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21話『お忍び殿様とぼやきの天爵堂』

 清住町の大通り沿い、深川稲荷神社近くに[芝道場]という看板のかかった大きな道場がある。

 百人は剣の訓練が出来る程の大所帯だが、これと決まった流派を教えている訳ではない。しいて言うならば一刀流が多いが、刺叉の振り回しなども庭で行なっている姿が見受けられる。

 通称[同心道場]と呼ばれるそこは、町奉行や火盗改の同心、またはその手先などが集まり鍛錬する為の道場であった。寛永の頃に老中の飛騨守菊池資信が作らせ、初めの師範が新陰流の名人・芝昌景であったことから[芝道場]の名が付けられた。

 日頃から盗賊、破落戸や無頼などを相手にする奉行所の武士達は日々これを鍛えなくては務めを果たせないのである。

 

 月に一度ほど、町奉行所と火盗改の同心がそれぞれを高め合う為の剣術試合を行う取り決めになっている。

 これには火盗改の長官や、南か北の町奉行も検めに来るのである。

 実戦という経験に於いて火盗改の方が一枚上手な者が多いが、盗賊捕縛などの功績を火盗改に取られることが多々ある町奉行同心はここで鼻を明かそうと奮起するのであった。

 中でも一番の大試合として見られているのが南町奉行所──より詳しく言えば市中取締諸色掛与力付(町の見回りや取り締まりを担当する与力の部下)の同心・利悟と、火付盗賊改探索方(同じく、見回りや捕物の実働班)同心・影兵衛の試合であった。


 鍔迫り合いから肩で突き飛ばして鼻先にしないを掠めさせた影兵衛に、利悟が突きを入れる。

 上体を反らして回避し下方から救い上げる剣を放つが、硬い音を立てて利悟は受け止め間合いを戻した。

 剣を構え躍りかかる影兵衛だったが隙はない。利悟は防戦しながらも隙を見て膂力で押し返す。

 撃ちあう二人を見ながら同心達はため息を漏らす。


「やはり強いな、中山殿と利悟は」

「ああ……同心どころか、江戸の剣客でも五指に入るだろう」


 感想を言い合う。江戸で有名な一刀流の道場で鍛えて天性の直感を持つ利悟と、多種多様な流派を自己流に昇華して凄まじい反射神経で使いこなす影兵衛は道場でも二頭抜きん出た剣士である。

 二人の仕事の都合が合わずに毎試合をするわけではないが、その二人が一度「やる」となったら、非番の同心・与力、さらに岡っ引きも仕事を休み、関係の無い他道場のものまで見物に来るほどであった。

 火盗改と奉行所の同心・与力に手先を合わせて五百余名程の誰もが認める使い手なのだ。


「しかしあの殺人癖と稚児趣味が無ければなあ……」

っ!」


 陰口のようなぼやきを片方が咎めた。

 中山影兵衛という男が悪党に対してまったく容赦の無い暴力性を発揮する事は町奉行にとっても知れ渡っていることであった。

 ただ、それ以外の性格を見るならば、気さくで剣の教え方も上手く、書など教養も優れているのである。大酒飲みで博打打ち、女を買っては盗人宿に泊まるなど決して品行方正ではないのだが、それもまた、


「大身旗本出身らしからぬ豪快な性格」


 と、好いている下級武士出身の者も多くいる。彼の実家は三千石の大身旗本であるが、三男であるために家は継がずにわざわざ棒給の安い同心になっている奇特な男なのである。

 影兵衛の普段の素行を咎める与力や奉行もいるが、手柄も多く上げているので公に罰則を与えられる事は少ない。

 一方で彼と互角の利悟は「子供の尻を追っかけている同心」として有名である。

 せめて「子供好き」ぐらいマイルドに言ってくれないだろうかと同僚に提案したら深読みされて余計距離が広がった事があった。

 ともあれ見事な攻防を続ける二人の剣術を学ぼうと、道場の者達は真剣に見稽古をしている。

 ただ、


(へっ……やっぱ撓じゃこいつの本気は出せねぇってか)


 影兵衛が狂貌を浮かべながら心底殺すつもりの打撃を放っているのである。

 幾ら、厚く皮を巻いた撓だったとしても手足に当たれば骨がへし折れ、内臓を破裂させん威力と、頭蓋骨が叩き割られかねない勢いなので利悟は冷や汗を背中に浮かべながら受けているのだったが、


(あああ……もうこれだから影兵衛さんと試合するの嫌なんだよなああ……!!)

