54話『伯太郎と愛犬家たち』
色々あって阿子を引き取ってからのことである。
『阿部将翁』という人格に相乗りして生きてきたような阿子だが、新たな自我に目覚めたもののそれはまだ弱く不安定だった。
屋敷の者らとの触れ合いにより生まれた意思は危ういものがある。時折、阿部将翁としての考え方に囚われている自分を自覚しては思い悩むような仕草が多く見られた。
先に嫁入りしてきた雌狐将翁の方は、適当に折り合いをつけて人格を形成しているのだがそこはもういい歳だった女と、記憶と経験は引き継がれたものの肉体は少女だった阿子との差だろう。他の阿部一族でも、年齢を重ねれば個人差も生まれることが多いのだという。
だがひとまず、一族から引き抜いてしまう形になった阿子をどうにか真っ当に育ててやらねばならない。
「このままではクローに依存したり、屋敷から離れるのを酷く怯えるようになるかもしれないと思うのじゃよ」
「ううむ、実は己れもそれを危惧しておるのだ」
そう話し合うのはスフィと九郎であった。人の悩みをよく聞いてきた司祭という立場であり、九郎よりも年上なスフィは相談相手に良い。
昔から九郎にとって彼女は頼りがいのある女友達なのであった。かつては九郎が異世界の役場で騎士をしていたときも、職員の人生相談や見合い話を相手にするときにスフィを頼って共に相談員になったこともあった。
「己れに助けられた恩とやらから、他の選択肢を思い浮かべるでもなく愛人にでもなるようなのは、どうもあまり良いこととは思えん。捨てられた子犬が拾った人間に懐くのとはわけが違うのだからな」
「このままじゃと規定コースでそうなりそうだとクローが自覚できるのが意外じゃが……」
スフィが微妙そうな顔で云う。
彼女からしてみれば、九郎という男はやたらめったら鈍感で自己評価が低く、恋愛的に枯れているタイプだと実感している。
ため息をついて九郎は顔を振った。
「前例がおるからのう……」
「ああ、そういえばお主の嫁妾は恩があってくっついた者ばかりみたいじゃな。将翁以外」
「お八に豊房などか。あやつらとて、己れ以外を選べる時間のほうが長かったぐらいだ。というか普通はフラッと居なくなったフーテンなどを四年も五年も思い続けたりせんのに。色ボケした将翁はともかく」
普通、思春期に年上へと感じた好意など他の男性と接するうちにやがて憧れだったという思い出に変わるものだ。
特に何年も合わなかったとなれば尚更で、お八も豊房も縁談が幾つもあっただろうし或いは男から好かれることもあっただろう。
二人共、一般的な少女よりも外に出て働くことも多かった。多くの人間を見て、男性の基準を自分の中で作り、よくよく比較すれば定職にもつかずに未亡人を誑かして小遣いを稼ぎ、危ない上に稼ぎにならない同心の仕事を手伝い、時々博打で素寒貧になったり薩摩人と付き合いがあるような九郎はかなり事故物件であることが理解できるはずだった。
大体九郎は、知人として付き合って利益を得るならば相当に便利な存在だが、やたら危険に首を突っ込んだり時々行方不明になったりするので家族として付き合うには大変だろう。
だというのに、
「帰ってきてからもアレではのう……」
九郎的に言えば、あんまりな表現だが未来あるはずだった少女らがダメな選択をしてしまったというところか。親戚の娘がニートになったのを見たような気分であった。しかも、その原因が自分であるという。
そうなればもはや引き取る他は無かった。嫌々、というわけではないがもっと良い相手が居たはずではないかとも当初は悩んだのだが、まあ子供まで作っては今更であるので素直に大事に思っている。
「しかしその好意が重くて密かに引いたが……む? どうしたスフィや」
彼女は「重い……引く……」などとぶつぶつ呟いた後で頭を揺らしながら軽くリズムに載せて告げてきた。
「四十年や五十年なんぞなんのそのー」
「何がだ?」
「クロー。寿司なのじゃー」
「はいはい。今度作ってやるから」
何故かスフィが話を逸らしたことに首を傾げながら、九郎は彼女の好物を作ってやろうと決めた。この時代の寿司は飯に刺し身を混ぜ込んで、発酵させる時間を惜しみ酢で味付けしたものが多い。だが折角なので九郎は握り寿司を自作してスフィに出すのが定番である。
食べさせる度に何か一瞬悲哀のような目で寿司を見るが、好きなことは好きのようだ。
ため息をついたスフィが頷いてから言う。
「まあ、とにかく阿子にとって大事なのはちゃんと多くの者と関わり、自分の意思による選択をできるようになることじゃな。『大好きな歌しか知ろうとしないのではなく、千曲聞いた中から大好きなものを選べ』と歌神の聖言にもある」
「うむ。というわけで阿子に社会性を身につけさせるにはどうしたらいいだろうか」
「そうじゃな。見たところまだ心が剥離した影響で傷つきやすくなっておるからそれを癒やしてからの話じゃの。それにはちょうど良い相手がおる」
スフィが自分のこめかみを軽く叩きながら思い出しつつ話す。
「阿子は明石をよく撫で回しておったじゃろ?」
「ああ、そういえば。犬好きなのかのう。将翁のやつは唸り声を上げられるから、明石にもあまり近づけんのだが」
