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46話『因果小僧六助/六科と泥棒の話』




 ──その気配に気づいたのは、蕎麦屋店主佐野六科の妻であるお雪であった。


 生来より聴力に優れ、視覚を失ったことで更に感覚が研ぎ澄まされた彼女は足音や心音、呼吸音のみで人を区別できる程である。

 お雪は意識を覚醒させて音を探る。

 夜中のことである。周囲には子供であるお風と六助の寝息と、六科の規則正しい排気音が聞こえる。六助は父に似たのか、あまり夜泣きもせずに手の掛からない長男である。 

 四人は表店の店奥にある生活スペースを寝室にしていた。盲目のお雪を思えば二階は昇り降りが大変だからだ。まあ、用事があって六科とお雪が二階の部屋を利用するときは抱きかかえてお雪は運ばれるのだが。

 そしてお雪は、蕎麦屋をやっている二階の方に誰か一人別の存在を感じ取った。

 

(……九郎お爺さんでも豊房ちゃんでも歌麿くんでもない)


 この場に居る四人以外での家族も同然な者ならば、不意に夜中にやってくることも考えられるが、その誰とも気配は違った。

 それに長屋に住む誰とも違う。

 そう判断して、お雪はぞっとした。

 知らない誰かが夜中に押し入ってきているのだ。子供たちが危ない。

 お雪は六科の耳元で、


「あなた、あなた、起きてくださいよう」


 と、囁きながら首元にあるツボ(起動スイッチ)を押す。

 するとグポォンと恐らく呼吸音か心音かがして、六科は目を見開き脳を動かし始める。

 現在時刻を体内時計で計測。周辺の家族の状況判断。お雪が起こした理由を、不安そうな表情とささやき声から推察し、何かしら問題が発生したと判断。

 目覚める際にそれを考えるため、少しだけ起動に時間が掛かる。時々何かズレて動きが止まる。だが、少なくとも今は正常に六科は起きた。


「どうした。何が起こった」


 同じく小さい声でお雪に問いかける。


「誰かが、二階の方に居るみたいですよう。泥棒かも……」

「了解した。排除する。相手は一人か」


 お雪は頷くが、不安そうに言う。


「こ、子供を連れてみんなで裏口から逃げた方が……」

「子供が起きて泣き出したらこちらを口封じに来る可能性がある。だが俺が苦戦するようならば、声を上げるので逃げて長屋の連中に助けを求めろ」

「は、はい……」

 

 明確に六科はそれを伝えて、音も立てずキビキビと動き出し部屋に置かれている薪を武器として一つ掴んだ。逃げるのは確かに安全策かもしれないが、この店の主として店を守らねばならない。

 それにしても、わざわざ長屋の表店でやってる蕎麦屋を選んで物盗りが来るのも珍しい。

 とはいえこの店は以前閑古鳥が鳴いていたことが嘘のように儲かっているのだ。固定客が安定して訪れ、利益率のよい酒とつまみを持ち帰りでも提供している上に土地代が安く、忙しいときに歌麿などを雇う以外は家族経営なので人件費も殆ど掛からない。

 娘の持参金として百両も持たせただけはあり、贅沢をする性格の家族でもないのでそれなりに溜め込んでいたのだ。

 それをひとまず二階の空き部屋にある箪笥に保管していた。金勘定は、前まで二階に住んでいた豊房が得意だったのでその名残だ。


 足音を殺しながら二階に上がる。

 並んでいる部屋の襖が開け放たれていて、戸が外された窓から入ってきている月光により僅かに青白い。そこまで来ると六科の耳にも、金貨がちゃりちゃりと音を立てているのが検知できた。箪笥から一分金などを漁っているのだろう。普通庶民というのは金貨や銀を使わずに銭で金を管理するものだが、この店では結構な量の銭になるので普段使う金以外の塩漬けしていた財産を一分金などに変えて保管していたのだ。

 箪笥のある部屋まで六科は呼吸を止めて一気に近づき、中に踏み入る。

 薄暗いが熱源を感知して相手の位置を把握。迷わず不意打ち気味に薪で打ち据えようとする。

 いきなり飛び出てきた六科に、盗人は慌てながらも飛び退いた。

 

「ごはッ!」


 六科の一撃は鈍い音を立てて相手の肩に当たった。相手は咳のような悲鳴を上げて離れる。しかし倒れるには至らなかった。

 盗人は金の入った箪笥の引き出しごと小脇に抱えて、窓に駆け寄る。


「待て」

 

 言いながらも六科は薪を投擲したが外れる。盗人はそのまま開け放たれた窓から飛び降りたのだ。

 月明かりに照らされた盗人は柿渋色に染めた羽織に、尻っ端折りをしている。頭には黒布を被っていて眉元まで隠している男だ。

 窓のすぐ下の屋根を足場に駆けて逃げようとするが、六科も迷わず窓から出て暗がりの屋根を追いかけ始める。 

 大きな足音を立てて一直線に向かってくる大柄ではないががっしりとした六科から急いで逃げるために、近くに掛けてた梯子を盗人は滑るように降りて、下から外した。

 屋根の上に取り残された六科をしてやったりと見上げる。

 次の瞬間まったく躊躇わずに六科が屋根から飛び降りた。 

 どん、と大きな音と土埃を上げて六科は着地し、月明かりを反射して光っているように見える目で盗人を見た。

 びくり、と後ずさりした盗人は振り向いて全力で逃げ出す。

 その後ろから六科がドシドシを足音を立てて追いかけ始めた。速度は然程ではないが、盗人は片腕を負傷している上に金子の入った引き出しを持っているので足が鈍い。

 そして追いかけられている状況の悪さに盗人は判断をしなければならない。このまま道を走っていてはすぐに木戸に行き当たる。

 江戸の町通りのあちこちにある木戸は夜四ツ(午後10時ぐらい)から明け六ツ(午前6時ぐらい)まで閉ざされていて、木戸隣の番小屋では番太郎と呼ばれる番人が詰めている。異常があれば番太郎は柏木をガンガンと叩いて鳴らし、他の木戸番たちを呼び寄せてしまう。

 盗人は屋根に梯子を掛けることで木戸を通らずに夜の江戸を行き来していたのだが、こうして通りを追い掛け回されるのは想定外だった。


(マズイ、殺すか!?)


