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48話『[鉄鼠]の吉五郎/大蛇と阿子の話』




「むう……」

「おやおや」

「こいつはちょいと困りましたね」


 非常に薄暗い地下牢に三人が居た。 

 閉ざされていて地上の灯りは届かず、閉じ込めている者のためにわざわざ高価な灯りを点けるはずもないが、真っ暗闇では気が滅入るのでどうにか九郎が念じれば彼の胸元に刺青のように刻まれた魔術文字が小さな青い光を灯した。それだけが光源である。

 九郎は着物を脱がされていてパンツ一枚で胴体をぐるぐる巻きに縄で縛られていた。首元に付けている術符も外されている。

 灯りに照らされているのは狩衣と巫女服を足して割ったような奇妙な着物をそれぞれ付けた、妙齢の女と少女である。少女は顔を狐の半面で隠し、女は狐面を頭の横にずらして顔を出している。髪型も雰囲気も似ていて姉妹のようだ。 

 九郎の妾である阿部将翁と、本草学者で陰陽師の一族である阿部将翁の少女であった。二人共、特徴的ないつも持ち歩いている薬箪笥を持っていない。彼女らも縛られ、手は背中側で固定されているようだ。


 つまるところ、三人は捕まって地下牢に転がされているのである。




 ********





 ことの始まりは少し前に遡る。


「[鉄鼠(てつねずみ)]の吉五郎?」

「おうよ。とっ捕まえるから探してくれ」


 九郎が影兵衛からそう言われたのは、二人で蕎麦を食いながら昼酒を呑んでいるときにだった。

 谷中にある落ち着いた雰囲気の蕎麦屋であり、中々に旨いざる蕎麦が食べられる店だ。

 柚子を混ぜた新わさびをつゆに溶かして蕎麦を漬けると清涼な味わいで舌鼓を打つ。

 当時の蕎麦つゆは現代よりも濃く塩っぱいのだが、酒を呑んで口を洗い流すと薬味と蕎麦の香りがよく感じられるのだ。

 

「そいつは盗人か?」


 九郎が尋ねると、影兵衛は首肯しながら酒肴である天ぷらを齧った。


「おう。っていうか旨え。この天ぷら。単品で三十文もするだけあるな」

「事件の話かメシの話かどっちかにしろよ」

「季節の菜の花を、卵黄だけに絡めて油で揚げてるんだな。塩がよく合うぜ」

「……メシの話じゃなく事件の話にしろ」

「なんだよ仕方ねえな」


 真っ黄色の天ぷらをばりばりと食べて酒で飲み下し、影兵衛は話を戻す。

 

「[鉄鼠]の吉五郎ってのは近頃、寺なんかを襲っている盗賊団の自称だな」

「自称なのか」

「現場に『[鉄鼠]の吉五郎見参』てなことが書かれた札を残していくんだ。で、拙者の手の者で元悪党の連中に聞いても、そんな盗賊団は聞いたことがねえってんで手がかりが少なくてな」


 盗賊の二つ名などはまるで時代劇のようだが、案外にこの界隈では自己顕示欲が大きい悪党も多いし、また調査する役人側からしても呼び名が無いと面倒なので勝手につけたりすることはある。

 さすがに名刺のような札を残していくのは珍しいが、だからといってそれまでに聞いたことがある相手ではないのでむしろ困惑しているのだという。


「なるほどのう。しかし寺なんぞに金があるのか?」


 その質問に影兵衛は床に代金の銭を積み上げながら応える。


「おうよ。いいか、寺ってのは敷地も広ェし仏具経典なんかを保管する蔵だって持ってる。火事のときに燃え残りやすいだろ。だから町人なんかで蔵を建てるほど金持ちじゃねえが、年ごとに使い切るには多い程度に金があるやつは幾らかお布施を払って寺に財産を預けたりしているわけだ。そいつが狙われたって寸法よ」

「そう言えば寺に預けている話は聞いたことがあるな……」

「寺社奉行への訴えは上がってたんだが、そこで情報が止まってたらしくてな。とうとう痺れを切らした寺側から、火付盗賊改方に盗賊探しを持ち込まれたわけよ」


 寺社での事件は町奉行所ではなく寺社奉行の管轄となるのだが、寺社奉行が行うのは寺社に関わる職業の者の統制や、戸籍の管理、旅行手形の発行などが主な仕事であり直接的に寺が襲われているという事件に対して、それほど効果的な手が打てていないのであった。

 更に寺社奉行は奏者番も兼ねているので複数人おり、頭の人数が多いと誰がそれを担当するのかという問題もあって混乱しているのが現状であるようだ。

 結果、加役であり盗賊退治には定評のある火付盗賊改方に話が回っても、寺社奉行としてはそちらにある程度の権限を渡して捜査させるようにしたらしい。

 三奉行の一つである町方の大岡忠相に任せるには少々彼らも嫌がったのだろう。本来、三奉行では寺社奉行が筆頭の立場であるのが常だというのに大岡だけは将軍吉宗の聞こえもよく、町奉行でありながら筆頭扱いを受けているのだから。

 

