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20話『永代橋』

 六月から九月にかけての夏の期間の江戸はどこか浮かれている気配が有る。

 この期間は盆や祭りが多く開かれており、夏の暑さにより仕事よりも遊楽を行う人が多いためであろうか。

 月に二三度は江戸の何処かで祭囃子が聞こえてくる程であり、祭り好きの江戸の町人たちは明けても暮れても騒いでいる。


 この年は二年に一度の富岡八幡宮──深川八幡とも呼ばれる──の本祭りの年であった。

 八月の十五日、祭りの中心日であり江戸の町を神輿行列が練り歩く当日、九郎は[緑のむじな亭]で店員をやっていた。

 お房は同じ長屋に住む盲の女按摩お雪と神輿を見に出かけたので代わりに店を手伝っているのだ。

 まだ子供であるお房が、祭りに遊びも行かずに家の茶汲みに飯炊きを手伝うというのも、あまりよろしくないと六科と九郎が思って遊びに行かせたのだ。保護者としてもついていったお雪は盲ではあるが感覚に優れていて、人混みでもゆっくりならば歩くのにそう支障はない。

 昼の営業を終えれば六科と九郎も祭りに行き、神輿を見ようと子供たちに約束させられている。


 その日の店の日替わり飯は、冷たいけんちん汁を素麺にかけたものである。あまりこの店では煮込み料理や汁物などは出さないのだが、今日は九郎が調理を手伝った為に六科の作業は素麺を茹でて置くだけだった。

 九郎の持つ呪符によりこの店で出される冷酒や麦湯は冷たくて良いと最近評判になっているのであったが、この冷えたけんちん汁もまた美味かった。

 さっぱりした味付けで、仕上がりに少しだけ胡麻油を垂らしている。その香りがまた食欲をそそるため、珍しく繁盛してけんちん汁を切らしてしまった。

 自分も昼飯にと楽しみにしていた九郎は若干気落ちしながら、残った素麺を緩い酢味噌に和えて、それをおかずに白飯を食った。

 

「しかしあれだな、この店小さい鍋しか無いのだな」

「うむ。前は大きいのもあったのだが、借金で手放した」

「それで店に出す分の飯が足りるというのも悲しい話だ。大きい奴があると色々材料が煮込めて良いのだが。鶏がらとかのう。次はラーメンが食いたい」

「鶏がらか。なかなか美味いが少し骨が多い」

「出汁を取るものだからな?」

「──出汁……?」

「あれ!? お料理教育度が初期値に戻ってないかお主!?」


 不安になって訪ねてみるが、六科は「ああわかってるあれだろうあれ」と応えて、山椒の粉と塩を白飯にふりかける為に顔を背けた。

 そしてようやく思い出しのか、顔を上げて、


「あの……魚とかを煮ると湯に味が移るやつ」

「まあそうなんだがその認識の仕方ってどうなのであろうなあ……」

「もしくは出羽国(山形)の名物で茗荷と葱と紫蘇を刻んで醤油と酒で和える食べ物」

「なんでそっちは知ってるかな……しかし言われると食いたくなる。今度作ろう」


 九郎はシャッキリとした歯ごたえと暑気払いに良い塩梅の[山形のだし]を思い出しながら、飯茶碗に冷たい麦湯を入れて米粒を落とし啜った。

 材料も安くこの時代でも手に入るので簡単に作れそうではある。


「ところでお主、なんでもうまいうまいと食うが特別な好物は無いのか?」

「あるにはある」

「それは?」


 六科は顎に手をやり、味を思い出しながら小さく頷いて、


「麦飯にな、醤油を垂らして混ぜて食うと」

「……祭りの日にそんな物哀しい飯の話題を出すな」

「俺が昔知り合った牢名主お勧めの食卓なのだが。物相飯(牢で出される飯)の中では一等に美味い」

「臭い飯を好物になるなよ……」


 残念そうな顔を六科に向ける九郎であった。

 とりあえずこの男、味が濃いか辛いものが好みのようである。普段の食事にも醤油や塩、唐辛子などをよくふりかけて食っている。

 やたら高血圧になりそうな気がするが江戸の町人の食事は現代よりもずっと塩っ辛いものとたっぷりの白米という組み合わせが多かったのも事実であるようだ。


「よし、それなら今度すた丼を作ってやろう。伝説のすた丼だ」

「伝説とまで言われるか」

「いや……出している店がそういう名前だっただけだが」

「……」

 

