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61話『過去話:術符とクルアハとの旅』




 難破した薩摩商船を救う船旅を終えて、労力分を補ってあまりある程度に九郎には鹿屋、更には薩摩藩からも謝礼金が取らされた。

 積み荷には値段よりも希少性の高い代物が載っていたので、口止め料も含むのだろう。 

 

「それにしても、術で効率よくお船を動かすなんてよく考えるわね、あなた」

 

 屋敷にて団欒していたら、豊房からそう聞かれて九郎は首を傾げた。


「そうか?」

「そうよ。試行錯誤って感じじゃなくて、一気に最適解な使い方じゃない。風を出したり、水を出したり、雷を消したり」

「ふうむ……まあ、昔に術を使った旅は経験しておってな。色々と便利なのは知っておったのだ」


 苦笑いを浮かべて九郎は肩を竦める。


「もっとも、その時に術を使っていたのは己れではないのだが……」





 ******




 異世界にて九郎が四十代の頃である。 

 騎士の仕事も辞めて晴れて無職になり、異世界から地球へと戻る方法を探していた。

 目の前で寿命を果たして死んでいった友人、蛇女アタリの姿を見て異世界で諦めるようにこのまま暮らしていいのかと疑問を持ち、成功するかはわからないがどうにか元の世界に戻る努力をしようと決めたのであった。

 異世界ペナルカンドは実のところ、地球世界とそう遠くないと九郎は考えている。地球文化と重なる単語や単位が多く存在し、料理や神霊なども聞き覚えのある名前があった。自分以外にもこの世界に来ている者が居ることは、会ったことこそないが以前にオーク神父に聞き及んでいた。

 

「うーむ、後は怪しいところといえば……」


 九郎は魔法協会、付与魔法研究室ことクルアハの部屋にて地図と資料を広げて唸っていた。

 旅に出る際に住んでいたアパートも引き払って、地元とも言える都市クリアエでも宿に下宿生活なので私物を九郎は殆ど持っておらず、資料類の多いクルアハのところで計画を立てているのだ。

 帰るための手段、と言っても異世界人であり魔法も使えない九郎にとってはわからないことばかりなのだが、クルアハやオーク神父が色々と情報を調べて教えてくれたのである。

 スフィも「なんでも頼るのじゃよ」と言っていたのだが、非常に寂しそうな笑みを浮かべていたので罪悪感が酷く、あまり帰還方法については相談できていない。

 九郎が世界地図を前に唸っていると、コーヒーを淹れてきたクルアハが九郎の前に出した。

 そして地図を広げた机の反対側に座り、非人間的に白い肌をした妖精は金色の瞳を向けて尋ねてきた。


「……どう?」


 問いかけられた九郎はコーヒーカップを手にして、苦笑いで応える。


「二回の遠征が空回りだったからな。次は何処に行くべきか悩んでいたところだ。いや、待て。地図の上にウェハースの粉を落とすな」

「……けほっ」


 ぽりぽりとウェハースを齧っていたクルアハは指摘されて、粉を落とさないように吸い込んで少し咳き込む。

 九郎はなんとも言えない顔で彼女を見るが、あまり感情の動かない告死妖精は真顔のままでウェハースを食べ続けている。甘党なのだ。

 付き合いも十年以上になるので九郎は気にしないようにして言う。


「元の世界に戻るための方法として、まずは世界の境界を司る神の神殿とやらに向かったわけだ。大陸のほぼ中央だな」


 指先でコの字型になった大陸の真ん中あたりと示した。


「……境界神」

「世界移動やらなんやらを管理している神ということだったのだが……こいつが暫く前に魔王ヨグとかいう輩に殺されておる」


 ため息混じりに九郎は首を振る。

 暫く前とはいっても、それはもう数十年は昔であるらしい。魔王ヨグの悪名は境界神殺しから始まり、幾度となく世界的な討伐軍が派遣されては壊滅させられていた。

 特に勇者ライブスが9回に渡り殺された挙句に、蘇生を司る神が魔王の召喚した炊飯ジャーに封印されてしまったので、世界から死者蘇生術の大部分が失われ──アンデッド化などは除く──世界中で迂闊に死ねない緊張感に包まれていた。皮肉にもそのおかげで世界中で大規模な戦争が鳴りを潜めているのだったが。


「もともとそこまで信仰されておった神ではないので文献も少なく、大神殿跡まで行けば何かあるのではないかと思ったけれどな。なんというか、殺された神の残滓が暴走しているらしくそこら中で異世界の魔獣が無限に発生しまくっていて酷い有様だった。何度か試したが近づけもできん」

「……危険地帯」

「そうだな。近隣の国による調査も行われたようだが、かなりの被害を出しながらも原因は掴めなかったらしい。己れが向かっても同じだろう。ここは空振りだ」


 後々、魔王城地下ダンジョンの魔物生産システムとして持ちさられる境界神の神殿跡だが、九郎が元の世界に戻るための機能は見つけられなかったようだ。


「次に異世界召喚とかはどうなのかと、召喚士の里へと行ったのだがここがまた僻地な上に喧嘩腰の奴らが多くてな」


 ペナルカンド大陸北東部にあるクレーター状に円型の湾になった海域にある北海道ほどの大きさの島。そこにこの世界でも一級の厄モノ一族の召喚士達が住んでいる。

 召喚士らは常にそこに全員居るわけではなく世界中を旅していて、適当な町に滞在したりもしているのだが他所でも生まれても一度は訪れる故郷となるのがその島であった。とはいえ、一族全員で千人ほどしか居ない少数民族の召喚士だけが住んでいるわけではなく、無政府状態だが移住してきた農民や漁民が開墾し一次産業を行っている。

