62話『靂の猶予期間~逃げるは恥だが命に関わる~』
江戸時代、作家の収入というのは基本的に書いて版元に渡した際に貰える原稿料のみであった。
如何に発表した作品が大ヒットしようが、現在の印税やメディアミックスのロイヤリティのようにその儲けは殆ど還元されることはない。精々が、作家の評判が良くなったので版元から次の仕事が頼まれる程度である。
それによって売れっ子絵師などは、弟子らも動員して年に数百枚も絵を描くことで収入を高く得られるが、文筆を主とした戯作者などは中々そうもいかない。
余程の者でない限り物語本など毎日分は書けないし、版元からしても一枚絵の浮世絵に比べて物語本は当たり外れのリスクが高く、それを出版するのに必要な手続きも多くなる。内容次第によっては規制や、版元の主人が罰則を受けることもあるのだ。
そうなれば、当然ながら戯作者の収入は非定期的かつ少ないものになる。
多くの戯作者は副業を抱えていて、文章だけで生活ができるほど稼げたのは曲亭馬琴とか十返舎一九とか山東京伝などの超有名どころのみだと言われている。
時は享保の頃、江戸では特に出版業界は冷え込んでいた。
緩められたり締め付けられたりする江戸の出版統制のうちでこの頃は後者であったのだ。新規本が出しにくくなり、作家業で食っていくことは難しくもあった。
戯作者というのもまだ江戸では浸透していない作家形態で、文章の作品というと挿絵に解説やセリフをつけたり、子供向けの草双紙本でお伽噺を書いたりといった程度である。
物語本もどちらかと言えばまだ史伝や唐国の話を翻訳したものが多く出回っており、大衆向けの娯楽小説というのは一ジャンルとはいえない細々とした産業であったという。
そんな、江戸でジャンルが確立される前の小説本を書いて生活をしているのが靂であった。
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「いやはや九郎殿。今日は新井殿……いえ、霹靂齋先生の新作本に関して打ち合わせを行っていたのですよ」
「画数が多くて面倒くさそうな号だのう……」
九郎が日本橋の鹿屋に顔を出すと、たまたまそこに靂もやってきていて奥の間で黒右衛門から本の紹介を受けるのであった。
靂はこのご時世、数少ない戯作者であり話を書いて生活の糧を得ているのだが、仕事自体が少ないので九郎などの紹介でスポンサーを得ているのだ。薩摩の商人鹿屋や、吉原で出された春画に文字つけをしているのも仕事の一環であった。
「ほう。出版規制しているというが、また本が出せたのか。よかったのう靂や」
「いや、ははは……」
何故か引きつった笑いで靂が応えるが、九郎は瞑目して頷きながら、
「よし、とりあえず己れが二十冊ぐらい買って関係者に配っておくから……」
「そういうの止めてくれます!? 恥ずかしいから!」
身内の過剰な布教に靂は慌てて止めた。
「しかし人情本か。確か恋愛系の物語本……だったか?」
靂はどちらかと言うと史実に妙ちくりんな理屈を捏ねたものを加えた怪しげな作風なのだが、男女の色恋沙汰となると珍しい気がした。
「そもそも、本の内容によって色々名前が変わるのが紛らわしいというか、曖昧にしか把握しておらんが」
「ええと、じゃあ大雑把に解説すると」
眼鏡を正して靂が解説をする。
「江戸に入ってからの本というのは、基本的に『仮名草子』から始まったんですね。これは名前の通りかな書きで書かれた物語本だけど、どちらかと言うと物語というか作者から読者への教訓を与える的な作品が多い。
それに影響を受けたかどうかは不明だけど、舞台が庶民の生活を書いている物語を『浮世草子』、絵本や童話を『草双紙』、巷説や唐国の逸話などを元にした伝奇本が『読本』といった風かな。
そして『浮世草子』から遊郭や女郎が出て来るのが『洒落本』、庶民の笑い話が『滑稽本』、恋愛話が『人情本』……後は、『草双紙』の対象年齢を若干引き上げて、大人でも読めるけど高尚というわけでもない、挿絵入りの軽い物語本が『黄表紙』といった分類になると思うのだけれど」
「ほうほう」
九郎は頷きながら頭の中で整理をする。
乱暴に、かつ独断で纏めてしまえばこんな感じだろうか。
仮名草子:エッセイや評論など。
浮世草子:一般小説。
草双紙:絵本、漫画。
