57話『慶喜屋の景気の話』
「思ったよりデカイシノギだのう……」
九郎はその日、攫われてから戻ってきてようやく置物店主として店の様子を眺めながらそう呟いた。
秩父山中へ攫われていた九郎は知らぬことだったが、店の方は事前の宣伝もあり開店からここ三日ほど大繁盛していたという。
今日も家族総出な上に、晃之介のところから子興も呼んできて手伝いを頼んでいた。持ち帰りで買う客の対応、店内で食べる客への配膳、そして絶え間ない調理と忙しそうだ。
九郎の隣に座っている石燕が得意げに告げる。彼女は
「砂糖に小麦粉、卵も切れて大慌てで発注することもあったよ。特に卵の生産者である甚八丸くんは、そんなに百も二百もいきなり注文が来るとは思ってもみなかったので他の鶏を飼っている農家から集めて持ってきていたとも」
「そうか……若干見通しが甘くて迷惑を掛けたのう」
「まあ、売れたらその分だけ彼も儲かるからね。烏骨鶏の数を大幅に増やす計画を立てていたよ」
「ならいいのだが」
「ふふふ、江戸で鶏は『金を生む』と言われているぐらいだからね。案外彼は長者にでもなるかもしれないね」
烏骨鶏の卵は一つ10文(200円)として、卵の生産量は一匹当たり年80個ほどだ。つまり年16000円の収益が出る。(餌代を除く)
これをざっと百羽育成するとしたら160万円(20両)の儲け、二百羽で320万円(40両)とそこらの侍の年収を越えていく。
おまけに餌に使うものは、甚八丸がかなりの農地を管理しているのでそこで栽培した米の糠や野菜くず、害虫などを与える自給自足なのでリーズナブルになっている。
少なくとも九郎の店があるだけ買い取ってくれる限りは増やし得をする事業であるようだ。
九郎は茶を啜りながら石燕に尋ねた。
「ちなみにどれ位売れたのだ? 銭が大量にあったのは見ているが……」
金勘定の管理は九郎よりも豊房が得意なので任せている。利益率などを計算するのは九郎が行うのだが、実際の出入りに関しては大雑把に扱ってしまうのである。
例えば九郎が六科の店に居た頃もたまには六科と酒でも飲みに行こうと、売り上げを保管している引き出しを開けて適当に金を掴んで出かけようとしたら六科共々豊房にハリセンでぶっ叩かれたこともある。
絵面は完全に居候先の金を盗むヒモだったので大層バツが悪かった。
石燕は指折り数えて、
「ふむ。正確な数は記憶していない……帳簿には付けていると思うがね、だが確か15両ほどにもなったのではなかったかな。色んなところからまとめ買いの注文があったからね。番台を任せていた元小間物売りの南無小太郎が目を回していたはずだが」
とりあえず元遊女で嫁にやった者を従業員に、その旦那で商売経験がある忍びの南無小太郎を番頭に雇って店を回させている。きちんとした店舗の番頭などは初めての経験だった南無小太郎だが、相州乱破・風魔一党の末裔な彼は覚えも早くて役に立っている。
九郎の家族らは殆ど本業があるので、一時的に店を手伝っているがやがて全て任せることになる予定であった。サツ子やお八などは神楽坂の屋敷の家事にも忙しいし、夕鶴もふりかけを売り歩く仕事がある。
「15両(120万円)か……三日の売り上げでそれは、中々なのではないか?」
従業員を多数雇っているとしても十分に儲けが出ている計算である。それだけ売れれば材料も足りなくなるというものだ。
「菓子屋にしては驚異的だと思うよ。さすがに単価が違う商品を扱っているから勝てないが、幕府御用達であり江戸で一番の呉服商店である三井越後屋の売り上げは一日で150両から多いときは600両だと言われているが、その三十分の一ぐらいでも十分ではないか」
「600両(4800万円)……」
「ちなみに魚河岸の総売上が一日1000両だと言われている」
「儲け過ぎだのう。想像の付かん店だ」
一店舗で魚河岸全体の六割ほども儲けるのはまさに目も眩むような大手の店であった。
なお余談だが、三井越後屋の流れを組む三井グループが関わる商店として、現代日本に存在する三越伊勢丹の新宿店は一日で約7億円売り上げていると言われている。
