56話『天狗(後編)』
──突風を浴びたと感じた九郎は、気がついたら山の中に居た。
「先程まで根津におったはずだが……ここはどこだ? 秩父山中かのう」
特に場所の特定に理屈があったわけではないが、この時代でも秩父山中には何度かやってきているのでなんとなくそう思っただけだ。ブラスレイターゼンゼを投棄しに来たり、スフィと一緒にメープルシロップが作れそうな楓を探しに来たりである。
ここに来る直前の事を考える。店を開店させ、宣伝しまくった効果もあって初日から行列が出来る客入りだった。
ガツンと来る甘い菓子は一度味わえばリピーターも見込める。安価なものではサブレのような、小麦粉と砂糖だけで焼いた菓子なども売って庶民から金持ちまでターゲット層を広げつつ、売れ行きを見て商品を調整していく算段であった。
まあそれはともかく、九郎は店主めいた格好で挨拶を受けたり返したりする役目をしていた。
そういうときに、山伏風の白装束に高下駄、頭襟姿の男に話しかけられ──返事をすると、大風が吹いた気がして目を開けると山の中に居た。
「うむ……まさか突風に飛ばされたわけではなかろうが……拉致られたかのう」
理屈はわからないが、何者かが移動させたということだけは納得する。
船から落ちたら異世界に行ったり、強制的に異世界から江戸に送還されたり、そこからまた異世界に行ったりしたこれまでの経験から突然何処かに移動することに慣れていたのだ。焦っても仕方がない。方法も不明だが、不可思議な力がこの世には存在するものだと九郎も知っていた。
「パッと空間転移系で思いつくのはイモ子のやつだが、まさか無意味にやらんだろうしのう」
江戸に時々やってきて芋のマスコットをしているイモータルの持つ装備、無限光炉を使えば超光速転移が可能だが、彼女がそれを使って拉致るのならば、恐らく主人であるヨグのところに連れて行かれるぐらいだろう。
間違っても秩父山中に放り出す理由はない。
「そしてあの怪しい小屋……」
一町(約109メートル)ほど先に、山小屋風の建物がある。大きさはちょっとしたもので、十人以上は中で寝泊まりが出来るようなものだ。木製の樋が小川から続いていて中に水も通している。近くには簡易的な炭焼きの土釜も雨除けがされて設置されていて、生活できそうな作りである。
その入口の戸が誘うように開けられていた。
「あの中に居る誰かが呼んだ可能性が高いが……」
九郎は渋面を作って腕を組み、小屋を睨んだ。
如何にもこっちに来いと言わんばかりの状況に警戒している。
「ひとまず用意をしよう」
九郎はそこらの石に腰掛けて着物の袂を探った。何か武器になるような道具を持っていないか確認したのだ。
しかしながら今日に限って──というか、真っ当な店主の格好をするためだが、装備の殆どを屋敷に置いてきてしまっている。
腰に巻く術符フォルダすら、帯の邪魔だと女衆から言われて外されてしまったぐらいだ。当然ながら菓子屋の主人が帯刀していては変なので直刀のようなどうたぬきも持ってきていない。
「鯖節しかねえ」
九郎は唖然と、紙に包んだ鯖節一本を取り出した。
それはついこの前、万八楼の料理大会──と云う名の宣伝会にて貰った景品である。宣伝のために万八楼の主人や審査員も買収して一等になったのだが、ついでに貰ってきた。
千葉県産のなまり節で、よく江戸に商品としてやってくる鰹を黴などを付けて乾燥させた本枯節と違い、元々の脂分も多い鯖を使っている事もあって柔らかくそのまま食べられるものだ。
鯖節は包丁で薄切りにして、塩漬けラッキョウと合わせて食べたり、醤油やマヨネーズ(卵が沢山あるので作った)を付けて食べると濃厚な旨味とほっこりとした鯖の味が滲み出て旨い。
これを夕鶴などは細かく刻み、ふりかけに混ぜて家族に振る舞ったところたちまち飯櫃の白米は空になった。
なんでそんなものを持っているかというと、一人でこっそり食べるためであった。
卑しく独り占めしようとしたのではなく、二十本ばかり貰って持ち帰った鯖節が尽く家族に食われてしまったので一本だけは死守していたのである。
「他は何も無いか……ああ、疫病風装だけは呼べるか」
九郎が意識して呼びかけると、ふわりとした青白い衣が空間から湧き出てきた。疫病風装とブラスレイターゼンゼだけは基本的にどこででも出せる。
ひとまず九郎は疫病風装を着物の上から羽織る。多少の危機ならばこの衣の自動回避と飛行能力で回避できるだろう。
「とりあえずこれで、いざとなれば飛んで帰ることができるようになったが……一応原因を探らねばのう」
飛んで帰ってまた拉致られてはキリが無い。
九郎はそこらに落ちていた握り拳に隠せるぐらいの石塊を幾つか拾って袖の中に入れておいた。自分を連れてきた相手が友好的とは限らない。
そういう作業をしながらも周囲の何処からか見られているような、嫌な気配を感じるのは、
(気の所為じゃないとは思うが)
拉致ったのならばその相手の監視ぐらい付けるはずだ。とはいえ、小川と先にある小屋の周りだけ切り開かれているだけで、木々は鬱蒼としていて暗く隠れ潜む者を見つけるなど容易では無さそうだったが。
それをどうすることもできないが、ひとまず九郎は小屋へと歩き出しながら独りごちる。
「さて。急に拐われた相手で、場所が秩父となると連想されるのは天狗の仕業というやつだのう」
誰に説明するでもなく、九郎は独り言を呟いた。
「石燕が言っておったが、武蔵国の北部は天狗の伝説が多いらしい。熊倉山の天狗、大滝の天狗、小鹿町の天狗の妙薬、川越の天狗隠し、秩父の天狗に草加の天狗の祟り……だから川越育ちの六科も、己れと最初に会った時にすぐさま妖怪天狗の類だと思って逃げようとしたのだろう。ここらでは天狗が根付いておる」
