64話『鮫の話』
鮫太夫は前にちらっと名前だけ出たやつです
──その少女は不幸であった。
かつて吉原に居た少女は、ある人買いが海辺の寒村から幼い時分に攫ってきたものである。
食い扶持減らしに子供の売買が行われていた時代だ。金を介さない誘拐からの人身売買も珍しいものではなかった。
余所者を見たら泥棒と思え、とは昭和の頃まで田舎で言われていた言葉だが、それもまた田舎から子供を攫って都会の遊郭などに売り払う業者が存在していたから警戒の意味も込められている。
さて、少女は攫われ、吉原に売られた。それから店で丁稚奉公のような形で働き、物事を教育して体が出来上がったら春を売らせる。
大体の娘はその間に希望を捨てて、諦念と皮肉な感情が成長と共に心身に染み付き、俗世とは異なる精神性を持つようになる。
少女の場合はどうだったか。
それは彼女が殆ど物を云わぬ性質だったことから、同じ店で働く女も、楼主の忘八もよくわからなかった。故郷のことも語らず、楽しいとも悲しいとも云わずに、どこか宙を見ているような虚ろな目で、バクバクと飯を食ってただ日々を過ごしていた。
だが一つ特徴があり──少女は歯が前歯から奥歯まで、異様に尖っていたのである。
「鰯の頭までバリバリと噛み砕いて喰っちまうんだ」
「そんなんで、客に噛み付いたらコトだな。いっそ、全部抜いちまうか」
と、楼主は決めてしまった。
遊郭に売られた子供に人並みの扱いなどしないのは当然である。それに、遊女には歯を抜いた者も少なくはない。
「客の中には、歯抜けの口でしゃぶられるとたまらねえってやつも居るぐれえだ。そいつは、余程いいのか女の顔すら関係なく歯抜け婆の夜鷹すら買うってよ。お前さんも、そんな凶悪な歯付きをしてるよりは客が付いてくれるだろうさ」
昔は抜歯専門の歯医者というのも、どこの町にも居たぐらいだ。すぐさま楼主は口医者を連れてきた。
医者は少女のあんぐりと拳一つ入りそうなぐらい開いた口に生えた歯を見て、
「こりゃあ、凄い歯だ。まるで鮫みたいだな」
そう感心しながらも、糸を歯にくるくると一本ずつ結びつけて、
「えいや!」
と、歯を引き抜いていった。ぐらついた歯は無かったので、全てが永久歯だっただろう。
少女は暴れぬように柱に縛り付けられ、同じ遊郭で働く女らは目をそむけるほどに少女の口から血が溢れ出た。
それから血まみれの口に布を噛ませて数日ほど止血をした。
歯茎の怪我が安定すれば口を良い形に見せるように、黒柿の木で入れ歯を作って口に入れるようにするのだが……
それから一ヶ月ほど経過すると、どういうわけかまたしても少女の口にはキザギザの鮫歯が生えそろっていたのである。
「いったい、どういうわけだ?」
楼主は訝しんだのだが、再び口医者を呼んできて抜かせようとすると、
「……」
「いったァ───!?」
噛み付いた。歯が指の骨に食い込むほどに噛まれて、口医者は千切れそうになった指を大事に抱えて這々の体で逃げ出した。
「このガキ!」
「……」
「痛あああ!?」
楼主は反撃をした少女をぶん殴ったのだが、正面からあんぐりと開けた口で拳を迎撃されて噛みつかれてしまった。
それでも拳が歯に当って二本ばかり折れて床に落ちた。
怒った楼主から食事抜きを言い渡されたが、少女は開けた口で威嚇するようにカチカチと鳴らして感情の読めない目を向けるのみであった。
しかもまたひと月もすれば、折れたはずの歯がまた生えていたのである。
それから、楼主は何故か少女に話しかける度に噛みつかれた。
「ぎゃあああ!」
「……」
「なんで噛み付くんだこいつ!!」
何度も折檻するのだが、それを晴らすが如くに噛みつかれ出血を強いられるのでまったく割に合わない。
楼主が話しかけさえしなければ、他の女の言うことを聞いて普通に働いているらしい。次第に、楼主は完全に関わりを断って過ごさせた。
[忘八喰らいの鮫太夫]などと店の者にあだ名を付けられる。太夫、というと遊女の格では最上を表し、鮫太夫はそんなに格上ではないのだが太夫の姉御が、
「忘八に逆らい続けてるなんて爽快じゃないか」
と、笑いながら名乗るのを許したという。
忘八にも味方となるゴロツキのような油差しと呼ばれる若い衆は居て、彼らに指示を出して折檻を受けさせたこともあるのだが、
「おねげえですから、どうか鮫太夫に手を出させねえでくだせえ……」
全身、手から尻まで噛み傷だらけで主に泣きつくほどであった。食いちぎられるかと思った、とは彼の言である。
さて、鮫太夫が客を取るとなっても元より全く喋らない女である。
客との会話はほぼ無しで、客と体面して目の前で魚を骨ごとバリバリと食って見せる謎の接客態度であった。
おまけに臥所でもまぐわいながらもやたらと噛み付く。
だがそこは見栄を張る江戸の遊び人揃い、
「吉原ですげえ太夫に噛まれてさ、見ろよこの傷跡」
と、知人に向けて勲章のように見せる話ができるので、なんとも不思議なことに人気はあったという。
二十を前に、遊郭が買って育てた分の金は熨斗をつけて返済しきっていた。
そうなると一刻も早く彼女を追い出してしまいたいのが楼主である。
「鮫太夫がいる限り、この店ではどう考えても俺よりあいつのほうが偉い……」
一応は他の遊女や従業員には威張りきっているのだが、その誰からも「鮫太夫からはコソコソ逃げているくせに」といった目線で見られているのがつらくてたまらなかったのだ。
しかしながらあのギザ歯で噛まれると、酷いときなど一ヶ月は傷口が痛んで頭を悩ませられたのだ。立場を凌駕する純粋な暴力を前に楼主は完全に敗北していた。
ついでに一切会話が無いのが不気味でならない。もしかしたら寝首を掻こうとしているのかもしれないと思うと、店で寝ていられなかった。