ちなみに庶民的な仕事の収入として、大工が日当で銀6匁(8000円)、棒手振りが200文かひたすらストイックに一日何度も仕入れと販売をして500文(4000円~1万円)ぐらいのものだろう。
「まあ、この店も安定して日に3両ほど売れるとして、月に普通の商店は二日休みなので27日営業日とすれば月あたり81両の稼ぎ、年間で約972両(7776万円)もの売り上げになるではないか」
「おお、一気に高収入だのう。これならまともに働かんでも店を任せるだけで家族を養える」
「そこでまともに店の主人として働こうという考えが出ないあたりが素敵だね」
「うむ。あんまり責任ある立場にあると遊び歩けな……家族とのんびり出来ぬからのう」
「本音! 本音が出てるよ!」
たまに働くのは構わないのだが、一生店で働くというのは気分的にしんどい九郎であった。
「あとお上の仕事手伝いとか、依頼とかで出かける必要があるしのう。この前みたく突然数日空けたりすることもあるかもしれんし」
「九郎くんって結構安定から程遠い生き方しているよね……」
呆れたように石燕が見上げて告げてくるのだが、
「そんなことは……」
九郎が一瞬言葉に詰まった。
中学生時分からヤクザの事務所でバイトを初めて、色々となんか危ない副業も紹介されて金のためにこなしてきた。
高卒でその系列のチンピラがやるような仕事を転々としながら金を稼いでいると、がさ入れでマズイ事になったのでほとぼりが冷めるまで逃亡。
逃亡先の債務者がやたら乗っているような怪しいカニ漁船から落ちて異世界へ。
そこで傭兵になって殺し合いとか経験しまくり、ようやく定職である役人になった。
なのだが十年そこそこで仕事を辞めて旅に出たりして、その後再就職。
したというのに魔女と共に逃亡生活スタート。根無し草のそれは十年にも及んだ。
ようやく魔王城でダラダラした生活を送っていたら突然の襲撃を受けて一人江戸にふっ飛ばされて、その後も変態と犯罪者が跋扈する江戸で過ごしている。
「なんだろうか……平穏って難しいな石燕」
「九郎くんの場合平穏の障害が高速で突っ込んで来るのは仕方ないとして、それに対して九郎くんも頭から突っ込んでいってるフシがあるけれどね」
「むう」
九郎は呻いたが、面倒臭げに首を振る。それを面白そうに石燕は含み笑いをこぼした。
もし彼が平穏な暮らしを続けていたならば、きっと彼女は普通に絶望のうちに病死してそのままだっただろうから、石燕として感謝しているのだ。
「話を戻すが、とにかくこの店が安定して続けば少なくとも稼ぎの上では問題無くなるな」
「そうだね。店を任せる以上、番頭の南無小太郎くんにはそれなりの給金を渡すべきだと思うよ」
「どれぐらいが相場なのだ?」
「年に20両(160万円)から30両(240万円)ぐらいが番頭の給与平均ぐらいだね。店に住ませる以上、家賃を差っ引いた額だが」
「なるほど」
この店の従業員は長屋から通いでやってくる女と、夫ごと店の空き部屋を間借りして住み込みになった者が居る。
間借りして住み込んでいる夫の方も嫁が心配なのでやってきたのだが職人などの仕事を抜けられないので、店ではなく外で働いている者も居た。
「店に住む者の給金からは家賃を差っ引いて、通いの者にはその分多めにしておくといいよ」
「この収入なら家賃を取らんでもいい気はするがのう」
「いやいや、あくまで雇用主と雇われの関係というのを忘れないようにしないとね。店を乗っ取られたりしたくないだろう」
「そういうものか」
「それに遊女の皆も、したたかなものでね。順番で店内席の配膳係を回していっているのだが、そこで愛想を見せて小遣いを客から貰っているのだよ。さすが元々本職だけあって、上手いものだ。それで九郎くんが支払う給金よりも随分と稼いでいるのだから気にすることはないよ」
いわゆる、茶屋の看板娘のようなことを皆でやっているという。
年の頃は二十代が多い上に吉原でしっかり教育を受け、自分の見せ方も学んでいるので客に媚びを売って儲けるなど容易いものであるようだった。
むしろ楼主に召し上げられるでもなくダイレクトに自分の懐に金が入るので稼ぎ甲斐がある。
「ふむ……まあ、やり過ぎて定額の代金しか払わぬ客に無愛想を見せたり、お持ち帰りで稼いだりせんように言っておかねばな」
