚さんと子供の晴太くん、あとお柚さんの旦那になった用心棒の奔太(ぽんた)さんかな」

「ポン太って名前だったのかあの忍び……」

「力仕事とか、屋根の修繕とかやってくれて便利なんだけど『女の人が沢山居るひとつ屋根の下だと緊張して眠れない』とか言って納屋で寝泊まりしてるのが変わってる」

「なんで夫婦になってまでそんなこじらせておる……いや、問題が起きないのはいいのだが」


 どうやらお柚を送って行かせた忍びは無事にといって良いものか、そのまま彼女の夫に収まったようだ。

 

「それで天狗様、そっちの子は? お子さん?」

「いや、こやつは石燕。ええっと……友達だ」

「友達?」

「そう」


 それ以外に適当に関係性を説明しにくい。九郎は苦笑した。

 

「ま、もうすぐ鮫も売り終わるから待っておれ。その後で旅籠に顔を出そうか」

「うちの分も買っておかないと!」

「お主のところの分は売らずに取ってるから安心せよ」

「むー……」


 やはり石燕は釈然としないように、九郎の背中に抱きついて唸った。

 





 ********






 潰れかけの宿を、治安の安定した隠れた名宿に方向転換させて繁盛させた九郎はまさに[めおと宿]にとってご利益を齎した天狗様である。

 なので顔を出せば歓迎もされる。然程忙しくない時期でもあったからだろう。板子が連れて行くと、女中のお菊に女将がやってきた。

 お菊は宿の中では晴太を除けば一番若いのだが、まあ行き遅れと言っても良い年頃ではある。前掛けのよく似合う活発な女性だ。

 女将は未亡人の年増女だがどこか気怠い雰囲気を出している女で、夫に死なれても宿を切り盛りしている責任感のある女だった。

 

「おう、去年ぶりぐらいかのう」

「あー天狗様……って大きい!?」

「こりゃ、可愛い子供だったのが随分いい男に……どうなってるんだい?」

「天狗だから妖術で年ぐらい変えられるのだ」


 すっかりこの宿の者は、九郎を天狗と信じ切っているのでその説明で納得をしてくれる。何せ、最初に九郎は雷に打たれてこの宿に上空からふわふわとゆっくり落ちてきたところを助けられたのだ。

 空に浮いたり、キノコを作ったりする妙な男なので天狗で間違い無いのだろう。九郎も別段否定はしていない。


「九郎くん……こんな離れた土地でも女を引っ掛けていたのかね」

「人聞きの悪い事を言うな。雷でぶっ倒れていた己れを助けてくれた恩人でもあるのだぞ」

「むう……」


 別段、九郎が選んで関わったわけではない。恩があるので恩返しをする。それだけの話であった。 

 宿に入ってすぐの広間には、九郎の助言により宿内で草鞋や手ぬぐい、火縄に油、笠やミノなどを簡易的な雑貨を並べていて購入できるようになっている。外に出なくても旅の準備を整えられるサービスだ。

 他にも作りたての握り飯を用意できることを記した張り紙や、風呂湯の時間案内などが書かれている。この宿は夫婦連れが泊まるので、値段は高めにしつつも満足度をあげようという工夫がされている。

 そうしていると、お柚が女中の格好でやって来た。

 彼女は九郎の姿を見て瞬きをした後で、頭を深々と下げてくる。


「あら、あら。江戸の九郎様でしょうか。この度はこちらをご紹介して頂いて……」

「気にするな。元気にしておるか、石燕も気にしておってな。ちょいと寄っただけだ」

「そうですか……こんにちは、石燕さん。晴太も私も、ここでやっと落ち着いて暮らせています。今も奔太さんが晴太を連れて山菜取りなどに出かけて、仲も良く……」

「それはよかったね。うん。さぞ、前の石燕も喜ぶだろう」


 お柚は身をかがめて小さな石燕に目いっぱいの笑みを見せて、懐かしむように言うので石燕もそうやって返した。

 今の小さい石燕は、お柚が晴太を預けた大きい石燕の従姉妹だと言うことになっている。何せ、モチを詰まらせて死んだ方は葬式まで終わらせたのだ。

 