 そう思うが、表情一つ変えずに正確な動作で走って追いかけてくる男を見ると、真正面から殴り合っても勝ち目が無く思えた。ただでさえ、不意打ちを食らって怪我をしているのだ。

 盗人はふと、追いかけてきている六科についての噂を思い出した。そして一か八か、その噂を信じてこの場を脱する方法が浮かぶ。

 馬鹿げている行動だが、このままでは捕まるのも確実だ。

 盗人は足を止めて、六科に向き直った。


「待ってくれ、お父さん(・・・・)!」

「……?」


 そう呼びかけられて、六科は足を止めて盗人をじっと見た。

 すると彼は覆面を脱いで見せる。だが、覚えのない男の顔が出てきて更に疑問符を浮かべる。覆面の中から現れたのは、別に特徴の無い三十がらみの男である。


「ごほん。お父さん! 私は貴方の息子、六助です!」

「……?」


 咳払いをして云う自称六助。

 意味がわからないとばかりに六科は動きを止めて、脳内論理回路にその言葉を通してみた。

 自分の息子が六助という名前の男児である。正しい。

 六助は先程、お雪の隣で寝ていた。正しい。

 目の前の男は六助であるか? 可能性精査中。

 六科は動きを止めて相手の言葉の真偽を判断していた。

 その六助?は続けて云う。


「実は私は、因果の渦に飲まれて三十年先の未来(・・)から今にやってきてしまったのです!」

「???」


 六科の思考に更なる情報がツッコまれて、余計にフリーズが長くなりそうになった。

 相手の言い分を信じるならば、彼は三十年後の息子だ。

 それを否定する情報を検索するが、三十年も経てば赤子がどう変わるかは不明である。


(見た目からはわかりそうにない……)


 六科は真面目にそう考えていた。

 相手は大きく頭を振りながら、悔しそうに云う。


「三十年後にはこのあたりも、実家の店も火事で焼けて無くなってしまい、本当は混乱を招いてはいけないと近寄らないつもりだったのですが懐かしくなってこっそりと家に上がっていたんです……」

「……」

「それで元の未来に戻るには因果的に金が必要で、他人に迷惑を掛けるわけにはいかないからやむを得ず実家のお金を借りようと……あ。あの箪笥に入れていたお金は、どうせ火事で焼けて無くなってしまいますので、有効に活用しようと思いまして……」

「……」

「まだ元気なお父さんに出会えて私は感無量です。未来では、お父さんは中風で倒れたまま亡くなり……ううっ」


 涙を拭う様子まで見せながら、自称六助は背中に汗を浮かべていた。


(通じてるのか? これ)


 彼が聞いたのは、六科は真面目というか人の話を額面通りに受け止めてしまう性格だということだ。

 騙されやすいとも云う。だが、こんな阿呆みたいな即興の話で逃してくれるかは男も分が悪いと思っていた。

 思っていたのだが……


「未来……息子……火事……金……情報……矛盾……」


 ぶつぶつと唱えながら何やら判断に苦しんでいるようだ。思考回路がショート寸前である。

 いける。

 そう判断した男は、六科に頭を下げて最後に云う。


「それでは、長くはこの時代に居れないのでこれで失礼します。お父さんの姿が見れて本当に良かった。この時代の私をよろしくお願いします。さよなら!」


 そう告げて男は予め目を付けていた、予備の梯子を置いている場所へ向けて駆け出していった。

 その背中に、何やら論理回路が答えを出した六科が感慨深そうに声を掛ける。


「さらばだ。未来の六助よ。三十年先まではお前が元気に生きていることを知って、俺も嬉しい」


 信じたようだ。





 *******





「普通に泥棒の嘘だよそれ!」


 翌日。九郎は六科のところから使いが来たので彼の店にやってきて事情を聞き、一発でそう告げた。

 当たり前である。誰がいきなり泥棒が未来から来た子供だと言い出して信じるだろうか。だが目の前の、蕎麦屋の親父は信じてしまったのだ。


「お雪にもそう言われた。だが証言は矛盾していなかった」

「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないのお父さん! なんでそんなの信じちゃうのよ!」

「そうだぞ。豊房の云う通りだ。オレオレ詐欺に引っかかるタイプだなお主」

「むう」


 九郎についてきた──実家に泥棒が入ったというのだから当然だ──豊房も六科の判断を非難する。

 確かに父親は融通がきかないタイプだったが、まさかこれほど正面からトンチキな詐欺に会うとは思ってもみなかったのだ。

 心なしかしょんぼりと正座した六科が頭を下げる。


「大体、なんだ未来からやってきたって。時間旅行の発想があるのか」

「黄表紙であるのよ。先の時代はどうなってるかって未来を想像するお巫山戯本ね」

「ふむ。そういうのが流行っておるのか」


 例えばこれから少々先になるが、戯作者の恋川春町が『無益委記(むだいき)』などという未来予想本をヒットさせたりしている。


「でもああいうのはお馬鹿で根拠の無い適当なお話なのよね。予想なんて大抵当たらないわ」

「どういうのが予想されているのだ?」

「そうね。未来では一年中変わらず全部のお野菜が店で売られてたりとか、大人になっても漫画を読む人ばっかりだとか、変なカタカナ語が使われるようになるとか」

「……」


 微妙にそれっぽい話で九郎は軽く目を逸らした。


「まったく、何が流行るかわからないわ。最近なんて、大八車に跳ね飛ばされて死んだら輪廻転生するとかそんなものまで見たわよ。本気にして飛び込む人が出たらまた出版が規制されるの。しかも、大八車で跳ねて死なせたら車を引いていた人は島流しの刑なのよ。迷惑だわ」