「そうだね。九郎くんが仲人をした夫婦なのに、自分のところの商売で浮気でもされたら面目が無いけど……彼女らもヤクザの親分に唾を吐くような真似はしないと思うよ!」
「己れの扱い、ヤクザの親分なのか……」
「なあに、多少は誇張されて評判が広まったほうが余計な悶着が避けていくというものだよ」
九郎が落ち込んだように肩を落とした。
暫く九郎は茶を啜りながら、石燕と隣り合って座り店を眺める。
入れ替わり立ち代わりで客が店頭で品物を購入していき、座敷に上がっている者が去っては次の客が上がる。座敷の客は武士か、身なりの良い町人が多かった。味をとりあえず店内で試してから買って帰るか決めるためだろうか。或いは江戸の一般的な町人らはせっかち者が多いので、菓子と茶のために座敷まで上がったりしないのかもしれない。
主に調理面はスフィと将翁が監督して教えており、豊房が番頭に簿記やら仕入れの管理やらを紙に手順書を記して説明していた。店頭と店先の壁には慶喜の種類と値段、解説に挿絵が描かれた紙が貼り付けてあり、客はそれを選んで注文するようにしている。それによって、どのような菓子なのかという説明を店員がする手間を省き効率化しているのだ。
サツ子とお八は屋敷の管理、夕鶴はふりかけ売り、阿子は伯太郎の飼っている犬の世話手伝いへと向かっているのだろう。交代でそれぞれが休みを取ったり、別の仕事をしたりしている形だ。
「こうしておると、皆が働いておる中でゆっくり座っておるのはなんというか居心地が悪いものを感じるのう」
「店の主人がせかせかと働いてどうするんだね。悠々と構えていたまえ」
「酒とか飲んで構えておくか」
「昼酒を飲みながら構える主人も居ないよ!」
九郎の急須に茶を注いでやりながら石燕は云う。
彼の着物などからこの店の主人であるということはわかるのだが、やってくる客などは存外に若い九郎の姿に意外に思う者も多かった。隣に座っている幼女は娘だと完全に思われているが。
「少しの間の我慢だよ。店を開けたばかりで主人が居ないというので、先日挨拶に来た人達がすごすごと帰ったのだからね」
「ううむ。慣れぬのう。おまけに暑い」
九郎の屋敷の方は冷房完備なのだが、さすがに基本的に外部の者ばかりになるこの店で術符を大々的に使うわけにもいかない。
自分の背中にだけ貼り付けて一人冷房をしてひんやり過ごすことも可能なのだが、嫁に妾が汗を流しながら働いているのを見つつ一人だけ涼むのはさすがに気が引けた。
一応キンキンに冷えた水は水瓶に張っているので、冷茶などを飲んでいるのだが。
「終わったらお風呂で背中を流してあげようではないか」
「そうだのう。風呂上がりに冷酒と枝豆、鰹節をたっぷり載せた冷奴」
「私もお酒飲みたいー……」
「お主はもうちょっと大きくなったらな」
不満そうに口を尖らせている幼女の頭を撫でていると、来客があった。
店内に恰幅の良い体を揺らしながら入ってきて、外の猛暑から汗をしきりに拭っている商人風の身なりをした男は鹿屋黒右衛門である。
それに気づいて九郎は腰を上げて彼に近づいた。
「おお、黒右衛門。いらっしゃい」
「九郎殿、この度はおめでとうございます。あ、追加の芋菓子と芋も持って参りました」
彼の背後から芋のキグルミを着たマスコットが、薩摩芋の入った樽を軽々と担ぎ上げて搬入していく。
「商品の仕入れなら店主のお主が来んでも良かったのに」
「いえいえ、いつも九郎殿の方からうちの店へ来て頂いているのにどうして私が足を運ぶのを惜しみましょうか」
「ま、とにかく上がって茶でも飲んでいけ」
いつもは九郎が鹿屋に上がる側なのだが、と苦笑しながら黒右衛門を座敷にあげて、冷茶を出した。
口の中が痛むぐらいに冷えた茶を黒右衛門は一気に喉を鳴らして飲み干し、二杯もおかわりをする。
石燕が店の奥に行って茶のおかわりと茶請け菓子を持って帰ってきた。
「さあ、どうぞ」
「おや? これは茹でた芋の切り身ですかな?」
「まあ食ってみよ」
進められるがままに一口サイズに切られた芋を口にすると、黒右衛門はまぶたを閉じて震えた。
「く、九郎殿……芋の菓子はこちらに任せると云ったのに……」