秩父山中の天狗屋敷、如何にもそういった状況であることを九郎は確認して小屋に近づく。
天狗は修験者が転じた存在とも、僧が変化した存在とも言われている。中には後白河法皇や崇徳天皇のように後世の者が恐れて天狗として祀った怨霊天狗とも云える者も居た。大まかな複数の山怪を纏めて天狗と呼称していることもあり、土地や時代で千差万別の特徴を持つ。
「さてはて。己れが天狗の安売りをしておったから警告でもするのか……」
九郎の場合、様々な彼の事情──年齢にそぐわぬ容姿、面妖な術、飛行能力、知識などを天狗のせいということにして適当に皆を納得させていたのである。
ヤクザで云うなら勝手に代紋を使ったようなものだろうか、と考える。天狗社会のことはよく知らないが。
開け放たれた小屋の入り口の前で一旦止まり、そっと中の様子を伺った。
「……」
中に居る誰かが──九郎が顔を向けると同時に声を上げた。
「ぬううう……新記録! 新記録ぅぅぅ!」
室内では。
筋骨隆々の大男が全裸で、股間に天狗面を付けていてその面から伸びた鼻先のみを床に接地させ、独楽のようにくるくると回転していた。恐らくは回転数が新記録なのだろう。一心不乱だ。
紛うことなき変態だった。
迷わず九郎は小屋からダッシュで離れてそのまま空に舞い上がり逃げ出すことを選ぶ。
「あ゛あああああ!! 皆の衆! そいつを逃がすなぁ!」
「逃げるわバカタレ!」
さっさと上空に逃げて飛び去ってしまおうとした途端、九郎は飛行のバランスを崩して危うく地面に加速して突っ込みかける。
慌ててブレーキを掛けて浮遊するが、九郎は方向感覚が喪失したように、果たしてどっちの方向に飛ぼうとしていたかはっきりと思い出せずに混乱する。
更には周囲の風が渦巻き、更には濃霧まで発生し始めた。
風の方向が乱雑に吹き乱れるような場所で視界も悪いとなれば、風に流されやすいこの着物で飛ぶことは難しくなる。
「くっ!? なんだこれ!」
「ぬふうう……これぞ我ら修験者の結界よ」
九郎の背後から、股間と顔に天狗面を付けた変態が現れて低く唸るような声で告げてくる。
警戒しながら九郎は尋ねる。
「何者だ。怪しい奴め。気色の悪い格好をしおって」
「ふっ……拙僧か……拙僧はな……」
腕を組んだ天狗面はやおら九郎を睨みつけて言い放った。
「──人に聞くときは自分から名乗ったらどうだあああ!!」
「やかましい!」
「おあーっ!」
九郎は石塊をぶん投げて、天狗面は悲鳴を上げる。
余人の投げた石塊ではない。
股間の天狗面に直撃してその長い鼻を問答無用でへし折れる。自分でやってて痛そうだと九郎は感じた。
「くうう……天狗飛礫を飛ばしてくるとは、さすがに噂されているだけはある……」
股間に装着された──面を固定する糸などは見えない──鼻の折れた天狗面を押さえながら男は転げ回る。
山の中で裸で転げ回るのも大変だな、と九郎は思いながら頬を掻きつつ応えた。
「いや天狗礫というか石投げただけだが……とにかく、お主が誰かとかどうでもいいから何の用だ。早く帰りたいのだぞ己れは」
開店と同時に店主失踪など、一体何が起こったのかと思われてしまう。皆も心配しているだろう。
秩父からなら空を進めば一刻ぐらいで帰れるので、九郎としては謎の結界とやらを解除して欲しかった。
男はよろよろと立ち上がり、股間を押さえながら九郎に手のひらを向けて告げる。
「と、とにかく話を聞いて欲しいんだが……」
「はあ……わかった。仕方ない。まったく、話があるならそちらが江戸に来いというのだ……」
愚痴りながらも、九郎と天狗面はひとまず小屋へと戻っていった。
********
改めて小屋の中に入ると、そこには修験者が何人も立って二人を出迎えた。だが、どの修験者も顔に天狗面を付けている。
小屋には頭が二つある小さな木彫りの明王像が飾られ、恐らく修験者の信仰対象となっているのだろう。山深いこの小屋は秩父の修験者が集まる場所なのかもしれない。ただ、普段は山の中で寝泊まりをするので常駐しているような生活臭はそこまでしなかった。
股間天狗男が頷くと、彼の不動袈裟が広げられそれを裸の上から羽織り、帯を締める。
「改めて挨拶をしよう。拙僧は伊佐という修験の道を歩む者だ。ここに居る者は、関東を主に修行場としている名のある修験者たちよ」
「ほう」
その伊佐と名乗る修験者が纏め役のようだ。確かに個性的というには、股間に天狗面という異様な個性を持っているのだが。
九郎は他の者を見回すが、顔を天狗面で隠しているので年齢などはわかりにくいがいずれも鍛えられた体つきをしている者たちであった。
ただ、一人は明らかに若い女だ。体の曲線が出る薄手の袈裟を着ていて、膨らんだ胸などが分かる。顔は天狗面で隠しているので色気は殆ど感じないが。
九郎は微妙に嫌そうな顔をしながら、裸の伊佐と仏像、それに着物を着崩して色香を見せている女天狗から想像する事を尋ねた。
「お主ら、怪しい集団ではなかろうな。真言立川流のような」
真言立川流は男女の和合を持って如来の悟りを得るという特殊な真言系の宗派であり、多くの宗派から淫祠邪教と見なされていて、その実体の多くは謎に包まれている。
ただ山伏も真言系の宗派があり、そんな中で本来女が居ない場所に混じっているとなると疑わしくもなったのだ。何せ、普通は山という修行場に女性は入ることができない。
伊佐が顔を顰め──たかは天狗面で見えないが、とにかく嫌そうな声を出した。
