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53話『鹿屋と砂糖/新店舗準備その一』



 色々あったが根津に店を手に入れたので、砂糖の仕入先である鹿屋へと九郎は知らせに向かった。


 薩摩藩が奄美などの島で栽培をした砂糖は大阪の商人に売られて、砂糖問屋の組合から流通価格などを仕切る形になっているのだが、そこに噛んでいるのが薩摩出身の商人鹿屋である。

 藩の命を受けて砂糖問屋の株仲間に入り、口出しをする役目──となれば結構重要な商人であった。ただ、手酷い失敗をした際に腹を切らされるよう脇差しまで渡されているのが胃が痛いとは本人談である。

 ともあれそれ故に、鹿屋を通せばかなりの格安で砂糖を卸売してくれるという九郎にとって非常に有り難い人脈だ。

 菓子屋を始めるにあたって、砂糖の取引量が増えるので九郎は挨拶へと向かった。

 相変わらず雑多に、食品から鼈甲、細工物、陶器に薬などを扱っている日本橋の店に入る。


「チェーイ!!」

「チェーイ!!」


 店員の薩摩者が、藩邸から来たらしい薩摩武士に芋を売りつけている。お互いに叫びあい、店の暖簾がビリビリと揺れた。

 故郷では「なんの芋侍がえばり腐りおって……」「そういう目をしたッ!」という風に殺し合いになるのも珍しくないのだが、やはり過酷な薩摩の風土から離れた土地で暮らしていれば同じ地元の者とは共同体意識が生まれるのだろう。江戸では、薩摩人の商人や下級武士、上級武士が仲良くしていることもある。

 どれだけ故郷が悲惨な修羅の国でも、離れて暮せば懐かしく思う気持ちは同じなのだ。

 

「唐芋よかなあ」

「よか……」

 

 プロの薩摩人達はそのふた言で何かを通じ合ったようで、銭を払って芋を持ち帰っていく。例え米が取れぬ貧しい土地で、農民から武士まで芋で腹を満たす生活をしている苦難の象徴でも芋を嫌いにはなれないのだ。そんなお互いの気持ちのやり取りがあるようだった。

 そんなもはや奇妙とも思えなくなってきたのを見ながら九郎は、店の座敷でせっせと七輪の世話をしている薩摩芋に手足を生やしたようなビジュアルのマスコットに近づいた。

 鹿屋のマスコットの一つ[からいもん]は手足の先までもこもことした布地で覆われていて、夏場になると酷く暑い上にこうして七輪の世話までしていると中に入っている従業員は倒れようものなのだが、今日はキビキビとした動きで七輪を扇ぎ、網の上に載せた薄切りの薩摩芋を炙っていた。

 ちらりと芋の頭とでもいう部分を見ると、蔦のようなものがアホ毛のように主張している。それは中に入っているのが芋の女神ことイモータルであるという証しだった。

 この異世界の侍女は時折、江戸世界の次元アンカーとしてここにやってくる。交流を断った異世界同士は時間の流れなどが大幅にズレるが、こうして両方の世界を行き来する者を用意することで同期を取ることができるのである。

 まあ流れでこうして、鹿屋で芋のマスコットに入ることになっているのだが。


「何を作っておるのだ?」

『うまかたいでごわすばってん』

「微妙に方言エミュレートがズレておるぞ」


 微妙な合成音声で返事がきつつ、焼いていた芋の薄切りを渡されたので九郎は口に放り込んだ。

 パリパリになっている紙のように薄い芋は水分が飛んだことで甘さが濃縮され、僅かに振られた塩がそれを引き立てている。ポキポキとした歯ごたえも香ばしい。


「薩摩芋チップスか……結構旨いな。手間は少しかかるが、芋一つからそれなりの量が作れるのも……」


 考えていると奥から腹肉を揺らして大店の主だというのに落ち着きない態度で鹿屋黒右衛門が駆けつけてきた。


「九郎殿! いらっしゃいませ! さあさあ中へどうぞ! 今日はお渡しする物もございますからな!」

「お、おう」


 無駄に元気で行動的なのも、自分の商売の失敗一つで腹を切らされる立場だからだろう。番頭や手代などより主人が最も気を使って運営しているのが鹿屋なのである。

 九郎が連れて行かれるので、唐芋きぐるみも七輪の番を他の店員に任せて奥へと一緒に向かった。

 企画会議室として鹿屋に儲けられた奥まった一室に入り、向き合って座った黒右衛門は店の者に持たせた布を九郎に差し出してきた。


「これは?」

「九郎殿が店舗を購入したと聞き、取り急ぎ用意させたものです」

「耳が早いのう」


 商売に機敏な者ならば、他店の売買にも耳を澄ませているのだろう。

 特に薬種問屋は鹿屋からしても鬱金や漢方薬、それにハブ酒などを取り扱うので同業他社とも言える。重さがそれほどではなく高価で売れるものは販路を持っていれば利益が大きいのだ。

 九郎が何かと、布切れを開いて見た。


[鹿屋 根津店]