「いやそれは材料用に下ごしらえをしただけのものだから。スフィが」
黒右衛門が口にした芋は普段口にするものと比べ物にならない程に、
「甘い……」
のである。黒右衛門は咀嚼しながらそう呟いた。
江戸当時の食生活からすれば薩摩藩から普及している薩摩芋も甘くてほっこりしていて旨いのだが、恐らく現代人が想像し普段口にする薩摩芋に比べれば甘さは少ない。現代で食べられている物は品種改良が行われているからだ。
それでもそのまま食う分には江戸でも大いに流行る要素があるが、小麦粉を練って焼いたパン系のものに混ぜるには甘さが足りないと思ったスフィと石燕が考えて一手間加えたのである。
両者とも菓子作りのスキルは家族の中でも高く、経験のスフィと知識の石燕で二人が試行錯誤して店に出す菓子をヒットさせようと努力しているのだ。
「茹でた芋を、砂糖水に塩を混ぜた液に漬け込んだのだよ。そうすることで足りない甘さを直接的に補い、塩気でそれを引き立てると同時に柔らかくする」
石燕の得意げな解説を聞いて、黒右衛門は泣きそうな顔で俯いた。
「九郎殿がうちを芋商戦で潰そうとしてくる……」
「いや、しておらんから」
「でもなんか芋を練った謎の釣り餌をこっそり販売していると聞きますし……」
「『ねったぼ』か……特定の相手にしか売っておらんが、話が出回っておるのか……」
特定の相手というのが釣り好き旗本の津軽政兕なのだが、彼から来る注文が結構纏まった量なので恐らく人に配っているのだろう。
江戸では有史以来使われてなかった薩摩芋を混ぜ込んだ餌というものを使うことで、実際によく釣れているようだ。
九郎は落ち込む取引先の大手に対して、面倒そうに頭を掻いた。
「わかったわかった。この芋の味付けも、練り芋の釣り餌もそっちの店で出しても構わん」
「おおっ九郎殿……!」
「その代わり、うちの菓子をあちこちに宣伝しておいてくれよ」
「勿論でございます!」
九郎のようにぽっと出の店ではなく、前々から日本橋に大店を構えていて藩御用達でもある鹿屋は大きな伝手を持っている。
特に大店同士の繋がりは九郎は殆ど無いので、会合などでここの菓子を紹介されれば知名度が上がる。町名主の使う菓子代が結構な金額という話もあるが、個人消費よりもそういった見栄を張り合う金持ち同士の茶会などでの儲けは馬鹿にならない。
九郎は新商品を、鹿屋は原材料と宣伝を、互いに持ちつ持たれつ提携してやっていくようだ。
「ところで九郎殿。うちの若い衆を用心棒には」
「すまん。間に合っている」
「今か今かと待ちかねて、毎日うちの店で叫んでるのですが……」
「すまん」
*********
黒右衛門が去って暫くしていると町奉行所同心見廻り組の利悟と伯太郎が顔を出しに来た。
この二人は見た目だけは良くて八丁堀小銀杏に髪を結った若くていなせなナイスガイの侍に見えなくもないが、実際のところナイス害の稚児趣味である。
「やあ九郎。ちょっと顔出しに来たよ」
「婆様居ます?」
「お主ら仕事中だろうに……」
九郎は呆れながらも座敷に上がらせて茶を出させた。
「いやあ、今は月番じゃないから事務仕事中なんだけど」
「知人──というか爺様が菓子屋を出したという話題を奉行所で出したら、試しに茶請けに買ってこいと奉行様から申し付けられて」
奉行所は月ごとに南町と北町にあるそれぞれが役目を入れ替わる。同心を見廻りさせたり訴訟を受けたりするのが月番であり、そうでない方は前月分の事務仕事を纏めて処理するのである。
案外に九郎の名前は町奉行所にも知られている。利悟が名物同心としていじられている中で、彼に手柄を取らせている手下であり火付盗賊改方でも使われているというので何かと有名なのだ。
「そうか……ってなんだ爺様て」
九郎が伯太郎に聞き返すと、彼は目を輝かせてうなずき、
「阿子ちゃんとか紹介してくれたありがたい御方なので敬意を払おうかと!」
一人だけ少女を紹介されて喜んでいる稚児趣味仲間に利悟は殺意の篭った視線を送りながら九郎に云う。
「九郎。こいつに年増でだらしない体の昔の石燕先生みたいなの押し付けてやって」
「誰がだらしないのだねー!」
「幼女に殴られる……! これも良し……!」