「勿論違う。多少は陰陽思想など我ら修験道と共通点はあるが、目的が異なるからな。我らはただの、神通力を得るために修行をする修験者よ」
「なるほど……それなら怪しくはないな」
九郎は頷いてから少し無言で頭の中で情報を反芻させた。
そして突っ込みを入れる。
「いや、怪しいわ! 天狗面被ってる集団ってだけで十分に! 江戸にもこういう連中居るよなーって一瞬考えて怪しさをスルーしかけたが!」
「天狗面はやむを得ぬ事情があるのだ! 遊び半分で被っているわけではない!」
伊佐は大きく咳払いをして、話を戻した。
「まずは我ら修験の者らが、汝を招いた理由から話そうか……江戸の九郎天狗殿」
「……なんだ?」
天狗と見なされているようだが、ひとまずそれについては置いておき九郎は話を促した。
「この秩父奥山には天狗岩と呼ばれる巨岩があり、そこには古来より天狗が住まっているとされてきた」
「ほう。天狗がのう」
「古くから修験者がその岩を崇めて、この小屋を使って修行の地にしていたのだが……近頃、その岩場に住む天狗が荒ぶっているのか、或いは別の天狗が住むようになったのか、人に害を為すようになったのだ」
「害とは?」
「近隣の村の牛馬を攫う[天狗隠し]。畑の麦を風で薙ぎ倒し妙な模様を作る[天狗風]。森で雷のような轟音が起こり木々が吹き飛ぶ[天狗擂火大爆発]。奇妙な光を放ち、見ている者を眩ませて記憶に無い行動を取らせる[天狗の幻術]……この天狗面は、その天狗の放つ光を受けぬように顔を隠しておるのだ。実際、我らの中にもその光を食らって危うく記憶喪失になりかけた者も居る」
「無茶苦茶な天狗だな。というかそれ本当に天狗か?」
伊佐の背後に立っている修験者らが、紙に図を描いて解説をわかりやすくしている。
牛が怪しげな光線を受けてふわーっと上空に浮かび上がらせられたり、畑に円状の模様が無数にできていたり、謎の大爆発で一帯が禿山になったりしている絵だ。九郎の頭の中に、キャトルミューティレーションとかミステリーサークルとかそういう単語が浮かんでくる。
伊佐が頷いて説明を続けた。
「そもそも、この場合の天狗というのは神通力を持つ山に住まう存在を指す。となればその出自、見た目はともあれ天狗岩に居る何者かは天狗であるし、我らも多少ながら神通力を得ているので天狗とも云えるだろう」
「ほう? お主らが神通力を……」
天狗面は伊達ではなく、この修験者らは何らかの超常とも云える能力を得ているのだという。
「そもそも我ら修験者は、修行によって神通力を得て衆生の助けになるという目的で山に篭っておる。まあ、今のところ行えるのは複数人を使って山に結界を張り、かの天狗を逃さぬようにする程度でそこまで役には立たんのだが……」
「天狗を逃さぬように……というと、己れもどういうわけか飛べなかったが、どうしておるのだ?」
「若干の仕掛けはあるのだが」
伊佐は指を立てて自分らが行う限定的な[神通力]について解説をする。
[風読みの術]と呼ばれるそれは、予め自分の周囲に発生する風を知ることができるのだが、観測者によって風の方向が異なって見えるので同時に複数人がこの風読みの術を使うと乱気流が巻き起こるのだという。
[霧隠れの術]に使うのは山で取れる蔓草の一種を煮出した汁から出る蒸気で、濃霧のように消えずに煙るのでそれで視界を遮る。
[撹乱の術]は耳に聞こえ難い特殊な音を出す鳴子を森に仕掛け、周囲の土壌に大量の磁石と燧石を混ぜると聴覚と磁気感覚の乱れで方向を把握できなくなるというものだった。
それぞれ、天狗の行う突風、山道を迷わせる術の元になるものである。
「これを使うことで山奥の天狗岩ごとここら一帯を結界としている。天狗が逃げないように」
「ふむ……どうしてそこまでするのだ?」
「あの天狗はとうとう人を攫いだしたからだ。近隣の村、旅人、江戸の奉公人の少年も居たな。我らが隙を見てどうにか全員開放したが、人に危害が及ぶようでは天狗退治もやむを得ないのでその後に結界を張ったのだ。そしてどうなったかというと」
修験者一同は沈痛な面持ちで──顔は見えないが──俯いた。
「天狗封じの結界を張りまくったせいで、我らも迷いまくってこの山から降りられなくなっている……!」
「アホか!」
全員結界に閉じ込められていた。九郎は全力で叫ぶ。
慌てて伊佐が首を振る。
「い、いやいや。地道に結界を外していけば出られるようにはなるのだが、そうすると人さらいの天狗も逃げていくかもしれないだろう。それを倒してからじゃないといかんのだが、実のところ我らではその天狗に手が出せないということが判明してだな」
「……というと?」
「天狗の磐戸とでも云うのか、岩の中に隠れ家を作っているようで出入りしているところも見ているのだが、我らではどうやっても入れないのだ。見た目は岩の壁にしか見えないのを、天狗やそれが攫った人間はするりと出入りしていた。まさしく妖術だろう」
「ふむ……不思議ではあるのう」
岩に偽装された入り口に認証機能でも付いているのだろうか。九郎は首を傾げる。
「女子供が主に攫われてきていたので、ひょっとしたら性別で関係しているのかと思って、こいつが来たことでどうにか攫われた人を助けることができたのだが……」
伊佐が女天狗に顔を向けると、彼女は大きく肩を竦めて何処かの方言が混じった声で云う。
「入れたところで、うちだけで大天狗を倒すっちゃ無理じゃけん」
「ふむ。それで」
「なんとか一人でも倒せそうな、少年姿の天狗が江戸にいると他所の大天狗様から知らされたので汝を連れてきたのだ。山の外に居る修験者仲間に鷹を飛ばして連絡を取ってな。まあ、連れてきたのでその修験者も今では結界の中に閉じ込められているが」
