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51話『お店を手に入れる話/阿子の話』



「ふーむ」


 とある日のことである。

 九郎が何やら物思いに耽っているのを、石燕が見つけて彼の背中に抱きついて乗っかかりながら聞いた。


「どうしたのだね九郎くん! 男ならやってやれだよ!」


 背中に感じる重みと、年甲斐もないのに見た目相応にはしゃいで子供のような石燕の行動に苦笑しながら、肩に顎を載せて顔を近づけている彼女に言う。


「元気だのう。いや、何、少し買うべきか買わざるべきかと悩んでおってな」

「何をだね? あ、ひょっとして胡散臭い開運商品じゃないだろうね。壺とか」

「いや違うが……そんなの売っているのか?」


 よくある詐欺案件だと感じて聞いたが、石燕は顎で九郎の肩をぐりぐりとしながら告げる。


「江戸の住民は信心深くて騙されやすいからそういう物も流行り廃りで出ては消えていくのだよ。そもそも商売繁盛のご利益がある狸とか、鼠避けの猫絵とか、病気よけの鍾馗の護符とかそういうのも似たようなものではないかね」

「まあ確かに、気の持ちようというか民間迷信も含まれるのかのう」

「将翁のやつもなんか妊婦が精米して子宝祈願にご利益のあるお米とか買ってたよ」

「まず毎日飯の支度をしておるお八が妊婦だろうに……」

「それを指摘したらぽかんとして、急に恥ずかしそうに言い訳をし始めたよ」

「時々頭が悪くなるよなあやつ……」

 

 九郎が軽く頭痛を覚えながらも首を振った。 

 それから石燕に向き直り、彼女を膝の上に座らせてから話を戻す。


「いやな、高い買い物ではあるのだが、根津のあたりにある店を買わないかと話を持ちかけられたのだ」

「店を? それは確かに大きな買い物だね」


 首肯して説明する。


「元々、薬種問屋をしていたところらしいのだがな、店主が高齢で跡継ぎも居ないということで店を売りに出し畳もうという話になっているようだ」

「ほう。将翁からの情報かね?」

「いや、阿子の方だな。それと甚八丸も何かと根津には伝手が多いようで、話を聞いたらまだ大々的に募集しているというわけではないが内々に探しているとのことだ」

「根津の甚八丸というだけはあるね。しかし、なんのために店を?」


 石燕が尋ねる言葉に、九郎は難しげな顔をした。

 自分でもそもそも、店が今とても必要というわけではないので悩んでいるのだったが、


「そうだのう……実はここのところ、菓子の注文が結構多くてな。存外に儲け始めておるのだ」


 九郎のところで出している菓子は一つ二百文(約4000円)もする高級菓子[慶喜]なのだが、知り合いの半分隠居しているような旗本に頼んで茶会で広めてもらった結果、中々に好評を得ているのである。

 味的にはカステラのようだが、それよりも蜜が掛かりしっとりとしているこれは実に旨い。茶会以外でもこっそり家で食べたいとばかりに注文する武士も増えていた。

 まあそもそもカステラにしても豪華に砂糖を使っている現代風のそれは殆ど口にされることはなく、砂糖をケチった結果まったく甘くないので味噌汁の実にして食べたという記録もあるぐらいだ。ふんわり系小麦粉焼き菓子で甘いとなれば他ではあまり味わえない味覚だっただろう。


「確かに、ちょくちょく台所でお菓子を焼いていて甘い匂いがするよね。つい誘われて焼く前のどろどろしたやつを指で掬って舐めたりしてしまう」

「子供かお主は。腹を壊すぞ」

「鳥山石燕、五ちゃい!」

「うわきつ」

「体は幼女なのに!」


 おきゃっぴいな声を出した石燕に九郎は辛辣な評価をくれた。

 体は幼女でも中身は三十路である。どうしてもやたら不健康そうな喪服の未亡人の影がちらつく。


「しかしながら仕事が増えると皆の手間も多くなるだろう。これから子育てだ何だと大変なのに」

「確かにね。まあ……予想は出来ていたことだが」


 九郎家では夕鶴を一番手に、豊房にお八も懐妊済みだ。将翁は半分妖怪なので子供が非常に出来にくいから、怪しい商品にも引っかかるのだろうが。

 来年には子供が産まれるので家族皆、その準備に余念がない。


「子育ては専念せねばならんが、その間に収入が絶たれるのも……貯金はあるが、できれば避けたい。そこで店を作って従業員に仕事をやらせて稼がせるのだ」


 九郎がそう言うと石燕は感動したように拳を握り目を潤ませて言う。


「さすがは九郎くん……! 付き合っている女を働かせて貢がせるだけではなく、他人をも働かせて貢がせるとは……! 細長くてモノを縛るアレの鑑だね……!」

「ちょっと待て!? 経営者ってそういうもんだろ!」

「ハハハ冗談だよ……で、どの女を捕まえて働かせるんだね?」

「人聞きが悪すぎる!」


 九郎は背中から石燕の頭を掴んで左右に揺らしてやると「あーうー」と言いながら無抵抗でシェイクされた。

 ため息をついて彼女への攻撃を辞めると、ぽつりと呟く。


「まあ……働かせるのは女が多いのだが」

「九郎くん……」

「勘違いするでない。遊女の年季明け婚活計画に関わることだ」

 

 と、九郎が説明をする。

 吉原などの遊女で、借金を返し終えたが引き取ってくれる相手も居なかったり、病気や怪我で無理やり退職させられた者を拾って治療などを施し、江戸で嫁の居ないかつ誠実な男に引き取らせるという計画を九郎は行っていた。

 主にその誠実な男というのは甚八丸の元に集まる忍びの独身男連中であり、彼らに様々な協力を受ける対価として嫁の紹介をしようと始めたのであった。次第に噂を聞いた江戸の若者も立候補しつつある。