「交通事故の刑罰厳しいのう……」


 丁度それは享保の頃、江戸を行き来する大八車や牛車も増えて交通事故が増加していたので将軍吉宗が厳罰化を命じたのである。

 この時代では車を引いていた者を島流し、荷主を罰金刑だが後には島流しが死刑になる。大八転生は止めよう。


「とにかく。泥棒に入られたんだったら取り返さないと。お父さん、幾ら盗まれたの?」

「……」

「……まさか、帳簿付けてないんじゃないでしょうね」

「……すまん」

「もう!」


 六科が済まなそうに頭を下げる。

 元々というか、九郎がここに住んでいた頃から金の管理は幼いお房の仕事だったのだ。

 石燕に読み書き計算を小さい頃から教わり、9つの頃には普通にそれができていたのである。

 元来金勘定に疎い六科は娘がやらせるに任せていたのだが、去年に彼女が家を出てからは帳簿を任されたにも関わらず怠っていたようであった。


「お母さんは目が見えないからできるのはお父さんだけなんだからね」

「すまん。両替だけはしていたのだが」

「それが逆にまずかったのう。銭ならば持ち運びに難があるが、金貨なら纏めて掻っ攫える」


 庶民の銭使いというので普段は滅多に小判どころか、一朱金すら使わないのが普通である。

 裏長屋の家賃600文も皆は銭を細長い縛るやつで纏めて渡してくるし、店で相当飲み食いしても客は銭をじゃらじゃらと出して支払う。

 同じく六科も、差配人として徴収した家賃を家主に渡す際も間違いがないようにそのまま渡すし、店で使う食材などを買う際も銭を使う。

 こうして多く銭をやり取りするので銭を縛る細長いアレはよく必要になり、適当に作られたものが二束で三文ほどの値段で売られていたという。


「こうなったら仕方ないわ。泥棒を捕まえたらあらん限り持っているお金を奪い返すのよ。だって盗まれた額がわからないのだもの。仕方ないわ」

「し、仕方ないのか?」

「そうよ。それですら、捕まえるまでに期間が空いたら使われて目減りしてるかもしれないわ。お父さんとあなたは捜査をしてきて。そして捕まえるの」

「簡単に言ってくれるのう……」

「俺もか。しかし店が」


 六科が憮然と云うが、豊房が苦々しい顔で父に指を突きつけた。


「犯人の顔見てるのお父さんだけじゃない。大体、盗まれたって自覚が薄いのよ。おのれ! 許さん! 取り返して膝の皿とか割ってやる!ってならないと」

「膝の皿とか割るのか」

「わたしだったら割るわね。断固」

「なんだその微妙に具体的な報復は……うちの妾怖いのう……」

「それに本当に六助が三十年後から来た可能性も無くは……」

「無いわ。だって無いもの」

「むう」

「それにお店なら大丈夫よ。お父さんが出ている間、わたしが料理番をしとくから」

「むう」


 六科が唸っていると、食材の仕入れに出ていた歌麿が戻ってきた。


「ただいまー。豊房ちゃんに言われた通り、色々安いのを適当に買ってきたけど大丈夫マロ?」

「大丈夫よ。ちゃっちゃと仕込むから。下ごしらえだけ手伝って頂戴。ほら、あなたとお父さんは泥棒探しをして」


 歌麿から魚や野菜の入った木桶に籠を渡された豊房に急かされて、二人はひとまず二階の犯行現場へと上がった。

 現場保存のためというわけでもないが、盗人が逃げたときから手を付けてはいない。

 むじな亭の二階は三つの部屋が障子で仕切られていて、それぞれに窓がある。それを閉める戸を外されて中に侵入、隣の部屋にある箪笥に目を付けて漁っていたのだろう。

 

「ううむ、丁度侵入場所から近いところに金が置かれていたのは良かったのか悪かったのか。下手に家探しをされて、女子供を人質に取られるよりは良かったかもしれんが……」

「押入れなどを引っ掻き回した後もあるから、ここに金を置いているとは知らなかったのだろう。見つからなかったら襲いに来るのも時間の問題だったかもしれない」

「ふむ……表店とはいえ個人経営の蕎麦屋を襲うぐらいだ。店が儲かっていることを知っていたのだろうなあ」


 引き出しが盗まれた部屋に入ると、乱暴に引っ張ったのでずれた箪笥と畳の上には土が僅かにある。足跡はどこにでもありそうな草鞋で捜査の役に立ちそうもない。

 

「ここで盗人が箪笥を漁っていて、お主が薪で殴ったと」

「うむ」

「骨が折れた音などはせんかったか?」

「手応えはそれなりだったが、折れてはいなそうだった。罅ぐらいは入っているかもしれないが」

「ふむ……腕を怪我しているのは手がかりの一つだな。他にわかっていることは?」

「六助の三十年後────」

「いや、それはもういいから……ってうむ?」


 九郎は首を傾げる。

 ふと相手の発言に違和感を覚えたのだ。


「盗人はお主に、六助という息子が居ることを知っておったのだよな」

「そのようだ」

「生まれて半年ぐらいの。そりゃあ長屋の連中は知っておるが、余程お主のことを調べておらんと赤ん坊の名までは知らんのではないか?」

「そういうものだろうか」

「だろう。客にベラベラ話したりは……お主の性格だから聞かれでもせん限りは喋らんだろう、六助の名」

「ああ」

「そしてお雪の方は裏方だし、普段もあまり出歩く方ではない。特に子育てが忙しいからな。となれば、六助の名を知っておるのはかなり限られるのではなかろうか」

「未来から来たというのは……」

「無いとして。誰が名前を知ってそうか、考えておれ」

「むう」


 遺留品などが無いか調べたが、血痕の一つも残されていない。窓から逃走経路を見てみるが、特に変哲はなさそうだった。

 六科はじっと九郎の調査を見ながら頭の中で六助の名を知りそうな他人をリストアップしていく。

 