 

 内心で叫んでいるのであった。

 剣術はそれなりに好きだが、明らかに殺すつもりの相手とやりあうのは心身共にきつい。

 火盗改の、ましてや影兵衛などは切った張ったの状況に慣れ過ぎている上に好きでやっているのだろうが、利悟は町方奉行所付であり捕物をするときも殺さずに捕まえる専門なので心構えが違うのである。

 

(まるで山田浅右衛門だもの、このおっさん……!)

 

 二・三度見たことのある幕府御用達の斬首役といい勝負の殺意だ、と相手の気を抜かせる受け流しの構えをしながら利悟は思う。

 山田浅右衛門とは江戸初期から明治まで九代に渡り公儀の首切りを承った、通称『首切り浅右衛門』と呼ばれる達人である。刀の試し切りも請け負っており武芸に秀でた大名家である立花家などにも出入りがある侍だ。

 また、切った死体を持ち帰り切り売りしているという噂もあり、ネクロ系サイコ風味穢れ十割男として一部では不気味がられている。悪党以外には気のいい影兵衛はまだそう考えるとマシな性格をしているのかもしれないが……

 とにかく、五つの必殺剣と六つの処刑技と三つの絶命奥義を持つとされる影兵衛を本気にさせないようになるべく受けに回って引き分けを狙っているのであった。いや、その三種の分類にどのような違いが有るかは不明であったが。

 

 二人はしばし間合いを取って呼吸を整え、見ている他の同心たちも言葉を発さずに、道場が僅かな時間静まり返った時の事だった。


「ほほう、なかなかやるじゃないか」


 よく通る声がかけられて、利悟以外の者が道場の入り口近くを注視した。利悟だけは隙を見せたら確実に必殺剣が飛んでくると確信していたので不動であったが。

 三十手前程の長身の男が気取った態度で壁に寄りかかっていた。大柄でよく鍛えられていそうな体つきだが、全身を黒装束で包み顔まで頭巾で隠していて、額に鉢金までつけている所謂[伊賀忍者風]の不審人物であったために、道場の者は全員言葉を失った。

 怪しすぎる。

 その男は手に木札を持っている。道場の壁にかけられていたはずの、指南役である[菅山利悟]と[中山影兵衛]の名が書かれている札だ。


「そこもとの御方は誰であるか。今は試合の最中でござるぞ」


 審判役の火盗改筆頭同心で念流の達人・瀬尾彦宣が問い正す。

 瀬尾は同心の中でも年長で経験を多く詰み、大盗賊[渡り鳥の市左衛門]一味総勢五十五人を捕縛に至った手柄のあり、噂される[同心二十四衆]の中でも最も功績が大きい人物である。

 木札を持ったままの忍者はそれを向けながら鼻持ちならない態度で、


「ふふ、我輩がこの名が書かれた木札を持っている理由がわかるかい?」

「……どういうつもりでござるか」


 男は芝居の見栄を切るように格好を付けながら言い放った。


「──壁から剥がれ落ちていたから拾ったのさ!」

「……」

「釘が出てるから踏んだら危ないと思って……ね!」

「そりゃどうも」

「なんだあいつ」


 影兵衛が馬鹿を見るような目でその気障りな侍を見る。

 大分に彼の、殺し合いの興が削がれたようで相対している利悟は胸中で安堵するのであった。 

 その妙な男は、


「我輩はお忍びで道場破りに来たんだけれど……お相手願えるかな?」

「お忍びで道場破りだぁ? ……お忍びの意味勘違いしてねぇかこの呆けは」


 頭におがくずでも詰まっている輩を相手にする口調で影兵衛が撓を下ろしながら、道場の正面に座っている火盗改の長官を見遣った。

 あの阿呆の対応をどうするかと伺う目線であったが……。

 長官の篠山常門と、並んで座っている近頃新たに北町奉行に就任した稲生次郎左衛門いのう・じろうざえもんがお互いに顔を見合わせた。


(何処かで見たことが有るような……)