 吉原の楼主とも繋がりを持つことに成功したので、徐々に回せる遊女数は増えていっていた。彼らとて、毎年新しく身売りされた女はやってくるのだから金を稼げない者やかなり年増になった者をいつまでも養っていくのも負担になっていたのだ。下手をすれば以前までは、死んでも回向院に捨てていたぐらいの扱いだったのだから引き取ってもらえるならそれで構わないのだろう。

 

「だが、男と宛がうのは構わんのだが、人柄は誠実でも稼ぎが少ないという者も結構いてな」

「まあ江戸で独り身の男で、他人から見合いを勧められずに天狗様に頼るとなればそういう人も多いだろうね」

「なので店を持てばその嫁に通いで仕事を与えることもできる。さすがに仲人までした己れの店で怪しからぬ事を企む者も少なかろう。それなりに信用のできる店員が確保できる利点もあるわけだ」

「なるほど、考えられているのだね」

「ついでに立地もそれなりに良い。東照宮とも近いからのう。この屋敷では作り手の手間暇もあるので受注販売だが、店を出すならば店頭でやや安めの菓子を売っても良かろう」

「ふむ……それにその立地で店が手に入ることは今後あまり無いかもしれないね」


 石燕は指を立てて九郎に告げる。


「江戸というのは武士の町だからね。ざっと東は中川、西は神田上水、北は荒川、南は目黒川の範囲を江戸とした場合、八割は武士の土地なのだよ」

「むう。町とか案外見ているが、そんなに武家地だったのか」

「そう。その残り二割に江戸の町人約五十万人が暮らしているわけだから、長屋でぎゅうぎゅう詰めなのも仕方がない。新しい家を建てるのは郊外でないと無理だろう。だから店を譲って貰えるというのは中々に無い開業の機会だと云うことだね」

「ふぅむ」

「勿論、店を持つことで不利益というか、店の経営以外の手間も掛かる」


 手持ち無沙汰なのか、九郎の手を握ったり指を絡めたりしながら得意げに解説を続けた。

 石燕という女は昔から彼に物事を教えるのが非常に好きなのである。頼られたいと思う心が彼へ知識だけではなく小遣いを与え、そのうちに細長いアレ生活に馴染む根本になってしまった。

 

「というと?」

「家持ちになったら長屋暮らしと違って、町入用という税金のようなものを支払わないといけないのだ。普通江戸で町人といえば裏長屋に住んでいる職人やその日暮らしも含むのだが、狭義でいえば家持の者だけを指す。そして家を持つ者は町政に関わる義務を有する」

「町内会費のようなものか?」

「うん。具体的にはそうだね──木戸番への給金、上下水道や道に橋などの維持修繕費、町火消しなどの費用、祭り代、ゴミ捨て代、捨て子の養育費なんかも含まれる」

「知らんかった……」

「一部は長屋の店賃という形で収集しているがね。ともあれ、町によって費用は変わるが……根津だったら年間二十両から三十両の間といったところだろう。多分」

「結構デカイな──いや、待て」


 九郎はがしりと石燕の手を掴んで動きを止めた。

 そしてやや考えて冷や汗を背中に浮かべながら彼女に聞く。


「……この屋敷でその町入用とやらを己れは払った覚えがないのだが」

「そりゃあ、一応持ち主は房になっているからね。彼女が全部払っているのだろう」

「うぐっ……」

「ついでに云うなら、ここは女所帯なので家持が持ち回りでやる月行事という役目は免除して貰うためにやや上乗せして支払っているよ。前は私が払っていたのだからね」

「……」


 九郎はガクリと頭を下げた。

 嫁は家庭の大蔵大臣というが、支払いを知らぬは夫ばかりである。

 この前も食費を簡単に計算してその額に、どうも暮らしの先行きへの不安を感じていたのだがそういうのをおくびにも出さないで、しっかりと九郎を養う女たちは稼いで支払っていたのだ。


「それに人を雇う以上金が掛かるね? まあ、住み込みでない通いだとそれほどではないだろうが、相場的に年に三両ぐらいで良いだろう。普通の商家だと下女から手代の中間がそれぐらいだ。ざっと十人雇うとして、三十両。町入用も合わせれば年に六十両は店の維持費に最低限必要といったところかね」

「ふむ……ごく単純に、慶喜のみを売るとしてだな」


 九郎が頭の中で計算を始める。

 200文の慶喜だが、材料費を除けば利益は140文になる。

 60両を銭に換算すると240000文。

 とすると、慶喜1714個の売上で元が取れる。

 1年を354日とし、盆と正月合わせて年に10日休みとしたら344日で割るので約1日5個の販売で黒字になる。

 実際は慶喜以外にも、利益率の高い菓子などを併売することでより黒字は増えるだろう。そもそも、慶喜とて複数買いが基本だ。微妙に物足りぬ量なのがポイントの菓子なのである。一度食べたら二度三度と食べたくなる。

 初期の製菓用に店舗を改修したりする費用はまた掛かりそうだが、


「案外いけそうな気はしてきたな」

「根津権現にも近いからね。人は大勢来るはずさ。ただもう一つ大きな問題もある」

「というと?」

「家を二件持つということは、単に火事に見舞われる可能性も二倍ということさ」

「あー……」


 九郎は苦々しく呻いた。

 江戸の町を焼き払い、財産を一気に失わせる火災。それは風物詩のように気まぐれに発生してしまう。

 実際に根津のやや南、本郷のあたりでも享保15年に大きな火事が起きていた記録が残っている。それで本郷までの範囲は簡単に焼け落ちぬように茅葺き屋根を禁止されたことから、