読本:時代、伝奇小説。
洒落本:ヤング系作品。
滑稽本:コメディ系作品。
人情本:恋愛、レディース系作品。
黄表紙:ライトノベル。
「その中でも人気作になる可能性が高いのが、恋愛を扱った人情本なのでございますよ」
黒右衛門も頷き、そう付け足した。
「しかし出版統制とかあったではないか。どう抜け道を作っておるのだ?」
「そこはほら、私が大阪とも行き来をしている商人であることで解決しております」
「というと?」
「まず、ここで霹靂齋先生の書かれた作品を大阪に持っていって出版する。将軍のお膝元である江戸よりもずっと規制は緩うございますからね。それからそこで売りつつ、江戸に出版された本を持ち込みこちらの版元を通して、既に出版されたことがある作品ということで申請をすると認証手順が簡略化されて殆ど審査もされずに許可が降りる……という寸法でして」
「回りくどい方法だが……それで通るのが凄いのう」
さすがに町奉行も江戸の外で出版する分には目が届かないし、上方で芝居が行われている話だと言われれば、いちいち調べもせずに許可は出すようだ。
明らかに統制の抜け穴を使っているのだが、江戸時代の町人らは度々町触れで禁止されてることをバレない手を尽くして破ろうと躍起になっていたのである。
着物を豪華にすることを禁じられたら裏地のみを華美にしたり、犬を殺すことを禁じたら切り落とした犬の頭を奉行所に投げ込んだりと反体制的なのである。
「しかしそのような方法でちゃんと儲けは出るのか? 靂への原稿料とか」
「なに、大丈夫ですよ。新作物語というのは供給こそ統制されているので少ないのですが、需要は大いにあります。江戸の皆は新しい物語に飢えているわけです。なので数少ない作者先生には、十分に原稿料も支払って書いて貰っているわけでして」
「なるほど……それなら良いのだが」
「以前に書いてもらった、吉良が何度も同じ一日を繰り返すという話も多少設定が特殊ですが、結構売れたようですしね」
靂には一応、宝探しで得た財産で数十年は暮らせる程度に貯蓄があるのだろうが、やはりそれを食いつぶしていくよりは本業で生活費を稼ぐのが一番である。
まあ、宝探しに行った三人のうち晃之介は儲かりそうにない道場経営に、靂は収入が不定期な小説家とあまり安定した仕事とはいえないのだろうが。恐らく晃之介のところなど、弟子から貰う月謝などより道場に通わせている門下生へ提供する食費の方が掛かっている。
「ちなみにこれが霹靂齋先生の新作人情本『逃げるは死罪だが策になる』です」
「薩摩がやる戦での兵法かなにかか!?」
怪しげなタイトルの本であった。表題の文字で『死罪』の部分だけ野太く躍動感のある筆文字をしていた。
黒右衛門は神妙に頷き、改めて言う。
「『逃げ死罪』」
「略するな。物騒さはまったく減っておらん。ええい、どういうことだ靂」
「いやあ、お金を貰ってるからこういう薩摩っぽい内容を書いてくれと言われると僕も断りにくくて……」
「ちなみにどんな内容だ?」
「……十五歳で薩摩出身の娘さんが、嫁も妾も居る金持ちの老人と恋愛沙汰になるというか……」
「どういうことだ靂!?」
九郎はどこか覚えのある気がしないでもない人物設定に、靂の肩を掴んで問いただすが彼は気まずそうに目を逸らすのみであった。
二十冊買って関係者に配ろうとか言っていたが、これでは妙な勘ぐりを受けてしまう。
びしりと鹿屋が告げてくる。
「ご安心くだされ九郎殿! この物語は架空であり実在の人物とは関係ありませんぞ!」
「圧力を感じるぞ、圧力を!」
「逃げるは死罪! 逃げるは死罪ですぞ!」
「何からだ!」
妙に気迫を感じる黒右衛門から九郎は後ずさりして離れる。
どうもこの主人は、自分の親類であるサツ子を九郎にやたらくっつけたがっている様子が露骨であった。
「大体なんでうちのサツ子に手を出さんのですか! あれだけ可愛いのに!」
「お主な、サツ子の気持ちも考えてみろよ。雇い先の主人から手を出されるとか完全にアレだろ。助平な狒狒爺か己れは」
「しかし霹靂齋先生の本ではねちっこく老人が落としに掛かっていて」
「架空であり実在の人物とは関係ないのだろうが! というか靂! お主も実際の知人をネタにして話を書くな!」
「し、仕方ないんですよ! 恋愛とか僕全然わからないし! 誰かを参考にしないと!」
