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43話『お菓子の受注販売始める回』




「覆面タイツの俺ちゃんがー朝から焼くのさパンケーキ♪ ひたすら焼くよパンケーキ♪ その数なんと372844枚ー♪」


 スフィが謎の歌を歌いながら、今日のおやつとして台所でパンケーキを作る準備をしていた。

 当然ながら別に彼女は覆面タイツをしているわけでも、372844枚も焼こうとしているわけではない。

 神楽坂の天狗屋敷に住む女性陣はスフィが作る洋菓子を大変気に入り、こうして彼女が菓子を作る日は楽しみに居間で待っている。

 一見冷静な阿部将翁すらもスフィが作った甘味を食べていると、尻尾をぶんぶんと振っている雰囲気がそれとなく察せられた。

 洋菓子について知識はあるものの実際に作ったことがない石燕もさすがにスフィの手慣れた調理には敵わず、隣で手伝いをする程度にとどまっている。

 

 そこで今日は牛乳も手に入ったのでパンケーキであった。

 牛乳と卵と砂糖と小麦粉があれば生地は出来上がる。小麦粉以外は中々江戸でも高級品揃いだが、幸い九郎があちこちに伝手を持っているので比較的容易に手に入る。

 石燕が材料を混ぜ合わせているスフィを見ながら尋ねる。


「このお菓子は確か、ふくらし粉を入れるのでは無かったかね? 江戸には無いけれど……」

「うみゅ。重曹とか入れると簡単に膨れるのじゃが、ない場合でも大丈夫じゃ。こうやってちょっぴり酢を入れてめっちゃかき混ぜて焼く前の生地に空気を入れまくるのじゃよ。ほれ、やってみぃ」


 材料を混ぜていた大鉢の前を石燕に譲るので、幼女は腕まくりをしてかき混ぜるようの茶筅を手にした。


「くぬーっ」


 ぐいぐいと混ぜるが幼女の腕力。十秒もしないうちに息が上がってしまった。


「はあ、はあ……交代!」

「まー体力が付けばそのうち様になるじゃろ」


 スフィが茶筅を受け取り、実に慣れた手つきで鉢の中の液体をかき混ぜると次第に生地が空気を取り込んでホイップクリームのようにふわふわとしだした。

 それを熱して一度冷ました鍋にたっぷりと入れて、炎熱符で弱火で熱する。竈を二つ使って二枚同時に焼き始めた。

 

「フライパンが欲しいのー。この国には無いのかえ?」

「西洋文化だね。欧州のあたりは羅馬ローマ帝国時代から存在していたようだが、この国には入ってこなかったらしい」

「構造は単純じゃから頼めば作って貰えんじゃろーか」

「九郎くんにスフィくんから頼めば喜んで職人を探しに行ってくれると思うよ」

「そうじゃな!」


 スフィはそうしようと思いながら、片面が焼けたパンケーキを箸で器用にひっくり返した。 

 

「ふんふーん♪ 覆面タイツの俺ちゃんはー♪ パンケーキ焼いた匂いで満足して食べずに放置ー♪」

「さっきから何の歌だね? 覆面タイツって」

「適当じゃ。なんとなーく、こうビビッと電波的に湧いてくる歌詞とリズムじゃな」

 

 歌いながら時間を測っていると、パンケーキがみるみる分厚く膨らんでくる。

 通常のホットケーキミックス粉では中に入っている膨張剤が熱に反応して二酸化炭素を生み出し、生地の間に気泡を作って膨らむのだが、これの場合は膨張剤を使っていない代わりに予め空気を大量に混ぜ込んでから焼いている。

 それと酢の作用で小麦粉のグルテン同士が固まるのを阻害し、柔らかくしっとりとした出来上がりになるのだ。

 

「でっかいパンケーキは幸せの証じゃのー」


 Lサイズピザほどのパンケーキを作って皿に載せ、二枚重ねることで非常に分厚いものが出来上がった。

 全員に一枚ずつ焼いていたら時間が掛かるので、大きいのを焼いて切り分けることにしたのだ。

 香ばしい匂いを出しているがその大きさに石燕は圧倒される。

 気にせずにスフィはその表面に白牛酪を塗りつける。牛乳に砂糖を加えて熱しながら練ったもので、水分が飛んで溶けた糖分が加わったことでねっとりとした甘いバターのような味わいがある。

 

「メープルシロップも欲しいのー……楓の木は無いのかえ?」

「ふむ……普通の楓なら山に行けばあるだろうが」

「うーみゅ。冬の間に樹液を採って煮詰めればいいんじゃがもう春じゃな……まあ取りに行って試してみるかの」


 べったりと白牛酪を塗りつけたら包丁で八等分に二枚重ねのパンケーキを切り分ける。

 そして上から切り口に染み込むように蜂蜜を垂らした。

 焼きたてのパンケーキの匂いに、熱された蜂蜜のちょっと発酵したような甘い匂いが漂い、石燕は涎が出る。


「よーし完成じゃ。皿に取り分けて持っていくのじゃよ」

「わーい」

「にょっほっほ。食うと成長する年頃じゃからな。沢山食べるのじゃよ。なんか最近ぽっちゃりしてきておる気がするが石燕」

「放っといてくれたまえ! どうせすぐに背が延びるから、お肉がついてても大丈夫なのだよ!」

 

 風呂場が広いのでよく二人で風呂に入っているため石燕の腹を見ているスフィは冷やかすようにそう言った。

 まあ4歳児相応の体な石燕はこの年頃だと痩せているより太っている方が健全ではある。成長期なのだ。

 サツ子もやってきて手伝い、居間に置いてある大きなちゃぶ台を囲んだ皆の前にパンケーキを出した。


「うわー、なんかもうこれ凄え旨そうだな」

「手で持って食べれば良いのかしら」

「箸で千切れるぐらいの柔らかさで作っておるのじゃよ」

 