 本郷も 兼康かねやすまでは 江戸の内


 と、呼ばれることになったという。

 兼康とは化粧品や歯磨き粉で有名だった人気店で、現代でも文京区に残っている歴史の長い店である。

 ともあれ、火事で焼ければ相当な損になることは間違いない。


「……ううむ、ここから根津までは急げば数分程度でどうにかたどり着くから、向こうが火事と見るや急いで向かって強制鎮火させるか……」


 術符を使えば一気に燃え残りの消し炭すら残らない程度に焼き尽くして火を止めたり、強制的に温度を奪い取って鎮火させられたりできる。

 とはいえ術符の魔力をかなり消耗するので、数件消す程度になるから勢いの付いて広がった火災はどうにもならないのであったが。

 例えば九郎が仕事か何かで出かけている際に燃え広がった場合は間に合わなくなることも考えられる。


「そうだね。運悪く燃えてしまうこともあるかもしれないけれど、まあいいんじゃないかね。考えようによっては、例えばこの屋敷が火事にあって家が無くなったとしても、避難先の別宅があるというのは便利かもしれないではないか」

「ならんのが一番だが、確かにのう」

「私は賛成だよ」


 石燕がくるりと振り向いて、九郎と目を合わせて云う。


「したいようにやりたまえ。それを全力で手助けするのが家族というものだろう。私は九郎くんと共に成功したり失敗したりしていきたいよ」

「石燕……」

「あと沢山お菓子が作られるなら、余りとか貰えるかもしれないし」

「お主はケーキが食べたいからケーキ屋さんになりたがる小学生か」

「慶喜なだけにね!」

「……」

「け、慶喜なだけに……ね?」


 九郎は無言で石燕の頭を撫で回した。彼女は気恥ずかしさで頬を赤くしながら膨らませた。


「むぅー! と、とにかく! 房やはっちゃんには私から話を通しておくから、九郎くんはお店の下見にでも行ってきてくれたまえ!」

「はいはい」


 そう言って九郎は追い立てられるように外へ出るのであった。





 ********





 とりあえず土地交渉もあるので、相手方とも親しく立場もある甚八丸を連れて行くことにした。

 千駄ヶ谷の屋敷に行くとそこでは狐面の老人と覆面の褌筋肉が何やら鶏舎の前で会話をしている。

 阿部将翁──の、老人体と甚八丸だ。

 根津での薬種問屋も阿子──つまり阿部将翁からもたらされた情報なので、話をするに都合が良かった。


「おや、お主ら。ちょうど良いところに。何をしておるのだ?」


 九郎がそう話しかけると、甚八丸が告げる。


「いや、うちで烏骨鶏を大量に飼育し始めたんだがその相談をな」

「元気が無かったり、卵の黄身が白っぽかったり、殻が割れやすかったりするそうで……」

「ほう」


 と、九郎も自分が勧めて鶏舎を建てさせただけあって興味深そうにした。

 卵を本格的に一般人まで食べるようになったのは江戸時代からであり、そして鶏肉は江戸時代でも殆ど食べられなかった。

 なので鶏を大量に飼育するというのは案外に誰も未経験なことばっかりなのである。


「で、この先生が薬っつーか、薬草を餌に混ぜればいいって勧めてくるんだがそれの高えのなんの」

「烏骨鶏の卵は薬効を濃縮させる性質があるので、是非薬草を食わせるべきなんですが、ね」

「ふーむ……餌か。何を与えておるのだ?」

「基本は野菜の切れっ端とか、残飯とかやってたんだがそれじゃ足りなくなったからな。米糠とか大豆のカスをわざわざ買って混ぜてるんだが」


 現代では鶏には配合肥料を与えていたと九郎も記憶しているが、流石にその成分までは思い出せない。

 だが長生きしていて異世界での生活も思い返し、考えを口にする。


「米糠に大豆のカス、それと小麦のふすまも与えて……魚粉を混ぜるのではなかったか?」

「魚粉? 鰹節とかか?」

「そんな豪華なもんでなくとも、鰯だのこのしろだの安い下魚を茹でて脂を抜いて干し、砕いて一割ほど混ぜてやれ」

「鶏が魚を食うのかよ?」

「考えてもみよ。放し飼いにしてたら鶏は虫とか食うだろう。だが鶏舎の中では食えん。虫の代わりに魚を食わせるのだ。まあ、虫を大量に集めて食わせても構わんが」


 感心したように甚八丸が頷いた。魚も手軽だが、虫も農家の敵なので集めようと思えば楽に集まるだろう。


「黄身が白いのは?」

「それも虫だ虫。てんとう虫かムカデでも食わせりゃ黄色くなるが、別に白かろうが味はそう変わらん。視覚で味の感じ方は変わるということはあるが。あと南瓜も良いぞ。適当に育てたらマズイ南瓜になるが、茹でて餌に混ぜればいい」

「適当でも育つのが南瓜の良いところだな。よし、今度隙間にでも作ろう」

「それと卵の殻が弱いのは多分カルシウム不足だな……餌に卵の殻を砕いたのを混ぜるとか、貝殻を砕いて粉にしたのを混ぜればいいぞ」

「ふむふむ……なんだって知ってんな天狗は」

「ちゃんと上手くいくかは試さねばわからんが……うむ? どうしたのだ、お主」


 甚八丸に餌の説明をしていると、老将翁が地面に置いた薬箪笥に座り、煙管を吹かしてジト目で九郎を見ていた。


「折角の営業をふいにされてしまいまして……」

「ああ、すまんすまん」

「わかったわかった。何匹かは薬草で育てた特別な烏骨鶏も作るから」

「毎度」


 と、老将翁は云う。

 餌を薬草に変えたものの卵はより高価な薬として売れるので、損をするわけではない。育てている間の毎回の餌に薬草を混ぜるのではなく、卵を産む時期になってから変えればいいのだ。

 