そんな折に、江戸の裏社会でも有名な妖怪天狗と呼ばれるヤクザ者、九郎が遊女上がりを集めているという。
遊郭を始めるわけではなく、単に見合いの斡旋という酔狂なことを始めたらしい。中には病気持ちや、とてもモノにならない醜女も拾っていると聞いた。
「これだ!」
楼主は願ったり叶ったりで、伝手を使って九郎を呼んで頼み込んだ。
「うちの鮫太夫は、とっくに借金を返し終えてるんだけれど行く宛が無いのでして。元々、どこぞの村から連れてこられたと聞いてますが本人が唖で喋れねえもんだからそれもはっきりしねえし」
「なるほどのう」
「というわけでそっちで引き取って、いい旦那でも見つけてくれりゃ万々歳でさ。あ、噛みつき癖があるのでそこだけは注意を」
「ふむ。本人はどう思っておるのだ?」
「いやこれが、嫌われているもんでもう何年も会話をさせちゃくれねえから……親分さんが勧めて来てくだせ。持参金は用意しておきますんで」
と、九郎は女中に案内された鮫太夫の部屋にて、彼女と会った。
ぎょろりと九郎の方を向いて、感情の読めない目で見ながら歯をカチカチと鳴らす女。
口医者が指を噛みちぎられそうになるぐらいなのでお歯黒も付けていない、骨のように白い歯だった。やはり肉食獣というよりも、大型の魚類のようなすべて尖った歯である。
縞繻子の打ち掛けを重ね着していて、縮緬にした藍色の着物を身にまとい、羅紗を縫った帯を付けている豪華な姿だというのに、歯をむき出しにしてじっと見ているのは異様な雰囲気も覚えた。
「あー、少し良いか? 己れは九郎という者だ」
「……」
カチン、と音を鳴らした。九郎は頷いて愛想の良い表情を見せる。
「実は楼主からお主の……うおおお噛んできた!?」
「……」
「大丈夫! 怖くない!」
するりと近づいてきたかと思ったら腕に噛み付いてきたのを慌てながらも、九郎は歯が肉を食い破る感覚にこらえつつ鮫太夫の背中を軽く叩いた。
「いい子だから話を聞け」
なんとなく猛獣を扱っている気分になりながら、九郎は暫く噛まれるがままにされた。
どうせ傷は勝手に塞がる。若干顔を顰めていると、噛み付いていた鮫太夫が伺うように口を手から離して見上げてきた。
「……」
「お主はもう年季明けだそうだ。借金も無いし、稼いだ金も持っていけるほどにある。それで、お主には幾つか選べる道があるので一応聞こう。いやまあ、自分で考えてやりたいことをするならそれが一番なのだが……」
九郎は指を立てて彼女に尋ねた。
「誰か身請け……といっても、金は払わんでいいのだが、お主を所帯に持っても良いという客はこれまでに居たか?」
「……」
鮫太夫は首を横に振った。
物珍しくはあり、武勇伝になり得る遊女だが、好き好んで血が出るほどに噛み付いてくる女を嫁に貰おうという酔狂な男はあまり居ないようだ。
「故郷に帰るつもりはあるか? なんなら、送らせる者も用意するが」
これもまた九郎の取る見合いの一つである。送り狼というと人聞きの悪いが、江戸を離れて暮らしても良いという独身忍者を道中の警備に付けさせてそのまま婿入りさせる作戦だ。
まあ中には、故郷まで送ったはいいがそこには女を待ち続けた幼馴染の男が居て感動の再会をしたのを見て、涙を拭いてダッシュで江戸に戻ってきた者もいるのだが。忍びは恋の駆け引きになると潔く逃げるのである。自信が無いからだ。
それでも鮫太夫は首を振ったので、九郎はまた別の提案をする。
「ならば江戸に留まり、見合いをして誰かの嫁になって暮らすのはどうだ。相手は、なるたけお主と相性の良いやつを探してみるが」
忍び連中の好みは千差万別でありながら、美女なら誰でもいいとか、むしろ自分を好きになってくれる女なら誰でもいいとか最終的には言い出すので噛みつき女でも相手は見つかるはずであった。
カチカチと鮫太夫は歯を鳴らした。名前の通り鮫によく似た光を灯した目を見て、何かを察して九郎は応える。
「己れ? いや己れは駄目だぞ。既に嫁がいるからのう」
「……」
「噛むな噛むな。いい相手を見つけてやる」
無駄に鈍感な割りに、喋らない相手への理解力は微妙に高い九郎であった。
茨もそうだが、どうもこの男はあまり口の達者でない相手への面倒見が良い。
血だらけの手を口から離させて、九郎は諭すように言った。
「案ずるな。きっとお主にぴったりの相手が見つかる。それでいいな?」
「…………ぃぃょ」
「声小さっ!?」
殆ど口の中で消えるような小声が僅かに聞こえて、九郎は思わずツッコミを入れた。
喋れないかと思ったら、一応は喋れるようだ……声は小さいが。
さてそれから、一旦九郎が身元を預かってから見合い希望者を募る。
登録はしているが一応譲り合いというか、今回に掛けるか次回に掛けるかで辞退する者もいるのだ。
なにせ、天狗の親分と忍びの頭領が仲介している見合いである。勢いのみで立候補して夫婦になったはいいが、嫁と離縁したいなどと言い出したらどんなキツイお仕置きに会うかわからない。
「はい! はい! 俺お見合いします!」
「一応言っておくが、この女はやたら噛み付いてくるから気をつけろよ」
忍び連中を集めて呼びかけて立候補した者にそう注意したら、ひそひそと皆が噂をし出した。
「えっ……天狗の旦那そういう……」
「見合いに出す前に味見的な……」
「あの旦那、托卵してくるって噂が……」
「電撃符。」
バリバリと青白い光の網が体育座りをしている忍び連中に降り注いで焦げさせた。
それから托卵などと面倒な噂を出した男の襟首を掴んで持ち上げる。
「あとお主。うん? どっから流れた噂だ? 情報源は?」
「あ、あううう」
「誰から聞いたのでもなければお主が流したというわけだな」
顔の前に持ってきた電撃符が放電スパーク音を出して威嚇する。
