58話『六天流道場とお進』
夏の暑い盛りとなれば、甘い菓子の売り上げも落ちるかと思われたが冷茶のおかげで慶喜屋も繁盛しているようだった。
冷やっこくて旨いので近所の者など大きな急須を持って買いに来るほどである。そしてついでに菓子も買っていくので売り上げに貢献している。
店員の女達も、吉原の遊女時代は幾ら稼いでも忘八の懐行きであったのがここではダイレクトに自分の稼ぎとなることに張り切っていた。
暑い夏となれば休みたがる者も居るのではないかという九郎が各々に休みが取れるシフト計画を提案したが、皆こぞって出勤をして仕事に励んでいた。
従業員の賃金は泊まり部屋代込みで年に4両(32万円)程の薄給が相場なのだが、客から貰えるチップが大きい。50文(1000円)ぐらいも茶屋の娘に渡す相場があるので、愛想を振りまいてどんどん稼げるのだ。
「ううむ、そろそろ己れが見ておらずとも大丈夫だな」
開店してからしばらくの日数、店で暇そうに座っていた九郎はそう呟いて店を皆に任せて出かけようと考えた。
そもそも彼の仕事は基本的に置物である。知り合いか、知り合いの知り合いという関係で紹介された相手の接客をする程度であり、調理も金勘定も全て店の者に任せていた。
店を完全に任せてあがりを貰っていく。店貸しの形で儲けを得られれば非常に楽だと思って始めたのだが今のところはいい感じである。
(本格的に自分が出張って菓子屋をやるには……)
と、九郎はふと思い出すことがあった。
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異世界にてそれとなく縁が生まれて長い付き合いになった告死妖精クルアハ。
無口無表情無感動に見える、人形のような彼女だったが根っからの甘党であるようだった。彼女が言うには、大体の妖精もそうらしい。
頼み事があるときは市販の菓子を買っていくと真顔で頬張ったし、時折甘味屋にも九郎は付き合った。クルアハは口下手な上に告死妖精は人から恐れられているので、一人ではあまり店に食べに行けなかったのだ。
『旨いか?』
『……肯定』
『いや本当に旨いのか? このショートケーキ味焼きそば。意味不明な組み合わせすぎるんだが』
『……半分食べる?』
『うーん……』
などと交流して徐々に親密になっていったのであったが、クルアハはまた自作の菓子もよく作る方で、その腕前もかなりのものだった。
菓子を焼いたり冷やしたりする為に付与魔術で術符を開発したのではないかと九郎も密かに思っていたぐらいだ。
『それを配るとかすればお主も人に受け入れられやすくなるだろうにのう』
『……難儀』
『いっそ菓子屋でも開けばどうだ。ただで貰うのは気が引ける相手でも、売り物なら買っていくかもしれんぞ』
『……難事』
無口でコミュニケーション能力の低い自分では菓子屋などとても経営できない、というような事を彼女は九郎に告げた。
『……貴方が売ってくれるならいい』
『己れが? むう……』
九郎が代わりに店をやり、クルアハが作ったものを売るという方法もある。
頭のなかで店を出す案が幾つか浮かんだのだが、九郎は申し訳なさそうに首を振った。
『まあ、趣味ぐらいに留めておくか』
『……肯定』
当時の九郎はいずれ日本に戻る為に、その方法を探していたので異世界に根を張るような店の主になるという選択はできなかったのだ。
それから月日が経ってようやく定住しようと決めた頃には、さすがに飲食店を初めて失敗した場合取り返しのつかない年齢になっていたので仕方なく用務員勤務を始めたのだったが……
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(今更になって、あの頃話題に上がった菓子屋を始めるとはのう。人生はわからぬものだ)
九郎はそう思いながら染み染みと活気のある店内を改めて眺めるのであった。
なんとなくで始めた店だが、長続きさせられればと九郎も思った。昔の小さな夢を代わりに叶えるように。
そろそろ出かけるか、と九郎が奥で着替えてきた時、店に菅山利悟がやってきた。
どうやら今日は彼も非番のようで、いつもの袴姿ではなく着流しを身に着けている。
数度の来店だが彼は店員の年増女らが近づくと「ふーっ!」と威嚇するので既に誰にも相手をされていない。義務的に町奉行のお使いで菓子を買っていくだけだ。どうやら大岡忠相も珍しい味の菓子を気に入ったか、他の旗本にも食わせているようで時折利悟に注文させていく。
利悟は九郎の姿に気づくと、手招きで呼び寄せた。
面倒くさそうに九郎がやってくると、声を潜めて相談してくる。
「これからちょっと、うちの正太郎の様子を見に行くんだけど、手土産に持っていく菓子を見繕ってくれないか」
「子を道場に預けたら、あまり親が見に行くものではないと影兵衛は云っておったが……」
師匠となれば父も同然、といった風潮は多くの剣術道場ではよくあることだった。
実際に父母の居ない浪人身分の者が道場に客分として住み着き稽古を行い、道場主の養子になるということもあったようだ。剣術道場は浪人、旗本の次男三男のワンチャンスある就職先でもある。
利悟は困ったような顔をして、
「そ、それはわかってるけれど……そもそも拙者は、やたら録山先生のところへ襲撃に行ってた中山殿と違って、それほど道場のこと知らないし……」
「それなのに晃之介のところを?」
一応晃之介と利悟は歳が近いものの、道場主という立場から敬称を付けて呼んでいるようだ。