「……お主、その発言をうっかり忍者の前でしたら翌日から褌にカラシとか塗られるからな」
「なんで!?」
九郎がげんなりとした顔で、靂の頭をくしゃくしゃに掻いてやった。
幼馴染の少女三人と立派な屋敷に同居していて財産が千両もあり悠々自適に小説を書いて暮らしているまだ十六ほどの少年である。
なんというか早いうちからボーナスステージに突入しているように思われて無闇な嫉妬を買いかねなかった。
ただ生活の上で時折死亡選択肢が出てくるというのが、よくよく彼と親しい者は知っているのだったが。
「しかしながらこの逃げ死罪、薩摩人にも好評なのですよ」
「薩摩人が好むには死ぬほど女々しくないか、内容が」
「はっはっは。あれで照れ屋ですからな。一枚読むごとにいちゃついている展開に奇声を発して楽しんでいますよ」
「喧しい読書だのう」
「読者からの感想の声もほら!『何度主人公を殺そうかと思った──薩摩人男性』『最後が幸せになったのが良かった。そうでなければ作者と主人公を殺しに行くところだった──薩摩人城下士』『サツ子ちゃんぺろぺろしたいって薬丸先生に話したら半殺しにされた──』」
「悪意を感じる! そして最後!」
「『──五平』」
「またあやつか! 懲りぬな!」
殺意を抱かれている主人公という身分に九郎は背筋を冷やすのであった。
しかも一部読者と目の前のスポンサーは明らかに現実と同一視している。更に薩摩でも最強クラスの剣術師範も保護者についている。自分からはまったく手を出していないというのに外堀が埋まっていく、厄介な案件である。
「……なんというか勝手にこれからも靂にネタにされるのは嫌だのう」
「一番九郎さんがネタっぽい人間関係なので……また次も出そうかなあと。なので勝手にならないように許可をください」
「面の皮が厚すぎる!」
ぐにょりと靂の頬を摘んで左右に伸ばす。昔からひねくれていたが、それに加えて押しも強くなってしまったように思えた。
こんなに彼に自信というか無遠慮な余裕がついたのも、彼を吉原に連れて行ってやり──
「下手に童貞を卒業させてしまったのが原因か……」
「え!? 九郎殿が霹靂齋先生の童貞を!? 衆道的なあれで!?」
「んなわけあるか!」
誤解をした挙句に叫びだした黒右衛門を九郎は蹴倒した。
そのとき偶々さつまもんが部屋の前を通りかかり、九郎と靂の姿を認めて頷いた。
「──よかッッ!」
「なにが!?」
※薩摩人の男らは基本的に美少年が好きである。
九郎が薩摩人を追い散らしてから、忌々しげに靂を見やる。彼は何処か諦めに似た表情をしていて、そこまで動じていなかった。
「まったく。お主もキレるなり突然嘔吐するなりして誤解を嘆く素振りを見せろ」
「突然嘔吐したら完全にヤバイですんで。それに大丈夫です。吉原でちょくちょく歌麿さんが情事を絵にして僕が文字を付けるために見物に行ってるけど、なんかそういう男色趣味の二人組的な目で見られてて慣れてますから」
「嫌な職場だな!」
「時々歌麿さんの目線が怖い」
「本当に嫌な職場だな!」
しかしそれでも、物書きの仕事が無いならば多少卑猥な案件でも受けねばならないのだ。
それに靂自身、本人は色恋に疎いところもあるので多少は情事について知識と描写を重ねれば創作を向上させる糧になると割り切っている。
助平な物語を書くのも経験のうちなのだ。恐らく。多分。
「……とにかく、書くなら書くで参考にして出す関係者には事前にどういう話を書くかぐらいは伝えに行けよ。己れが知らんところで酷い扱いになっていたら困る」
「はあ」
とはいうが、後世に江戸に居た九郎天狗の説話として残る話の幾らかは靂の手によるものになるのであったが。
靂は腕を組みながら思案顔で告げる。
「薩摩系を一作書いたら、次の一作は好きなのを書いて出版してくれる約束をしているので今度は人情本ではないものを書こうと思いますが」
「ふむ。案はあるのか?」
「ええと、七人の巫女が七人の亡霊武者を使役して戦い合わせ、勝ち上がった者が上様から願いを叶えてもらえる『成敗戦争』を行う感じの……」
「どうしてお主の案はいつも若干アウト気味なのだ」
「夢の中で虹色の光がお告げしてきて……」
「今度そいつが出てきたら己れを呼べ。連れてくから」
「夢の中なのに!?」
ため息をついて九郎は軽く頭を抱えた。