年増代表として前ボディを引き合いに出された石燕が利悟の頬を張るが、喜んで受けた。気持ちが悪い笑みを浮かべて。
「まったく。だらしないなどと云うでない。いや、確かに抱き心地は見た目よりもぶにょっておったが……」
「わー! わー! わー!」
顔を真っ赤にして石燕が騒ぐので九郎は真顔で付け加えた。
「……ちなみに非性的な意味でだぞ?」
「聞いてないよ!」
同時に二人から突っ込みを入れられた。
とりあえず咳払いをして、
「それで菓子を買っていこうと思うんだけど、予算があってあんまり高いのは買えないんだ」
「ほう」
「それとは別に石燕ちゃんとかスフィちゃんが手捏ねした菓子とかあれば自費で購入していくけど」
「あ、こっちも同じく」
「気持ち悪いわ」
「知ってる? 少女が手作りしたお菓子って何にも勝る美味しさがあるんだよ?」
「……」
馬糞とか混ぜたの売ってなかったかな、と九郎は考え始める。
そうしていると、店の入り口から狐面の少女が入ってきた。阿子がやってきたのだ。
「おや? これはこれはおふた方。ご来店ありがとうございます、ぜ?」
「阿子ちゃん!」
「ハモるなキモい」
座敷に上がって九郎達の元へと近づいてくる。
そして九郎の肩に手を当てながら隣に座り、小首を傾けながら伯太郎に告げた。
「今日はノミも取れるぐらい目の細かい櫛で毛づくろいをしてきましたぜ。生え変わりでボサボサとしておりましたから」
「ありがとう! 犬も喜んで──」
「おや? 阿子のインモーの話かね!?」
「ぐへぁーっ!!」
唐突に伯太郎が血を吐いて倒れた。ちなみにストレスで歯茎から出血したので重体ではない。
そして涙を流しながら目を血走らせ、石燕の両肩を掴んで強く主張する。
「犬の! 犬の話だよ! 阿子ちゃんはインモーなんか生えない!」
「もう阿子も十三ぐらいだろう。普通の女ならば生えていてもおかしくは」
「うう~っ! 心臓がー!」
「やめるんだ石燕ちゃん! その言葉は虚無だ!」
同じく動揺しながら汗をダラダラと掻きまくる利悟である。
彼の場合は現在妻になっている幼馴染がおり、小さい頃から風呂なども一緒に入りに行っていたのである日の変化に気づいて酷くショックを受けた経験からまだダメージを抑えられているが、トラウマにより目が泳いでいる。
阿子が袖元からごそごそと櫛を取り出して伯太郎に見せた。
「ちなみにこれがその梳いた櫛ですが……」
ぴくり、と倒れていた伯太郎が動く。
阿子は邪悪に口を吊り上げる笑みを浮かべて囁く。
「さて、犬を梳いたか、何を梳いたか……どう思います?」
そう尋ねると伯太郎はしばし逡巡して──阿子の出した櫛を受け取って自分の懐に納めた。
それを見ていた利悟が信じられないように叫ぶ。
「は、伯太郎ぉ──っ! お前っ!」
「違っこれは犬用に借りるだけで決して忌々しいインモーとは関係なく──!」
「その櫛は厄物だぞ! 伊邪那岐が黄泉の国から逃げる際に醜女に投げつけた櫛の如く──!」
糾弾と言い訳を始める二人を見て阿子は腹を抱えながら「くっくっく」と堪えた笑い声を出していた。
すっかり相手を惑わすのが板に付いている。
「やかましい。昼間っから人の店で陰毛がどうとかで騒ぐな馬鹿者」
「せやかて九郎!」
「関西弁になるな」
半眼で睨みながら九郎は同心二人を落ち着かせる。
すると奥から茶菓子と急須のおかわりを持ってスフィがやってきた。
「んー? どうしたんじゃー? おお、伯太郎の坊に利坊かえ。買い物かのー?」
「スフィちゃん!」
「婆様!」
二人は憧れの永遠少女に顔を向けて、咄嗟に聞いた。
「スフィちゃんは──」
「生え……」
その二人の肩に、九郎の手が万力のように食い込んでいる。
「ん? なんだ? うちのスフィに汚らわしい質問をするつもりじゃなかろうな?」
「い、いやあ……」
「その、婆様のお勧めの菓子はどれかなーって?」
ミシミシと軋む肩骨の激痛に脂汗を浮かべながら二人は取り繕ってそう応えた。
相変わらずスフィのことになると過保護に近い親分の逆鱗に触れぬように話を戻す。
「お勧めのー? ちょっと待っておれ」
と、スフィはそこに茶菓子と茶を置いて、トテトテと番台へと向かっていった。