九郎もそれに若干違和感を感じたのは、これまでもあまり二人は絡んでいるところを見たことが無かったからだろう。
少年少女の薄い胸板好きの利悟と、巨乳好きの晃之介では趣味が合わないのかもしれないな、と九郎は適当に思いながらも利悟の話を聞く。
「うちの正太郎、気弱だから新助くんぐらいしか友人居なくてねえ……一緒に通ってくれるような場所じゃないと続かないと思って」
「なるほどのう」
影兵衛の息子である新助は溌剌とした印象の、父親に似ずに真面目そうな雰囲気だが利悟の子である正太郎はまだ5つほどの年齢であることを加味しても、若干内気ではあるように思えた。
そうなれば剣術を学ばせるにしても、せめて気心の知れた相手が一緒に入ってくれるところをと思うのも親心ではある。
同心は世襲制ではないということになっているが、実質我が子に継がせるものなのだから鍛えておかねばならない。なお、世襲ではないのを利用して影兵衛などは高禄旗本の部屋住み三男坊だったのだが、同心職を引退しかけた知人から受け継がせて貰い下級だが一端の武士になったのであった。
「……中山殿との喧嘩友達ってことは録山先生も色々狂ってるんだろうけど」
「酷い評価だ」
「九郎も正直関係者からは同じ狂人仲間だと思われてる」
「一緒にするでない。大体、聞いた話ではお主と浅右衛門が道場などでの影兵衛係と聞いたぞ」
「ううう、なんかなあ。浅右衛門さんと対峙すると達人同士の戦いみたいになるのに、拙者が相手だと容赦なく蹴り飛ばしてくるんだよなあ中山殿」
利悟が蹴られた痛みを思い出すように腕をさすりながら呟く。利悟も、町方では三本の指に入る剣術の使い手であるために影兵衛も遠慮なく攻撃してくる。普通の相手と試合する場合は、あれでも手加減をする方であった。
「まあ、丁度良かろう。晃之介のところに行くなら、己れも出かけるところだったから菓子を持っていこう。己れの奢りでな」
「助かる! いやぁー拙者の財布事情だと、その一番安い[河童焼き]を買っていこうかと父の威厳に悩んでいたところなんだ!」
利悟がパッと顔を明るくする。同心という職業は、収入こそ少ないものの普通は武家や商店などが何かと融通を効かせて貰うため、付け届けがあちこちから届いてくるので副収入が大きいものなのだが、利悟という男は何故か殆どそれが無いのでそれなりに貧しかった。 [河童焼き]というのは店の商品の中でも安い、小麦粉に黒砂糖を入れて水で練って薄く焼いたものである。味はひたすらに素朴だが、安価で砂糖味の焼き菓子が食えるので買っていく庶民も多い。焼いた形が河童の皿のようだから豊房によりそう命名された。
「晃之介はそれほど甘いものを食わんが、子興に長喜丸は菓子が好きだからのう。うちの娘と孫みたいなもんだし、持っていってやろう」
「へぇ~。こんなに旨いのにあの先生苦手なのか」
「嫌いというわけではないのだろうがな。野外生活が長すぎて……熊の生き血とか野人めいた食材は好きらしいが」
「……うちの息子に飲ませてないよね?」
「確か以前、同じく弟子であるお八や靂とかには飲ませていたぞ」
「早く行こう」
焦燥感を覚えたように、利悟は九郎の肩を掴んだ。
とりあえず九郎も、菓子一式を重箱に詰めさせて帳簿にも接客用消費として記録させて利悟とともに出かけるのであった。
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録山晃之介の道場での六天流武術は単に剣槍の使い方や決闘の勝ち方といったことだけではなく、走り、跳び、泳ぎなど身の動かし方も重点的に教え込む。
開けた決闘場だけでなく、木々の群生した森や足場の悪い河原、一歩間違えれば谷底に落ちる山でも戦えるようにと、この太平の世に於いては確実に無駄なぐらい状況を想定して修行するのである。
腕を組みながら尋ねてきた九郎と利悟に、晃之介はそう説明をした。
「そういった細かな身のこなしというものは幼少の頃からやらねば、中々大人になって身につくものではないからな」
晃之介自らも、物心ついたときから滝に叩き落されたり丸木橋を逆立ちで渡らされたりしていた。
日本中あちこちを旅しながら晃之介を野外で鍛えていたので、江戸に腰を落ち着けて鍛錬をしている今よりも厳しい生活だっただろう。
「ふむ……確かに、子供の頃はできなかったのに大人になって逆立ちができるようになるのは難しいだろうのう。体格の違いもあるが、感覚が掴めぬのだという」
「だからといって……」
真っ青な顔で利悟は二人に吠えた。
「まだ五つぐらいの子供に、木の上に張った縄を渡らせるやつがあるかあああ!!」
外廻り中にこっそりと担当地域から外れて、九郎も連れて晃之介の道場にやってきた利悟が目撃したのは大きな銀杏の木二本の間に張った縄の上でしがみついて固まっている息子の正太郎であった。
縄を結んでいる幹の高さは地上から二間半(約4.5m)はあるだろうか。
片方からそれにしがみついて少しばかり進んだものの、行くも退くもできなくなった5歳の少年が涙目で両手両足を使ってぶら下がっていた。
反対側の幹からは影兵衛の子である新助が、
「が、頑張れ! 怖がらなければそれほど難しくないから!」
と、応援している。先程から九郎も見ていたのだが、新助の方はどうにか必死に縄の上を這いずるようにして渡りきったのである。かなり本人も恐ろしかったようで、冷や汗をびっしょりと掻いている。