「ひぎいい!? い、いやいやいや!! 確か……確か! そう、九郎の旦那があちこちに酒を配ったりした後で、そのご家庭でおめでたが続いたからそんな話が何処からともなく──!」
「ちっ」
舌打ちをして放り落とす。
確かに変な毒素が入ったハブ酒を、晃之介・甚八丸・影兵衛・利悟・六科・浅右衛門のそれぞれのご家庭に配ったら、精力増強効果で子供ができたのは事実である。
しかしながらその噂では酔い潰させて手を出したみたいで非常に人聞きが悪かった。
「鹿屋で精力増強の酒が売っておる。それを使えば子宝に栄えるとかなんとか、宣伝しながらお主自ら噂を消しておくように」
「お、おれが……?」
「己れが噂の発生源ごと消してやっても良いが」
「やります! めっちゃやります!」
「宜しい。宣伝のバイト代は出すように鹿屋に言っておこう」
まったく、と九郎はため息をついた。
ある程度江戸でも有名になればその分、根も葉もない噂が流れるようになって困るのである。最初はヒモから始まり、次に天狗になり、今ではヤクザの親分扱いであった。
独身男性(特に忍者共)への救済から始めた遊女上がりの嫁斡旋も、怪しい人買いの一種だと思われているフシもあった。
「ええと、話の腰が折れたな。お主、名前は?」
九郎は改めて立候補した覆面の男へ向き直る。
「はい! 安房国出身の不印といいます!」
「それで不印は大丈夫か? 初対面で腕とか噛んでくるぞ。しかも歯が尖ってて痛い。いや、その癖を治させようとしても構わんのだが」
「大丈夫です! 俺は拷問受けても耐えられる訓練受けてるんで! 焼いた鉄串を指と爪の間に埋め込まれても悲鳴一つ上げません!」
「……この太平の世に何を考えてそんなきっつい訓練を……」
「云わんでくださいよ! 悲しくなるから!」
この悲しい忍びの男らは、戦乱の世も遠い昔になってしまったというのに、先祖からの教えというだけで生活にあまり役立たない忍びスキルを持ちつつ、おおよそ普通に町人として暮らすには役立たない為にそれを生活に活かしている者は極わずかであった。
精々が変装・尾行の技能を使っている藤林同心ぐらいだろうか。豆腐屋で嫁に狐女を貰った伊作など、豆腐屋なのに水の上を走れる。まったく使うことはない。
「まあ……体質的に大丈夫なのはわかったが、大切なのは嫁として大事にしてやれるかどうかだぞ」
「頑張ります! というか……」
不印が片手で頭を押さえて照れたように首を振った。
「噛まれるってことは少なくとも『気色悪くて触りたくない』とか『うっわ不印に触って毒ついたー! はい触って他の人になすりつけるー』とかそういう感情は持たれないってことで……!」
「なんだその物悲しい少年時代の記憶みたいな……」
わざわざ声色をいじめっ子のそれにして再現する不印。
「拷問の訓練受けてたせいで体が変な傷だらけだったんでイジメに……ううっ」
泣きそうになる不印を他の忍びが励ました。
「気にするな……こっちも木登りばっかりしてたから猿野郎とかいって全然モテなかった……」
「海に潜る訓練ばっかりで海女の乳を盗み見するつもりとか噂されてた……見てたけど」
「三十まで童貞を貫くと忍術が使えると教わったから未だに……」
「残念な連中ばかりだのう……」
こいつらは自分の忍術をまた子供に受け継がせるのだろうかと不安になった。少なくとも拷問耐性は止めて欲しいとも思ったが。
「……まあ、とにかく向こうが選ぶかどうかでもある。ひとまず不印が見合いをして、駄目だったら二次募集を掛けるってことで」
九郎はそう宣言して、不印に同情していた雰囲気もあって納得されたのであった。
それから見合いの場で、九郎立会の元に開いたが不印は腕と肩などを噛まれつつも、鮫太夫の意志を確認して嫌っている様子ではなかったので(相変わらず無口だったが)婚約と相成った。
祝言も挙げたのだがめでたい席にも変わらず花嫁は感情を感じさせない鮫の目をして、口を開けて歯を見せていたので祝いに来た忍び連中をぎょっとさせたりもしたが──
鮫太夫の持参金にて、品川で売りに出されていた小さな潮待ち茶屋を買い取り、そこで魚の干物と酒を売る店を開いて夫婦で暮らすことにしたようだ。
街道筋でもあるので旅の者が旅先で食えるように買っていくことも多く、そこそこの繁盛を見せているという。
だが看板娘とも言える女将は、白黒の鯨模様の着物にギザギザの歯を見せているので、自然と土地では[鮫屋]と呼ばれるようになったそうな……
ここで終われば、ただの変わった娘が嫁に行っただけの話であったのだが。
*********
享保六年に徳川将軍吉宗が、町人から百姓まで将軍に直訴できるように江戸城辰口評定所前に訴状を入れる箱を設置した。
俗に言う[目安箱]である。目安箱という言葉自体は明治に入ってから作られた言葉であり、江戸時代は使われていなかったのだがわかりやすさからそう表記する。
吉宗はその目安箱に入れられた訴状を月に三度確認し、内容を吟味した。中には要望書だけではなく他人や幕臣への批判もあり、有益なこともあれば悪口のような内容もあった。
例えば小石川に養生所ができたのはこの目安箱によってであり、中にはこういう内容もあったという。
吉宗が町奉行大岡忠相を前にして訴状の一つを読んで聞かせた。
「近頃、町の金貸しが行う武家への借金取り立てが目に余る。これでは武士の面目が立たないので、処分をして欲しいとあるが……大岡、如何な様子か?」
「は。確かに、金貸しの取り立てはむしろ相手の武士の面目を潰し、それを嫌がらせることで金を払わせようといった手法が行われております」
忠相も、町の様子は部下を回らせているので詳しい為に吉宗にそう説明をした。
彼は将軍から特に信認も厚く幕閣でも中枢に位置しているので、よくよく町政に関しても吉宗と相談をしていたようである。