将翁の場合は妖狐と混じっているので、天敵である犬からは嫌われるというデメリットを受けているのである。
しかしながら女所帯に居心地が悪かったのか、阿子は明石か九郎と過ごすことも多かったようだ。共に過ごした九郎に情が湧く程度の無垢さなので、なんとなくそのまま犬好きになったのも阿子の持つ少ない固有の特徴の一つであった。
「それに動物と触れ合うのは心を癒やすのに効果的なのは有名じゃな」
「確かアニマル……アトピー?」
「セラピー! それは単に犬猫に触れるとかぶれる人のことじゃ!」
「すまん。語感だけで言った」
咳払いをしてスフィが話を続ける。
「じゃから知っておるところで、犬を多く飼っていて、阿子に好意的な人物がおるからまずそれと知り合いになってみてはどうじゃろうか」
「……誰?」
「伯太郎の坊じゃ」
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小山内伯太郎。二十六歳独身。職業は町奉行所の同心である。
町方同心の例に漏れず彼も八丁堀の役宅に住まいを持っているのだったが、郊外にある親戚の農家にて犬を養育しているのだ。
小山内家は徳川綱吉の頃にはお犬様を育てる役目にあり、その生類憐れみの令は廃されて犬の多くも餓死か野犬になったのだが一部の生き残りを飼って躾をし育てているのであった。
彼の躾けた犬はよく人の言うことを聞き、猪や狸に畑を荒らされる農民や猟師などが購入していくという。ただ、試し切りや薩摩めいた食料的な理由で購入しようとしてくる客には売らないように徹底している。
九郎とスフィはひとまず二人で、伯太郎の住居である八丁堀へ向かっていた。
日中は仕事に出ているかもしれないが、それならば書き置きでも残しておけば仕事でそのうち外廻りのついでに向こうが訪ねてくるだろうという算段である。
「しかし伯太郎にか……うーむ」
「なんじゃ? 何ぞ不安でもあるのかえ?」
「不安というか不安しかないというか」
不安に感じているのは勿論、伯太郎が少女へ尋常ではない関心を抱いている性癖を持った男だからである。
同心の中でも三廻組に所属している彼は町を歩く合間に、目を付けた十代前半ぐらいの可愛い少女に声を掛けるのが趣味なのだ。
伯太郎という男、見た目だけはこざっぱりとした優男風で見栄えは良いので女性を安心させやすい。同じく稚児趣味な利悟の方も見た目はまともなのだが、伯太郎に比べて鍛えられている体つきと独特の気持ち悪さがあるので彼は警戒される方であった。
伯太郎の方も九郎の屋敷で狐面少女が養生していると聞きつけて見舞いに来るなど、阿子への関心も強いようだ。
なお、以前は風烈見廻組に所属していたのだが、九郎と共に悪党を挙げたことが何度かあったことから定町廻りへと配属替えされたのである。これらの違いは職務だけではなく、風烈見廻は与力の部下として行動をするが三廻り組は同心のみで職務にあたるので、優秀な者がそれに任命される。
「なあに、話したところ根は悪い者ではないしのー。犬と子供を大事にする心も持っておる。手は貸してくれるじゃろ」
「だがあやつのテリトリーに阿子を預けて手を出されぬかどうか……」
「ちゃんと約束させれば大丈夫じゃって」
妙にスフィはあの犯罪同心の片割れを信用しているな、と九郎は怪訝に思う。
彼女の場合は聴覚に優れていてかつ人の話を聞き慣れているので、相手が上辺だけの言葉を口にしているか、嘘で取り繕っていないかなどはすぐにわかるのだ。
その技能は人間観察に使われ、更に年の功による経験で善い人間と悪い人間の区別を付けるのは得意なのであった。
「クローは心配しすぎじゃな。もっと知人を信じてみるといい。お主の周りに、そうそう悪党はおらぬのじゃよ」
にっこりとスフィは笑みを作る。彼女から見ても九郎の周りには多少性格に難がある人物が多いのだが、嘘つきで性格腐ってる感じなのは魔王ヨグぐらいだった。
もっともそのヨグのことは九郎もさっぱり信用していないので、特に警告はするまでもないが。
彼女の言葉に、九郎も「むう」と呻いた。自分があまりに知人を疑っていたような気分になり、バツの悪さを感じたのだ。
「そうか……じゃあ今度影兵衛が挨拶代わりにぶん回してきた刀を信じて避けないでみるか」
「あ。それは避けたほうがいいのじゃよ。何度目で死ぬかなーとか考えながら切りかかっておるようじゃから」
「あやつマジ……」
九郎は肩を落としながら歩いた。影兵衛の挨殺は頻度こそ減ったものの、今だに危険であるようだ。非常に無駄なことに。
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八丁堀には同心・与力が住まう組屋敷がずらりと立ち並んでいる。同心ならば一人百坪ほどの土地を与えられ、そこの中に家を持つが余った土地にも借家を立てて人に貸したりもしている。
ここの界隈はそうした屋敷が百以上もあるので、ぎっしりと長屋の詰まった江戸の中では中々に余裕のある豪勢な町並みであり、治安も相当に良い一等地であった。
