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63話『お九と旗本三男/靂と吉宗』



「しかし、なんでもありよね……あなたって」


 神楽坂の屋敷にて、豊房は女体化した九郎の全身を改めて眺め回し、それから豊満な胸を凝視しながらそう言った。

 靂の偽装婚約者として名乗り出て、彼の悲惨な幼馴染共を一時休戦させる作戦の為に自らTS病になって女の姿になっているのである。これならば、いざお遊と小唄に命を狙われた場合でも女装を解いてしまえば、彼女らの目標はこの世から存在しなくなり犠牲者も出ないだろうという考えからだった。

 十代半ばぐらいの肉体年齢に合わせて女体化したら、九郎を女顔にしてやや体に丸みが出て胸がついただけという素性バレしやすそうな姿だったので更に幾らか年を重ねて、身の丈六尺近くもある長身かつ年増の状態で体を保っている。そうしていれば、九郎の面影は少なく精々親戚で通るぐらいだ。

 着ているものは花色(薄い藍色)の紋付袴模様で刺繍に総絞りを沢山施した白襟の着物で、腰では大きく角出しで帯を結んでいる。夫が女装するというので下手なものは着せられないというお八の謎の決意によって用意されたその着物は豪奢であり、吉原の遊女でも上位の者が身につけるようなものであった。

 背丈の高く、気怠げな表情をした年増女のお九と相まって、匂い立つような色気を見た男は覚えるだろう。

 

「自分と並ぶと等身の高い浮世絵みたいでありますな」

髪の毛(びんたんけ)が伸びっとは羨ましか」

「胸を大きくする妖術があるなら使って欲しいもんだぜ」


 居間にて、女房・妾に囲まれてお九はされるがままにしながら微妙に顔を顰めていた。

 腰まで伸びた彼女の髪の毛を、夕鶴とサツ子はあれこれと島田に結ったり伝法肌の姉御風に結んだり、色々と形を変えて遊んでいる。

 そして膨らんだ胸を羨ましそうに見ているのはやはりお八であった。彼女は子供も宿しているというのに胸は目立った膨らみはないという残念なことになっている。


「一応病気の一種だからのう……副作用とかあったら困るからやめておけ」

「クローは大丈夫なのかえ?」

「己れは勝手に病気が治るから大丈夫だろう」


 スフィの心配したような言葉に、お九は小さく笑って首を振る。

 常に体調を万全に整えようとする体の魔術文字があるので、大抵の病気は重病化する前に治癒してしまうのでブラスレイターゼンゼを使って病状を固定しているのであった。


「微妙に羨ましい体質だね……」


 前の体では病弱だった石燕がお九の頬を突きながらそう呻いた。

 

「なんだ人の頬をぷにぷにと」

「くっ……このっ……年増の肌じゃないっ! 詐欺だ! 春画でよくある系の、設定だけ年増ながっかり熟女だ!」

「今形成されたばかりの肌みたいなもんだからのう」

「白粉も薄めにしときましょうか」

「というか、何故化粧までさせてくる……」


 将翁は商売道具を広げるように、紅やら白粉を準備してお九に施してきていた。

 

「大体、お主らがまた見たいというのでわざわざ女体化したのだが……案外に痛いのだからな、この病気で体が変化するのは」

「そうなの? あなた、よく子供になったり大人になったりしてるから平気なのかと思ったわ」

「子供と大人の変化は別に平気なのだが、女になると変化中には尿管結石を患いつつタマが潰されたような痛みがあってのう……うう」

「よくわからねえけど凄いヤバそうだぜ……」


 軽く汗を浮かべながらお九は下っ腹のあたりを押さえながら呟いた。

 この病気は当然ながら外見に加えて骨格から内臓まで都合よく変化し、男性器は変化して女性器になる。その過程で激痛が走るのは九郎としても予測外だった。

 初回は何かの間違いかと思ったが、二回目に変化した今回も同じ痛みが来たので仕様なのだろうと彼女はゲンナリしている。同じく、元に戻る際にも痛むからだ。


「まあ、だったらいいじゃない。暫く女の体でいれば?」


 豊房が気楽そうにそう告げてくる。


「そうは言うがのう……この体だと色々面倒だろう。というか己れが己れとして活動できぬし」


 仕事も無くて毎日ブラブラして時折博打でも打ちに行き遊ぶ金を女から引き出すような暮らしであれば、姿が女だろうが老人だろうが構わないのだがこの主人公は違う。

 商店の主人であり、鹿屋との取引も行い、同心の手下としての活動も行わねばならない。

 夕鶴が慌てた様子でお九に賛同した。


「そうでありますよ! 御主人様がこの体だとチンチン付いてないでありますし!」

「自重しろ」

「のーんた」


 現在嫁妾の中で一番盛んというか盛っている夕鶴をお九は頬をつまんで話を止めさせた。

 咳払いをして豊房が改めて言う。


「色ボケしてる夕鶴さんはさておき。あなたがその状態なら浮気できないでしょうし」

「……」

「……」

「……」


 暫く皆が無言になって、お九は唾を飲み込み抗弁した。


「いや、その己れが浮気をする前提の話はどうなんだ」

「あらごめんなさい。違ったのかしら。だって時々、外泊してるから……」

「外泊は同心から仕事を頼まれてたり、精々が酒を飲みに男友達の家に泊まるぐらいだろう。本当だ。連中に証言させてもいい」

「そうだったのー」

「なるほどだぜー」

「左様ですかー」

「納得でありますなー」


 どうやら嫁と妾も納得してくれたようだ。妙に語尾が間延びしていたが。お九は涼しい顔で何故か浮かんだ汗を拭った。図星を突かれたのではなく、単に追求されたら無実でも焦るものなのだ。

 女性というのは子を宿していると精神的にも不安になったり、感情的になるものだ。なので旦那が時折、やむを得ない事情で帰ってこれないのを勘ぐったのだろう。事実無根である。信じよう。

 そんなお九を微妙そうな顔でスフィと石燕にサツ子と阿子は見ていた。


「……いっそあなたもお腹に子供作るとかどうかしら。大人しくなるかもしれないわ」

「なんでそうなる!? というか誰にだ!?」

「えーと……うちのお父さんとか?」

「関係性マズすぎるだろう!」


 気まずそうにお九は立ち上がり、妙な話題から一旦離れようとする。


「ええい、ちょいと店の様子でも見てくるわい。この姿なら関係者とはわからぬから、こっそり客として入ってみるのもいいかもしれんからな。自然な接客などの様子もわかる」

「うーみゅ、極秘の視察なら一緒にはついていけぬな。ま、味のチェックも兼ねておみやげに買ってくるのじゃよクロー」

「わかっておる。しかし前も思ったが動きにくいし腰が重いし……よくおなごはこんな着物を着ておるのう……」


 大股で歩くことさえ困難で、まるで拘束服を着せられている気分であった。

 下品げぼんの女が普段着にしているものはもっと緩く着こなすのだが、お九に渡されているそれは大店の女将が着飾るために身につけるような代物である。基本的に外をぶらつくようにはできていない。そのような女は基本的に家屋敷に居て外には行かないのだ。