彼の隣には諦めたような顔をした靂も木の枝に立っていた。昔から靂もやらされていた綱渡りを、まず手本として行わされていたのだ。靂の場合はすり足で慎重に立ったまま縄を渡りきったので、さすがに慣れているだけはある。
今にも力尽きて落ちそうな正太郎の下で利悟がアワアワとした。
「こ、こんな軽業師だかなんだかみたいな修行をやらせるなんて……」
まだ体が本格的な鍛錬ができるほど成長していない小さい子供なので、刀や槍を振るわせる訓練より体力をつけたりバランス感覚を身に着けたりする訓練が多いのである。
明らかに変な特訓なので苦情気味に云うが、晃之介は当然のように告げる。
「そうは云うがな。考えても見てくれ。例え剣術を修めても、もし将来に崖に掛けられた縄や奈落の上で木板一本の場所で敵と戦う羽目になった際に戦えませんでは通じない場合があるだろう。だからこうして練習をさせておくんだ」
「ないから! そんな場所で襲われること! うちの子も新助くんも都会派の子供だから!」
「出来るけど使う機会が無い技能と、使えない技能ならば前者の方がいいだろう。それに度胸が付く」
「恐怖の記憶になるよ!」
「まあまあ、利悟や」
晃之介に訴える利悟を、九郎はやんわりと止めた。
「晃之介がちゃんと下で見ておるではないか。いざ落ちたら、さっと受け止めるだろうよ」
そう言って彼を安心させようとする。
晃之介の身軽さは折り紙つきなので、落ちたと思った瞬間には落下地点に駆けつけることも十分に可能だと九郎は判断したのだ。
だが、晃之介はきょとんと首を傾げた。
「受け止める? 俺が?」
「……?」
「むしろ受け身の練習に丁度いいだろう。大丈夫だ。ちゃんと受け身は教えてるから」
「思ったより危ない特訓だった!?」
いい笑顔で応える晃之介に、むしろ九郎が慌てた。
高さ4.5メートルである。二階の窓から落ちるようなものだ。そんなのを受け身でどうにかするのは妙な武芸やってる晃之介ぐらいだろう。
「正太郎ー! 大丈夫だぞー! 落ちても拙者が受け止めるからなー!」
「ちょっと保護者の方は下がって居てくれないか」
「鬼か」
慌ててぶら下がっている正太郎の真下に駆けた利悟に対して晃之介は冷たく云うので、九郎が半眼でうめいた。
彼は腕を組んで真顔で、
「普通の道場でも木剣で殴られるなり突き飛ばされるなりして怪我をするし、それで死ぬこともある。縄から落ちて死ぬのも変わらないだろう」
「変わるだろ!?」
「ただ、こういう鍛錬は子興殿が出かけている間に行うに限るな。うん」
「嫁からも止められてるんじゃないか!」
確かに、幾ら修行とはいっても母親からすれば気が気でないだろう。ある程度、厳しい修行を受けていることを覚悟して見に来た利悟でもこの有様だ。
これを普通だと考えている晃之介の方が異常ではあるのだが。彼にとって馬術とは馬の上に仁王立ちをして跳躍して飛び移ったりすることだったり、水泳術といえば水面を蹴って跳んだり呼吸を止めて一町ほども潜行したりすることなのだ。求める状況が過激であった。
「まったく。様子を見に来たはいいが心配性で困る。ちゃんと受け身を取れるように教えているから大丈夫だというのに……長喜丸、手伝ってやれ」
晃之介が呼びかけると、正太郎と近い方の木の先端辺りからするすると長喜丸が降りてきた。
順番待ちをしていたのだが正太郎で詰まったので彼は木登りで暇つぶしをしていたようだ。
長喜丸は両手を左右に伸ばすと、少したわんだ縄の上に足を載せて歩き始めた。
「な、長喜丸!? 危ないぞ……! 気をつけるのだぞ……!」
「九郎!? 自分のところの孫になった途端露骨だなお前!」
「やかましいっ」
その様子に今度は九郎の方が長喜丸の下にすっ飛んでいって落ちないか見守り出す。
子供というのは体が小さいので頭部とのバランスが取れておらず転びやすい。なのだが、長喜丸は地面に引いた線の上を遊びで歩くように気負うこともふらつくこともなく前に進み、更にはうずくまってしがみついている正太郎の上を、
「よー」
と、ゆるい掛け声を出して跳び越して前に行った。見ている九郎と利悟、それに新助が背筋を冷やして口を半開きにする。
ピンと張った硬い縄ではない。着地すればそれだけ揺れるというのに、長喜丸は上手く縄に乗ったままの姿勢を維持している。むしろ、近くで跳ばれて縄が揺れた正太郎が今にも落ちそうであった。
長喜丸はその場で方向転換して後ろの正太郎へ向き直りながらかがみ、片手を伸ばした。
「いこう」
「え?」
「いこう」
「ちょっちょっと待っ」
「そういうことになった」
何か自己完結したらしい長喜丸は正太郎の手を掴んでグイと引っ張りあげる。
そうすると正太郎は膝を曲げて腰を引かせたまま、片手を長喜丸に支えられてどうにか縄の上に立っている。立っているというか、足の裏を縄に接しているのが精一杯というところか。
ともあれその体勢から長喜丸は手を引いたまま縄を渡りだす。
転びそうになった正太郎が慌てて足を差し出し、下を向いて落ちないように縄の上に次々に足を運んでいく。
そうしながらも長喜丸は止まらずひたすら正太郎を連れて縄を進んでいった。
「わ、わ、わ~?」
「歩。足。右。左。歩。歩。歩」
「う、うん?」
長喜丸の短い呟きに歩幅を合わせるようにおっかなびっくり引っ張られてついていく。
「正太郎が縄を歩いて渡ってる!?」
「むう……どうなっておるのだ?」
「長喜丸が正太郎の重さと均衡を全て肩代わりしているから、足を動かすだけで一切力は使わずに前に進んでいけるんだ。見た目は手を繋いでいるだけだが、実際は抱えて歩いているようなものだと思ってくれ」