 と、二人して首を傾げるのであったが、妙な仮装が印象を上塗りしているために今ひとつ思い出せなかったのである。

 その道場破りの忍びは、背負っていた五尺余ある長い木刀を手にして、余裕のある強者特有の笑みを浮かべながら言った。


「それで──誰が相手をしてくれるのかな?」




 ****




 ある日、九郎と百川子興が両国にある黄表紙の版元、[為出版]に行った帰りのことだ。

 またしても体調を崩している石燕の代わりに依頼されていた絵を届けたのである。

 九郎としては駄賃をもらっているのでそのような雑事は基本的に断らないのだったが、同行している子興は酷く沈んだ様子だった。

 見てて居た堪れなさを覚えるのだが、彼女が描いた美人画を版元に見せて買い取ってくれないかと交渉した所、見事に撃沈したのである。絵自体は上手なのだが、構図だとか様式だとか……ともかく、流行に即していないようなのであった。一人前には程遠い。

 ぐったりとした彼女を元気づけようと、とにかく甘いものでも食わせてやるために手を引いて近くの茶屋に入った。

 するとそこに白頭白鬚の、書生風というより仙人の如き老人が煙管を吸いながら憂鬱そうに座っている。

 見知った顔であった。


「天爵堂ではないか」

「おや……? ああ、君か」

 

 彼はぼんやりとそう告げて煙を吐き、何処か眠たそうな眼差しを向けた。


「それと船月堂の生徒の……百川君だったかい?」

「天爵堂先生ぇ……」


 子興は涙目で彼にいきなり縋り付いた。天爵堂は雑巾でも張り付いたかのような迷惑な顔をする。


「うわぁあん天爵堂先生、わたしの絵、全然駄目なんです編集さん理解してくれないんです! こうなればもう天爵堂先生が付け文して原作効果で価値を上げるしかぁ!」

「いきなりそんなことを言われてもな……」


 顔の皺を深く歪めながら彼は九郎へ助けを求める視線を送るが、九郎もため息をついて目を逸らしながら店員に茶と鶉餅を注文した。鶉餅とは丸くてふっくらと大きく、中に塩餡がたっぷり入った江戸でもポピュラーな茶菓子である。 

 筆者名は変えて出版されているが、天爵堂が文を書く黄表紙などの読本は江戸でも人気があるのだ。また、実体験から記された経済学本『僕ノ小判ガ斯様ニ軽キ筈無シ』は商人や武士階級にも広く読まれている。

 彼は泣きついてくる少女を手で押し戻しながら面倒そうに云う。

 

「百川君、とりあえずどんな絵を描いたのか見せてくれないか」

「はぁい、これなんですけど……」


 と、彼女は丸めて風呂敷に入れていた、女性の艶姿が描かれた美人画を広げた。

 分類すると美人画というものになるのではあるが、子興が解説するに、


「猫耳童女系巫女褌同心ですにゃ!」

「……」

「……胃もたれするであろう?」


 倒錯的な格好をした少女が描かれており、師の悪影響が伺える怪作である。

 それを見た天爵堂が発作的に、俳句を書く短冊を片手に何かいい句を思いつき旅を枕し逃げ出しかけたので、子興が腰にしがみついて止めた。

 苦い声が老人の口から漏れる。


「この絵の伝えたいものが僕にはさっぱりわからないよ」

「それを天爵堂先生が考えてくれるんじゃないですかぁ!」

「なんで僕がそんなことを……」


 断ろうとして、彼はふと思いついた事があった。


(いや、待てよ……ここで恩を売って彼女か船月堂に、北町奉行と南町奉行の衆道系艶絵を描かせて嫌がらせに配布すれば……」


「段々声に出ておるぞ……」


 九郎が鶉餅を頬張りながら半目で疑問を口にした。


「なんでそんなに町奉行に嫌がらせをするのだ」

「まあ、僕の嫌いな奴番付の二位が大岡殿(南町奉行)で三位が稲生殿(北町奉行)だからね」

「一位は?」

「殿堂入りの萩原殿は既に亡くなられているので、後世に僕直々の批判文を残そうと思う」

「陰湿だなこの爺さん!」


 天爵堂はかつて政争で追い落とした勘定奉行の萩原重秀に並々ならぬ怨念を持っているようだった。

 彼自身、頼る伝手の少ない状況から側用人へ召し抱えられるという異例の出世をしているだけあって政敵は多かったのである。中でも険悪な関係だったのが彼の番付に入っている三人だろうか。特に萩原重秀に関しては将軍に、