「ところで九郎はなんでここに?」

「ああ、根津の方で店を売ろうとしている者が居るとか云っておっただろう。それを買えぬか、相談にな」

「ほーう。まあ、おめえさんの資金なら買えるだろうが……何屋するんだ? ひょっとして根津遊郭みたく助平屋かな?」

「お菓子屋さんだ馬鹿者」

「犯し屋さん……!? こ、こいつ、なんか危ねえ商売を!」

「去勢パンチ」

「危ねえ──!」


 股間狙いな九郎の拳をブリッジして膝で挟むことで防御する甚八丸。

 無駄に器用であった。


「というわけでその屋敷を買い受ける交渉をするのに、仲介人になっておくれ」

「そうだなぁ……あそこの爺さんは相当助平な知り合いだからな、俺様にも借りの一つや二つ持ってるわけだから、ちょちょいのちょいと手伝って値引きさせてやるか」

「それでしたらあたしも、あたしが世話になっている分を返すつもりで交渉してみましょうかね」

「そうか、助かるぞ」


 上手いこと相手の知り合いである二人を抱き込めたことに九郎は安堵し、三人で根津へと向かうのであった。

 このときはまだ、九郎は気楽に考えていたのである。





 *******




 根津権現近くにある薬種問屋の屋敷は二階建てでそれなりに大きく、暖簾は既に取り払っているが中々に大店とも言える店構えをしていた。

 聞いていたよりも立派なので高価そうな感じを受けて九郎は若干顔を曇らせる。

 入り口から入ると畳敷きの広間にすぐ出て、多くの棚にはまだ薬種が並んでいた。


「いえね、残った薬種を買い取る約束をしていたのですよ」


 老将翁はそう述べる。

 甚八丸が声を張り上げた。


「おーい、助平爺ー。客を連れてきてやったぞー」

「助平とはなんだ、助平とは」


 そう云って春画本を手にしながら出てきたのは、でっぷりと腹の出ている初老の男であった。

 鶯茶色の着物に羽織を纏っている姿はいかにも大店の主人という風だ。


「彼がこの問屋の主人、根津屋吉次郎ですよ」


 老将翁が九郎に教える。

 吉次郎はうるさげに甚八丸の姿を認めて──なお一応町中に昼間居るときは彼も袖なしの羽織を着ている──告げる。


「客とはなんだ。うちはもう店じまいだぞ。女中も丁稚も全部暇を出した」

「そのしまっちまう店を買い取ってくれるお大尽を連れてきてやったんだよ」

「なに?」


 と、じろりと九郎と老将翁へ視線を向ける。


「おお、これは阿部殿。薬種の買い取りということでしたが、まさかお店まで?」

「いえいえ、あたしは付き添いでして。買い取られるのはこちらの天狗様」

「天狗……?」


 吉次郎は九郎のどこか気怠げに見える目と合わせて、彼の姿を上から下まで眺める。

 余り普段気にしていないし、この江戸自体に奇抜な格好の者が多いのだが九郎も立派にざんばら髪に直刀の太刀一本差しで怪しい格好である。

 

「ひょっとして、あの噂の?」

「左様で」

「いや、せめてどの噂か確認してから肯定しろよ」


 九郎のツッコミに吉次郎が頷き、改めて云う。


「薩摩藩出身と噂の……!」

「それは明確に違う!」

「いやしかし、薩摩の芋やら砂糖菓子やら薬種を流行らせたと聞きましたが」

「それはまあ……成り行きで」


 バツが悪そうに九郎は云う。

 どうも薩摩に肩入れしていると世間では思われているらしい。実際、鹿屋黒兵衛が最大限九郎を活用していると言えるのだが。

 

「おう。それでまあ、俺様の知り合いなんだからちょいとぐらい店代おまけしてくれよ。根津遊郭三回奢っただろ」

「吾輩は十二回奢らされた」


 ペシリと甚八丸の頭を春画本ではたく。

 それから改めて九郎を見て、ふむ、と考える。

 彼はこの薬種問屋でこれまでに稼いだ金があり余り、暇を出した奉公人らに十分退職金を渡せたほどだ。

 十分稼いだと判断したから残りの余生を遊んで気楽に暮らそうと、早めの楽隠居をしようとしているのである。

 だが安く譲るにはこの店は立派な大店であった。長い付き合いの甚八丸が、単に頼んだだけで安くする道理は無い。


「そこでほれ。俺様の絶版春画本を何冊かくれてやるから」

「なに!?」


 と、甚八丸が手渡す既に手に入らない春画を受取り、目を見張った。

 江戸時代では発禁を食らうと版木まで燃やすことがあるので、手に入らなくなったものは幾ら金を積んでも入手困難なのだ。

 その、甚八丸のコレクションだった。吉次郎は心が揺れる。


(フヒーヒィ! 俺様は歌麿先生にこの春画を元にした模写を描いてもらってるもんねー!)


 とまあ、彼が手渡そうとしているのも複製を用意しているからだったが。

 江戸の絵師にとって絵柄のコピーは結構皆がやっている技能である。


「うーん……うーん」

「それで吉次郎殿。あたしも九郎殿には世話になっているものでしてね。買い取る薬種に少しばかり色を付けさせて貰いますので、その分減額して貰えればと」

「阿部殿もそう云うのなら……」

「何かお望みのものがあれば手配もしますぜ」


 そう告げる。

 実際、この薬種問屋の親父は遊郭で使う用に媚薬や強壮薬などを都合していたのだ。

 これから隠居に入るのだが、この通りまだ助平心は残っているのでその類の薬を勧めるのだったが。

 

「女遊びも隠居したら控えようと思っているのだがなあ……でも最後にまたぱぁっと遊ぼうと思って、その資金に店を売りに出そうと思ったわけで……そうだ」

 