伯太郎の場合は屋敷で犬も何頭か飼っているので、九郎とスフィが家に近づくとすぐに犬が伯太郎に知らせに走ったようだった。
どたどたと足音を立てて、伯太郎は玄関先に出てきて、九郎の姿を確認して両手を拝むように合わせた。
「ちょうど良かった。是非助けて欲しいことがあるんだけど」
彼は仕事を終えて帰ってきたばかりのようで、紗の透ける羽織をした黒袴姿に二本差しである。どこか憔悴したようなげっそりとした顔つきに、ぎらぎらと目を光らせていて如何にも何か事情がありそうな雰囲気であった。
九郎に続いて入ってきたスフィを見ると伯太郎は慌てて頭を下げた。
「これは婆さま! こんなむさ苦しいところに……ささっ、大したもてなしは出来ませんが、飴でもどうぞ」
「あみゃい」
早速渡してきた飴粒をスフィは口に入れてコロコロと転がした。伯太郎と利悟は少女に与えるためにいつでも甘い飴などを持っているのであった。
伯太郎は九郎より年上で老いないと自己申告している少女スフィを天女か何かの化身だと信じて敬っている。
少女好きである彼にとって理想的な存在なのだが、あまりに高嶺の花であり手を出すと九郎に殺されるのでこうしてスフィと関わるだけのささやかな幸せで満足しているのだ。
「とりあえず中へ……野分、婆さまを運んで差し上げなさい」
伯太郎がそう云うと、のっそりとした動きの中型犬がスフィの横に伏せた。
一瞬「うみゅ?」と悩んだものの、筋肉質なその犬の体つきを見てスフィは思いついたように背中に跨ると、野分と呼ばれた犬は立ち上がってスフィを載せたまま家に運ぶ。
「おお! 楽しいぞこれ!」
犬の背に揺られるという体験でスフィが嬉しそうな声を上げた。
「はっはっは。何よりです。女の子を載せたまま連れて行くために教え込んだのですが」
「伯太郎」
「嘘ですごめんなさいやってません」
九郎のドスの利いた声に慌てて優男は首を振って否定する。
「お茶でも飲みながら事情の説明を……っ」
伯太郎が云いかけると、彼の側に居る犬が耳をピンと立てて北西の方を向き、唸り声を上げる。
苦々しい顔で伯太郎が呻く。
「くっ……今日も来たか!」
「どうしたのだ」
九郎が問いかけるが、伯太郎は草鞋をきつく結び始めた。
「犬を飼っている郊外の農家が襲われているんだ! 今すぐ助けに行かないと!」
「何? それは穏やかではないのう」
「ふーみゅ。いきなりの事件じゃな。クロー。坊に手を貸すとするかえ」
「そうだのう。他人事ではないのだし」
これから店に番犬を借りたり、阿子を紹介しようかと思っていた矢先だ。ここで手伝っておけば悪いことにはならない。
そういう打算もあるが、何より襲われているという緊急事態は見過ごせない。伯太郎自身ならまだしも、彼の飼っている犬が危ないかもしれないのだ。
「私を背負ったままは走れんじゃろー。クロー、交代」
「ほい」
スフィが手をバンザイするように差し出してくるので、九郎は慣れたように彼女を持ち上げて小脇に抱えた。
それを見た伯太郎が指を咥える。
「いいなあ」
「早く案内せい」
「おっとそうだ……じゃあ向かおう!」
告げると伯太郎は同心の格好のまま、大きめの犬を三匹ほど連れて走り出した。
廻り方同心の着物は身幅を狭めて体にピッタリと纏えるようになっており、歩くと裾が割れるように仕立てられているので走るには適したものである。
犬の危機もあって伯太郎は大急ぎで町中を駆け抜け、その後ろからスフィを抱えた九郎が追いかけて付いていくのであった。
「おい伯太郎。走りながら事情の説明とか」
「全力! 疾走しながら! 喋れるのは君とか利悟くんとかそういう変態だけだから!」
九郎は軽々とスフィを運んで並走しながら嘆息した。
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江戸の北、現在の荒川区にある田畑村は当時その名の通り田畑が広がる田舎風景であった。
そこにある農家で小山内伯太郎の親戚が土地持ちの百姓をしながら、十数頭は常時居る犬の世話をしている。
小山内家は将軍綱吉の頃には犬の世話係として役目に付いていたのだが、将軍が代替わりをした際にその犬公方の行いを積極的に否定する方針が幕府で取られて、巻き添えで役目を失うことになり農民にならざるを得なかったのである。
それでも伯太郎だけは伝手を通して下級だが武士の同心になることができ、お家の再興を期待されつつも彼の親戚は応援しているのであった。
そんな、畑とあぜ道に囲まれた農家の玄関口にて、二十人あまりの人が家の前の道に集まり、農家からは鍬を持った老婆と大きな犬が彼らを通さんと威嚇していた。
「ババア! そこを退け! 今日こそは犬を貰いうけるぞ!」
「煩いよカス共! あんたらこそ犬の餌になりたくなければ失せな!」
「そうやって犬を独占しやがって! 俺らにも分けろ!」
「雲隠!」
老婆が名を呼ぶと、その隣に居る犬は雲間で雷が鳴るような唸り声を上げて、顔に皺を作り恐ろしい目で人々を睨んでいる。
やや黄色がかった白い体毛に太い手足、普通の犬よりも大きな体と長い犬歯を覗かせている。