 六科は箸を置いて胡乱げな眼差しを向けたまま麦湯を飲んだ。

 気にすること無く九郎は料理の概要を伝える。


「豚肉を……豚肉売って無いな江戸……まあ猪の肉は頼めば晃之介が獲ってきてくれるか。それと葱を甘辛く醤油と酒で煮込んで、下ろしたにんにくと生姜をたっぷり目に入れた刺激的なものを丼いっぱいの飯に乗せるのだ。卵を落としてもいい。昼に食ったら晩飯まで入らんような満腹度になる」

「なるほど、美味そうだ」

「うむ……」


 などと飯の話題をした後に、二人は食器を片付けて出かける準備を始めた。

 暖簾を下げて店先に出していた看板を引っ込め。店仕舞いにする。昼の時分を過ぎればなにせ祭りの日だから客も入っては来ないだろう。

 いつもよりも人通りのある道を九郎と六科は並んで進みだした。


「確か、永代橋の上で神輿を見物するとか言っていたな」

「しからずんば向かうとしよう。む? しからずんばで合ってたっけか? 用法」


 己の言葉に対して訝しさを感じながらも、九郎は店の外に出て強く海から吹く風と舞い上がる埃に目を軽く伏せる。

 

 通りはやはり人が多い。それに、祭囃子があちらこちらから聞こえる。

 深川八幡の祭りは年を置いて開かれるために、神田祭などにも負けぬほど賑やかになる。大川(隅田川)を挟む通りに多くの見世物、大道芸も立ち並び、祭りに繕った着物の町人たちが楽しげな表情で往来していた。 

 大川にも幾つもの船が浮かび、金のあるお大尽達は船上から酒を飲みながら祭りの雰囲気を味わっている。


 川沿いに永代橋へ向かう途中で露天で小亀を子供に売りさばいている、以前に辻斬り騒動で出会ったその日暮らしの朝蔵が居た。

 亀売りは、亀の首に紐を付けただけのもので、子供が川で泳がせて遊ぶのである。大抵一度で紐が首から抜けて川に帰っていく使いきり系の愛玩動物である。不忍池などで甲羅干ししているものは容易に捕まえられて元手がかからない。

 ちょうどこの日は深川八幡の祭りで[放生会ほうじょうえ]と呼ばれる祭礼が行われており、捕らえた生き物を再び放つ事で死者の冥福を祈る意味を持つ。この日に合わせて魚の稚魚や亀、雀などを捕まえて売る物売りが多いのである。