邪悪な魔王がちょっかいを掛けているのは、靂の魂が割りと美味そうだからだろうか。
*******
そうこう話をしていると、靂がふと深刻そうな顔で九郎に尋ねてきた。
「ところで九郎さん。実はうちの幼馴染の相談なんですが」
「手のつけようがないな!」
「即諦めないでください! っていうか最近なんなんでしょうね……兄離れできない独占欲っていうんですか。弟扱いでお節介な姉気質っていうんですか。とにかく距離が近いんですけど。そして茨が軽く引いてつらいんですけど」
「面倒な……まあ、話してみろ」
と、九郎が促すと靂はため息混じりに告げてきた。
彼の屋敷では近頃、お遊と小唄がお互いに靂と距離を詰めようと躍起になっているのだという。
早起きして夜明け前から農作業をしていたお遊が朝に靂の布団に侵入して添い寝をすれば、即小唄が布団を剥ぎ取って二人共起こしつつ靂に小言を言う。
朝食では左右に座って、小唄が料理の味を褒めるように告げてきてお遊が野菜の素材を褒めるよう告げてくる。
着替えようとすると小唄がすぐさま脱いだ着物を何処かへ持ち去る。そしてお遊はわざわざ靂の普段着を自分で着て臭いをなすりつけたものを着させようと持ってくる。
読書、執筆をしていると小唄が茶を挿れてくれるのだが、菓子を持ってきたお遊は靂の膝でゴロゴロしている。なお靂の持つ程度の畑は、日の昇る前からお遊がやっていたこともあり午前中作業で終わらせているのだ。
靂の邪魔をしながらベタベタしているお遊を離そうと、小唄と口論が始まり結局靂は仕事が捗らない。
また、屋敷の風呂に入っていると高確率でお遊が入ってくる。靂はすぐさま窓から脱出する術を覚えた。小唄の方は何故か脱衣所での遭遇率が高い。
「ううむ、忍者に話すなよ。嫌がらせとして褌に栗とかウニとか仕込まれるぞ」
「殺意上がってません!?」
「まあ、話を聞くだけではお互いに構って欲しがりな微笑ましい程度だが……」
「常時片手に包丁と苦無を持っていなければ僕もそう思うんですが」
「一気に非日常になったぞ!?」
包丁を持ちながら添い寝してくるお遊。苦無片手に起こしに来る小唄。
包丁と苦無をちらつかせながら、「今日の料理はどうだ? 旨いだろう」とか「素材の味が良かったからなー」とか左右から確認してくる二人。
苦無持って着物奪ってクンカクンカしている小唄に、包丁持って勝手に彼シャツしてるお遊。
包丁片手に靂の膝の上でごろごろしてるお遊を引き剥がそうと苦無で挑む小唄。
風呂場だというのに凶器は手放さない二人。
「……よく生きておるなお主!」
「毎日ハラハラですよ! 茨は危ないから関わらないように言い含めてるぐらいで」
「むう……靂が刺されるか、女同士で刺し合うか……時間の問題みたいだのう」
「と、とにかく助けてください。僕はどっちも御免ですよ」
靂には恋愛感情は無くとも、幼馴染が流血沙汰になるのを恐れる感情はあるようだった。
というか彼の場合、自分を恋愛的に好きになる相手が居るなど信じがたいのだろう。だからお遊と小唄の奪い合いも、行き過ぎた兄妹愛のようなものだと認識しているのだ。
それも、親が娼婦で男女の愛というのは汚らわしいと長らく思い、寂しい少年時代を送っていたので恋よりも家族に飢えている出自である彼だから仕方ないのかもしれないが。
黒右衛門が事情を聞いて疑問を口にする。
「詳しくはわかりませんが、男女の仲ならばどちらかを選んでスッキリさせれば良いのでは無いでしょうか」
「いや……あの二人の場合はそれは悪手だな」
九郎が慎重な姿勢を見せる。
恐らくはあの闇度では、選ばれなかった方は何らかの方法で選ばれた方を害して奪い取ろうとするだろう。
例え注意していたとしても、四六時中便所の時間まで襲ってくる相手を警戒し続けることは難しく、便所や風呂で首を掻き切られて死ぬ二人の姿が容易に想像できた。
「ではいっそ九郎殿のように二人共娶るとか……」
「うちのは協調性のようなものがあるから成立している気がするのう……お互いに、自分が一人だけ愛されないのは相手のせいだと思ってしまえばやはり殺し合いになりかねんぞ。あるいは独り占めするために靂と心中するとか」
「僕の拒否権は無いものとして考えるんですね……」
靂が青い顔で言った。