それは狼──それも山狗ではない、蝦夷狼である。かつて綱吉への献上品として松前藩から送られた狼の子が居たのだが、それの残り一匹となった最後の子孫であった。
本州の日本狼に比べて大柄で迫力も強く、老婆だけではなくこの凶獣が居るからこそ集まった者らもたたらを踏んでいるのだろう。
現代日本でこそ絶滅してしまったので脅威を感じないが、昔は野山で襲われて殺される狼に対しての恐怖感は比べ物にならないぐらいに本能に刻まれていた。
しかしながら、集まった者らも棒や石、刀まで手にした者が居て一触即発の状態を見せている。
そこに、息を切らせた伯太郎と九郎らが駆けつけてきた。
憎々しげに伯太郎は集まった者らを見る。一方で九郎は、
(なんだ……? 襲われているというわりに、統一感の無い集まりだな)
そう感じる。
二十名あまりの襲撃者は、格好からして町人に無頼、浪人や博徒風の者が混じっている。中には老人も混じっていた。
「貴様らー! また来たのか! 一歩でも敷地に踏み入ってみろ! しょっ引くぞ!」
伯太郎が怒鳴りながら大股で歩み寄ると、嫌そうな顔をして民衆は彼を見た。
さすがに同心の目の前で襲撃事件を起こすわけにはいかないとは思っているようだ。そこで居ないところを狙ったのだが、犬の遠吠えで危難が伝わりこうして駆けつけてきたのである。
へりくだるような、だが挑発するように襲撃者の一人が云う。
「お侍様よぉ! 俺らは単に、犬ころを売って欲しいだけだっつーのにこうして断られるから、皆で訴えに来ているでさあ!」
「金は払おうってんだから、素直に売ってくれりゃすぐにでも帰るぜ!」
「やかましい! お前らに犬ちゃんを売ってなんかやるもんか!」
伯太郎は輩を押し分けて農家の門前に立ち、全員を見渡して歯をぎりぎりと鳴らしながら叫ぶ。
「犬を食おうなんて奴らに売ってたまるかぁー!!」
ああ、そういうことかと九郎は納得した。
彼らは伯太郎の飼っている犬を食べるために押しかけてきているのだろう。なんとも、愛犬家としては許されざる事態であるようだ。
「ふーみゅ。クロー。ここは犬を食う国なのかえ?」
スフィが抱えられながらも聞いてくる。
「そうだのう。まあ……薩摩人とかは食うと聞いているが、案外普通に皆食い物として認識しておるようだ」
「じゃ、じゃあうちで飼っとる明石もいずれは……!」
「いや、己れは食わんから。うちの連中も……サツ子は時々妖しい目でみているけれど、明石はさすがに食わんだろう」
九郎とて犬を食う文化があることは知っているが、好き好んで食べたいものではないと思っている。飼っている犬なら尚更だ。
「私も食ったこと無いのじゃが、こうして熱狂したファンが他人の家に押しかけてるとなればひょっとしてこの世界の犬は麻薬的な中毒性でもある美味なのかえ?」
「そんなはずは無いと思うが……」
武士であり犬の所有者でもある伯太郎が現れて退散を命じても、
「犬を寄越せ! それだけ守ってるってことは、余程旨いから出し惜しみしてるんだろう!」
「犬を食うと元気が出るでよー!」
「へへっお侍さま! あっしは犬を大事に飼いますから安心してくだせえ!」
「黙れ黙れ! とっとと失せて二度と近寄るな! あとお前! 鍋を持ちながら大事にするとか全然説得力無いぞ!」
と、言い争いを続けているほどに犬に執着しているようだ。
かなり集まっている犬食い友の会の連中は目が血走っているし、涎も垂らしていてまるでゾンビのようだ。スフィが麻薬成分を疑うのも無理はない。
これを見ていて、九郎もなるべく明石は町に出さないようにしようと改めて思った。番犬として飼っている明石は九郎と特別の捜査でもしない限り元よりあまり出かけないが。敷地内をウロウロとして散歩も済ましているようだ。
江戸人は犬を食料的な意味でどれだけ好きだったかというと、丁度この享保の頃に大道寺友山が書いた記録『落穂集』の十巻にはこうある。
『又、私たちが若い頃は江戸の町では犬は稀にしか見ませんでした。これは武家、町方ともに下々の食べ物として犬に勝るものは無いと言う事で、特に冬になると見掛け次第打殺し賞味したためです』
江戸では犬を見ることも少なかったほどに食べられていた、とされている。やはり熱狂していたのかもしれない。
「しかしこれでは埒があかんのー」
伯太郎の言葉にも帰ろうとしない連中を見ながらスフィは云う。
さすがに伯太郎の方も犬を売るの売らないので刀を抜いたりするわけにはいかず、それを相手もわかっているので強気で武士相手にも食って掛かるのだろう。
「全員己れが殴り倒しても解決はせんしのう。スフィ、大声で戦意喪失させるとか出来ぬか?」
「あんまり大きな叫びを出したら、犬の方の耳が悪くなりそうじゃしなー……そうじゃ。考えがあるから、私を連れてこっそりあの農家の敷地内に入っておくれ」
「わかった」
九郎は頷き、スフィを抱えたまま隠形符で透明化して空を飛び、塀で囲まれた敷地に入って降りた。
犬がこちらを見ているが、伯太郎や明石の匂いが付いているからか襲いかかることはしないようだ。しっかりと彼の飼いならしている犬たちは教育ができている。