 一人で無限の戦力を召喚できる能力者が千人も暮らしている島に攻めてこようとする外国などそうそう居ないので、割りと平和の楽園になっているようだ。


「基本的に大人から子供まで人の話は聞かんし自己中だしチンピラみたいなの居るしでノリがつらかった……異世界召喚の話を聞くだけで一週間ぐらい掛かった」

「……そんなに」

「結局異世界系の召喚などをできるのは異世界物召喚士のヨグしか居ないし、ヨグは召喚士一族でも夜中にランプに集まって鬱陶しいカナブンレベルで嫌われてるから誰も会いたがらないという。用事があるならそっちに行けと来た。だからわざわざ行ったのだぞ。魔王城のある空間歪曲迷宮砂漠に」


 地図の北西部からぐいーっと南に指を動かして、赤道を通過して南西部の砂漠を示す。その移動だけで軽く数ヶ月は掛かった。


「……どうだった?」

「まったく近づけんかった。名前からして空間歪んでるしな。正攻法じゃ無理だと思った己れは、奇策に出た」

「……奇策?」

「向こうから誘い出す作戦だ。具体的には、酒に潰したバナナと砂糖を混ぜて作った蜜を塗った柱を砂漠に立てて、夜中にライトアップしてみたのだが──」


 召喚士の里でカナブン扱いされていたので甲虫を集める方法に走ってしまったのである。

 九郎も砂漠で何日も迷い、かなり疲れていて思考が雑になっていたようだ。


「……ちょっと待って」


 クルアハが話を中断させると彼女は椅子から立ち上がり、研究室の片隅にある魔術文字を使用してあるちょっとした菓子作りの設備に近づいた。

 そこで材料として置いてある酒とバナナと砂糖を取り出して魔術ミキサーで混ぜてコップに入れて持ってくる。

 再び真顔で九郎の前に座って、その蜜をぐびっと飲む。


「……美味」

「わざわざ作って飲むのか……いや、虫寄せのだから胸焼けしそうだし己れに勧めるな」

 

 九郎の分もコップに入れて差し出してくるのを断ると、クルアハは理解できないとばかりに小首を傾げる。


「……掛かった?」

「いや……ただサバクトゲカブトムシとか言う虫が幾つも掛かって、現地で高く売れて帰りの旅費は確保できたあたりで諦めて帰ってきた」

「……金欠気味?」

「旅というのは思ったより金が掛かる。ギリギリ、これだけは売らんで済んだけどな」


 腰に帯びた鞘に入った剣を軽く叩いた。旅に出る際にクルアハから貰った光る魔術文字入りの剣[キャリバーン]である。 

 野宿する際などは光源となってくれて非常に便利であるし、相手に襲われたら閃光で目くらましもできる。光の剣なんてカッコイイものをおっさんが持つのもどうかと九郎は当初思っていたのだが、かなり役に立っていた。


「……次回目標」


 クルアハにそう聞かれて、九郎は頬杖を付いて考え込む。


「そうだなあ……」


 当ての少ない帰還方法探しは金も労力も掛かる。

 九郎とて公務員として十数年暮らした程度の貯金しかないし、切った張ったの能力は精々度胸があるぐらいで並の兵士ぐらいだ。

 一人旅をこれまでしていて危うく死ぬかもしれない状況に何度も陥り、軽く後悔もしていた。

 それにもう五十の壁も見えていて、立派な中年なのだ。体力も衰え、諦めも増えていた。人は長く生きることで諦める能力を身につけていく。若い頃ならば可能だった挑戦も、やがては不可能だと認められるようになる。

 

(ここらが潮時かもしれないな)


 と、思うが九郎の元には一つの情報が寄せられていた。


「以前に傭兵仲間だった、東国列島出身のユーリからの手紙だ。そこには願いを叶える魔人が居る祠があるという」

「……魔人?」

「よくあるランプの精みたいなものだろうか……そんな便利なものがいればこぞって誰もが求めそうだが。ユーリの話によると、祠には誰でも行けるのだが、魔人が願いを叶えるには対価を要求されるのであまり願いを叶える者は居ないそうだ」

「……対価」

「例えば不老不死を求めた者が自然治癒能力を失わされた結果、どれだけ体が壊れても死ぬに死ねない存在になったり、死ぬまで不便しない大金を求めた者が寿命を極限まで減らされたり、美少女の恋人を求めた者がガチムチ好きのホモに性格を変えられたり」

「……それは酷い」


 クルアハがほんの僅かに眉を潜めた。


「……そんな相手に頼っても平気?」

「元の世界に戻る、というのがどういう対価になるかわからんしな……一応行ってみようと思うのだが……」


 九郎はペナルカンド大陸の東に位置する、縦長の島国を指差した。


「この国、碌に他の国と交流していないのが問題だ。交易船すら殆ど出てないし、太陽神の乗り合い馬車も降りない。大陸間との海域は海流が不安定で、更に魔王が召喚したメカシャークとかいうロボ兵器がうようよ泳いでいて船を襲うのだそうだ」