「彼に辞めてもらわなければ僕は腹を切らざるを得ません」


 とまで数度に渡り進言してまで失脚させた記録が残っている程である。経済改革について凄まじい見解の相違が二人にはあったらしい。

 暗い情熱に少しやる気が出たようだがなるたけ直視しないように、茶卓に置かれた絵を前に天爵堂は尋ねた。


「それでこの猫耳童女系巫女褌同心とやらにどんな話を付けたいんだい?」


 子興は簡単なキャラ設定とプロットをその場の思いつきで口走る。


「えっとですねぇ。やっぱりこの主人公[おにゃん]がもてもてと囃されて可愛がられつつ格好いい男の人ときゃっと時めくような甘い恋愛的かつ社会的に成功していく勝者系展開が」

「九郎、火打石は持ってないかい?」

「ああ己れもイラっと来たところだ。燃やそう」

「駄目ぇ!」


 広げた絵を避難させながら警戒の眼差しを向けるが、白けきった男二人の目線に「う」と子興は気圧される。

 天爵堂は煙管の灰を煙草盆に落としながら静かに、


「──それで何処が面白いんだい? その話」

「あああ! 作家に言っちゃ駄目な言葉だよぅそれ! ううう、お姉ちゃん泣きますからね! 一度泣いたら一刻はぐずるんだから!」

「うわ面倒臭い……仕方ない、天爵堂。ちゃちゃっと書いてやれ」

「君も簡単に云うね……そんな限りなく面白くなさそうな話を筆に乗せるだけでも億劫だというのに」


 げっそりとしながら彼は持ち歩いている紙と筆を用意して書き始めた。





 ****





(以下の文章は実際に書かれたものを九郎が意訳したものである)



 遅刻遅刻ぅ!


 明暦の大火による焼け跡残る下谷広小路を走るわたしは巫女同心のおにゃん。何処にでも居る普通の女の子だけど猫耳がかぶいてるって言われるかナ。


 今朝は早番で昨日捕まえた押し込みの拷問責めをしないと行けないのについ早河岸で初鰹を見てたら遅れちゃった!


 また遅刻かってお奉行様に怒られちゃうにゃん♪ ちなみに三回連続遅刻で左右に引き裂かれる。


 そんなことを思いながら走っていると通りを暴走する牛車に子猫が轢かれそうになっているのを見つけた! 危ない!

 

 慌てて助けようと猫ちゃんを拾い上げて、迫り来る無形の衝撃に私の感覚は研ぎ澄まされ痛みを覚悟したその時であった。


 横から男のコがおにゃんと猫ちゃんを抱き上げてすんでの所で助け上げたのでした! 危機一髪!

 

 よく見るとそれは幼馴染で火消しをしている助次くん。荒っぽい鳶職の中でもひときわ乱暴者だけど本当は優しい人だっておにゃんだけが知ってるの。



(そろそろ九郎は読むのが辛くなってきて目元を揉んだ)



 助次はおにゃんに怪我が無いか心配して、それから牛車に怒鳴りつけた。

 

 すると牛車から公家風の貴公子って感じの男のヒトが出てきて、「ふっ……女。麻呂の車を止めるとは無礼であるな。名を聞こう」とか目を付けて来たわ!


 おにゃんの前に立つ助次くんなんて眼中に無いみたい。


 すると観衆から「おっ? 喧嘩か? いいぞやれやれ!」と気楽な声を上げているのは火盗改の密偵をしている伊佐くん。ひょうきんなお調子者で憎めないお兄ちゃんみたいなヒトだけど元仲間の盗賊を売る度に余罪が判明していくの!


 などと言っていると空から光を放ちながら皇子様みたいな綺麗な御方が降ってきて大変! ぐしゃっ。 

 

 おにゃん、これからどうなっちゃうの!?