「うーむ。特に何もなければ、畳はさっさと掃除した方がいいのう……っと」


 九郎はふと眼力を集中し、普通ならば見えないものが見える視界を開いてみた。

 第四黙示の能力である病原可視化である。周囲にある細菌やウイルスや毒素をそれとなく感覚的に把握することが可能になる。

 すると、


「ふむ? これは……結核菌か」


 部屋の床に付着した菌を発見した。結核菌は、知り合いが掛からないようにと九郎が江戸から定期的かつ大雑把に根絶している菌の一つである。

 しかしそれは大気中の結核菌を集められるが、既に感染していて体内で保菌している者までは治せない。なので、六科の家族が感染していないとすれば昨晩の盗人は結核であり、咳をした拍子に飛沫から菌が飛び散って残されたのだろう。

 他は江戸のどこにでもあるような雑菌しか無く、その結核菌だけが手がかりになりそうだった。


「腕を怪我していて、ついでに労咳の者か……」

「特徴的ではあるがこの広い江戸から探すのは難しそうだ」

「だから六助の名前を知ってそうな相手というのが大事なのだ。容疑者を上げてからその中で怪我人と結核患者を探せばいい」

「なるほど」


 六科は暫く考えたようだが、やがて顔を上げた。


「あまり報告していないが、少なくとも寺と藍屋の親父殿は知っているだろう」

「寺は戸籍のためだな。お八の実家も、長屋の家主であるしお主を気にかけておったからのう……」


 藍屋の主人である良介は六科の亡妻の父であり、豊房の祖父ということでもあるので六科のことは昔から面倒を見ていた。その御蔭で表店の家賃も安くして貰っている。

 

「ひとまず藍屋でも見に行くか……従業員が聞きつけて犯行に及んだとかあるかもしれんが、最初から疑って掛かれば向こうもいい気はせんだろうな。軽く姿を消して店に入り、腕を怪我した誰かがおらんか、或いは休んでおる者がおらんか聞いてみよう……」

「うむ。どことなく、嫌そうに見えるが」

「少しだけ気まずいというか、己れが近寄るとやたら歓迎してくるのが少々気疲れするのだ、あの親父殿は。娘を己れが嫁にして、孫を妾にしているという関係性を考えるとなあ……」

「爛れている」

「やかましい」


 お八と豊房の血縁から言えば、叔母と姪が揃って一人の男に嫁いだという特殊な関係になる。なんとも奇妙であった。更に石燕は、転生したとはいえ豊房の従姉妹である。お八と石燕には血縁関係は無いが、ダメンズ好きな系譜がありそうである。

 しかしながら基本的にお八の両親は九郎に対してひたすら好意的で、それが逆に困る九郎であった。


「手土産を持って世間話しに行くときはお八も連れて行けばいいからのう。今回はコソッと行こう。コソッと」

「わかった」


 と、二人は板場で料理の仕込みをしている豊房に要件を伝えて、日本橋の藍屋へと向かうのであった。





 ********





 そして藍屋での調査でも、藍屋の関係者は今のところシロと判断して次は九段下にある本店の方を探す予定だが、まずは店に戻った。

 そろそろ昼飯の時間だ。腹が減っては調査もできない。それに、六科がそわそわと店の方を気にしていたのだ。


「あら。おかえり。どうだった?」

「いや、空振りだった」


 店は板場で豊房がテキパキと蕎麦を茹で、飯を盛り、小鉢に煮しめなどを入れて準備して歌麿が配膳していた。

 客入りは八分ほどだろうか。昼前にしては中々である。九郎が見回すと、客の食う勢いに活気があった。

 普段の六科の店は、客は大きな希望を持っておらず、かといって人生に絶望もしていないような凪いだ表情で肩を丸めてもそもそと蕎麦をすすり、ごっそさんと投げやりな声で銭を置いていくような雰囲気である。

 だが今日は、


「ずっ! ずるずるー! 旨い! ごちそうさん! さて仕事、仕事!」


 と、啜って立ち上がり力こぶを作って出ていく客と、九郎はすれ違った。


「……六科」

「……むう」


 明らかに六科が店をやっているときより、味が向上しているのである。六科は調理の手ほどきをしても、蕎麦は茹ですぎ、つゆは濃すぎ、湯切りは甘く、絶妙にあまり旨くないのだ。

 他の客も蕎麦を啜ったり、小鉢のおかずで山盛り飯をがっついたりしていた。

 客が笑顔になる素敵なお店になっている。


「ほらほら、二人ともご飯出すから、奥に座って。客席は駄目よ。お客が来るもの」

「そうだのう」


 手招きをされてひとまず奥か二階に持っていって食べようかと思ったら、暖簾をくぐって入ってきた客の気配に九郎は視線をやった。





 *********





 とにかく彼は腹が減っていた。

 武士は食わねど高楊枝というが、腹が減っては戦ができない方を取るべきだろう。下級身分とはいえ武士である水谷端右衛門はそう考えている。

 とはいえ金が無いわけではない。彼は町方の同心である。それなりの、贅沢をしなければ暮らせるだけの給料はあった。


 どの程度かと言えば大雑把な計算をしてみると、同心は三十石二人扶持の年収である。

 一石が一両に換算すれば30両。それと、二人扶持は二人が食べるに困らない量の玄米支給に換算される。二人扶持ならば一年に354升。玄米が一升で60文だとして、21240文。

