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50話『仁左衛門と海賊の風』




 小伝馬町での火事騒動にて、牢屋敷に囚獄されていた囚人を一時的に外に避難させるという措置が取られた。

 これは明暦火災の頃に出来た慣例であり、如何に囚人といえども逃さずに焼死させるのはいけないという人道的な理由によってだ。

 一旦外に出された囚人は期日のうちに戻ってくれば罪を一等減。戻ってこなければ微罪であっても死刑と決められている。

 囚人というのはその身元までしっかり調べられている上に、与えられる着物は年に二着、散髪・月代を剃るのも年に二回という一般的に見ればみすぼらしい格好になっているので酷く目立つし、当然ながら関所を抜けられるわけもない。

 多くの囚人は、


「火事になって罪が減って良かった」


 と、でも思って素直に牢に帰ってくる者が殆どであった。

 精々が、期日までに家族の顔を見に行くか、知り合いに金を借りて物相飯(※牢の中で食う飯。一日五合五勺の飯と、漬物と汁。ただし差し入れは許可される)以外の飯でも食う程度で、本気で逃げようとする者は少ない。

 実際に九郎がむじな亭にて飯を食っているときにも、薄茶けた着物を身に着けた裸足の男がやってきて、


「た、頼む。牢に戻る前にここの蕎麦を食わせてくれ……」


 そう言ってきた。

 当然ながら金は持っていなさそうだったが、六科は冷静に告げる。

 

「食ったら長屋の溝掃除をしていけ」


 そう告げて温かい蕎麦を出してやるのであった。 

 それを見ていた九郎は意外そうな目で、


「何も牢に戻る前の蕎麦をここで食わんでものう……」


 と、呟いた。目の前で天ぬきのきつね蕎麦を旨そうに食べている将翁が言う。


「ま、個人の好みですから。ほら」


 指を向けると囚人は出された蕎麦を啜りながら感動していた。


「このボソボソどころかモロモロとした粉っぽい蕎麦! 湯切りが甘くて薄まったつゆを誤魔化すように生醤油が掛け回されている! おまけとばかりに摩り下ろしてもいない土付きの新生姜がごろっと入ってて! 不味い! うん、この味だ!」


 まずそうであったが、生姜もボリボリと噛み締めている囚人は満足そうだ。

 半眼で九郎が六科に言う。


「……六科。なんかまた料理の腕が下方修正されておらんか」

「囚人は碌なものを食べていないので大丈夫だと思い手を抜いただけだ」

「抜くな。手を」


 つい最近豊房などからアップグレードされているというのに、六科という男は機械的でありながらも手心のある男なのだ。


「そう言えばお主、前に物相飯を食ったことがあるとか言っておらなんだか」

「ああ。若い頃に喧嘩で捕まり、お六共々牢屋敷にひと月ほど入れられた」

「ほう」


 現代では刑罰として禁固や拘留が行われるが、江戸時代は過怠牢という名であまり行われない罰であった。

 

「たまたまその時の牢名主が魚市で働いていたときの知り合いでな。色々と世話になって、飯に掛け回す醤油を分けてもらった。旨かった。今でも好物だ」

「質素だのう」

「一方でお六は女牢で牢名主になって、他の囚人から絹の着物を何枚も奪ってから釈放されていた」

「強すぎるだろう」


 などと話をしていると九郎の鼻先をくすぐるように、目の前にある頭が揺れた。


「……それより九郎殿。お揚げを」

「はいはい」


 九郎は自分のあぐらを掻いている足の間にちょこんと座っている阿子に、薄揚げを丼から箸で摘み彼女の口に運んでやった。

 腕も痛みは大分取れているのだが、まだ固定しているのでこうして食事の介護が必要なのだ。

 だが将翁がジト目で告げてくる。


「……そこの阿子が休業中だから、臨時であたしが一族の仕事を代わっているので少し留守がちだったのですが……いつの間にそんなに二人は仲良く?」


 ここ二三日はやたら阿子は屋敷でも九郎の側に居て、彼から飯を食わされることが多い。

 こうして密着して座っているのもやたら自然にそうしていた。細い体を九郎に預けている姿は、普通の距離ではない。

 阿子は遠い目をしてふっと息を吐き、


「最初はほら、あたしも男の精神なものだから女性たちにちやほやと介護を受けて楽しんでいたのですが……彼女らはこう、次第に面白がり初めて」

「というと?」

「あたしに可愛いらしい着物を着せようとしてきたり、髪の毛を色々と妙な結い方で遊んできたり、菓子で餌付けしようとしたりされるのが色々とつらくて……」

「ははあ……」


 何せ屋敷にいるのは基本的に世話を焼きたがりな性格をしている者たちである。精神はともかく、見た目は完全に怪我をした少女な阿子は上げ膳下げ膳の構われっぷりであった。

 主人格は男だが、必要とあらば女のフリもできるし子作りにも抵抗はない[阿部将翁]という一族の精神なのだが、基本的に単独で行動して仕事で他人と付き合い、深い関係になることは少ないのでこうして九郎の屋敷に逗留しているのが珍しい事例なのである。