詰め寄っている犬を食いたがっている連中から見えない事を確認して、スフィは作戦を説明する。
「私はここで世にも恐ろしげな唸り声をあげるので、猛獣が居ると説明してビビらせるのじゃよー」
「おう。任せろ」
そう云って九郎は伯太郎の隣に行く。いつの間にか後ろに回っていた彼に軽くぎょっとするが、汗を沢山掻きながら困った顔をしている伯太郎はすがるように見てきた。
九郎が軽く手で制するようにしたとき、スフィが唸り声を上げる。
『ヴゴロラグロボオオオオ゛グギョラエゲラアアアア……!!』
地獄の底から聞こえるような、シュウシュウとした蒸気が口から漏れる音も混じる声に全員が声を徐々に鎮めて行く。
「お、おい。何だよ今の……鳴き声」
「お主らが騒がしいからとうとう目覚めさせてしまったようだのう……享保の怪物を」
「怪物!?」
『ゲルギムガンゴオオオグフォオオオオ……!!』
音としては大きくないのに、体をビリビリと振動が震わせて非常に危険な気配を正体を知らない者らは感じる。目を瞑っていても顔のすぐ前で巨大な人食い熊が唸り声を上げているような恐ろしさだ。既に腰を抜かす者まで現れている。
伯太郎と老婆は慌てて敷地を見るが、スフィが胸に手を当てながらまるで歌い上げるような格好で口を開いているが、その口から怪物の声が聞こえてくることに脳が理解しようとしないので混乱していた。
「この家で飼っているのは犬だけではない……恐るべき妖獣がおるのだ」
「お、脅しだ!」
「馬鹿め。そこらの獣にこの鳴き声が出せるものか。今はまだ寝起きだから、静かにしておれば良いが本格的に目覚めると……」
『ア゛ア゛ジャアア゛ラァガァァァァヴォグレェェェン……!!』
九郎はさり気なく氷結符で周囲の温度を急速に下げながら、深刻な顔で告げた。
「ここに居る全員、食われて死ぬぞ」
そう告げると同時に、後ろずさって走り逃げ出す者が居た。それを皮切りに、次々に集まった皆は逃げていき、やがて全員居なくなった。
「ふう……もう良いぞ、スフィや」
「こんなもんかのー」
先程まで恐ろしげな声を上げていた少女から、美しい澄んだ声が出てきたので老婆は目を見張った。
********
老婆の名は『お狛』と云い、伯太郎の大叔母にあたる人物だという。
家に案内されると、布団で寝込んで上体を起こしている中年の男と、その妻。それに小さな男児が二人居た。
どうやらやり取りの間は家の中に隠れていたようだが、
「ほら、うちの息子がこんな調子だろ。それに嫁さんは気弱で怒鳴られると涙目になるってんで、おれがあの糞ったれの相手をしなけりゃならないってわけだよ」
お狛はそう言いながら、三人に白湯を出した。息子が病を受けて養生していて、嫁とお狛は畑を耕さねばならない。幸いに、幼い子供二人は犬が相手をしているので手はかからないようだったが、犬の調教にまで手が回らない難点があった。よく犬を狙った連中がやってくるなら、尚更手間だ。
汗だくになっていた伯太郎は手ぬぐいで顔を拭きながら白湯を一気に飲み干しておかわりを要求する。
大きく息を吐いて疲れた様子で伯太郎が云う。
「ここのところしょっちゅう、示し合わせたように大人数でやってくるんだ。自分が来ないと危ない場面もあって……」
「一人二人なら、雲隠とおれで追っ払えるんだけどね」
「大変だのう……」
「あ、これ手土産に持ってきたお菓子なのじゃ。良ければ食うのじゃよ」
スフィは持っていた包みを出して広げる。そこには薄焼きで手のひらに乗るぐらいの小さなパンケーキが何枚も箱に入れられていた。
お狛は「どれ」と手にとって口にする。あまり見たことがない、茶色い円盤状の菓子は味の想像がつかなかった。
口に含むと黒糖のコクがある甘味と、きな粉のまったりとした味わいが口の中で溶けるようだった。
「きな粉の慶喜じゃな。黒蜜の代わりに、砕いた黒糖を溶かさずにまぶしておるぞ」
スフィが説明をした。売り物にするパンケーキのバリエーションでは、小麦粉へきな粉やそば粉を混ぜることで簡単に風味の異なる慶喜を作ることができるのだ。これにより季節による穀物価格の変動にも柔軟に対応できる。
現代でもホットケーキミックスにきな粉などを混ぜると、なんとも黒蜜が合うような和の味わいがあるものが焼きあがる。
お狛は甘くて旨い菓子というので、それを息子夫婦と孫に渡してやる。小さな少年二人は夢中になって頬張り、一つを二つに割って食べた夫婦も「頬がとろけるようだ」「美味しいですね」と言い合っている。
九郎は営業スマイルで伯太郎の肩をぽんと叩き、小声で囁く。
「ほらお主、あの笑顔を見よ。これはもう、土産として己れの店で時々買って持ってくるしかあるまい」
「く、九郎くんの店で? 幾らで?」
「二百文だ」
「高い……!」
伯太郎は額を押さえて目を背けた。
「犬の餌代も工面してるからなあ……あんまり余裕が」
「まあ……これだけ飼っていればのう」
九郎が縁側から庭を見ると、十匹以上の犬が遊び回っているのが確認できた。子犬の数のほうが多く見える。
他に犬を飼っているところからの伝手で子犬を交換したり、犬同士をかけ合わせたりして犬を増やして、育てて一人前になったら依頼されている農家や猟師に譲っている。