 ****





「これはひどい……」

「僕だって書いててもう限界だよ……」


 迎い酒で二日酔いを拗らせたようにげんなりとした顔の天爵堂は筆を置きながら震える手で茶を飲んだ。

 額には脂汗が酷く浮かんでおり、顔色は青ざめている。珍妙な文章を書いた拒絶反応が起きたようだ。

 九郎はこれ以上文章を理解しないように努めながら、


「だが確かにそれっぽくはあるぞ。時々素の文に戻ったり、そこはかとない怨念を感じるが」

「それっぽくもどれっぽくも、こんな文章が売れる様になったら僕は筆を膝でへし折るよ」

「唐突に降ってきたイケメン皇子、落下死してないか?」

「面倒すぎてどうでもよくなって……」


 苦い茶を啜りながらかぶりを振った。

 だいたい設定の基本は抑えているような、壮絶に間違っているようなそんなを文章を子興は瞬きを忘れ読みいっていた。

 そして輝いた目を見開いて天爵堂の手を取り、


「い、いけますよ天爵堂先生! さすがでございます! 乙女の繊細な心と夢を掴んでて!」

「……う、目眩が」


 彼女に褒められて思わず自律神経が失調する錯覚に襲われる天爵堂であった。


「早速この文も合わせて版元に持って行ってきます! ありがとうございました! お礼はまた今度ぉ!」

「え……いやそれ本気で出すつもりかい……?」


 鶉餅を咥えながら駆け足で来た道を戻っていく子興の後ろ姿を見ながら、


「……僕は明暦の大火の時に生まれてね、小石川にあった屋敷が燃えたこともあって火事は嫌いなんだけど」

「うん?」

「あれが出版されるとなると版元に火付けをしたくなってくる」

「……まあ、なんだ。後の歴史に残らないといいな」


 しみじみと呟くのだった。

 九郎は飲み干した茶のお代わりと、わらび餅があるようなのでそれも注文してから「そういえば」と、尋ねる。


「お主、今日は何か用事があって出てきているのかえ?」

「用事ってほどじゃないけれど……昔、幕府こうぎに側用人として勤めていた時の元同僚が居てね。その烏滸おこがましい男はお忍びで上屋敷から脱出し町に繰り出したみたいなんだ。

 部下が慌てて探し回っていて僕にも訪ねてきたから、茶を買うついでに見かけないかと思って出てきたのだよ」

「お忍びで町に遊びに出るなど上様みたいだのう。物語の」

「……うん、まあ」


 彼は頬杖を突きながら通りに目をやりつつ、


「せめて馬鹿な事をしていなければいいけど……ん?」


 呟いた彼の目が何かを追いかける動きを見せたので九郎も通りへ顔を向けた。

 視線の先に破れた頭巾から見える顔をぼこぼこに腫らして、全身転がされまくって草臥れた黒装束でとぼとぼと歩く侍の姿があった。

 おまけに背中に[敗け者]と張り紙がされている。友人にはそのような仕打ちはせぬよう注意したのであるが、


(……晃之介の道場ではないようだが、流行ってるのか? 忍者の格好もそうだが……)


 などと九郎は思った。思えば忍者を見るのも三回目ぐらいなのでもはや白昼堂々と居ても慣れた感じすらしてくる。忍者は現実だ。

 一方で天爵堂は口を半開きにして顔を強ばらせている。

 引きつった声で彼は、


「……ところで九郎。君、あれに即座に切腹させるまやかしの術とか使えないかい?」

「いやそんな便利なのはできんが」

「よし、じゃあ二両渡すからこれで山田浅右衛門にあれを処理させるよう依頼してきてくれ。」

「そういうのもちょっと」


 見た目が薄汚れている忍者の男はぐったりとしていたが、天爵堂の視線に気づくと両手を後ろに伸ばした忍者走りで茶屋に駆け込んできた。

 一旦肩で息をした後、壁にやや斜めの角度で寄りかかりながら気取ったポーズを取り、朗々と話しかけてきた。


「やあ! 新井先生じゃないか! ふっ、驕れる平家も久しからず……これはご忠告だよ」

「本多殿」

「と、言いたいが残念だったね。僕の家系は広がりすぎてなんか久しいのか久しくないのかわからないのさ! 正月とか毎年知らない顔の親戚が居る気がする! 名前と顔が一致しなくて一寸気まずい!」

「本多殿」

「はい」


 急に勢いを落として本多と呼ばれた忍者は座敷に上がって正座をした。

 難しそうな顔をしながら天爵堂は深々と溜息をついてくどくどと説教を始めた。


「あのねえ、浪人の僕が云うことじゃないけど、君も今や下総古河藩の大名だよね? おまけに正当に名を継いだ、神君(徳川家康の事)から仕える本多平八郎家の当主だよ? 