そこで在庫が多くて利益率の良い菓子を確認して戻ってくる。
「この砂糖漬けにした細切り芋を混ぜた[芋慶喜]がお勧めじゃよー。材料も丁度仕入れたしのー」
「なるほど! じゃあそれを……幾つ買えるかな……」
利悟が計算し始めたのを見て、石燕の目が悪戯っぽく光った。
そして利悟の袖を引きながら作った声を上げる。
「お兄ちゃん、これ石燕が作ったの! 沢山買ってね!」
「……スッ」
「自分の財布ごと渡してきおった!」
それに続いて阿子が笑いながら茶請けにも出ている芋慶喜を切って楊枝に刺す。
「伯太郎殿? ほら、試しに一口どうぞ。楊枝で食べさせてあげますぜ」
「……サッ」
「こやつも財布投げた! ちょろいな!」
やっていることは茶店の方で配膳の女らに銭を投げているのとそう変わらないのだが。
二人はとても満足そうであった。
「ま、少しはオマケしておいてやろうかの。のー? クロー?」
「仕方ないのう。大岡越前によろしくな」
とりあえず利悟と伯太郎が差し出した自費含む予算金の分の菓子を包んでやって、二人はなんとなく夢心地になったように奉行所へ戻っていった。
「くくく、なんというかああも分かりやすいと、からかい甲斐があるというもので」
「……私など二十代の頃の彼らからの扱いは、触れると危険な年増扱いだったのだが」
「二十代?」
「二十代!」
九郎の疑問の声に石燕が厳しく返した。
「それにしても外は暑かったですぜ」
阿子が着物をパタパタと仰がせながら、細い首元に浮かぶ汗を布で拭った。
「風の通らぬ店内もそうだがのう」
「私なんぞ、竈を扱っておる厨房におるから余計にじゃ。クロー、厨房の水瓶に水を足しておいておくれ。ガブガブ飲まねばやっておれんぞ」
「わかった」
「屋敷に戻ったら九郎くんとお風呂に入ろうと話していたのだが」
「そりゃあいい。あたしもご同伴しましょうか」
「九郎くんももうちょっと小さくなれば四人でも入れるだろう。スフィくんもどうだね」
「うみゅ」
そう言われてスフィは腕を組んで考え始めた。
そして深刻そうな顔で云う。
「……気がついたのじゃが、クローに連れてこられて同じ屋敷で暮らして一年──いや、私の家である教会で暮らしていた分も含めばここ五年も同じ家で住んでおるのじゃが」
「じゃが?」
「一度も一緒に入るどころか、直接的に風呂関係のラッキースケベが発生したことがない」
「……」
「……」
割りと普通に九郎と風呂に入ったりする石燕や阿子は何か鎮痛な行き違いを感じて頭を抱えた。
照れたように九郎が苦笑いを浮かべる。
「……いや、なんかスフィとはちょっと恥ずかしいというか」
「ええい、やかましいのじゃ。今日入るのじゃよ! 四人で!」
「マジか……」
「安心せい。クローの裸はノゾキで見た覚えがあるから問題ない!」
「問題が大いにある気がしてならないんだが……ん?」
九郎が視線を上げると、店の入り口から顔を半分だけ出して凄い形相をした利悟と伯太郎が九郎を睨んでいた。
既に店を出てかなり離れていたのだが稚児趣味イヤー地獄耳で何やら聞き逃せない内容に戻ってきたのだろう。
とりあえず九郎はさっき鹿屋が連れてきていた薩摩人数名が座敷に上がって茶を飲んでいたので、彼らに頼んで無理やり引っ張って行かせるのであった。
「ちょっと!? 薩摩の人!? 何するんだ!」
「貴様わっかこっからあげん女子んこっばかし見ちょっけん気が緩んじょるッッ!!」
「い、いやあれは僕の婆様を見ていたみたいな……」
「ぬしゃわがばさんどんを見っちあぎゃん目付きしよっとかッッ!!」
「こげんおかしか話はなかッッ! 女々しかばっけんおなごンきもン着せっ可愛がっちゃるッッ!!」
「なんか凄くマズイ気がする──!! 伯太郎逃げるぞー!」
「超力強くて抜けられないー!!」
身の危険を感じた彼らの行方はどうなったか、九郎は気にしないようにして目を瞑った。
*********
それから暫くして今度は影兵衛が外行きの格好で顔を出してきた。
「よう九郎! 大変だ! 殺しだ! 惨殺事件だ!」
「店に入ってきて大声で云うことか!」
「冗談だよ、冗談」
「冗談ではないとはこのことだ」
ケラケラと笑って影兵衛は履物を履いたまま土間に腰掛けた。