 とはいえ、一時だけ女のフリをできるのと延々と可愛がられて、着せ替え人形のように扱われるのは男の精神として耐え難いものがあったようである。


「というわけで、男同士な九郎殿に頼る他はないのでこうして付いて回っているわけでして。男同士は落ち着きますねえ九郎殿」


 もぞもぞと尻を動かして座り心地を整える阿子は、懐いた猫のようだった。


「……まあ、本人がそう言うのならば構わんが」


 九郎は仕方なさそうに肩を竦めて、体を預けてくる阿子に苦笑いを返した。

 確かに女に囲まれていては気も休まらないという気持ちはわからないでもない。嫁や妾という特殊な関係ならまだしも、阿子からすれば他人である。

 だから男友達とも言える九郎にスキンシップを求めるのも、仕方ないことなのかもしれない。

 九郎も男色の気は無いが、阿子も性別は女なのでそこまで拒否感はなかった。彼女の腹を撫でたり背中を掻いたりしてやると気持ちよさそうに目を細めるが特に変な関係ではない。

 精神的には男同士なので男女の仲にはならないし、肉体的には男女なのでホモではない。しかしながら微妙に距離が近い。

 そういう奇妙な関係性が、おおよそ阿子から距離を縮めることで出来上がっているようであった。

 何故かわきわきと手を動かして将翁が言う。

 

「……九郎殿。その、頑張ればあたしも見た目なら妖術とかで若返られると思うのですが」

「何を張り合っておる、何を」

「変な風に見ないで欲しいものですぜ。九郎殿、お酒を」

「ほれ」

「……ずる」


 どう見ても九郎に甘やかされている、自分似の少女を見て将翁は軽く嫉妬するのであった。

 はたから見れば親娘連れなのは、六科も口には出さなかったが。彼的には妾に行った豊房に子も宿ったようなので細かいことはどうでもいいのだ。

 蕎麦を完食した囚人に尋ねる。


「蕎麦のおかわりは要るか」

「流石に二杯は食うに耐えないから別に……」

「むう」


 碌なもの食べていないブーストは、最初の一杯だけに適応されるようであった。






 ********




 

 ともあれこのように少しだけ娑婆の空気を味わう囚人もいたようだが、先日の火事で逃げた囚人の殆どは素直に出頭したという。

 ただ、それでも現れない囚人が人相書きとして手配されることになる。

 それはヒモ切り仁左衛門と、その一味であると見なされた。 

 一味の者は、微罪などで予め牢内に侵入していた者と、外からの手引で放火や騒ぎを起こした者がいるという。

 火事で逃げ出したのは偶然ではなく、仁左衛門を逃がす作為が存在していた。

 以前に口八丁で巻き込み、既に捕縛されて刑を受けた者達ではない真の手下である。


 伊賀小僧・獄ノ介(ごくのすけ)。伊賀忍者の子孫である。

 透破走り・車五郎(くるまごろう)。同じく、透破の出だ。

 土鼠・気違郎(きちがろう)。精神錯乱気味だが、鉱山出身で穴掘りの技術を持つ。

 晒し場・超伝次(ちょうでんじ)。なんか凄いらしい。


 それらがヒモ切りの逃走に関わっており、いずれも捕らえ次第死罪が決められていた悪党であった……



 九郎はその四人を日本橋で晒し者になっているのを見ていた。


「いや……逃しておいてこいつら何を真っ先に捕まっておるのだ……」


 呆れたように、忍びだろうが手品師だろうが解けぬように縛られて座らせられている四人を見ていた

 晒し場に掲げられている札に素性などが書かれているので、単にそれを読んだ情報であったが。

 ヒモ切り四天王は土壇場で仁左衛門を逃がすという最大級のフォローをしたのだが、その後にあっさりと捕まったのである。

 策略などでわざと捕まったのではなく、自分の管理下である牢屋敷に放火までされた大岡忠相がかなり本気になって実行犯である彼らを徹底的に追い詰めたのであった。


「助けろ……助けろ仁左衛門……」

「同心の隠密に藤林家のやつが居るなんて聞いて無かった……」


 などとブツブツと呻きながら項垂れている。

 だが彼らを助けるために危険を犯す仁左衛門ではあるまい。狡猾で慎重、そして他人を操ることを得意とする悪党が仁左衛門だ。


「とはいえ、まだ首魁が捕まっていないってのが問題なんだよなあ。主に奉行様の機嫌的に」


 九郎を晒し場に案内してきた利悟が、若干隈の残った目元を細めながら呟く。

 疲れた様子だが、彼もこの四人を逮捕するために昼夜問わずに江戸中を駆けずり回り、切った張ったの捕物をこなしていたので疲労が溜まっているのだろう。 

 町奉行所は本来、火付盗賊改方のような大立ち回りの派手な捕物は恥とするので慎重かつ確実にことを運ぶのだが、そうも言ってられないぐらいの勢いで彼らを追いかけていたのだ。

 

「捕縛の手柄は火付盗賊改方に取られて、ついでに放火されて逃して……こっちの落ち度は無いはずなんだけど、世間の評判はそう思ってくれないからさ」

「あやつらは仁左衛門の居所を吐かなかったのか?」

「そりゃあこっちも、角材に座らせて石とか抱かせる町方得意の事情聴取で話を聞いたよ?」

「拷問ではないか」


 利悟は手を振りながら否定する。


「石抱きは拷問じゃなくて牢問。ちゃんと区別されてるんだ。牢問は奉行所の裁量で行っていいけど、拷問は老中の許可が必要になる。吊るしたり水攻めにしたりする方が拷問ね」