「あたしが師匠のところで修行するとき使うみたいに切れ込み入れておこうか?」

「うむ。簡単にできるならやっておくれ」

「きゃー勿体無い勿体無いの。お八姉さんは高級布を雑に扱いすぎなの」

「雑にって……ちゃんと着れるようにする以外にどんな扱い方が良いってんだぜ」

「お店に売るとか」

「扱ってないからそれ!」


 と、お九は出かける準備をあれこれとして一人で外に出るのであった。





 ********





 さてはて、外に出て町を歩けば暑いこの時期、仕事にもならぬと暇を持て余しぶらついている若い男が江戸には多く見られた。

 そんな中で見上げるような背丈で、上品じょうぼんの女が身につける着物を着こなし、しかし髪型は伝法肌の姉御みたく軽く結って髷も作らずに流して櫛で止め、それでいて顔立ちは妙な色気のあるのだから男の目をやたらと引いた。

 高下駄を履いた花魁ならばそれぐらいの背丈になるので、吉原に行ったことのある者などはそれを想像しただろう。

 ともあれお九は視線をあれこれ受けて鬱陶しく思いながらも、腰の帯に巻いた術符フォルダを意識して触った。刀を持ち歩くのは明らかに似合わないので反対されたが、これだけは念のために持ってきている。


(あのまま屋敷に居たら色々マズイ気がしたから出たが、一人だと視線が集まるのう)


 お九はちらりと目をやると、通りすがりの覆面男がサッと目を逸らした。

 

(恐らくは背が高い女を珍しがっているのだと思うが、夕鶴も大変な思いをしていたのだなあ)


 そう思っているのだが、実際のところは背丈で目を引くのはそうだが、胸と色気で男らの視線は固定されているのである。

 男のときは気怠げな目つきのぼさぼさとした頭をしたあまり人目を引かない少年だが、こうして年増女になるとやたらと目を向けられる容姿になったようだ。

 さて、


(店に行くにも、行って帰ってくるでは四半刻ほどで屋敷にとんぼ返りだのう……どっかについでに出かけるにも、あまりじろじろと見られるのはなあ……誰か知り合いでも誘って遊びにいくか?)


 と、考えるのだがあまり暇をしている知り合いがそこまで居ない。 

 同心連中は仕事だろうし、浅右衛門も首切り腑分けに薬作りとその日にこなさねばならない仕事が多くある。晃之介は道場で、六科は店で忙しい。

 暇そうというと、部下に仕事を任せている甚八丸か絵描きをしている歌麿が浮かぶのだが、


(あやつら絶対けしからんことをしてくるよな……)


 その二人は基本的に助平なのがいけない。

 この前も歌麿に偶然見つかった途端にすごい勢いで迫られた。思わず殴りつけたら、腕を掴まれて引き寄せられた。

 さすがに弟分となると股間を潰すわけにもいかない。いや、何度かそうと知らずにやったことは、以前にあった気はしたが。

 

(うーむ、いっそ晃之介の道場に行って正体をバラさずに道場破りでもしてみるか……)


 などと考えながら道を歩いていると、見たことのある顔をした武士が前から歩いてくるのをお九は見つけた。

 動きやすそうな白袴に編み笠を被っているがっしりとした体格の良い中年の男で、厳しくも涼し気な顔立ちをしていて斜めへと真っ直ぐ伸びた意志の強そうな眉をした、綺麗にモミアゲなどを整えている男である。

 着物の生地自体は安そうだが丁寧に洗われていて染みも無く、質素な身なりではあるが腰に帯びた刀は中々の業物に思えた。

 どことなく、周囲の人も彼に気圧されたようにちらりと視線を送り当たらぬように避けて歩いていた。連れ立った伴の者は居ないが、身分の高そうな武士に見えるのだろう。

 お九は軽く手を上げて立ち止まり挨拶をした。


「おお、お主は確か旗本三男の人」

「ヨッシー?」

「鳴き声!?」

「いや……なんでもないでよし


 一瞬甲高い声で鳴いたかと思ったら、落ち着いた渋い声で返事をしてきた。

 彼は以前に、千葉にある牧場から牛乳を仕入れようとした際に牧場にやってきた謎の旗本三男坊である。スフィが歌を聴かせて、石燕と九郎が作った牛乳菓子でもてなしたところ大層に喜ばれ、何故か牛乳代が無料になったという。

 その時は伴が沢山居たのだが、お九はきょろきょろと見回すものの今日は一人であるようだった。


「はて……誰だったか吉」

「うむ? ああ、しまった。姿が違うのだったか……ほら、以前に牛の乳で菓子を作った男が居ただろう。それの姉だ」

「……」


 三男は僅かに思い出すよう顔を顰めて顎に手を当てて、やおら返事をした。


「なるほど。確かに覚えがあるような気がしないでもないで吉」

「曖昧だのう……今日はどうしたのだ? 仕事中か?」

「いや……たまには市中を見物しようと出かけているところだ吉」

「ほう。一人でぶらついてか」

「とは言え、あまり出歩かないものだから見物する場所もよくわからんで吉」


 よくわからない語尾を付けている男は当たりを悠然と見回しながらそう言った。

 お九は首を傾げる。


「このあたり出身ではないのか?」

「紀州出身なのだ吉」

「ふむ……」


 案外に、とお九は思った。

 どうも旗本三男と名乗って身分を隠しているフシがあるあたり、上級武士……あるいは大名の三男なのかもしれないと考える。

 そう思うと一度だけ会ったことのある徳川宗春と似ているところがある気がした。

 宗春の居た尾張徳川家は兄弟も側室に産ませた男児も多いので、その一人が江戸の屋敷にて住んでお忍びで出歩いているのではないか……と、彼女は想像してみた。

 

(まあ、どちらにせよ伴も付かぬぐらいだから、重要な立場の人物ではないのだろうな)


 部屋住みで暇をしていた世間知らずの中年武士が出かけたのだと思うと、同情のようなものも感じた。


「暇ならば己れと出かけるか? まあ、そこらで飯を食って酒でも飲むか」

「ヨッシー」

「肯定の鳴き声!?」


 お九は再び中年から発せられた叫びに疑問の声を上げる。

 だがひとまずは町をぶらつく仲間ができたので、うろつくことにするのであった。





 ********




「おい、なんかマズイぞ。殿が変な女に捕まって二人で親しげに歩き出した」

「何だあの女は。宮地みやじ。見覚えはあるか」


 離れた路上で世間話をしながら歩いて三男を追いかけ、監視していた二人の男がヒソヒソと会話をしている。

 視線を直接向けぬようにしてあまりに長く尾行が続きそうなときは脇道にそれて別の班と交代をし、隠密に徹して彼を見守っていた。

 宮地と呼ばれた方は首を振って告げる。


「いや……一番に殿と付き合いが長いが、これまで奥などでも見かけたことはない。そもそもあの背丈と胸の大きさでは、見忘れるはずはない」

「じゃあ全く正体不明の何者かが殿に近づいたというのか……明楽めいらく、接近して会話を探れ。間者かもしれん」


 明楽と言う名のもう一人がさり気なく近づいてきて会話に参加する。彼は屑拾いの格好をしていて、専用の鑑札まで持っていた。

 屑拾いという仕事はゴミがある場所ならば近づいて拾うことを誰にも止められない。かつ、特殊な立場にあるその仕事は賤業でありながらも保護されており、結果として皆からなるたけ触れないように無視されやすい存在なのだ。