 朝蔵が売り物の亀を食紅で色付けするとなんかリアルになってプレミア感な事を九郎と六科相手に得意げに披露していると、後ろから声がかけられた。


「いたいた。おーい九郎、六科の兄貴、一緒に祭ろうぜ!」

「店に居ないと思ったらここに居たのか」


 振り向くと茜色の浴衣を着て手を振っているお八と、編笠を被った深緑の着流しの晃之介が居た。

 どうやら一度緑のむじな亭に寄って九郎を誘おうとしたのだが、既に出ていたために追ってきたようだ。

 最初から共に行く約束でもしていればよかったか、と合流する友人らを見て九郎は虚無めいた無計画さを自嘲する。

 晃之介の姿を見た朝蔵が


「しゃあああ!」


 と、奇声を上げ、商品の亀を連れて川に飛び込んで逃げていった。

 晃之介に若干トラウマが残っているようである……




 ****




 ちょうどその時、主も店員も居ない緑のむじな亭に、祭りに相応しくない喪服の鳥山石燕が千鳥足で入ってきた。

 既にかなりできあがっているようで、赤ら顔で酔っぱらい声を上げる。


「九郎くぅぅん!? お祭り、ふふふふ、お祭りだよぉぉ……あーそーぼ……うっぷ。

 おや、居ない……ふふふ私の勘が正しければ橋! 橋に向かってるねっぷ……。

 恐らくは浅草橋だね! あさくさばしおちた~♪ おちた~おちた~♪ あさくさばしおちた~♪ まいふぇあれおろろっ」

「うわ師匠!? 妙な歌口ずさんだ挙句噛んで吐かないでくださいよゥ!?」


 ぐったりしながら、永代橋と逆方向へ向かうのであった。




 ****




 一方で歩幅を緩めて並び歩く四人である。

 九郎は編笠をずらして、軽く仰ぐように爽やかな笑みを見せる晃之介に、


「おっ……その格好だといかにも剣客の先生みたいだのう」

「師匠は実際に先生なんだぜ」


 何故かお八が偉そうに胸を張る。お八の胸は平坦であった。

 得意げな一番弟子の様子に九郎も晃之介も微笑ましいものを感じて、


「そうだな」

「ところで弟子は新しく入ったか?」

「いや……道場破りならこの夏で四人は返り討ちにしたんだけどな」

「うーんあれじゃないか師匠? あの全身ぼこぼこにされて血まで流してる連中の首に『六天流道場入門者募ム』とか書いた木札を提げて町中歩かせたのが印象最悪だったというか」

「怖いわ! どの層に向けたあぴーるだそれは!」


 そんなものを見せられても目的が謎の恐ろしい団体が行う見せしめにしか思えないだろう。もしくはその満身創痍の男が六天流の人物と判断するか。どちらにせよ、関わりたくない。

 むしろ通報されなくて良かったと安心するレベルである。

 六科が腕を組みながら思い出すようにして、


「俺も見たがあれはそういう意味だったのか。背中に大きく『敗け者』と書かれていたのでなんかそういう乞食かと思われて見物客に集団で銭を全力で投げつけてられていた」

「余計可哀想だな!」

「すると一人の僧侶が[敗け者]の前に庇うように立って、『この中で一度も負けたことが無いものだけが彼に銭を投げなさい』と云うと次第に見物客は去っていった。残されたのは地面に倒れ伏した[敗け者]に何故か超本気で銭を投げつけまくるその僧侶だけだった」

「なんで小話風になってるんだ!?」


 酷く諸行無常な光景が浮かんで九郎は軽く頭を抱えた。

 頭痛を忍ばせながら一応、


「とにかく、その宣伝方法はやめておけよ」


 と、忠告はしておくのであった。

 

「そういえば晃之介、今度猪とか狩る予定って無いか?」

「俺は猟師じゃないんだけどな」

「まあ良いではないか猪の一頭や二頭……罠とか作るから」

「九郎。何を言ってるんだ。猪狩りとは、向かってきた猪を見切って棍棒で殴り倒すのが正式だろう」

「……なにその蛮族みたいな方法。野生動物相手に正面からなんで打ち倒しちゃうの。縄文人でもちょっとは知恵を使うぞ」

「いや、しかしこれはかの公方様、吉宗公も実践した事がある方法でな」

「暴れん坊すぎるであろう……」


 呆れて口を開いたまま、江戸城の方角を仰ぎ見る九郎だった。

 吉宗が狩りをしている時に現れた大猪が、従者の放った鉄砲を二発食らっても死なずに吉宗めがけて突進してきたが、危なげなく従者から受け取った鉄砲を逆手に持って殴りつけて仕留めたという話は有名である。

 その猪は人夫14,5人で持たねばならぬほどの大物であったと言われている。

 ともあれ、晃之介が、


「近くの農家に猪が出なかったか聞いておこう。今度は何かうまいものを作っても除け者にするなよ」

「この前は悪かった。なにせ、お主が柳川藩の上屋敷に出かけてる日だったものでな」


 多少バツが悪そうに九郎は謝った。

 ピザを作って大人の友達連中に振舞ったのだがちょうど都合が悪く晃之介は誘えなかったのである。

 いつも暇している寂れた武芸道場の主ではあるが、大大名の柳川藩立花氏に晃之介は気に入られてて、月に一度か二度程出入りで弓の稽古へ行っているのである。

 お八が九郎の顔を覗き込みながら、


「なんだなんだ? なにか食い物の話か? あたしも食べたいぞ」

「ううむ、美味いものだが女子供が食うにはちょいと刺激が強いかもしれぬなあ……伝説のすた丼」

「なにせ伝説だからな」

「伝説か……凄そうだな」

「ずるいぞ!」


 男連中が頷き合っているのを見て、お八は胸の前に手をやって叫んだ。お八の胸は平坦であった。

 晃之介の道場に九郎が時折顔を出すことが有るのだが、その度に彼自ら手を振るう料理はお八も好物であるのだ。そう手の込んだものではないが味付けの基礎をしっかりしている。晃之介が作ると節約もあって根深汁をぶっかけた飯だけだ。