「……全裸忍者は?」

「ユーリなどの忍者は凧に乗って飛んで海峡を渡れるらしい。手紙と一緒に凧セットを送ってきた。馬鹿か。無理だ」


 全裸に軽量化して凧にのって海を移動する忍者を想像して九郎は頭を振った。

 時折この世界の住人は物理法則がおかしくなる。真剣にそう思う九郎であった。


「となれば船で向かうのだが、出してくれる船があるだろうか……いっそ召喚士の里で鳥召喚士のやつをどうにか宥めすかして……いやあいつチンピラすぎるからなあ」


 九郎がもう一度冒険するか、もはや諦めるかで悩んでいると、クルアハがじっと彼の目を見ながら告げてきた。


「……私が手伝う」

「クルアハが?」


 意外なことを聞いたとばかりに、九郎は目を丸くした。

 

「魔法使いのクルアハが手助けしてくれるのは助かるが……メチャクチャ遠いぞ」


 再び世界地図に目を落として九郎は忠告をする。

 超大陸であるペナルカンドで二人が居る都市クリアエから、東国列島へ向かう大陸の東端に行くまでにほぼ大陸を横断しなければならない。

 地球世界で言うとヨーロッパから中国の海沿いまで向かうぐらいの距離である。移動手段は主に馬だが、何十日も掛かる旅になる。

 クルアハはこの街で魔法協会員として働いていて、準公務員ですらある。そんな彼女を連れ回すのは迷惑になると九郎は思うのだが。

 彼女は相変わらずの無表情気味に、平坦な声音で告げてきた。


「……利点がある。魔術文字の実地研究」

「研究?」

「……応用力の高い術符を作りたい」

「応用力、なあ」


 それとなく彼女の言いたいことを九郎は汲み取る。

 クルアハが開発して、この街の騎士団でも使用されてる魔術文字を刻んだ術符であるが、その能力に関しては『単一の魔法を任意のタイミングで撃てるマジックアイテム』といったところである。

 誰でも使えて火球や光などを出せて非常に便利なのだが、出力の調整に難がある。攻撃用の火球は出せても、ライターのようには使えないのだ。

 若干応用の効く例として、九郎に渡した剣にも付与されている光の魔法は光量を変化できる。そのように、使用者の用途にあった出力の魔法が発動できる術符を作れば便利である。


「ところでクルアハ。お前、この町から出たことは?」


 九郎が尋ねると彼女は首を横に振った。


「というか……いや、手伝ってもらう立場で言うのもなんだが、行きたいのか?」


 そう聞くと今度は首を縦に振る。

 九郎は頬杖を付いたまま考える。旅慣れていないし、見た目も華奢な少女であるクルアハを連れて行くのには色々と大変だろうが、協力の意思は素直にありがたいし、外に出てみたいという彼女の願いも叶えてやりたい。

 むしろこの妖精は自分よりも世間慣れしていないように見える。無口で無表情で、しかも他人から恐れられる種族となれば一人で出かけるのも難しいだろう。


「よし……わかった。じゃあクルアハに着いてきて貰おうかな。危なくなったら引き返すけど」

「……大丈夫」

「ん?」


 クルアハはじっと九郎の目を見ながら、告げてくる。


「……貴方の命が危うくなったら、名前が浮かんでくる」

「そ、そのときは早めに危険信号を出してくれよ。全力で安全な場所まで逃げるから」

「……」


 冷や汗をかく。彼女が云うと冗談にはならない。

 告死妖精に名前を呼ばれたら死ぬ、とはまことしやかに囁かれている噂だが、その実のところは死ぬ者の名前を告死妖精が唱えるという因果関係が逆なのである。

 だが、まあ。

 それならば、死にそうな状況を早めに把握できるかもしれないと九郎は前向きに考えるのであった。


「それじゃあ、よろしくな。クルアハ」

「……うん」


 九郎が手を差し出すと、人形のように皺も無い滑らかな手でクルアハはその手を取り、握った。



 こうして、九郎とクルアハは二人で初めての、そしてこれっきりの旅へと出かけることにしたのであった。





 ********






「……重たい」

「荷物が多くないか」


 出発日、準備を整えて九郎はクルアハを迎えに来ると、膨れ上がった彼女の背嚢を見て呆れたような声を出した。

 とはいえ九郎の方も軽装ではない。野外生活も考慮に入れてテント用シートを含む20kg前後の荷物を準備しており、馬に運ばせる予定だ。

 だがクルアハの方も九郎に負けず劣らず大きなリュックを膨らませていた。


「テントなどはこちらが持っているから別に大丈夫なのだが……」


 九郎が旅慣れていないクルアハの荷物をチェックしようとしてみると、中には袋に小分けされた菓子が山ほど詰まっていた。

 漁って見ても、着替えもなく水もなく、僅かに魔術研究用のノートに白紙の術符束、あとは菓子のみだった。


「おい」

「……!」


 クルアハは九郎にそう言われて、真顔で頷いた。

 そして部屋に置いてあるコーヒーメーカーを持ってきて無理やり詰め込もうとする。


「じゃなくてだな! 菓子ばっかりじゃないか!」

「……?」

「きょとんと首を傾げるなよ!」


 数千キロの旅になるのにピクニック気分である。だがクルアハは頑なな声音で云う。


「……お菓子は譲れない」

「譲るとか譲らんとかじゃなくてだな……」

「……今のは嘘。貴方が欲しいというのなら、分けてあげるのもやぶさかでない」

「己れは別に欲しがってないよな!? ああもう、菓子が関わると強気だな……!」


 微妙に噛み合わないのだが、九郎も妖精種族に果たして人間の旅人と同じ装備が必要なのかも疑問に思えてきて、


(足りないのがあったら途中で買い足していくか……)


