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49話『ヒモ切り仁左衛門の話』





 ヒモ切り仁左衛門という名の知られた悪党は江戸で主に人を使って盗み仕事の準備を行っていた。



 手下の剣客、皿場伝次を盗賊団に用心棒として潜入させて盗み先の情報を得る。

 素っ裸走りの熊五郎を使い、江戸を騒がせ役人の目を火事警戒へと向けさせる。

 因果な杢助を博打にのめり込ませ借金までさせた後に盗みで金を稼ぐことを勧めさせた。

 国分寺の僧らを洗脳して鉄鼠の吉五郎として寺専門の盗みを働かせる。


 それらの犯行に関与していたことが取り調べで判明している。


 

 己で動かず闇に潜み策謀を巡らせる厄介な男。


 だがいずれの布石も九郎が片っ端から潰していった。


 次にその男が現れるときは──決定的な何かが起こるだろう。







 ********






「へぇー。あれがヒモ切り仁左衛門なの。縛られてると無残ね。落ち武者みたいだわ」

「九郎くんの天敵の最後だよ。親指とか隠さないで大丈夫かね」

「どういう理屈だ」


 赤坂御門近くで九郎達は縛られたまま馬に載せられて市中引き回しにあっているヒモ切り仁左衛門の、決定的な最期を見物していた。

 捕まったのである。火付盗賊改方に。

 特に九郎も関与していないときのことであった。特に捕物の際に事件が起きたわけでもなく、火盗改メがこれまで捕縛した盗人たちの証言を元に地道な捜査を続けて潜伏場所を見つけて逮捕に至ったという。

 治安が悪化気味だった江戸だが、警察機構も無能ではない。九郎の手助けなく事件を解決するのが普通であった。

 馬上にて縛られて渋面を作った四十絡みの体格の良い男がゆっくりと晒し者になりながら進んでいく。なんというか、遠目に見るヒモ切り仁左衛門は格別どうというところの無い男に九郎は思えた。


(直接関わったわけでもないからそんなものか)


 印象で言えば素っ裸走りの熊五郎の方が強く残る。まあ、全裸に油を塗りたくり夜な夜な走り回る筋肉もりもりのハゲ男より印象が強い存在はそうそう居ないのだろうが。

 市中引き回しは一日がかりの行事であり、多くの町人らが見物に来る。罪人が進むのに合わせて、甘酒や饅頭を売る者も付いていっているようであった。


「ちなみに市中引き回しは、江戸城を中心に府内を一周ぐるっと廻るものと、日本橋・赤坂・四谷・筋違橋・両国の順で廻るものがある。前者は廻った後で牢屋敷に一旦戻り、そこから刑場へ向かう。後者は廻ってそのまま刑場に向かうという違いがあるね」


 一緒に見に来た石燕が解説を入れる。来ているのは石燕に豊房、それと将翁である。スフィは罪人を晒し者にする刑罰と聞いて微妙に嫌そうな顔をしていたし、お八とサツ子は家事で忙しく更に両腕を折って屋敷で養生している阿子の面倒も見なければならなかった。夕鶴はふりかけを売りに出ているので、見に来ているのは四人であったのだ。

 今回の仁左衛門を連れているのは府内を廻る方のようだ。移動距離も三十キロメートルぐらいになるので、馬に乗っている罪人はともかく罪状を書かれた紙などを掲げて共に歩く雑人らは大変そうだ。


「うむ? あの仁左衛門とやら、隣を歩いておる同心に物を言うて煙管を咥え始めたぞ」

「最後の望みというやつね。連れ回している間、食べたい物とかお酒とかそういう希望になるべく応えることになってるの」

「微妙に楽しげだな。馬に乗って江戸中を回れて好きに要求できるとは」

「その後死ぬがね」


 ばっさりと石燕は告げて肩を竦めた。


「引き回しを受ける罪は様々にあるが、例えば毒を販売するのは重罪なので該当する。二人共。気をつけたまえよ?」


 石燕はちらりと横に並んでいる九郎と将翁を見た。

 将翁は狐面を押さえながら適当に述べる。

 