 吉次郎は何か思いついたようで、老将翁を手招きして店の奥へと連れて行き小声で会話をした。


「そういうことでしたら、なんということはない」

「そうか、そうか!」


 嬉しそうに吉次郎は笑い、機嫌も良く戻ってきた。


「なんなのだ?」

「さあ。多分助平なことだと思うが。あの爺」

「爺になっても元気だのう」

「お前がそれ云う?」


 などと甚八丸と共に言い合っていると、どうやら交渉は纏まったようだった。

 

「というわけで、店は四十九両(約392万円)で売ろう」

「む? かなり安くないか、それ」


 思っていたよりも全然安くて、九郎は拍子抜けした。

 かなりの額を当初の予定から減らしたに違いない。恐らく二分の一以下になっているのではないかと、不安に感じた。大家になる権利を買う大家株だって、良いところでは百両以上もするのだ。

 吉次郎は破顔して、


「なあに、そこの助平筋肉と阿部殿のご厚意によってですな。こちらもどうせ稼ぐだけ稼いだ金がある身。なら義理人情で身を切っても良いかと思いまして」

「そうか……」

「四十九というのは、ここいらじゃ五十両以上で店を売ると寄り合いや名主に付け届けが必要なものですので」

「気を使わせて悪いのう」


 面倒な手続きのことまで省いてくれるのは、単純にありがたかった。

 

「うーむ、お主らには借りが出来たのう」

「何云ってやがる。これぐれえ、鶏の餌代わりで貸し借り無しだ」

「こちらも、お宅で世話になっているものですから言いっこ無しですぜ」


 そう二人は云うので、九郎も「そうだな」と頷いた。

 甚八丸が筋肉を強調するポーズを取りながら云う。

 

「よし。じゃあ安くなった分これから根津遊郭にでもちょっくら遊びに行くとするか!」

「あ。お主の嫁」

「そういうのはね九郎くん。俺様に手裏剣がぶっ刺さる前に教えてくれるかな……!」


 甚八丸がダラダラと額から棒手裏剣を生やして血を流しながらそう呻くのであった。

 こうして、九郎は菓子を販売する店舗を格安で手に入れることになった。





 ********




 その晩、皆に菓子屋の店舗ができて準備もしなければならないと報告をすると、


「相変わらず行動が早いわね……まだ何も準備していないのに」


 豊房は呆れながらも、「九郎らしいわ」と微笑んだ。


「えーと、向こうの竈も増やさないといけないかもな。下見をして大工も呼ばないと」

「鹿屋のおじ殿に報告し、材料も回して貰うごっせんと」


 台所をよく扱うお八にサツ子は色々と準備を思いついて提案し合う。


「おやおや、あの助平な吉次郎殿がよくもおまけしてくれたものですね」


 将翁は肩を竦めて皮肉げに云う。彼女も何度か寄ったことはあるのだが、胸に吉次郎の目が行くのが露骨にわかっていた。


「お菓子屋さんをやるとなると、余ったお菓子を食べれるかもしれないでありますね!」

「……夕鶴くん、君は五歳児並の思考だからねそれ」


 目を輝かせる夕鶴に、石燕は自嘲気味にツッコミを入れた。


「お菓子屋なら宣伝も打たんとのー。私が歌って回るのじゃよ」


 スフィも胸を叩いて云う。


「まあ……何から何まで、まだこれから準備が必要だがとりあえず安定した稼ぎのために、皆も協力を頼むぞ」

 

 九郎も云うと、盛り上がってわいわいと話し始めるのであった。


 それを見ながら阿子は包帯を巻いている腕で酒盃を掴みちびりと口にしていた。

 阿子の怪我も大分に癒えてきた。

 本来ならばもっと回復に時間がかかるところなのだろうが、無理をせずに介護されていたことと、スフィの癒やしの歌をよく聞いていたので自然と回復力が高まっていたのだろう。


 なお、スフィの使う歌の秘跡は強烈な大声で相手を吹き飛ばしたり、目を覚まさせたりといった彼女自身の声量に起因するもの以外の特殊な効果を発揮するもの──例えば回復、解毒、空間支配、属性攻撃など──は本来に比べればかなり微弱な効果になっている。

 これはペナルカンドに蔓延している魔素とも言える魔力の元が地球世界では非常に希薄なためと、ペナルカンドで信仰されていた歌神の加護が届かないためだ。とは言え本気を出したらスフィの内蔵魔力で本来の効果を発揮することもできるが、長い使用不能期間が必要になるだろう。 

 それでも微弱には効果するので、彼女の近くで歌を聞きながら生活していると怪我の治りが早まったり、病気に掛かり難くなったりするのであったが。


 話を戻すと、阿子はようやく腕の添え木を取り、動かしても平気な程度に回復をした。

 まだ腕の握力は鈍く、力を込めると僅かに疼痛がして骨折部位も触らない方が良いのだろうが、少なくともここまで回復すれば自分で箸も握れるし、体だって拭える。


「阿子も治ったしお祝いだな、今夜は」 

「いやはや、ご迷惑をお掛けしまして」

「なーに、困った時はお互い様というか、小さくなった将翁姉を可愛がってたみたいで楽しかったぜ」

「可愛がられすぎて、ちょいとつらかったですがね」


 阿子は首を軽く振って苦笑いをお八に返した。

 彼女の介護されていた一日は軽くこうだった。 

 


 阿子は客間にてサツ子と一緒に寝ている。これは、九郎やら嫁妾やらに配慮してのことと、もし夜中に催した場合に手助けが必要だからだ。ちなみに我慢して二度ほど布団に染みを作った。

 朝に目覚める頃にはサツ子は既に起き出しているので、一人でのそのそと水場へ向かう。障子程度ならば足の指で軽く開けるように手慣れた。

 そこで起床時間が同じぐらいで出くわすのはスフィか九郎だ。桶に貼られた水を前にしている阿子へ、濡れ手ぬぐいで顔を優しく拭われて口をゆすがされる。前に一人で水桶に顔を突っ込んで、足指で摘んだ手ぬぐいで拭こうとしていたら九郎に見られた。呆れられたので止めた。