ちなみに犬の餌としては野菜の切れ端などを入れて薄味を付けた雑炊や粥などを九郎も食わせていた。ドッグフードや肉の類などは手に入らない江戸では、普段の食事としてありふれた材料で犬も食えるのは米である。
「しかし、それより問題はあの犬食べたがり集団だのう。一時的に追い払ったが、解決にはなっておらん」
「そ、そうかな。怖がって二度と来ないとありがたいんだけど」
「姿も見ておらん怪物など、一時的な恐怖にはなれども時間と共に怖さは薄れるものだ。毎回脅せば別だろうが……」
「うん! それがいい! 婆さまはこの家に住んでもらって……! 勿論最高の待遇で……!」
「伯太郎」
「冗談です! ごめんなさい怖いから瞳孔開いて睨まないで!」
スっとお出しされる九郎の殺意に伯太郎は即座に前言撤回した。
「おい伯の字。おれはまだそのお客さんたちを紹介されてないんだけど」
お狛が拝み倒している伯太郎に云うと、彼は顔を起こして大叔母に紹介した。
「ええと、こっちは九郎。お助け屋をしていて頼りになる。前に明石を上げた人」
「ほう。あの気難しい明石をな」
「うちで気ままに過ごしておるぞ」
皺の深い老婆は僅かに笑みを作ったように口角を上げた。
「それとこれはスフィ婆さま……! 憧れの天女様なんだ……! ばあちゃんより年上だそうで」
「スフィなのじゃよー」
「へえ」
キラキラと目を輝かせながらスフィを紹介する伯太郎の様子を見て、お狛は聞く。
「なんだったらうちの伯の字の嫁にならないか」
「なななななななな……」
慌てたように伯太郎がガクガクと震え声を出す。
「残念じゃが、私はこの連れ合いがおるからのー」
そう云って九郎の袖を引っ張り、照れた笑みを作る。
九郎は僅かに瞑目して頷く。まさにスフィは人生という旅路における連れ合って進む者だと云えよう。的確で、それを意味する表現だと納得した。
残念そうにお狛は息を吐く。そろそろ彼女としても、武士に戻った伯太郎に嫁が欲しいところなのである。同心は世襲制ではないという建前があるが、実質は親から子などに継がせる場合が多い。
「それで襲撃をどうするかという話だったな。いつでも己れらや、それに伯太郎も助けにこれるとも限らんのだからあやつらには犬を食うことを完全に諦めさせねばならんのだ」
「それにしても、なんでそんなに犬が食いたいのかのー」
「うーん……反動的なところがあると思うんだけどね」
「というと?」
問い返すと伯太郎は隣に座った犬を撫でながら、
「言うまでもなく五代将軍綱吉公の時代に犬食は禁止されるどころか、保護されて大金を使い庶民よりも豪華な食事を取らされていたぐらいだからお犬様には恨みが募っているんだ。もう二十年も前だけど、それはもう深く」
「ほう」
「生類憐れみの令が禁止された瞬間に、恨みを晴らすべく町中で大手を振って犬を食べる人が続出したぐらいだ。絶対そんなにしてまで食べて旨いものじゃないと思うんだけど、逆張りというか当てつけがましいというか……つまりはそういう野蛮な行為を禁止しようとしていたんだけど、反動で余計に酷いことに」
「ふうむ……犬にとっては災難だのう」
実際、管理が行われなくなったお犬様の小屋では夥しい数の餓死した犬が発生したとも伝えられている。
「だからこそ、出来る分だけでもうちで保護しようって活動をしていたわけで」
「そうか。それは偉いぞ、坊」
「撫でられた……! もうこの頭洗わない……!」
「八丁堀に沈めるぞ」
一々スフィからリアクションを貰うたびに感激する伯太郎に九郎は舌打ちをした。
どうも彼女は自分に好意を向けている相手にサービスをする癖がある。歌神の司祭としてアイドル的な活動もしていたので身についた施しの性格かもしれない。
「とにかくあの連中と来たら、普段何を食べているかわからないけど『昔あれだけ食べてた気がするから、犬は相当に旨いものだったはずだ』って思い込んで押しかけてきてるんだ。
強固に断れば、『自分たちばかり食べて楽しんでいるのだろう』とか言い出して余計に想像上の犬肉が価値を増しているみたいで……」
「面倒な連中だのう……」
お狛も頷いて、
「近頃は自分以外の代理人をこっちに差し向けて犬を買いに来たりしてね。まあ怪しいって思ったやつには『ところでこの犬、なんて名前を付けるつもりだい?』って聞いたら面白いぐらい動揺するのさ。人から頼まれて、それでしかも食い物だと言われている犬に名前を付けるなんて最初から思ってもみないからね」
夜陰に乗じて犬を盗みに来る、という手段を取った者も居るらしい。
だがそこは夜目が利かずとも鼻の利く犬である。すぐに番犬が起き出して闘犬技『顎砕き』で撃退したという。
しかしながらそれで諦める犬食い愛好家ではない。攻撃された恨みも食欲に変えて、余計に犬を食ってやるという気持ちを固めたようだ。
「あの手この手じゃのー。こりゃ、なんとかせんといかんぞ」
「うむ。うちの明石に目を付けられても困るからのう」
「でもどうしようか……正直言って、見て見ぬふりをするから九郎くんが全員山に埋めるとかしてくれたらすっきりするんだけど……」