「まあほら……塩でも砂糖でも、薬でも水でも、飲みすぎれば毒になる……ってね」

「あの酒は毒ではないしのう……」


 ちなみに、と石燕はジト目で続けた。


「既婚女性との姦通でも死罪になることがあるので、九郎くんは誘われても他所の人妻に手を出したりしないように」

「出すか! ……しかし確か、姦通罪の示談金は七両二分(約60万円)が相場とも聞いたが」

「九郎くん」

「あなた」

「単にそういう話もあったと話題に出しただけだ。怖い目で見るな。人を何だと思っておるのだ」


 ジト目で見てくる石燕と豊房へ対してうるさげに九郎は手を振った。

 現状でも嫁的存在が複数居るというのに姦通までしている余裕など無い。

 余裕があればするというものでもないが、以前に比べれば女に誘われても「枯れてるから断る」よりは「嫁が居るから断る」とした方が真っ当ではあるように思えた。

 

「しかしそう言えば、なぜ七両二分なのだ?」

「お奉行の大岡様が決めたらしいわ。一々不倫をしたのされたの訴訟を町奉行に持ち込まずに、当事者同士で解決しなさいって。基本は嫁と間男を重ねて並べ、お腹のあたりから真っ二つにするの。重ねて四つってやつね」


 姦通の現場を押さえた亭主が、間男と妻をその場で斬り殺しても無罪であった。

 訴えた場合の罪の重さは、不義密通は死罪。人妻を強姦も死罪。未婚の娘を強姦した場合は重追放となった。重追放は大雑把に言えば東海道と木曽路に面する国に住居を持つことを禁止される厳しい追放だ。現代でいうならば東京から京都までの範囲が住めなくなる。

 また、あまり執行されることは無かったがお互いに婚姻を誓って納得しているがまだ未婚の男女が性交をすると男は軽追放、女は剃髪という罰も存在していたという。こちらは武士向けの法律だろう。

 しかしながら九郎は二つに重ねて四つに切る、というイメージで何故か自分とお七が並べられて浅右衛門に斬られそうになっている図を想像して疑問に思った。なおイメージの人選は人体を斬ってきそうというだけで深い意味はまったくない。


「……それ普通のやつにできるのか? 浅右衛門あたりは仕事だからやっておるが、それだけやつが独占する程の特殊技能なのだろう」

「武士でも人体で刀の試し切りをする者は江戸だと珍しいからね。赤穂浪士の中にも、墓を掘り起こして試し切りをしていた不破数右衛門が特筆されるように、経験するだけでも珍しいことなのだよ」

「ほう」

「ちなみに不破数右衛門は墓荒らしの罪で赤穂藩をクビになっていた」

「酷い」


 そして話を将翁が戻した。


「そこで町人などは斬り殺すのも難しいということになり、示談金としてひとまず大判一枚……換算して七両二分ぐらいがいいだろうとお決めになられたのですよ」

「ははあ。大判ねえ」

「ま、それでちょいと小金持ちならば、金を用意してバレるまで散々に人妻と通じて遊ぶというしからぬ輩もいるようですが」

「それもそれでどうかと思うが……」

「でもあれよね。お父さんとか、晃之介さんとか、影兵衛さんとか、お嫁さんに手を出されたら容赦なく相手の男を殺しそうよね」

「そいつらに挑むには命知らず過ぎるだろう間男」


 などと話をしていると九郎達の目の前を市中引き回しの行列が通っていく。

 捕まえたのは火付盗賊改方でも引き連れるのは町奉行所であり、どことなくやるせない雰囲気が伴立っている同心から感じられた。手柄は火付盗賊改方に取られたことは既に知れ渡っていて、それでいて罪人の処理だけ任されているのだ。

 行列には先払いが五人、紙幟持ちが三人、捨札持ちが三人、槍持ちと捕り道具持ちがそれぞれ四人、囚人を囲む役が四人にそれを監督する宰領という役目を更に四人。与力が騎馬で二人と同心四人で罪人をあわせると合計三十四人という結構な人数の集団であった。

 しかしながら季節も夏に差し掛かる頃合いでは、一日中罪人を連れて歩き回るのも大変そうではある。

 

「おや。利悟くんが居るよ」

 

 石燕が軽く手を振ると、利悟がぱぁーっと顔を輝かせてこちらに微笑んだ。

 しかし無駄にニコニコし出したので隣にいる与力から足で軽く突っつかれて指摘されているようだ。

 ふとその時、仁左衛門が九郎達の方を向いた。

 

(……?)


