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55話『天狗(前編)』

ちょっと短め

 



 江戸の町政を司る仕組みとして、一番上に町奉行が置かれている。

 その下は町年寄と呼ばれる樽屋、奈良屋、喜多村という三家が幕府側である町奉行と、民衆である家主(町人)の間を取り持つ仕事を統括する。

 町年寄のもとには、町名主という町役人が二百数十名居て、一人で七町ぐらいを担当して町触の伝達から訴訟の取次、人別調査や死者の報告など様々な業務を、町人から徴収される町入用によって給金を得て行っていた。

 町名主を補佐するのが、家主が持ち回りで五人ずつ月行事とよばれる仕事について手伝っていた。

 

 町奉行(幕府からの町触を伝える・町人の訴訟などの裁決をする)

 町年寄(町奉行からのお触れを町名主に伝える)

 町名主(複数の町を担当し、家主らにお触れを伝えたり、町で起こる細々とした事を解決したりする)

 月行事(町名主の補佐をする家主持ち回りの仕事)

 家主(土地と家を持つ狭義の意味での町人)


 というのが町政に携わる江戸の町人であり、それ以外は長屋に住むだけの者は勿論、長屋の差配人として雇われている大家であっても町政には参加できない。一方で、家主のように町税を払う義務もなかった。ただ、長屋の家賃に木戸番やら時の鐘の維持費が含まれているのではあったが。

 さて、九郎は近頃根津の家主となった。それは町政に携わる義務が生じるということだ。

 神楽坂のように屋敷長屋を人に貸したりせず、商売もしない上に家主が女の鳥山石燕ということならば、多少の行事からは余計に町入用を払うことで免除されていたのだが、根津の方は店を開くのであるからそうはいかない。

 土地の権利自体は身分の怪しげな九郎ではなく、石燕こと豊房が持っているのだが実質それは名目上のみと誰が見てもわかるので、豊房の旦那である九郎が家主代理を行わなければならなかった。 

 なので定例的な月行事の会合に九郎が呼ばれることになったのである。



 その時の根津月行事五人組は茂兵衛もへい久五郎きゅうごろう喜八きはち庄蔵しょうぞう山末やますえの五人である。

 茂兵衛と久五郎は長屋を持ち大家に管理させている。

 喜八は茶問屋の旦那であり、神社や遊郭のある根津では茶屋も多いので儲かっているようだ。

 庄蔵はその根津遊郭に店を持つ楼主である。[床が得意で蔵が立った]庄蔵と言われる元遊び人だった。

 山末という男はよくわからない家主だ。根津神社近くに宿を貸していて、普段本人を見かけることはなく実際何処に住んでいるかも定かではない。月行事が回ってきたときだけ顔を出すだけであった。 

 五人は会合に九郎を呼んでささやかな宴会でも開き、新しく町にやってきた男がどういう者か見てみようということになったのだ。

 

 根津にある一番豪華に宴を開ける店は、根津遊郭の一等地にある[八雲]という店である。

 ここは遊郭にありながらも遊女ではなく芸者を楽しむ店であり、女の三味線や琴を肴に飯と酒を饗する。店の屋号は根津神社で祀る神、須佐之男が詠んだ和歌『八雲立つ~』から来ているのだろうか。

 さておき月行事五人組が入れ替わった際に一度は行われる会合が開かれるのはこの店なのがいつものことであり、店の主も多少の振舞いはしてくれる。

 五人の男は九郎を招いた約束の刻限よりも早くに部屋へと集まっていた。


「それで」


 と、茶問屋の喜八が四人を見回して尋ねた。この中では一番の年かさで、老舗の主人なので纏め役のような立場である。


「その九郎って男のわかったことを報告し合おうじゃないか」

 