「まあ、とにかく上がって頂戴。部屋も空いているし、今日は泊まっていくんでしょう?」


 女将がそう言うと九郎は、


「いや、顔を見たら帰ろうかと……」


 と、素直に応えた。何せ、一時間あまりで江戸までつくのだ。夕方に出ても日が完全に沈む前には帰れるだろう。

 だが、ずいっと女将が九郎に顔を寄せて告げてくる。


「寄っといてすぐに帰らせたら、天狗様に恩の一つも返せない。是非とも泊まって欲しいのだけれども」

「ううむ、まあ仕方ないか。一泊ぐらいしていくとしよう。良いか、石燕?」

「いいんじゃないかね。それに君が一日二日ぐらい無断外泊したところで、君の嫁も妾もいつものことだと気にしないよ」 

「気にしない風に見せて、豊房とか後で愚痴るんだよなあ……」


 九郎がため息混じりに言うと、何故か女将らは目を丸くして訊いてきた。


「……天狗様、お嫁さんが居るんで?」

「うむ? ああ、そういえばこの前のときは居なかったが……あれから嫁が一人に妾が三人もできてのう」

「多っ!? 天狗の世界どうなってるの!?」

「……天狗の世界は複雑なのだ」


 お菊が心底驚いたように言うので、九郎も説明が面倒でそのまま通した。

 江戸に住む知り合いにとって九郎は妙な術を使う天狗っぽい人間だが、あまり接点の無いこの宿の者にとっては人間というより天狗寄りの存在だと思われているのだ。

 

「そっかー……」

「へー……」

「ふーん……」

「……ところでお主らはまだ旦那も見つからんのか。己れが知り合いの中から見繕ってやろうか?」

「余計なお世話ですんで」

「天狗様は黙っていてください」

「はぁー……これだから天狗様は」

「なんか反応がやけに厳しい」


 何故か圧力を受けるような気分になった九郎である。

 恐らくは行き遅れまくっていて、他人の結婚に敏感になっている苛立ちモードなのだろう。

 九郎は話題を逸らすように言う。


「そ、それより最近困ったことは何か無いか? またそこらの木に椎茸に限りなく近いキノコでも生やしておこうか」


 九郎がそう告げると、一同は顔を見合わせて「うーん」と唸り、


「……天狗のことなんだけど」


 と、女将が切り出した。






 ********






 最近、大山付近には天狗が居ることを大山詣りに行った者がよく目撃するという。

 それ自体は別段構わないのだが、なんとその天狗というのがなんとも評判のよくない破廉恥な天狗なのだ。

 具体的にはほぼ全裸で、顔と股間に天狗面を付けている筋骨隆々の男だという。


「凄く知ってるやつな気がする……」


 以前に秩父の山中にて会ったことのある、修験の道を進んで半ば天狗になりかけている集団のリーダー格、伊佐という男だ。

 山奥でそんな格好をしている者が何人も居てはたまらない。

 ともあれ、変態の天狗が居たという風評が広がりつつあるので、天狗信仰で宿をやっているめおと宿にとってはあまり好ましくない噂なのである。

 しかしながら奔太でも向かわせてその天狗を排除しようにも、


「天狗の世界はこちらとは全く違う常識がありそうだし、下手に手を出して恩人の九郎天狗様に迷惑が掛かるようなことがあれば申し訳がない」


 というので手が出せず、放置していたのだった。

 それをちょうど九郎が来ていたので、彼に頼んで観光地から立ち退いてもらえないか交渉に行くことになった。

 やむを得ず九郎も、下手をすれば自分の噂と重なって「九郎天狗というのは股間に天狗面を付けている」などという噂に変化したら大変な風評被害になるので空を飛んで伊佐の元へと向かったのであった。大山は基本的に女人禁制のため、石燕をひとまず宿に残して。

 

「しかしそんなにすぐ見つかるかのう──居た」

 