小屋に並んでいる天狗面の一人が、申し訳なさそうに頭を掻いていた。恐らくは九郎の店に訪れた山伏風の男だろう。
彼らは山から出れないので外部と連絡を取ってわざわざ巻き込む形で連れてこさせたのだ。
ようやく話が繋がったと九郎はため息をつき、げんなりとして云った。
「だったらまず説明をしてだな……拉致なんぞしたもんだから道具は向こうに置きっぱなし、家族にも迷惑が掛かるだろうが」
「ふっ……それは勿論拙僧も考慮している」
「ああ?」
伊佐がそう云うのを九郎は低く返す。
天狗面の男は堂々と告げてきた。
「考慮した上で、江戸で店を出している主人に突然『天狗退治したいんで秩父山中まで来てくれませんか』なんて誘ったところで、常識的に考えて断られるに決まっているだろう! だからまずは現地に連れてきたのだ!」
「威張るな! 胸を張るな! どちらにせよクッソ迷惑だわい馬鹿者!」
「フハハハ効かん効かん!!」
「くっ! 投げた石が迎撃されてる!?」
伊佐に向けて苛立ち混じりに石粒を投擲したのだが、彼の後ろにいる天狗面たちが同じく石を投げて飛んでくる礫に当てて弾き飛ばした。天狗見習いとも云える修験者だけあって、天狗の飛礫の技術である投石技能に優れているらしい。
忌々しそうに九郎が手を下ろす。確かに、いきなり人がやってきて秩父山中に来て天狗を倒してくれと言われても真実味は無いしそもそも遠いので断られるのが普通だろう。
九郎を拉致った実行犯と思しき天狗が告げてくる。
「安心されよ。ご家族の方には『旦那さんに人助けを頼んだので数日借りていく』と告げたら『またか』みたいな反応でしたので」
「ええい。そもそも、己れの意識的には一瞬でここに来たのだがどうやったのだ?」
「山で調合した天狗の妙薬とも云える眠り薬を、風に載せて顔に吹き付けて意識が昏倒したところでさっとさり気ない動きで背負子の中に入れて走って運んできました」
「思ったより直接的だった!?」
こう、空間転移でも使われたのかと思ったら移動中の意識が飛んでいただけであったようだ。
その日は商人風の着物を身に着けていたので疫病風装の毒物を自動的に無効する能力がついていなかったのである。
九郎は睨むような半眼で一同を見回し、
「……とにかく。その人攫いの天狗とやらを倒せば帰れるのだな」
「おおっ! 引き受けてくれるか!」
「やかましい! 誠意が届いたみたいな声を出すな!」
引き受けざるを得ない状況に追い込まれて頼み事を受けるので、九郎は不機嫌そうに云う。
「頼み事というのはちゃんと事前に話を通して、己れが受けるか受けぬか決める権利があるというのに……」
「報酬としてこの奥秩父で取れた砂金でどうだろうか」
「よし。さっさと解決して帰るぞ」
頷いて九郎は差し出された小袋をサッと受け取ると中身をザラザラと手のひらに出して確認し、確かに砂金粒が入っていることを認めて袋を懐にしまった。
多少の無作法は金で解決出来る問題だと割り切っているのである。
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とりあえず九郎は女天狗に案内されて奥地にある天狗岩へと向かうことにした。
他の修験天狗も森の中を進んでついてきている。山道と云えるような道は無く、木々の隙間の歩きやすいルートを選んで歩く。
九郎は足元が商家で使う小鉤の付いた白足袋に草履履きだったので、小屋にある草鞋を借りて足に結びつけ歩きやすいようにした。
(それにしても、中々に良い値段のする足袋だった気がするから泥で汚れたらお八に怒られる気がする……)
つくづく、準備不足で連れてこられたことが悔やまれる。せめて術符でもあれば良かったのだが。
相手は、この修験天狗らが云うには大天狗。だが九郎の予想では怪しいラインで宇宙人めいた山の民ではないかと考えていた。
どうもこの日本には、キャトったりポワワ光線を打ってきたりする怪しげな山窩が存在している。だとするのならば、彼らは牛を攫ったり妖怪の噂が立ったりするわりに現地住民と問題を起こすことを嫌っているので、そこら辺をちらつかせれば秩父から強制退去させることも可能なのではないかと思っている。
歩きながらふと九郎は横に居る女天狗へと話しかけた。ポニーテールのように後ろで大雑把に結って、丸い玉飾りのついた櫛を何本も真上から差している特徴的な髪が揺れている。
「お主のような女修験者も結構おるのか? あまり聞かんが」
「多くの霊山は女人禁制やから、数は少ねっちゃな」
「ふぅむ。お主は良いのか?」
「まあ、うちは女ってわけでも無し」
「ん?」
九郎は首を傾げると、女天狗は天狗面をずらして見せた顔を悪戯っぽい笑みに変えてグッと拳を握った。
「ちんちん生えとるんで」
「……ええと、胸を手術して膨らませたとか?」
「うんにゃ。生まれつき穴も竿もある体質なんで、こうして陰陽の道を極めるべく修行中じゃて。半陰陽の双海っち呼ばれてるんよ」
「ううむ、そういう事情であったか」
九郎は唸りながらもジロジロ見るのも失礼か、と思ったので目線を道の先へと向けた。だが心なしか、彼女の股間は確かに膨らんでいるように見えた。
男女両方の形質がある程度発現したのが半陰陽であり、遺伝子のエラーとも云えるこの性は人によって千差万別の体つきになる。
双海の場合は殆ど女性型でありながらも陰核が肥大化して男根のようになっているのだろう。場合によっては、精巣と卵巣両方あることもあって、人体とは不可思議なものなのである。
「ちなみにその天狗岩とやらはどういう風になっておるのだ?」