 目線が合ったような気がして、九郎は訝しがる。

 すると仁左衛門は近くの者に何かを告げると、行列の進行が一時止まった。また何かを要求しているらしい。

 それを聞いたらしい下人はやや困惑した様子で九郎達の方を向き、それから与力に報告をした。

 与力の方も困惑した様子で、同心も集めてもう一人の与力と話を始める。皆がちらちらと九郎の方を見ていた。


「なんだ?」

「さて……何やら、動揺しているようですが」


 やがて代表としてか、利悟が九郎達の方へやってきた。


「えーと……」

「どうしたのだ利悟。何か起きたのか?」


 彼は言いにくそうに頭を掻きながら告げてくる。


「拙者達はなるたけ罪人の希望を叶えるように言われてて、中には酒が飲みたいだの飯が食いたいだのと矢継ぎ早に与力に注文して引き回しを妨げる罪人も居るんだ」

「それで?」

「あー……あの罪人が、乳房を吸いたいとか言い出して……」


 九郎達と、近くの町人らの視線がいかにも胸が大きくて女性らしい色っぽい体つきをした将翁に向いた。

 思わず後ずさる将翁である。


「……それは……ちょっと」


 困ったように首を振る将翁だが、近くの男たちはそんな彼女の胸に注目していて思わず拳を握っていた。

 基本的に江戸は混浴で女の裸を見慣れているという者ばかりなのだが、だからといって美人で巨乳な女性が乳をまろび出すのを嬉しがらないわけではない。

 九郎は利悟を睨みつけて手で追い払うような仕草をする。


「却下だ却下。うちの女に何をやらせようとしておるのだ馬鹿者」

「いや拙者もね。石燕ちゃんの乳房吸いたいとか言い出したら即始末してやろうとは思うよ? ただ拙者が市中引き回しの役目を代わって江戸中の少女の乳房を吸えるとしたら大いに悩むけど」

「お主を引き回す際には小伝馬町から小塚原へ舟で一直線な」

「酷い!」


 気色悪いことを言い出した利悟に九郎は冷たく告げた。

 

「とにかく、違うんだ。そっちのババ……阿部殿じゃなくて」

「今、なんと……?」

「うわあああ何か背筋に悪寒が! 妖術か!? 加齢臭か!?」


 将翁の妖気に晒されて距離を取るが、何か将翁は凹んでいる様子であった。

 とりあえず利悟は話を聞いた後で殴ろうと九郎は決めつつ先を促す。


「将翁ではなく?」

際々(ぎりぎり)合格な年齢のお房ちゃんでもなく、完全に拙者の逆鱗な石燕ちゃんでもなく……」

「ん?」


 


「九郎の乳房が吸いたいんだと」

「気持ち悪──!!」




 とりあえず九郎は利悟をぶん殴った。これは将翁に酷いことを言った分である。




 *******




 

「めちゃくちゃ気持ち悪いわ! 阿呆か!」

「拙者に言うなよ!?」

「知るか! とっとと殺してこいあの馬鹿を!」


 九郎は白昼堂々と同心をぶん殴って怒鳴りつけた。

 若干周りの町人も引いている。九郎の行動と、ヒモ切り仁左衛門の要求の両方に。

 死ぬ前に助平なことをしたい。美人の乳を吸ってみたい。

 そこまでならまあ、理解できてけしからんと思いつつも見てみたい気持ちではあったのだが。

 