「そもそも僕としてはあの二人とくっつきたいというわけではなく、殺し合いをして欲しくないだけなんですが……」
「ならばいっそ二人とも嫁に貰う気はないと告げて諦めさせるのは如何ですかな?」
「『自分が選ばれないのは邪魔なもう一人がいる所為だ』となれば危ないな……何か理由を考えてお互いと靂に目が向かんようにせねば」
「他に二人への偽装的な恋人を作って、怒りの方向を紛らわせるとか……」
「その偽装恋人が非常に危ない。事情を納得して、危険な役目を引き受け、それでいて殺されぬ実力者の女となればそうは居ないぞ」
「ならば薩摩人の腕利き武士と衆道関係になるとか」
「僕が嫌ですよ!?」
例えばどうも靂を監視している気配のあるヨグなどは幾ら刺されても誰も気にしないので適合しているかもしれないが、きっと彼女は余計に引っ掻き回すだろう。
スフィなどは事情を聞いてくれるだろうし、音に敏感で全方位音波攻撃などができるのでそうそう襲撃は受けないだろうけれども、どうも親友をそんな目に合わせるのは気が引けた。
「ううむ……」
「はあ……どうしたら……」
九郎は考えながら、軽く頭を抱えている靂をちらりと見た。
これが何の関わりもない二股している女たらしの男が持ち込んだ相談ならば、蹴りでも入れて勝手に刺されろと突き放すのであったが。
靂は九郎も知る割りと不幸な育ちで、それでも勉学に励んでいただけの少年である。大体幼馴染二人も靂がたらしこんだというか、向こうから惚れ込んできたので、言ってみれば現状は猛獣が擦り寄ってきていつ食われるかわからないような状況なのであった。
それに靂には影兵衛との戦いの後に凍死しかけて倒れているところを介抱され、命を救われた恩もある。
巻き込まれかねない茨も気をかけていて、彼女を身請けする際には九郎も関わった縁がある。それに九郎としても、言葉を喋ることができないが健気に暮らしている彼女を守らねばならないという大人としての義務感もあった。
しかしながらほつれてもつれた三角関係、下手にバラバラに解そうとすればバラバラ殺人でも起きかねない。
「それにもう状況はかなり危ないものな。包丁とか持って生活しているとなれば……」
一時しのぎでも良いから、ひとまずはお互いを敵視しない何かが必要であった。
そうなればやはり共通の敵を持たせるというのも、敵役の都合を考えなければ悪くはなさそうだったが……
「……やむを得ん。こうなれば事情のわかる都合のいい女を用意して、やつらに一つ説教でもしてやろう」
「大丈夫ですかね……色んな意味で」
「薩摩人でも女装させますか?」
「その発想から離れろ」
黒右衛門の薩摩押しに、九郎と靂は嫌そうな顔をして首を振った。
********
「──というわけで、靂と婚約することになったお九というものだ。よろしくのう」
千駄ヶ谷にある屋敷の居間にて。
靂に腕を絡めてもたれかかるようにして自己紹介をする女に、小唄とお遊がスイッチの入ったサイコパスのような表情で動きを止めた。一方で茨は、興味深そうにお九に近づいてフンフンと鼻を鳴らして臭いを嗅いでいる。
女は背丈が高くて子供二人からすれば見上げるほどだ。夕鶴とそう変わらぬ、六尺程もあるだろう。ただし胸は恐らく本人からは足元が見えないほどに大きい。
顔立ちはやや垂れ目気味だが気怠げな雰囲気が見える美人であり、着物や簪は彼女を映えさせる華美で似合っているものであった。何処かその雰囲気は花魁にも似ている。
彼女が九郎の用意した都合のいい女、お九──
(おう。本当に昼間っからこの娘ども包丁を持っておる……)
というか変身した九郎であった。
ブラスレイターゼンゼに込められた病気の一種、トランスセクシャル病を自らに感染、発病させたのである。それによって彼のご立派様は引っ込み、胸は膨らみ、見事に骨格レベルで女体化してしまったのだ。ただし変身中は骨に硫酸をぶっかけられているような痛みがあったようだが。
一応疫病風装を着用すれば病気は消滅して、九郎の体に刻まれている体を最適化させる魔術文字で性転換は回復するのでいつでも戻れる。着物などは、家族に事情を説明したときに色々着せられたものであった。
九郎本人ならば靂の事情も把握し、同情もしている。それに襲われても抵抗できるし刺された程度では死なない。丁度都合のいい女になれる条件が揃っていたのだ。