 と、諦めることにした。なにせ一日二日の旅ではないのだ。必ず道中の町には補給で寄り、買い物が必要になるのである。

 クルアハも、


「……ふんす」


 見た目はまったく変わらないのだが、やる気はあるようなのであまり水を差すのも気が引けて九郎は認めることにした。

 そしてクルアハの部屋から出発をする際に、彼女は膨らんだ背嚢を掴んで引っ張り、


「……持てない」

「おやつは300クレジットまでにしろよ!」


 仕方なく、クルアハの分の荷物も九郎が外まで運んでいくのであった。

 魔法協会の外に繋いでいる馬は旅用に購入してきたものである。

 都市近郊にある牧場で増やして売っている種で、寿命が短いが早くに成長するものだから値段はそう高くない。

 安全性で言えば街道を通る乗合馬車で移動するのが楽なのだが、


(切符の予約取りに行ったら断られたからな……)


 多種族国家であるクリアエでは人種によって積載重量が大きく変わるので確認されるのだが、


(告死妖精は駄目、か……)


 非常に不吉な存在の上に、馬車で送った先の町で死人でも出たらその馬車が連れてきたのではないかと問題になる、というので断られたのだ。

 基本的にクルアハは菓子を買いに行くぐらいしか出歩かず、積極的に関わるのも九郎かスフィぐらいのものなのでそこまで不自由には見えないのだが種族的に嫌われているのであった。

 

「しかし、クルアハ。お前もうちょっと良い格好は無かったのか?」

「……一番頑丈」

「ううん、まあ旅にローブはありと言えばありだが」


 馬に乗る前に改めて彼女の格好を見て九郎は云う。魔道士がよく付けている暗色のローブをすっぽりと頭から被っているのみであった。

 普段着であるゴスロリで出かけるよりはマシではあるが、動きにくそうな気がした。

 九郎の方はリベットで補強された頑丈なズボンにシャツ、幅広の帽子にブーツと日焼けした肌にたくましい腕などを見れば探検家といった様子だ。

 なんとなく九郎も自分でチョイスしておいて、世界中飛び回っていたカメラマンの父親の姿に似ている気がした。 


「とにかく、行くとするか。先は長いからのんびりとな」

「……挨拶は?」

「そ、それはな……」


 クルアハの疑問の声には主語が無かったが、九郎は察して言い淀んだ。

 そうしていると、背後から声が掛けられる。


「クロー!」

「スフィか」


 僅かに気まずそうな顔をしてすぐに何でもない笑みを作って、九郎はスフィの方を向いた。

 彼の旅支度を見てスフィは不安そうに言葉を告げる。


「なんじゃ……もう旅に行くのかえ? もうちょっと、ゆっくりしていれば……」

「いや、すまんな。クルアハの出張にも絡めて手伝って貰うことになったので、先延ばしにもできないから行ってくるよ」

「そうか……」


 スフィは目を下げて少し間を空けて、それから笑顔を作って九郎に云う。


「それじゃ、気をつけるのじゃぞ。今度こそ、帰る方法が見つかるといいな!」

「ああ、ありがとうよ」

「クルアハを危ない目に合わせるでないぞ! 本当なら、私も付いていきたいところじゃが、ら、ライブがあってな……」

「……」


 クルアハはどこかぎこちない二人のやり取りを見守っていた。


「ま、まあ、また空振りじゃったら、残念パーティを開くとしよう。気落ちするでないぞ!」

「そうだな。いや、今度こそ旅に出るのは最後にしようかと思ってな。帰ってきたら、家と仕事を探さんとな」

「! そ、そうか……! いや、そのなんじゃ……」


 二人はお互いに、複雑な感情が浮かんでいる顔を合わせないようにして言い合っていた。

 

「体に……気をつけて行くのじゃぞ。無理はしないように……死んだらなんにもならないからのー!」

「わかってる。なに、クルアハも居るんだ。大丈夫」

「告死妖精が一緒なのが不吉極まりないのじゃが……とにかく! クローのことは頼んだぞ!」

「……委細承知」


 こっくりと頷いてクルアハは応え、手を握ってぶんぶんと振ってくるスフィの溢れ出しそうな涙の浮かんだ目と、暖かさを感じていた。

 九郎もスフィもお互いに気遣っていることを、クルアハの希薄な感情も確かに理解していた。


 スフィは彼に何処かへ行って欲しくないのだが、それを告げて彼が故郷へ帰る方法を探すという目的を阻害したくない。

 九郎はもし彼女から行かないで欲しいと告げられたら、素直に故郷へ帰ることを諦めるだろう。 

 スフィも出来れば旅に付いてもいきたいのだが、そうするとどうしても耐えられなくなり、きっと九郎を引き止めてしまうから付いていけない。

 

 お互いに思いすぎているからこそ、一歩相手の方に踏み込めない関係になっている。


(果たして、もしこれが永遠の別れになるとして、こんな別れでいいのだろうか)


 そう告死妖精は言葉に出さないが、親しい二人を心配するのであった。心がなくとも、思いだけでも。





 *******






 基本的に街道というものは馬や徒歩などで進んで丁度休むか泊まる位置に宿場ができるものである。

 しかしながらクルアハの[実地研究]という名目もあって初日は野宿をすることにした。

 