「拙者だってなあ! 理解したくないよ! でも仕事だし知り合いなんだからお前言ってこいよって送り出されただけなんだよ!」

「送り出すな! なに罪人に配慮してるんだ! 異常だろ!」

「まあ……拙者も九郎があと五年若い姿だったら気持ちはわからないでもないんだが、確かに今は異常だと思うよ」


 ごきり。

 九郎が手を掛けた利悟の首から生々しい音が鳴って、彼は地面に倒れ伏した。

 

「──痛いじゃないか!」

「復活早すぎる……いいから戻って、さっさと引き回しを続けてこい」

「そんなこと言われても……慣例で望みは聞くもんなんだって上司から言われたんだから拙者にそんな権限無いし……」

「慣例で道すがらに男の乳房を吸わせてたまるか! 悪しき慣例になるわ!」

「そんなに云うなら九郎が来て説得してくれよ。本人が強固に嫌だって主張するならなんとかなるかもしれない」

「はあー……」


 大きくため息をついて九郎は頭痛をこらえて頭を押さえた。

 なぜ自分の乳房を吸ってはいけないと悪党相手に説得しにいかねばならないのだろうか。

 そんなレアな経験はしたくなかった。

 彼の背後では石燕が露骨にニヤついていて、豊房と将翁は口元を隠して苦笑いをしている。


「九郎くん! 悪人なんかに乳房を吸わせてはいけないよ! きっぱりと拒否するのだ! フハハハハ!!」

「世の中変な人がいるのね……九郎の周りには特に」

「逆授乳姦! そういうのも、いいかもしれませんぜ」

「よくねえよ」


 九郎は短く告げ、肩を落として利悟と共に道の中央である行列へと近づいていった。

 無言で仁左衛門の乗る馬へと歩み寄る。周りの下人らを払うような仕草で退かした。

 遠目に見ていたらなんともない四十がらみの男だが、死ぬ前に突如男の乳房が吸いたいとか言い出したとんでもないド変態だと思うとその顔も気味が悪く感じられる。

 どんぐり眼を近づけるようにして馬から身を乗り出し、九郎の方へ顔を寄せてきている。

 長い人生経験で九郎は知っている。

 こういう後のない開き直った輩と口論をするのは限りなく無駄だと。

 

「──」


 周りから見ていた者は、一瞬九郎の手が霞んだように感じたかもしれない。同時に、仁左衛門が白目を剥いて仰け反った。馬の鞍と体を縛る縄が繋がれているので落ちないが、完全に脱力しているようだった。

 近くに居た利悟はその正体を察した。


(恐ろしく早い手刀だ……!)


 九郎は間合いに入った仁左衛門の顎に周りから見えないほど素早く、小さな動作で拳を入れたのである。

 脳を揺らされた男色野郎の意識を問答無用で刈り取った。

 ぐったりとしている馬上の罪人を指差して与力に告げる。


「こやつは寝ておるようだぞ。連れて行ったらどうだ」

「うむ……下がって良い」


 さすがに気絶した相手に願いを叶えることは不可能だと判断したのか、与力も慣例で許可を出しただけで本心では乳房を吸う願いなど叶えるのもどうかと思っていたのか。

 ともあれあっさりと九郎の言葉は肯定され、気絶した仁左衛門を下人が支えながら行列は進行を再開するのであった。


 後に市中引き回しは、罪人に対して役人があまり見窄らしくない格好をさせたり、水を飲ませたりはするが余計な要求には応じないように改正された原因が。

 とある罪人が引き回しの途中でおっぱいを吸いたいと言い出したからだという話は有名であり、後世に残るのであった。





 *******





「まったく。冗談ではない」

「にょほっにょほげほっ!! なんじゃそりゃ! そんな面白いことがあるなら見にいけばよかったのー! クローのチチを!」

「笑いすぎだ」


 その後、屋敷に戻ってスフィに愚痴ると思いっきり笑われた。

 確かに他人が聞けば笑い話ではあるが、実際に初対面のいかつい悪党からそれを要求された側からすると気分の悪さしか感じない。

 