 

「了解。いっそ女を連れ去るか?」

「それをしたら殿がマジギレする。それにしても、今日は妙なことを殿は行うものだ……隣に居た新の奴は何処に行ったというのだ」

「鷹狩りに出かけたと思ったら、濃霧で狩りができそうにないから急遽中止をしてお忍びで市中に出ると来たものだ。家臣一同猛反対したが……」

「上様がやると決めて行うのだから、それを何がなんでも止めることなどできないのだよなあ」


 ため息混じりに、前を歩く殿──彼らの仕える将軍吉宗を見やる。

 江戸城に住まう将軍の一日は非常に多忙なもので、目覚めてから就寝までキッチリとしたタイムスケジュールが組まれている。

 更には法要なども将軍には多く、歴代将軍の月命日、またはその正室の命日、自分の親族の命日、有力者の命日など様々にあり、最終的に多すぎた命日を一括一日で纏めるまで、年に百日以上は法要が行われたという。

 そんな中では市中に出かける暇など無いのだが、鷹狩りの日だけは江戸城内での仕事の殆どはキャンセルされる。

 質素倹約で仕事も苦ではなかった徳川吉宗も、兵を動員して行うので訓練にもなり得る鷹狩りは好んで行ったという。

 

 しかしながら本日、将軍が鷹狩りに出向いた際に空中に白墨を塗りたくったような濃霧が巻き起こり、連れたった家臣一同立ち往生してしまった。

 どうにか将軍の声を聞いて一同が霧から脱出をしたものの、予定を変更して伴を連れずにお忍びで江戸市中見学に出たいといい出したのだ。

 大反対が巻き起こったのだが、普段は理屈を説けば納得してくれる吉宗が何故か強情になり、怒りを買いたく無かった家臣の方が折れたのである。

 だが伴は連れずとも、陰ながら彼を護衛する役目として九名の伊賀御庭番が極秘に彼の周りへ配備されることになった。

 彼らは武士であり、忍者である。吉宗の命を受けて江戸市中から他国まで密偵に向かい、情報収集をする任務に当てられている。身分こそ低いが将軍直参の武士で、単独での戦闘力も高い忍びが選ばれていた。


 その彼らが江戸をぶらつく吉宗を監視していたのだが、突然背の高い女が親しげに話しかけてきて共に歩き出したのだ。

 彼らの緊張は否応なく高丸。


「くノ一の類か、或いは殿を誑しこむ雌狐か……」

「どちらにせよ、決定的な証拠を掴んだらすぐさま取り押さえるぞ。殿とて、証拠さえあれば文句は言うまい」

「拷問して何処の手の者か吐かせてやろう」


 更に他の御庭番も集まり、意思疎通をして作戦を確認しあった。

 覆面で顔を隠している江戸によく居るタイプの忍びなど、将軍配下であるプロの忍び集団な彼らの中では一人しか居ない。

 全員が一般人に紛れられる変装をしていて、間近で吉宗が見ても気づかないだろう。


「拷問か……おれ、くノ一に助平な拷問するの初めて」

「俺も! まずは予習で歌麿先生の春画とか買ってこないと……」

「ちょっと? 裏で誰が糸を引いてるか聞ければいいんだから、あんまり酷いことしないでよね男子。特に顔とか」

「水攻めする水、砂糖とか混ぜたほうがいいのかなあ女の子向けに」


 などと話をしている集団の本質は、あまり他の忍びと変わらないような感じであったが。

 というか覆面を被っている一人は普通に甚八丸のところの忍び会議に参加したりしているのであった。 

 




「……ところで殿、あんな喋り方だっけか?」

「さあ……演技してるのかな」


 



 *******





 九郎が主人をしている店、慶喜屋では基本的なパンケーキメニュー以外に数量限定、季節限定のレアメニューも高額で販売している。

 その噂を聞きつけている大店の主人や町年寄、武家などがすぐさま予約する高級品で、主には店よりも屋敷の方で作っているので中々に店には出回らないのだが実は幾らか取り置き分を用意している。

 予約のことを知らないで、九郎の知り合いなどから紹介を受けて楽しみに買いに来た客に出す分である。なので、こっそりと、


「鹿屋から聞いたのだが、こちらのお武家さんにも食わせたくてな。一等のやつを頼むぞ」


 と、注文したら店の女中はお九と、それから如何にもな武士である三男を見比べてから納得したように二階の座敷へと案内した。

 そこでケーキに刻んだ干し杏を混ぜて、上から杏の砂糖水漬けをシロップごとたっぷりと掛けたケーキが出てきた。

 

「うっ……調子に乗って頼んだが思ったよりも甘そうだ」


 お九が特別メニューを目の当たりにして怯む。

 そこまで甘いものが苦手というわけでもないが、普通のパンケーキならまだしも大量の砂糖を投入している高級品は一口二口ならまだしも丸々一つは甘すぎる。

 楊枝を手に躊躇っていると、三男の方が先に自らの皿に手を付けた。

 口に運んで目をカッと開く。


「うみゃー!」

「可愛くない!?」

「……(よし)

「付け加えても!?」


 飛び跳ねんばかりに驚いた三男だったが口元を押さえてまじまじとケーキを見やる。

 それからもパクパクと一口サイズに切り分けられたケーキを楊枝で刺して口に運んでいく。

 それを見ながらお九も、


「気に入って何よりだが……うむ。甘い」


 口に含むと、通常の黒蜜よりもたっぷりと掛けられている杏蜜が切り分けられたケーキの断面へとじっと染み込んでいる。その蜜も甘酸っぱく、鼻を抜けるような風味が爽やかで夏の暑さにありがたかった。

 蜜で湿って柔らかくなっている生地を噛むと、中にあるぐにゅりとした切った干し杏の粒が噛みしめると酸味が引き立って、歯ごたえも丁度良い。

 

「うむ、うむ」


 むしゃむしゃとお九はケーキを食べて飲み込み、茶を啜る。

 ふと無言の時間があったと思ったら、いつの間にかお九は自分の皿からケーキが消えているのに気づいた。

 

(すわ、三男が取って食ったのか?)