 布を閉じた。


「……」

「……」

「おい。なんで己れの店がお主の支店になっておるのだ」

「こう、勢いで勧めればいけるかなと思って」

「いける訳があるか」


 九郎は渋面を作り、さりげない暖簾分けの品を彼の方に戻した。

 屋号などはまだ考えていないが、少なくともこの薩摩で有名な店の傘下ではない。

 しかしながら黒右衛門は悲しそうな顔で九郎ににじり寄りながら彼の手を取った。黄金色の菓子を握らせながら。

 

「九郎殿が店を作るとうちの新商品が……見捨てないでくだされ……!」

「ええいよさぬか。手を握りながら小判を握らせようとしてくるな悪徳商人かお主は。まあ待て」


 九郎は黒右衛門を引き剥がしてから、ため息混じりに告げる。


「わかった。ではこうしよう。芋を使った菓子類は、お主の店から仕入れて売ることにするし色々考えてやるから」

「真ですか!」

「そうすれば実質二箇所に店を持つようなものだろう。多少はこっちの利益になるように値段を相談するが。芋の販売は今のところ、お主らが大手だからそうした方が良かろう」


 と、九郎は鹿屋との提携を彼に持ちかける。様々な種類の菓子を一つの店で作るのは手間も材料の仕入れも大変になるので、基本的に通年通して作れる小麦粉などの穀物と砂糖を主にした菓子類を九郎の店では作る予定として、スフィが提案していた。

 それに右から左へ商品を流すだけで儲けを出す、というのも九郎的には魅力的である。自分では働かずに儲ける手段を作ろうとしている男だから当然だ。

 一方で黒右衛門も卸先を得ることで得をするし、街道の行き交う日本橋と根津では客層もあまり被らない。悪くない案であった。


「いやうちでも芋商品の開発をしていましてな。先程もほら、これが」


 黒右衛門は何故か九郎の隣で直立しているからいもんを差して言う。


「芋を薄く切って一度蒸し、火で炙って水気を飛ばしたものを作っておりまして。これは保存食にもなるおやつですよ」

「ふむ。良さそうだな。特に保存が効くというのならば、芋の季節以外でも作り置きができる」

「ただ夏場に作るとなるとこれが暑いのが難点でして」


 黒右衛門は扇ぐような仕草を見せる。江戸でも本格的な夏になり、確かにこんな中では作るにも汗だくになりそうだった。

 

「皆も辟易していたのですが、このきぐるみがやってくれまして」

「役に立つのう」


 中身であるメイドロボは相当な温度でもケロリとしている姿を幻視した。

 

(ううむ、いやしかしイモータルも体液はあった気がするから、汗を掻く機能とか付いておるのか?)


 例えば彼女の口内などは普通に湿潤していることを知っているが、汗を掻いている姿は見たことが無かったので九郎は首を傾げる。

 案外にきぐるみの中では汗だくになりながら頑張っているのかもしれない。製作者のヨグは妙な凝り方をしていて、ほぼ人間のように作りながらもマシンとかロボットは涙を流さないというポリシーの元で涙を流す機能を付けなかったり、手足を分離させて飛ばし爆破したりする武装を組み込んだりする。

 ちらり、と九郎が立っているからいもんに視線をやると、その瞬間に顔のあたりがトータル・リコールのように左右に分離して涼し気な顔のイモータルが九郎に視線を返した。


「……」


 特に心配は要らないといった感じだった。だがよく見ると、額にアイスノンを巻いている。黒右衛門が気づくより先に、再び謎のテクノロジーで作られたきぐるみスーツは元の姿に変形した。


(しかしながら、江戸に来ておいて望まれるがままにきぐるみの仕事をしているとは、律儀だのう)


 基本的に自由行動が許されているのだろうが、その場合はできる範囲で他者からの頼みに応えるようなAIをしているのであった。

 性格の悪い魔王の伴として活動する場合は他者に敵対もするが、本来は面倒見が良いのである。

 

「とにかく、砂糖を頼むぞ。基本的に薩摩藩の出す黒砂糖で構わんからのう」


 当時の砂糖というと、外国から輸入している白砂糖と薩摩が栽培している黒砂糖があった。値段は白砂糖のほうが高く甘味も強いのだが、何分手に入れやすいのは断然黒砂糖だ。

 一般受けする菓子にするには、九郎が好みの味付けよりも倍量以上の砂糖を入れるほうが江戸住民には好まれるので、量が必要である。甘いにしても塩辛いにしても当時は現代人からすると行き過ぎなぐらいが好みである。

 

「ふむ……いっそ九郎殿、砂糖を手に入れやすくするには先物相場に手を出されては?」

「先物? なんか一気に破滅しそうな気配を感じるが……」


 ずっと昔にバイト先の組で株の取引を担当していた社員が大暴落で精神的にも肉体的にも酷いことになっていたことを思い出した。

 胡散臭げに黒右衛門を見るが、大阪での砂糖問屋で取引を扱っている彼は安心させるように言う。


「いえいえ、近頃は大きな街での砂糖使用量も上昇し続け、これから先値が上がるばかりの品ですよ? それに米相場と違って砂糖相場は現物取引ですので、失敗して残されたのは紙切れ一つ……ということにはなりますまい。店で使えるのですからな」