 すると皆はそれぞれ硬い表情をして頷く。猿顔の山末のみは胡座を掻いて頬杖を付いていたが。

 新しくやってくる者がどういう相手かを調べておくのは何処の界隈でもよくある話だ。例えば悪事で金を稼いだ者などが家主になった場合の注意喚起にもなる。

 金貸しや博打に香具師の胴元、まったくの素性不明で知り合いの居ない余所者がいきなり大金で家を持ったなどという事があれば警戒される。

 大家をやっている二人がまず口にした。


「九郎ってのは呉服屋の大店、[藍屋]の末娘の旦那のようだ。呉服屋は継がないらしいが」

「その[藍屋]の旦那が持っている長屋の表店でやってる蕎麦屋を手伝って、閑古鳥が鳴いていたのを繁盛させたと聞いた」

「となると根っからの商売人ってわけかい?」


 喜八は顎に手を当てる。


「うちの仕入れた情報だと、他にも薩摩藩の御用商人と大きな繋がりがあるとか、飯に掛けるふりかけを売り歩いてる[夕九(ゆうここのつ)屋]をしているとか、あとほら木戸の番小屋。ここ数年でやたら売り物が増えただろう」

「そういえば……」

「あれも九郎って人が始めたとか聞いたぞ」

「へえ」


 と、自身の町にある木戸を管理する番小屋を思い出した。

 ここでは夜と明け方に木戸の開け閉めをする番人が住み込んでいて、その給金を町入用で支払っているのだが薄給である。

 なので番小屋では簡単な生活雑貨の販売が許されていて、ちり紙・草履・縄・陶器の皿や壺などが売られていたのだが、暫く前に九郎がむじな亭近くの木戸小屋に話を持ちかけて他にも便利なものを置かせるようになったのだ。

 豆菓子、酒、薪、煙草、茶、浮世絵、蚊取り用に燃やす青葉、そして薩摩芋など。

 木戸小屋で少量売るのだったら大体の物を売っても構わないというのを逆手に取って、一度に仕入れれば在庫の保存が利く嗜好品などを売らせるようにしたのであった。普通ならばその商売を始めるにあたり、関わる同業者間のしがらみのようなものを番小屋では無視してなんでも置けるのだ。

 薩摩芋に関しては紹介料ということで九郎は鹿屋に礼金を貰ったが。

 商品を右から左に流すだけで料金を上乗せして売る商売など、儲かるのかと訝しむ者も多かったがやはり近くにあり夜でも開いているという利便性が勝り、利用する客も多いという。

 楼主の庄蔵が腕を組んで唸りながら意見を出した。


「おれが聞いた話だと、その九郎ってのは吉原の楼主共とも繋がりのあるヤクザものだと聞いたぞ」

「ヤクザ?」

「うん。訴えは出てないのだが、足抜けした遊女を追いかけてた遊郭の油差しを半殺しにしたりとか、その翌日には遊郭が燃やされてて現場に九郎という男の姿があったとか」


 油差しとは、夜中でも行灯の油を絶やさずに差して廻り、遊女の逃亡などを見張る者という符丁である。

 恐らくその噂は玉菊を助けた際に流れた話だろう。その後すぐに玉菊が自分の店に放火をして、楼主と刺し違えようとしたのを九郎が中に飛び込んで救っているが、見ようによっては怪しい。

 

「遊郭で使い物にならなくなった遊女をタダ同然で買いあさり、それを売りつけているとか」

「酷いことをする」


 それは年季明けの遊女の引取先を探しているだけであった。ただ、吉原の忘八らもそういう仕組みがあることを明言はできないしまだ使える遊女に知られるわけにもいかないので、曖昧に誤魔化しているのだ。