部下や町人から、笑い話のような形で報告を受けていた借金取りの様子をやや顔を顰めながら解説する。
「例えば、誰それと云う個人名と借金を返せと書いた旗を振り回しながら町を練り歩いたり、乞食のようなみすぼらしい格好で衆目がある中ですがりついて大声で要求をしたり、払えんやったら内臓切り売りしてでも払って貰いまっせえええええ!とか叫んだり……」
「過激だな」
吉宗は真顔で腕を組んでそう呟いた。
「町人達にとっては、金を払わせるやむを得ない手段かもしれませんが……武士の体面としては非常に悪うございますな。中には、金を貸した本人ではなく単に雇われたヤクザものも居る始末。いっそ、引っ捕らえるのもいいかもしれませんが……」
現実的に考えて、町人の金と武士のメンツを天秤にかければ後者に重きを置く。江戸時代に幕府は三度も債務免除と利息引き下げの棄捐令を出すぐらいだ。
だが吉宗は首を横に振った。
「借金をした武士のやり方が悪いだけだ。儂なら借金漬けになろうが、返済計画を立てて借金取りを説き伏せて返し切る。大体、そこまで膨大な利息の率ではなかろう」
「町の金貸しでは、年利で一割八分といったところです」
忠相は、
(この人、本当に借金とか返すの得意なんだよなあ)
と、思いながら返事をした。吉宗の場合身の回りからガンガン支出を削ることがあまり苦にならないタイプである。
江戸時代はそれとなく高利貸しが大儲けしているような印象だが、現代日本の上限金利が20%なことから考えるとそこまで真っ当な金貸しは高利というわけでもなかったようだ。
しかしながら、武士の体面が保てないというのは町人の上に士族が立つという社会構造上あまりよろしくない。増長した町人は武士を軽んじて、より無体な態度や要求をしてくるかもしれない。
だが一方でだからといって町人を罰すれば借金を武士は返さなくても幕府が取り持ってくれるということになり、侍は喜ぶかもしれないが町人は不満が募り金を貸し渋るようになるだろう。
お互いに吉宗と忠相は意見を言い合い、やがて将軍が決めた。
「直接的な脅迫、或いは不当な貸付でない限り金貸しを処分することはせぬ。良いな」
「わかりました。内臓切り取って売ろうとしている者にだけ注意させておきます」
「ちなみにその者は幾ら貸し付けたと言っておるのだ?」
「はあ。十両貸し付けたのですが借金は十日ごとに一割増えると申しておりまして、今では膨れ上がり五十両以上とか」
「自業自得だが、刀の一つ二つを質に預ければ返せぬ額ではなかろうに……まあよい。次だ」
吉宗が別の紙を取り出して話を続ける。
「以前に訴えとして上がっていたものだが、江戸前の海にて近頃鮫が多く現れ、被害も出ているというので向井将監と御庭番に調査をさせていたのだ」
向井将監は代々襲名して徳川水軍を率いている旗本で、海賊の取り締まりなども行っている。御庭番は目安箱の案件を精査するために動かすのもよくあることであった。
忠相は頷いて告げる。
「存じております。特に、魚を運搬する小型の舟では鮫に舟を壊されたり、海苔を取っている者が足を食われたという報告もこちらに上がってきております」
「左様。試しに部下に、湾を泳ぎで横断させてみたら二十匹程も鮫を引き連れて戻ってきおった。余程増えていると見える」
「……」
忠相は無茶ぶりされる吉宗のお気に入りである巨漢の御庭番を不憫に思った。鮫がうようよ居ると評判の海を横断させられるなど、軽く刑罰のようである。
ただ吉宗も無闇矢鱈に部下を酷い任務につけているわけではなく、単に「シンならできる」という謎の信頼を持っているからやらせているのだったが。
「しかしながら舟を壊されるなどの被害が出ているとなると、どうにかするしかない。案はあるか?」
「は。魚に関して詳しい、津軽政兕殿に話を伺っております」
「津軽にか」
吉宗は微妙に覇気のない顔を思い出しながら呟いた。
津軽家は魚釣りだけではなく、鷹の飼育も行っていて鷹狩りをよく行う吉宗に献上しているので印象には残っている。
「鮫は江戸前の海で小魚が増えたので捕食しにやってきているとのことで、まずは海に捨てる残飯を湾の外まで持っていくようにすればそちらに小魚ごと誘導されるはず、と申されていました」
リサイクル社会として現代でも取沙汰される江戸だが、さすがに残飯はどうにもならない。
畑に埋めるにしても百万都市である江戸の人口から出てくる残飯を埋めるだけの土地は近郊の農家に余っておらず、溜め込んで肥料にする糞便よりも扱いに困ったのである。
そこで町ごとに集めた残飯を船に積んで沖海に捨てるという方法が取られていた。
こうすることにより江戸前の海は富栄養化が進み、魚もかなりの量が取れる漁場になっていたとされている
「ふむ……では残飯を詰めた樽をシンに括り付けて沖まで泳がせて……」
「あの……普通に船で行きましょう上様」
こっそりと無茶振りをさせられそうになる御庭番をフォローする忠相であった。
しかし、と彼は窓の外を見ながら言う。
「明日か明後日からに致しましょうか。どうも野分(台風)が近づいている上に、どうやら大潮が近いようです」
「うむ。海が静まり次第行えるよう、各方面へ準備を通達せよ」
「ははっ」
*********
「凄まじい雨だのう……」
九郎は果たして今が何時かわからないぐらいの、暗天とそこから降り注ぐ雨音を聞いていた。
神楽坂の屋敷でのことである。部屋の中でごろりと寝ながら、屋根と地面を叩く大きな音に居眠りもあまりできなかった。
一寸先も見えない、というほどではないが一間先は確実に見えない程の大雨だ。雨の中に入れば雨粒が目に入って本当に前が見えなくなるだろう。
あまりに降るものだから縁側をすべて濡らし、屋内の畳まで危ないので雨戸を締め切っている。神楽坂の屋敷内は行灯の薄明かりで照らされていた。