 と、思って彼の方を見ると、まだ三男の皿にはケーキが乗ったままであった。

 お九は自分でも気づかないうちに、ぺろりと自らの分を食べてしまっていたことに気づいて唖然とした。


「……食べるか? 吉」

「むう……」


 食べ足りない気分だったお九は、やや納得がいかない拗ねたような顔をしながら三男の差し出した皿を受け取ってケーキを食べた。 

 どうやら女体化すると味覚も変わり、甘いものが苦でなくなっているようだ。



 その頃に御庭番組は、


「やばい……ここのお菓子超高い……でも旨い……」

「馬鹿! お前先月の給料、もう春画に使っちまっただろ!」

「これ活動費として経費もらえないかなあむしゃむしゃ」


 と、座敷に上がって動向を探りつつケーキを食っていた。

 

 

 

   

 *********





 それからの事である。


「なんだお主、金を持っておらぬのか」

「左様である吉」

「偉そうに……仕方ない。ひとまず奢ってやる。よし、次は昼酒だ昼酒。川遊びでもしながら酒でも飲もう」


 店から出た二人を幕府の九忍は追いかける。


「いかん! ひょっとしたら川舟でしっぽりやるつもりかもしれぬぞあの淫売!」

「種でも孕まれたら面倒だ! 見張れ!」


 そして船頭に化けて、お九が舟で酒盛りをしているのを警戒していた。

 

「はっはっは。ほれ、奢りだから飲め飲め。枝豆に屋形船に昼酒。楽しむというのはこういうことだ」

「うーぷ……吉」


(女だというのに楽しみ方が酔っぱらいの小金持ちだ……)


「うちの嫁は妊娠中だから家で酒を飲むのも憚れてなあ……つい友人らの家に飲みに行くことが多くなるのだが、そこから浮気疑惑なんか出るのだな世間の夫婦でも。いや、己れは浮気しておらんのだぞ?」

「うーい……吉」


(嫁が妊娠ってどういうことなの。女性同士姦淫系なの。そ、そんなのって無いよ! 不健全だよ!)


「いやあ、しかし病気中だから知らんが、いつもより酒も廻って気分が良い」

「ひっく……吉」


(……それにしても上様、こんなに酒に弱かったか?)

 

 無言で船頭は酔っ払いお九にツッコミを入れつつ、顔を笠で隠して陸地を進む仲間を誘導しながら舟を適当に川で動かす。

 しかしながらこの推定有罪な女間者、やはり将軍のスキャンダルを狙っているとしか思えなかった。

 なにせ酒を飲んで息苦しいのか暑いのか、着物を緩めて胸の谷間を出したり、膝を立てて座り太腿が見えたりしているのだ。

 思わず乗り込んだ御庭番も生唾を飲み込む色気であった。

 単に女体慣れしていないお九が油断した仕草をしているだけであるのだが、男に手を出させようとしている風にしか見えなかった。


 だがしかし、彼らが追いかける上様は船酔いと悪酔いの二重奏が来たのか気分悪そうに呻いていたので女の誘いに乗ることはなく、肩を貸されて無事に下船した。

 ほっと一息を付いたのも束の間。


「ううむ、どこかに放り捨てていくわけにもいかんが……そうだ。根津の色街にでも放り込んでおくか。あそこで一晩寝かせておけば、途中で覚めてもいい気分だろうしのう」


 と、お九が思いついて何と三男を連れて色街に向かい始めたのだ。

 何も女郎屋だけでなく、連れ込み宿も多く存在する如何わしい町である。遊郭としては吉原の方が有名だが、そこは普段女が入るには色々と手続きが面倒な上に、歌麿が居るので近づきにくい。

 さっきお九が連れて行った慶喜屋からもそう遠くない場所なら、起きた際に道に迷うこともあるまい。

 そう判断しながら、朦朧としている三男に告げる。


「よーし、これから良いところに連れて行ってやるからのう。旨い物食って、酒飲んで、お姉ちゃんと遊べば楽しい休日というものだ」

「むうー……吉」


 そう三男に酔っ払いながら背中を叩きつつ告げていたのが、近くで様子を伺っていた御庭番に聞こえたところでお九は有罪確定と判断された。

 どう考えても上様の種を狙ってお家騒動を起こそうとしている。

 或いはどこかの──他の徳川家からの刺客かもしれない。吉宗が自らの子らに家を興させて江戸に住まわせることで、水戸や尾張、紀州から将軍候補を選出させないようにしていることはもはや明白となっていた。

 

(それに不満を持ついずれかの徳川家が何か仕掛けてきているのではないか……)

 

 そう決めつけられるのも仕方のない話であった。

 至急に御庭番九人が集められる。本来は十六名居るのだが、六名は江戸の外で密偵として活動中であり、一人は行方不明になっているので動かせるのがこの九人だけなのである。 


「ひとまず、騒ぎにならないように人払いをして女と殿を確保。然るべき後に女を尋問して裏を取る」

「殺さずに必ず捕らえること。舌を噛んだ場合の処置はわかるな」

「釣り針で舌を無理やり引きずり出して、焼きごてで止血する、だな」

「行くぞ!」


 そして彼らはまずお九と三男の移動経路上にて襲撃箇所を決めて、そこから人払いを行う。

 あっという間の手慣れた作業であった。特別な鑑札を持っている彼らは木戸番をすぐさま呼びつけて、人を追い出して道を封鎖させる。

 お九はゆっくりと酒で酔った足で三男と肩を組みながら歩いている。酔って俯いている三男はぽにょぽにょと身長差もあってお九の胸に頭が当たるが、お互いに気にしていないようだ。

 そしてふとお九が、


「……ん? 人の気配が……」


 道に歩いている人が自分と三男だけになったことに違和感を覚えた彼女が立ち止まると、前後から道を塞ぐように九人の男が現れた。

 各々、手には梯子(はしご)袖搦(そでがらみ)、刀や十手、捕縄を手にしている。じりじりと包囲を狭めて来ていた。


「貴様ら、何者だ!? 奉行所のもの……というわけでは無さそうだ──なぁっと!」


 お九の問いかけにも応えずに、押しつぶすように近づいてきた一人が梯子の先端を押し付けて来たので咄嗟にその梯子を手に掴んだ。

 そして相力符で増幅された怪力で、


「む!」


 と、力を込めて逆に掴んだ梯子を思いっきり持ち上げて上に向ける。

 あわや持ち上げられそうになった御庭番は慌てて梯子から手を離すが、その瞬間にお九は持ち上げた梯子を地面に叩きつけて御庭番の一人を潰した。

 梯子がバラバラになる威力で殴られた男は悲鳴も上げずに倒れ伏す。


「女!」

「抵抗するか!」

「やかましい! いきなり襲ってきておいて何様だ!」

「殿から離れろ!」


 次に袖搦を持った男が、突きを入れてきた。

 袖搦とは二又に別れた刺叉のような道具で、先端には無数の棘がこしらえられている。

 これで着衣の上から突かれると棘が衣服に絡みついて取れなくなり、相手を押さえつけることができる。

 さすがに先端が棘だらけだとお九も掴めない。慌てて身を躱すが、素早いなぎ払いでお九の着物に掠めた。

 ぐ、と棘に引っ張られる感覚でお九は歯噛みする。


「ええい、高いのだぞこれ!」


 意を決して着物を破いて袖搦から剥ぎ取り、真上へ向けて掬い上げる蹴りを放った。

 切れ込みをいれた着物から白い足が伸びて、日和下駄で袖搦の柄部分を思いっきり蹴り上げる。

 射出されるような速度で袖搦は上空に吹っ飛んだ。

 無手になった御庭番に接近すると、案外に意識を戻すのは早くて素手で柔術の構えを取った。

 お九はわざと相手に掴ませるように手を差し出す。すぐさま御庭番は地面に引き倒そうとお九の手を極めようとした。彼らに掛かれば、関節技を使えば一秒以内に関節を破壊可能だろう。