 お八自身の得意料理は未だに握り飯と焼き握り飯ぐらいなのだが……一応学ぼうと、実家で雇っている下女おさんの仕事を手伝ってみたりしてはいるので今後の成長に親は期待をかけて、ぬる温かい眼差しを送っているのである。

 九郎の袖を掴みながら噛みつかんばかりの表情で三白眼を尖らせ睨んでくるお八であったが、さすがに嫁入り前の女子が食う食べ物ではないので食わせるのは躊躇が有る。間違いなく口臭問題が発生するからだ。彼女の実家の両親も悲しむだろう。刑事の説得が胸を打つ。


(カツ丼も作ろう……)


 喚くお八の言葉を右から左に聞き流して九郎はそんなことを連想するのであった。なにせ、カツ丼は丼業界の頭である。"カツ"と来て聞くものを期待させ"ドン"と落とすその響きからして王者の座は揺るぎない。「カツ丼!」と聞くだけで心踊らされるものだ。いささか、料理屋でも例えば牛丼などを頼む時よりカツ丼を頼む時の声量の方が大きい気がする。牛丼はもそもそ食べるのが似合うが、カツ丼は丼をがっしり掴んでわしわしと食べるのが良い。

 ともあれやはりそうなると豚肉がネックになるので猪で代用するか、チキンカツにするかの決断は必要だ。薩摩・島津藩では江戸時代でも黒豚が食されていたようだが、現代と違って輸送手段が無い当時ではナマ物を江戸に売り出しには来れない。

 獲った猪肉をどうせ一度では消費しきれないので、いっそ[氷結符]で凍らせて保存してみようかなどと考えても見るのであった。



 そうして一行はやがて永代橋近くにやってきた。

 長さは百十間(約200m)、幅三間余(約6m)程もある大きな橋である。大川ではもっとも河口付近にあり、船の行き来が多いために橋の高さも相当に高く作られている。

 "虹橋"とも呼ばれる、弓型にアーチめいた作りは当時の建築技術の高さを伺わせ、現代人にして異世界帰りの九郎も感心する程だ。

 

「ちょうど神輿が通ってるところだぜ」


 お八が目の上に手で陰を作りながら遠目で見遣った。

 半被を着た若衆が担いだ神輿が乱暴なぐらい持ち運びながら、それを見物する客と共に橋を渡っている。

 圧巻されるほどの人出だ。橋が大きいとはいえ、数百人は乗っているだろう。

 そして、


「あっ、あそこに居るのお房と雪姉じゃないか? 早く行こうぜ!」


 お八が指さした橋の中央の当たりに見覚えのある浴衣姿の手を繋いだ二人が居た。

 離れているが向こうもこちらに気付いたようで、お房が手を振っている。なにせ六科は周りと比べて頭が飛び出る程に背が高いので離れていてもすぐわかる。

 手をお八に引っ張られて九郎らが永代橋へ進もうとした時である。


 橋が歪んだ。


 熱気からくる錯覚かと思って、九郎のみならず何人も目を疑った次の瞬間、永代橋は中央から真っ二つに割れて橋脚がへし折れ、上に乗る人達ごと川に崩れていく。

 橋の上の祭り客と神輿の重さに、永代橋が落ちたのだ。

 お房とお雪もそこに居た。

 現実感がない程、祭囃子が止んで静まる。

 次に悲鳴が上がる前に六科は動きの止まった町人を跳ね飛ばすように走り出した。

 そして天地を震わすような叫喚が上がる。

 