 それが御徒士も連れずに遊び歩いて、しかも道場破りに出たんだって? それで不名誉な怪我でもしたら藩邸の一同と一緒に腹を切らされてもおかしくないんだよ。

 だいたい身分を隠すのはともかくそんな盗賊のような格好までして、何を考えてるんだい? 仕事もあるだろう」

「いや……その……我輩の奥義『蜻蛉切り』が炸裂すれば勝ってたし……今日は登城の日でないからお忍びで出かけても……仕事は弟が引き受けてくれたし……」


 もごもごと口を動かして弁明になっていない言葉を紡ぐ彼を天爵堂がじっと見る。

 江戸の城下にやってきた大名の主な仕事は江戸城に出勤し諸事をこなすことであり、それがない日は屋敷詰めの家老や目付けとの謁見はあるものの碁を打ったり武芸の稽古をしたりする休暇の時間もあったようである。

 寺社で行われる相撲を見に行く程度ならまだしも、部下からも忍んで一人道場破りに出かける大名はそう居なかったが。

 九郎は忍者の背中に軽く刺さった小柄で止められている[敗け者]と書かれた張り紙を剥がしてやった。装束の下に鎖帷子を着ているらしく肌まで突き通っては居ないが、惨め極まりない。


「天爵堂、このお殿様は……ええと本多平八郎というと、確か……本多忠勝の」


 うろ覚えではあったが、徳川四天王の猛将の事を九郎は記憶していた。確か蜻蛉マニアであったように思う。戦国の世はクワガタマニアとかムカデマニアとか虫が趣味の武将が結構居たような認識だった。

 天爵堂は肯定して、


「そうだよ。その宗家八代目当主の本多平八郎忠良ただなが様だ──見ての通り少々あれなんだけれど」

「お忍びだからって少々──忍び過ぎちゃってるかね我輩」

「なんでこんな勘違いしちゃっておるのだ?」


 九郎は可哀想な目で彼を見た。お忍びとは忍びの格好をすることではなかったはずだ。恐らくは。

 本多忠良は山崎藩主・本多忠英の長男として生まれて本多平八郎家を継いだが、徳川六代将軍家宣の頃から天爵堂と同じ側用人に任じられた経歴があり、知り合いとなったのである。

 年若い忠良は天爵堂の陰からの指導により殿中での振る舞いを教えられ、彼を私の場では先生と呼ぶ程であったのだったが……。

 本多忠良がよく藩の城下町を視察に出かけていた事を知られていて、仕事はできるが奔放な性格であったらしい。また、先祖である東国一の武将・本多忠勝に崇敬の心を強く持ち武芸にも励んでいたようだ。

 

「それで、何処で負けて来たんだい? 場合によっては処理……じゃなくて口封じ……ええと、隠蔽もしないと」

「さらっと怖い単語が出るよな此奴」


 本多忠良は座りながら遠くを見るようなポーズを決めつつ応える。反省の色は顔に浮かんでいない。


「ふっ、時には敗北を認めるが、じきに我輩の強さを天下に轟かしめ」

「いいから」

「……[芝道場]という道場で、町奉行の同心菅山利悟に紙一重で。いや本当に紙一重。あそこに蜻蛉が飛んでたら我輩が勝ってたさ。まあ負けたら火盗改の長官が『その怪しい奴の頭巾を剥げ!』とか言い出したから怖くて逃げてきたけど」

「利悟か。あやつは強いぞ。暴れていた力士を取り押さえてたぐらいだからの……背中の張り紙は逃げ際に影兵衛にでもやられたのであろう。あやつのしそうなことだ」


 九郎が率直な感想を告げる。

 以前にその光景を目撃しているのだった。頑是無い(幼くて無邪気な事)子供の囃し声に大人気なく腹を立てた相撲取りが振り回した角材をするりと避け、十手でしたたかに手を打ち付けてやわらで三十貫はありそうな力士を投げ飛ばしたのであった。