「で、どのような盗人なのだ?」

「盗人っていうか盗賊団だな。人数は十五人ぐらい。夜中に寺に入って、寺の住職や坊主を刃物で脅して……何人かは脅しのために殺してるな。そんで蔵を空けさせて小判をごっそり頂いていく。ついでに手頃な仏像や経典なんかも盗んでいくらしい」

「ふうむ……」

「どしたァ?」


 考え込むような仕草の九郎に影兵衛が不審に思い問いかける。

 九郎は指を立てて念のために聞いてみた。


「こう、全員が鼠っぽい仮面を付けているとか、頭にでっかい黒丸を2つ付けているとか、声が妙に甲高いとかそういう特徴は……?」

「ねえェけど。顔も全員完全に隠してるもんだから、人相書きすら出せねえってよ」

「普通の盗賊だのう……」

「普通じゃない盗賊に慣れすぎだろ」


 しかし普通の盗賊でも、世間的には凶悪な賊だ。五回も繰り返しているとなると尚更で、まだ被害にあっていない寺も怯えている上に預かった金を盗まれたとなれば寺の威信にも関わる。

 

「とりあえず拙者らは盗人の行動を追ってるわけよ。金が入りゃ取る行動は基本的に2つ。色街で散財するか、江戸を逃げるかだ。遊ぶんなら上方の方がいいからな。だから関所では目を光らせつつ金遣いの荒いやつを探してる」

「己れは何をすればいいのだ?」

「お前さんは適当に、次に襲われそうなところとか犯人の目星を推理して調べてくれ」

「曖昧な指示だのう」


 目星も何も、寺が襲われるということしかわかっていないというのに。

 だが影兵衛は肩を竦めながら云う。


「大丈夫大丈夫。九郎なら勝手に巻き込まれるって信じてるぜ拙者」

「信じるな」

「つーか前も、なんとか小僧の杢助とか云う盗人をしっかりとっ捕まえて町方に引き渡したんだろ? 今度はこっちに手を貸してくれよ」

「面倒臭いのう」

「なに云ってやがる。少なくとも、家でゴロゴロしたり馴染みの店にみかじめ料を貰いに行くより子供に自慢はできる仕事だろ」

「みかじめ料など貰っておらんわ……まあそうだのう」


 九郎は腕を組んで考える。


「寺などで起こる盗人か……寺のことは石燕か豊房、将翁が詳しいはずだのう。将翁でも連れて回ってみるか」

「あのボインの姉ちゃんか」

「石燕は盗賊に関わらせるには不安だしのう。豊房とお八は身重だし」

「なんだなんだ、お盛んだなオイ! ヒヒヒ」


 影兵衛は笑いながら九郎の肩を何度か叩く。

 色々あって九郎の嫁妾では将翁以外子供を身籠っていた。まだ腹が目立つほどではないが、色々と心配ではある九郎だ。来年には屋敷は大変な子育て時期になりそうで、それを考えると酒が進む。

 思い出したように影兵衛も云う。


「ついでに前貰った酒で、実家の兄貴のとこでも子ができたってよ。天狗のご利益だな」

「あちこちで子供ができておるのう……まあ目出度いことだが」


 九郎が以前に妙な効能が出たハブ酒を配った中で、利悟に甚八丸と晃之介のところでも嫁の懐妊が確認されたという。 

 余談だがそうでなくとも、江戸府内では九郎によって疫病の発生が抑えられているので人口増加率が緩やかに上昇していくことになる。早々に百万都市になっていた江戸だが、町人のみの人数で云うと享保の頃で五十万人。百年以上先の幕末でも五十四万人とあまり増えていないのは病気の流行が一つの原因となっていたとされている。

 

「しかしあんだけ小さかったお八の嬢ちゃんもとうとう母親か。感慨深えものがあるな。そういや最初に拙者と知り合ったときに手前らも出会ってたんだっけか」

「ああ。あのとき初対面なのにお主、己れを盗賊退治に付き合わせた挙句にうっかり斬り殺そうとしてきただろう」

「そうだっけ?」

「今考えても頭がおかしい……なんでいきなり殺しに来るのだこの同心は……しかも思いっきり店の中で」

「ほら、あの頃拙者ぎらぎらと尖ってたじゃん? 触れるものを皆傷つけたみたいな」

「触れるものを皆斬り殺すのは尖りすぎだ」


 半眼で告げる九郎に影兵衛は懐かしそうにニヤついた。

 

「ま、とにかく仕事の話だ。頼りにしてるぜ、九郎」

「仕方がないやつだ……」


 そうして九郎は影兵衛から襲われた寺の詳細などを聞かされて、ひとまずその話を持ち帰って将翁と調査をすることにしたのであった。

 


 