「……」
「……いや、できるの?」
「酔っぱらいに肩を貸したら、転びそうな道でも引っ張っていけるだろう?」
「うーん……」
体重移動の妙とでもいう天性の才能であろうか。
納得できるような、できないような微妙な顔になり九郎と利悟はスタスタと縄を歩いて行く二人を見ていた。
晃之介はため息混じりに、
「長喜丸は平衡感覚に優れていて身軽なんだ」
「蛙の子は蛙というが、子供にしても尋常ではないのう」
手で掴んだ他人の重さを全て受け止めているということは、長喜丸がその気ならば正太郎を握手した体勢のまま投げ飛ばすことも可能なのだ。
晃之介が思い返しながら呟いた。
「赤ん坊の頃に背負ったまま軽功を使って飛び回った影響かもしれないな」
「お主の野山を跳ね回るアレに連れていくのは子供を暴れ馬に載せるようなものだぞ」
「なに、俺が赤子の頃は谷に投げ落としたりしていたそうだ。親父から聞いたが」
「それは殺意が認められる案件だろう」
「受け身を覚えていなかったら危なかった」
「赤子の頃は覚えておらんだろう」
「……ここに息子を預けるのすこぶる不安になってきた……」
利悟はげんなりとしているが、どうやら長喜丸と正太郎の二人は無事に縄を渡りきったようだ。
自分は這いつくばって渡ったのに、手を借りたとはいえ歩いて渡れた正太郎を僅かに羨ましそうに新助は見ていた。
「そうだ。折角なので二人もやってみるか? 綱渡り」
「ええええ無理無理拙者やったことないし」
「己れは……昔にちょいとやったぐらいだのう」
中学の頃のバイトで落下死覚悟の綱渡りをやりきったら賞金が貰えるという裏イベントに参加した事のある九郎はそれを思い出していた。
「子供に良いところを見せないと」
「そうだぜェ!」
「あ。影兵衛」
声が聞こえてきて顔を上げると、いつの間にか影兵衛が木に登ってこちらを見下ろしてきた。
こいつら暇なのかな……と九郎は同心二人に視線を交互にやる。
「父上!?」
「まあ見てな新助……オラ! 拙者に掛かればこんなもんよ!」
言うと影兵衛は腕を組んだまま、堂々と縄の上を歩き始めた。
それを見て反対側の縄が繋がっている木にいる新助は目を輝かせた。
「さすがです父上! さすちち!」
「けっへっへっ! これぞ父の威厳よ!」
自慢するように笑って影兵衛は進んでいく。
「おお、やるのうあやつ」
「いやよく見てみろ九郎。あれは縄の上を渡っているのではなく、足の指で縄を掴んで体を固定してるんだ」
「あっ本当だ。息子の前で良いところ見せようとズルしてやがる」
それでも相当な足の握力と、体幹維持の筋力を使っているのだろう。
涙ぐましい──という割には一歩一歩の歩みが早いので誤魔化しが利き、ツッコミをいれる前に縄を渡りきった。
だが同じ木の上に居た靂が眼鏡を正しながら、
「今の渡り方はうちの流派だとイマイチな方法であんまり真似をしては──」
「おっと足が滑った」
「うわぁーっ……」
木から蹴り落とされて靂が地面に叩きつけられる。大丈夫。受け身は取った。
男の子は強いものと信じて皆は見なかったことにした。
「よし、手前らも綱渡りしてみろ! ガキにいいトコ見せんだよ!」
「むう」
「えええ」
「仕方ないのう」
九郎は軽い調子で頷いて、ひょいひょいと木の上に登った。
そしてふわーっとした動きで縄の上を進んでいく。
「浮いてる! 浮いてるじゃないか!」
「明らかに反則だな……」
「はっはっは。己れからすれば怪しげな気功で跳び回る晃之介も反則だ」
疫病風装で飛行している九郎は滑るようにして縄を渡りきる。
こうして大人勢二人が渡るとなると、残された利悟も嫌とは言えない。何せ、一人息子の前だ。見栄は張りたい。
「コツを教えると、立ち止まったりせずに前へ前へと体を倒すと進みやすいぞ」
「まず出来てる想像が難しい……」
「見た目よりは簡単だ。落ちても受け身をすれば怪我しない」
「さっき落ちた靂はピクリともしないんだけど」
「……寝不足だろう。多分」
「寝不足!?」
利悟が悲鳴のように叫ぶが、九郎が木からふわりと降りて地面に倒れている靂を見ると確かに怪我はせずに規則正しい呼吸音で眠っていた。
「頭を打って寝ているわけではないよな……」
若干心配になり、九郎は術符で水を作り出して顔に浴びせると眠そうに目をしょぼしょぼさせた靂が起き上がった。
「すいません。意識がちょっと飛んでました」
「やけに安らかな顔で寝ていたが……」
「いえ、昨晩にちょっと色々あって眠くて……」
「……そういうのは計画的にせんと後々困るぞ」
「してませんよ!」
大声で靂は否定した。
彼の場合、昨日の夕方にうっかり風呂上がりの茨を見てしまって妙に気まずくなり、眠くなるまで本でも読もうと部屋に篭っていたらお遊が何故か寝ぼけて部屋に来て勝手に寝始め、その後ふすまの隙間から小唄が延々と片目を覗かせて監視してきたので怖くて眠れなかったという事情があったのだ。
「……将翁に頼んで眠り薬でも処方して貰うか?」
「大丈夫なんですかね、僕はそれで寝て」
「いや、この場合はお遊と小唄の飲み物に薬を盛るんだ。こう、用事で席を外した隙にサーッと。他の者が熟睡していれば安眠できるだろう。間違えても自分に使うなよ。寝ている間に取り返しのつかないことに……ううっ」
「なんか実感篭ってる……!」
とりあえず数々の独身者をくっつけてきた九郎からしても、靂のところは手のつけようがない。