体つきを大人の女にしたのは、刺されそうになった場合体格が大きい方が有利だからという合理的な理由もあって、わざわざ自分も青年状態から女体化したのである。
ついでに言えば、さすがに体格から違うので女装した九郎だとは思われていない。これでいざという時には
「……というかなんだお主。さっきから子犬みたいに臭いを嗅いで……」
「……?」
「訝しそうにしておる……」
茨のみは動物的感覚で、お九と九郎が同一人物じゃないかと疑っているのではないか、とお九は思った。
咳払いをして靂が皆に告げる。
「……ええと、お九さんは九郎さんの親戚なんだ。それで最近始めた菓子屋で働いていたんだけど、旦那を探していてね。それで適当な人物が居なくて九郎さんに恩がある僕が引き取ることに──」
「い、いや待て!」
まず小唄が動転状態から復活して、焦った様子で靂に聞いてきた。
「て、適当な人は居るぞ! まだまだ未婚でお嫁さんを待っているうちの忍……若い衆は沢山居る! み、見たところお九さんは美人だから引く手数多だぞ!」
九郎の結婚相談所では特に男がダダ余りで登録されたままである。九郎が嫁候補として連れてくる元遊女の中には、異様にギザっ歯が特徴的な鮫太夫や、目が悪くて客に貰った瓶底眼鏡をつけ蕎麦滓が頬に残り関西弁で話す不仁木太夫など、一般からすれば美人と呼びにくいような女でも「是非に!」と取り合いになるほどであった。
そんな中ではお九は普通に美人で、幾らでも旦那ができそうだ。
「そうは言うが、己れ……あたいも九郎からの勧めだしのう。別段、靂で困るわけでもなし、靂もあたいが相手で不都合は無いだろう?」
「あるー!」
「あります!」
「そうかえ」
お遊と小唄が叫ぶのを、お九は靂の背中を軽く叩いてとりあえず座らせた。
「ま、それなら腰を落ち着けてゆっくり話してみるかえ。ほら、お主らもおすわり」
「うー」
「きしゃー」
「唸り声を上げても解決せんぞ」
明らかにお九へ攻撃的な眼差しを向けながら対面に座る。茨はやはりお九の隣で臭いを嗅いでいるのだったが。
お九は靂の肩を抱きながら彼女らに紹介するようにして告げる。
「まず、この靂は誰も嫁に貰っておらぬし、婚約もしておらん。ならば保護者とも言える付き合いの大人の勧めで見合いをするのは当然であろう」
「そんなことない!」
少女二人の声が重なった。
お九は眠そうな声音で彼女らに問いかける。
「ならば、お主らのどちらかは靂の嫁か? 婚約者か? これまで一度でもそういう約束を互いにして、靂が受け入れたか?」
「それはしてないけど……」
「靂とは心と心が通じ合ってるし……」
「お主らの立場は、金持ちの坊っちゃんの家に入り浸っては包丁を振り回し合ってる碌でもない知り合い以上の何者でもなかろう」
お九の指摘に二人は言葉が詰まる。
しかしながらそう表現してみると、性別が美少女というだけでかなり碌でもない知り合いと言わざるを得ない。
性別が逆だったら悲惨である。財産と家を持っている文学少女を奪い合って勝手に家に住み着いてきた男二人。通報モノだ。
「で、でもあたしは畑仕事とかしてるからなー」
「私だって、家事をしている。靂は日頃だらしないからな。こいつに任せていたら、あっという間に屋敷が廃墟になってしまいそうだ」
「……本当にそれを存在理由にしていいのかのう?」
「え」
お九の指摘に彼女らは口を半開きにした。
「これで靂は金持ちだから、畑なんぞ持たなくとも店から食料を買ってくるだけで生活はできよう。家事だけならば幼馴染にやらせずとも下女でも雇えばよい。これだけの規模の屋敷で一人も雇っていないことが特殊なのだからな。それに、あたいが嫁になって家事に土いじりもするというのならば……」
お九は唖然とした様子の二人へそれぞれ視線を合わせて、厳しい口調で告げた
「お主ら、居る意味はないな」
「う゛ー」
「おお、よしよし。茨は可愛いから居てもいいぞ。無害だし、靂の妹みたいなものだしな」
茨はお九の膝に顎を乗せて唸るが、にっこりと優しく笑って撫でられた。
彼女のみはこの屋敷にとって他人ではない。その事実に慌てた小唄が抗弁をする。
「ち、違っそもそも私達は幼馴染の友達でっ!」
「どこに幼馴染を屋敷で養わねばならんという法がある。実家に戻れ」
「家賃は、家賃は入れるから!」
「要らん」