「岩の表面に触るとすり抜けるようになっとって、中の洞窟みたいな道を進むと奥に屋敷みたいな作りの住居があっちゃね。そこの中に、攫われた少年少女らが奉公させられてたん」
「ほう……子供を攫って働かせていたのか」
「助けたときは天狗の幻術で記憶も曖昧になってたんで、うちが大天狗のフリをして全員仕事を終えたから帰れ言うて他の修験者らに安全な場所まで送らせたっちゃ」
「その時大天狗は?」
「天狗岩から外に出ていくのを確認してから助けに行ったがね」
「……ところでお主、どこ出身だ? 方言がさっぱり特徴が掴めぬ」
九郎が問いかけると、双海は暫く無言になった。
そしてやおら、
「……長くあちこちを修行で回ってるから、言葉が色々混じるでおまんがな」
「おまんがな!?」
「気にしないで欲しいアンダギー」
「アンダギー!?」
謎であった。九郎は天狗面を外した双海の顔を見るが、どうも何を考えているかわからない表情をしていた。
やがて天狗岩にたどり着いた。
秩父は良質な石灰岩が多く見られるのだがその天狗岩も、高さ二十メートル幅三十メートルで奥は山に埋まっている巨岩であった。
上の方には山伏が付けたのであろう注連縄が結ばれており、表面はザラザラとした灰色の岩肌しか見えない。
「ここか?」
「うん。こっちにあるとよ」
双海から案内されて岩の直ぐ側まで進むが、やはり何もない岩肌にしか見えない。
手で軽く叩くが、ペシペシと軽い音を立てて拒まれすり抜けて入れるような気配は無かった。
意外そうな顔で双海も見てくる。
「……入れないべ?」
「ううむ。この後ろに通路が繋がっているのは確かだよな?」
「間違いなく。あれ? おかしいな……九郎天狗様、年齢はお幾つ?」
「百だったか百一だったかその辺だが」
「……」
もしかしたら女子供しか入れないようになっている、この岩の結界に阻まれているのかもしれないと九郎は考えた。
そして間違いなくこの岩の裏に通路があるのならば、
「仕方ない。叩き壊してみるか」
「え」
胸を叩いて体を急激に成長させ、二十代後半の体格が充実した体つきになる。
いきなり目の前で大人の姿に変化した九郎に双海は目を丸くし、やや離れて見守る修験天狗らは目の前で見せられる天狗の術に感じ入るように唸った。
首に巻いている相力符に身体強化の念を込めて、拳を硬く握った。
「六山派掌術──破城敲」
固めた拳を岩の壁に叩きつけると轟音と共に岩が崩れ落ちた。同時に、九郎の踏み込んだ両足をついている地面が背後に爆発したように吹っ飛ぶ。
城門をも砕く威力を持つ拳を放つ対物用の技だが、その反作用を全て地面に受け流すことで術者には殆ど殴った衝撃が残らずに体を痛めることも、背後に吹き飛ぶこともない。
がらがらと岩に紛れて鉄扉の残骸が土煙と共に地面に埋まり、奥へ続く道が現れた。
ぽかんと近くで見ていた双海が口を半開きにしている。他の修験天狗らも固まっているようだ。
「よし。行くか」
「い、岩を素手で……こ、この人ガチ……」
「ああ、行くかってのは己れの気構えだから、別にお主らは付いてこんでいいぞ」
愕然としている修験天狗らを残して、九郎は適当に奥へと足を進めていった。
慌てて双海のみが彼を追いかけるが、他の者は任せて見守ろうということで外で待つようである。
********
岩を出入り口に彫り抜いて、山の中の地下空間に屋敷状の構造物を埋め込んだ作りになっているのが天狗の隠れ家らしい。
或いは密教の修業の場として元からここには洞窟があったのかもしれないが、いかなる工事技術を使ったのか立派な玄関が作られていた。
どこか他に出入り口があるのか、空気の流れと僅かな火の匂いがする。洞窟にはヒカリゴケが生えていて青緑色に輝いてたが、屋敷は照らすように行灯が設置されていた。
九郎は迷わずその行灯に近づいて調べてみる。中には蝋燭が立てられているようだった。
「ど、どうしたん?」
「ふむ……この行灯でずっと屋敷を照らして生活していたのだろうか」
「そげんと違うんかいな」
「土の下で四六時中真っ暗闇の屋敷だぞ。蝋燭が幾らあっても足らん気がするが……しかもこの行灯の紙、蝋燭焼けしておらんな……それなりに新しいものだ」
微妙な違和感を感じながら九郎は双海に聞いた。
「お主がここに囚われていた者らを救助に来た時も蝋燭の行灯だったか?」
「え? えーと、うん。確かにそうだった……と思うけども」
「まあ……獣脂に何かを加えたものを大量に用意しておけば蝋燭も自作できなくもないかのう。案外、蝋燭を作らせるために子供を攫っていたのかも……」
「それな」
「?」
「い、いや、確かに説明が付くなーと思って」
歯切れ悪く云う双海だったが、ひとまず九郎は行灯から蝋燭皿を取り出して明かりを片手に屋敷の中へと入っていった。
静かな内部にも行灯が誘うように配置されていて、奥へと続いている。
「待ち構えられているみたいだのう。この蝋燭といい」
「そうけ?」
「うむ。話し合いをしてみるつもりだが、いきなり殺す気なら悠長に待ち構えている屋敷の奥へ向けて強烈な疫病をばら撒いてやるところだ」
「……あの、うちも居るんでそこら辺の危険な攻撃はちょっと」
おずおずと告げる双海であった。
おぼろげな明かりに照らされて九郎の疫病風装も青白く光っている。それにしても薄暗いので、屋敷の中はあまり見渡せない。
「一度調べてからでなくて良いだろうか。他に攫った者とか居たらいざという時に放火とかできんし」
「放火するつもりなん!?」
「……洞窟の中では酸素が足りないか?」
「空気の問題じゃなくて!」
双海は大声を出して九郎に云う。