「似たようなもんだと思うがのう……いや待て。己れは一回火付盗賊改方に誤解で捕まって拷問されそうになったが」

「あそこは勝手にしていい部署だから。焼いた鉄串を指に刺して折ったりするから」

「エグいのう」


 もし次に捕まったら即脱出して、役宅に記憶が曖昧になる病気でもばら撒いて逃げようと決める九郎であった。

 

「それで聞き出したところによると、あの手下たちは仁左衛門が持っている隠し金を渡すことを条件に手助けをしたらしい」

「隠し金?」

「どうやったのか、江戸に来て既にかなりの金を盗み蓄えていたようだ。しかしそれで捕まったら元も子もないけどね。全員火あぶりが決まっている」

「放火だものなあ」

「仁左衛門の情報も引き出して、隠れ家にしそうな場所を片っ端から探して、陰間茶屋なんかにも通達したけどまだ手がかりは無い。まともな街道から江戸を出るのは警戒しているから、まだ府内に居るはずだけど……」


 そこまで言って、利悟は九郎の肩をぽんと叩いた。

 嫌な予感を感じて九郎は顔を歪める。


「というわけで現状わかっているのは、仁左衛門が九郎の胸に並々ならぬ感心を持っているということなんだ」

「わかりたくない」

「是非九郎には捜査協力を願いたい。具体的には上半身裸で町中うろついていてくれないかな。なあに、木場乗りの格好をしていれば全然不審じゃない」

「嫌過ぎる」

「そして個人的な頼みで言うなら、五歳ぐらい若返った姿で──ゴファア!?」


 拳をみぞおちにねじ込まれて咳き込む利悟。

 それを冷たく見下ろして告げる。


「お主さあ……嫁も居るんだから稚児趣味の上に男色やめろよ気色悪い」

「だ、男色じゃない! 単にすね毛の生えてないぐらいの男の子は美しいと思っているだけだ!」

「ううむ、より厳しい洗脳が必要か。電撃符の使用も検討される」

「何か物騒なことを!? 冗談でもやめてくれよコワイ!」


 利悟はぶるぶると頭を振って叫ぶが、九郎はきょとんとした顔になる。


「冗談?」


 ──術符フォルダから黄色い札を取り出して指に摘んでいた。

 天狗が妖術を使う気配に、さっと利悟の顔が青くなる。

 

「じゃあ拙者捜査に戻るから何かあったら宜しく! 今回ばっかりは、火盗改メに引き渡さないように!」


 慌てた様子で走り去っていく黒袴を見送って、九郎は仕方なく術符を戻した。

 それにしても、と九郎は思う。

 

(実際、悪党が逃げっぱなしなのは若干心配だのう。顔を見られているし)

 

 それにこの仁左衛門という悪党は普通の盗人とはどこか違うものを感じた。

 普通ならば大金を手に入れればそれで満足し、どことなりへ逃げるのだろうがこの仁左衛門は様々な伝手を使って江戸中で盗み犯罪を行わせ、それに一枚噛むことで金を得ている。

 流れ者だというのに盗賊団の元締めのようであった。そうするだけの、周りを抱き込むかそそのかす能力があるのだろう。

 そして現状で江戸を逃げるのは困難極まる。

 となればまた、この江戸で開き直って犯罪を起こすのではないか。 

 九郎は難しそうな顔で唸った。


「ううむ。いっそ豊房に刺青風の絵でも書いてもらうかのう」


 上半身裸姿で町中を歩いていても不審でない木場乗りの多くは、体に刺青を彫っているのである。

 自分が囮になることも思案しながら、九郎はその場を歩み去るのであった。





 *********






 ヒモ切り仁左衛門は海賊の子孫であった。

 彼の先祖は戦国時代には、不知火海から長崎近海付近を荒らし回っていたという。そのことを、仁左衛門は父親からよく聞かされていた。その父は祖父から。海賊だった以前の話は聞かない。仁左衛門の一族は、かつて海賊の頭であったことを誇りにしていた。

 紆余曲折あり、仁左衛門の生まれた頃には薩摩藩のイモ郷士として苦しい生活を送っていたが先祖が誰からも恐れられた海賊であったことだけを忘れず、気位の高さと海賊の教えを持って生きてきた。


 海賊頭という生き方は、どれだけ部下を働かせて裏切らせないかだ。部下の多くは食い詰めで、或いは襲撃した海村からさらってくることもある。そのためには多くを奪い金を稼いで、部下も儲からせる。そして言葉巧みに懐柔すること。その二つを守るように教えられた。

 そして仁左衛門が感覚的に掴んでいるのが、[風]だ。物理的な風というものも海賊には大事だが、自分に関わる状況そのものを逆風か順風か横風か捉えて、逃げるか進むかを舵取りする。 