「あと嫁以外に妾が三人以上居て、それに手を出したチンピラは一人残らず室内で凍死していたのが見つかったとか……」

「ど、どんな殺し方を……?」

「妾が三人以上……?」


 困惑した表情になって茂兵衛と久五郎は顔を見合わせた。どう考えても真っ当な状況ではない。


「それ以外でも町方同心を白昼堂々路上で殴り飛ばしたり、川に放り込んだりしているのが目撃されていて」

「凶悪じゃないか!?」

「だけど町方の岡っ引きで、火付盗賊改方の手下だという……」

「どういうことだよ!?」


 岡っ引きが悪どい事をしだすというのは、町人にとって恐るべき事態である。

 いつどんな罪をでっち上げられるかわからない相手が警察への重要な情報源として扱われるのだ。江戸末期ではそのような悪い岡っ引きも多く現れ、金銭を強請るということも起きたという。

 全員が微妙そうな顔をしていた。

 中々に九郎という男、噂を掻い摘めば怪しさが満点である。

 商売に口出しをして儲けを出し、大店の娘を娶り、妾を何人も持ち、遊女を売買して、対立するならず者をぶち殺し、同心と深い繋がりがある。

 まさに権力に癒着したヤクザである。

 勿論これはあまり良い印象の持たれないところばかりをピックアップして連想された彼らの想像なので、実際とは異なる評価なのだが。

 不安そうにしている一同に、無言で聞いていた山末が声を出した。


「わしが聞いた話だと、その九郎ってのは天狗だって噂だが」

「天狗……?」

「も、物の怪の類だと?」


 皆は猿顔でニヤリと笑う山末を見やる。


「なに、ただの噂だが……天狗といえば、三年ぐらい前に騒動になったことがあったろう」

「ええ、あれは確か神田鍋町の話でしたか……」

「不思議なこともあるものだと江戸中で噂になったあの……」


 江戸の町に天狗が現れたらしいという話は実際に残っている。

 神田鍋町の小間物問屋にて奉公していた十四歳の少年が天狗にひと月あまりも攫われていたのだという。天狗は、天狗の抜け道と呼ばれる特殊な方法で住処よりはるか遠くからでも人を攫うことがあるという。

 単に居なくなっていたというのならば、家出をしていたか人間に誘拐されていたかという話になるのだが、何故か少年が居なくなったはずの小間物問屋では、攫われている一ヶ月の間少年が居るものとして誰も気づかなかった。

 むしろ、少年が湯屋にでも出かけたと思ったところで旅姿の股引に草鞋を履いた少年が帰ってきて、


「秩父山中の天狗に攫われて、天狗の屋敷で給仕をさせられていた。十分働いたので帰っていいと言われた」


 と、店の主人に話して秩父土産の山芋を渡したのである。

 少年がからかっているにも、そのような真似をする理由は一切無いし、実際攫われていたとしたらさっきまで居たと思っていた少年は何だったのかという奇妙な話である。

 楼主の庄蔵が深く頷いて云う。


「あの話、てっきり拉致られて助兵衛な目にあったのを穏やかに伝えたものだと思っていたな」

「最低だな!」

「山芋というか野老ところを持ち帰ったらしいから、野老……野郎……ってそういう……みたいな」

「嫌な想像しすぎだろ!」

「天狗ってあれ真っ赤に充血しておっ勃てたやつの隠語なんじゃ──」

「そこまでにしておけ。天狗に祟られるぞ、お前さん」


 下衆な勘ぐりをしていた庄蔵だが、呆れたように云う山末によって遮られた。

 山末はそっぽ向いてブツブツと小声で不満げに呟いているようだが、それは他の者の耳に入るほどの声ではなかった。

 どうやらこの男は天狗を深く信じているのだろうと他の者も納得する。

 この時代、天狗に攫われるという事象は現代から想像もつかない程に「あり得る」ことだと多くの人が思っていたのだ。

 現代人の感覚からすれば誘拐だの、精神的な異常などによる錯覚などと断じてしまうことを常識だというが、当時の常識では天狗に攫われるのも河童に溺れさせられるのも実際に起こる現象であったのだ。