「うちが調べたところ、もう他に子供はおらんから探さんでもええけど、ここを燃やすと山火事になったりすっから駄目!」
「そうか……確かに秩父の雄大な自然は守らねばならんな」
以前秩父山中にブラスレイターゼンゼを埋めて捨てようとした男はそう云って納得した。
そうして行灯の通路灯を辿ると、やがて中庭に出た。そこにはずらりと石灯籠が並び、いずれも灯りが点いていて一際明るくなっている。
その中庭の中央に──
天狗が、居た。
頭襟に梵天付きの袈裟、脚絆を履いて高下駄を足に、手には羽扇を持つ鼻の長い老人であった。髪の毛は真っ白になっていて、眉毛も伸びっぱなしになり目元を隠している。髭で口元も見えないので、酷く個の印象が薄く思えた。そして背中には烏の黒い翼が生えている。
「思ったより天狗だった……」
と、九郎は呟く。てっきり前に会ったみたいな山の民が居るかと思っていたのだが。
これはまるっきり天狗である。浮世絵や草双紙の物語に出てくるような、典型的な妖怪天狗の姿だ。
(人の仕業ならばどうとでもなるが、まさか本物だとは)
九郎はどうしたものかと思いながらも、ひとまず話しかけようとした。
「おい、お主──」
「……」
声を掛けた途端に、天狗は羽扇を振り上げ九郎へ向けて扇ぐ仕草をした。
すると天狗の方向からだけではなく、四方八方から九郎に向けて強圧的な突風が吹き付け危うく転がりかけた。空中に浮いて疫病風装で風に身を任せたが大きく吹き飛ばされ、体勢を立て直して着地する。
「問答無用かよ」
「じゃ、じゃあうちは離れてるんで」
先程の風には巻き込まれなかったらしい双海が安全な屋敷の方へと戻っていった。九郎は低い体勢のまま、表情を動かすでもなく喋るでもなくこちらを見てくる天狗を睨む。
「そっちがその気なら、殴り倒してから話をつけてやる」
「……」
九郎の足元がはじけ飛んだ。地面を蹴った勢いのまま天狗へ向けて突進する。
再び突風が正面から向かい風となって九郎を阻もうとする。だが低い体勢で風の当たる面積を小さくし、強靭な脚力で突き進んで接近した。
天狗が背後に飛んで九郎と距離を取ろうとする。同時に、吹き付ける風に石つぶてが混じり飛来してきた。
「天狗飛礫か!」
言いながら自分に当たる石塊を両の拳で殴り跳ね除け更に近づく。
だが今度は拳では砕けぬ砂粒が驟雨のように吹き付けてきた。一つ一つの威力はそれほどではないが、全身を針で突かれているような痛みに九郎は片腕で目を保護しながら拳を振るった。
「[一転]!」
これは廻し受けの一種で、掌と手の甲で空気の層をかき混ぜながら衝撃波を発生させて、例えば目の前に迫った複数の矢などを一斉に弾く技であった。
質量の小さい砂の嵐は尽く九郎の前から円筒状に吹き飛ばされて流れる。
その勢いで風が一瞬緩み、九郎は咄嗟にブラスレイターゼンゼを呼び出した。
「死なん程度に覚悟しろ。[テング熱]」
黒くて霞んでいる鎌から不可視の病原体が飛ばされて天狗へと着弾する。
テング熱は天狗にのみ感染する熱病で、テングウイルスによって感染する。これはテングウイルスを媒介するテングヤブ蚊という種類のヤブ蚊がテングウイルス感染者からテング吸血し、他の人間へとテングウイルスを運ぶのである。
テング発症するとおおよそ数日間は高熱に魘されるが、合併症のテング出血熱にならない限りはテング死亡率はそれほど高くない。しかしながらヤブ蚊による感染が容易なために天狗社会では恐れられている病気だ。
確かに相手の天狗に感染したことを確認して、九郎は鎌を握りつぶして消しながら唱える。
「[重篤発症]」
一気に症状を重度化させる能力だが──
「んなっ!?」
その天狗は一向に病気を気にしない様子で再び突風と飛礫を飛ばして来て、今度は背中から風に押されるようになって九郎は体勢を崩し、次に真上から吹き付ける風で危うく地面に口づけをするところであった。
風による行動抑制と同時に四方から飛来する飛礫に対応しきれないので疫病風装に任せて、もみくちゃになるように乱雑な風と自動回避の動きで振り回されて九郎は安全な場所へ着地した。
「病気が効いておらん。天狗の妙薬でも飲んでいるのか?」
訝しがりながらも九郎は舌打ちをして、再び天狗に近づこうとする。
今度は投げつけられる飛礫の幾つかが燃えているのに九郎はぎょっとした。天狗火だ。
焼けた石塊から身を躱していると中々前には進まず、天狗は距離を取って延々と遠距離攻撃を繰り返してくる。
下手に飛び上がって近づこうにも横殴りにも上から吹き下ろすにも変化する風の中ではそれも厳しい。
「ええい──っと!」
避けそこねた火の玉を、九郎は覚悟を決めて拳で打ち払う。一瞬ならば熱が伝わる前に大丈夫だろうと思ったのだが──
「……?」
思ったよりも熱くなかったそれに違和感を感じて、飛礫を避け周りながら地面に落ちてもまだ燃えている天狗火に触れてみる。
メラメラと燃えているように見えたそれは九郎が触れると炎は消え、そして熱は一切感じなかった。
「まやかしの術か……というか天狗自身が住処を燃やそうとするわけはない」
つまり住処に放火でもしてやれば慌てて近づいてくるかもしれないが、この洞窟内では自分も酸欠になるかもしれないのでその考えを九郎は諦めた。
しかしながら近づくのが大変だ。九郎は周囲を見回して、生えている石灯籠を引っこ抜いた。
「この質量を風で受け止められるか」
そして無理やり腕力に物を言わせて、槍投げの要領で一直線に天狗へ向けて投擲する。
重さ十貫(37.5kg)以上はあるだろうそれは空気の壁を切り裂いて、天狗の足元に着弾する。直前で天狗が空中に舞い上がっていたのだ。