 だが一秒も猶予は無かった。手を掴んだ瞬間に力任せに持ち上げられ、お九が地面を殴る仕草で背中から叩きつけられて失神した。


「えええーい!」


 続けては刀を手に切りかかって来る者だった。お九は指二本を立てて振られる刀が自分の間合いに入ると同時のその剣の腹を指で叩いて軌道を逸らす。

 一合。

 二合。

 三合目で相手の刀が折れた。

 六山派掌術の対刃拳法だ。並の相手ならば、一回で刀を破壊か掴み取れるのだがそれをさせない相手の技量は確かなのだろう。


「俺がやる!」

「明楽! 頼む! こいつはかなりの使い手だ!」


 そう言って刀を砕かれた方は即座に後退し、覆面を付けた相手に入れ替わった。

 その覆面は黒くて肉厚な、刃がぎざぎざとした特殊な剣を構えていた。とても日本刀とはいい難い、ヒイラギの葉を伸ばしたような剣であった。

 

(覆面……こやつ甚八丸のところの忍者かもしれんが、まだ誰も己れの女形態を知らんか!)


 ここに居るのが九郎の姿ならばひとまず話しかけて事情聴取してきたかもしれないが、彼らにとって今のお九は得体の知れない女間者である。

 ひとまず襲われているからには逃げるか、全員叩きのめさねばならない。三男を置いて逃げた場合、お九としても本当にこの襲ってきている者が彼の身内とは限らないので見捨てることになる。

 三男のことも知らないが、酒を飲んだ仲である。


「こなくそ!」


 ひとまずは明楽と呼ばれた覆面の刀刃をへし折ろうと、お九は両手で挟み込んで自分に振られた刃を掴んだ。

 左右から力を加えて折るつもりだったが──


「──んな!?」


 お九が力を入れるまでもなく、剣が砕けた。

 否。

 

「剣が……分解した!?」


 棘だらけだと思っていた刀身は、風車型手裏剣を何枚も真っ直ぐに重ねて組み合わせ縦に伸ばして板状にしたものだったのだ。

 風車型手裏剣の真ん中には穴が空いており、そこに束ねた天蚕糸が結ばれている。

 お九が掴んだ瞬間に分解したそれは振られた勢いで絡みつくように、お九の腕に巻きついて無数の刀傷を与える。

 勢い良く手を振ってそれを解きながら、お九は距離を取る。腕からはあちこち出血していた。先程、袖搦で破いたので腕は露出していたのだ。

 覆面の明楽が天蚕糸で繋がれて鞭のようになった手裏剣の群れを振りながら言う。


「これぞ我が暗器……瓦のごとく組み合わせ、離れるも編むも自在の武装瓦離編(がりあん)剣……!」

「あいつ自信満々だよ……」

「あの武器せっかく作ったのにこれまで使い所無かったらしいからな……」


 周りの忍者がひそひそと話をする。


「確かにそんなもん振り回す機会はそう無さそうだが……持ち歩くのにも面倒じゃないのか」

「そこ! 敵がそんな心配をするな!」


 手から血を滴らせたお九も言うので明楽がかぶりを振って怒鳴った。

 そして伸ばして振った剣の柄にある糸を操作すると、再びそれは一本の剣型に戻る。どうやらそれで糸の長さを調整して、近接用の剣と遠距離用の鞭に使い分けているようだ。 

 お九も目を離さずに対峙しているとその隙に、


「殿! 無事ですか!」

「念のために解毒薬を!」


 と、お九の背中側で後ろを囲んでいた御庭番が三男を確保していた。

 舌打ちをしてお九は油断無く構える。相手はそこらのチンピラではない。おまけに、三男を救助してそのまま連れ去るならまだしも、安全と見るや後ろの連中もお九へとにじり寄ってくる。


(ええい、厄介な。仕方ない。三男は捨て置いて、雷を落として目を晦ませ、姿を消して飛び去るか)


 自分の容姿がお尋ね者になるかもしれないのは面倒かもしれないが、二度と変身しなくてもそう困るわけではない。

 お九は術符を使おうとしたが、


「……!? 腕が……動かぬ!?」

「くっくっく……手裏剣に毒が塗られておらぬとは、あまりに甘い考えではないか?」

「用意周到だのう……」


 先程傷つけられたガリアン剣に痺れ薬のようなものが塗られていたらしい。まるで腕がふやけたような感覚で言うことを聞かない。

 毒が回っていると見るや否や、縄を持った御庭番がそれを広げて取り囲みだした。

 

「来い。疫病風装」


 お九が命じると、何処からともなく青白い衣が降ってきて彼女に羽織った。

 それに袖を通した瞬間に彼女は痺れ薬を無効化する。TS病の方はすぐには治らないので見た目は変わらない。

 飛びついてきた四人の御庭番の捕縛しようとする手と縄の動きから蝿が抜けるようにスルリと回避し、同時にお九が固めた拳で四人の脇腹を殴りぬいた。

 完全にカウンターを決められた形となった四人は、剛力で殴られて四方に吹き飛び地面で悶絶する。

 

「何が起こった!?」

「おい、あれ……!」


 残った御庭番がお九を見ると、彼女は青白く光る衣を纏って空中を僅かに浮き、睥睨していた。 

 敗れた着物から覗く肌と傷跡も相まってまるで幽鬼だ。

 御庭番が騒ぎながら、倒れていた者も起き上がってお九と対峙する。

 

「おのれ……間者かと思ったら、化性(けしょう)の類であったか!」

「殿を取り殺すつもりだな! 皆! 妖かし退治の準備だ!」

「霊縄を使え!」


 そんな彼らの様子を見て、お九の方が意外な気分になった。


「なんだ相手が化け物でもやる気満々だのう……逃げる前に記憶が吹っ飛ぶぐらいの二日酔いぐらいにしておくか」


 お九も、人に感染らない病気でも打ち込んでやろうかとしていたときであった──



「待てぇー!」



 大きな声が掛けられて、皆はそちらを向いた。

 するとそこには眼鏡を掛けて長髪にした、細面の二枚目役者めいた青年と少年の中間ぐらいの見た目をした男が屋根の上に立っていた。

 吉原を拠点にしている少年絵師、喜多川歌麿である。

 