 空から大山詣りの参道を上がって見ていたら即座に見つけてしまって、逆にげんなりとした。

 参道からすぐに見える大きな岩の上に、全裸で頭と股間に天狗面をつけた巨漢があぐらを掻いて座っていたのだ。

 異様な存在感である。

 山登りをしていてあんなものを見つけたら、逃げ帰ってもおかしくない。

 九郎は岩の上に降り立ち、座っている男へ声を掛ける。


「すまんがちょっと良いか?」

「……」

「あー、お主、伊佐だろう。前に秩父であった」

「……」

「ここで何をしておるのだ……?」

「……すやぁ」

「起きろ!」


 天狗面を付けているので表情が読めなかったのだが、眠っている様子だった。九郎は揺り起こす。

 するとはっとしたような仕草をして伊佐は周りを見回す。


「はっ!? 俺を取り囲む美女の群れはどこに!?」

「そんなものがおるか。夢を見てるな」

「ぬぅー……貴様は九郎天狗。こんなところで何をしている」

「それはこっちのセリフだ」

「ふん。修験者が山に入って行うことなど、修行以外何があるというのか」

「今寝てたよな?」

「睡眠学習だ!」

「せめて取り囲む美女の群れ以外の夢で学習しろよ!」


 九郎は頭痛をこらえるように頭を押さえた。

 それからやおら、伊佐に告げる。


「実は斯く斯く然々、お主の姿が参拝客に怯えられている上に、地元の観光にも影響を及ぼすぐらいなので修行はひと目に付かないところか、別の山でやってほしいのだが」


 九郎の言葉に、天狗面は頬杖を突いて低い声で聞き返す。


「別に俺様はどう思われてもいいんだが、そちらの都合を押し付けようって要求していることは理解してるのか?」

「うむ……悪い。だが是非に頼む。交換条件があるなら考えよう」


 そう言うと伊佐は全裸だというのに何処からともなく取り出した天狗面を九郎に差し出してきた。


「じゃあ貴様もこの格好で修行してみるとか」

「それは避けたいな!」

「安心しろ。この格好を見て悲鳴を上げて逃げていく人を見れば楽しさがわかるぞい」

「何かを失いそうだわい」


 九郎が引いているのでやむを得ず伊佐は、どこかへと天狗面を片付けた。

 それらか彼は面を押さえて考える。


「前の恩もあるし、聞いてやらんことも無い」

「そうか、助かる」

「ただし! 俺様に旨い飯をこれから馳走することが条件だ」

「旨い飯?」

「ここ数日、天狗の麦飯しか食ってない俺様をうならせる料理でなければ許可はせん!」

「まともなのを食えよ!」


 天狗の麦飯とは火山地帯に群生する、菌類とも藻類とも言われる微生物の集合体である。小さな粒状のもので、見た目は土のようだ。

 栄養は当然ながらほぼ無いので、それしか食べていないとなれば胃も弱っていそうだ。

 

「ううむ、とにかく宿に来てくれれば何かしら馳走をできるのだが」


 この場で、数日ほぼ絶食状態だった相手にふさわしい料理を用意できる気がしなかったので、ひとまず石燕に相談が必要だった。

 彼は頷き、


「では日が沈んだらその頃に、伊勢原のめおと宿とやらを訪ねよう」

「そうしてくれると助かる」


 白昼堂々と伊勢原の町中を歩いて宿に来られては噂が立ちまくるだろう。

 伊佐は再び瞑想のようなことを始めたので、九郎は一足先に宿へと戻ることにした。






 ********





「ここは私に任せておきたまえ!」


 と、胸を叩いたのは石燕だった。 

 九郎の居ない間に料理の支度をしていた石燕は、どうやら料理の腕を小さいながら十二分に振るったようで板子を半泣きにさせていて、それでいて九郎の頼みにも応えてきた。

 数日、碌に物を食っていない男を満足させる料理。

 確かに飢えていればなんでも旨いと食うかもしれないが、限度がある。

 飢餓状態では急に口に物を入れては吐き出さないとも限らない。

 