「そろそろ休むか?」

「……うん」


 太陽もすっかり傾いた頃合いに、九郎の提案で開けた野っ原に馬を止めた。

 鞍から先に降りた九郎は、クルアハが降りやすいように彼女の馬の横に来て手を差し出す。

 

「大丈夫か? 馬に乗ったのも初めてだっただろう」

「……」


 クルアハは九郎に手を借りて、馬から飛び降りながら九郎に体重を預ける。上るときも補助をしたが、彼女の体はとても軽かった。

 地面に下ろすと同時に、クルアハの膝から力が抜けて彼女はへたり込んだ。


「……」

「……」

「……告死妖精は感情が無いから疲れたとか言わない」

「いや、しんどいならそう云えよ」


 足がガクガクとした彼女は立ち上がろうとしても生まれたての子鹿のようであった。


「……不覚」

「明日から己れの背中にでもしがみついておくか? 多少はマシになると思うが」

「……肯定」


 ともあれ彼女は九郎から肩を借りて移動すると、術符を地面に置いて石で押さえた。


「……焚き火に使う炎の術符の調整をする」

「ほう。なら術符の上に缶詰でも置いてみるか」

「……発動」


 九郎が開いた缶詰を載せて、クルアハが術符を発動させると目の前に高さ3m程の火柱が上がった。

 缶詰が気化する、どこか香ばしい臭いが漂う。九郎は一瞬でクルアハを抱えたまま熱の範囲から下がった。怯えたように馬がいなないている。


「こんなもん町中で使ってたら消防騎士が来るわ!」

「……だから調整の必要があった」

「どうするんだこれ……」

「……参考の為に暫く放置で。次の術符を発動させる」


 クルアハは同じく炎系の魔術文字が書かれた術符を火柱に並べるように隣に配置し、今度はそれを発動させる。

 赤橙色の細い光が真上に向かって伸びていき、夕焼け空に浮かんだ雲に直撃してその雲を消滅させた。強力な熱光線である。

 

「あ」

「……あ」


 今度はうっかり石で押さえるのを忘れていたので、風が吹いて札が舞い上がり──熱光線が向きを変えて水平に放たれ、近くの草原や木々を焦がした。

 急いでクルアハが発動を停止させるが、焦げ臭さが周囲に広がる。

 

「いかん。山火事になるぞ」

「……大丈夫」


 クルアハは手早く水系の術式が書かれた札を取り出し、発動させると──コップに注ぐ程度の水量が、ちょろちょろと札から出てきた。


「……成功」

「新作の術符はいいから消火に使えるのを出してくれ!」

「……これの出力を上げれば……あ」


 クルアハが試作符に込める魔力を上昇させると、水の量も増えたのだが──指向性もなく、札から全方向に吹き付けるように水が放たれて彼女の全身を濡らすにとどまった。

 

「……失敗」

「クルアハー!?」


 ……そしてどうにかこうにか、火は消し止めることに成功するのであった。





 *********




 ローブが濡れたクルアハからそれを脱がして焚き火の側で乾かさせた。

 焚き火はひとまず術符ではなく普通に九郎がマッチで点火したものを使い、暖を取っている。ローブの下のクルアハは旅に出ているとは思えない薄着であったので、やむを得ず九郎の持つ予備のシャツとズボンを着用させていた。

 

「……おいしい」

「幸せそうに焼きマシュマロを食うなあ……」


 もちもちと持ってきた菓子を焼いて夕食にしている。妖精は食べられないわけではないのだがあまり食事は必要ではなく、種族的に甘いものや香りのよいものを嗜好品として口にすることが多い。

 九郎はイワシのオイル漬け缶を熱したものを、軽く炙ったパンに挟んで食べている。ちゃんと食事があるうちは良いが、旅の途中で食料を切らしたことは何度かあるのでその際にはクルアハは少なくとも飢えずに済むのは良かったと思えた。


「それにしても、術符はまだまだだな」

「……失敗。焚き火や飲み水ぐらいから、攻撃魔法まで調整だけで使えるものを作りたい」

「まあ……あんな実験は町中では難しいだろうから、旅の途中に頑張るとしよう」

「……迷惑?」

「いや、少なくとも水を持ち歩かなくていいだけでかなりありがたい」


 それは素直にそう思った。炎の術も完成すれば、薪や燃料を使わなくても火が使えるのでありがたい。

 基本的にこの世界で広く扱われている魔法は持続力のあるものが少ないのである。炎の塊を出したり、高熱で範囲内を焼き尽くしたりはできるが延々と何時間も魔力の炎を灯し続けることは難しい。

 クルアハの行っている研究は、誰でも持続性のある魔法をいつでも使えるようになるという非常に利便性の高い技術なのである。

 今のところは、幾つかの魔法を文字に閉じ込めて放つだけなのだが。


「……あの子とちゃんと話をしなくて良かったの?」


 クルアハが急にそう聞いてきたので、九郎はパンを喉に詰まらせそうになった。

 

「スフィのことか。いや、うん……そうだな」


 持ってきたコーヒーメーカーからコーヒーをカップに注いで、九郎は云う。


「もし、上手くいってもう会えないとしても……きっと大丈夫だ。寂しいけど、楽しいこともたくさんあったからな。己れもスフィも、二度と会えなくなってもきっとお互いに過ごした日々は忘れないだろうよ」