 *********





 地下牢にて。

 灯りに集まるように九郎は格子に背を向けて、その前に二人が横に並んで顔を突き合わせて青白い光に灯されて会話をしている。


「やれやれ」


 将翁がため息をつく。


「まさか、あたしと九郎殿が調査をして踏み込んだ先に、既に捕まってる者が人質になっているとは」


 皮肉めいた声を出して、隣に居る狐面を見やる。

 少女は似たような声の質で首を振りながら言った。


「いやはや面目次第もありませんがね、こちとらちょいと探りを入れた先でまさかすぐ捕まるとは思いもしやせんで」

「と言うとお主……ええい、将翁が二人だから紛らわしいのう」

「ふむ……」


 少女はやや考えたようにした後で応える。


「では、私は適当に阿子あことでも」

「よろしいので? 今ならば、そちらが本来の阿部将翁では」


 将翁が聞き返す。彼女は阿部将翁一族から離れた存在であり、その名前を剥奪されてもおかしくないのだ。

 実際そうされていないのは、一族の掟というのもそれほど厳密にしているわけではないので彼女が将翁と名乗るのも、一族の伝手で薬の売り買いを行ったりするのも許容されているのだが。

 阿子は首を振りながら告げる。


「ま、九郎殿からしてみればそちらが阿部将翁で呼びやすいところもあるでしょうから、ね」

「お主が良いならそれで構わんが。それで阿子もこの盗賊の捜査に来ていたのか?」

「ええ。寺社奉行殿から依頼を受けまして、ね。寺で次々に盗みが行われている、[鉄鼠]の吉五郎を調べて欲しいと……」

「同じ案件か。己れは火付盗賊改方の仕事だな。寺や神社に詳しい将翁に手伝って貰っていたのだが……」


 影兵衛からの話を将翁に伝えると、彼女はすぐに違和感を覚えたようで九郎にこの場所を調べることを提案したのである。


「しかし、お主らが考える怪しい容疑者は同じみたいだのう。一発目で本命を引き当てたと」

「同じ知識があれば、そうもなりましょうぜ」

「まったく」

 

 二人が顔を見合わせて口元だけ笑みを作る。


「一番初めに訴えがあった寺……それがこの国分寺」

「ただしここだけは、本尊は奪われずに金だけが奪われた。そして死人も出なかった……と」

「第一発見者が犯人というか、犯人が被害者になりすますとかそういうものか」


 単純な関連に見えるが、現代と違って推理小説のすの字も無かった時代である。嘘を付く程度はともかく、偽装工作をして堂々と役人の目を欺くという犯行は頭にも浮かばない。

 九郎が忌々しげに地下牢の天井を眺めた。

 ここは下豊沢にある国分寺の地下である。九郎と将翁は、一番初めに被害があったここが怪しいと踏んで訪ねてきたのだが、幕府の手の者と住職や寺坊主に扮している盗賊に見破られてこうして捕まっていたのであった。

 それ以前に捕まった阿子が居たのが警戒を強めていた原因だろう。阿子の首元に刃物を突きつけられて念入りに九郎は武装解除させられ──盗賊は隠し武器を疑ったのだろうが、そのおかげで術符まで剥ぎ取られて縛られ地下牢に放り込まれたのであった。

 将翁が口を開く。


「特に疑った理由としては、ここの国分寺は徳叉迦とくしゃかを本尊としていましたからね」

「徳叉迦?」

「仏教における八大龍王の一王です、よ。天竺ではタクシャカという名の蛇で、毒牙で人の王を殺したり、財宝を盗んだりする邪竜でもあり……まあつまり、盗みと殺しが得意な竜王なので盗賊の正体としては合点がいくというか」

「それに[鉄鼠(てっそ)]なんてのは石燕殿が名付けた妖怪で、仏典を食い荒らす頼豪鼠のことだ。そのような最近生まれた知名度の低い妖怪の名を使うのは、寺の関係者だと思いまして、ね」


 口々に言う二人の声音が似ているものだから若干惑わされそうになりながらも九郎は話を続ける。


「本尊までそれとなると、適当な盗賊団が寺の振りをしているというか、寺の住職共が計画的か宗教的に窃盗を働いているといったところかのう」

「そうでしょうね。寺の繋がりがあれば、盗んだ仏像を流すこともそう難しくはない」

「上の連中も坊主らしさは出てましたから、まず見た目では盗賊と間違われないでしょうぜ」

「厄介な……これからどうするか。助けを待つべきかのう」


 考えるに、偶然ではなく推理があってこの寺へと辿り着いたのだから、家族の中では石燕か豊房ならば将翁と同じく一箇所目の被害が徳叉迦を本尊にしている寺ということで怪しみたどり着くかもしれない。ここに来ることは行っていないが、盗賊の捜査で出かけるのは伝えていたのだ。

 その際に影兵衛か晃之介あたりを連れてくれば恐らく救助は成功するだろう。今度は人質側に九郎が居るので、救出側と合わせて暴れればどうにかなる。

 ところで、と九郎は聞いてみた。


「どうして己れらは殺されもせんで転がされておるのだろうか」

「一つは人質でしょうかね。お二人が捕まったように、やってきた相手への牽制として見せる役目とか」

「もう一つは……まあ、女二人に中々の男ぶりな九郎殿ですからね。慰み者にでもするんじゃないでしょうか」

「早く脱出せねばな」

 