 そうこうしていると朝食の時間になる。全員一斉に取ることは稀で、将翁や豊房はまだ寝ていたり風呂に入っていたりすることも多い。そこでも阿子は手が使えないので手を掛けさせる。

 色々と回り回った結果、さっさと自分の分を食べた九郎から阿子は朝食を食べさせて貰うことが多い。お八やサツ子は片付けや洗濯などの家事があるのと、スフィや石燕は単純に体が小さいのでやりにくい。それに阿子も子供に介護されるのは気が引けた。

 九郎が匙で米を掬い、口元に細かく切った具を入れた味噌汁椀を運んでやり、口元を拭いて茶を飲ませてやる。本人の手が使えないので、口元についた米粒などは九郎が指で取ってやり、それを阿子が指を咥えるようにして食べた。


 食事を終えると歯磨きに向かう。当然ながら最後まで阿子の世話をしていた九郎しか残っていないので、九郎が膝の上に載せて房楊枝で磨いてやる。

 それから阿子は、石燕かスフィかサツ子あたりと風呂に入る。朝に入れ直したばかりの風呂だ。そこでまた丹念に体を洗われる。

 日中は屋敷で自由に過ごすが、面倒なのは厠のことだ。着物の丈を太腿ほどで切っており、そのまま屈めば用足しが出来なくもないのだが手が使えないので拭けない。居候の身で尻を拭かずに屋敷の中で過ごすわけにもいかず、恥を忍んでそのとき屋敷に居る者──主にサツ子に頼む。腕が使えないというのは、斯くも不便なのだ。

 それから、阿子が怪我をして短い着物で生活していると聞きつけやってきた利悟が犬に食われるのを見たり、伯太郎が利悟の見舞いの品まで奪って狐面阿子を見て「疑似……これはありだ!」などと一人で納得した辺りで九郎に追い散らされるのを見ていたりする。


 出かける場合は九郎が暇なときで、彼に連れられて茶屋や飯屋などで食べさせてもらったりしていた。

 仕事ではなく出かけるというのも阿子にとっては珍しい体験であったようだ。

 夜にはまた食事をして貰って、ほんの薄い酒──酒に弱い者のために用意されている──それを幾らか口にして、早めに就寝する。

 そういう日々を送っていた。

 

 本来ならば阿部将翁は大怪我をしたら里に戻り過ごすのだったが、ある程度信頼ができる屋敷というので一族の決定もありここで療養生活を送っていたが。

 それこそ、何から何までこれまで受けたことのない対応であった。


「ですので、この御恩は忘れません」


 阿子が食事の席で頭を下げると、皆は若干残念そうにした。


「そうかー……怪我が治ったら阿子はまたどっか行っちまうんだな」

「寂しくなるでありますな」


 阿子はにこりと笑顔を見せて云う。


「いえいえ、これがつらい生活などとは思ってもいません。人が生きるにはその者の道があるというもの。時折こうして、道の脇で休めただけでも有り難いことですよ」


 彼女は皆を見回してから、最後に九郎を見て狐面越しに礼を告げた。


「本当に、ありがとうございました」

「うむ。たまには屋敷にも寄れよ」

「ええ、そうさせて頂きます」


 


 それから深夜になり──。

 阿子は寝床から起き上がった。 

 枕元に置いていた狐面を一度手に取り──それを置いてから布団を出て、部屋を後にする。

 廊下を移動する。屋敷の皆は眠っているようで、静かな夜に寝息の音が聞こえていた。

 彼女は九郎の部屋に入り、仰向けで寝ている枕元に座る。


「……ありがとうございました」


 そっと囁くが、九郎が起きる気配はない。

 彼女はそっと自分の唇を撫でて、寝ている顔に近づける。

 口吸いという行為は元々、己の口にしている食事を相手に与える動物的行動から来ているらしい、と阿子は知識にある。

 中国の文献によるものだ。それは、自分の持つ餌を他者に分けることで愛情を伝える仕草だという。

 そこから、何も口を経由して渡さずとも、口を合わせることが愛情表現へと代わっていった。


(これはあくまで、そういう男女の情ではありませんが……)


 阿子は誰にというわけでなく頭の中で言い訳をする。


(何かをしてやりたい、という恩義のつもり……だと)


 そうだと彼女は決めて、眠っている九郎に口づけをした。

 最初はついばむように触れて、次に唇を僅かに吸う。

 口を塞いで息苦しくならないように、何度もつけたり離したりしながら九郎の口に吸い付いた。

 そうしていると、


(ほんのすこしだけ……)


 と、阿子は意を決して口同士を合わせて、舌先を九郎の口腔内に這わせた。

 不思議と陶酔感がした。彼の唾液と自分の唾液を交換していると、頭がぼーっとしてくる。


(これはまさか……)


 ふと、九郎が息苦しそうにしたので口を離す。

 少しだけ彼の呼吸が落ち着くのを見て、頬や顎にも小さく何度も口づけして試した。

 水音が寝室に僅かに聞こえている。


「は、は……」


 阿子は呼吸が上がり、自分が汗を浮かべていることに気づいた。

 

(いけない……)


 そう思って、行為を止めようと決めたが最後にもう一度彼の口に侵入しようと、ゆっくり近づいていく。

 ──このあたりになってようやく、九郎がにわかに目を覚ました。

 だが半分寝ぼけている上に暗い寝室の中だ。誰かが覆いかぶさり、口を吸っているという状況はわかっても相手が誰かはわからなかった。心当たりは嫁か妾かであったのだが。

 口が塞がれる。舌が動き回るのを、九郎は面倒臭げに口の中で捕まえて目の前にいる相手の頭と腰を抱いた。

 ハッとした気配を感じる。抱かれて密着した体はとても汗ばみ、濡れていた。

 九郎は手先に感じる髪質から、


「──将翁?」


 と、口を話して声を掛けると相手が震えたような気配がした。

 そしてどうやら、すぐに九郎から離れて部屋を出ていったようだ。

 