「とぁー!」


 屋根から飛び降りる──のだが何故かお九の方に飛び込んできた。


「ぬあ!?」


 思わず目の前で受け止めてやると、即座に抱きついたお九の胸に顔を埋めてしゃぶりついてきた。


「色ボケが」


 迷わずお九は地面に叩きつけて踏みつける。

 それでも嬉しそうな声を上げた歌麿。見ていた御庭番はドン引きである。

 だがすぐさま歌麿は立ち上がり、


「お姉さん! 事情はわからないけど手助けするマロ! そしてボクに惚れて欲しいマロ!」

「そこまで下心全開で手助けしに来たやつ初めて見た」

「ボクのお嫁さんになるために生まれたみたいなど助平の体しやがって……惚れろ! おらっ!」

「なんでこやつ、己れのことになるとこんなに強気なんだ……」


 お九が自分だと正体を気づいていない弟分に頭を抱える。しかしながら彼の場合、むしろ正体が九郎だと知ってもバッチコイかもしれない。

 一同が怯んでいる間に歌麿は懐から札を取り出した。


「あ、それは……」


 一応、術符を扱える歌麿にいざという時の為に渡しておいた術符(コピー品)であった。

 破壊力こそ無いが使い所を間違えなければかなりのピンチでも脱することができるものだ。

 

(死ぬほど悪巧みに使えるものだから、絶対に悪いことに使うなと釘を刺しておいたのだが……)


 それを歌麿は掲げて、魔力を発動させる。


「秘技! スケスケの術!」

「えっ……っておい!?」


 使うと、その場に居る歌麿以外すべての人間が突然全裸になってしまったのである。

 彼に渡していたものは隠形符。光の波長を操って、自身を透明化したりすることができる術符だ。

 それを上手いこと調整すれば服だけ透けさせるのも可能だろうが…… 


「うおっ!? なんだ突然裸に!」

「面妖な妖術か!?」

「お前の包茎やばくない?」

「うるせえ! ちんちんちっせえくせに!」

「なんだと!?」


 混乱した御庭番で争いすら巻き起こすことに成功している。しかし、


「こらぁー! 歌麿! なんで己れまで全裸にしておるのだ!」


 お九もモロ全裸になっていた。腕で胸と股間を隠して、歌麿に蹴りを入れる。


「ほっぷふぅっっ……い、いけないマロ……キンタマ固くなってきた」

「勝手に剥いた人の体見て興奮するな!」

「いけない! お姉さんの裸を描写することすら許されない! ボクの背中に隠れるマロ! 超興奮してきた!」

「よし。こいつを止めればいいんだな」

「マローン!?」


 即座に歌麿の背中に回って彼の首を締めて気絶させ、隠形符を奪う。

 ひとまずは自分の着物透明化を解除して、さてどうするかと混乱している御庭番を見た。

 そのとき、お九の視界に妙なものが映った。


「ん? ちょっと待て。おいお主ら。話を聞け」


 敵であるお九に言われ彼女を見て──着物姿ことに幾人か落胆しつつ、耳を傾ける。


「いや、そこで倒れておるの確か旗本三男のやつだったよな」


 お九が指差すとそこには──見たことのない男が酩酊して倒れていた。

 御庭番は激しく動揺する。


「だ、誰だこれは!?」

「今、術でモノを透けさせておるのだが……解除するぞ」


 お九が術を解くと、皆も着物姿に戻り──そして倒れている三男も、それまで見てきた三男の顔に戻った。 


「……まさか」


 そうつぶやきながら近づき、お九は彼の顔に手を掛ける。

 すると何か妙な感触があって、指で摘んで引っ張ると──日焼けの皮を剥がすように、薄い被膜が剥がれてまったく違う男の顔が現れた。酒に酔って眠っているようだ。


「な!? なんだこれは!?」

「ふむ……どうやら、化けておったらしいのう。事情は知らぬが、あの三男に」

 

 お九の言葉に、御庭番は青い顔をして見合わせる。

 自分らが見守っていた殿が入れ替わっていた?

 いつから?

 今、殿はどこに?



「──散!! 殿を探せ! 殿と共に消えた新もだ! 非常事態発生!」



 次の瞬間、その場に御庭番一人を残して全員は四方八方へと全速力で散っていった。探さねば、自分らの首にも関わる。

 ぽかんとそれを見送って、お九は肩を回しながら残った一人に言う。


「よくわからんが己れは関係ないから帰るぞ」

「……どちらにせよ、俺一人ではお前を止めることも倒すこともできない。好きにするがよい」


 お九を捕らえるより、泥酔している偽三男を確保することを選んだのだろう。あっさり目にお九は解放された。

 そしてちらりと、縄を打たれている男を見てからその場を立ち去っていく。

 後には歌麿が気絶していい夢を見ているだけであった。





 ******* 





 一方、暫く時は遡り……



「──駄目ですね、上様。さっぱり霧が晴れない上に、誰も見つかりませんよ」

「ふむ。どうも妙だな」


 

 江戸郊外、品川近辺にある鷹狩りの狩場にて、濃厚な霧に包まれて将軍・徳川吉宗とその家来であるオークのシンは立ち往生をしていた。

 多くの家臣と共に狩りに訪れたのだが、突然発生した濃霧に包まれてお互いに場所がわからなくなった。とはいえ、すぐ側に背丈八尺(約240cm)もある巨体があるのだからシンの場所だけはわかっていたのではぐれずに済んだのだが。

 その後、吉宗とシンは霧の何処からか聞こえる家臣らしき声に従って進んでいたのだが、誰とも合流できることはなく、そして周囲から人の気配は消えていた。

 既に家臣らはまた別の声に誘導され、吉宗の偽物によって説得され江戸城へ帰りつつあるのだがそれを二人は知る由もない。

 

「……風が吹いてきましたね」

「霧が晴れるかもしれぬ」


 そう二人が言い合うと、確かに湿気を払うような風が吹いてきて周囲の白壁に囲まれたような霧の濃度は薄らいだ。

 二人はいつの間にか、森の中にある広場にいるようだった。

 

「おや? 誰か他にも居ますよ。おーい」


 と、シンが大きく手を振ると、びん、と弦が弾かれる音がした。

 

「え」

 

 シンの大きな掌に、矢が突き立っている。

 幸い分厚い皮と鉄よりも固い手の骨に阻まれて貫通はしていないが、つーと血液が滴ってきた。


「う、うわあああ!? ちょっと! こっちは獣じゃないですよ僕はなんか豚みたいな顔してるけど! 上様が居るんで気をつけてください!!」


 矢を射ったらしき相手に呼びかけるが、向こうからの返答は無かった。

 吉宗がシンを手で制して低い声で告げる。


「待て。シン。どうやら敵のようだ」

「敵!? え!? 敵って!? 上様の!?」


 巨体に似合わず慌てふためくシンに視線も向けずに、吉宗は刀を抜き放った。

 そうして、よく響く声を周囲に向けて放った。


「余は征夷大将軍徳川吉宗である! この首を取り、名を高めんと欲するならば名乗り掛かって参れ!」


 彼の声に霧が吹き飛ばされたのだろうか。そう感じるぐらい、サッと周囲の雲が薄らいで行く。

 すると森の中にある開けた場所に二人が居て──それを三十人ほどの武装した何者かが囲んでいるのがはっきりとわかった。

 そのどれも、目には明確な殺意を持っているようだ。

 