ちゃんと年単位で面倒を見ておけば色々と違ったかもしれないが、九郎が居ない間にすっかり関係が熟成してバランスを崩すと即流血に繋がる状況なのだ。
後はもう、靂の男気に掛けるしかないなと九郎はできるだけ見守る考えである。個人的には茨を推しているのだが。一番平和そうだから。
ともあれそうこうしている間に、利悟が覚悟を決めて木の上に登ったようだ。
素足になって木の幹を掴みながら縄に足を載せる。
「よ、よし! 見てろよ正太郎!」
「父上、危ないから気をつけて……!」
「なあに同心やってれば危険なんて日常茶飯事なのは確かなんだ! 拙者の度胸を見せてやる! うおおお!」
そう云って利悟は、バランスを崩すよりも先に前に進むことで駆け抜けられるという晃之介の意見を取り入れて縄の上を走り出した。
そして、
ずるっと足を滑らした。
「あっ」
「あ」
どうにかそこで縄にしがみつこうとした結果──
縄を股の間に挟む形で二尺ほど下に置いて──股間に跨いだ縄に全体重が掛かった。
即ち、股の間にあるフグリに。
「あ゛あああ──」
悲痛な叫びが響き渡り、皆は股間を押さえて瞑目した。
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「古来よりフグリを温めたり冷やしたり叩いたりすると強くなるというから、そう気落ちするでない」
「聞いたことない……ううっ」
内臓をえぐられたような痛みに、利悟は道場の隅に寝かされながら呻いていた。
とりあえずあんまりにもアレだったので九郎が縄の上から救助して屋内に寝かせたのである。
心配そうに利悟の隣に正太郎も座って、彼の額に浮かぶ汗を布で拭っている。
「時々思うんだ……世界はなんで拙者のフグリに厳しいのだろうと。ひょっとして前世が宦官だったのかな……」
「被害妄想だ」
「九郎からも潰されそうになったことが何回かあるんだけど」
「それはそれとして、晃之介が飯を作ったそうだぞ。それでも食って元気を出せ」
「フグリに重大な攻撃を受けた後で食欲が出るとでも……」
腹の奥底に、ひどい下痢を我慢しているような激痛を感じながら利悟は呻いた。
そうしていると、奥から晃之介が大きな土鍋を持って靂が飯櫃、新助はお椀に影兵衛が勝手に酒を持ってやってきた。
今日は嫁である子興が絵師の会合で出かけているので、そういうときは晃之介の野趣に溢れた料理が弟子らに振る舞われて軽く引かれるのである。
さすがにフグリへのダメージは心配しているのか、晃之介が利悟に問いかけた。
「大丈夫か? 飯食う?」
「何その、飯を食べたら怪我と体力が回復するみたいな言葉……」
「あと酒がありゃ大抵治るだろ! よぉーし飲め飲め。金玉に酒をぶっかけてもいいんじゃね?」
「うちの酒を変なことに使わないでくれ」
言いながら、利悟の周りに思い思いに座った。
鍋を開けるとむわりとした獣臭で、子供二人は顔をしかめる。
「子鹿の煮込みだ。柔らかくて旨いぞ」
「鍋が赤々としてるんですけど!?」
「大丈夫だ。よく煮ているからな」
「そこはせめて赤味噌とか言ってほしかった!」
「骨ごと煮込むとどうしてもこうなるから仕方ない。さあ、腹いっぱい食え」
鍋は子鹿の太腿、ロース、肋肉に薄切りにした肝臓に心臓まで煮込んだものだった。味付けは塩気の濃い味噌で、蓬などの野草と生姜が無造作に突っ込まれて匂い消しにされているが、結構な獣の臭いだ。
あまり獣肉を食べ慣れていない子供には少しキツイ感じがした。
影兵衛は早速自分の椀に肉をドサドサと放り込みながら、
「いやー、兄ちゃん先生んところに勝負に来れなくなったから、これからは肉食いに来ようかな肉」
「前々から思っていたが図々しいな……」
「賞金付きの挑戦に何度も通うぐらいだからな……」
「かははは! 良いじゃねえか!」
「良くねえよ!」
九郎のツッコミを気にもせずに、鹿肉を噛み締めて酒で洗い流した。
子鹿だからか脂がさっぱりとしていて、成長した鹿が持つ唇に張り付いて固まるようなギトギトとした脂ではなく酒で綺麗に洗い流される。肉の繊維一つ一つも剥がれやすくて、軟骨も柔らかかった。
しょっぱいぐらいの濃い味噌の汁が酒を進めて、時折混じる生姜をかじるのも旨い。
「ううう……獣臭いけど、空腹で幾らでも食べれる……」
「ご飯おかわりお願いします……」
子供らは獣臭に若干怯みつつも、朝から暑い中で走ったり投げられまくって受け身の鍛錬をしたりひたすら木を登ったり降りたりさせられたので、塩味の強い肉と白い飯の誘惑に耐えきれずにバクバクと食べていた。
長喜丸だけは焼いた鹿の骨付き肉を手づかみで齧っていたが。
靂が飯を盛ってやりながら、むしろ同じ訓練をしているのに食欲薄めな様子で言う。
「ああ、そこの心臓は食べない方がいいからね。子供が食べたら倒れるから。九郎さんが食べたらどうですか」
「毒を勧めるな」
「薬ですよ。乾燥させたら」
「薬といえば……」
晃之介が鍋を漁って、中から棒状の物体を──
「長い長い!? なんだそれ!」
九郎がずるりと蛇のように出てきた何かを見て叫んだ。
なんと一尺ほども長さがある物体が鍋の底から出てきて、皆は一斉に目を剥いた。
「これでも短いものだぞ。子鹿だからな」
「いや、だからなにそれ」
「鹿のチンだ。チンを打ったのだから、これを食うと治りに良いぞ」
「チンコでっか!」
長喜丸と晃之介以外全員の声が重なった。細さは子供の指で輪を作った程の小ささだが、長さが凄まじい。
頷きながら晃之介は言う。