(なんだったのだ)


 そんなことを思いながら、九郎はまあいいかと眠りを再開した。






 **********







 翌朝。阿子は荷物を持って皆に見送られ、屋敷を出ていき──


 その足取りは、本人もわけがわからない程に重かった。


 頭の中が昨夜のことと──これからのことでいっぱいだったのだ。

 これから阿子は九郎へ恩返しをしに行く。

 というのも、九郎が購入した店の吉次郎が老将翁に出した頼みというのが、


「処女なのに超助平で積極的な女の子を紹介してくれ」


 という中々の無理難題だったのだ。

 ところが頼まれた阿部将翁には心当たりがあった。

 すなわち、自分である。

 女の、まだ未経験である体を持つ自分がその相手をすれば演技である程度助平さと積極性は出せるだろうと判断したのである。

 実際、阿部将翁が男女相手に肉体関係を持つことはままあった。ときには権力者に取り入るために抱かれることもあったので、その程度の行動で百両あまりもまけてくれるのならば、九郎への恩返しも兼ねて自分がすればいい。

 その判断は、概ね全ての阿部将翁が納得するものであった。すぐその日のうちに阿子にも伝えられた。

 

 つまり阿子はこれから吉次郎に抱かれに行くのである。 

 九郎への恩返しとして、店を安くで手に入れる対価として。

 

「……はあ」


 大きくため息を付いて阿子は、橋の上で立ち止まった。

 欄干に寄りかかり、川を眺めてから自分のまだ包帯を巻いている手を伸ばして見る。

 

(もしこの手が……まだ怪我が治っていないならば)


 こうして屋敷を出て抱かれに行くこともなかったのかもしれない。

 もしこの欄干が急に壊れて、川に落ちて怪我でもしたのならば、またあの屋敷の皆は心配して泊めてくれるのだろうか。

 阿子はつい、そのようなことを考えて頭を振った。


(いや、それではいつまでも恩を返せず……)


 恩は返さねばならない。他の阿部将翁も皆そう考えている。

 だというのに、自分は何を思っているのだろうか。

 目を瞑ると、暗がりの中で頭を抱えて「嫌だ」「助けて」と叫んでいる誰かが居た。

 阿子は静かに、そのイメージに札を貼り黙らせるところを想像してから歩みを再開した。

 たかが自分の、いつかは散らして一族の跡継ぎを産ませる道具一つで百両も得をするのだ。

 阿子は胸が酷くズキズキと痛んだが、目的の場所へと真っ直ぐ向かっていった。





 九郎の屋敷に甚八丸が駆け込んできたのは夕暮れ前だった。


「うおおおい! 九郎の馬鹿は居るか!!」

「うわ。何だ甚八丸お主」


 いきなり現れた甚八丸はかなり焦っているようで、九郎を見つけ次第引っ張って連れ出す。


「いいから手前はとっととあのちっこい狐面の嬢ちゃんを探せ! なんか雰囲気やべえぞ!」

「わかった。すぐに探す。だが、何があった!?」

 

 二人はひとまず移動をしながら、甚八丸に説明を求めた。


「事情を知ってれば俺様が止めてたんだが……あの店を安く譲る条件ってのが、あのちっこい阿部の嬢ちゃんを助平吉次郎に抱かせることだったんだよ!」

「なんだと」

「そんで了承していたみてえだが、土壇場で錯乱して泣き叫んで飛び出して行っちまったんだと! 吉次郎が慌てて俺様に連絡してきてて、とにかく正気を失っていたみてえだから思い詰めて入水でもされたら目覚めが悪い!」


 処女で淫蕩という相反した属性の相手にしようとした吉次郎も、まさか相手が突然年頃の少女のように暴れだすとは思っても見なかったし、そんなつもりでも無かったのだろう。

 助平ではあっても無理やりする趣味などない。それ故に心配して、知人の甚八丸を頼り行方を探してもらっているのだ。


「わかった。とにかくお主は、他の阿部を探して話を聞け! 己れは最近二人で行ったところを探してみる!」

「おう!」

「それと犬同心の伯太郎に連絡つなぎを取って──」


 そう指示を出していると、


「お待ちを」


 と、声が掛けられた。

 二人の目の前にはいつの間にか、九郎の妾である将翁が立っている。

 彼女はどこか遠い目をしていて、夕暮れに僅かに茶色がかった髪の毛が反射して赤く染まって見えた。

 

「将翁?」

「なんでぇ、占いでもしてくれるのか?」


 将翁はやおら口を開き、告げてくる。


「これは九郎殿が解決しないと意味がないことだ。他の方は、巻き込まない方がいい。彼女が壊れてしまう」

「なに?」

「彼女を縛る術は、彼女自身でもある。それを解きほぐすと、葱の皮を剥くように中身は何もない」

「なにを云って……」

「思い出せ、九郎殿。彼女は誰だ? 彼女は、どこで誰になった?」

「……」

「自分が思うようにやるといい。何も手は出さないが、信頼をしています、よ」


 九郎は将翁の言葉を聞くと、空へ飛び上がり何処かへ向かって飛んでいった。

 甚八丸はそれを見送り、なんとも無力感に苛まれる。


「結局、あいつでどうにかなるのか?」

「さあて。……ところで、甚八丸殿も随分とお人好しで」

「うるせぇい。俺様はな、他人だろうが女が泣くのが大嫌ぇなんだ。失敗したら九郎をぶん殴る。そんだけだ」

 

 そう云って甚八丸はその場からするりとした動きで何処かへ消えていった。

 将翁は南の空を見ながら静かに口ずさむ。


「籠の中の鳥は、いついつ出会う……か」

 