「ふっ……くくっ……いやはや、しかし九郎殿の胸恋しさに、斬首された仁左衛門が化けて出たら大変でしょうぜ」

「やかましい阿子」


 両腕を添え木で固定して包帯を巻き、袖が無くて丈が太腿までしかない単衣を身に着けている阿子もくすくすとおかしそうに笑った。顔には狐面もつけていないので、多少胡散臭い狐目をしているが普段よりも少女らしい。


「くくく……笑うと折れた肋骨に響いて痛む……ああ、涙が」

「まったく」


 同じく大笑いをした阿子の顔を、近くにちゃぶ台に置かれている綺麗な手ぬぐいで拭いてやる。

 阿子が屋敷に逗留して数日が経過しているが、両腕が使えないというのはかなり不便そうであった。

 食事を自分で取れない。着物を自分で脱げない。体を自分で拭けない。狐面を付けることも、厠に行くのも大変そうだった。

 最初のうちは足の指を器用に使ってどうにかしようと阿子も試行錯誤していたのだが、やがて諦めて素直に世話になっている。

 元より世話焼きが集っている屋敷なのであれこれと皆は自分から進んで彼女の面倒を見るのだ。お八は着たり脱がしたりが簡単な着物を用意してやり、九郎以外の当番制で風呂も毎日入れている。

 

「ん……やれやれ、顔を拭くのも人任せとは、まるで殿様にでもなった気分で」


 阿子は涙を拭ってもらって、皮肉げにそう告げる。


「そういうものか」

「前も言ったとおり、元々のあたしは男としての人格が強いもので。そう考えりゃ、美女たちに毎日風呂に入れてもらえるのは、存外に悪くないと思いませんかね」

「まあ……他の皆が気にせんならいいのだが」

「なーに。誰も気にしとらんからのー」


 スフィがぱたぱたと手を振って笑顔で言った。いかに、中身が男であるなどと言ったところで見た目は完全に少女であり、それに何より怪我人だ。一々気にかけることもない。

 涼しげに笑みを浮かべながら阿子は述べる。


「顔すら拭けない……わけではありませんが、まあこの際だからお任せして楽しもうと思いまして、ね」

「拭けないわけではないのか? 手は添え木で固定されておるだろう」

「無茶はするでないぞ」

「いやいや、こうして多少行儀は悪いが足の指で手ぬぐいを掴めばほら」


 と、将翁は断ってから手ぬぐいを足の親指と人差し指の間で挟んで持ち上げて見せた。

 小さくて柔らかそうな白い指は健康的に爪が薄い桜色をしている。


「それをこうすれば」


 そして足先を顔に近づけるような仕草を見せて、足指で摘んだ手ぬぐいでも顔に持っていけることを示した。猫が顔を後ろ足で掻くような仕草だ。

 体もかなり柔軟なのだろう。九郎は将翁の方も関節が柔らかいことを知っていたので納得する。

 だがそれでも手で拭うよりは相当手間であるし、


「あー……阿子?」

「はい?」


 九郎が顔を覆ったのに対して、スフィが指摘をしてやった。

 少女らしい細さをしているが、艶めかしい白い足が露わになり、尻肉まで見えていた。


「着物の丈が短いのに足を上げるものではないのじゃよー」

「……九郎殿の助平」


 ぼそりと言って足を下ろし、太腿を固く閉ざした。

 脱がしやすく、厠などで面倒が無いように太腿までしかない彼女の部屋着は足を上げるといろいろと見えるのであった。

 これまでそのような着物であったことも無いし、普段は女ばかりだから気にしていないのだろうが。

 気まずそうに阿子は立ち上がり、部屋を出て行く。羞恥で僅かに頬が染まっており、頭の中で彼女はもやもやとしていた。

 それを見送ってスフィが茶を啜り、


「うーみゅ。ここ数日様子を見るにあれじゃな。他人の霊が取り付いていると思い込んでおる精神病の一種じゃなアレは」

「そ、そうなのか?」


 スフィの率直な感想に九郎が聞き返す。

 将翁から聞いた話だと、魂の一部を分魂させて記憶を転写する陰陽術の一種を使い、千年程も脈々と疑似的な不死を保っているのが阿部の一族ということだったが。


「そこまで珍しいもんでもなかろー。音楽業界でも、好きなミュージシャンの歌や姿、喋り方に性格まで真似をしているうちに本当にそれが憑依したようになる者もおる」

「そう言われれば聞いたことがあるような……」


 九郎も若い頃の現代日本で、エルビス・プレスリーのそっくりさんコンテストへと職場の上司に連れられて見に行ったが中には本気で自分がエルビスだと思いこんでいる者も何名か居たことを思い出した。