「これでも小さい方だ。成獣だと二尺(約60cm)になる鹿も居る。いつもは干して薬種問屋に売るのだが、利悟の怪我の為に食べるといい」
鹿の陰茎及び睾丸は[鹿鞭]という名称で有名な漢方薬の素材である。
また、角や骨、腱、血、作った膠なども薬の材料とされていて、上手く解体すればそれなりの値段で卸せる。
影兵衛は二尺の竿を想像して、信じられないように呻いた。
「二尺……まるで九郎のブツみてえだぜ」
「馬鹿者。さすがに二尺になるか! そんなもん突っ込んだら大変だろう! 石燕とか……」
※例え話である。
だが利悟が耳聡く食いついてきた。
「えっ!? ちょっとまって!? なにか聞き捨てならない──」
「さあ、食え!」
「らめぇ!」
利悟が口を開いた瞬間、彼の口に(鹿の)ペニスが突っ込まれた。まるでエロ小説だ。
味噌風味が海綿体に濃く染み込んでいるが、どこか萎びた草のような臭いがゴムに似た食感を噛みしめると感じられる独特のものだ。旨くはない。
「もごぉ……」
ほろりと利悟の目から涙がこぼれた。
息子の様子を見にやってきただけだと言うのに、息子を強打して鹿の息子を食わされている。
そんな状況に泣けてきたのである。
モゴモゴと口を動かす利悟に構うのは正太郎のみで、皆は多少同情しつつも鍋をぱくついていた。
*******
食事も終えて皆が休憩を取っていると、道場を尋ねる者が現れた。
「御免!」
よく通る声を発して道場に入ってきたのは、白い襷掛けにした袴姿をした姿勢の良い女武者であった。背中には槍術の鍛錬などに行う先端を皮で保護した棒と、腰には木剣を帯びていた。
その後ろから小袖を身に着けた5歳ほどの少女も、背中に隠れるようにして付いてきている。
武装した闖入者の登場に、晃之介が音もなく立ち上がってそちらを向くが相手の顔を見て驚く。
「貴女は……柳川藩のお進殿ではござらんか」
「お久しゅうございます、録山殿」
じっとやり取りを見ていた九郎が思い出すように手を打った。
そうすると、酒で顔を赤らめ始めている影兵衛が尋ねてくる。
「誰だありゃ?」
「確かずっと昔に、晃之介を倒そうとやってきた女武者だ。なんでも、腕自慢を鼻にかけて藩でも微妙に厄介がられていてな、当時柳川藩と関わりがあった晃之介が容赦なくしばき倒した」
「九郎。身も蓋もない説明は止せ」
晃之介が気まずそうに言う。
このお進という女は、己よりも強い相手を夫とすると公言していた程なので倒した晃之介に若干思うところがあったようなのだが……
晃之介がまず何処かの藩に仕官するよりも道場で六天流を教えねばならないことと、お進が貧乳だったのが彼の好みから大きく外れていたので話は無かったことになった。
それでも武芸者として思うことがあったのか、時折勝負を挑みに来たのだがここ数年は顔を出さなくなっていた。
「その後、息災だっただろうか」
風の噂ではお進は藩内の武士へ無事に嫁入りをしたと聞いたが、と晃之介は思いながら尋ねた。
そうなると後ろに居るのは彼女の娘だろうか。どことなく面影が似ている気はした。
「ええ、ご無沙汰をしておりました。ですが此度は──此度も昔を懐かしんだり、挨拶を交わしたりするために来たのではありません」
お進は後ろ手に持っていた木槍──女性だから薙刀だろうか、それを片手で振るって先端を晃之介に向けて、もう片方の手で腰の木剣を抜き放った。
片手に薙刀、片手に木剣という変わった──というか、余程膂力がないと難しいスタイルである。
「不躾ではありますが、御勝負をお願いします」
「ああ、勿論いつでも挑んで構わない──」
晃之介も不敵に笑って挑戦者を見る。
「ただ、挑戦料は一両だ。勝てば五両やるが」
「……」
「……」
「……お、お光。ちょっと家に取りに戻りますよ」
「いいから! 貸してやるから! 晃之介も流れをもっと考えろ!」
どうやら持ち合わせていなかったようで、娘に呼びかけて哀れそうな顔で帰ろうとするお進に九郎は小判を貸してやった。
「ではいざ!」
「ああ、そうだな。ではうちの弟子である靂と戦って貰おう」
「ええっ!? 僕ですか!?」
「道場破りというものはな、門下生から倒して道場主と戦うものだ」
嫌そうに叫ぶ靂に晃之介は威厳を出すように告げた。ただ、彼の顔は嫌味なところは無く面白そうにしている。
単純に賭け試合として行うのではなく、他流試合となれば靂は当然だが見ている幼少組の稽古にもなる。
お進も小さく笑みを浮かべて、
「私は構いませんよ。どうして、お弟子を倒せもせずに録山殿に挑めましょうか」
「ううう……」
靂はなんとも言えない顔をした。晃之介のところで稽古を受けているが、元来から暴力沙汰には強くない。同年代弟子のお八やお七に小唄はおろか、時折稽古に参加してくる歌麿にすら寝技を仕掛けられて負けることが多いぐらいだ。
それでも門下生として師匠の命令は絶対なので、靂は武器として長い棒を選んで試合場に赴く。
「こりゃ面白い見せものになってきたぜ」
影兵衛が胡座をかいて酒を口にしながら新助を隣に座らせて見物の格好を見せた。
正太郎も鹿チンをまる一本飲み込んで気分悪そうにしている利悟の隣で、兄弟子が試合を始めるのを見守っていた。
晃之介はキョロキョロと周りを見回して、
「長喜丸もよく見て……って何処に行ったんだ?」
「昼寝をしにいったぞ」
「……」
後継ぎ息子のやる気の無さに少し頭を抱えながら、審判として試合場へ立った。
お互いに長物を持っているので長い間合いを取って、勝負を始める。