「ま、とにかくその九郎という男は只者じゃないということだけがわかったということで。後は我々で様子を見るとしよう」


 茶屋の喜八がそう締めくくると、丁度女中から九郎がやってきたことが告げられた。

 部屋に通して貰うように告げて暫く待つと、軽い足音と共に九郎が現れた。

 いつもの青白い着流しに脚絆を履いた姿ではない。家主の会合ということで、お八に上等な商人の着物を身に着けさせられてきた。

 見た目は茶褐色の表着に、梅香茶の羽織を付けているという全体的に茶色っぽい姿だが、越後の上縮緬や郡内本八丈など最高級の生地を使っていることがわかったのは、茶屋と楼主だろうか。商家の主人というのはだいたいが似たような色合い、模様の着物を身につけているのだが、だからこそ分かる人には分かる高級生地を使うという贅沢があった。

 それはとにかく娘婿を侮らせるわけに行かないと呉服屋の藍屋から押し付けられた着物で、そんな生地はそれこそ日本橋に店を持つような大店の主しか身につけることはない。 

 普段の付き合いでは気にしないものの、こうした接待の場では身なりを整えるぐらいの甲斐性も九郎にはあった。


「おっと、申し訳ない。遅れたかのう」


 九郎は全員揃っているのを見回して云いながら、座って頭を下げる。


「今度から根津の町で世話になる九郎という者だ。菓子を売る店を開いて人に貸そうと思っている。どうぞ宜しく頼む」

「い、いえいえこちらこそ」

「何か分からない事があれば相談には」


 長屋持ちの二人が頭を下げ返す。

 喜八はジロジロと九郎の姿を頭の天辺から足の先まで見て、やや首を傾げて聞く。


「その、不躾で悪いんだが……あんたの悪い噂も聞いていたんだが……」

「悪い噂? ……ひょっとして、細長い物を縛るアレ系じゃなかろうな」


 忌々しい過去を聞いたとばかりに九郎が半眼で見てくるので、喜八は首を振る。


「チンピラを半殺しにしたり皆殺しにしたりとか……」

「……」

「なんだその沈黙は……」

「いや……『はっはっは。そんなことするわけなかろう』って笑い飛ばして否定するのと、『悪党と馬鹿者以外には暴力は振るわんぞ』と補足するの、どっちが安心するだろうかと考えてな……」

「……」


 今度は喜八の方が黙りこくってしまった。

 次に楼主の庄蔵が控えめに手を上げて、


「あんたが遊女を売買しているって噂はどうなんだ? おれも遊郭をやってるんで、そこは気になる」

「売買……というのは違うな。病気やら年季明けやらで引退した遊女が、行くアテがなくて多少暮らしは良くなくとも嫁暮らしをしたいと願った者に、同じく嫁を探している男を紹介しているだけだ」

「へえ……」

「遊郭をやってるなら、そちらのを引き取っても構わんぞ。まあ、当人に嫁入りの意思があって、旦那が貧乏人でも誠実なら良いというのならな。金持ちのや色男の独り身男は管轄外でな」


 九郎が云うのを、庄蔵は考え込むようにした。

 彼の店でも、年増になって客がつかなくなった女を遣り手という仕事に付かせて、遊女の世話をさせているのだがこれが案外に金を食う。

 吉原の冗談に「遣り(・・)手というが取る(・・)ばかり」というものがあるように、もはや色を売らなくなった彼女らは金を取ることだけに腐心して仕事をしている。

 そんな女を嫁に引き取ってくれる相手が居るのならば、円満退職させられてありがたいことではあった。


「ともあれ、今日のところは挨拶代わりに、うちの店で出す菓子を持ってきた。どうぞ食べておくれ」


 九郎は持ってきた重箱を部屋の中央に置いて開けた。中には複数種類の慶喜(ケーキ)が入っていて、室内に小麦粉を焼いた香ばしい匂い広がった。ここに来る前に焼いて貰ったばかりのものである。