 

「ま、治療するのが良いことだとは限らんが、こうして変わった環境で過ごさせるとああいう風に時折、素の少女が顔を覗かせるのじゃな」

「うーむ」

「じゃからといって惚れさせでもしたらいかんぞ?」

「そんなことするものか」

「いーやクローはわからん。なにせ、ぷふっ、見知らぬ悪党がクローのオパーイを求めたぐらいじゃからのー!」

「ええい、しつこい。アレは特殊な変態だ」


 ひたすら嫌そうに九郎は云う。下手に話でも広がったら風評被害もいいところであった。

 

「それにしても、[ヒモ切り]とはなんのあだ名だったんじゃろーか」


 その疑問に、一応市中引き回し前には影兵衛から手柄話として聞かされていた内容を九郎はスフィに説明した。


「ああ……それはのう。あやつが男色家だということらしい」

「というと?」

「[ヒモ]というのは[日持(ひも)]と書いてな、上方……ここより西の大きな町では江戸よりも芸能が盛んでのう。芝居の役者なども多いわけだ。となれば役者の卵や弟子も大勢居て、そやつらは給金も貰えぬ暮らしをしている。中には食い詰める者もおってな、その[日]の暮らしを[持]たせるために、男娼にもなるという。それを俗語で日持というのだ。江戸では陰間というのに近いな」


 或いは男娼として女性客に貢がせることから、ヒモのようだというので命名されたのかもしれないと石燕は言っていた。


「それを切っておったわけじゃな! バッサバッサと」

「いや物理的ではなく……[女百人切り]とか云うだろう? まあつまり、盗みで手に入れた金で男娼を買うものでヒモ切りなどと呼ばれるようになったのだな。恐らく、向こうでは手口というかその使いみちを知られたので江戸に渡って来たのだろうとは影兵衛のやつが云っておったのう」