 風を感じる上で大事なのは何か──


 それは男の乳首である、と海賊の神話に伝えられている。


 科学的な根拠はない。だが、男には生きるのに不要な乳首があるのは風を感じるための器官だと誰かが唱え、それは伝承となった。

 仁左衛門が少年の乳首をねぶろうとするのも、倒錯した性的な理由というよりその相手の持つ風を読む力を分けて貰うという儀式的な意味合いによっての行為なのだ。

 むしろ海賊は男の胸を吸うのが当然だという価値観があったのだ。

 年を食った男よりも、少年の方が未来の選択肢が多いことから[風]という感覚を多く得られるという仁左衛門なりの理屈があるのだ。

 それはそれとして少年が好きでもあるのだが。

 ともかく、事を起こす前後に儀式を行うことで能力が上昇すると信じている仁左衛門は、逃亡中の今まさにそれを必要としていた……




 何か変だぞ、と思って暗闇の中で靂は薄目をあけた。

 当然ながら屋敷の中は殆ど見通せない闇に包まれていて、障子がほんの少しだけ頼りなく月の光りに照らされていいるのがわかる程度だった。千駄ヶ谷の夜は虫と蛙の音がガランとした屋敷に静かに響いている。

 屋敷の元持ち主である新井白石は職の無い浪人でありながらも知行地として千石も持っているのでその住居も大きく、十代の若者四人で住むと中々に持て余し、夜中などはそのがら空き感が更に増す。

 と──靂は寝ぼけた頭が目覚めるに連れて異様な感覚がはっきりとしてきた。

 

「ふがっ!?」


 口の中に手ぬぐいが突っ込まれている。奥深くというわけではないが、それを取ろうと身じろぎしたら手が動かない。

 細縄で手が縛られているようだ。更に、布団を剥ぎ取られて体の上になんらかの重みがのしかかって来ていて身を起こすこともできなかった。 

 有り体にいって夜襲である。


(拙い!? 小唄か!? 甚八丸さんか!?)

 

 容疑者としてパッと思いつく幼馴染とその父親には失礼だと思ったが、そう考えた。

 そしてすぐにのしかかる相手の重さ、きつい体臭で小唄ではないと気づく。

 中年の男だ。

 相手は仰向けに寝ていた靂の合わせを胸元から左右に引っ張り、肌を露出させた。日焼けしていない青白い肌が、障子越しに僅かながら照らす月光を反射させた。

 獣のような臭いの吐息が掛かる。靂の背筋に鳥肌が浮かんだ。 

 

 ねとり、とぬめった感覚を胸元に感じた。

  

「ほごーっ!」


 靂は肺の息を全て吐くように叫んで暴れようとした。

 気持ち悪い。胸を吸われている。意味がわからない。

 いや、靂は実のところ、書痴なので男色についての知識はある。井原西鶴の『男色大鑑』も読んだ事はあるし、実践して詳しい歌麿とも親しい。 

 しかしながら自分にそれが降りかかるのは理解の外だった。

 ちゅうちゅうと男の胸に吸い付く謎の男。靂は混乱しながらも対処を考えた。


(こういうとき先生とか九郎さんなら……!)


 靂の脳内晃之介が「寝るときでも小刀を三本ぐらい持つだろ?」と武器を手にしていないと落ち着かない強迫観念に襲われてるような事を言い出し、脳内九郎が「腕力でどうにかしろ」と役に立たない助言をした。

 どちらも今の靂には不可能だ。足をばたつかせてみたが、とてもひっくり返せるような相手ではない。


(音を立てて誰かを呼ぶ……危なすぎる!)


 屋敷に居るのは茨にお遊に小唄。靂からすれば、少女にこの恐るべき変態を相手にさせるべきではないと思えたが、このままではいけないのも確かだ。 

 今はまだ乳首を吸われているだけだが、いずれ脇腹に刃物を差し込まれないとも限らない。押し込みに来たのならばそうするだろう。

 とにかく、一度でもこの相手を体の上からどければ行動が何かしら起こせる。

 駆けつける誰かを危険に晒すが、必ず助けると誓って足を動かし物音を立てた。

 今度は反対側の乳首が犠牲になっている。今後、風呂などで自分のこれを見るたびに思い出すことになるのかと考えると靂は泣きそうになってきた。

 そうしていると──



「死」


      つぷ、と小さな音がした。


「ね」



 あまりにぞっとする響きに、靂は自分が刺されたのではないかと疑ったぐらいだ。

 やや目が慣れてきた室内に、もうひとりの小柄な影が光を反射する白刃を突き出していた。黒く濡れているのは血だろうか。

 それを見て靂は、暗闇の中でも一切光を映さない黒という色は目立つのだと、そこに現れて刃物を刺したお遊の目を見て思った。それほどに、彼女の瞳はどす黒かった。 

 足音を殺して現れた靂の幼馴染は、迷うこと無く覆いかぶさっている影に守り刀で刺し、次の瞬間にひねりを加えて傷口をえぐったのである。

 刺していたのが胴体だったならば致命傷になり得ただろうが、どうやら肩で庇ったらしい。血を吹き出しながらも、行動に支障なく乳首ねぶり魔は飛び退いて離れた。


「靂! 大丈夫か!」

「……!」


 お遊に続いて小唄と茨が部屋に駆け込んでくる。そちらに向かって這い、靂も賊から離れた。

 相手は子供とはいえ四対一。更に自分は負傷している。

 賊である仁左衛門は靂たちを皆殺しにするか、この場は引くかを勘定に掛けた。恐らく戦った場合、殺すことは可能だろう。だが先程のように、相手もこちらを殺す気は満々のようだ。それならば下手な怪我をするよりは、さっさと逃げた方が良い。