 九郎は嫌そうな顔をしながら縛られている腕に力を込める。

 ぎゅ、ぎゅと麻縄が軋むが千切れる気配は見えない。


「むう……あやつらめ。[相力符]まで取りおって。常人並みの力しか出ぬ」


 首に巻いている術符は力の増大効果があって縄ぐらいなら無理やり千切れるのだが、それを外しているとなれば九郎自身が多少力持ちでもその程度の能力しか発揮できない。

 術符も無いし、疫病風装とブラスレイターゼンゼは呼び出せば出て来るだろうが、最初から縛られている状態では疫病風装の自動回避は発動しないし、病毒の鎌に物理的切断力はない。怪しげな病気で縄を腐食させることは可能かもしれないが、密室で他に二人も居てそれをするのはリスクが高かった。

 将翁がどうにか解こうとしている九郎に告げる。


「なに、三人いれば文殊の知恵と云いますぜ。この縄もどうにか解いてみましょう」

「どこかに結び目がありますかね、九郎殿」

「結び目な……おのれ、あの盗賊共め。厄介なところに」


 九郎の体をぐるぐる巻きにしている結び目は臍の下あたりにあった。

 

「……将翁。お主、手は?」

「残念ながら後ろに組んで上から縛られているので、指も出せませんぜ」

「同じく」

「なので仕方ありません」


 カチン、と乾いた音が鳴った。将翁が歯を鳴らした音だ。

 彼女はのそりと体を九郎の方に倒しながら言う。


「──口で結び目を解きましょう」

「……」


 なんとも言えない表情で九郎は下腹部に顔をうずめてきた将翁を見下ろした。

 薄暗い中で将翁が、鼻で嗅ぐような距離で結び目を確認している。

 空気を通して将翁の体温と、青白く見える首筋から僅かに薬のような匂いが漂ってきた。


「ふむ、ふむ……」


 結び目の膨らんだ部分に歯を立てて、ぐいと引っ張る感覚が九郎の腰にも伝わった。


「ふっ……んんっ……硬い、ですねっ……」

「いやちょっと待て将翁」

「口一つじゃ難しそうなので、阿子殿も手伝って頂ければと」

「やむを得ませんか」


 そう言うと将翁と顔を並べるようにして、阿子も九郎の腹に頭を近づけてあんぐりと開いた口で奪い合うように結び目を咥えて引っ張りあった。


「ん、ふう……んん……はぁ……」

「もうちょっと……んくっ……」

「ストップ。ちょっと待てお主ら! 一旦離れろ!」


 口を離させて九郎はずりずりと後ろに下がり、二人を見た。


「なんか絵面がメチャクチャ悪いのだが」

「縄を解くためには仕方ないことかと」


 と、将翁はいつものようにすまし顔であった。

 一方で阿子の方は、苦笑いを口元に浮かべながら云う。


「……いや、まあさすがにあたしもどうかと思いましたが」

「ほら、小さいほうがまともではないか」

「どうだか」

「とにかく。もっと簡単に縄を解く方法を思いついた」


 九郎は告げると、目を閉じて意識を集中させる。

 胸元の生命力を司る魔術文字がより強い光りを放ち、九郎の肉体を十歳ほども若返らせる。

 するとその分体は小さくなり、九郎の体をきつく縛っていた縄は隙間ができて自然と抜けられた。

 その様子を阿子が見て、


「ほう……」


 と短く息を漏らす。

 

「人のチンコを見てため息を漏らすな」


 九郎はずり落ちた下着を押さえながら呻く。


「いえ、別にそれを見ていたわけではないのですが」

「そうなのか? お主の隣のやつは凄い凝視しておったが」

「大きくても小さくても良い物ですぜ」

「……なんというか、呆れますぜ」


 元同じ一族からジト目で見られる将翁である。

 とりあえず九郎は体を元よりも成長させた二十代の姿にする。相力符が無い今では、そのほうが力が出るからだ。

 しかしながら地下牢は狭く天井も低い。身長六尺もある九郎はかがまねば立てないほどだった。

 将翁二人の縄を解いてやる。固くは結ばれていたが、専門職ではない雑な結び目だったのでどうにかできた。

 二人は縛られていた体を擦りながら自由になった手を動かしている。


「やれやれ。玉の肌に痕が付いちまう」


 冗談めかして阿子が云うと、将翁が重ねてきた。


「まあ、あたしは時々九郎殿から痕を付けられてますが、ね」

「……」

「あれ。冷たい目」

「なんというか、妹の嫁入り先での情事を聞かされる兄の気分ですぜ」

「……九郎殿」

「己れにすがるな。というか人に語るな」


 手を振りぞんざいに云う九郎である。

 どうも『阿部将翁』という一族は、助平な雰囲気を出して男女共に惑わす妖艶な雰囲気があるのだが、元自分の一族だった者がすっかり女になっているのは軽く引いているようであった。

 