 稚児趣味ではあるが腕前は確かであるが……この忍び大名を大名とは気づかずに、上司の指名を受けて普通に叩きのめしてしまったようだ。

 おまけに投擲術の手練である影兵衛からの贈り物付きである。


「菅山……前に御先手組の剣術指南役でそんな人が居たような気がするが……いや、それよりその同心の所属する町奉行って南かい? 北かい?」

「道場には稲生正武殿が居たけれども」

「──よし、よくやった本多殿。後は僕がしつこく手を回し稲生殿に責任を追求しまくって腹を斬らせにかかる。まあ余波で君も改易とかになったらすまないが。

 やれやれ、[人を嵌めるものは落とし穴と稲生次郎左衛門]なんて悪口が囁かれているけれど、彼も自ら落とし穴にかかるなんて意外と甘いんだね」

「天爵堂が悪い顔しておる……!」

「新井先生を敵に回すと危険凄く」

「わかりやすい解説だ」


 ぞっとしつつ身を引いた二人に、おどけるように天爵堂は肩をすくめた。


「冗談だよ。彼らに嫌がらせ以上の事をしても、今更僕は得をしないからね。昔は幕府の為に主張の違いから争ったけど、彼らがよりよい後世を作ってくれるのなら僕は別に構わないさ」

「うむ……ところでお主の連載しておった[無痔奉行]だがまた打ち切りを食らっていたな」

「文学というものはいつの世も社会に弾圧されるものだよ。困ったことにね」


 悪びれない顔で彼は云う。

 江戸の世でも社会風刺物の作品はよくお上の手が入っていたと言われているが、天爵堂も相当のようであった。


「それはいいとして。君の家臣が困ってるから早く屋敷に戻りなさい」

「ふふ、我輩を見くびってはいけませんよ新井先生……」


 彼は勝手にわらび餅を手づかみで食いながらいい顔で云う。


「まだ道場を破っていないのだから、男の誓いにかけて戻れませんな!」

「九郎、ちょっと彼を殴り倒してくれないかい?」

「さすがにさしたる理由なく大名を殴るのは遠慮願うのう」


 嫌そうな顔で張り切る忠良を見る。

 

「はあ……それじゃあ、何か手頃な道場とか知らないかい?」

「そう言われてもなあ……道場をやってる知り合いは居るが……なにせ柳川藩立花家に認められる腕前だから手頃かどうかは」

「家同士の争いの火種になりそうなのは困るね……」


 などと言い合っている時であった。

 三人が入っている茶屋の面した通りで、怒鳴り声の応酬が聞こえた。


「てめえこの三一さんぴん侍が図に乗るんじゃねえ馬鹿野郎! 手前の博打の借金、溜まり溜まって二五両! 差料(刀の事)売ってでも払いやがれってんだ!」

「武士の魂の刀を貴様のような悪党の為に売れるものか! どうせあの博打と金貸しともグルなのだろう!」

「グルだろうがゴロだろうが、金を借りて博打にのめり込んだのは手前じゃねえか阿呆!」

「くっ……破落戸ごろつきの癖に正論を言いやがる!」


 言い合っているのは無頼風の三人組と、刀を差した侍であった。

 どうやら借金の取り立てのようだ。この時代、大名の中屋敷などでは賭博が多く行われていて、町人のみならず侍や浪人も多く散財していたという。大名屋敷で行うのはそこでならば奉行所の手が及ばぬ場所であり、持ち主の大名が江戸に参勤していない間に屋敷を管理する者達の収入源となっていたのである。

 賭場では一分金などの高額金が行き交いする為に、俗に三一と呼ばれる年俸が三両一分の下級武士が入り浸ったらとても払いきれぬので、賭場には金貸しが常駐している事も多々あった……。

 ともあれ、江戸の界隈ではよく見る喧嘩騒動であった。


「おう、しかしなんだ。腰の物を付けた体重のかけ方を見るに侍は剣術を習っておるし、破落戸のあの堂々とした体躯は喧嘩慣れしておるようだ」

「侍の方は剣を抜くと大事になるし、破落戸のほうが数が多い。借金取りが勝つと思うよ」

「そうだのう。無手で三体一で勝つのは機先を制して打ち倒さねば」


 などと九郎と天爵堂が窓からぼんやりと見ながら云う。

 天爵堂も文人ながら剣術の心得がある。赤穂浪士に協力した書家で有名な細井広沢の例もあるが、享保の頃は学者であり武人でもある者が多かった時代でもある。これも江戸の中期でそれぞれの道が丁度円熟に至った事からだろうか……