 もし、この仁左衛門が情報としてこの屋敷に千両ほども詰まった壺があることを知っていたならば、多少危険を負っても靂たちを始末しようとしたかもしれないが。

 その情報は江戸でも限られた者──九郎と晃之介、靂の身内──しか知らない上に、誰にも話さないことを徹底しているので幾ら裏の情報源がある仁左衛門でも知る由もなかった。

 

 障子を破って庭に飛び出し、仁左衛門は逃走する。皮膚が固くなるまで鍛えられた彼の足は裸足で全力疾走をしても一切痛めることはない。

 それを警戒しながら見送って、ひとまず居なくなったことに靂はほっと息を吐いた。


「逃げた、か……」

「そんなことより靂! 怪我はしていないのか!?」


 肩をがしりと捕まれ、心配している表情の小唄が凄い剣幕で問うてきた。

 ひとまず頷くが、恐怖は抜けて胸を吸われた気色悪さに吐き気がこみ上げている。


「ああ、なんとか……うう、気分は酷く悪いけど」

「まったく! 気配には気づいたのだが、お遊ちゃんに縛られて転がされていたので助けに来るのが遅れてしまったのだ!」

「なんでそんなことに」

「だってネズちゃんが無駄にいつも靂の部屋に忍び込もうとするからー……」


 お遊が血の付着した刀を、靂の口に突っ込まれていた手ぬぐいで拭きながら言い淀む。

  

「それより、なんだったんだー?」


 話を逸らすように聞くお遊に、靂は言う。


「暗くてよくわからないけど……忍び込んできた中年の男が僕の体を縛って、胸を舐めたりしてきたんだ……」

「犯人はネズちゃんのお父さんだなー!」

「ちょっと待て! うちの父さんはそんなこと……いや、するかもしれないけど、気配が違った! 冤罪だ!」

「そんなことする男は一人しか居ないー!」

「居る! 利悟さんとか、歌麿さんとか!」


 ぎゃあぎゃあと言い争いを始めた二人を見ながら靂は、茨から渡された濡れ手ぬぐいでねぶられた胸を拭った。

 目を閉じると犯されるようにのしかかられ、ぬちゃりとした舌で舐められる記憶が蘇り涙が出そうになる。


「……吉原にでも行こうかなあ」


 一度体験してからはご無沙汰だったが、今は酷くそんな気分になる靂であった。性的な記憶を上書きしたい。

 だが女三人衆からそれは許可されず、結局警戒のために朝まで四人で固まって──三人が靂に抱きついて寝ることになったのだが、それはそれで落ち着かずに寝不足になった靂である。


 翌日、甚八丸のところに全員で訪問して傷がないか調べてアリバイも確かめるまで、この変質者めいた忍者頭領は容疑者扱いされていたという。






 *********






 靂を襲うことで[風]を感じ取った仁左衛門はこれからの考えが纏まった。 

 彼は今、元盗賊の男が経営している舟宿に身を寄せていた。江戸に来た際に悪党の伝手で知った場所であり、ここならば迂闊に仁左衛門を売れば宿の主人も道連れにできるので裏切りは無い。

 舟宿は川遊びをする客のために舟を出す店だが、二階を休憩室か飯屋、または宿そのものにしているところも多かった。

 更に大胆なことに、仁左衛門自身も編笠を深く被り、棹を操って船頭もした。船頭ならば笠で顔を隠していても不審ではないし、日中に舟宿へと町方の同心与力が訪ねてきて宿を改めるという行動もよく行われているので、それを避けるためでもある。

 まさか手配中の男が、船頭として働いているとは思ってもみないだろう。

 川開きも始まり舟が往来するのも珍しくない。そんな中を進みながら、仁左衛門は乳首を風に当てながら考えていた。


(風は逆向き。色々と手は打ったが、今は風に乗って逃げるだけだ)

 

 だが江戸中に捜査網が敷かれていて、街道の宿場町への通達から当然ながら関所を通る事もできないだろう。

 本来、町奉行所は府内を離れれば管轄外なのだがそこは嬉々として江戸の外まで追いかけてくる火付盗賊改方の存在もある。

 足跡が見つかれば馬を飛ばしてでも追ってくることは目に見えていた。


(ならば)


 と、仁左衛門が考えついたのは海路であった。

 海賊らしく、廻船を奪うのだ。

 まずは船問屋にて手頃な廻船の一団を見極める。船は小さく、伊勢から来たものが良い。それを襲って、乗員名簿を手に入れてからその人数を廻船に乗せて出港する。

 ここで重要なのは伊勢の船というところだ。他の場所から来た船ならいざしらず、伊勢は特別である。

 かつて徳川家康が本能寺の変から伊賀越えをして伊勢にたどり着き、そこで廻船を出して三河まで逃れることができたということから家康は伊勢、特に白子の船を全国の港に自由に入れて良いという許可を出したのだ。

 稲荷、伊勢屋に犬の糞というほど江戸ではよく伊勢の店を見かけるのは、こうして伊勢の船が多く江戸にもやってきているからである。それ故、役人の入出港手続きもゆるかった。