「ひっ」

「情けない声を出すな」

 

 シンが息を飲んだのを吉宗は叱責する。

 二人の正面に居る、首領格らしい男が歩み出た。見た目こそ無頼めいているが、恐らくそれは変装だろう。ちゃんとした武芸の鍛錬を受けた武士らしいことが足取りでわかった。手には薙刀を持っている。

 

「生憎と、おれらは単なる物盗りでね」

「貴様らにくれてやるものなど無いぞ」

「そうかい。じゃあ、命を貰っていこうか。征夷大将軍、野盗に殺されるってのも楽しい末路じゃないか」


 気軽に言うと、刀や槍を持った手下らが一斉に刃をこちらに向けてきた。

 吉宗は冷静に考えを纏める。


(他の徳川家が儂を邪魔に思って、名を貶めるような死なせ方をさせに来たか)

 

 果たしてそれを命じた相手は誰か。或いは、隠居させた宗春が復讐にやらせたのか。

 仕掛けを使って濃霧か煙を用意し、吉宗と家臣を分断して偽物を用意して家臣を帰らせる。恐らく、偽吉宗が市中に出たいと言ったのも監視の目を抜けて逃げる機会を探るためだったのだろう。

 それから待ち伏せをしていた場所へと声で誘導して、囲んだのだ。

 果たして濃霧は、天狗の使う道具でも取り寄せたのだろうか。九郎も秩父の山中で似たような方向感覚を狂わせる人工的な霧を見ている。

 

「とにかく、明らかにさせるには聞き出すしか無いな」

「う、上様? なんで躊躇わず刀をチャキって峰打ちに構えるんです?」

「誰が詳しく知っておるかわからぬからな。シン。なるたけ殺さずに痛めつけよ」

「自分はできるからって無茶を言うよなあ!」

 

 シンが嘆くが早いか、一斉に襲撃者らは襲い掛かってきた。

 

「ええい! 僕は戦いたくなんて無いのに! 身体強化二倍!」


 シンが己の体を強化する、現状で唯一使える魔法を使用して徒手空拳に構える。

 そして巨体を恐れて槍で突きかかってきた相手の槍の柄を掴んで奪い取って遠くに投げる。そして槍が手から抜けた相手を張り手で突き飛ばした。軽く三間(4.5メートル)は水平に吹き飛んだ。

 その隙に刀で切りつけられるが、


「いたたたた!」


 叫んで拳を振り回して刀を殴り砕いた。唖然とした折れた刀の相手を掴んで、別の者に投げつける。

 強化した場合はそれに耐えるだけ体も強靭になる。二倍に強化されたシンの腕の筋肉はまるでゴムタイヤを編んでいるような力強さがある。そんなもの、表面は傷つけられても刀で切断するのは非常に困難だろう。


 一方で吉宗はするすると下がりながら、背後から襲ってきた者を振り返りざまに一撃。峰打ちで脇腹を薙ぎ払って打ち倒す。幾ら峰で殴られようとも、鉄板でぶん殴られているようなものなので容赦なく肋骨は折れて苦しむ。

 返す刀で寄ってきた相手の手首を砕いて戦闘不能にし、次の相手の剣を受け止めて鍔迫り合いから引き倒して頭を踏みつけ気絶させる。


「一人あたり十五人だ。良いなシン!」

「良くないって言っても帰ってくれそうにないんですけど! うわわ痛い!」


 シンの方は象に勝る剛力を持っているのだが、生来の気弱さでその力を直接人間に向ける勇気が無い。

 なので消極的な攻撃になり、取り囲まれてあちこち刺され出す。吉宗よりも先に彼を倒してしまえとばかりに囲まれていた。


「むう……!」

 

 吉宗も援護に行きたいが、彼の方にも絶え間なく一対一が挑まれている。相手も距離を取って時間を稼ぎ、中々に向かえそうには無かった。

 そのとき──


「よくわからないけど、助太刀をさせて貰うよ」


 やる気があるのか無いのかわからない声と共に、吉宗と対峙していた相手が後頭部を殴られて地面に倒れ伏した。

 その背後から現れたのは、儒者風に髪の毛を纏めて六尺棒を持っている少年であった。

 眼鏡を正しながら、どこか光の加減で金色にも見える目を吉宗に向けて彼は言う。


「事情はともかく、大勢で一人を襲っている様子ですので……助太刀をしても宜しいですか?」


 吉宗はその少年の目をじっと見た。

 武士ではなかろう。そして事情を知らないというので、将軍に加勢しようというのではない。

 傍から見れば戦力差が十倍以上の一方的な戦いである。それでもこの少年は、襲われて危ない方に手を貸そうというのだ。

 吉宗はなんだかとても、嬉しくなった。


「よい! ああ、よいぞ! 儂とあのデカイの以外は敵だ! 存分に暴れるがよい!」

「存分に暴れられるほど強くないんですが……まあ、頑張ります」


 靂は六尺棒を片手に、それ以外の敵へと近づいていった。

 この日は六天流道場で野外訓練中だったのだが、濃霧に囲まれてここまで迷い込んできたのである。

 そこで襲撃騒動に出くわしたのだが、


「義を見てせざるは勇なきなり──ってこういう意味じゃないけど……見過ごせないよなあ」

 

 六尺の長さをした樫の棒を鳩尾に突きこんで接近した一人を倒した。

 新たに加わった少年に斬りかかる襲撃者だが、間合いが違う。靂は距離を取りながら真下から棒を跳ね上げて相手の刀を握る手をしたたかに打ちつけ、怯んだ相手に突きを入れて倒す。

 体捌きと腰を使って棒の動きを線のように最小限にして、相手の間合いの外から叩きのめす。

 