「ふむ……」


 九郎が悩んでいると、カライモータルがちょいちょいと彼の肩を叩いて振り向かせ、黒右衛門に背を向けて二人でヒソヒソと話し始めた。

 空気の抜けるような音と共にきぐるみの顔が左右に分かれてイモータルが顔を出した。


「クロウ様。先物は止めておいたほうが宜しいかと忠告致します」

「どうしてだ?」


 イモータルは真顔のまま疑問に応える。


「現在、将軍徳川吉宗の改革により海外への金銀流出を防ぐため、輸入の大きな損失である砂糖を国内生産させるべく諸藩に推奨致しております。つまり、これからは日本全国あちこちで砂糖が生産され、値段が下落致します」

「そ、そうか。黒右衛門のやつはそれを?」


 ちらりと人の良さそうな顔で先物を勧めてきた黒右衛門を肩越しに見やる。

 彼は突然きぐるみと内証話をし始めた九郎を訝しそうに見ている。


「いえ。薩摩藩を通さずに問答無用で始めたばかりなのでまだ知らされていないかと判断致します」

「そうか……一応知らせておいてやるか」


 とりあえず先物は止めておこう。

 九郎はそう決めつつカライモータルとの会話を切り上げた。

 実際江戸時代では砂糖の値段が中期頃から乱高下しており、これは生産量よりも先物取引による投機品目となったためだと言われている。


「黒右衛門。将軍吉宗があちこちにサトウキビを作らせておるようだぞ」

「なんですと!?」

『江戸城の中でも作っちょるばってんじゃけん』

「江戸城でも!?」


 カライモータルの合成音声に、悲鳴のような声を黒右衛門は上げた。


「い、いや待て待て。砂糖黍は奄美とか徳之島で作る南国の作物だ。まさか、こんな雪も積もる江戸で育つわけが──」






 *******




「ふーんふーんふーん♪ ふふふふふふふーんふーんふーん♪ テケツク」


 鼻歌でリズムを刻みながら江戸城の御庭にある小さな畑にて、僧風の巨体が水差しで植物にたっぷりの水を撒いていた。

 燦々と日の降り注ぐ日なたに、青々とした砂糖黍の葉が揺れていて、節のある一握りほどの太さをした茎はまっすぐに伸びていた。

 

「いやあ、まさかシン殿に栽培の知識がおありとは、上様はさもあらんといった感じでしたが、皆様も驚きでございましたな」


 そうシンに告げるのは江戸城の庭を警護していた二の丸同心、飯田芳三郎という老人である。

 御年六十を過ぎているのだがまだ現役の同心をしていて、江戸城でもかなりの古株であった。

 二人は二の丸近くの庭で栽培されている砂糖黍の様子を見に来ているのである。

 吉宗が砂糖黍を全国で作らすどころか、江戸城でも作ると言い始めた際に誰も育て方を知らなかった上に薩摩藩に頼むわけにもいかないので、こうして江戸城暮らしのオークであるシンが担当することになったのだ。

 

「いやあこんな姿になってもエルフの端くれだから、樹木の栽培ぐらいはね」


 豚鼻と僅かに浮き出た牙、仄かにピンク色の肌に相撲取りのような体つきをしたシンは、元々エルフだったのを魔女の呪いで強制的にオークへと変身させられた身である。

 紆余曲折を経てここで過ごしているが、例えば吉宗の命を受けて市中に密偵として出ていったり、暴れた象を抑えたりしているのでそういう御庭番的な人物なのだろうと周囲からは思われているようだ。

 芳三郎は難しそうな顔をして、


江竜府(え・りゅうふ)というと唐国の武人の……」

「いや多分全然関係ない人です」 

「それにしても、薩摩で育つこの砂糖黍は江戸でも大丈夫なものですかな」

「うん。随分と生命力を感じる根をしているからね。冬になればきっと土の上は枯れるけど、根は残ると思うよ。念のために藁なんかをかぶせることにしよう」


 と、そうして江戸城内では森の民だったシンの指導の元で着実に砂糖黍は根付いていく。彼はそれとなく感覚で植物や土の良し悪しを感じ取れることができるので、間違いないと確信があった。

 彼のやり方を見て関東付近での栽培法を記録させ、吉宗も広く育成を奨励していくことになる。





 *******





「とりあえず江戸城内の砂糖黍には九郎殿が畑に塩を撒いてくるということで」

「だから妨害しようとするな」


 以前も小石川薬草園にある畑で芋を栽培しているのを妨害させようとしてきた事を思い出しながら首を横に振った。

 九郎的にはあちこちで砂糖が作られて安くなればそれに越したことはないのである。


「ところで九郎殿。店を持つというので、用心棒にうちの薩摩男子はいかがでしょうか」

「用心棒?」

「ええ。九郎殿が四六時中店に泊まり込むというのならば不必要でしょうが、ご自宅がある身ではそういうわけにも行きますまい。店が儲けているとなれば盗賊に目を付けられるもの。そこで夕方に来て夜に泊まり込み、朝に帰る方式で用心棒を雇っては」