 航海技術は仁左衛門が習得している。

 だが奪い取った伊勢の船でそのまま伊勢に戻るのはリスクが高いし、他の港へ行くにも荷も積んでいない状態では怪しまれるだろう。

 なので、江戸と伊勢の間にある鳥羽の港にて船を乗り捨てる。

 そこは江戸へ向かう船の多くが寄る港であり、舟宿も多くて歓楽街すらあった。役人も立ち寄る船の遊興にはうるさく言わないので目を光らせていない。

 そこで幾らか盗みをして金を蓄え、名古屋にでも向かうのがいい。

 

 計画は大雑把だが、今の状況だと行動を起こすことが一番だ。

 隠れ潜んでいてもいつかは見つかる。

 

(海賊とは逃げようが奪おうが、動いているからこそ海賊なのだ)

 

 仁左衛門はそう信じている。既に彼は動き出しているのだ。薩摩藩のひえもん取りから生還し、脱藩したその日から。

 彼は薩摩藩に居た頃も、風を感じるために少年の胸を吸った。

 ところがそれが二才にせと呼ばれる薩摩の若者たちが大事に扱っている少年だったのだ。子供の時分から立派な薩摩男児になるように教育される修羅の国だが、とてもその教育に耐えきれない華奢な美少年が時折発生する。それはひとまず、守るべき対象として女装させたりして扱うことがあった。

 いわゆる二才サークルの姫である。

 それに手を出したのだから仁左衛門は、その場で殺されるならまだ温情がある方と噂されるひえもん取りへと参加させられたのだ。

 これは裸にひん剥いた罪人を、武器或いは素手で参加する薩摩武士が追いかけて肝をえぐり出す刑罰を兼ねた軍事演習である。

 だが一定の位置まで逃げ切ったりした場合は許されることがあり、仁左衛門は追いかけてくる薩摩武士を逆に殺害して逃げ切ったのである。

 その後、放免されても命を狙われることは確実で脱藩し、各地で少年の胸を吸いながら略奪を──言うなれば、海賊行為を重ねてきた。

  

(やはり水の上に居ると考えがまとまる……海賊の血だろうな)


 仁左衛門はひとまず舟宿に戻ろうと移動したが、宿の手前で近づくのをやめた。

 舟宿の入り口にて黒袴の同心と、青い着物の少年──それとがっしりとした犬が居たのだ。

 仁左衛門は同心も少年も見たことがあった。引き回しの際に付いていた利悟と、運気を見るために胸を吸おうと頼んだ九郎だ。

 

(どうしてここに? 居場所がバレているのか)

 

 仁左衛門は肩の傷を無意識に触って、舟を操りそこの舟宿とは関係ないとばかりに通り過ぎていった。

 計画を早めなければならない。

 とりあえず仁左衛門は手駒となって動く、自分と同じく江戸を出たいが関所を抜けられないような悪党を集めに向かった。幸い、その心当たりは様々にあった。






 ********



 

 

「むう……見つからぬな」


 九郎は守り刀についた血を拭った手ぬぐいと、番犬の明石を連れて仁左衛門の調査へと向かっていた。

 靂が謎の夜這いして乳首吸うマンに襲われたという話はすぐに伝わり、まさしく仁左衛門の凶行に違いないとその痕跡である血を借りて犬を連れた調査に赴いていたのだ。 

 

「ぶふっ」

「わかっておる。お主が悪いわけではないよ」


 不満そうに息を吐く明石。

 九郎が見るに、この愛犬は非常に賢くこちらの意図を読み取ってくれる。

 なので臭いを追って探索という方法も使えるのだが、どうやら犯人は川を移動しているようであった。これでは臭いも途切れてしまう。

 当時の江戸は非常に沢山の川や堀が入り組んでいるので、主要なところへは殆ど舟で移動できるのだ。そうなれば血の臭いは追えない。

 

「こうなれば川沿いを片っ端から探らねばならんがそれも大変だのう……」

「ぶふん」

「うむ? どうした──っとうわっ」


 明石を撫でようとしたら、かぷりと九郎の指を口に咥えた。

 噛み付くほどではないが、唾液が付着する。

 指を振って涎を飛ばそうとして、九郎はふとその濡れた指先に感じる冷たさに気づいた。

 そのまま指を立てると、風は南西方向から拭いている。この時期は数日ずっと南西風が吹き続けることが多い。


「む……ひょっとして、風下から探せと言いたいのか?」

「ぶふう」

「わかった。賢いのう。今度煮込んだ鴨の足先とかくれてやる」


 そう言って九郎は、川や堀の風下になる側を意識して臭いを探し始めた。これならば対岸にある臭いも明石が嗅ぎ取ることができ、探す効率は半分程度になる。

 それから二日ほどで、臭いがしっかり残っている舟宿を発見して利悟と共に捜査をした。 

 

「知らねえですってば! うちも、気がついたら舟を一隻盗まれたみてえなんでさあ!」


 というような事を、怪しい主人が言うがとにかく仁左衛門はここに立ち寄り、舟で移動しているという確証は得られた。

 もしこの舟宿に戻ってきても良いようにとさり気なく奉行所からの人員を配置して、更に探索を行うことになった。

 

「しかし、この舟の多さじゃなあ……」


 利悟が両国橋の上から川を眺めながらうんざりと告げる。

 川開きを行った江戸では舟遊びが昼も夜も行われている。そうでなくとも大小様々な漁船や水槽舟が魚河岸には毎日乗り付け、川の上流からは野菜や肉などが運ばれ、日本橋には舟からの商品荷物が降ろされるのだからそれら全てを取り締まるなど、向井将監でも不可能だ。