「……」

 

 そう納得するように云う九郎こそ、どこか無理をしているように思えたが。

 クルアハはなんだか胸のあたりがざわついて、その夜はもう喋ることは無かった。二人はテントに入り、寝袋で隣り合って眠りについた。





 ******



 


 二人は旅をしながら時に町に寄り、時に魔術の実験をして野宿をして多くの時間を共にした。

 クルアハと出会って十年以上だったが、彼女とはその十年分以上に九郎は会話をしたと思えた。

 とはいえ普通の人間に比べれば口数も少ないのだが、九郎としては不思議と彼女との間に無言の間が続いてもまったく気まずくはならなかった。雨の夜を一晩、何も喋らずにテントの中で雑魚寝をして過ごした日もあった。

 落ち着く相手というのだろうか。一人で居るのとはまた違う、静かな安心感があった。

 しかしながら無口で謎めいていた彼女のことも幾らか知ることができた。


「クルアハは町に来る前は何処に居たんだ?」

「……妖精の里。そこで、一部の妖精は神に役目を与えられて里を離れる」

「告死妖精の役目となると……やっぱり死人を看取ることなのだろうが、妙だな。それにしては、告死妖精関係なく死ぬ者の方が圧倒的に多くないか?」


 実際、クルアハが住んでいた町でも毎日葬式は行われている。それ以前は戦争状態で、戦地では何人も死んでいった。

 だが彼女が関わっている死人はごく一部だったはずである。


「……死の神はその存在を死ぬまで人は感じられない。そうなると人は死を忘れる。そうならない為に、死を告げる役目の妖精を存在させることで、多くの人に死が身近にあることを伝える。私の役目はただ告死妖精として人に恐れられ、存在すること。誰も、死を否定しないように」


 ただでさえこの世の中は、一昔前は蘇生の神が居て、治癒秘跡も存在し、重傷を治す秘薬などもある。

 そうなれば人の中には死を克服したと嘯く者も存在するようになる。

 そんなものに、死はここにあるのだと伝えるのが告死妖精の役目であった。彼女がすべての死を見送る必要は無くとも、彼女が居る町では死人が出る度に告死妖精と死の神を意識していただろう。

 同時に、死後の世界がどうなっているかわからず不安を抱えているものは、彼女の存在で死後の魂はちゃんと死の神が管理し、次の輪廻へと乗れることを納得して安心を得る。

 告死妖精とは、行動をする御神体のようなものであった。  


「人の死を見続けるのは大変じゃないか?」

「……そういう感情は無い」

「ふむ。もし己れが死ぬとしたら、クルアハに看取って貰うことにしようか」

「……そうするといい」


 それなら、とクルアハは言葉が浮かんだのだが声には出さなかった。


(きっと貴方のことをずっと覚えているから)


 告死妖精は死なない。半永久的に生きながらえて、誰も彼も先に死んでいくだろう。

 だからせめて親しかった人のことは忘れないでいたかった。

 忘れないというのなら、寂しくても耐えられるのだと目の前の人は言っていたから。





 *******






 旅を続けるにつれて、クルアハの術符も徐々に完成していった。

 焚き火から攻撃用の火炎まで出せる[炎熱符]に、飲み水を出したり水を放射したりできる[精水符]はキャンプで役に立った。

 温度を下げ、凍らせることもできる[氷結符]と、風を吹かせて涼を取る[起風符]は蒸し暑い地域を通るのに便利であった。

 断崖の道を通るのに[砂朽符]で岩を削って道を広げ、雷の鳴り響く平野では[電撃符]を使って落雷を防いで突破した。

 これらはクルアハのみの成果ではなく、その都度に九郎が「こういう魔法があれば旅に便利ではないか」と提案したのを二人で考えて作り上げたのである。



 また、クルアハは普通に旅先での観光を楽しんでいるようだった。 

 町中では告死妖精として目立つ目を隠すために、九郎の持っていたサングラスを掛けて土地の名物スイーツを味わい、野宿用に菓子を買い漁っていた。

 

「……お菓子凄い。こんなに沢山種類がある。知らなかった。旅に出て良かった」

「こんなにはしゃいでおるクルアハを見るのは初めてかもしれん」


 途中に寄った大きな交易都市の、東西南北各地の銘菓が売られているデパートにてクルアハが山ほど菓子を購入して、旅に持っていけないので減らすまで宿で何日か泊まる羽目になったりもした。

 時には山賊に襲われることもあったが、


「こんな感じでタイマンでは便利なのだ」

「ぎゃあああ! 目があああ!」


 九郎が愛剣キャリバーンから強烈な光を出して相手に近寄ると網膜を焼き付ける光量に山賊は悲鳴を上げる。九郎の姿も刀身も見えたものではなく、苦しんで斧を振り回すのみであった。

 投光器を間近で直視するようなものである。目が焼ける強烈な痛みと視覚消失を与えられた相手は、余程の実力者でも背中を向けて逃げる以外の選択肢では九郎に負けてしまう。それほどまでに強烈な光というのは暴力的なのであった。

 九郎本人は特殊なサングラスで目を保護しており平気だ。また、クルアハの方は告死妖精が人を殺すわけにもいかないので、精々が脅しに魔法を使ってくれる程度の援護であった。