靂は相手の木槍を見る。いつも自分らが鍛錬に使っている短槍と同じ一間一尺(2.1メートル)長さのもので、靂の獲物も同様であった。
(片手に木剣を持ってるけど……長物同士の間合いで戦えば、両手で構えているこちらが有利)
靂はそう冷静に分析する。槍を片手で振るうのは並の鍛え方では難しい。それこそ騎馬武者が主流だった時代の戦い方だ。とても女性が自在に扱えるとは思えない。
槍同士を絡ませ、巻き上げて弾き飛ばして制圧する。靂は槍の中ほどを持って、相手の槍の間合いに静かに侵入した。
押さえつけようと槍を振るうと、するりとお進の持つ槍は靂の攻撃をすり抜けて穂先が天井を向いた。
「ふっ!」
吐息が聞こえたと同時に靂は攻撃か回避かを選択させられた。真上から槍が叩きつける軌道で襲ってくるのだ。
攻撃に転じれば自分に当たる前に相手を突いて止められるかもしれないが、お進は左手で構えた木剣を油断なく構えながら片手で柄の先を持った槍を振り上げていた。
攻撃を仕掛けても木剣で阻まれた瞬間に脳天に打ち下ろされる。そう判断した靂は姿勢を低くしながら床を蹴って真横に滑った。
槍が床を叩く。手が痺れたところに攻撃を仕掛けようと靂が狙うが、お進は下段にある槍を無理やり蹴飛ばして朔り、下段から横に払って身を低くした靂へと殴りつける。
慌てて靂は槍の柄でそれを受け止める。幾らなんでも、女の力で振るった攻撃ならば吹き飛ばされずに受けられる。そう思ったのだが、槍を受け止めた柄に異様に軽い衝撃が来た。
(軽!? しまっ)
靂は相手の攻撃を悟る。六天流でよく行われる、攻撃や防御の際に武器を手放して相手の拍子を外し、攻撃を加える[捨侠]である。複数の武器を持っていること前提な六天流の技だ。
相手が他流だと思って油断していた……とは言い訳にもならない。お進は他流の者だが、六天流と幾度と試合を行って研究しているのだ。
一歩踏み込んできたお進の木剣を受け止めようとするが、寸止めで柄を持った靂の腕に剣が触れられた。
「それまで。今ので腕を切り落とされたぞ、靂」
「……参りました」
「今のように、防御が出来る間合いというものは同時に防御するために構えた腕が切られる間合いでもある。自分に刃が近づくよりも先の位置で防御を行うか、いっそ武器を手放して逃げるのも判断のうちだ。よく考えておくように」
「はい……」
項垂れて首を振る靂である。攻めの武術である六天流なのに、相手の動きに対応ばかりしてしまい負けた。
元よりつい相手を観察して考えてしまう気質があるのが靂なので、初めて戦う相手となれば慎重にもなったのだろう。
「以前よりも強くなったな、お進殿」
「母は強しといったところでしょうか」
ちらり、と彼女は自分の後ろで正座をして見ている娘のお光を見やった。
晃之介も頷いて、木槍に木剣を手にして構えた。
「いざ、尋常に──」
「あ、録山殿。お弟子とはいえ勝ちは勝ち。五両頂きます」
「……」
「……うふふ、お返しです」
すごすごと晃之介は道場の奥へと行き、五両分の小判を持ってきて彼女に渡した。
影兵衛がそれを見ながら呟いた。
「しかし九郎。拙者が挑んでたときは賞金三両ぐらいだったんだが」
「お主が来なくなったから客寄せに値上げしたのだろうよ」
「ちぇっ」
そうして、晃之介とお進の試合が始まった。お互いに武器は同じ木剣と木槍。向かい合い、睨み合って間合いを測った。
今度はお進が槍の中ほどを片手で持ち、腕のみではなく、腰や肘を使って構えながら左手の木剣を油断なく向けている。
男が動いた。持っている槍を真っ直ぐに突き掛かる。重たい一撃は正中線上に正確に走り、軽く逸らした程度では体に当たるだろう。
動きを止めずにお進は相手の右側へと円を描くように移動しながら槍を己の刀で弾く。それだけでも相当の力を込めねばならない粘りの篭った攻撃であった。
だが受けられた晃之介も、防御の一撃に感じる力強さに感心する。
(やはり、来た時からわかっていたが相当に練り上げられている)
妻や母をしながらの稽古は大変だっただろうが、確実に数年前よりも腕を上げているようだった。
晃之介は槍を弾かれたまま持ち手を柄の先にして槍の間合いを伸ばし、横薙ぎに振るう。今度はお進は己の槍の石突で受けながら体を屈めて上へと逸らした。
逸らされた槍を中空で止め、打ち下ろす動きで再度攻撃に変化させると絶妙に間合いを遠ざけられ、お進の鼻先を通過して避けられた。攻撃を二度受けることでそれを読んだのだ。ここまでで一呼吸の間であった。
晃之介が間合いを詰めて剣の間合いに持ち込もうとしたら、今度はお進は背後へ跳躍しながら迎撃に槍を伸ばして追撃を阻んだ。
晃之介とてまだ本気ではない。その気になれば軽功を使って一気に飛び上がり距離を縮めることもできるが、真剣勝負であると同時に試合でもあるので相手の出方を読む。
槍を短く持ったお進では攻撃が出来ず、長く持った晃之介からの攻撃を一方的に受ける間合いを保つのは何か意味があるはずだ。
戦いの経験も、筋力も、速度も、あらゆるものがお進は晃之介に勝てない。だが、何も勝つ算段が無くて挑んできているとは思えなかった。
お進の方も僅かな打ち合いで、まともに相手をしていたらあと十合の打ち合いも持たないと悟ったのだろう。
「──!」
お進は間合いを測り、上向きに木剣を放り投げた。高い放物線を描いてその剣は晃之介へと落ちていく。
同時に槍を構えて前に出た。
(動かずに槍を対処すれば上から落ちてくる剣に当たり、剣を避ければその瞬間に槍で突いてくる……というアレか!)