 

「更に謎の殺しは発生するし……」

「殺し?」

「角田村の納屋で、顔を削がれて着物も剥ぎ取られた死体が6つばかり出てきたんだ。おかげで誰が死んでるのかさっぱりわからない」

「ヒモ切りと関係あるのかのう」

「さあ……どちらにせよ、人を殺して顔まで剥ぐ兇賊がいるんだから困ったもんだ」


 ため息混じりに利悟が言う。

 九郎としても早くこの事件を解決せねば、どうも気が休まらない。自分の乳首を狙っている凶悪犯が野放しというのは案外にストレスが溜まるものであった。

 

「仕方ない……囮捜査に出るか」

「頼むよ、九郎先生!」

「調子の良いやつめ」


 ということで、水上を重点的に九郎は探すことにした。

 まずは晃之介のところへ向かい、彼にも協力を頼む。


「己れが船頭役をするから、お主らは怪しい視線を向けてくるやつが居ないか周囲を見張っておるのだ。利悟は同心だとわからぬようにな」


 左右を見張るために晃之介を連れていくことにしたのである。それに、彼は視線などに対して非常に敏い感覚を持っている。


「しかし九郎の胸をか……九郎、お前特殊な趣味のやつに好かれること多くないか?」

「己れのせいではあるまい」


 若干呆れられながらも、弟子の代稽古を靂と小唄に任せて道場近くの小川にある晃之介の猪牙舟で川へ出た。以前に九郎が沈めてしまったものを作り直したものだ。

 九郎と利悟は顔が割れているのでそれぞれ塗笠と編笠で頭を隠し、見た目も所属のわからぬようにした。

 その上で九郎は船頭としては珍しくもない、上半身裸になり着物を腰巻きにして首に手ぬぐいを垂らした姿である。

 舟であちこちに移動しながら、九郎に視線を向けてくる相手を探すのが目的だ。


「それじゃあ行くぞ」

「ちょっとした舟遊び気分だな」

「真面目に探してくれよ?」


 棹の先に精水符を付けて水流ジェットで楽々移動するので九郎も疲れない。三人は不自然にならない程度の速度で、江戸中の川と堀を廻り始めたのであった。

 

 




 ********





 江戸にいられる時間があまり残っていないことを悟った仁左衛門の行動は迅速であった。

 以前に因果小僧杢助をハメたように、金貸し関係の情報も集めていた仁左衛門は借金の膨らんでいる無頼を集めて手下にすることにした。幾ら借金が多かろうが、江戸を売って出ていけばチャラだ。

 そして伊勢からの菱垣廻船の水主六人を殺害して身元がわからないようにし、生かしておいた一人に案内させて品川沖で停泊している本船へと向かうことにした。

 菱垣廻船は上方などの生活用品を売りに来る船であり、幾つもの店が合同で商品を載せているので売り払った代金は一旦纏めて船に積んで持ち帰るという。

 それも頂けるのでちょうど良かったと、仁左衛門はとある朝方に川を下りながら考えている。今乗っているやや大きい屋形船には手下を乗せて、今日のうちに江戸を発つつもりだ。

 

(出発前にもう一人ぐらい、風を呼んで起きたかったが……)


 そうすれば安心もできたのだったが。

 と──その時。

 すれ違うように上流へと向かう舟があった。

 その船頭は随分若い少年のようで、柔らかそうな肌をした上半身を露出させており、仁左衛門は笠を僅かに上げて思わずそれを目で追った。


「いたぞ」


 小さな言葉が聞こえて、仁左衛門は固まる。

 九郎に向けられたねっとりとした怪しい視線を晃之介が捉えたのだ。彼は仁左衛門の方を真っ直ぐ向いている。


「そこの舟! 止まれ! 九郎、舟を戻して!」

「あいよ」


 利悟に言われずとも、水流の向きを調整して九郎は猪牙舟をUターンさせた。 

 一方で慌てた仁左衛門一味は、


「舟を急いで進ませろ! 引き離してそのまま逃げる!」


 そう指示を出して速度を上げさせた。しかし人力で水底を突いて移動する中型の屋形船と、水流ジェットで動く猪牙舟では速度の差があり距離はみるみる縮まっていく。

 

「二人共、飛び移れ!」

「任せておけ。殺さないようにだな」

「わ、わかった!」


 晃之介が軽く飛び石を渡るように音もなく舟も揺らさずに飛び移ったのに比べればいささか乱暴に利悟も屋形船に乗り移って、匕首や刀で襲ってくる無頼に小刀と十手で応戦し、叩きのめし始めた。

 そもそもの地力が違うので得物が小さく携帯性重視で持ってきた物でも、二人の敵になるような相手ではない。

 

(任せて大丈夫だな)


 と、九郎が思っていると猪牙舟が大きく揺れた。

 屋形船の方から、ヒモ切り仁左衛門が九郎の残った舟へ飛び乗って来たのだ。

 

「む……!」

「海賊らしく、この舟を貰って逃げさせて貰う!」


 なるほど、屋形船を捨てて猪牙舟で逃げれば晃之介と利悟は追って来れないかもしれないと踏んだのだろう。

 とはいえ利悟は着衣のまま川に叩き込まれることが多いので泳げるようになっているし、晃之介に至っては少しの距離なら水面を蹴って移動できるので到底逃げ切れるものではないのだが、諦めずに行動しているのだ。

 仁左衛門は刀を抜いて、やや遠い間合いから九郎に斬りかかる。


「ちっ!」


 棹を水の中から引っ張り上げて受け止めようとすると、軽い音を立てて翳した棹が真っ二つになった。 

 続けて縦横に剣が振られる。空気を斬るピッとした澄んだ音が鳴った。


(ええい、案外に鋭い!)