回避行動をしたせいで風が止み、その瞬間に九郎は相手へと全力で地面を駆け出して接近。
九郎との距離が一気に縮まり、再び天狗は羽扇を振るおうとする。
どうにか行動を止めようと九郎は袖の中にある何かを投げつけた。
「っ!?」
石かと思って天狗の顔面に投げつけたそれは、持ってきていた鯖節であった。
吹き飛ばされて見つからなかったら困ると思ったが──天狗は脇差しを咄嗟に抜いて顔に向かってきた鯖節を切り払おうとした。だが、柔らかい鯖節は刀で真っ二つになり、一つはどこかへ飛んでいきもう片方は天狗の鼻下へと当たった。
すると何故か天狗が大いに怯んで、動きが止まる。
理由は九郎にもわからなかったが、その隙に跳躍して天狗の胸元まで飛び上がり、片手で袈裟を掴んで引き寄せながら鳩尾に拳を叩き込んで、間髪入れずに顎も殴りあげた。
骨の砕ける感触がするかと思ったら、硬質な殴り具合と共に天狗の首がもげた。
「なにいいい!?」
肉が潰れ、皮が千切れて首が落ちたのではなく、首が外れたといった風に分離する。
(何かまずい気がする)
九郎は咄嗟にそう判断する。理由はわからないが、とにかく本能が警告を発していた。
即座に掴んでいた天狗の体を投げ捨てて飛行してその場を離れる。
すると空中を落ちていった天狗の体が発光して──激しい爆音と共に爆発をしたのだ。
下手に近くに居たら巻き込まれることは必死だっただろう。天狗の術の一つ、[天狗擂火大爆発]である。
ぱらぱらと洞窟の天井や、破片すら残らず消し炭になった天狗の体が周囲に舞い落ちた。
「……ひとまず、勝ったのか?」
追い詰められた天狗は自爆で果てる。そうなったのだが、九郎の心には釈然としないものが残った。
立ち尽くしていると、屋敷の中から双海がやってきて拍手をしてきた。
「お見事! これで事件は解決っちゃね!」
「双海」
「人攫いも起きなくなり、うちらも結界が外されて外に出られるようになる。よかったんよ」
確かに。
双海の証言もあれば、残してきた他の修験天狗らに依頼の完了は報告できて納得されるだろう。
だが、どうもこの事件は疑問が多く残る。
「……あの天狗は、いきなり動きが鈍くなったがどうしたんだろうな」
九郎がぽつりと呟くと、双海が応えた。
「天狗の弱点は鯖と言われてるっちゃ。まあ、山の中で鯖なんて普通出てこないけど弱点は弱点として設定されているものだから、急に顔に叩きつけられて弱体化したけえ」
「ほう」
面白そうに九郎は薄く笑顔になって、双海の肩をポンと叩いた。
「お主……離れたところからこの薄暗い中で見ていて──よく己れが投げつけたものが鯖だとわかったな? 一言も云っておらんのに」
「──あっ!」
「『あ』?」
「い、いやいや、その、うちの持つ修験で手に入れた超視力ならほら……」
そう慌てて取り繕うが、九郎は双海の肩を掴んで動けないようにしながら目をじっと見て続ける。
「そうなのか? あたかも、あの天狗人形をお主が操作していたから弱点を付かれたこともすぐに気づいたのかと思ったが……」
「人形……って……?」
「どうもあの天狗からは精気を感じなかったし、やることと言えば離れて風と飛礫を飛ばしてくるだけ。それならば風を出す神通力が使える者が操ればどうにかなりそうなものだがのう? 首がもげたのも、体に火薬でも仕込んで自爆させたのも人形なら分かる話だ」
だらだらと双海は汗を掻きながら九郎から目を逸らしている。
身の丈六尺の大男である九郎から両手で肩を捕まれ見下され、顔を離そうとすると自然と双海はその場に座らせられることになる。
その反応で、どうも怪しかった彼女への嫌疑が九郎の中で固まり、行動からの推察が浮かんでくる。
「好き勝手に家畜やら人やら攫っていた天狗は、ある時とうとう周りから危険視されていることに気づいた。修験者が集まり、自分を退治しようと騒ぎになっている。これはいかんと、慌てて攫っていた子供らを適当に記憶を改変して開放させるわけだ」
「……」
「だがそれで話は終わらず、修験者らは怪しい術を使ってこの拠点を取り囲んでしまった。こうなれば天狗として一度退治されなければずっと警戒されたままだろう。そこで偽者の天狗人形を作り、退治させれば良い……そう云う風に話を持っていくには、修験者らに混じる必要があった」
「……」
「さて、天狗の妖術に記憶を変えさせる妖術があるので話は早く進むと思ったのだが、修験者らも一筋縄にはいかない。妖術を退ける天狗面を用意して常に被るようになった。これでは中々上手い具合に話が持っていけない……そこでやってきたのが、外から連れてこられた天狗退治役の己れだ」
「……」
「これに天狗退治をやらせて、そして何か不都合があれば妖術で誤魔化せばいい。天狗面もつけていないのだから……そう考えて、黒幕の天狗は退治する場所までついてきたというわけだ。己れと自分だけ中に入れるよう仕掛けをしてのう、双海」
九郎は彼女が顔の横にずらしていた天狗面を剥ぎ取って見せる。
「お主だけ天狗の妖術が怖くないとばかりに、途中から面を外しておったよな? 他の者はずっと付けているのに……」
「あ、あはは……」
思えばこの屋敷に入ってからも挙動不審であり、一度入っていたというだけでやけに構造に詳しかった。生まれもどこか定かではなく、半陰陽の行者という存在自体が怪しいのだ。
頭を掻くように双海は片手を上げて──結った髪に差している、丸いアンテナのような櫛を引き抜いて手に持った。
「ちょっとこれを見てくれる?」
云うが早いか、その櫛から強烈な光が放たれた。天狗の妖術だ!