 30両と21240文で、一両が4000文で一文が20円で計算すると、年収は282万4800円である。

 まあ少なくとも、食うに困る最下級サンピン侍に比べれば多少食道楽もできる。

 サンピン侍は三両と一人扶持(10620文)が給金なので、年収45万2400円という学生のアルバイトみたいな額である。

 

 それはともかく、端右衛門は空腹だった。

 結婚してからは家飯でも、妻が腹いっぱい食わせてくれるので満足していたのだが、この日の朝は妻が風邪気味だったのだ。

 やむを得ず端右衛門が粥を作って妻に食わせてやり、自分も残った粥を朝飯に食ってきたのだが。

 病人にやるだけあって粥は消化が良い。昼前には彼の胃の中は空っぽになっていて、空腹に苦しんでいた。

 

「まったく、仕方ないやつだな。もうすぐお風ちゃんの蕎麦屋だから我慢しろ」


 隣を歩く同僚の菅山利悟が、腹を空かせた様子の端右衛門に呆れたように告げた。

 今日は二人組で聞き込みの最中であった。似たような年頃であるし、基本的に同僚の中で鬱陶しい鉄砲玉扱いされている利悟相手でも普通に接する端右衛門はよく組み合わせさせられる。

 お風ちゃんの蕎麦屋、というのは例のむじな亭のことだろう。

 以前はお房ちゃんの蕎麦屋、だった。彼は少女で店を判断している。ともあれ、その店に行くことは端右衛門も賛成であった。中々に飯に合うおかずを出して、彼好みだ。


(混んでなければいいけれど……)


 と、思う。行列などで待つのは御免だった。時折、あの店は変わった料理を出して人が集まるときがある。

 暖簾をくぐると、声が掛けられた。


「おお、利悟ではないか。いいところに来たのう」

「あれ? 九郎。今日はこっちに居たんだ」

「ちょいと事件の捜査でな。まあ上がれ上がれ」


 言われて一番奥の座敷に利悟と端右衛門は座り、九郎も腰掛けた。

 六科は店の奥で食べるようだ。妻と子の様子もみたいのだろう。

 店内を端右衛門が見回すと真新しい紙に今日のお品書きが書かれていた。


「事件ってなんの──」

「ああ、実は──」


 座敷で話し出した利悟と九郎を放置して端右衛門はそれを確認する。

 

・蛸と里芋の煮物

・烏賊納豆

・蜆の佃煮

・たまごふわふわ


 どれも旨そうだ。端右衛門は空腹のあまり、めまいを感じた。


「その窃盗事件なら──」

「なに? 他にも被害が──」


 更に目が付いたのは、『そば膳』という文字だった。


「あの、このそば膳ってのは……」


 二人の話を遮って端右衛門が聞いた。微妙そうな顔で二人から見られる。


「お膳の上にお蕎麦とご飯とお漬物と、小鉢を一品載せたものよ」

「ではそれを……小鉢はええと、烏賊納豆で」


 注文を終えて気もそぞろに待つ。九郎と利悟も何か注文して再び事件について話しているようだが、端右衛門は空腹でそれどころではなかった。


「被害を受けた店の共通点は──」

「吉原などで豪遊する者への注意を──」


 彼のあまりの飢えっぷりを配慮したのだろうか、それほど待つこともなく膳が届けられた。

 湯気を立てている蕎麦の香りは食欲をそそり、山盛りの飯が頼もしい。

 ひとまず蕎麦を軽く啜る。


(うまい)


 いつものこの店は、飲み干したら熱を出して兵役を逃れられそうな味のつゆに頼りない麺が浸かっているのだが、今日は程よく纏まっている。つゆは濃い目だが、蕎麦によく絡んで味を引き立てている。 

 次に白飯が盛られた椀を手にする。ずしりとした米の重さが頼もしい。

 烏賊納豆は、刻み納豆に細切りの烏賊と紫蘇が混ぜられたものだ。それをひとつまみ、飯に載せて食う。

 納豆と烏賊の旨味が熱々の飯の上で爆発したようで、それでいて紫蘇の風味が生臭さを打ち消している。

 ばくばくと飯が一気に進み、気がつけば烏賊納豆を半分ほども残して飯を食べきってしまった。


「おかわりを……」

「了解マロー」


 有料だが、この魅力には耐えきれない。もっと慎重に食べなければならない。


「被害届は──」

「補償とか──」


 何やら同席の二人が話しているが、重要なことではないだろう。

 端右衛門は再び盛られてきた白飯に、豪華にたっぷり烏賊納豆をまぶして食べる。旨い。口の中のぬめりを、蕎麦で洗い流す。


(しまった、焦って一気に烏賊納豆を消費してしまった)


 今度は飯が余ったことに愕然としながら、端右衛門は店内の単品販売している小鉢に目をつける。


「すみません。蛸と里芋の煮しめを……」

「はーい」


 大丈夫だ。蛸と里芋ならば、飯のおかずとしては格が下がる。落ち着いて残った飯を消費できるはずだ。

 自分にそう言い聞かせて、端右衛門は食べ終わった小鉢の皿を取り替えて貰い煮しめを見た。

 鮮やかな桜色をした蛸と、白い里芋の煮しめは春の味である。

 ひとまず里芋を箸で摘んで口にすると、柔らかさが絶妙だ。噛みしめる歯に抵抗が無いが溶けているわけでもない。土の風味を感じるほっこりした味わいが口に広がった。

 次に蛸を噛むと、柔らかいだけでなく味が染み込んでいる。程よい弾力で僅かな抵抗を感じ、噛みしめると優しい旨味がじゅわりと出てきた。

 気がつけば端右衛門は煮しめの汁まで飲み干していた。


(あまりに旨かったからおかずをそれだけで食べてしまった)