 名の知られた悪党だけあって、そこらの侍くずれより余程刀の勢いがあった。

 九郎は右手の中指と人差し指を揃えて突き出し、自分に迫る刀身の腹を弾いて軌道を逸らした。

 指先で鉄を叩く音が連続して響く。船頭の格好をしているので、刀も持ってこなかった。

 一方で仁左衛門は指で刀を弾く九郎に驚愕しながらも、急いで方をつけなくてはならないことに焦りを感じた。

 

「うおおっ!」


 仁左衛門は九郎の胴体目掛けて平突きを放った。半身になり、それを間一髪で避ける九郎は前進して己の拳の間合いに入ろうとする。

 だが仁左衛門も避けられた突きを即座に、手を伸ばした状態から斬撃へと移行しようとした。

 

「──!?」


 びくとも刀は動かない。よく見れば、九郎が素手で刀を握り止めていた。突きで伸び切った時点で止まった刀を掴んだのである。

 九郎の方から刀を握った手で、ぐいっと仁左衛門の体が前方に引っ張られる。刀を握っている手からは血が僅かに滴っていた。

 強制的に近づけされた仁左衛門の頭に、九郎はもう片方の手で顔面を殴り砕いた。

 鼻血を吹き出し、歯をへし折りながら仰向けに倒れる仁左衛門。


 いつも南西から吹いている風が、止んでいた。


 



 ********




 斯くして仁左衛門は改めて捕まり、彼が臨時に雇った手下達も生き残った水主からの証言で廻船を奪おうと船員を殺害したことが認められ、全員死罪になった。

 どうにかこうにか町奉行所は汚名を雪ぎ、利悟はまたしても金星で同僚に蹴られることになったという。

 

 こうして手下を作り略奪を繰り返す陸の海賊、仁左衛門は露と消えたのであった。



「ところで旦那様が上半身裸で船頭をしてくれる舟遊びって幾らなんだ」

「……行きたいのか」


 とりあえず事件が終えて屋敷にて、そんなことをお八が言ってきた。


「あなたが健康的に働いているところってなんというか意外性って感じよね」

「褒めておるのかおらんのか」

「わたしは好きだけど」


 真顔で豊房が言うとなんとも照れくさいような、いややっぱり褒められてないような気がして九郎は頭を掻いた。

 どうやら皆で舟遊びに行くようだというので夕鶴とサツ子も楽しげに提案する。


「それじゃあお弁当も作って行くでありますよ!」

「おやつに新茶もよかど」


 スフィも同調した。江戸に来て丸一年ぐらいなので、去年もやったことがあるが、


「舟遊びか。太鼓や楽器を持って近づいて来て演奏し、お捻りを貰おうとする輩がおるやつじゃな。そこでセッション勝負を仕掛けて去年は泣かせてやったわ」

「スフィくんは本気すぎるんだよな……」


 そして将翁が阿子に告げる。


「それでは貴女も行きますか」

「いいので?」

「構いませんとも」


 そうしてやや平穏になった江戸で、皆はいつもの通りに過ごす日々が戻ってくるのであった。

 たとえ危険な事件が起きても、きっとそれは解決していき。

 のんべんだらりと、緩やかに続いていく。



※男性は乳首で風向きを測っているというのは空飛ぶスパゲッティモンスター教団の教義。

次回からまた商売とか日常に戻ります


九郎と阿子ちゃんの何でもない関係


阿子「九郎殿。茶を飲ませてください」

九郎「うむ? ああ、淹れてくる」

阿子「適当に冷めていた方がいいので、九郎殿の飲みかけで十分ですよ」

九郎「そうか」

回し飲みはセーフ


阿子「九郎殿。歯を磨いてください」

九郎「へいへい」

阿子「……妙に手慣れていませんかね」

九郎「前にも両手両足を怪我した女を介護したことが……これ、楊枝を噛むな」

歯磨きはセーフ


阿子「九郎殿。足の爪が伸びてしましました」

九郎「爪を切ればいいのだな」

阿子「いやはや、なんというか他人に切って貰うというのはこう……相手を足蹴にしているようで心が痛む」

九郎「嬉しそうな顔をして言うことか……っと」

阿子「おや?」

九郎「いやなんでもない……この体勢で見上げるものではないな」

爪切りはセーフ


阿子「九郎殿。お腹が痒いです」

九郎「あいよ」

阿子「背中も」

九郎「はいはい」

阿子「……お尻とか足も痒いのですが」

九郎「ノミに噛まれておるな……明石と遊びすぎだ。塗り薬をもらってくる」

掻いたり薬を塗ってもらったりするのはセーフ


阿子「何も問題のない健全な男同士の関係ですぜ」

九郎「男同士かのう」


阿子ちゃんに恋愛感情はありません(重要)

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