「ひとまず、格子を蹴ってみるか」


 九郎が格子に向かい、天井を手で支えるような格好で体を固定させて格子を蹴り飛ばしてみた。

 どん、と音が鳴ったものの梁のように太い木製の格子は軋むこともなく健在であった。


「むう……」


 単純に力が増す相力符が無いこともあるが、体勢が不完全で蹴りに力が入らない。

 魂の中に残滓として残っている拳法家、李自成の記憶から蹴りの方法は浮かぶのだがこの中腰では無理がある。

 その拳法家の技ならばこの程度の格子は軽く破壊できるのだが、そもそもが体内の内功を利用する拳法となればやり方だけわかっても生身の九郎では殆ど使えない。普段使うときは無理やり力を底上げして再現しているようなものなのだ。


「破れそうにないのう……格子の隙間も、赤子になってでも通り抜けられそうにないし」

「そのようで」

「おい将翁。お主、妖術とかでなんとかできんのか?」

「あたしの術なんて、精々占いが当たりやすくなるのと、人を正面から化かすぐらいですよ」

「それお主らの一族が元々持ってそうだのう……」

「後は男性から精気を奪って寿命を伸ばすとか……」

「それお主がいつもやっておるだけだな……」


 よく狐狸精に憑かれて九郎の方もやせ衰えないものだと阿子は思うのだが、分化した自分の個体はよくわからないことばかりである。

 九郎は格子を睨む。ブラスレイターゼンゼで腐らせようにも、密閉された狭い地下で強力なものを使うわけにもいかない。

 

「仕方がない……とりあえずは縛られたふりでもして待っておくか。盗人どもがなんらかの目的で格子を開けたら、その瞬間に殴り倒して脱出すればよかろう。暫くは話でもして時間を潰そう」

 

 そして再び九郎は元の少年形へと変身し、縄を手に座り込んだ。

 姿を幼児、青年と変化させて再び元に戻っている九郎をしげしげと阿子は見て呟く。 


「しかしこれは、見事な妖術だ。かぐや姫の不死薬でも飲んだかのようですね」

「竹取物語のか。あれの効果は不老不死ではなかったかえ?」

「いえいえ、若返りと成長を自由自在に行えるのがその効能でして。ほら、かぐや姫も最初に出てきたときは赤子まで若返り、それからすぐに急成長したでしょう」

「ほらと言われても実際に見たわけではないからのう」


 九郎がそう云うと、将翁が補足するように告げてきた。


「『阿部将翁』には記憶として当時の人物、『阿倍御主人(あべのみうし)』としての記憶があるのですよ」

「むう……確か、昔から記憶を次代に残している妙な術を使っているのであったか」


 代々一族の血を継ぐ者──といっても、千年以上繰り返しているので血はかなり広まっているのだが、それらが《阿部》の一族として代々記憶と記録を引き継ぎ、共有しているのである。

 脳が何十人、或いは何百人もの記憶を保存できるのかというと不思議な話だが、彼らの場合は常にすべてを覚えているというわけではなく必要な記憶をその都度、本で読み返すように継承した記憶を再生できるのだ。

 

「その術から外されたあたしは、もうすっかり遠い昔を思い出すことはできなくなっていますが、ね」

「まあ……いいのではないか? お主はお主で。下手になんかこう、男であったときと意識が共有しているとかなる方が気分が萎える」

「そう、それ」


 阿子が指を立てて云う。


「我らの場合、元々の人格は男が基準としてできているのですよ。阿部御主人しかり、阿倍仲麻呂しかり、その子孫しかり」

「ほう……だが女形態でも堂に入った男の惑わし方だったが」

「そこはほら。男であっても男もいける方であり、また男なのだから体が女になった際には男をからかって遊ぶ方法をよく知っていたりしたので。それに子作りは義務感みたいなのがあったので……」

「あまり聞きたくなかった」


 阿部将翁は男は男、女は女としてそれなりに趣味嗜好も別れているのかと九郎は思っていたのだが。

 女状態の将翁が迫ってきていても、心の中は男が男に迫っている図だったとは。

 精神的ボーイズラブとでも云うべきか。九郎は渋面を作った。

 阿子は指を隣の将翁に向けながら云う。


「しかしながらこちらの将翁はすっかり人格が女になっているようでして」

「そうなのか?」

「さすがにあたしらも、多少悪ふざけで誘うことはありますが、そこまで男にベタ惚れはしませんよ。でもこれは九郎殿と触れ合ってからどうもおかしくなっちまって……」

「照れますね、どうも」

「うーむ……」


 確かに五年ぐらい前の、延々と九郎の子供を身籠ることを狙ってきていた将翁の様子は中身が男だとするとかなり気色が悪い。

 だがそのとき既に、中身は将翁個人としての女性人格が目覚めていたのだろう。

 無駄に助平なのは確かだが。

 九郎は格子に生えているきのこを毟りながら適当に話題を出してみた。


「そう言えば阿子や、将翁の息子は元気にしておるのか?」

「ええ、それはもう。まだ小さいですが、立派な阿部将翁になっていますとも」

「……なんかきのこが増殖するみたいだのう」


 手に取ったきのこを見ながら云う。生まれてきた子も自分とほぼ同じ存在になるというのは、確かに奇妙な感覚かもしれない。


「一族で男不足とか言っておったがどうにかなったか?」

「どうにかなりました。これでも、歴史だけは長いものであちこちに縁戚はおりまして。例えばお旗本三千石の阿部氏などもそうですね」

「ほう」

「その縁で幕府からも御用薬として役立てたり、こうして手伝いに駆り出されたりもするわけですが……」

「しかし阿子のような、小さい体をした者が一人で調べずともよかろうに」

「ほんの探りをいれて怪しければ寺社奉行に話すだけだったのですが、いきなり襲われたもので……」

「ふむ?」


 いきなり襲うとはまるで阿子そのものが狙いだったように思えた。

 九郎はきのこを放り投げてまた毟りながら考える。

 