「それより九郎が持ってきた酒でうちの嫁に襲われて、また子供が──」

「おめでたが多いのう──」


 徐々に世間話になっている二人を気にせずに、端右衛門は蜆の佃煮を注文する。

 佃煮といっても、家族に食べさせる蜆汁の出汁に使った蜆を引き上げて身を取り出し、茹で汁と蕎麦のかえし、新生姜を刻んだものを絡めて煮た簡単なものである。

 

(先程の煮しめの出汁もそうだが、蕎麦のつゆを転用しているのだな)


 小さな蜆を摘んで飯に載せて食べるとやはり旨い。ふと気になって、蕎麦に混ぜてみたら蕎麦つゆに僅かに蜆の風味がつき、味を変えて楽しめた。

 中に入っている針生姜がありがたい。それだけで飯が食えるほどだと思っていたら白米が尽きた。

 端右衛門はやむを得ず二度目のおかわりを敢行する。

 今度はバランスよく終わるだろうと油断したのだが、佃煮は元来から飯に合わせるものとして作られている。それに、漬物もまだ残っていた。もりもりと食べていたらまた飯が付きた。


「……」


 慣れたように歌麿も豊房も飯を盛ってやる。実のところ、端右衛門がこの店に来て飯とおかずのバランスを間違えておかわり地獄に陥っているのを見たのはこれが初めてではない。

 むしろ沢山食べるのでありがたい常連である。


(ええい、こうなったら)


 端右衛門は意を決して、たまごふわふわまで注文した。

 たまごふわふわは鍋で沸かした少量のそばつゆに、溶き卵を入れてかき混ぜてふわふわにしたものである。

 これを飯の上に載せたり、蕎麦のタネにしたりすると中々に旨い。

 六科に作らせると茶色くてしょっぱい炒り卵が出来上がるが、豊房の腕ならば半熟でふわっとした柔らかな口当たりのものができあがる。メシと合わせたら、味的には温泉卵をめんつゆで味付けして卵かけご飯にしたものと具のない親子丼の中間ぐらいの味だ。

 端右衛門はおかわりで来た飯の上にたまごふわふわを掛けて、更に残った蜆の佃煮も載せて丼として食べた。


「お主の同僚無言で食い過ぎでは──」

「こいつ飯のとき自分の世界入る──」


 すると、歌麿が片口の容器に入れた白く濁った熱湯を持ってきた。


「蕎麦湯マロ」

(そうそう、これこれ)


 と、この店で出す蕎麦湯を端右衛門は濃いつゆに混ぜて飲みやすくする。

 蕎麦湯というのはこの当時、江戸では殆ど行われていなかった。信州で生まれた習慣と言われているが、江戸でもやっているのはこの店ぐらいで、茹で汁を飲ませるというのは他の蕎麦屋にも広まっていなかった。

 単に六科の作るつゆがやたら濃いので、残されては処理が面倒だからと九郎が始めたサービスだが。

 そしてそばつゆまで飲み干して、端右衛門は腹を押さえながら一息ついた。


「ふう……」

「横になるなよ。今にも満腹で寝そうだぞ」


 九郎が云うが、端右衛門は遠い目をして風邪で寝込んでいる妻のことを思った。彼女も腹を空かせているのではないだろうか。


「帰るか……」

「いや帰るなよ。市中見回り、聞き込みの途中だろう。ああもう、飯も終わったなら次回るぞ。それじゃあ九郎、犯人の居所を掴んだら連絡をしてね」

「わかったわかった」


 そうして二人は代金を支払い、仕事へと戻っていくのであった。当然ながら、端右衛門はかなり昼飯にしては高くついたのであったが。

 

「まあ、あれで酒を飲まぬから身持ちも崩さんのだろうがのう……」


 大食漢の同心を見送りながら、しみじみとそう云うのであった。





 ********





 

「利悟からの情報に寄ると、似たような盗難事件の報告があがっているらしい」

「ふむ」


 九段下にある藍屋への道すがら、同心から得た情報を六科にも伝える。


「単独犯で夜中に侵入してきて、家を漁るか主人を刃物で脅して金を出させる。被害のあったところの共通点としては、蔵が立つほどの大店ではないことだな」

「というと」

「お主の店のような、身代は小さいが稼ぎがよいところが銭を金貨に変えて保管しているのを狙われているらしい。蔵に入れてる大店に比べて、守りが甘いからのう」

「なるほど。うちだけではないのか」


 となれば六科の関係者筋も怪しいところであった。

 それでも念のために九段下へ行き、藍屋の関係者を病気や怪我、それに六科の面通しで確認させるがやはり盗人は見つからない。

 途中で将翁に出会って、


「腕を怪我しているのならば、膏薬を使うかもしれませんぜ。薬屋を当たってみたらどうでしょうか」


 と言われて膏薬を取り扱っている薬屋の場所を教えられ、そこを回ったが手がかりは無かった。

 夕暮れ時になったので仕方なくむじな亭に戻り豊房に報告する。

 落胆されるかと思ったが、


「そう。まあ、一日で見つけるのは難しいわよね。でも諦めちゃ駄目よ。だって駄目だもの」

「そうだのう……明日も頑張るか」

「うむ」

「ところで、泥棒が入ったのに警戒をしないのも不用心よね。相手が、お父さんに顔を見られたからって口封じに来るかもしれないじゃない?」

「トンチキな嘘をつくやつがそんな度胸があるかのう?」

「とにかく用心よ。というわけで、二階も空いているんだからあなたは今晩そこに泊まったらどうかしら。お母さんも安心するわよ」

「お雪の安心のためなら、まあ……」


 盲目で小さい赤子も抱えている母親だ。昨晩泥棒が入った家では不安が多いだろう。

 しかしながら彼女も、六科と九郎に対しては信頼も強いので居るだけで怖さも紛れる。

 豊房は腕を組んで得意げに云う。


「というわけで明日もわたしが店を切り盛りしないといけないから、わたしも泊まる必要があるわよね。仕方ないもの」

「うむ?」

「だから二階に一緒に泊まることにするわ。お布団一つぐらい余ってたわよね。一つでいいから大丈夫なはずだわ」

「え」

「独占しちゃうのも、ええ、仕方ない話なの」


 そして夕刻の営業を終えると、豊房は九郎を引っ張って二階に上がっていくのであった。

 