 小判ほどの小さめに焼いたものを皿に一種類ずつ取り分けてやる。五人組は物珍しそうにその菓子を凝視していた。


「とりあえず茶を持ってこさせよう。その、一番煤けた色の菓子は酒でもいけるぞ」


 と、九郎が言って飲み物を用意させる。茶は、茶問屋である喜八が用意したものだ。

 彼らはカステラに似ているが初めて見る種類の菓子と、ヤクザが出したという事実で恐る恐る楊枝を使って持ち上げて齧った。

 そして驚いたように云う。


「甘い。こりゃあ、茶に合う」

「贅沢な味だな……」

「食感がそれぞれ違うぞ」

「これは……蕎麦か? これだけ塩っぱい。酒が合う……」


 九郎は珍しい材料を使わずに上手いこと種類を増やしてくれたスフィに感謝しながら中々の好評ぶりを見守った。事前に、家族や店を手伝う女たちにも食べさせて良い評価を得ていたものだが。

 基本となる慶喜は小麦粉と卵、酢を入れて膨らませているものでふんわりとしていて気泡の如き隙間に黒蜜がよく合う。

 小麦粉にきな粉を混ぜるものでは、僅かに粉っぽい生地を頬張ると風味が口に広がり、生地にちらした黒糖の味わいが強く出る。

 もう一つはもち米をひき潰した粉を混ぜたもので、大福のような柔らかい食感がする。これは多めに水飴を混ぜているので砂糖の値段も押さえられて、全体的に白くて甘い。

 最後のものは小麦粉に卵、蕎麦粉に塩を加えて焼き上げ、更に甘辛い味噌を塗って炙ったものである。江戸の住民は甘さにも弱いが全体的に塩っぱい食べ物も好む傾向にある。蕎麦味噌という料理があるように、焼き固まったぼそりとした蕎麦粉混じりの生地に味噌はよく合った。

 甘い菓子の中に塩っぱいものが混じっていることで舌がリセットされて丁度いい塩梅になる。


「うむ。これまでは武家の茶会で出していたのだがな、折角店が手に入ったので一般販売もすることにしたのだ。値段は安いものから、予約限定の高級品まで出す予定だ」

 

 九郎がスフィと考えながら作ったものは、とにかく材料がほぼ一年を通して手に入り、調理の手順が面倒でなく、砂糖と卵以外は安いものを使った菓子であった。

 これを更に注文販売用に値段を高くするにはこれに果物の砂糖漬けを載せたり、スフィ謹製の煮詰めた楓樹液を掛けたり、お高い白砂糖をふりかけることで高級感が出せるだろう。

 月行事五人組は、九郎が怪しいヤクザだという疑惑も忘れて──というほどではないが、近所にこういうものを売る店が出来るのは素直に歓迎されることだと思い、余計な事を九郎に聞くのもやめて菓子を食べていた。


「近日開店するので、どうぞご贔屓に」


 九郎は営業スマイルで微笑みながら、菓子の味を売り込む。

 元々家主であり豊房よりも町寄合については詳しい石燕曰く、月行事・町名主の会合では菓子が付き物なのだという。

 しかもそれに使われる額はかなり大きく、宝永三年に浅草で行われた町内会の費用によれば菓子代が銀104匁と7分とある。

 大雑把に計算すれば、銀60匁で1両=4000文なので、銀1匁が66.666文となり、銀104匁は約6933文。1分あたり1000文として合わせて13933文を1文20円計算で直すと27万8660円も菓子代に掛かっていることになる。

 つまり町名主の評判に九郎の店の菓子が挙がり広まれば、江戸中で行われているその会合の菓子に一枚噛める可能性があるのだ。

 恐らくは同じことを考えて既に既得権益として繋がっている店もあるだろうが、シェアを奪えるならば奪っておきたいところであった。

 出される菓子の定番は、饅頭・落雁・羊羹・外郎ういろうと、饅頭以外は高級品なので十分に慶喜ぐらいのランクの菓子も選択肢に入れることが考えられる。


「お土産もあるから、是非今日は持って帰ってくれ」


 やるのならば儲けなければならないということで、九郎は宣伝に力をいれているようだ。





 ********


 