「六科……! くっ! 晃之介! そこらの船宿から舟を出してくれ!」

「わかった、九郎は!?」

「飛び込んで二人を助けてくる! 六科一人では手に余る!」

「了解……! お八もこっちに来て手伝ってくれ!」

「あ……ああ!」


 叫んで、九郎は六科を追い駆けた。

 昔は火消しとして、人を押しのけて別の縄張りの町火消と喧嘩をし真っ先に駆けつけるのを仕事としてただろうか、右往左往して混乱している群衆で混雑しているが、虫を蹴散らすように六科は大型の体躯をとんでもない速度で前進させている。

 その怒りすら感じる脚力は踏みつける地面が、固く舗装されているというのに足型が残るほどである。一歩で一間以上は飛び奔り、下手に前方にいれば木っ端微塵に踏み潰されかねない。

 九郎は掏摸のような俊敏さで人混みの隙間を縫い、六科に追いついたのは橋のふもとであった。再び崩れかねない橋から数百名の人間が押し合い、濁流のように逃げ惑っている。


「六科よ! どうする!」

「崩れた所から飛び降りて拾う」

「わかった、欄干を走るぞ!」


 と、橋の手すりに足をかけて九郎と六科は崩れた中央へ、躓くこと無く目を疑うような速度で移動する。

 橋板が無残に割れて大川へ落ちている中央部へ辿り着いた。未だ腰を抜かしたまま動けない者もいる。

 キヨミズ! 二人は躊躇うこと無く橋から大川へ飛び降りた。

 覚悟していた水の衝撃が九郎の全身を包んだ。水の中は落ちた人と、木材、そして川底の泥で濁っている。

 一旦沈み、跳ね上がるように水面に戻った九郎は顔の水を拭いながら周囲を見回す。

 突然の落下と着水にあわてて、ばしゃばしゃと水面で喘いで暴れまわるものが大勢いた。

 酸鼻を極める惨状で悲鳴が上がり続ける中、九郎は叫ぶ。


「お房! お雪! どこだ!!」

「落ちた方向はこっちだ」


 六科が迷わずに決めた方向へ体を泳がせる。

 ずっと走って駆け寄る間も二人の落ちた地点を把握していたのだ。

 溺れかけた小太りの町人が縋ろうと六科に掴みかかってくるが、


「邪魔だ」


 差し伸ばされた手を打ち払い娘達の元へ行くことを優先する。

 他人を助けている暇は無い。

 それでも九郎は、とりあえず近くに居る女子供は首元を引っ張り、川に浮いている橋の木材に取り付かせてやる。一応これで暫く沈むことはないだろう。

 一方で川端からは次々に舟が現場に向かい始めていた。現場近くに居た南町奉行の大岡忠相が即座に指示を出して、御船手奉行(徳川水軍の管理、江戸湾の警護役である)の向井将監(むかい・しょうげん)に救助船を要請する。

 また、祭りのどさくさに紛れての掏摸や火付けを取り締まる為に出動していた火盗改も一帯の船宿を回り、筆頭同心[五十五人逮捕]の瀬尾彦宣(せお・ひこのぶ)の怒号に従って次々と舟を出させるのであった。

 六科と九郎が川に飛び込んで助けに行く姿を見て、他の者も、


「俺らも行くぞ! 野郎ども、格好いい所見せるぞォ!」

「おう! 深川木場の角乗り七人衆の出番だ!」


 そう言って七人組が勢い良く着ていた半纏を脱ぎ捨てる。

 水に浮かせた木材を運ぶ仕事の鳶職連中である。特に威勢のよい働きをする七人はそれぞれ[海龍][海魔女][海馬][海聖獣][海魔人][海皇子][海幻獣]をモチーフとした刺青を背中に彫っている泊付きの集団だ。

 泳ぎにも優れた彼らが水溺者を救おうと川に飛び込み始めた。

 更にそれにつられて、泳ぎに覚えの町人の男連中も勢いで続く。

 この時点で、最初に川に落ちた被害者は五百人余であったのが、テンション上がって救助に飛び込んだ人の追加分を含めて六百人強まで増加し、現場は目も当てられぬ有様であったと記録されている。

 