夕鶴が軽く濡れた自分の着物を手ぬぐいで叩きながら言う。先程、九郎と一緒に蔵に保管していたふりかけを回収してきたところであった。傘を差していたのだが、二人して濡れてしまった。
「まったく酷い雨であります。保管していたわかめと紫蘇が湿気って黴が生えてしまうであります! 御主人様、乾かして欲しいであります!」
「へいへい。部屋を一室、乾燥室にしておくからそこに持っていくがよい。洗濯物もそこに干そう」
言いながら九郎は炎熱符を使って熱風を彼女に当てて乾かしてやる。妊婦が体を冷やすのはよくないのだが、どうしても若芽と紫蘇のふりかけは自分の責任であるというので取りに行ったのである。
夕鶴は気持ちよさそうにしながら、
「うーん、一家に一人の御主人様でありますな。非常に楽ができるであります!」
「そうかえ」
「自分は昔から御主人様についていけば楽ができそうだとひと目で見抜いたでありますからな! 一目惚れというやつであります!」
「嫌な一目惚れだ……」
「御主人様は自分を見た時どう思ったでありますか!?」
「こいつ相当駄目な子だな……と」
「ひどいでありますー!」
夕鶴と九郎が振りかけの材料が入った笊を持って屋敷を歩きながら話していると、暇そうにしている他の女も話しかけてきた。
「えー、なになに、なんの話だぜー?」
「御主人様が最初に自分を見たときの印象の話であります」
「おっ。それ興味あるぜ。あたしは?」
「わたしはどうなのかしら」
お八に豊房が言ってくるので、九郎は苦笑いを浮かべて告げる。
「いや……お主らは子供すぎてのう……なんかもう、可愛くはあるのだが孫を見る気分みたいな……」
「……じゃあ先生は?」
「石燕は怪しいやつだのうと」
「将翁姉は?」
「怪しいやつだと」
「……」
「……」
「な、なんだ」
妙なジト目で見てくる二人に九郎は怯む。
「嫁と妾にしている相手への印象が、孫扱いと怪しいやつと駄目な子って……」
「旦那様って変な相手に引っかかりそうだよな」
「お主らが言うな」
「むしろ旦那様が悪い女に引っかからねえように、なあ?」
「そうよ。見張ってあげてるのよ」
顔を見合わせるお八と豊房であった。
孫のように見ていた少女二人にそこまで言われると、男の尊厳というものを九郎は気にしながら屋敷の奥にある部屋へ夕鶴と入った。
そこでは部屋に細くて物を吊るす道具を張り巡らせて洗濯物を干しているサツ子が居たので、ふりかけの材料も並べながら術符を適当な柱に貼り付けて、空気を温めるように調整した魔法を発動させる。
九郎が辺りを見回して、姿の見えない石燕に将翁、スフィを探す。阿子は店の方に出ていて、帰って来れていないのだ。
「そういえば他のやつは?」
「三人は雨のときこそ昼風呂ち言うて入りに行き申した」
「そうか──」
九郎がそう言いかけた瞬間、屋敷が揺れるような衝撃と絹を裂くような悲鳴──いや、石燕の「ぎゃあああー!!」という大声が聞こえた。
何事かと、九郎は即座に駆けつけようと足を踏み出したらまたしても大声が聞こえた。スフィの叫びだ。
「明朗会計三千文ポッキリ───!!」
内容は意味不明であったが、その声に付属して誰かが倒れるような音が更にした。
九郎が風呂場に駆けつける。
「どうした!?」
すると、風呂場にあった雨戸を閉めていた窓枠が破砕されていて雨が吹き込んでいる。そして風呂場の隅に長さ五尺(150cm)程もある鮫が倒れている。
その反対側に身を引いて三人が居た。
「おっ、クロー。あっもしかして今エロハプニングか!? エロハプニングかのー!?」
「いや……それよりなんだこの鮫」
胸を手で隠しながら腰を湯に沈めつつ身をくねらせて照れるスフィに、九郎は聞いた。
ちんまりとした石燕が将翁の腰に隠れながら告げる。
「急に外から窓を突き破って入ってきたのだよ。勿論、まだ生きているやつがね! ただ即座にスフィくんが大声を出したかと思ったら吹き飛ばされて動かなくなったけど」
「うみゅ。まーこの程度の奇襲なんぞ即応じゃな」
腰に手を当てて胸を張った後、またさっと手で胸を隠すスフィである。
彼女の放つ威力のある声は衝撃波として伝わり、鮫をショックで気絶させたのだろう。
異世界に居た頃は鮫よりも余程大型の魔物相手でも動きを止めることができた口撃だ。音速で伝わり、指向性を持たせることで声の衝撃は狙った方向のみに放たれるから他の二人に被害はない。
「しかしなんじゃ? この鮫は。クロー、この当たりでは空を飛ぶ鮫がいるのかの?」
「おらんが……まさか、この雨で地面を伝ってやってきたのか!?」
「大雨になって鯰が一山越えたという話は聞いたことがありますが、ね」
将翁が視線を外にやる。九郎が注意しつつ破れた窓から外を見やると、足首が浸かる程度に地面を水が覆っている。外堀が氾濫しているのだろう。
海から川、堀へと伝ってやってきた鮫の群れが町中に入りつつある。
「うーみゅ……雨音に混じって浅瀬をじゃばじゃば動く大型魚の音が聞こえるのー」
聴覚の優れたスフィが耳に手を当てながら感じ取る。
彼女がそういうのならば間違いなくそこら中に何らかの魚が溢れかえっているのであろう。
「いかんな……鮫対策を急いでせねば。お主らは風呂を上がって、なるべく皆と一緒に居ろ。お八は術符でも持って備えているように伝えてくれ」
「わ、わかったとも」
「やれやれ。石見の毒薬も鮫相手には分が悪い」
石燕と将翁に指示を出す。ひとまずこの屋敷で、九郎以外でもっとも戦えるのは道場で鍛えられたお八だろう。
むしろ晃之介のところならば、鮫の一匹や二匹海に叩き込まれて戦わされてそうである。
「スフィは雨の中悪いが付いてきてくれ。屋敷の周りに電気柵を作るから、その間鮫に近寄らんように」
「うみゅ!」
「……いや、その手ぬぐい姿は危ないだろう」