 無難なところの盗賊であった。ただし、盗みは派手であり京・大阪では大店の店が何件もやられて、火事まで発生していたという。

 更には人を使うのが得意であり協力者を次々に見つけては幅広い範囲で、時には同時に犯行も行うので非常に手を焼かされていたらしい。

 また仁左衛門は薩摩藩を脱藩した者であり、ひえもん取り仁左衛門で呼ばれていたこともあるのだが、ひえもん取りに参加することになったのも男色絡みであるようだ。


「ふーみゅ。ま、何にせよ捕まったのなら一安心じゃな」

「うむ。夕刻には小塚原に首を晒すことだろう」

「パンケーキでも焼いて阿子を餌付けしとくかのー」


 ということになり、九郎は逃げ出した阿子を探しに、スフィは台所へと向かった。

 阿子は玄関先で、番犬の明石と戯れていた。

 地面に寝ている明石の体を素足で撫でてやると、時折気持ちよさそうに腹を見せている。


「む? 阿子は犬が平気なのか?」


 九郎が話しかけると見上げながら首を傾げた。

 少し時間を置いたことで恥ずかしさは随分と落ち着いたらしい。


「左様ですが。日本中旅をするに、犬はあちこちで狩猟に番犬として飼われているもの。むしろ懐かれるぐらいでなければいけませんよ」

「そうか……うちの将翁は犬によく吠えられてな。明石も懐かぬし、この前他所の犬に噛まれたと尻に歯型をつけて嘆いておった」

「ああ……彼女は狐のようになっているので、犬は天敵ですから嫌われるのでしょうぜ」

「難儀だのう。ところでスフィが菓子を作ってるそうだ。食いに行こう」

「菓子……ほう、そいつは楽しみ……何やら匂いも……ん?」


 阿子が鼻を鳴らして呟くと、妙な匂いに気がついた。

 明石も起き上がって、西の方を見ながら唸り声を出している。遠くから鐘の音が微かに聞こえた。


「火事か? ちょいと確認してくる」


 九郎が告げて空に飛び上がり、上空から確認すると神楽坂からはかなり遠いあたりが燃えていた。

 とりあえずこちらには延焼してこないだろうと安心する。

 火事の場合、一件二件ならばまだしも延々と密集して建てられた木造住宅が燃え上がるので九郎が水を出そうが風を吹かせようが効果があまり無いことも多いのだ。 

 本職の火消したちが周辺の建物を次々に破壊して延焼を防ぐしかない。

 空を飛びながら現場に近づいていく。


「あのあたりは……日本橋とそう離れておらぬな。鹿屋や藍屋は大丈夫だろうか」


 しかしながら繁華街故に防火にも金を掛けている。

 逃げ惑う人たちが見えるが、早速火消し姿の者らが出ており、立派な馬に乗って指揮をしている役人も居た。


(確かあれは大岡越前だったような)


 既に町奉行も出動済みのようだ。裁判所であり警察署であり消防署でもある町奉行所は仕事に忙しいのである。

 

「まあ、とにかく多分大丈夫だろう」


 九郎はそう判断して、屋敷に戻ることにした。既に正規の組織が消火活動に赴いているならば、自分が出る幕はない。

 



 その後、火消しの出動が早かったこともあり火は大きく燃え広がることなく二刻あまりで消し去られたのであったが。



 問題が発生したことを九郎は翌日に告げられることになった。





 *******





「逃げたァ!?」


 やってきた寝不足に見える利悟の言葉を九郎は聞き返す。


「まんまとやられたよ。市中引き回しが終わって一旦小伝馬町の牢屋敷に戻ったとき、出火したんだ。火事となれば悪党どころの騒ぎじゃないし、法律でいえば牢屋敷に閉じ込めている未決囚なんかは全部外に出さないといけない」


 という。

 これは明暦の大火の際に、牢屋奉行である石出帯刀が罪人とはいえそのまま焼かれ死ぬのは忍びないと判断し、錠をすべて破壊してでも罪人を逃したことに由来する法令であった。

 その際に石出帯刀は、火事のため一時逃がすが必ず戻ってくるようにと罪人に言い含めていた。たとえ死罪でも、自分が命に掛けて減刑させる。ただし逃げて帰って来ないものは命に掛けても追い詰めて成敗するとも述べ、結果的に全員が牢屋敷に戻ってきて減刑を受けたということがあったのだ。

 今回もそれを行ったのだが……


「その際に、ヒモ切り仁左衛門もドサクサで逃げたんだ」

「ドサクサて……」

「火事だから本当に罪人どころじゃないからね。それで、どうやら出火も仁左衛門が仕組んでいたような感じで……牢屋敷内で手下を作っていたらしいし、とにかく逃げて帰ってこない可能性がある。他の囚人百二十人ぐらいも含めて」

「つまり今の江戸は、逃亡中の囚人が百二十人もおるのか……なんか治安がいきなり悪いのう」

「というわけで、町方と火付盗賊改方で必死に取締りしているから九郎も怪しい相手を見つけたら捕まえて引き渡して。それと、仁左衛門が吸いにくるかもしれないから注意を」

「かつてそんな嫌な警告があっただろうか……」


 九郎はげんなりと頭を抱えるのであった。



 かくして、一度は捕まったヒモ切り仁左衛門が再び野に放たれた。



 この盗賊が九郎と再会するときは、決着がつくときだろう────。


今週ちょっと短め


江戸なのである書籍版のイラスト担当:ユウナラさんのTwitterかpixivで新しい絵「学生九朗とセーラー服のイリシアとクルアハ」が公開されてます

現代編で出てきたアレです

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