 六科と九郎は水面で暴れているお房を見つけて二人で手を抑えて落ち着かせた。


「大丈夫か、フサ子!」

「うっ……ひぐっ……」


 急な衝撃からか水の冷たさと恐怖からか嗚咽を漏らしながらお房は六科にしがみついた。

 六科は立泳ぎをしたままお房の背中を抱いて、


「お房。無事か」

「うん……」

「お雪は何処だ」

「──お、お雪さん、あたいを、助けようと、水の中から押し上げて、沈んで……お父さん、お雪さんを、助けて!」

「む」


 その言葉を聞いて、六科は涙を流し顔をくしゃくしゃにしているお房を九郎に預けた。

 しがみつくお房がしっかり抱き受けられたのを見て彼は、


「潜って助けてくる。九郎殿はお房を頼む」

「ああ、任せろ」


 そうして六科は濁った水の中に潜水していった。 

 お雪を失ってはならない。そうすればお房も悲しむ。お六との約束も果たせない。

 何よりも、


(死なせるものか、うむ)


 六科の心から湧き出る衝動に突き動かされ、彼は限り無く不透明な水中を見回した。




 ****




 最後に見た景色をお雪は覚えている。


 もともと視力が薄弱であったのだが、完全に視界が闇に閉ざされたのは十年前の火事で目元に火傷を負っての事であった。

 それまでは常人にたとえるならば日中の外でも夜闇に包まれているような暗さで、人の顔や文字などは見えないがなんとなくぼんやりといる場所がわかる程度であった。明々と光を放つ太陽や、火は彼女の目にも豆電球ぐらいの明るさを与えていた。

 十年前の水無月の頃、乾物問屋をやっていた彼女の実家は隣接する傘問屋の火事から燃え移り火に包まれた。明け方のことである。どうやら火付けの仕業であったようで、傘屋の奉公人などは火が回る前に刺殺されていて家屋ごと焼けたのだという。

 突然の出火に慌てた家族達は、既に火が回っていた為にお雪を取り残して避難してしまったのだ。

 傘屋と乾物屋だからか火は勢い良く回り、その赤く燃え広がる火がよく見えない彼女は焦ること無く部屋に座ったままであった。

 目が見えなかったからか、小さい頃より何処か悲観的な娘だったからだろうか。

 手探りに逃げようとしても、この火の中では逃げきれぬとすぐに諦めたのである。

 ただ、今までに感じたことがない程目の前が明るくなった空間を見ていた。


 暫くすると音が聞こえた。

 彼女の部屋は火で囲まれて酸欠で朦朧としていたがまだ意識があったから、そのよく響く音に顔を向けた。

 柱が焼け落ちたような音ではなかった。

 明りの広がる視界に黒い影が立っていた。

 火消しの佐野六科が、大木槌で壁を壊して部屋に入ってきたのである。


「む……居たな」


 頭から水を被っただけの彼は火の粉に撒かれながらもどうも無いとばかりにいつも通りの声を出す。

 彼はのしのしと近寄って来て、少しばかり焦げた臭いをさせたまま座り込んでいるお雪を肩で担いだ。

 熱い周囲の気温よりも、火に炙られても家に押し込んできた六科の体は酷く熱を持っていたことが着物越しでもお雪には分かった。

 彼女は呆気に取られたように、自分を抱え上げる大人の男に振り向いて声を上げた。


「お、おじさんは……なんでこんな所に、危ない、よ?」

「問題ない」


 短く答えて肩越しに振り向いた六科の顔は、視力薄弱のお雪には到底目得ぬはずであった。

 だが明かりが溢れる火事の中で、真っ黒の湖底のような六科の瞳が不思議と浮かんだように思えた。

 お雪は助けてくれた言葉少ない男の熱い体を覚えている。



 命を諦めた自分が、助けてくれたあの人に何時か恩を返せるように生きようと決めて過ごしてきた人生は割りと楽しかった。

 いつか……やがていつかはと思っていたけれど……と上も下もわからぬ水中でお雪は走馬灯のように思い出しながらわずかに笑った。盲の自分にとっては浅瀬も大海原も変わらぬ、底の見えない闇の淵である。

 最後にあの人の子供をちゃんと助けられただろうか。押し上げたお房の重さを伝えた手も既に朧げだ。


(あの人を按摩してあげることは、できなかったけれど)

 

 肺にも胃にも水が入り込み浮かぶような空気は体から全て抜けたようだった。


(ちゃんと恩は返せたかな……)