 ********





 夜中になり眠る前に、二人はぽつぽつと話をしていた。


「こうしてお店で、あなたと二人で寝るのは久しぶりだわ」

「そうだったかのう」

「そうよ。だってあなた、帰ってきてすぐに屋敷に引っ越していったじゃない。それまではずっとわたし一人だったし」

「なら一緒に寝ていたのはもう五年程も昔か……」


 感慨深く呟く。


「あの頃は小さかったのになあ……」

「いつまでも小さいままじゃないもの。でも確かに、最初の頃はあなたとこうなるなんて思ってなかったわ」

「そうかえ?」

「お父さんが連れてきた身元不明の変な喋り方した、大きな刀を担いでいる子供よ? 怪しさ抜群だったの」

「そりゃそうだ……」


 九郎は苦笑して返した。

 異世界から江戸にやってきたばかりで、あてもなくたまたま出会った蕎麦屋の六科を説得して居候になったのだ。

 彼の騙されやすいというか信じ込みやすい性格は、今回のように詐欺に合うこともあるが、その性格があるからこそ怪しい九郎を受け入れてくれたのだろう。もし六科と出会っていなければ、まったく違う道を歩んでいたはずだ。


「最初の頃は、小さいフサ子を連れてあちこち見て回ったのう……」

「そうね。わたしも楽しかったわ」

「うむ……買い食いをしたりして……そういえばその金は……」


 ふと記憶を手繰っていて、九郎の頭に考えが思い浮かんだ。

 その関係者ならば、この事件の犯人になり得る。そういう相手がいたのだ。


「あなた……?」

「豊房。明日、解決できるかもしれんぞ」





 ********






「ごほっ、ごほっ」


 小塚原町にある荒れ果てた長屋は、殆ど無宿人が住んでいて管理もろくにしていないような場所だった。 

 大家も何も言わず、長屋の修繕もせず、ただ家賃さえ貰えば黙って住まわせる。公式には誰も住んでいないことになっている、そんな場所だ。

 その一室にて、咳をしている男が居た。

 咳音がうるさかったのか、隣に住む無頼が声も出さずに壁を殴る。男は舌打ちで返した。

 彼の名は杢助もくすけ。先日、六助と名乗って上手いこと金を持ったまま六科から逃げ切った盗人であった。

 だが打たれた腕が傷んでろくに眠れず、弱った体が信号を出すように咳が出た。

 忌々しそうに彼は咳が出るのを、酒を飲んで無理やり誤魔化す。

 この咳がすべての転落の元であったのだ。


 彼は盲人の検校が元締めをしている両替商の下で働いていた。そこは信頼も厚く、金貸しもしていて儲かっている店であった。

 杢助もずっとそこで働いていれば、大儲けは無理だが不自由なく暮らせると安心していた。

 だが、この咳が出始めたのだ。

 元締めで盲人の藤川仁介という男は耳が良くて、すぐ彼を労咳だと見抜いた──いや、聞き抜いた。

 すると彼は、杢助に生活費として金を渡して暇を出したのだ。

 両替商という大勢の客を扱う店で、労咳の使用人を使うわけにはいかない事情があったのだろう。渡した金も、なんと五十両もあり何かしら商売を始めることも可能なぐらいであった。

 

 しかし杢助は見捨てられたことを嘆き、死病である労咳に掛かっていることに絶望し、酒と博打であっという間にそれを無くしてしまったのだ。

 更にどうせ死ぬと思ってあちこちに借金をしてはまた博打に溶かし、とうとうトイチの地獄銭どころか、カラスがカーと鳴いたら一割増えるという一日一割の烏銭にまで手を付けて散財した。

 首になって半年足らずでその落ちっぷりに、仁介も見かねたのか彼の借金を全部肩代わりして払ってやるまでした。

 そうされると杢助も改心して、仁介に謝り倒して彼に肩代わりしてもらった借金は必ず返すと証文まで用意して……


 取った手段が、両替商に努めていた頃に知った小金持ちの店からの窃盗である。


 銭がジャラジャラと唸るほど入ってくる店は、保管するために金に変えに来ていたのだ。

 繁盛している店ならば溜め込んでいるものを盗んでも、どうせまた取り返せる。

 そう自分に言い聞かせて、杢助は盗みを働いていた。


「今度こそ、借金を返してオレぁ綺麗な身になるんだ……」


 杢助はむじな亭から盗んできた金を見ながらそう囁く。

 むじな亭もまた、盲人として繋がりのあるお雪の縁から仁介の店で両替をしていた。

 見つかったのは想定外で殴られた傷が痛むが、とにかく成功した。


「あとはこの金を元手に、博打で勝てばこっちのもんよ……」


 杢助が何度も何度も盗みを繰り返しているのは、借金の額が大きいからではない。

 盗んだ金を元手に博打で増やして返そうとしているのだ。

 その度にカモにされて素寒貧になるので、盗みの回数ばかり増えて恩人への借金はびた一文減っていない。

 

 と、その時に長屋の戸が叩かれた。

 ダダンダンダダン。危うく長屋が倒壊しそうな、乱暴な叩き方だ。

 