「ふむ……」


 言われてみれば、彼の斡旋した夫婦の妻を菓子屋店員として雇う算段なので、どうしても通いの者が多くなるだろう。

 夜に店を空けるわけにもいかないので、店を任せる番頭を用意してそれを住ませる必要があるが生憎と甚八丸の伝手である忍び連中には菓子職人などは存在しなかった。何せ、年末に集まっては忍者の兵糧丸と水をモソモソと口にする恒例行事があるぐらいだ。料理ができそうなのは、せいぜい豆腐屋の伊作とかそこらだろう。

 店を始めるとは決めたが、降って湧いたように店舗だけ手に入れたのでまだまだ決まっていないことばかりである。


(だが店に薩摩人が出入りしているとなると風評が……いや、それで逆におかしな輩は近寄らぬようになるか?)


 微妙に失礼な事を考えつつも、九郎はふと気づいたように黒右衛門に尋ねた。


「そういえばお主の店の店員や、部屋住みもそうだが……」

「どうかしましたか?」

「いや、武士っぽいやつが役目も無く暇そうにしていたり、きぐるみに入ったり営業を手伝っていたり、そうやって用心棒に派遣したりとどうなっておるのかと思ってのう」


 普通、下級武士でも役目や武士に与えられる仕事というものがあるのではないかと思ったのである。

 しかしながら黒右衛門関係のさつまもん共はやたら自由に過ごしていて、謎が多い。

 店主は声を潜めながら九郎に上体を傾けて告げる。


「薩摩の藩政に関わる商品を扱っているので、その護衛と監視を兼ねて武士と薩摩藩から臨時雇いの武家奉公人の方々が役目を与えられて私に付けられているのです。生活費やらは私持ちで」

「ほう。大変だのう」

「ただ私の裁量で奉公人の方には店の手伝いなどを頼み給料を出していいということになっておりましてな。まあ、私は武士ではありませんがそれでもご家老に特別な認可を頂いている身でして、他のお侍方にも無碍には扱われないのですが。勿論私も驕った態度などは見せるわけには行きませぬが」


 中々に複雑な状況だが、鹿屋は武士では無くともほぼ武士のような待遇で扱われているようであった。実際に薩摩藩では藩への献金や新田開発などで士分に取り立てられることもあり、黒右衛門もそれに近いのだったが自由に商売を行うために商人のままなのだろう。

 彼を取り巻くさつまもんらは、農民の次男三男か命を受けた無禄の郷士だがどちらにせよ藩で暮らすよりは生活ができているのでついていっているのだった。

 たとえ農民でも薩摩藩では薬丸家が教える薬丸自顕流の普及もあり、他藩の武士などより余程強く鍛えられている。刀が無くとも棒きれ一つで戦えるようにできているのだ。


「で、どうしましょうか用心棒は」

「ううむ、まだ店員も揃えておらぬからのう。だが店を持つならそれを守らねばならんのは確かだ」


 火事ならば神楽坂から近いこともあり飛んで駆けつけどうにかできる可能性はあるが、夜中に盗賊から襲われれば大変だ。

 どうもこの江戸では盗賊がやたら多い。これまで何組と出会っただろうかと九郎は難しそうな顔をする。


「知り合いに頼んで番犬でも飼おうかと思っておったが……」


 犬同心・小山内伯太郎が飼育している犬ならば、素直に言うことを聞いてそれでいて戦闘訓練を積んだものも居る。実際に九郎が飼っている明石も、そこらの男など簡単に制圧してしまえる。

 だが黒右衛門はブルブルと顔を振った。


「いけません。犬は薩摩人の好物です。腹を掻っ捌いて内蔵を取り出し米を詰めて、火に放り込んで[えのころ飯]にして食べてしまいます」

「番犬を食うな!」

「猿は頭を割って脳みそを食べれば猿知恵がつくとされるので大好物で、雉は捌いて刺し身にして食べます」

「桃太郎一味が全滅ではないか!」

「残った桃太郎は鬼島津の号令で襲われるのです」

「全滅した!」


 鬼ヶ島と間違えて鹿児島に行ったら酷い物語になりそうであった。

 しかしながら犬を食うというのは特別に薩摩人が犬食文化を持っていたというわけではなく、当時の記録からして「江戸では野良犬を見かけない。旨いものだと伝わっているらしく、見つけたらすぐに食われるからだ」などという話も残っているぐらいなのである。

 案外に、犬を飼うにはリスクがある。伯太郎も江戸の郊外にある親戚の農家にて多数の犬を預け、それらは害獣を追い払うために農民や猟師など大事にしてくれる相手を選んで譲っているようだった。

 