「なんだこのガキ!?」

「棒ぐらい切り落とせ!」


 叫びが上がるが、靂としても晃之介に習って相手に切り払われない棒術を使っている。

 要は刀という武器の性質からして、真上と真下からの攻撃は手首の可動範囲上受けにくいというものがあるのだ。

 どうしても棒を持って横薙ぎに払うと動きは弧を描くようになり、速度が僅かに遅れる。

 だが体の動きと一体化させた線の縦振り、点の突きを正確に行うことで少なくとも超級に腕利きの剣術使い以外からは間合いで有利が取れる。

 相手が影兵衛のような使い手だった場合はまた別の戦法が必要になるのだが、幸いというべきか当然というべきかそこまでの使い手は混ざっていないようだった。


「ほう……」


 吉宗は峰を向けた刀で十一人目を殴り倒しながら、靂を見て感心したように唸った。

 真っ直ぐな良い動きをしている。ついた師匠が良かったことがすぐに見て取れた。

 しっかりと体を鍛えており、勇気もある若者だ。吉宗は何故か口元を緩めながら十三人目を倒した。

 一方で囲まれてやられるがままだったシンが反撃に出る。


「あいたたたた……! ええい、全員離れろォー!!」


 彼は大きく、四股を踏むように足を持ち上げた。


「身体強化三倍だ!!」


 そう叫んで更に肉体を強化すると、思いっきり足で地面を踏みつける。

 投石機から放たれた巨岩が間近で落ちると、人は五体がバラバラになるという。

 果たしてどこまでが本当かは不明だが、それに匹敵する威力の足蹴りが地面を大きく陥没させて、発生した衝撃波は周囲に居た男たちを吹き飛ばして気絶させる。


「ばっ化け物だぁー!」


 逃げ出す者まで現れるが、身体能力を三倍に強化したシンから走って逃げることなど不可能である。

 背後から巨体が追いついて片手で持ち上げられた時点で気絶をした。


 そろそろ敵の数も少なくなってきたかと無傷で十八人目を倒した吉宗は見回す。

 その時、めきめきと何かが軋む音が聞こえてそちらを見やる。

 すると靂が首領格の男に不意打ちを受けたようで、薙刀の一撃を棒で受け止めていた。

 上手く刃筋を逸らしたようだが大きな衝撃を受けた六尺棒は一撃を受け止めた時点で役割を果たし終え、へし折れてしまった。 

 首領の男が勝利を確信して笑みを浮かべるのを見て、思わず吉宗は呼びかけそうになる。

 だが次の瞬間に靂は棒の残骸を捨てて懐から取り出した守刀を抜き打ち、棒で一瞬動きを止めた薙刀の柄を滑らせるようにして接近して相手の握っている親指を切断した。

 動揺した相手の首を切り裂こうとして──その一瞬手前で靂は躊躇し、刀を止める。

 首領が反撃をしようとしたが、咄嗟に吉宗は小柄を投げつける。武芸として手裏剣術も学んでいた吉宗の投擲は相手の目に刺さって動きを止めさせた。

 その次の瞬間に靂の放った掌底が首領の顎に入り、彼の意識を奪い去る。


「ふう、危なかった。すみません、助かりました」

「いや、構わん。……人を切ったことはないのか?」


 近づいてきた吉宗の問いかけに、靂は以前にあったことを思い出した。


「一度だけ。でも、この人は切っていい人なのかは、僕にはわかりませんから」


 靂はそう言うと、守刀から血を拭って鞘に戻した。吉宗はその刀を見て、目を見張る。

 それは靂の母親が持っていた短刀で、お遊に渡されていたのだが先日の武装解除宣言で靂に預けられていたのだ。

 

(……そうか)


 周囲にはもう敵は居なかった。ただ、大怪我をして呻いている男たちの声があちこちから聞こえて来ていた。

 吉宗も刀を戻すと、再び少年に聞いた。

 

「親は……何をしている?」

「母はどこかに旅に出たきりで……まあ、碌な親じゃなかったですけど」


 それでも彼は少しだけ笑いながら、言う。


「それでも立派な、尊敬できる大人が他に居てくれたおかげで、少しは強くなれたかなあって思います」

「……うむ!」


 吉宗はなんとなくその眩しい笑顔をした少年の背中を叩いてやった。

 彼は咳き込み、いきなりそうしてきた吉宗を訝しげに見る。


「はっはっは! これにて一件落着よ!」

「いや上様……これ片付けるの大変だから……」

「はっはっはっはっは!」

「あ。そうだ。鍛錬の最中だった。それじゃあ僕はこれで!」

「あっ、君! せめて名前だけでも! 上様、行っちゃいますよ恩人が!」

「はっはっはっは────」


 上機嫌に笑う吉宗の声を背に、靂は霧の中に消えていくのであった……





 *********




 それから、吉宗不在に気づいた御庭番が、霧の発生した地点を重点的に調べて、霧も時間経過によって晴れてきたこともあって無事に吉宗は発見された。

 将軍を襲撃した者たちも片端から捉えられ、ひとまず牢屋敷に入れられることになった。慎重な対応と、襲撃の事実を隠したい幕府側の意向もあって武士用の牢獄を一人一室ずつ与えら、取り調べが行われた。

 ただしどのような裏があったにしても、徳川家を揺るがすような内容であるのならばそれは公表されることはなく、ただ吉宗側の持つ相手への弱みとして使わないことで活用される武器になるだろう。

 一方で、吉宗襲撃の際に近くに居て多くの刀を受けて戦ったシンは改めて名を川村新六(かわむらしんろく)として与えられ、正式に御庭番の一員として扱われることになった。まあ、戸籍を手に入れたというだけでこれまでとそう変わらない扱いだが、給金は入り町に出るにもやりやすい立場になったという。


 また、市中に出ていた吉宗に変装していた男は[百面]の百太夫(ひゃくだゆう)という上方の忍びでは知れた存在の男で、名の通り変装を得意とする男であった。

 彼の場合は仲間が捕まったと見るや、義理は無いとばかりに彼らに金で雇われて将軍の変装をして適当に護衛を離しておき、そのまま消える役目だっただけで陰謀については知らぬと言い張った。

 勿論それで幕府から許されるわけでもないのだが……

 白状した夜に、彼の寝ていた牢屋敷の窓につけられた木格子が軽く叩かれた。

 百太夫が目を開けると、ここは二階だというのに窓の外に女の顔が浮かんでいる。

 あんぐりと口を開けた百太夫に、女は口に指を当てて、


「しーっ」

 

 と、小さく声を出した。百太夫にとって見覚えのある、お九である。

 彼女は顔を窓に近づけて囁く。


「ここから出してやろう。お主の変装術なら、どことなりへ行けるだろう」

「しかし、何故?」

「酒を共に飲んだ仲だろう。別に、己れにとっては悪人ではなかったからな。一度だけ助けよう」


 お九は僅かに皮肉げに笑って告げる。確かに法に照らせば将軍に変装して詐欺を働き、襲撃事件に加担したことは死罪に値するのだろうが──個人的には極悪人にも見えなかったのだ。


「悪さは程々にな」

「助かる。今度、菓子代と酒代を返すよ」

「また会うことがあったらな」


 お九は木格子を左右に押し広げて破壊し、その隙間から百太夫を引っ張り出して空を飛んで連れ出した。

 超常現象に百太夫は目を白黒させながら聞いた。


「あんたは何なんだ?」

「お主と酒を飲んだだけの、通りすがりだよ」


 月明かりに反射する、青白い光が一筋。

 そうして牢屋敷から百太夫は脱獄したのであったが、やはりそれも公にできずに百太夫は病死したことで処理されるのであった。





 不思議な体験で生き延びた百太夫は後日、こう語る。


「その女の人、美人でいい匂いして胸が凄く大きくて頭とかに触れるとパインパインしててヤバかったです頭領!」

「きぇええー! そんなど助平するためだけに生まれたような体の女が居るってのか! 手前の妄想だろ! きぇええー!」

「ははは僻まないでくださいよ! あー最高だった! 家帰ってすぐシコった!」

「忍法記憶吸いの術! 脳みそを吸い取ってやるぁー!」

「ぎゃああー! 耳に口付けないで! そこは胸が触れた感触を思い出すための場所なんだからー!」


「……」


 九郎は普通に甚八丸の屋敷で馬鹿してる百太夫を微妙そうな表情で見ているのであった。



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