「同心が殺人を依頼するな。さすがに犬を食う食わぬで殺したらこっちの目覚めが悪いわ」
伯太郎の恨みが篭った物騒な案を却下してから考える。
「理屈で説いても無駄なはずだ。暴力を振るっても怪我はいずれ治る……食う気を完全に無くさせるには……」
なんとなく九郎が思い返すのは二十代の頃。彼と親しかった晴井玖音という幼馴染が大学でしつこい男に好意を持たれて、九郎に相談してきた。
彼女の父親やその友人らは、歯を全部抜いて(身元の特定が困難になるらしい)山に埋める解決策を提案したのだが、九郎が穏便に済ませようと探ったところその相手は玖音が裕福そうだという部分を狙っているらしいことを突き止めた。
その報告を聞いた時点で父親らの解決策が半分だけ埋めて猛獣に食わせるに変化していたが、九郎は解決策として仲介して海水浴に玖音と相手を連れ出して──彼女の背中にバッチリある刺青を目にさせてドン引かせた。
無害で裕福なちょろい娘という評価から、ヤクザの娘という風に変えさせて相手の感じている価値を無効化したのだ。
その経験から言うなれば、つまり犬食に異様な執着を持っている彼らの、犬肉への評価を下げまくれば欲しがることもなくなるはずだ。
「よし。ではあやつらに激マズの犬鍋でも用意して食わせてやろう」
「ええええ!?」
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準備に多少時間が掛かり、日も見えなくなったが空はまだ明るいそんな夕方の時間帯。
集まった連中で身元がわかっている者が何人か居たので声を掛けて、
「犬を食えぬお主らの不満はよく分かる。己れの方から伯太郎を説得して、犬鍋を馳走してやることにした。犬の味をしればあやつも売るようになるだろう」
「本当か!?」
「うむ。それで、折角だから皆も呼んで食ってもらおうと思ってな。集まっていた者らに声を掛けてくれぬか」
そう何人にも持ちかけて、犬を食うために伯太郎から譲ってもらおうとしていた者をなるべく多く集めたのである。
薄暗くなった農家の近くで、篝火を九郎は用意して昼間よりも多く三十人ほども集まった皆を見回して云う。
「よく来てくれた。材料はたっぷりあるので、遠慮せずに食べてくれ」
「早く食わせろー!」
「まあ慌てるな。今、鍋に火を掛けるから……」
大きな鍋が即席で作った竈の上に載せられた。中には水が張られ、赤々とした細かい肉に骨が入れられている。僅かに生臭い匂いが、夏の蒸し暑い夜に流れたが熱狂した彼らは深く考えなかった。
「いくぞ」
九郎は唾を飲み込んで、炎熱符で鍋を一気に加熱させた。
ぶくぶくとあぶくが浮かび初めて、肉が熱されて蒸気とともに獣臭が溢れる。
いや。
それは獣臭というレベルではない。強烈な催吐性を備えた異臭だ。水の中で腐った貝殻にも、真夏の水槽で死んだまま放置した亀の臭いにも似ている。
九郎が起風符でそちらに積極的に臭いを送り込み、鼻や口で吸い込んだ彼らが瞬間に、
「おっ」
と、胃液がこみ上げて一気に集まった者らは吐瀉し始めた。
胃が痙攣している。臭いだけで食中毒になったように、皆は動けずに涙と胃液を垂れ流して「げえええええ」とか呻きながら顔から水分という水分を吐き出している。
それほどまでに、
「臭い……」
のである。
九郎は新鮮な風を生み出しつつも鼻を押さえて、すぐ手元の鍋を見る。
黄色い脂がぐつぐつと固形化していて、赤茶けた煮汁に浮いている。殆ど毒物のような臭いの発生源である。
言うまでもなく九郎が用意したのは犬肉を使った鍋ではない。
地鼠やモグラなどを千駄ヶ谷の忍び百姓に頼んで捕まえてきて貰い、それを解体して作った肉である。これらは臭腺を持ち強烈な臭いを放つ生き物で、それを皮も放り込んで煮込むことで臭いを更に強めて周囲に拡散させたのだ。
はっきり云ってトラウマ級の臭いになる。都市部でやったら確実に通報される。そんな臭いを前に、食欲などと云う感情は確実に失せているだろう。
苦しんでいる彼らに絶え間なく悪臭を送り込むと、吐き出す胃液も付きて涎を撒き散らしながら喉を枯らすような声で嘔吐している。
その様子をスフィは布切れで鼻を押さえつつ、僅かな臭いに気分が悪く涙目になりながら云う。
「鬼かクロー」
「いや……風止めたらこっちにも臭いが漂うし。しかしそろそろいいか。お主ら、今時の犬肉はこんな臭さをしておるぞ。本当に食いたいのか考えてからくるのだな」
九郎はそう告げながらも悪臭吹付けっぱなしだと彼らの行動不能が回復しないと思い、鍋を瞬間的に氷結させて臭いを止めた。
暫くしてどうにか立ち上がり、これ以上の悪夢は無いとばかりにゲロまみれになりながら去っていく男たち。彼らは犬の姿を見ただけで嘔吐するほどの心の傷を負ってしまったという。
「後はあの連中をダシにして、江戸中で犬肉の不味さは異常だという噂を広めさせれば今後もばっちりだな。そこら辺は得意な忍びがおるから大丈夫だろう」
実際、江戸の者は武士も町人も犬を食うために野良犬を狩るという話も上がっていたが……