「ま、とにかく考えておこう。まだまだ店を始めるには準備が必要なのだ」

「左様でございますか。用心棒は置いておいても、ご贔屓にさせて頂きますよ。助力できることがあるかもしれませんので、なんでもご相談ください」

「頼りにしておる」


 それからカライモータルに見送られて店を後にする際に、


「お主が手伝ったら楽なのだがのう」


 そう誘ってみるが、彼女は顔を出してペコリと頭を下げ、


「申し訳ありません。イモータルはダンジョンの管理と魔王様のお世話に忙しく、それに魔王様からクロウ様への江戸での直接的な支援は控えるように命じ致されていますので」

「ふむ。ヨグの気まぐれだな」

「肯定致します」


 魔王ヨグはほぼ万能の能力を持つのだがそれは酷く気まぐれに振るわれる。

 気分が乗らないなら手を貸さないし、面白そうならば引っ掻き回す。自分を称して倫理観が無いドラえもんと言っていたこともある。

 なのでそれを無理に言うことを聞かせるのは面倒だし、彼女から与えられた道具や状況はまたしても気まぐれで覆される可能性も高いので頼るだけ無駄であった。


「それじゃあな。江戸に来て暇なら、スフィにでも顔を出していけ」

「了解致しました」


 そうして芋のマスコットキャラに戻った彼女に手を振り、九郎は次の用事へと向かった。

 実際に購入した店の土地や権利の手続き関係も処理しなくてはならないのだ。





 ********





 九郎がとんでもない格安で手に入れた根津の店舗は中々の良い物件であった。

 通りに面していて2階建てであり、奥行きのある屋敷の作りは十数名は楽に泊まれそうだ。

 庭や土蔵こそ無いが、床下には穴を掘って作る穴蔵があってそこに財産などを入れておけば火事でも焼け残るだろう。

 家財道具などの殆どは売り払われているので準備が必要だったが、


「これが五十両ほど(約400万円)で手に入ったのは余程運が良かったというか……」

「そうよね。大体相場で言うと、前金二百両で売るんじゃなくて貸すぐらいが普通じゃないかしら」


 一緒に店舗の点検に来た豊房は九郎と見回りながらそう口にした。

 本格的に土地購入やらのやり取りで町名主への届け出などをする際に、明らかに出自の怪しい自称浪人な九郎では何かと問題があると将翁や石燕に言われたので、既に土地持ちではある[鳥山石燕]こと豊房が家持の代表として名前を使うことにしたのであった。

 この店も神楽坂の屋敷も、九郎ではなく豊房の持ち物である。

 微妙に女の庇護下から抜けられない気分な九郎であった。


「お父さんがやってる大家の仕事だって、表店に住む権利と一緒に他人に売れば百両ぐらいになるのよ。お爺ちゃんから借りてるから格安で住んでるんだけど」

「なぬ? そんなに高かったのか六科の仕事」

「それだけ利益があがるのよね。大家だと。お父さん、あなたが来る前はお店潰れかけだったけど」

「相当ダメだのうそれ……今思えば」

「何もしないならまだしも、お蕎麦の材料費や薪代を無駄にしていたわね。あの頃は小さかったからツッコミも入れられなかったわ。今は売り物になってるからいいけれど」


 などと辛辣な事を言いながら、屋敷を回る。裏手にある台所では井戸まであった。


「竈が三つ。お菓子作るならもうちょっと増やしてもいいわね」

「ふーむ。しかし他人に作らせるとなると薪代も勘定にいれねばのう。誰でも彼でも術符が使えるわけではないし、あまり広めるものではない」

「そうね。うっかりあなたの御札を使った他人が火事でも起こしたら、天狗の妖術で失火したなんて言われかねないわ」


 薪を燃やして放火されたとしてもそれを売った薪屋は訴えられないが、術符の場合は出処が九郎とハッキリしている上に、怪しい術で大きな被害が出たとなれば人々の感情も良くない方向に行くだろう。

 六科の店などは長屋に住む歌麿が自在に術符を使える上に、基本的に朝に発動して夜に切れるようタイマー設定をしている。

 ここで店をするとして、術符を使える九郎かその嫁妾らでも居れば使ってもよいのだが、雇った者に任せる場合は普通に薪でしてもらうのが一番だろう。


「お店に使うにしても空き部屋が多くなるわね。何か有効活用できないかしら」

「ふぅむ、手間は掛かるが販売だけではなく、店の中で食えるようにするか」

「水茶屋風にすればいいかしら」


 水茶屋というと当時では、仮設の丸太に葦簀よしずを付けた小屋を寺の境内などに建てる形式のものであり、こうした立派な店舗では行われていなかった──というか許可が降りなかったのだが、そこは抜け道がある。

 要するに最初から茶屋をするという名目では許可は出ないが、他の店をしていてついでに座敷に上がって飲み食いさせられるという店はあったのである。 

 

「お茶は多少安いのを出しても、水がいいから誤魔化されるはずだわ。あなたの御札から出てくる水は美味しいもの。タダだし」

「そうだのう。水瓶を用意して溜めておかねばな。不審に思われぬだろうか」

「適当に晃之介さんのところ辺りで、良質の井戸を掘り当てた水を汲んできているってことにすれば大丈夫よ」


 江戸時代、上水道は発達していて無数に井戸が町中にあるのであったが、それらの水は夏場となればぬるい上に衛生面でも怪しいものがあった。

 地下からこんこんと湧き出る水を掬っているのではなく、上流から引き込んできた水を地下で植物の根のように各方向に分けて流しているのを汲んでいるのだから、それも当然だ。