 お房が小さい頃にお六が亡くなってしまったので、彼女を育てたのはお雪と石燕のようなものである。

 石燕も離れた場所で暮らしている為に、お雪は毎日お房の世話を甲斐甲斐しくしていた。

 それも幸せだった。擬似家族みたいなものであったが、それでも。実家よりも居心地が良かった。


(六科様……)


 殆ど感覚の無い手を無意識に伸ばした。



 懐かしい、彼女の好きな熱い体温がその手を掴んだ。




 ****




 水面ではいち早く猪牙舟を漕ぎ着けた晃之介が九郎とお房を載せていた。猪牙舟とは船首が細長く、猪の牙のようになっている小舟の事である。 全身をびっしょりと濡らして未だに落下の衝撃で気が動転しているお房を、お八が抱いて背中をさすってやっている。

 九郎が六科が潜った周辺を注意深く見回すと、やがて気を失ったお雪を抱きかかえた六科が海面に顔を出した。


「六科! こっちだ!」

「ああ」

  

 彼は抱いたまま、すっと舟に近寄ってきてお雪を引き上げさせると自らも舟に乗り上がった。

 お雪の顔色は蒼白で呼吸が止まっている。脈も整っておらずに弱くなっていた。


「お、お雪さん……」

「かなり水を飲んでいるみたいだな……!」

「吐かせる」

 

 六科の行動に躊躇は無かった。

 彼は握りこぶしをお雪の腹に押し当てると、


「ぬん……!」


 内部に浸透するような衝撃を打ち込んだ。

 小さな猪牙舟が前後に揺れて周囲の水面に波紋が広がるほどである。

 女の子のぽんぽんは大事にしんさいよ、とおかんに教えられていた九郎と晃之介は二人で六科を両脇から抑えた。


「いやいやいや」

「待て待て待て」

「問題ない」


 真顔で告げる六科に苦々しい顔のお八が目潰しを仕掛けた。


「せっ」

「うむぅん」


 両目を抑えてうずくまる六科をとりあえず放っておいて、お雪をどうするかと視線を戻すと、


「げほっ……ごほっ……」


 と、胃と肺に溜まった水を吐き出して自発呼吸を再開させていた。

 六科の一撃が横隔膜かそこら辺をうまいこと会心に入り、見事に彼女を蘇生させたのである。

 苦しそうに水を吐くお雪をうつ伏せにして、お房がお雪の手を握りながら、


「お雪さん、大丈夫なの……? ごめん、あたいを助けようとして……」

「へ、えへへ」


 お雪は苦しさをこらえて無理やり涙目のお房を安心させるために笑みを作り、六科によく似た体温を持つお房の頬を撫でながら、


「問題、ないですよぅ……えへへ、言ってみたかった」

 

 儚げにそう告げた。

 冷たいお雪の手を、目が若干赤くなった六科が握って「うむ」と頷いた。お雪はもう離さないとばかりに、その手を長い時間掴んでいた。




 ****




 その頃、浅草橋。

 

「うわぁ! 師匠が酔っ払った勢いで橋から落ちたぁ! 玉菊っち! 助けに行ってー!」

「ちょっ!? 子興さぁん!? わっちも泳げな、押さないで、泳げな……あああああ!!」


 二人、救助されてこっぴどく寺社奉行に怒られたという。



 

 **** 

 



 その後は橋の倒壊で祭りも終了となってしまった。

 川に投げ出された者の救助には御船手奉行と近くの町奉行、火盗改、また鳶職の角乗りなどが協力して当たったという。

 中でも溺れかけた子供を片っ端から助けまくった町方同心・利悟と、角乗り七人衆[海龍]の異名を持つ嘉納衛門の活躍は凄まじいものがあった。奉行所から金一封の褒章が与えられた程である。