スフィは三尺手ぬぐいを胸と腰に巻きつけただけの姿で湯船から上がってきた。
「じゃがこの大雨じゃと、着替えてもずぶ濡れじゃろ。水着用意しておくべきじゃったな」
「だがのう、薄着だと鮫に噛まれたりしたら危なかろう」
「私がそうそう近寄られて気づかぬものか。大丈夫じゃ!」
「……それに、この洪水だと家屋敷はともかく、厠は氾濫しておるからばっちいぞ外の水」
「うっ!」
スフィはプールにでも入りに行くような気楽な気分であったのが大いに怯んだ。
確かに素足でうっかり小石でも踏んで傷口を作れば、そこから病気にでもなりかねない。九郎は大丈夫だが……
スフィは手を叩いて、九郎の背中に飛びついてよじ登った。
「よし! 肩車作戦じゃ! 行くのじゃよー!」
「……」
「クロー?」
「スフィアライト・エーデリンデさん。せめて下着を履いてくれ」
「他人行儀にフルネームで指摘された……!」
よよ、と泣き崩れつつも、つい勢いでノーパンツのまま九郎の首に跨ったのを意識して汗をだらだらと浮かべるスフィ。
とりあえずスフィは──
・このままの勢いでタオル姿のまま続行した。
→・着替えた。
下着を履いて、江戸に来てからはあまり身につけなくなったすっぽりと頭まで覆える修道着を被ってから九郎に肩車されるのであった。
中々大胆にやるには踏ん切りが付かない少女である
縁側から雨戸を外して外に出て、九郎は油断なく術符を構えながら敷地の四隅へと向かう。
雨は強くて前は本当に見えづらい。薄暗い雲が僅かに白い明かりを放っているから昼間であることはわかるが、時を告げる鐘もこの雨音では鳴ったのか鳴っていないのかはっきりとしないほどだった。
水も大いに濁りまくっている。鮫が泳いでいても、足先に触れるまで上から見ても気づかないだろう。
「んー……クロー! 前方5メートルに一匹。近づいてきておるぞ」
「わかった」
言うと氷結符を向けて、氷の道を作る。その中に閉じ込められた鮫は動きを停止して氷ごと浮かび上がり、濁流に流されていった。
屋敷の塀で囲まれた隅に九郎が電撃符を一枚貼り付ける。そうするとスフィが警告を発した。
「クロー! 上から来るぞ!」
「なんで上から!?」
焦りながらも刀を抜いて構えると、真上から鰹ほどの小型鮫が真っ直ぐに九郎を目掛けて飛びかかってきた。
身を躱しつつ刃を切り払うと、内臓を溢れ落としながら鮫は着水して浮かんだ。
九郎はさっさと要件を済ませようと屋敷の四隅へじゃぶじゃぶと水を足でかき分けて急ぐ。
「風も凄いのじゃ。きっと雨と風で空に舞い上がって泳いでおったのじゃろう」
「なんてことだ。鮫台風になってしまったわけか」
「鮫はあれで滑空するには理想的な形をしておるからのー」
九郎が空を見上げると、大粒の雨が吹き荒れてよく見えないが、明らかに大きい物体も風に流れて飛んでいるのが見えた。
鮫の大量発生した海が大潮で海面を押し上げられ、低気圧の影響で大風と共に海水を巻き上げて江戸に吹き付けているのだろう。塀からは滝のように水が滴り落ち、下手をすれば鮫が登ってきそうなぐらいであった。
ひとまず敷地の四隅に電撃符を設置して、微弱な電気の流れを水中に通して繋げた。
「術符同士で電気を通してやれば、直接触れなければ感電するほどではないが少なくとも水生生物は嫌がりそうな電流に囲まれておるだろう」
とりあえずは空を飛んでるものもいるので完全ではなくても、屋敷は守れるはずだ。
そうしていると雨音に負けないように大声を出しながら近づいてくる誰かが居た。
「大変大変! あっ九郎にスフィ婆様!! 大変なんだ江戸中で鮫が──エビッ」
うっかり電撃符の危険範囲に入って感電した利悟は、解剖された蛙のようにぐったりとして時折手足を震えさせながら水に流されていく。
「……ちょっと出力高かったかのではないかのー、クロー」
「それよりこの調子だと、他も見て注意喚起して回ったほうがいいな」
江戸時代では電話もラジオもJアラートも存在しない。しかしながらこの大雨では外に出る者も少なく、情報伝達速度は限りなく遅いだろう。
「ええと、晃之介のところは海から離れてるから大丈夫か。千駄ヶ谷も無事だろう。となると、慶喜屋と六科のところをひとまずどうにかするか……」
「危ないから私も連れて行くがよかろー」
「うむ。頼りにしておる」
九郎は屋敷に一旦戻り、皆に出かける旨と鮫に注意するように伝えて、スフィを抱きかかえて空に舞い上がった。
激しい雨風が九郎の飛行能力を大いに乱す。大きく進路がずれたり、ランダムで襲い掛かってくる鮫に自動回避が働いて急な方向転換をしたり、ついでに視界が非常に悪くて中々前に進めない。
「ええい、面倒くさい!」
九郎が叫ぶと炎熱符を取り出して頭上に火炎の渦を発生させた。
それで雨は蒸発して炎の光で視界も広がる。限りなく目立つが、この天気で外に出ている者は少ないだろう。
「クロー! 右から鮫!」
「またか」
炎の渦を尻尾のように振り回して鮫を焼く。
「それにしても鮫はなんでこんなに攻撃的なのだ?」
「狂乱索餌モードというやつじゃな。周囲が大騒ぎになったり、餌の臭いが濃厚になった際にとにかく暴れてなんでも食いつくモードに鮫は変化するのじゃ」
「余計に厄介だな……」
狂乱しているから、一見食べ物ではない雨戸などにもぶつかって行くのだろう。
九郎はすぐさま慶喜屋へと炎をたなびかせて飛行する。雨と明かりが改善されたのでかなり飛びやすくはなった。
「げ」
「……表の雨戸にデカイ鮫が体を突っ込んでおるな」
九郎はひとまず降り立ち、びちびちと動く鮫のヒレ側から近寄った。ヒレの大きさだけで人の胴体ほどもあり、当たると鮫の鱗で肉をごっそり削られそうである。