 年に一度はどの井戸も掃除をするが、開けっ放しの井戸へは鼠が落ちたりすることもあっただろう。

 そういうこともあり、井戸を掘り当てる博打は江戸時代から山師が多く持ちかけていた。

 

「そう言えばいっそ水自体が売れるのではなかったか? 六科の店など、近所の者がわざわざ飲みに来ていたが」

「売れることは売れるけど……薄利なのよね。大体、桶一つで四文ぐらいよ。しかも買ってくれる相手の家屋敷にまで届けて」

「そりゃあ面倒な上に安いのう」

「更に水を買うお得意さんなんて出来ると、付き合いの関係上ずっと水を届けないといけなくなるから富くじが当たっても水屋はやめられない、なんて笑い話があるぐらいよ」」

「飲料水を買わなくていい分は儲けだと思うことにするか」


 言いながらも各部屋を見て回りつつ店のプランを建てる。

 何せ豊房は九郎が居ない間も実質むじな亭を切り盛りしていたのだから、他の者よりも飲食店の経営に詳しい。

 それに実家よりも大きい店を自由にしていいというので張り切っているようだ。


「一階の通りから見える位置の座敷をまず埋めるようにお客さんを上げて食べさせて、お金を持ってそうな人は二階の部屋に上げるようにしましょう」

「売り出す他の菓子もどうするかのう。そこらは、スフィと石燕が詳しいのだろうが」

「美味しくて冷たい水があるのなら冷やし飴も出せるわよね。水飴なら、お砂糖より安く沢山作れるわ。参拝者相手に飲み物を売るのはいけると思うし──ってあら?」


 喋っている途中で豊房がふと畳の一点を見て動きを止めた。


「どうしたのだ?」

「あそこ。部屋の隅の畳。端っこから紙がはみ出てないかしら」

「うむ? ああ、本当だ。なんだろうか」


 二人は近づいていき、畳の隙間からはみ出た紙を引っ張ってみた。

 つい力を込めすぎて、ビリっと途中で破れて引き抜けた。

 それをひっくり返して見てみると……


「……なんだこれ。御札か?」


 梵字のような図柄が、半ば腐ってぼろぼろになっている紙には見られた。紙自体が茶色く変色しており、虫食いだらけでどんな文字が書かれていたのかまったく判別できない。

 豊房が窺うような顔色で指示を出す。


「あなた。ちょっとその畳ひっくり返して見て」

「あ、ああ」


 言われた通りに九郎が畳を掴んで持ち上げてみると……

 

 畳が載せられていた部分に、幾つも御札が貼られていた。

 更にその部分だけ床板には、爪で何回も引っ掻いて血が滲んだような痕が残っていた。ぎっとりとこげ茶色にその部分だけ変色しており、僅かに異臭がする。風が空の店舗を抜けていき、背筋が冷えた。


 九郎はそっと畳を戻す。


「……」

「……」

「ねえあなた。建物の買い取り条件に、心理的瑕疵ありとか言われなかったかしら」

「い、いや……」


 何処からともなく。

 カリ、カリ、と何かを引っ掻く音が二人は聞こえた気がした。不安そうになった豊房は、九郎の手を握った。





 *********





 前の屋敷の持ち主である吉次郎は隠居早々お伊勢参りへと出ていったようである。

 十分な金を持っての伊勢参りは道中で沢山女は抱けるわ観光地で楽しめるわで、中々に楽しい娯楽であった。隠居したとはいえ体はまだまだ動く吉次郎が出かけるのも、店持ちではできなかった遊びをしようという算段だろう。

 やむを得ず店で働いていた女中などを探して、おかしな噂が無かったか聞くと、


「夜中に幽霊を見たという者が居る」

「引っ掻き音が聞こえてきた」

「それが原因で店を仕舞うことにしたのではないだろうか」


 などと証言が得られた。

 露骨に呪われた物件であったのだ。


「むう……安い安いとは思ったが、しかしこの値段では文句を付けてものう」

「ゴーストでも居るなら強制浄化の歌を捧げてやるのじゃが、どうも見えぬのー」

「ペナルカンドの幽霊とは性質が違うのかもしれんのう」


 如何にもなヤバイ案件を見つけたことで、それを確認すべくスフィに将翁、石燕と豊房が店にやってきていた。

 すぐに幽霊体が見つかればスフィが鎮魂曲で昇天させてやろうと意気込み、店中を探し回ったりしたのだが見つからなかった。

 妖怪に一家言ある三人の女はそれぞれ畳を剥いだ床板で、どのような性質の呪いか議論を交わしているが重要そうな札が劣化して崩れていたので意見が纏まらないようだ。


「恐らくここに貼られていたのは熊野牛王符ね。あれは薬の五黄丸にも通じるわ。それに牛王は近くにある根津神社で祀られている須佐之男との関係もあるもの」

「いや、牛王は牛王でもこいつは蘇民将来の札だったと思いますぜ。ほら、他の札の配置が茅の輪型になっている。となれば疫病が鎮められていた可能性が……」

「この傷の配置は北斗七星……! 北斗あるところに乱ありだよ……!」

「石燕は関係無いよなそれ」

「あう」


 九郎に引っ張られて石燕は議論から外された。どうも、豊房と将翁はどっちの札を貼ってそこにある呪いを鎮めるかを話し合っているらしい。

 