 開店前の作業として、店は大工を呼んで扱いやすいよう普請をさせる。

 原材料の小麦粉、蕎麦粉、米粉、砂糖などを運び込ませて保管をする。

 それから店を徹底的に掃除するのに、雇う予定の元遊女で貧乏な夫の元に嫁いだものらを呼んだ。

 お八や夕鶴が掃除の手伝いを申し出たのだが、


「折角雇うのだから手伝って貰ったほうがよかろう。大体、お主ら働き過ぎだから少しはゆっくりしておれ」


 九郎はそう言った。特に夕鶴などはすっかり腹も大きくなっているのに、ふりかけを売り歩いたり、運動したりしている。中々に落ち着きのない妊婦であった。

 その言葉に新しい店に作った自分スペースに茣蓙を敷いて寝転がっている将翁が肯定する。


「その通りですぜ。楽をしましょう、楽を」

「将翁。お主は働け」

「……ううっ! 近頃腹が膨れて……これはまさか……九郎殿の子が……」

「お主家事もせんで飯をバクバク食い過ぎだから太ったとこの前嘆いておったろうが。いなり寿司を今日は幾つ食った?」

「……じゅうなな」

「食い過ぎだ」

「阿子も食べてましたが……」

「あやつは成長期だから良いのだ」


 近頃めっきり食う寝るばっかりな将翁に、麦芽から水飴を作る作業を押し付けた。

 水飴は薬としても使われていたことがあるので、それを作るのも薬師である彼女と阿子ならば時間を掛ければ大量に作れる。店で飴を仕入れるよりはかなり安く抑えられる。

  

 また、店の警備や番頭代理として何人かの、店員になった元遊女の夫らが家賃を払ってでも余った部屋に住み込むと言い出した。

 何せお見合いで結婚できたものの自分への自信が少ない男連中である。目の届かないところで嫁が毒牙に掛かるのではないか、他の男に惚れたりするのではないかと不安になって駆けつけたのだ。

 職人などは日中、別のところへ仕事に行かねばならないが、なんとか小間物を扱う行商をしていた者が頑張って帳簿をつけたり仕入れを覚えたりするというので番頭を任せることにした。とはいえ、暫くは九郎が教える必要はある。

 小山内伯太郎からも番犬を借り受けて住まわせている。忍びの連中と番犬で、少なくとも盗賊に狙われても九郎が駆けつけるぐらいまでは持つだろう。


「よし、後は宣伝だ。歌麿。役者が慶喜を食ってる役者絵を解説文付きで勝手に描いて売りまくれ」

「了解マロ! 吉原でガンガン売りさばいとくマロ!」


 肖像権も何もあったものじゃない時代なので、勝手にコラボするのも自由であった。

 吉原は江戸中の人間が集まる場所であるからそこで菓子を知らしめれば噂の広まりも早いだろう。


「スフィは托鉢で宣伝を頼む」

「任せておくのじゃよー」


 歌い巫女として歩く彼女は宣伝文句を即興で歌い上げることも簡単だ。根津神社あたりから客を引っ張ってくる計画であった。

 また、会合で食べさせた茶問屋の喜八も菓子を気に入ったようなので、安めのものを彼の卸先の茶屋などに売ることも打診されている。


「己れは万八楼での料理勝負に出て優勝することで話題を作ってくる」

「今お菓子大会か何かやってるのかね?」

「いや……鯖料理大会だが、まあなんとかなるだろう」

「鯖料理に慶喜を!?」

 

 そうして九郎は両国にある料亭、万八楼での鯖料理大会に飛び入り出場して見事に優勝をした。


「優勝は飛び入り、九郎の作った[焼き鯖と慶喜節度(セット)]に決定ー!」

「というかこれ、焼き鯖と慶喜とやらを別の皿でそれぞれ出しただけなんじゃ……」

「うん、この味だァー!! うんめえーッ!」

「はい、解説はいつも通りわたくしこと店の主人万八郎と美食同心、そして近所のガキ(そろそろ18歳ぐらい)がお送りいたしました! 優勝者の九郎には鯖節が一箱贈呈されまーす」