「あやつらの目的がよくわからんのう……いきなり盗みを始めたにしては、ここは昔からある寺だし」

「或いは誰かにそそのかされたか……盗みをしないといけない理由ができたか」

「わけがわからんな。捕まえてから聞けば良いか」

「それにしても、誰も見に来ませんね……」

「うむ。将翁、何か時間を潰すのに面白い話でもなかったか?」


 話を振られた将翁は九郎が投げてきたきのこをマイクのようにしてキリッとした顔で云う。


「……狐や狸の妖怪変化を表す狐狸精こりせいは、唐国の言葉で云うとフーリーチンなんですがどう思いますか九郎殿」

「阿子。お主のところから貰った娘さんは少しアホだぞ」

「知らない子です」

「酷い」


 ──などと言っていると、音が聞こえた。

 ずるずると這う音が近づいてくる。格子の向こうからだ。九郎が女二人を背中に隠すようにして、仄かな胸元からの灯りを向けた。

 足音ではない。だがかなり重たいものが動いているのがわかった。

 やがて九郎の青い光りが、正面から来る相手の瞳に反射して見えた。


「……蛇だ。しかもかなりデカイぞ。錦蛇ニシキヘビがおる」


 三人の居る牢に近づいてきているのは、長さが5mはありそうな大蛇であった。

 体に網目のような模様があり、頭は黄色い。東南アジアに生息する網目錦蛇だと九郎は知っていた。若い頃にヤクザ関係者の知り合いが飼っているのを見せてもらったことがある。

 日本には生息していないが、卵を輸入したか或いは流木に乗って流れ着いたか、見世物小屋から逃げ出したかで現に今ここに居るのだ。

 九郎が忌々しげに呻く。


「そうか……あの連中、己れらを生き餌にするためにここに放り込んだな」

「確かにあの大きさでは、女子供なら飲み込まれちまう」

「タクシャカを信仰しているだけあって、巨大なナーガを御神体にしたのかもしれませんぜ」

「とにかくお主らは後ろに下がっておれ」


 九郎が格子に近づきながら、何処からともなく疫病風装を呼び出して身に纏った。

 格子に張り付くようにして外に居る錦蛇と対峙する。やはりかなり大きく、人を食うには充分あるだろう。

 これだけの大きさの動物を即死させる毒はやはり閉所で使うには危険であるし、下手に暴れだしでもされたら二人が危険だろう。


「今にして思えば、妙にそわそわとあやつらも己れらを牢に放り込んで逃げるように出ていったのう」

「なるほどねぇ。[鉄鼠]とは鉄の鼠……即ち、蛇に食べられない自分達を表していたのではないでしょうか」


 将翁の言葉が聞こえたと思った瞬間に、格子の外に居た錦蛇が首を伸ばして九郎に噛み付こうとしつつ、格子の隙間から牢の中に入ってきた。

 疫病風装の自動回避を使ってすり抜けるように蛇の鎌首を避ける。

 だが錦蛇はその長大で太いゴムタイヤのような体を相手に巻きつけ、窒息か或いは骨をへし折り獲物を仕留める。

 九郎に目標を定めた錦蛇が巻き付こうと激しく動き回った!

 それでも疫病を手で触れられぬように九郎の体は自動的に滑り動いて蛇の拘束を回避する。

 そうなると、九郎の直ぐ側にあったものへと自然と蛇の体は絡みついていった。

 即ち格子の太い角材に、である。

 何かを掴んだと思った錦蛇が全身の筋肉を使って獲物を締め上げる。

 めきめきと音を立てて大蛇の巻き付きに巻き込まれて格子が砕けていった。


「凄い力だ……」

「ついでにきのこを増やしまくって格子を脆くしておったからのう」


 九郎は足元に転がっているきのこを蹴る。

 急激に格子を腐敗させる方法は危険だが、菌糸を過剰に活性化させることで柱の分解を早めたのである。

 一度獲物に絡みついた錦蛇は一つのことに集中してそうそう離さない。

 九郎は木片に抱きついている錦蛇の胴体を持ち上げて退かし、二人に云う。


「よし、格子はこれで通り抜けられる。今のうちに逃げるぞ」


 将翁と阿子は頷き、九郎に続いて牢の外に出る。

 奥の階段へと三人がたどり着いた際に、最後尾に居た九郎が急かし始めた。

 