「しかし九郎くん。これは拙いことになったよ」

「何がだ?」

「この屋敷に纏わる(しゅ)を私たちは掛けられてしまったようだ。これは厄介だ」


 石燕は頷いて説明をする。


「隠され貼られた札と怪しい傷だらけの床板。こんなものを見せられたら、どんなに信心がない者だって不気味に思うだろう?」

「そりゃあそうだ。お八など、絶対にこっちに来ないと震えておったからな」

「だが、来なければいいという問題ではない。既にはっちゃんも呪に掛かっている」

「どういうことだ?」


 九郎が尋ねると、彼女は神妙な声音で説明をした。


「一度不安の原因を意識してしまうと、それが完全に解消されない限りはあらゆる因果が結び付けられてしまうということさ」

「よくわからんが……具体的には?」

「例えば今後、家族の誰かが風邪を引いたとしよう。単なる偶然だとしても、意識の何処かでは『ひょっとしてあの屋敷の呪いで体調を崩したのではないだろうか』と不安になる。もっと悪いことを云ってしまえば、もし誰かが子供を流してでもしてしまったらここの呪いでそうなった、ということになる。すると恐れは更に加速し、何もかも悪いことがこの屋敷を購入したことに収束してしまうのだ」

「む、むう……それはどうも、いかんな」


 世の中で不幸が起こる可能性など幾らでもある。誰だって運が悪かったと嘆くものだが、その原因としてしまう何かがあるのならば。

 きっとそれを信じてしまうことは容易に考えられた。この呪われた店では、転んで躓いても呪いのせいにされるかもしれない。

 お八は怖がりであるし、夕鶴だって心が強い方ではない。平気そうにしている豊房にしても、妖怪の因果に関しては信じるところが大きいだろう。


「二人が御札を貼るの貼らないので揉めているが、それでは駄目だ。貼ったとして確実に安心できるものかね? どんな呪いかもはっきりしていないのに。もしその後で不幸な出来事があれば、間違っていたと思われ余計に呪は強くなるだろう」

「すると、どうすればいいのだ?」

「非情に明確な除霊を行って皆が皆、呪いだとか悪霊だとかは消え去ったと信じさせる。或いは茶化して笑いものにし、呪いそのものを陳腐化する。祠などを作り祀ることで荒魂を神として暴れぬように願う……などがあるね」

「ふーむ。明確な除霊のー。私が大音響で三日三晩歌ってやろうかえ?」

「そこまで時間を掛けずとも可能な方法はあるよ」


 石燕は悪戯っぽく微笑んだ。


「ようは派手にすればいいんだ」





 **********






 畳を剥がし、床板を露わにする。店の奥であるそこは、畳の痕を見れば今は敷居を取り払われているが一つの部屋があった場所に見えた。

 三畳ほどの広さを囲むようにの茅の輪方に札が貼られ、血と傷のついた床板があたかも封じられているようだ。

 念のために床下を調べたが何かが埋まっている痕跡は無さそうで、その床だけがひたすら呪われてる。

 庇うように腹に手をやったお八や、気分が悪そうにしている夕鶴も店に連れてきて除霊の様子を目の当たりにさせる。サツ子や阿子も含めて全員が集まっていた。


「それでは始めるか……」


 九郎は言うと、一本杭の丸太を持って茅の輪の中央に入り──それを一気に床に突き刺した。

 剛力で突き刺されたその長い杭は床板を突き破り、床下の地面にも深々と刺さって固定される。床から突き出た長さは七尺ほどだろうか。

 何度か確かめるように力を加えて、安々とは動かないことを確認し九郎はその場を退けた。


「よし、では頼む」


 すると部屋の外で待っていたさつまもんが木剣を片手に飛び込んできた!


「チェエエ──イイ!!」


 間髪入れずにトンボの構えで、床から突き出ている杭に殴り掛かる。 

 ガツンと激しい音がなり、木剣と頑丈な杭のそれぞれがへこむ威力だ。踏み込んだ床は軽くひび割れ、猿叫の衝撃波はビリビリと全員の体を痺れさせる。


「チェエエッセイッッ!!」


 打撃の連続は続く。一切の停滞無く、丸太杭を袈裟懸け、逆袈裟に殴りまくり連続したガガガという音が響き渡った。

 熟練の薩摩人ならば叫び一度の間に三十の全力打撃を放てる。

 明らかに呪われている臭い床の上で、超絶な連撃が繰り返されまくっていた。

 

これにはどん(チェエエイ!)な幽霊や悪魔(チェエーイ!)もたまらないだろう。(チェーイチェーイ!)一切の恐れなく(チェイヤアア!)振るわれる暴の嵐(チェスアアア!)呪という後ろ(チェーイヤッハァ!)黒い力を強制的(キャアアア!)に塗りつぶすには(チェイチェーイ!)皆がドン引き(チェリアアア!)するぐらいの行動(チエエエエ!)をしてやれば(チェェェイ!)いいのさ」