 だが、二人がふっと気配を無くした本多忠良に目線をやると、既に彼は座敷から消えていた。

 そして張り上げた声が通りの喧嘩先から発せられた。


「待ちたまえ双方!」

「なんだ手前!? 変な格好しやがって!」


 ねちっこいだみ声を上げる無頼の目の前に相対するが如く忠良が立っている。

 彼は「ふっ」と鼻で笑いながら、


「……変な格好とはなんだ!」


 見ていた約全員が、


「なにしに来たんだよ!」


 と、叫び手近な無頼と侍はポーズを決めている忠良に容赦なく蹴りを入れた。

 彼は無様に地面に蹴り倒された後、手の甲で顎の下を拭いながら、


「おのれ……両方から攻撃されたという事はどちらも我輩の敵という事だね!?」


 などと偉そうに告げて、背負った五尺余もある長大な木剣に手をかける。

 いきなり現れて何やら不穏な態度の彼に、無頼はそれぞれ胸元から匕首を取り出して侍も腰の刀に手をかける。

 だが。

 忠良のはなった高速の突きが瞬く間に、警戒の予備動作をしていた四人の顎を正確に掠めてぐらりと昏倒させて倒したのである。

 九郎の研ぎ澄まされた視覚でもその剣先は目に映らない程の疾さであった。

 長木刀を槍のように構えた忠良が不敵な笑みを浮かべて告げる。


「ところで君たち道場の看板とか持ってないかい……!?」


 おお、と取り巻いて見物していた観衆からどよめきが上がると同時に、


「殿が居たぞぉっ! ひっ捕まえろ!」

「そこのすこぶる怪しい男、火盗改の役宅に来てもらうぞ!」

 

 と、彼を探し回っていた古河藩の御家人と芝道場から追いかけてきた火盗改が飛び出してきて、彼は慌てて木刀を背負い直して走り逃げていくのであった。

 その後姿を醒めた目で見ながら天爵堂は、


「……ああいうのが大名だと、徳川の世も長くないと思うよ」

「ううむ、実際に殿様が遊び人だとマジで困るのであるなあ」

「あれでも本多君は仕事はできるほうなんだ……真面目にすればね」


 諦めたような表情で小さく首を振る天爵堂である。

 なにせ忠良はこれから数年後、将軍吉宗に江戸城本丸務めの老中を任命される程だが……。

 ともあれ、騒動は去り九郎と天爵堂もそれぞれ帰路に就くこととなった。その際に天爵堂が、


「もしもの時、版元に撒く油代を……」

「いや、己れに放火させようとするなよ」


 九郎に金を渡そうとして来たので固く断ったという。

 ようやく分かったがこの男、自分ではなく誰かを働かせるように仕向ける性質があるようだった。


 夕立か、空が暗くなって来ていた。先ほどまで借金取りと侍、そして本多忠良の暴れていた道に赤蜻蛉がつがいで飛んでいるのを見て、


(切られぬようにな)


 と、逃げた忠長の方を見ながら思うのであった。なんで昔の武将は虫を切ったり岩を切ったり戸棚を切ったりするのが好きだったのだろうかと考えながら。


 世間はもう秋だが、まだ暑い日が続きそうである。





 ****




 

 余談だが、その後に本多忠良は六天流道場まで逃げ込んで、たまたま晃之介が作っていた、彼が捕まえた泥鰌どじょうを丸まま使った野趣溢れる味付けの鍋を図々しく相伴していたところを家臣に拿捕された。

 道場は破れなかったが泥鰌は食えたのである程度満足したようである。

 また、後日礼に晃之介は本多家の屋敷にも招かれる事になり、大名との奇縁がまた出来たのであった。




 なお、案の定というか子興が持ち込んだ話の出版が決定されて、文章担当の天爵堂は頭を抱えることになり──おまけに石燕に指をさされて笑われたという。 


 




 

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