目で直接見ると意識が飛び、その後に刷り込まれたことを本当の記憶だと思い込むようになる術である。
「引っかかるか馬鹿者。誰かと同じ手を使いおって」
だが、九郎はそれよりも早く双海から奪い取った天狗面を顔に当てていた。
面の目の部分は開いているが、簡単に視線をずらすことによって面の内側を見ることになり光を受けずに済む。
最後の抵抗を防がれたことで双海は顔を青くして、九郎は双海の肩を掴んでいる手に力を込めた。
「あいたたたたたた!!!」
「素直に白状すれば事によっては許してやらんでもないが」
「はいすみませんうちが天狗でした! 山窩の一人でここらで活動して天狗の仕業ってことにしてました! そして誤魔化して逃げようとしてました!」
「女子供を攫った理由は?」
「それはその……悪戯……目的で──きゃあああ痛い痛い痛い!!」
「許すか馬鹿者」
半陰陽の体を持つがゆえか、男も女も喰っちまう性癖があったようだ。誘拐監禁に加えて暴行罪も追加された。見た目は中々に良い女なのだが、やることはえげつない悪党だ。
メキメキと音が鳴るほどに彼女の肩を握撃しながら九郎はこの誘拐犯をどうしようかと考える。
記憶改変などという厄介な能力を持っているので被害届は出ておらず、役人に引き渡してもどうにもならないだろう。
同じく修験者らにも、天狗や山の神を鎮めたり厄除けの呪いをしたりすることはあっても人を裁くのは管轄外だ。
「ううむ……埋めるか……去勢するか……」
「怖い二択を迫らないで!? 許してください!!」
「許すのは己れではない。そうだのう……」
肩から手を離して、九郎は指を立てて提案する。
「とりあえずお主は持ってる財産を出すなり、砂金でも集めてくるなりして金を用意し、これまで牛馬を盗んだり畑を荒らしたり子供を攫ったりしたところに行って賠償してこい。別に犯人と名乗れとまでは言わんが、山伏として衆生救済のためとか理屈を付けてな」
「は、はい……」
「そして二度とやらんというのならば、ここの天狗は死んだことにしておいてやろう」
「ううう」
がっくりと双海は項垂れて、それでも条件を受け入れたようだった。
前に九郎が牧場から牛を盗んだ山窩と出会ったときもそうだったが、幕府のもとの社会に属していない彼らまつろわぬ民は法に縛られぬ倫理観を持っている。だから自分が望むままに盗むし、攫う。言ってみれば妖怪も同然の存在であったのだ。
そのような生き方をしている者がこの日本には明治の時点で20万人も存在していたのだから、かなりの人数である。なお参考までに鳥取市の人口は2017年で19万人である。
人形を遠隔操作した方法や、記憶を飛ばす光を出すデバイス、屋敷の照明など怪しい部分は多くあり、或いはこの双海は宇宙人の類なのかもしれないが──それを追求したところで特に意味はないので、九郎は聞かなかった。下手に敵対してキャトルミューティレーションされたら損である。
彼女が約束を守って賠償金を支払いにちゃんと出向くかどうかも、別に被害者から頼まれたわけでもないし監督しなければならない義務があるわけでもない。あまり深入りしないことに決めた。
双海は涙目で云う。
「わかりました……諦めときますわ……」
「そうしろ。素直に修行して、欲を払うのだな」
「ところでこの屋敷に温泉があるんどすえ、入っていかりません?」
「……」
九郎は半眼で、双海のさりげない勧めと膨らんだ股間を見て屋敷に蝋燭で火を放った。
「あ゛ー!」
欲に生きる天狗は悲鳴を上げた。
*******
伊佐などの修験天狗に、人攫いの天狗は退治したことを告げて、放火未遂(というかあまり燃え広がらなかった)で大いにショックを受けた双海を置いて九郎は帰ることにした。
天狗封じの結界の中でも、吹き荒れる風をどうにかすれば九郎は飛んですぐに江戸へ戻れる。
解決したことで修験天狗からは一目置かれ、[天狗退治の九郎天狗]と九郎の名は全国で修験者をしている者の間にも広まり、ますます妖怪天狗として信憑性のある話が伝えられていくことになったという。
九郎の意識化ではほんの数時間だったが、江戸から奥秩父へ連れてくるのに三日は経過している。
三日も昏睡させられる薬で眠らせられて運ばれたと言うのは中々ヤバイ薬だったのでは、と思うが九郎の心配事は店のことであった。
開店から早速店主不在になっていた菓子屋を気にして大急ぎで根津へと戻る。夕刻になり、店も閉める頃合いだった。
「……た、ただいまー」
と、か細い声と共に店に入ると閉店準備中だった皆から視線が集まった。
気まずそうに九郎苦笑いで片手を上げる。しまった。せめて秩父土産でも持ってくればよかった。砂金しか無い。
しかしながら怒られるかどうするかと思ったのだが、皆はいつものように近づいてきて九郎に告げてくる。
「おかえり、あなた。大変だったのよ。帰ってご飯にしながら、教えてあげるわ」
「おう旦那様。服が汚れたな。洗うから早く風呂に行こうぜ。サツ子が沸かしてるはずだしよ」
「どうでありましたかご主人様。天狗退治とか山伏の人が云ってたけど、お話を聞かせて欲しいであります!」
「開店祝いがまだじゃったからのー。売上も上々じゃから豪華にするのじゃよ」
皆がワイワイと言ってくるので、九郎もホっと安心した気分になった。
帰る場所があり、皆も九郎が帰ってくると信じている。拉致のように連れ出されていた間に悪かった機嫌も、すぐに治ってしまっていた。
天狗がどうのと言われ恐れられたり崇められたりするよりも、こうして家族と親しむのが何よりのことなのである。
「ところで九郎殿。数日我慢してもう限界なので助平しましょうぜ」
「お主はちょっと欲を抑えろ将翁」
後日、何故か月行事の山末から、一樽上酒が届いたが……それでひとまずは天狗の事件は終わりであった。
ちなみに伊佐は甚八丸の嫁さんの弟です
天狗岩の屋敷はうちゅうじ……山窩のアジトで、高度な技術の照明機器や隠蔽用の映像投影装置、空調設備などが完備されています