「せめて下女として雇って……」
「包丁やら苦無やら持って徘徊する下女なんぞ誰が雇うか」
「うううう」
小唄が狼狽している。
実のところ彼女が屋敷に居なくてはならない理由など殆ど無いのだ。
幼馴染が朝に起こしに来たり、部屋を掃除してやったり、料理を作ってやったりする行動の延長で住み着くようになったのだが冷静に考えれば恐ろしい話である。
いつの間にか当然のような顔をして住んでいたのであまり気にしていなかったが、靂は改めて戦慄した。
お九の方も随分昔に幼馴染のヤクザ娘が自分のアパートの部屋を特定してきたことがあったのでストーカー犯罪には辛辣である。
彼女らは男である九郎に言われても馬の耳に念仏を聞かせるが如くそこまで気にしなかったのだが、今まさに靂の婚約者と名乗り出た同性の女から指摘されることで危機感を覚えていたのだ。
なにせ、言い負かされたら靂を盗られる上に追い出されるのである。
「いっぽーてきだなー」
と、間延びをした声を発したのはお遊の方だ。
「あたしよくわからないけど、大事なのは靂の意見だと思うぞー。なあ靂。靂はあたしより、そっちの人の方が好きかー?」
「なるほど。率直だ」
それがお遊の武器なのだろう。ストレートに好意を聞かれた靂は怯んで、苦々しい顔で言う。
「……お九さんのことはまだ会ったばかりでよくわからないし、お遊は嫌いじゃない」
「だろー?」
「だけど、お遊が誰かを傷つけようと刃物を持っているのは……正直、困るな」
靂がそう告げると、お遊は片手に持ったままの包丁を見下ろしてしゅんとした。
「そっかー……靂には勘違いして欲しくないんだけどなー……」
「なにが?」
「これは誰かを傷つけるための武器じゃなくて、靂を守るための武器なんだということを……」
「どうしよう……違いがさっぱり無さそうだ」
頼まれもしないで守るために近づく相手を傷つけるというのならば、攻撃しているのとそう代わりはない。
お遊は鈍い光を見せる包丁を持ち上げて、悲しそうな顔をした。
「こんなふうに」
猫科の猛獣が突然飛びついてきたような動きで、正面に座っているお九へと包丁を突き出しながら飛びついた。
鍛えている靂が手を出せる速度ですらなかった。
「お遊ちゃん!」
という叫びを上げたのは小唄だ。同時に小唄の方から棒手裏剣がお九に飛んできた。「お遊ちゃん」の後に続く言葉は「やめろ」ではなく「援護する」なのだろう。
このままでは関係を脅かされると判断した二人娘は、靂の目の前だろうと関わりなく襲い掛かってきた。それほどまでに彼女らは思いをこじらせ、情緒不安定になっていたのだ。
だがそこに居たのはただの関係を引っ掻き回すだけの女ではない。
「ふむ」
幾ら素早くて恨みが込められていても少女の握った包丁。お九は刃を指で摘んで一瞬で彼女の手からもぎ取り、飛んでくる棒手裏剣へと投げつけて相殺した。
二人が動揺する間もなく、お九は立ち上がってお遊の襟首を掴んで引っ張り、小唄にも近づいて二人同時に頭にゲンコツを落とした。
意識が飛ぶような威力であった。
「馬鹿者め! そのような真似をするから靂に嫌われると何故気づかんのだ、愚か者!」
「で、でも、靂を年増から守るには……」
「淫売女に盗られるよりはと……」
「酷い言われようだな! いいか、刃物を振り回す嫁を喜ぶ夫がこの世界の何処にいる」
「うちの父さんは……」
「甚八丸は置いといて!」
嫌な遺伝が小唄にまで行っているようだった。
「とにかく、お主らが刃物持って暴れるようなら靂は決して靡かん。靂が己れ……あたいとの婚約に返事をするまではまだ猶予期間を設けている。悔しければそれまでに女らしさを磨いて、おしとやかに過ごすのだな。思い直すかもしれん」
ここで具体的にいつまでという期間を言わないのは、延々と引き伸ばしを行える可能性を残しておくためであった。
お遊は渋々と、左袖に入れていた包丁と懐に入れていた守刀を取り出して床に置いた。
「……靂ー。あたし、守ろうと必死だったんだー」
「お遊。ごめんな。でも、もう守らなくても平気なんだ。お前はもっと呑気になってくれ。昔みたいに」
「……うん」
一方で素直にお遊が謝ったのを見て慌てて小唄も武装解除をする。
(こういう提案のとき、いつもお遊ちゃんが先に受け入れる素振りを見せて点数を稼ぐ姑息な作戦だ!)