「なんだって!? 全然聞こえぬ!?」


 石燕の言葉に被さるように、さつまもんの叫びが響き渡ってまったく聞こえなかった。

 やがて呪よりも危険な木剣乱舞に、地面に立てた杭が半ばから打たれすぎてへし折れた。

 同時に何か幽霊の心も折れたような気分に見ていた者らは感じたという。薩摩式除霊とでも言うべきか。黒右衛門に頼んで威勢の良い者を連れてきたのだ。

 これは石燕の発想で、薩摩では山姫という生き血だか精だかを吸う妖怪と出会った際には榊の枝で滅多打ちにするという対策があることから提案された方法であった。

 全身から汗を掻いていたさつまもんが九郎に告げる。


「九郎どん! こげんとで良かとか!」

「おお、ありがとうな。これは少ないが取っておけ」

「頂き申す!」


 九郎はさつまもんに小判を渡すと、彼は飛び込んできた時と同じ速度で部屋から飛び出していった。ひょっとしたら打ち足りず、別の木を探しに行ったのかもしれない。

 残されたのは彼の踏み込みで床板が壊れ、札も踏みにじられ、無残に折れた杭が突き出た床である。


「お八に夕鶴。どうだ」

「いや……なんかそこにもし悪霊が居たら、同情するぜ。多分逃げたんじゃねえかな。そう思いたい」

「呪いなんかよりあの叫びのほうがお腹のややこに悪そうな気がしたであります」


 二人共かなり引きつつ、もはや呪いの屋敷への怯えどころではなかったようだ。


「さて。後は床を張り替えれば一件落着だね!」

「お姉ちゃん……妖怪博士とは思えない解決法だったの」

「ふふふ、何を言っているのかね? 世の中本当に怖いのは、妖怪よりも人だということだよ! あっ良いこと言った感!」


 妹分に呆れられながら、石燕は微笑んだ。

 少なくともこれで呪いの痕跡は消えて、皆が怯えることもなくなったのである。






 *******





 かつて。

 その建物は薬種問屋になる前は遊女屋であった。

 根津には遊郭が幾つもあり、その店も遊女を売っていたという。

 店に所属する遊女に、およう(・・・)という若い娘が居た。

 その娘は生まれつき声が出せず、遊女として売られてその店で雇われていた。

 しかしながら声が出せぬというのは、それが良いという客もいれば意思疎通に失敗して叱られることもあった。

 叱られても、声が出ないので言い訳もできない。

 そうして彼女は座敷牢とも言える、外からしか開けられない店の奥に閉じ込められていた。

 遊女屋では珍しくもない罰則である。 


 だが、その年頃──根津では鼠が増えていた。

 名前が似ていることから、大国主の使いである鼠も根津神社と関係があると見られることもあったが、とにかく鼠による被害が多発している。食い物を齧られたならばまだ良いが、寝ていたら鼻を噛まれたとか、赤子を噛まれたなどという者も居た。

 そしてその遊女屋にも、何匹もの鼠が居り──おようの閉じ込められた座敷牢にも入ってきた。

 何度も何度も噛みつかれておようは鼠を振り払ったが、狭い牢では少し休むとすぐさま凶暴になり血の味を覚えた鼠が襲い掛かってきた。

 助けを呼ぼうにも声が出ず、おようは血まみれになりながらあちこちを引っ掻いて痛みに耐えようとし──やがて死んでしまった。

 その惨状を遊女屋の者が見つけて、祟りが無いようにと根津神社にお祓いを頼み、その床板の上に畳を敷いて痕を隠すことにした。


 だが、鼠に食われた遊女の話は同じ店に所属する誰もが頭に残り、鼠が走り回る音すらその祟りなのではないかと疑心暗鬼に陥り、小さな不幸もそうだと決めつけ──やがて店からは人が居なくなった。

 その店を買い取り、薬種問屋にして商売を始めた吉次郎は地元ではなく他所から奉公人を呼んで店を繁盛させたのだが、それでも噂はやがて断片的に伝わり──またしても店の皆は呪に掛けられてしまったのである。

 しかしながら。

 激しい除霊を行ったことで、もしその店に関する噂を聞いたところで生前も死後も九郎達からは同情されてそれで終わりだろう。

 死んだ場所で薩摩人がドッタンバッタン大騒ぎしていたなど、怖いというか可哀想としか言いようがない。

 こうして呪の連鎖は断ち切られたのであった。

 本当におようの幽霊が居たかどうかは、もはや誰も知れない。



「───♪ ───♪」

「おや? どうした。スフィ」

「うみゅ。居るか居ないか、もう消えたかもわからんが──せめてここで亡くなった誰かのための鎮魂歌をな」

「そうか」

「さーつま藩士が来ーるーぞー♪ こいつはどえらいシチュエーショーン♪」

「幽霊に対する脅しみたいな歌だな……」


 

 まだまだ店を出す準備は整っていないが、一つはこうして解決したのであった。





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