 *******





 僧職が捕縛され、死罪や遠島を受けたことで廃寺のようになった国分寺。

 ここは邪悪な蛇である徳叉迦を本尊にしており、見世物小屋が連れてきた巨大な錦蛇が逃げ出して住み着いたために、それを地下室にて飼っていたのである。

 九郎は取り出した炎熱符の先に火を灯して提灯代わりにして、その地下室へと足を踏み入れた。

 蛇が居なくなったことで臭いも大分薄れているが、かつてはここに錦蛇を入れて恐らく猫などを食わせていたのだろう。僅かに血の生臭さが残っている。

 火の灯りに照らされて、地下室の奥にある木組みの格子牢──その中で膝を抱いて蹲っている少女が居た。

 九郎は何か声を掛けようかとも思ったが、無言で近づく。

 石造りの床に灯火を置いて、彼女の隣に座った。


「……」

「……」


 互いの呼吸の音も聞こえる。そうしていると、少女が静かに喋り出した。


「わけが……わからない」

「……」

「ちゃんと理解しているはずだというのに……体がどうしても受け付けないのです」

「……嫌なことは嫌だと云え」

「どうして嫌なのかもわからないのです……」

「少なくとも己れは、お主の体と引き換えに安く買い物をするのは嫌だがな。理由など無くとも、嫌なものは嫌だから仕方あるまい」


 女は顔を上げる。光を灯さない目を中空に漂わせて、云う。


「あたしは阿部将翁。阿倍御主人(あべのみうし)から続く不滅の存在」

「……」


 すると彼女が両手で耳を塞いだ。その手に巻かれた包帯には、どこかでぶつけて切ったのか、いつの間にか血が滲んでいる。

 それから自問するように唱えた。


「あたしは、私は、俺は、誰だ? 何者だ?」


 九郎は──。

 その、少女の両手を掴んで耳から外してやり、彼女と額を合わせて云う。


「阿子」


 その言葉に、阿子は身じろぎをした。

 言い聞かせるようにゆっくりと阿子の額から離れ、目を見て彼は告げた。


「お主がここで、己れに聞かせた、お主だけの名だ」

「……それは……単に区別のために」

「それでも、お主が名乗ったその時から、お主は他の誰でもなく阿子だ」

 

 彼女は応えず、九郎は続ける。


「己れとこうしているのは嫌か?」


 首を横に振った。


「皆と屋敷に居るのは嫌だったか?」


 また否定の意思を示した。


「なら帰るぞ。皆は嫌というほど歓迎してくれるだろうよ。皆も、阿子のことが好きなのだからな」


 阿子の目に涙が浮かび、九郎は胸に抱いてやった。 

 暫く彼の胸を濡らす涙は止まらなかった。

 生まれたての赤子が泣くように、ずっと泣いていた。





 *********





 それから九郎は、阿子を連れて屋敷に戻り、また怪我をしている様子の阿子は余計に心配されて面倒を見られることになった。

 無意識のうちに、腕を岩に叩きつけて出来た傷のようだ。

 腕が折れたままならばと願った彼女の行動だったのだろう。

 店を買うために体を売ることになった云々は、九郎と将翁しか知らないことにしておいた。


 

 阿子に逃げられた吉次郎へは多少思うことがあったものの、詫びの違約金を持って九郎が向かった。

 そうすると彼は、阿子が無事に保護されたと知らされ安心した様子で、九郎にも謝罪をした。

 こんなつもりじゃなかったのだと。ただ純粋に、淫乱処女が抱きたかっただけなのだと。

 そこまで言われると怒る気にもなれなかったので、金は要らないと言われたがけじめとして追加で百両払って終いにした。



 阿部の一族からは、


「術を解くことが必ずしも幸せに繋がるとは限らない」

「これまで十年以上も付き合ってきた人格を崩壊させたに等しく、得る必要のない痛みを得てしまった」

「とりあえず九郎殿には、今後女を近づけないようにしますので」


 と、苦情が来ていた。

 少女の純潔を売り飛ばそうとしたものの、彼らからすればその程度千年も生きていれば珍しくも無かったのだろう。そもそも人格が芽生えるまでは、阿子も彼らと同じ考えであり、迷い苦しむことも無かっただろう。

 個人の不幸などいつ、どこにでもあってそれを救ったの救わないので言い合うことなど不毛なのだと九郎も知っていた。

 だから、単に気分の問題として、阿子のことはこれで良かったのだと勝手に思うことにした。




 阿子は屋敷に戻されて翌日には、普段の慇懃でやや斜に構えた調子は戻った様子だ。


「これからどうしたい?」


 と、九郎が尋ねると、


「どうしたいか、見つけようと思いますぜ」


 そう澄んだ笑みで返してきた。

 まだ彼女は、阿子という名前だけを手に入れて殆ど空っぽの状態だが、これから自分を手に入れていくのだろう。 

 先に抜けた将翁のように。

 だが彼女はふと思い出したように深刻な顔になり、あたりを見回して九郎に声を潜めて告げた。


「九郎殿。実は非常に厄介なことなんですが」

「どうした?」


 阿子は難しそうな顔をして、言葉を選んだ。


(九郎殿相手にした口吸いでやけに胸が高まり、汗も出たあれは……)


 そして頷き、口にする。



「実はあたし……男色趣味かもしれません。どうしましょうか」


「……」



 ──どうやら阿子の人格はまだ、自分を男だと思っているようだった。

 

 色々と、彼女の成長はまだこれからである。



危うく女を売って店を手に入れる外道主人公になるところだった

ひとまず阿子ちゃんの話はこれで決着

お店の店員にでもなるのかもしれない

恋愛? いい相手が見つかるといいね……


当時お店を売りに出すって微妙に資料が少ない上に結構値段のばらつきが大きかったので

適当なサービス安値ということにしています

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