棒手裏剣四本、八方手裏剣二枚、鎌二本、寸鉄一本、まきびし一握り、苦無二本、暗器用に縁を研いだ銅銭二十枚。
じゃらりと床に落として、小唄は爽やかな顔をする。
「靂! 私も身を守るための武装だったのだが、これで綺麗な体だ! これからは安心してくれ!」
「安心できるかあああ!」
「なんだその量の武器は!」
靂とお九は同時に叫んだ。
「六天流やり始めてから隠し武器を持ち歩くのが楽になって……」
照れたように小唄は言う。
また、茨の方も両手を広げて何も持っていないアピールをし、
「うぉ゛ー」
と、声に出した。靂はその癒されっぷりに泣きそうであった。
********
とりあえずは共通の脅威であるお九から発破を掛けられる形で武装解除に成功したので、
「婚約の日まで時々見に来る」
と、告げて屋敷を後にするのであった。
住所も告げていないし、そもそもこの姿は解除すれば人目に付くこともないので闇討ちしようと彼女らが襲いに来ることもない。
(ともあれ、これで暫くの流血沙汰は防げるだろう)
その間に、彼女らがしっかりと暴力を捨ててくれれば言うことはない。もしそうならないのならば、いっそ靂を避難させることも考えられる。
鹿屋の伝手を使えば、茨と二人で大阪で暮らし本でも書いて生きることはできるだろう。
残された二人は悲惨だろうが、人死が出るよりはマシである。
「ふう……ま、時々様子を見に来てやるか。変身するのは痛いのだがのう……骨が」
そう言いながら屋敷から出て道を歩いていると、前方から若者がスタスタと歩いてきたかと思ったらこちらをガン見してそのままお九の胸に頭から突入してきた。
一瞬のことなのでお九も反応できない。いや、多少は止めようと手を伸ばしたのだが、すっと内側に入り込まれた。
そして胸の弾力を頭で味わいながら、
「おお拝なり! いい拝なりいいい!! ちょっとお姉さん、え、なに? なんで靂くんの家から? いや、ちょっとええ? 凄いいい匂いでボクの天守閣が爆発しそうです……! しゅごい。もしかしたらボクのお嫁さんじゃないですか!?」
歌麿であった。いきなり出会い頭に突撃してきて、お九を嫁認定しはじめる。
「いきなりなんだお主は……! ええい、離れろ!」
「うわあ美人! ボク好み一直線! 嫁になってください! っていうか処女ですよね声でわかるうひょー!」
「声で!? ってうわなんだ着物を引っ張るな!」
完全に歌麿は顔がマジになっていて、お九への一目惚れで脳が支配されていた。
「ボクと! ボクと所帯を持ちましょう! びっくりするぐらい好みです!」
「鬱陶しい! ええい、逃げる!」
「待ってください! オラッ! ちょっと逃げるなっ!」
「クソなんだ妙に足早いぞこやつ!」
異様に執着してくる歌麿から、お九は必死に逃げ回る羽目になるのであったという……
ともあれ、こうして靂のところでは暫く刃傷沙汰は鳴りを潜めたという。
彼がどういう選択肢を選ぶにせよ、少なくとも猶予期間は伸びたのである。
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「に、兄さん。なんでボクは正座で説教食らう体勢なんでしょうか……」
「お主、通りすがりの女に乱暴を働きかけたそうだな……」
「乱暴!? いえ、これは恋ですよ! っていうか兄さん知り合いですか誰なんですかあの人詳しく教えてください!」
「A.去勢」
「会話をしましょうよ! ああ、あの人はいずこに!」
ここまで歌麿に惚れられると正体が自分と告げるのも気味が悪く、関係者にも口止めをする九郎であった。
デカ女系女体化九郎・お九ちゃん
TS病は妊娠したら解除不能になる難病だから気をつけないとね!
あと靂が書いた作中作の死に戻る吉良をなろうに短編投稿した「オール・ユー・ニード・イズ・吉良」の幕間が出てます。
http://book1.adouzi.eu.org/n2666ee/
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