「ところで景気はどうよ? あ、これこの店の慶喜と掛けてるんだけど」
「微妙な洒落だな……まあ、ぼちぼち売れておるぞ。お主も買っていくのか?」
「そうだな。ちょいとあの先生のところに顔を出しに行くんで、土産をな」
「ああ、晃之介のところか」
影兵衛の息子、新助が通っている六天流の道場のことである。
まだ六、七歳程なのだが父親に似ずに利発で真面目そうな少年で、過酷な晃之介の鍛錬にほぼ毎日通っているらしい。
影兵衛も気にしているのだが、
「こう……九郎から菓子を渡されたもんで、拙者ァそんなに食わねえからおすそ分けにたまたま寄るみたいな感じでよう」
「普通に見に行ってやれよ……」
「色々あんだよ。つーか、地味ーにあの先生のところに弟子入りさせたのは、良いことばかりじゃねえんだ」
「そうなのか?」
九郎からすれば晃之介は友人であり、その嫁の義理の父みたいなところがあるので或いは義息子といってもいい身内だ。
鍛錬に関しては過激なきらいもあるが、しっかりと行っているように見える。
影兵衛はぼりぼりと素浪人に見せかけるために剃っていない髪の毛を掻いて告げる。
「自分の息子を弟子入りさせたら迂闊に勝負を挑めなくなっちまったじゃねえか! あの先生とヤるの好きだったのによう」
「お主の方の都合か!」
「だぁーって、木剣と向こうの模擬武装使った稽古試合だとだいたい五分ってて楽しかったのに、今だとアレだろ? 迂闊に拙者が勝つと弟子への面目が潰れるし、拙者が負けると父親としての面目が潰れるし」
「ああ……どっちにしても損をするのう」
確かに、息子を弟子入りさせた道場へと道場破りに来る父親など聞いたこともない。相手を見込んで子の師として任せたのだから、普通に考えてするべきではないのだ。
常識的というか意外に体面を気にしているのも、親になったということなのだろうと九郎は感心した。
九郎と殺し合いをしたときなど、今の嫁である睦月に手を付けて祝言を挙げる手前だったというのに生きるか死ぬかの戦いを楽しんでいたというのに。
「つーわけで、あんまり見てるとヤりたくなってくるもんでたまにしか行かねえようにしてんの。そうだ、なんなら九郎も一緒に行こうぜ。向こうでムラっときたら九郎とヤればいいんだしよ」
「白昼堂々勘違いされるような発言をするな。向こうでご婦人が『まぁ……』とか言って嬉しそうに帰っていったではないか」
「けひひっ、なぁに気にすんな! 拙者ァ気にしねえし。それより良いのを二つ三つ見繕って包んでくれ」
影兵衛は手をひらひらとさせて笑った。この江戸のご時世、両刀使いは珍しくないし陰間買いはメジャーな性嗜好だったので多少噂されてもまったく問題にはならないだろう。
「毎度。しかし、さっきは町奉行所の者が買っていったが、火付盗賊改方でも茶菓子にどうだ?」
「あん? あー無理無理絶対完璧に無理だろ」
「そこまで」
「まず予算がクソ少ねえんだから火付盗賊改方は。菓子代なんて出してる余裕はねえって」
思い出すように天井を仰ぎながら影兵衛が云う。
「正確にはわからねえが、確か町奉行所が予算として幕府から降りている額が年間2000両ぐらいだったか? そんで火付盗賊改方は50両」
「少なっ!?」
「そりゃ個々の武士の給料は幕府支払いで出るんだが、例えば提灯代とか報告書の紙代とか、捕り物道具の代金とか黒袴の仕立て代とかそういうのひっくるめて明らかに足りねえんだからな。なんで火付盗賊改方長官がちょくちょく入れ替わってるって、自費で出さないとやっていけないから一人に負担させるのも難しいんで次々に役職が回っていくらしい」
「ババ抜きみたいだのう」
「そんなわけでお菓子を食べる場合は自分でお金を出しましょうってな。ほら、料金だ」
影兵衛は一分金で代金を支払い、菓子包を手に取った。
「そんじゃ九郎もそのうち一緒にな。たまには手前ともヤらねえと腕が鈍りそうだ」
「わかったわかった。そのうちな」
影兵衛を見送りながら九郎は「ううむ」と唸る。
「長喜丸に真っ先に菓子を食わせねばならんと云うのに」
「孫馬鹿かね……この店の菓子なら、初日に子興が買って帰ったから食べたと思うよ」
「むう」