氷結符を取り出してヒレから全身を凍らせ、動きが止まったところを外に向けて思いっきり引き抜いた。ついでに、内臓も全部凍りつかせてやる。これで解けても復活は難しいだろう。
「おい、大丈夫か!?」
九郎が破れた雨戸から顔を突っ込むと、長い棒を持った忍びの男がホッと安心したような顔で九郎を見る。
「旦那さん! いやあ怖かった……」
「阿子も無事だろうな」
「へえ、女衆は二階に避難を」
「お主らも金目のものや高い砂糖を持って二階に居ておけ。外は鮫だらけで、風に乗って落ちてくるぞ。窓際は気をつけろ」
そう告げて、表の破れた戸の部分を大きく凍りつかせてひとまず浸水を防いだ。
六科の店も閉まっていたが、店内に入ると六科が板場で小型の鮫を包丁で捌いていた。
「ど、どうしたのだ?」
「長屋の前に落ちてきた」
「たくましいのう……とにかく、外は危ないから家の二階になるたけいるのだぞ。長屋の住人を避難させることも考えよ」
「わかった」
ダン、と鮫の首を落とした六科が包丁片手にのっそりと長屋へと歩いていった。
「ううう……サメ怖い……」
と、大雨と鮫の恐怖で泣いているのは娘のお風である。背中に赤子を背負っているお雪が慰めるように抱いているが、かなり怖いのだろう。
スフィが近づいていって、お風の耳元で囁く。
「歌でも歌っておれば嵐も去っていくのじゃよ。もう少しだけ我慢して待っておれ」
「……すふいは居てくれないの?」
「私は上級者じゃから嵐の中で歌うものなんのそのじゃからのう」
「お雪。とりあえず二階に居て六科をうろつかせるでないぞ。あやつは鮫を幾らか取ってくるとか言いかねんからな」
「はいな。九郎お爺さんはどうするんですよう?」
「己れらはもうちょっと世間を回ってみる」
そう告げて九郎とスフィは六科の店からも出ていく。だが、水の溢れかえった通りにはやはり鮫の姿がうようよとしているようだ。
「これは被害甚大だろうのう……」
「一箇所一箇所回っておっても埒が明かんぞ。クロー、ちょっと浸水範囲の中心ぐらいに回ってみるのじゃよ」
「どうするのだ?」
「私の大声で一気に外は鮫で危ないと呼びかけてみる」
「わかった」
二人が炎で雨を払いながら空を飛んでいく。殆どの者はこの天気に空など見ないが、僅かにそれを見ていたものは、
「青白い火の玉が、赤い炎を揺らしながら空を飛んでいる……妖怪変化か!?」
と、恐怖に慄くようであったり、
「あ。あれは天狗だな多分」
そう九郎を知っている者は予想したりしていたという。
空から江戸を確認してみると、意外なことに江戸を流れる大川は氾濫していなかった。川の上流に大雨が降っているわけではないのだろう。大川が氾濫していたとなると水流は家を巻き込んで押し流し、甚大な被害を及ぼすところであった。
堀の方は満潮も合わさって溢れ、特に江戸城近辺が水に浸かったようになっている。
二人は江戸城の敷地内である三の丸上空に行き、スフィが九郎から起風符を借りた。
「拡声器が無いときは、風魔法で声を増幅することもあるのじゃよ」
「やれそうか?」
「まかせい。ごほん……」
スフィは喉を鳴らして大きく息を吸い込み、大声を江戸に響かせた。
『大変じゃー!! 大雨で水が溢れ、街中に鮫が泳いでいるぞー!! 危ないから家から出ずに水が引くのを待つのじゃー!!』
彼女の声はなんと四方に一里半ほども届き渡り、しかも「誰かが遠くで叫んでいる」といった程度に感じる不思議な声に変換されていた。
というか江戸城に勤めている武士や大奥の女性もみんな聞いて、いったいなんの叫びかと戸惑いが広がる。
幾らか歌い巫女をしているスフィの声に聞き覚えのある者ははてと首を傾げ、それでも内容は正しく伝わった。
日本橋では鹿屋に詰めていた薩摩人が、
「こげんことしてはおれん!」
「五人組に別れて行動を共にし、各々一匹以上鮫を取ってこなければならん!」
「そうできなかった五人組は連帯で死罪!」
「伍長が鮫に食われてその鮫を逃しても死罪じゃ!」
「鮫を拾い集めろ!」
と、さつまもんらが次々に店から飛び出して鮫を狩り始めだしたりもした。
概ね、誰が叫んだのか不思議な呼びかけとして扱われ、或いは仏の声だと後々噂で語られるようになったという。
また、江戸城本丸の屋根瓦にて飛び交う鮫退治をしていた二人は、声を発した謎の発光物体へと目をやった。
「うわ!? なんだあれ!? よく見えないけど、変な声も聞こえたし!」
(あれは天狗の旦那と、声はその連れのちびっ子だったか……)
シンこと川村新六はその正体がよくわからなかったが、手裏剣を組み合わせた剣を空飛ぶ鮫に向けて振るっていた明楽樫右衛門は超常現象から察しとった。
「……っと、見ろシン! 今の大声でデカブツが逃げていくぞ」
「よ、よかったぁ……この不安定な足場だと、とても突撃を何度も受け止めきれないよ」
二人は嵐の気流に揚力的な何かで乗ってスーッと飛んでいく、全長が五間(約9メートル)はありそうな巨大鮫が去っていくのを胸を撫で下ろして見送った。
先程からその鮫が本丸を狙って八の字に空中を泳いでいて気が気でなかったのだ。
だが、
「待てええええ!!」
叫びながら追いかけている覆面の男を発見して、二人はぎょっとして見下ろした。
「うおっ何だあいつ……忍びか!? 江戸城の屋根を駆け回っているぞ!?」
「御庭番の誰かですか!?」
「いや違う……って不印!? なんだ……!?」
同時にその頃、江戸城近くにいたスフィが妙な音を感じ取った。
鮫の体内から微かにとく、とくと落ち着いた鼓動の音。カチカチと何かを合図のように鳴らす音。そして時折、鮫が苦しんで暴れる風切音。
「クロー! あっちに大物の鮫が空を飛んでおるぞ! 落ちてきたら屋根ぐらいなら簡単に潰れそうなやつ!」
「そりゃいかんな……駆除しておくか」
「いや、待って! その鮫の腹の中から……人の心音みたいなのが聞こえるのじゃよ!」