 ともあれお房とお雪を助けた九郎達一行は緑のむじな亭へ戻ってきていた。

 表店……六科の店の一階、座敷で寝かされていたお雪が、「ん……」と声を出して目覚める。


「あっ、雪姉が起きたぜ!」

「晩飯の時分だぞ丁度。食欲はあるかえ?」

「辛く炒ったこんにゃくが旨いな。あ、九郎。俺にも酒を取ってくれ」


 お雪の寝ている座敷の近くに座卓を置いてそれを皆で囲み晩飯を食っているのである。

 祭りの後そのままついてきたお八と晃之介も一緒である。

 心配そうにお雪がふらふらと迷わせた右手を、お房が握った。

 その体温の高さから自然と握った相手がわかり、お雪は近くにいるお房へ笑いかけた。


「ひどい目にあったねぇ、お房ちゃん。怪我はしてない?」

「うん、お雪さんが居たから」

「それは良かったよぅ……えへっ」


 安堵の息を吐くと、お房と反対側から六科の声がした。


「大丈夫そうだな」

「はいな、六科様からまた助けて貰いましたから」

「そうか」


 六科の声音はいつもと変わらないが、いつもと変わらない彼の優しさがお雪は妙に嬉しいのである。

 

「六科様はいつでも、わたしを助けて下さるのですね」

「ああ。約束したからな」

「約束……?」


 お雪が問い返すと六科は頷いて、


「うむ。お雪の命は火事で俺が拾ったようなものだろう。そして大分前だがお六に生前言われていたのだ。『拾ったものは責任を持って育てなさい』と」

「六科……それ猫か何か拾った時に言われなかったか?」

「よくわかったな」

「……」


 九郎が渋い顔を晃之介と見合わせると、彼もしょっぱい顔で酒の銚子を薦めてきた。

 だがお雪は胸の奥から吐き出すような熱い吐息と共に顔を紅潮させ、


「責任……持ってくれるんだ……」

「存外にぽじてぃぶだなこの娘も!」

「十分に育てられちゃう……ネコってそういう意味で……」

「……妄想逞しいのお雪さん」


 すると晃之介がいいことを思いついたように決め顔でやや斜めを見ながら、


「妄想は……もう、そうのへんにしておけ」

「……」

「……」

「 」

「ふっ……くくっ、もう、そうのへん……ごほっごほっ」


 何やら一人でウケ始めた晃之介に無言で冷たい目線が注がれたが、彼は飲みかけの酒にむせたりしながら肩を震わせている。

 彼以外がそっと目配せをして居なかったものにすることに決め、からかうようにお八が云うのであった。


「それにしても雪姉も随分気に入ってるんだな、眠ってる時からずっとその手、握りっぱなしだったから」

「え?」


 そう言われて、お雪は左手に感じる感触が有る事にようやく気付いた。

 無意識に握っていたままだった。

 火の中でも水の中でも差し伸ばしてくれる、逞しいごつごつした手である。

 お雪は心良いような気恥ずかしいような感覚に顔を熱くした。

 

「そんなに好きなら雪姉にあげたらどうだ? 六科の兄貴」

「うむ。お雪、その手が必要ならばお前にやるが」

「貰うだなんてそんな……」


 九郎がてれてれした様子のお雪と、その細い手につながっている無骨なものを見ながら訝しげな声を出す。




「……しかし、その熊の手の剥製、そんなに握り心地が良いかの?」




 お雪は、寝ている途中で六科の手から入れ替えられたらしい、その毛深く爪の尖った手をぶん投げながら、文字にし難い悲鳴を上げるのであった。 



 ****




 方や、鳥山石燕の宅でのこと。

 布団から半身を起こした彼女が引きつった顔で目の前に出される薬を見ていた。


「ふふふ、将翁。その薬の材料は確かミミズを乾燥させた粉じゃなかったかね」

「ええ。溺れて水をたらふく飲んだのならこの利尿作用の強い[龍虫丹]を呑めば、腹を壊す事も無く吐き気も止まりますぜ」

「に、苦いのは私は嫌だから遠慮しておくよ」

「御安心を。蜂蜜に溶かして呑んでも効果がありますので」

「蜂蜜に溶かしたミミズの粉ってなんかもっと嫌な響きだよ! うっ、子興何をする、離したまえー! 鎮まりたまえー!」

「はいはい、師匠の自業自得なんだから」


 溺れて体調を崩した石燕を、子興が抑えて無理やり薬を飲ませる光景があったのだった。

 神楽坂の妖怪屋敷から響く悲鳴は江戸の四大七不思議の一つである。まあつまり、二十八つ程こんな不思議があるのだが。

 




 

 

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