「るっせっっぇなぁ! 誰だ!」


 戸の木が軋むどころか砕ける音を立てて、無理矢理に引き開けられる。

 彼の長屋を訪ねてきたのは……つい先日逃げ仰せたばかりの、六科であった。

 むっつりとした厳しい顔で、部屋の中に入ってくる。


「ひっ!?」

「お前を処理する」


 ぼそりと低い声で、怒っているわけでも脅しているわけでもなく淡々と告げるその言葉が恐ろしかった。

 完全に動転して杢助は壁に背中があたるほど退きながら、近づいてくる六科に両手を翳して叫ぶ。


「ちっ違ぇ! オレは、三十年後から来た──」

「では三十年後の将軍の名は?」

「え? と、徳川……よしよし……?」

「敵の虚偽を確認」

「ひやああああ!?」


 六科の太い指で頭を掴まれて、杢助はみしみしと音が聞こえた。

 

「ふむ。盗んだ金にはまだ手を付けていないようだのう」

 

 六科に続いて入ってきた九郎が、床に置かれていた金を回収する。

 下手に町方同心に先に捕縛させたら、この金はどうなるかわかったものではない。よくて、被害届が出ている店で山分けだろう。先に確保しておかねばならなかった。


「どっどうしてここが……」

「うちの店で両替しているところならば、お雪も世話になっているのだから子供が生まれたことぐらい報告するだろうと思ってのう。案の定その後すぐに労咳で辞めた者がおって、更に仁介殿は気にかけていて住処まで調べておった。お主だ」

「助けてくれ! 俺は、あの人に借金を返さないと死んでも死にきれない!」


 杢助は虚偽ではない、本当の涙を流しながら叫び訴えた。

 隣に住んでいる無頼が騒動にキレて殴り込みに来たが、九郎が返り討ちにして外に転がす。


「で?」

「俺がちゃんと借金を返すまで待ってくれ! そうすれば、自首して、死罪になっても構わねえ! お願いだ! 次は上手くいくんだ! 悪いことばっかり起きているから、次ぐれえ良いことが起こるだろ! オレぁそれまで、真面目に正しく生きてきたんだ! 報いがあるのが因果ってもんだろう!?」

「だから何の罪もない町の者から金を盗んでいいと?」

「あいつらは幸せなんだから、死なない程度の不幸があっても平気だろう! 俺はもう死ぬしか無い不幸揃いなんだ! あとは死に金を作るだけの人生なんだ! だからあと一勝負だけ……」

「これは、仁介殿から預かってきたものだ」


 九郎は杢助に見えるように紙を広げた。

 それは下手くそな字で杢助が書いて渡した、彼自身の証文である。


「そして今、無くなった」


 杢助の目の前で、九郎は炎熱符を使って証文を跡形もなく焼き捨てた。

 仁介からそうするようにと頼まれていたのである。


「もうお主には死んでも死にきれぬ理由などない。後は罪だけだ。己れのところは、金が返ってきたので訴えは出さんが、それ以外のところからの訴えによる罪は……評定所で決められるのだな」


 そう九郎が告げた杢助は、呆けたように脱力していた……





 ********





 杢助を利悟に引き渡し、百両以上盗んでいた彼は死罪に決められて小塚原の晒し台に首を置かれた。

 被害のあった店に対して、両替商の藤川仁介が被害額を補填することでこの事件は終わりを告げる。

 また金を取り返したので被害は無かった六科の店も、迷惑料としてそれなりの額を渡されている。


「それは良いのだが……」

「ちょっと! なんでこんなにお店忙しいのよ!」

「お主の料理が一日で評判を生んだようだのう……」


 豊房が板場に立つ場合は、六科に比べて格段に料理の味がよく、おかずも何品かバリエーションが増えるので大層客が喜んでやってきたようだ。

 店の中だけでは対処できないので、持ち帰りや立ち食い可能な料理なども出して売っていた。

 手が回らないので屋敷からお八にサツ子も手伝いにやってきているが、可愛い娘が増えたことでより客が多くなり、更にチップとして渡される小銭も凄い量になっていた。看板娘には金を払って愛想を振りまいてもらうのである。


「あーもう、あたしは人妻だっての! 触ったら蹴るからな!」


 と鬱陶しそうに対応するお八と、サツ子の周りには薩摩人が集まって騒いでいる。


「薬丸先生ッ!! 折角来たとに、サツ子にくる銭が無かッッ!!」

「よかッ!! おいがきさンにくれちゃるッッ!! 一文貰ってありがたき幸せと云えッッッ!!」


 薬丸兼雄が投げつけた一文銭がさつまもんの額に当たって血が流れた。

 さつまもんはその銭を仰仰しく拾い上げて、


「一文頂き……ッッ真っ事ありがたきござるッッッ!!」

「そん忍耐こそ薩摩男子じゃッ!! ほらくれてやらんかッッ!!」

「サツ子ッッ!! おいの一文じゃッッッ!! 大事にしてくれんねッッッ!!」

「てげてげー」

「よかッッ!! サツ子よか対応じゃッッ!!」

「お主ら煩い上に暑苦しいわ! 早く食ったら外に出ろよ!」


 妙な寸劇まで始めるものだから、九郎に追い出される薩摩人たちであった。サツ子は慣れているように表情を変えず、適当に手を振って応えていた。

 わいわいと客と九郎、豊房たちで騒いでいる店の音を聞いてお雪は店の奥で蕎麦を打っている六科に微笑む。


「なにか、懐かしいですね」

「うむ」


 騒がしいが楽しい日常の幸せ。

 そんな今がある因果も、ほんの偶然六科が九郎と出会ったことから始まった。

 それから今に繋がる全ても、六科の性格や料理の腕があってのことだ。

 

「だから何も俺の料理の不評を嘆くことなど無い……正しい判断だ」



「お父さんがまともに料理作れないと、お店から離れられないじゃない! わたし絵師なんだからね! ちゃんと料理覚えなさい!」


 六科の自己肯定を板場で忙しそうにしている豊房から真っ向に否定され、六科は「むう」と呻きお雪はまた小さく笑った。


 それから猛特訓でどうにか六科の料理技術を向上させるまで、豊房たちは手伝う羽目になったという。


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