それを本当に食べていたものはごく一部のはずだ。江戸の人口の腹を満たすほどの野良犬は、それこそ生類憐れみの令解禁直後ぐらいしか居なかったのではないだろうか。
殆どの者は伝聞で犬が旨いらしいと聞いた程度のはずなので、不味くて臭いで吐いた実体験混じりの噂を流してやれば味を知っている少数の者はともかく、一般人からは徐々に忌避されるようになるだろう。少なくとも、その噂の発生源なこの犬屋敷の犬は狙われまい。
「いやーしかし単純な暴力よりひどい目にあったのじゃなーあやつら」
「肉は暫く食えんかもな」
そう言いながら結果の報告に九郎とスフィが農家に戻ると、
「た、大変だー! うちの犬がゲロを吐いてぶっ倒れだしたー!」
「……」
「……」
犬の嗅覚は諸説あるが、人間の百万倍以上。
そんな鼻を持っていると、多少離れていようが人間が行動不能になるだけの悪臭が発生したことで、伯太郎の犬たちもぶっ倒れているのに九郎とスフィは冷や汗を浮かべて顔を見合わせた。
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幸い、犬も暫くすれば回復したことでどうにか一件落着した形になった。
経過はともあれ伯太郎の問題を解決したので今度は九郎が頼む番である。
要件は二つ。一つは店舗の番犬を都合して欲しいということ。
薩摩人を用心棒にするか、番犬を用意するかで悩んだのだが実際店に通う予定の女やその亭主から意見を聞いたところ、
「犬でお願いします」
「犬で」
「薩摩人は勘弁を」
「むしろ俺っちが泊まりにいきますから薩摩人だけは」
などと云う意見が多数を占めたのである。
伯太郎もその頼みは快諾。明石をちゃんと世話しているという実績もあるので、問題なく番犬を貸し与えてくれるという。
そしてもう一つは阿子とのことだ。
この犬屋敷で阿子を犬と触れ合いさせてみつつ、ついでに親戚の病気も診察してみようという提案である。
「我が世の春が来た!」
伯太郎は諸手を挙げて賛成する。
彼としても狐面少女の阿子は疑似獣人のようでなんとも気になっていた存在である。実際可愛いので知人として関係が築けるのならば、これほど嬉しいことはない。
「最初に言っておくが阿子がお主から不快な思いを受けたと報告があったら……去勢するからな」
「お父さん目が本気なんですけど。ほら、怖くて震えが止まらない」
「誰がお父さんだ。だがまあ、阿子が不快でないと思う分には会話をするのも、犬の散歩にでも連れ出すのも好きにしろ」
「お義父さん……!」
「黙れ」
と、伯太郎には釘を刺しつつも健全な付き合いならば許可を与える。
阿子も心配しているが、九郎的にはこの伯太郎もそのうち健全な相手を見つけてやらねばならないと思っているのだ。
性格的には悪人ではなく犬や子供を守りたい真っ当な正義感も持っているのだが、性癖が如何ともしがたい。
特に成長したら相手から興味を失うというのがかなり致命的であるのだが、それは深い付き合いをしないからではないかと踏んでいた。
阿子も伯太郎も恋愛的には未熟未満であるので、発展しない可能性も十分にあるがとりあえずは知人との繋がりということで、二人に友好を結ばせてみようとする九郎であった。
ただ阿子がそのうち大きくなったので捨てるなどということをしたらぶん殴るつもりだったが。
ともあれ、田畑村の犬屋敷にて九郎も何度か同行したが、阿子は随分と楽しそうに子犬らと触れ合っているのでひとまずはよしということにした。
「いやしかし九郎殿。あたしは男人格だというのに、伯太郎殿が必死にご機嫌を取ろうとする姿はちょっと楽しいですね」
「そうか。まあ、好きなようにおちょくってしまえ」
いずれ彼女が成長してから──果たしてどうなるかはまだわからない。
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数日後。九郎は自室で縄で縛られて梁からぶら下げられていた。
目の前には嫉妬の炎を目に宿した同心・菅山利悟が紙縒を束ねて作った笞を手に立っている。
「お、おい利悟? なんの真似だっていうか朝起きたらこれなのだがどういうことだ」
怒りのあまりに番犬の警備すらすり抜けて寝ていた九郎を縛り吊るしたらしい。驚異的なスキルを発揮している。
「九郎……君は拙者のときは年増女の瑞葉とあの手この手でくっつけようと散々怪しい幻術や薬物まで使ってやってきておいて……」
パン!と笞を自分の震える手のひらを抑えるように利悟は打ち付け、わなわなと震えながら血涙を流しつつ云う。
「ど う し て 小山内のやつには阿子ちゃんを! 狐面少女で男口調でちょおっと変わってるけど少女のあどけなさに妖艶さを足している阿子ちゃんを紹介しているのかなあああ!」
「おいバカまて落ち着け痛ァー!? 八つ当たりするな馬鹿者!」
笞でぶら下げられている尻を叩いてくる利悟とどうにか暴れて抜け出そうとする九郎の騒動は、起き出してきたスフィが作り声で告げる。
「利悟お兄ちゃん、暴れたらダメだよ」
「はい!」
即座に動きが止まったのでその瞬間に九郎の蹴りが股間に突き刺さり終わりを迎えた。