「ふーむ。どうせなら名物でも使いたいところだね。板子助手! ここらの名産品はなんだね!?」

「う、と、豆腐です……」


 すっかり自信喪失して小さな石燕にうなだれて従う板子はそう応えた。


「成る程……胃の弱った状態にはちょうどいいね」

「ああ、湯豆腐など酒のツマミにもいいが、酔いつぶれて翌朝にもう一度火を入れて突くのもじんわりと臓腑にしみるよな」

「そうだね。では湯豆腐にしておこうか……ところで」


 石燕が思い出すように告げる。


「宿場で湯豆腐といえば、昔に長崎まで遊学に行った際には、途中の宿場町で食べた湯豆腐は旨かったね。温泉湯豆腐といって、ただのお湯ではなく、温泉で茹でた豆腐なのだ」

「ほう」

「豆腐がとろりと温泉の汁に形を崩して溶け出して、口の中で砂糖のようにハラハラと溶けていく感じは中々味わえない……ただ、残念ながらここは温泉も湧いていないから普通の湯豆腐にしようかね」

「……なんなら出すか? 温泉」

「……え?」

「掘ればいいのだろう。このあたりなら火山も近いから出てくると思うぞ。多分」


 九郎に続いて、一同は宿の中庭に出てきた。

 何をするのかと注目していると、九郎は術符を取り出して気合を込めて唱える。


「[砂朽符]──凌駕発動」


 それは一時的に術符に込められている魔力を解放することで、大出力で術を発動できる機能であった。

 九郎の言葉に従い、彼の足元に拳程の大きさで垂直に土と石を粒子の細かい砂に変えた。

 直径こそ狭いが、その効果範囲は縦にして1000mを超えるだろう。

 すると──もこもこと砂が下から押し上げられて出て来る。

 

「このあたりなら適当にやっても出ると思ったぞ」


 温泉堀りは二階から落とした目薬の雫を、一階の相手に入れるような難しさではない。

 火山の近くならば大体の場所では1000mほども穴を掘れば温泉というの名の地下水に行き当たるのだ。

 単にコストと見合わなかったりするのであまり掘られもしないが、このように魔法というチートで一気に掘り当てれるのだから、まさに天狗の妖術と言わざるをえない。

 やがて、1000m下から押し上げられた術符によって軽い砂になった堆積物は穴からすべて出て、


「う、うわー!! 女将さん! 温泉が出ましたよ!」

「信じられない……」


 お菊と女将が方や大騒ぎ、方やめまいも起きそうなほどだった。

 穴からこぽこぽと湧き出てくる濁った温めの水は僅かにぬめりがあり、独特の臭いを放っている。


「とにかく、温泉は好きに使うといい。汲んで風呂に入れるでも、露天風呂でも作るとか……今回は湯豆腐の汁にだな。石燕、大丈夫そうか?」

「うん。この鉱質なら飲んでも平気だろうさ。よし! 九郎くん! これで温泉湯豆腐が出来上がるよ!」





 *********





 温泉湯豆腐は、湯豆腐を温泉水で煮込むうちに弱アルカリ性の湯に豆腐の表面が溶けることが特徴的である。

 すると湯豆腐の汁は豆乳でも使ったかのように白濁に染まり、豆腐も頼りない半分溶けかけの状態になる。

 だが少し塩気を効かせた汁はまったりとして濃厚で、どろりとした豆腐と一緒に啜りこむと、


「うまい……」


 と、伊佐も呟いた。

 口の中で溶けてしまいそうな豆腐は、伊佐の暫くほぼ絶食状態だった胃にも優しい。

 そして豆乳鍋のようになった湯豆腐の汁に、鮫の刺し身をさっと数秒だけくぐらせる。

 表面が白くなり、解けた豆腐の効果で水っぽさも出ない鮫の切り身を、すり胡麻を入れたやや酸っぱい煎り酒にひたして食べると、頬がほころぶほどに美味であった。

 とてもあの不気味な顔をした鮫の切り身とは思えない、臭みもない味わいだ。

 温泉湯豆腐に、鮫のしゃぶしゃぶである。酒の肴にも抜群の組み合わせだった。

 