「いかん。錦蛇が巻きついているものが獲物でないと気づいた。またこっちに来るぞ」

「早くあがりましょう」


 階段の頭上を閉じている板を退かして地上に這い上がる。蓋を閉める間もなく大蛇が出て来るので三人は慌てて離れた。

 寺の本堂離れに作られた蔵のようだ。ごちゃごちゃと棚が多くて狭い。

 蔵の入り口から境内へと逃げる。外に出るとすぐさま寺の坊主に見つかって、


「生贄が逃げたぞ!! 捕まえろ!」

「徳叉迦様が出てきている! 気をつけろ!」


 と、叫びが上がった。


「冗談ではない」


 九郎はそう言って二人を小脇に抱えて疫病風装の効果で空に飛び上がる。

 これで盗賊も蛇も手が出ない絶対安全圏である。九郎はひとまず蔵の屋根に着地し、そこを囲む武装した坊主らを見下ろした。


「降りてこい!」

「誰が降りるか、たわけ。寺を騒がしておる[鉄鼠]の吉五郎一味はお主らだな? 大人しく自首してこい。まあ全員死罪か遠島だろうが」

「盗みではない! 徳叉迦様への捧げ物だ!」

「やれやれ……うむ?」


 九郎が目をやると、寺の門から二人の人物が入って近づいてきている。だが、吉五郎一味はこちらに集中しているので気づいていない。

 三人がなんとも言えない顔で、


「あー……」


 と、こちらに寄ってくる狐面の老人と何やら楽しげな様子の同心を見た。

 阿部一族の翁と、切り裂き同心である。


「どうやら、あたしが帰ってこねえもんで……あたしが助っ人を呼んで探しに来たみたいですぜ」

「そうだよなあ。阿子が考える容疑者は、当然ながらあの爺も考えておるわけで」


 そうしていると影兵衛が大きく九郎に手を振った。


「おーい九郎ー! 手前そっから、外に逃げていかねえか見張っとけよー!」


 その声に吉五郎一味が振り返り、黒袴の同心にぎょっとする。

 

「さあて手前ら。申し開きがあるなら聞くが無ェなら火付盗賊改方の拙者を倒すしか道は残されてねえぜ。神妙に掛かってきな!」

「殺せ! 殺して燃やせ!」

「ハッハァ!!」


 盗賊団は短刀や棍棒を各々構えて、自分らを捉えに来た火付盗賊改方同心へと襲いかかる。

 最初に接近した者は影兵衛の抜き打ちが下段に打ち込まれ、膝を深々と切り裂かれて地面に転がった。

 振り抜いた刀の刃を返さず振り回し、峰の部分で次の相手のこめかみを殴り倒させる。

 思いっきり棍棒を振ってきた盗賊の手首が目にも止まらぬ速さで切断され、持っている棍棒ごと地面に落ちた。

 長い得物である梯子を使って影兵衛の動きを阻害しようと突きつけてきたが、次々に梯子が金太郎飴のように切断され短くなり、信じられない顔をしたまま梯子を奪われて影兵衛が思いっきり相手の頭に叩きつけてやった。

 奪い取った短刀を指先だけのコントロールで投げると様子を伺っていた相手の眼球に突き刺さり悲鳴が上がる。

 

「一応、殺さぬようにやっておるのか……エグいが」

「寺社内で殺すとなると、やはり解決を頼まれているとはいえ寺社奉行殿が良い顔はしないでしょうからねえ」


 下で行われている影兵衛との大立ち回りを九郎と将翁が見ていると、背後で悲鳴が上がった。


「阿子!?」

「ぐ、こいつっ……かはっ」


 いつの間にか蔵の屋上まで上がっていた錦蛇が阿子に絡みついていたのだ。

 元々樹木の上でも生活ができる蛇なので長い体を生かして壁を這い上がることができたのだろう。

 一気に阿子に巻き付き、既に彼女の体から小枝をへし折るような音が聞こえ始めていた。蛇の筋力ならば、人の骨も容易く折れる。


「影兵衛、刀を寄越せ!」

「よくわからんが、おうさ!」


 咄嗟の叫びであり、影兵衛は切った張ったの真っ最中で九郎のところの状況などわからなかっただろうが。

 それでも何も疑わずに影兵衛は武士の魂とも言える愛刀を九郎にぶん投げて寄越した。

 どう使うか見向きもせずに素手と奪い取った短刀で盗賊達を痛めつけることだけに集中している。九郎を信頼しているのだろう。

 投げて渡すというか投げつけて殺すといった勢いで飛んできた刀を九郎は受け止めて、阿子を締め付ける蛇の頭を引き切った。剣鬼の使う愛刀だ。得も知れぬ感触でずるりと蛇の皮膚と肉を切り裂き、牙をむき出しにした頭は血を出して落とされる。

 脳からの司令を失った体が硬直する前に、無理やり阿子の体から剥ぎ取ってどうにか救出したが、


「つ……骨が折れちまったようで……」


 言葉こそ阿部将翁といった様子だったが、ずれ落ちた狐面の下では年相応に痛くて泣きそうな少女の顔が現れていて、九郎はなんとも痛ましい気分になった。

 