見ている九郎が拳を握って心の中で解説をする。口に出していては、喋り切るより前に勝負が終わるだろう。
投げたのは木剣で殺傷能力は低いが、あくまで試合なので怪我の有無ではないのだ。
(なるほど……後ろに逃げられる弱点を間合いの長い槍で補っているっつーわけだな)
(心の中の解説に語りかけるな)
影兵衛の心の声が聞こえた気がして九郎も胸中でツッコミを入れた。
しかしこの戦法を受けるのは、槍と剣という二種の間合いを持つ装備をした晃之介だ。
すぐさま、槍で落ちてくる刀を薙いでから剣で迎撃するという対処法が浮かんだ。正確にお進の前からの攻撃に合わせて落ちてくるのならば、木剣の位置は見ずともわかる。
晃之介は上を向きもせずに槍を払った。しかし、手応えが無い。
(あれは! 木剣の落ちてくる軌道が変わった!?)
(木剣の柄に天蚕糸を結んで引っ張ったんだ! ついでにすぐに天蚕糸から手を離したおかげで、腕が逆に引っ張られずに済んでる!)
微妙にずれた木剣に空振りしたせいで僅かに生まれた隙にお進は容赦なく突きを入れた。
まっすぐに、体の中心に力を集中させて石をも穿つような速度での直突きだ。空気の壁をぶち抜く、ご、と言った音が鳴る。躊躇いのない全力の一撃でなければこうはいかない。
緩やかにだが軌道を変えて迫る頭上の剣と最大まで加速させた槍の一撃の緩急が迫る技。
必殺剣[落ち葉突き]。
それがお進の編み出した攻撃であった。
「鋭ッ!!」
「応!!」
晃之介が木剣で受け止めるには、まっすぐに突き進む槍に勢いが付きすぎている。
咄嗟に手首だけの動きで武器を上に投げて両手を開け、槍へと正面から立ち向かった。落ちてくる木剣が投げた武器と当って弾かれる音がする。
次の瞬間に、お進は空中を舞っていた。
不可視の巨人に掴まれたように浮いて──落下していく。床では晃之介がお進の槍を手にしていた。
「槍で伸びたお進の当たり判定を投げたのか……?」
九郎が唖然と言うが、お進の方も空中で体勢を立て直し、受け身を取って道場の床に落ちた。
そして彼女は天井を見上げたまま、ほっとしたように呟く。
「またしても私の負けですね」
「いや、見事だった。特に最後の突きは危なかった。鍛え上げて、一心を込めた良い突きだった」
「そうですか……」
お進は晴れやかに笑って、繰り返した。
「──そうですね」
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お進という女は既に二児の母親らしい。
長男は後継ぎとして、長女のお光にはできれば武芸を身につけて欲しかったという。
ただ性格が少しばかりおっとりとしているので乗り気にはなれなかったようだ。
それは仕方がないことだと、お進も諦めていた。武家の女が身につけるべきことは他に幾らでもあり、武芸はそれに含まれないものだ。
だが、それでも。
たった一度ぐらいは、母親はこれだけ武芸に憧れていたという姿を見せてやりたかった。
だから晃之介と戦うためにこうしてお光を連れてやってきたのである。
「色々と、ありがとうございました。何か吹っ切れたような気もします」
「いや……お進殿。貴女の強さは確かだった。並の一流剣術使いよりも優れているだろう。だから、胸を張れ」
「はい……!」
「それと……うちの道場は何日かに一度の通いでも門下生を取っている。興味があるなら、お光ちゃんも来なさい」
言うと、迷うようにお光はぺこりと頭を下げて母と並んで帰っていくのであった。
それを見送りながら九郎は言う。
「……あまり女の子にお勧めの流派ではないのだが。ここ」
「そうか? お八は頑張ってたじゃないか」
「血尿とか出たりしてたのは頑張りすぎだ」
「さて。それじゃあ鍛錬の続きだ。靂は負けた罰として、反撃せずに二人から打ちかかられるのを避け続けること」
「それってただの集団暴行ですよね!?」
「時々俺も矢を撃つからな」
「処刑になってる!」
と、賑やかに危険な稽古を始めるのを見て九郎はなんとも言えない顔でため息をついた。
誰かとの夢だった菓子屋を今になって九郎が始めているように。
道場を持つことが夢だった晃之介はこうして門下生を鍛えて、毎日とても充実しているようだ。
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その夜。八丁堀の菅山家にて。
「旦那さま。正太郎の話によると、フグリを強打されたとか」
「あ、ああ……」
「まあ、大変です。瑞葉がさすってあげましょう」
「いや待てちょっと待って今日は少し具合がああああああ!」
「……まあ」
※鹿鞭の薬効[勃起不全の解消][精力増強][不妊治療]