「おお、鯖節だ。これ、ラッキョウと一緒に食うと酒に最高だのう……」


 などと卑劣な手段で勝利して、それ以外にも口コミで広めに広めて江戸の住人らの期待値を上げて、九郎は準備を整えた己の店を開ける日がやってきた。

 この日ばかりは手伝いに、サツ子、将翁、阿子、石燕、スフィが来ている。また、店員の夫連中も力仕事や調理など裏方を手伝うようにしていた。

 何せ九郎がアジリにアジったものだから店の前に行列ができていたのだ。

 基本的に江戸の住民はお祭り騒ぎが好きであり、流行にすぐ飛びつき、そして新しい話題に飢えている。なので散々に宣伝をした菓子はいったいどうなのかと気になった者らが押しかけてきたのだ。

 店で食べるかお持ち帰りかを選べて、店で食う場合は奥へと案内される。

 売り出す菓子は甘味料や卵の有無などで値段を調整していて、一番安いので卵を使っていない十二文の菓子もあった。

 店は大反響で開店から一刻、二刻が経っても客足は衰えず、上がれる者は店内で、そうでない者は買って帰ることを選んだ。

 

(開店日だからという盛り上がりだが、一度食えば砂糖の甘味などにハマり、リピーターも付きそうだ)


 そう九郎は思いながらも、表で接客をしていた。

 中々の儲けになりそうな商売である。九郎は鼻歌の一つでも歌いたい気分だったが、そんなときに声を掛けられた。


「知り合いからここの菓子が旨いと聞いてきたのだが……」


 そう九郎に話しかけるのは、町中では異物感がありありと感じられる修験者風の男である。

 足には一枚刃の高下駄を履いているのだが一切バランスを崩す様子は見られない。

 

「作ったのは君か?」


 男はそう話しかけてきた。年の頃は三十ほどだろうか。

 九郎は慎重にその質問の意味を考えた。


(作った誰かが目的? 作り方を調べている他店の者か……?)


 そうなれば、下手に応えてスフィなに危険が及ぶ前にと、九郎は、


「そうだ」


 と、修験者に応えてしまった。

 するとその修験者は満足そうにうなずき、錫杖を鳴らす。

 不思議と九郎以外の誰にも聞こえてなさそうだが、澄んだ音が鳴り響いた。同時に、大風が吹き付けたように感じて九郎は思わず目を閉じた。

 


 その次、九郎がまばたきをした瞬間に──



 九郎の周囲の様子は変わっていた。

 根津、新しく開いた店の開店セールをしている非常に騒がしい現場──ではない。

 渓谷のような森と小さな川に囲まれた自然豊かな山地である。

 九郎は空気の臭いと、山の植生を見て呻く。九郎の見たことがあるような雰囲気をどことなく感じていた。



「ここは……ひょっとして、秩父山中か?」



 どうやら九郎は気がついたら秩父山中に飛ばされていたのである。まったくわけが分からぬ様であった。九郎は、大店用の茶色い山歩きに不向きな着物であることに改めて思いだしてため息をついた。


「天狗の仕業……というやつかのう。ヨグの仕業だったら泣かすが」

 

 どうやら不可思議な力で江戸から秩父まで移動してしまったようである。そういう能力で覚えがあるのは、ヨグとその侍女のイモータルだ。

 九郎が考えていると小川の下流に一軒だけ見える、何者かの屋敷が招くように戸が開けられるのを見た……


「あの屋敷に問答無用で火をつけたらどうなるだろうか……しまった。術符を持ってきておらぬな。さて、どうするか……」



つづく

九郎さん怪しい存在すぎる件

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