 二人は順調に旅を続け、やがて大陸の東端に辿り着いた。

 かつては東国列島と貿易をしていたという港町で情報を集めて、渡る手段を用意した。

 問題は鮫である。メカシャークは大型船を真横から一撃で食いちぎれるような巨大鮫であり、海に住むドラゴンさえも凌駕する強さを持つらしい。

 暫く考えて九郎が提案した。


「クルアハ。氷の塊で船を作れないか? さすがの鮫も、浮いてる氷が船とは気づかないだろう」

「……やってみる」


 と、彼女が云うと氷結符を大量に用意して魔力を注ぎ込み、水を固めて氷の船を作り出した。常に冷やし続けるので解けることも無いのは、持続力の高い術符の特性でもある。

 それに帆を立てて、起風符で風を当てる。更に船の下には沢山の精水符を付けて水圧ジェットで前に進むように設計した。これで複雑な海流であっても無理にでも前に進むことが可能だ。

 氷の船に食料を積み込み、船出をして東の島国を目指した。


「とりあえずヤバそうだったら、飛んで岸まで逃げることにしよう」

「……うん」


 念のためにユーリから送ってもらった凧には魔術文字で補強しており、強力な風を噴射して飛行することが可能だが制御に難がある。

 クルアハの方も九郎や荷物は運べないが仮想光翼と呼ばれる妖精の羽で飛行が可能ではあった。

 さて、氷の船は目論見通りというべきか、鮫に襲われることなく、そして幾つもの推進力を使った甲斐があって快速で海を進んだ。

 日が暮れると真っ直ぐ進むのも危険なので船を止めて休憩することになった。ペナルカンドは地球で例えるならば、アメリカ大陸が存在しないようなもので太平洋と大西洋を合わせた巨大な海が広がっている。その為、うっかり行き過ぎると大海に乗り出して迷ってしまうだろう。


「クルアハのおかげだ。船を作るのに大分魔力を使っているだろう。大丈夫か?」

「……うん。コーヒーを飲もう」

「たまには己れが淹れようか?」

「……私の役目。貴方のは、苦すぎる」


 クルアハはそう言って、いつものように九郎にコーヒーを淹れた。






 *********





 ペナルカンドでもあまり他国の影響を受けない独自の文化を持っている国は、それこそ召喚士の里を含めて幾つかあるが東国もそうである。

 しかしそれでもペナルカンド全域でポピュラーな神の施設はあった。

 つまり伝神による手紙配達業務だ。世界中どこでも安値で手紙を届けるサービスは民間企業が太刀打ちできるようなものではない。

 なので早速、九郎もユーリに手紙を出して暫く待つようにした。

 東国は大陸東の海に縦筋のように並んでる小さな諸島が集まってできている国である。文化としてはどういうわけか、和風と中華風を混ぜたような着物や建物の形式をしているように九郎は思えた。多くの島々があって人の行き来もあるので多少余所者雰囲気の二人が混じってもそこまで奇異な目で見られない。

 だが残念ながら米は無くて、主食は麺や饅頭であるようだった。クルアハも手紙を待つ間、中々外の国には流出しない菓子を満喫しているようだ。


「……帰ったら作る」

「本当にクルアハは菓子屋にでもなれそうだなあ」

「……昔、覚えてる?」

「? 何をだ?」

「……なんでもない」


 以前に。

 九郎が菓子作りが得意なクルアハに対して、店を開いたらどうかと提案したことがあった。

 クルアハは調理こそ得意だが、接客や経営はさっぱりなので九郎がやってくれるならば、と返した。

 だがそのときは九郎も、店を持つと帰る意思が揺らぎそうなので断り、その話は無かったことになったのだが。

 

(今回も失敗に終わり、彼が町に住むなら……)


 それでもいいのではないか、と考えたのだが九郎は忘れているようだったので、クルアハも追求はしなかった。

 やがてユーリから手紙が届き、彼は忍務中で大陸の方に行っているので非常に残念ながら九郎と合流はできないが、魔人の封じられている祠の地図は描いて寄越してくれた。


「よし。早速行こうか」

「……うん」






 ********

 





 魔人は元々は人であった。ただし強欲な人間であった。

 祠は隠された秘宝の蔵であり、その中には願いを叶える精を呼び出す壺があった。

 それを見つけた男は、願いを一つだけ叶えるという精にこう告げた。


『願いを一万回叶えてくれ!』


 精霊はキレた。願いには限度があるのだ。


『お前が自分でやれ!』


 そうして魔力を浴びた男は魔人に代わり、他者の願いを一万人分叶えねば自由の身になれないようになった。

 魔人は今でも祠で他人の願いを叶え続けている。ただし無理やりにこの役目につけられた彼は意地悪く、相手が得をしない条件を付けてしまうのであったが。




《ああ、異世界人か。元の世界に戻るという願いは既に叶えたことがある。お前もそれを願うのか?》

「できるのか?」

《容易いことだ》


 九郎は祠の中を進んで出た広間にて、玉座のような椅子に座っていた魔人に願いを告げるとそう返された。

 魔人はどちらかと言うと幽霊のような半透明の人間で、この国の若者のようだった。彼は九郎の後ろに控えている告死妖精をちらりと見てから話を続けた。


《だが、対価が必要だ》

「なんだ?」

《大したことではない。俺の願いは対になる条件であまりありがたくないと評判だが、異世界人の送還はその中でもかなり条件がゆるい》

 