「将翁。とりあえず診断してやってくれ」

「はい」

「影兵衛、刀を返すぞー!」

「おうよー!」


 九郎が影兵衛に刀を投げ返した頃には、盗賊退治も終わりかけていた……





 ********





 元々、この寺では徳叉迦の本尊を拝む熱心な一派が住んでいたらしい。

 徳叉迦の本質は殺しと盗みと狡猾。だがその悪徳を深く理解して律することこそが修行であると思っていたようだ。

 そこに近頃、見世物小屋から抜け出した南蛮由来の大蛇が寺に住み着いた。

 これこそ徳叉迦の使いだ、だがそれに対してどうすれば自分達は良いだろうかと話し合いをしていたという。

 その際に、寺のものではない一人の浪人がふらりとやってきて、皆にこう告げた。


『昨日、夢の中で大蛇がこう告げた。多くの金を盗み集めねば、我が毒と火で国を滅ぼすと』


 実際に大蛇を飼っていて、毒蛇である徳叉迦を信仰している彼らにとっては凶事を告げる言葉である。

 八大龍王で仏教の守護竜でありながら徳叉迦の本質は邪悪なるもの。その毒を浴びれば体が焼けて消滅するほどだと言われていて、それが国を滅ぼすとなれば信心深い彼らにとっては大変な知らせであった。

 だがあくまで彼らは僧侶。盗みなどしたことは無かったのだが、その浪人が手ほどきをしてくれたのである。それに寺としての繋がりで金を溜め込んでいる寺もよく知っていたので次々に盗みに入ることができた。

 浪人の名は、仁左衛門と名乗っていた。

 不思議とその男から指示を出されると、酔ったように深く考えることができずに実行してしまったという。

 あたかも人を化かす物の怪のように。

 そうして盗み蓄えた財は、大蛇の住む穴に繋がる蔵へと詰め込んでいた。経文や仏像も盗んでいたのは徳叉迦を鎮めるためであった。


「ま、どうにか剥ぎ取られた己れの持ち物も見つかり事件は解決だのう」


 全部取られたときはさすがに不安になったものだが、胸に刻まれたものと第四黙示装備だけはあるので助かった。

 以上の供述内容は、影兵衛が全員を半死半生にしてしょっ引き調べたことである。

 盗まれた金や仏像も殆どは手が付かずに発見されて、襲われた寺の中には死人が出ていたところもあったが、それでも戻ってくるものはあったので一安心だろう。

 

「[鉄鼠]の吉五郎と名乗っていたのも、捜査を撹乱するためだったらしいのう。結局はヒモ切り仁左衛門とやらが口車に乗せて盗賊団に仕立て上げ、恐らくはある程度集めたら自分があの寺に盗みに入って全部頂戴するつもりだったのだろう」

「しかしヒモ切り……本人の姿は見えないのに、不気味な悪党ですね」

「まったくだ。ほれ、枇杷びわが剥けたぞ阿子」

「……いえ、食べさせてくれなくとも」


 神楽坂の屋敷。その一室に布団が敷かれており、かの事件で両腕と肋骨を折った阿子が療養していた。

 将翁の診察であまり動かすのも良くないということで、老人の阿部将翁もそれに頷きひとまず九郎のところで怪我を治しているのであった。

 基本的に屋敷には世話焼きが多いので彼女も上げ膳下げ膳どころか、口元に料理を運んで貰っている様なのでなんとも気疲れしていた。


「子供ではないのですがね……」


 そう言いながら阿子は小さい口で枇杷を半分ほど齧ると、顎に汁が滴るのを九郎が手ぬぐいで拭いてやる。


「子供だろうが老人だろうが、腕が折れれば世話されるものだ。気にするでない」

「しかしこう、『阿子』という呼び名が他の娘にも浸透したので威厳が出ないというか……」


 この屋敷で寝泊まりする上で、やはり将翁と名前が紛らわしいので阿子と呼ばれることになったのである。


「胡散臭がられるより良いと思うが」

「胡散臭いのはあたしの性分ですよ……やれやれ。調子が狂っちまう」


 阿部の一族が人格を継承していくという術は完全に乗っ取るわけではなく、案外に体に引っ張られる部分はあるものだと九郎は思っている。

 九郎も若い姿になったことで気分も若返ったように。

 こうして、同じぐらいの年頃の少女に囲まれて日々を過ごす阿子が、案外に満更でもない年相応な少女の顔を見せるように。


 それから暫く、阿子は屋敷に逗留していくのであった。

 








 ********




 余談。


「ところで阿子。これはハブを漬けた酒なのだがこれの成分がどうも妙だからお主らのところで調べて──」

「きゃっ!?」

「……」

「……」

「もう中に漬けていた蛇は抜いてあるが……蛇、苦手か?」

「き、聞かなかったことに……」


 蛇に絡みつかれて骨をへし折られたトラウマで。

 地味に他の阿部将翁と違いができていたという。







※別に阿子ちゃんはヒロイン候補じゃありません


あと世界線は全然別なんですが

4月28日発売の書き下ろし書籍新刊[ブラック・トゥ・ザ・フューチャー坂上田村麻呂伝]には狐目で胡散臭い陰陽師・阿部満月丸(阿倍仲麻呂の子)が出たりします(宣伝

江戸からは千年近く昔だけどこの一族ならそこから生きてるという

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