「くっ……誰か丸呑みにした後か!? まだ生きてるんだな!」
やむを得ず巨大鮫を追いかけるように九郎も飛行する。
なんとも九郎は苦しげな顔になる。鮫に飲まれただけでも生死が怪しいのに、おまけにその鮫は上空を飛んでいるのだ。何かの拍子に地面に落ちただけでも、腹の中にる人間は即死だろう。
気絶させて捕まえようにも、九郎の疫病風装はそこまで重たい物を持ち上げて飛ぶことはできない。
「──見えた! デカイな!」
九メートルもの大きさの鮫だ。そんなものが風に乗って空を飛ぶとは信じがたいが、今すぐに落ちられても困る。
「どうやって取り出すか……」
空中で暴れている鮫を見ていると、九郎は地上にいる忍びの不印に気づいた。
嫌な予感を感じながらもそちらに降りて声を掛ける。
「おい、どうした!」
「あれに鮫太夫が食われた! あの魚野郎を殺して俺も死ぬ!!」
「落ち着け! まだ生きておるから鮫太夫は! 腹を掻っ捌いてでも取り出すぞ!」
九郎はどうにか不印を持ち上げて共に鮫のいる空へと浮かぶ。
自動回避は九郎自身と、胸に抱いているスフィにまでは発動するが足にぶら下げている不印には効果がない。身動きの取れない忍びは飛来する鮫をどうにかぶら下がりながら避けるが、時折ぶつかられて苦悶の声を上げていた。
「よし、一息に助けるぞ。スフィがあの鮫の動きを止める。己れが口を大きく開く。その隙にお主は鮫太夫を引っ張り出せ。いいな」
「任せるのじゃよー」
「は!」
作戦を確認し、三人は鮫の前に飛び出していった。
腹の中を噛まれるような痛みに狂乱している鮫は目の前の相手を敵だとしか考えずに、一気に突っ込んでくる。
スフィが吸い込んだ息を吐き出しながら叫ぶ。
「新装開店出血大サービス!!」
謎の言葉だが、あたかもそれが破壊力そのものを示すかのように鮫に激突して気絶させる。
だが空中を滑るように移動してくる鮫を、九郎が受け止めてナイフが揃っているような鮫の口に手を突っ込んで、上下に大きく開かせた。
それからよじ登ってきた不印が、
「鮫太夫……!!」
手を噛まれても構わないとばかりに右手を口の奥底に伸ばす。
噛みつかれたらそのまま引っ張り出すつもりだった。これまで祝言を挙げてから噛まれない日は無かったほど、日常的に噛んでくるのだ。
それでも自分の選んだ嫁だ。
「鮫太夫──!!」
再び叫んだ不印の手に──
鮫太夫のギザギザの歯ではなく、彼女のひんやりとした体温のある手が触れてきた。
「おおおお!」
不印は引っ張り出して、彼女を抱きしめた。
ぽかんとした顔つきで、やはり口は半開きのまま牙を見せていたが。
鮫太夫も、彼にひしりと抱きついているようだった。
「この鮫は気絶して落ちている途中だ! 脱出するぞ!」
九郎にそう言われ、不印は鮫太夫を抱きかかえたまま九郎の足首を掴みぶら下がった。
そして九郎たちが離れると、鮫もバランスを崩したように頭を地面に向けて直進し──地面に激突した。
「……いかん。重量オーバーだ」
九郎の方もふらふらとしながら、地面に降り立つのであった……
*******
鮫は交尾をする前に雌に噛み付く習性を持つものがいる。
鮫太夫はたまたまあの巨大鮫に、雌だと思われて食われたのではないかと、彼女がピンポイントに狙われた理由をスフィは解説していた。
それはさておき、命がけで鮫を追いかけて救い出した不印は鮫太夫にも懐かれたようで、
「ちょっとお鮫さん。さっきから噛み過ぎじゃないかな!?」
「……ぃゃヵ?」
「嫌じゃないけど! 小声で可愛いなもう!」
確かめるように彼の体を噛みまくるのであった。
それを見ながらスフィは感心したように告げる。
「ふみゅ。小声で聞こえにくかったようだが、どうも鮫太夫はお主が大好きのようだぞ」
「そっかあ……でも二人が居ないと、鮫太夫は食われたままだったと思うから……ありがとうな」
不印は覆面越しに笑ってそう言った。
それから二人は、品川の干物屋で仲睦まじく暮らしたのであったが鮫太夫が今後、夫を血が滲むほど強く噛むことはなかったという。
それでも隙を見ては、軽く旦那へ噛み付いてから──ほんの時々、微笑みを見せるのだという。
また、夫以外を噛むことも無くなったのであった。
誰にでも噛み付いてきた少女が、そんな小さな変化をするだけの事件であった。
この二人は子宝にも恵まれ、干物屋も儲かって子孫も繁栄したという。
ただ時折──ギザギザの歯をした子供が生まれることがあったのだったが。
「……ところで九郎の旦那。うちの鮫が本気噛みしてこなくなって物足りないんだけど……」
「お主、拷問耐性ではなく単に被虐体質なだけではないか……?」
*********
一方、鮫台風で大儲けした者も居た。
一人は鹿屋。江戸に降り注いだ鮫のフカヒレを切って干し、それを中国に密輸することで大儲けしたようである。
もう一人は九郎と甚八丸一味。ヒレを切り取った鮫を今度は切り身にして、忍びの機動力を活かして内陸の村や町に売りに持って行かせたのだ。
鮫の肉は十日経過しても刺し身で食える、と言われている。なので山奥の村に持ち込んでも重宝されるのだ。臭いはきつくなるが、それでも魅力的であったようだ。
海の魚を重宝した信州などで高値で売れて、報酬を山分けにしつつ鮫景気で稼いだのであった。
「撮影に使った鮫はスタッフが美味しく頂きました、というやつだのう」
江戸の被害、怪我人の数も多数だったので、恨みを晴らすべく鮫は食われたりしたという。
めでたくもあり、めでたくもなし。
ちなみに身元不明の鮫太夫ですが、豊玉姫神社の巫女の生まれなので鮫属性がついてます。
スフィの叫びは白ベル
あとシャークネード5が12月に公開予定で楽しみ。とうとう東京もシャークネードに巻き込まれますね