 伊佐だけではなく、九郎に石燕、そして宿の者も味わって舌鼓を打っていた。

 特に7歳程の晴太は言葉少なだが、豆腐鍋が気に入ったようで勢い良くむしゃむしゃと食べている。


「まあ、晴太がこんなに喜んで食べるなんて……」

「お豆腐、よくわからないけど好き」

「そういえば、預けられた晴太に与える食事に困って食わせたのも豆腐だったのう」

「そうだね。私の家でもよく食べさせたよ」


 どこか微笑ましげに、九郎と石燕はその様子を見守っていた。

 伊佐の方も自分の鍋に米を入れて雑炊にし、汁の一滴まで食べきってから、


「こんだけ旨けりゃ、約束は守って別の山に行ってやらあ」


 と、約束したので満足の行く結果になったという。

 温泉はかけ流しで出ているので、ひとまず九郎と奔太が溝を掘って流すことにした。

 これから風呂に流したりするように桶などの用意が必要なのだが、自分の宿に突然温泉の湧いた女将は時折一人で「うきゃー!」などと歓びの奇声を上げた。

 宿は益々繁盛することになるだろう。


 それから九郎と石燕は宿に湧いた温泉を湯船に移して一番風呂に入り満喫した。

 案内された部屋にて、女将とお菊に板子の三人とこれからの宿経営を一晩話し合い、名残惜しむように朝にもう一度温泉に入ってから寝不足気味で翌朝に江戸へと戻っていったのであった。

 しかしながら体から温泉の臭いを漂わせて帰ってきた二人に、家族から不平の声があがり──


「……すまんが家に持って帰るから、温泉の水を桶にくれ」

「天狗様……」


 自宅で皆が温泉を楽しむために九郎は使いっ走りとして伊勢原にまた温泉を汲みに来た。

 微妙に威厳のない宿の神様的な天狗に、伊勢原宿の三人は呆れるのであった。






 ********





 さて伊勢原にて、天狗が地面を突いて湧かしたという温泉の話。

 あっという間に宿場中に広まり、旅人のみならず伊勢原に住まう人まで入りたがる始末。天狗の湯は商売繁盛に子孫繁栄のご利益まであると広まった。

 九郎との相談通り、他の宿に桶単位で温泉水を売ることで伊勢原はにわかに温泉街へと盛り上がった。温泉を独占しないのは、他の旅籠からのやっかみを避ける為と、温泉街にすることで伊勢原自体の客数を増やす算段だ。

 それに源泉である[めおと宿]の人気も下がることはなく、むしろ伊勢原の旅籠でもっとも有名になった。名物である、温泉湯豆腐も大いに人気を博した。


 そのうちに[めおと宿]は増築して、夫婦以外も泊まれる二号館も用意することで客数を増やす。店で働く者も新たに雇い、名実ともに伊勢原一の宿に成長していったという。

 しかしながら[めおと宿]で温泉が出たというので、暫く伊勢原には山師の類が多く現れ、温泉を掘るように多くの者に勧めてかなりの回数掘られたようだが、その全ては温泉を掘り当てられずに無駄に終わった。

 伊勢原に新たな温泉が掘られたのは、ボーリング技術が発展した昭和の頃になってからである。

 そしてその技術で温泉を出してから地元の人は改めて思った。


「昔の天狗様、そんなに深く掘って出してたのか!?」


 地学者が調べると、真っ直ぐ一直線に1000m地下まで掘っていることが判明して、どういう方法で掘られたかはまったくの謎である。

 だが天狗がそこに温泉を出してから二百数十年先の日本でも、伊勢原では一番の宿として[めおと宿]が営業をしているという。


 天狗の祠が祀られ、今も滾々と湯を出し続ける宿では、自称・天狗の子孫という女将が宿を切り盛りしている────

 



「くははっははは! くーちゃんこの宿泊まり行こうよ!」

「自称! 自称だからな! 勘違いするなよ!?」

「DNA鑑定とかしてみよっか!」

「せんでいいわ!」


 


この世界の九郎天狗に関するウィキペディアページはヤバイことになってる

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