 魔人は指を立てて説明する。


《願いで大金を手に入れた者が、その大金を活かしきれないように。願いが対になって価値を失くすこと──この世界に居た記憶をすべて失うことが対価だ》

「……なんだと?」

《主観的にはお前はこの世界になんて来たりはせずに、元の世界で行方不明でその間の記憶は無しで見つかるだけだ。多少歳は食ったようだが、家族とも再会できるだろうよ》

「なるほど……確かに、この世界の記憶が全て無いのならば、そして願い自体も覚えていないのならば無意味になるな」

《どうする? この条件でも帰ったやつは居るぜ》


 九郎は一度振り向いてクルアハを見ると、彼女は真剣そうな眼差しで九郎を見ていた。

 彼女の背後にスフィやアタリ、騎士団長にユーリにオーク神父やイートゥエなどの姿が幻視される。

 悲しいこともあったが、楽しい思い出は多かったはずだ。

 九郎は首を振って魔人に告げた。


「いや……己れは止めておく。忘れたくない奴らが多くてな」

《そうかい。だが、願いをキャンセルすることも願いに含めるから、もう叶えられないぜ。対価はいらないが》


 魔人はこうして無価値になる対価を示すことで、一切の労力を掛けずに願いを叶える回数ノルマをこなしているのである。

 それでも覚悟を決めて願いを叶える者も居るのだが、九郎はそうでなかった。


「ああ。それでいい。邪魔をしたな」


 九郎は手を振って魔人に背を向け、クルアハの方に歩き始めた。

 彼女の肩を叩いて祠の外へと出た。


「帰ろうか。己れらの町に」

「……いいの?」


 クルアハの問いかけに、九郎は諦めの入った笑みを見せた。

 それでもどこか吹っ切れたような爽やかな表情だった。


「いいんだ。帰るよりも大事なことがある。むしろ、長旅に付き合わせたのに、諦めてすまんな」

「……別に、いい」


 旅が無駄になったと九郎は思っているのかもしれないが、クルアハにとっては旅自体が楽しく、意味のあることだと思えた。

 それに──と、クルアハは立ち止まって、九郎の手を握って彼をじっと見上げた。


「……私も、貴方に忘れられるのは……嫌だから」

「……? ああ、だからもう、忘れたりなんかするものか。当たり前だろう」

「……」


 その時、初めてクルアハは、人間ではない自分の存在が残念に思えた。


 




 *******




  


 

 後年。

 九郎が魔女化したイリシアと旅を初めてから、九郎は彼女に便利な術符を作らせた。

 魔女となれば町にも入りづらいので、野外活動で使える符である。

 炎熱符、精水符、氷結符、起風符、砂朽符、電撃符。

 それらは旅の助けになり、魔法のエキスパートである魔女よりも少なくとも生活に便利という程度の出力では九郎は器用に使っていた。

 その折、イリシアが首を傾げて聞いてきた。


「クロウ。妙に術符を使った旅に慣れていますね」

「そうかのう」

「必要な術符の作成にも的確な助言をしてきましたし。ひょっとして研究してましたっけ?」

「さて……そもそも、お主に魔術文字を教えたのは……誰だったかのう」

「さあ……忘れましたね」

「忘れてしまったのう……」


 焚き火に照らされながら、九郎の淹れる苦すぎるコーヒーを二人は飲んで、どこかぽっかりと空いた記憶の空隙に何故か悲しくなるのであった。







 *********

 





「……そうだな。ここで……確かに誰かが居たのだ」



 更に後年。

 九郎が江戸から石燕を救うために再びペナルカンドへ来ていたときのこと。

 都市クリアエにて、元仲間にして魔術文字研究者であるダークエルフの魔法使いシフトから[存在認識]の術符を渡されていた。

 九郎が忘れてしまっている、魂の無い誰かが居るはずだというのでそれを思い出すための特別な魔法が掛けられている。

 その相手と共通の記憶がある場所に行くことで、術符に少しずつ存在情報を刻まれていきいずれ虫食い穴を埋めるように周辺の情報から忘れてしまった者に関する思い出を修復することができる。

 故に九郎はダンジョン攻略の合間に、ずっと以前に訪れた記憶があるが誰と居たか曖昧な場所を巡って居たのである。

 ここ、東国にある崩れ去った祠にもその記憶の断片があり、術符が僅かに黒く染まった。完全に黒くなったときに、忘れていた相手を思い出すことができるという。


「ここに願いを叶える魔人が居たのにもう崩れて誰も入れぬのか。魔人も何処かへ行ったのかのう?」

 

 或いは一万回の願いを叶え終えて自由の身になったのかもしれない。

 しかし確かにここで九郎は、元の世界に戻ってすべてを忘れるか、この世界に留まるかを選んだ。

 この世界で出会った皆を忘れることなんてできないと思ったのであったが。



「すまんな……もう少しだけ待っていてくれ」

 


 九郎は術符を握りしめて、そう願っていた。

 

 忘れられた誰かはもう死んでいるとしても、きっと彼女と過ごした思い出はとても大事なものだから。






 *******





 それから九郎は紆余曲折を経てクルアハを思い出し、彼女に生まれていた擬似魂はイモータルと石燕に宿り転生していることを知るのだが──

 イモータルはともかく、酒飲みアラサーモチ詰まらせ女である石燕がクルアハの生まれ変わりと思うと何とも言えない頭痛を感じる九郎であった。




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