少しばかりがっかりしながら、それでも近いうちに土産を持っていこうと影兵衛と同じようなことを考える九郎であった。
*********
その後も店に様々な知り合いがやってきた。
読売販売のお花が子連れで来たり。
「味の宣伝をするために全種類提供して貰えれば!」
「ちゃっかりしておるのう。まあ、よかろう。宣伝費と考えれば安いものだ」
歌麿が吉原での販売を請け負ったり。
「遊女にも大人気で、年季明けした子達が作ってるって噂が広まってるマロね」
「ふぅむ、雇える数には限りがあるが、交代要員は居てもいいのう」
靂が保存が利くものを纏めて買っていったりした。
「うちで剣呑な雰囲気のときにとりあえず甘いものを出すと落ち着くんです……」
「切実な理由だ……」
そんなこんなで九郎の始めた[慶喜屋]は、中々の繁盛で儲けているようであった……。
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その夕方。
「あら? どうしたのあなた。可愛くなっちゃって。それとその二人」
豊房は風呂から上がってきた、6歳ぐらいの少年姿になっている九郎が背負っているスフィと、阿子が肩を貸しているサツ子を見ながら尋ねた。
「いや、ちびっ子同士で纏めて風呂に入っていたらスフィとサツ子がのぼせた」
「……旦那様がそんな姿なのにか?」
主に九郎が加齢したらのぼせる方向なお八は、ぷにっとした体型の小さい九郎をしげしげと見ながら疑問の声を上げる。
どう見てもこのより若返っている九郎は見ても性的とは思えず、可愛いだけである。
だというのに一緒に入ったスフィとサツ子は頭に血が昇って湯あたりをしたようだった。
「ははーん! 助平な妄想でもしたでありますな! サツ子はそう見えてむっつり助平でありますからな!」
「これ夕鶴。サツ子は純情なだけだろう。それに助平は関係なく、熱中症で眩んだのだと思うが」
「ではスフィ殿は?」
「スフィは……まあ、なんだ? わからん……」
将翁の問いに九郎も心底不思議そうに首を傾げた。
これまで風呂場でのラッキースケベこそなかったものの、同じ家で過ごせば着替え中の九郎見たり、風呂上がりのだらしない格好をしている九郎を見たり、なんかこう覗いたりしていたので耐性はできていたのだろうが、だからこそいちいち少年姿でのぼせるとは思えなかった。
だが風呂場では最初余裕綽々だったのに、そのうち湯船でスフィが背中を向けたままになりやがて倒れた。何か妄想が加速したのだろうか。
或いは直接的なスケベ状況になるとぶっ倒れるのは魔女の呪いかもしれない。
「ううう……恥ずかしか……」
「クロー……うにゅうう……」
布団に並んで寝かされた二人を見て、九郎以外の女らはなんとも残念そうなむっつり助平を見る目であったという。
一方でさっぱりと原因がわからぬ九郎は風を術符で起こしながら考える。
「やはりサツ子はもう大人と言っても過言ではないから混浴に羞恥心が……いや、と言っても江戸では普通に混浴だしな……まあ、これだけ育ってたらあまり外の湯屋に行かせるのも不安だが」
「九郎くん。何処を見て言っているのだね」
仰向けに寝るのも苦しそうなので横向けにしているサツ子の胸から九郎はさり気なく目を逸らした。
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誰も居なくなった湯殿の木格子がついた窓から、柄長柄杓がすーっと伸ばされてきた。
それを窓の外から手に持っている利悟は、柄杓で風呂の湯を掬うと引いて窓の外に持ち出す。
「ふ、ふははは……これがあれば拙者は──!」
──次の瞬間、夕立の土砂降りがバケツをひっくり返したように降り出した。
目も開けられぬ大雨だ。湯船の水が入った柄杓にも容赦なく叩きつけられ溢れ出す。
「うわぁ──! 拙者の風呂水が──! こうなれば即! 飲むしか!」
「不法侵入者が堂々と叫ぶな!」
「本日の江戸、局所的に雹が振ってきたァー!」
叫んだおかげで九郎に見つかり、豪雨を氷結させられて全身打撲で利悟はリタイアしていくのであった……
スフィちゃん一歩前進しようとすると気絶する