 そう言って箸も配り、一同はパンケーキの一枚を箸でちぎるなり、摘んで直接口に運ぶなりして食した。

 目を見開いて一斉に驚きながらも、彼女らは甘くてふんわり、温かくて口の中で溶けるようなパンケーキの味わいに得も知れぬ快感を覚えて、たまらぬとばかりに口を押さえたり、目を瞑って味覚に集中したりと美味しさを表現していた。

 カステラぐらいは将翁や石燕は食べたことがあるが、それとはまた違う砂糖と油と糖蜜のコンビネーションが脳に染み渡り、幸せを感じさせた。そもそも当時出回っていたカステラの多くは砂糖をケチっているか殆ど入れていないことも多かったぐらいで、味噌を塗って食べたり味噌汁の実にしたりしていた話もあるぐらいなのである。それに比べれば一般家庭が見ると気絶しそうなぐらい豪華に砂糖をぶち込んでいるケーキはまさに別格の味わいなのである。


「なにかしらこれ……凄い美味しさだわ。泣けてきたの」

「いや、泣くなよ豊房」

「実家のお母さんと妹にも残して持っていこうかしら……」

「その分ぐらいスフィが作ってくれるから気にせず食え」


 むしゃむしゃと食べながら豊房がショックを受けて朦朧としていたので、九郎が突付いて正気に戻すほどだ。

 九郎によって甘味がもたらされるようになったが、多くは黒砂糖を飴のように舐めることが多かった。だからこうして洋菓子の作りたてを食べると衝撃を受けるのである。

 夏場に氷に甘いタレを掛けたのを食べていたことはあったが、人間の舌というものは低温になると甘さを感じ取りにくくなり、この味覚と嗅覚を貫くケーキからはガード不能の攻撃を食らった気分であった。


「甘いであります! おいしいであります! 萩ではとても味わえないであります」

「そうかえ?」

「ざまぁー! 萩なんて地の果てに帰った弟と右兵君に悔しがらせてやりたいでありますな!」

「弟大事にしてただろ!?」


 武士の身分から庶民の妾になるという傍から見れば色々と残念な夕鶴だが、心底幸せそうに実家の家族に優越感を抱いたようだ。

 まあ萩藩の、それも下級武士の家庭と比べればこの江戸での生活は極楽のようなものだったが。

 彼女は頬を押さえながら目を細めてパンケーキを頬張り、食卓を眺める。その目は獲物を狙うハンターのようだった。


「……ご主人様、二枚目を食べずに残しているでありますね」

「いや、やらんからな」

「そうよ。私にくれるのよね。一番年下だもの」

「いやいやここは妻のあたしにくれるもんだろ。なあ? 旦那様よ」

「え。……いやこれは残しておいて、長喜丸にでも持っていこうかと」


 孫のような存在である長喜丸に九郎は時折土産を持っていって喜ばせようとしていた。


「じゃから友達にくれる分ぐらい作ると言うとろーに」

 

 席を外していたスフィが台所から大皿を持って来てちゃぶ台の中央に置いた。

 大皿の上にはパンケーキより薄めの生地で、中に太めに千切りにした薩摩芋がたっぷり入っていた。


「ちょっと生地が余ったので作ったスイートポテトケーキじゃな。千切りにした芋を油を敷いた鍋で熱して、上からパンケーキ生地を掛けて繋いで焼いたものじゃ。半分ぐらいは芋じゃから経済的じゃの」


 それも切れ目が入っているので、早速焼きたての芋ケーキを女衆は自分の皿に取って食べ始めた。

 薄いのでカリッと焼きあがったパンケーキ生地に、ほっこりとした甘い芋が混じり何も掛けなくても非常に美味い。

 薩摩出身のサツ子も嬉しそうに頬を膨らませている。


「うまかな。がねん揚げたごつじゃど」

「がね?」

「鹿屋で唐芋を揚げたもんは、がねに似ちょっち誰か言い出して、皆がねがね言い出したんじゃ」

「ほう……」


 九郎は鹿屋で出している薩摩芋の天ぷらを思い出す。角材のような形の太い千切りにした薩摩芋を、粉でくっつけてかき揚げのように油で揚げる。細長い芋が幾つもくっついて歪な長方形になっているのは、確かに蟹に似ていなくもない。

 これならば、卵と砂糖を使う量も少なめで何なら牛乳を入れないで作れば安値で、かつ油も少なく焼き上げられて商品になるかもしれないと九郎は思う。要は天ぷらに付ける粉を水っぽくして砂糖を入れて平面に焼くだけだ。甘い天ぷらというのがまだ殆ど無いので売れるかもしれない。

 女達が決して手を休ませずに口に入れ続けているのを見れば、味にはまったく問題は無さそうだった。


「芋は牛乳に合うのじゃよー」


 スフィは手料理に喜ぶ孫達を見る穏やかな顔で、常温殺菌冷蔵保存している牛乳を湯呑みに注いで配る。

 油脂分が少なくてほっこりした芋の甘さを、油脂分が多くてまったりとしている牛乳がお互いに補完しあって完璧な味わいになる。

 完全にお菓子の虜であった。


「しかしこれはお見事で。ひょっとして菓子屋などをおやりになっていた経験が?」

「いやー寺で働いておったのじゃが、子供を集めて説教を聞かせるには菓子が一番じゃからの。ちゃんとお歌が歌えたらお菓子をやるぞみたいな。それで作っておったのじゃよ」

「ほほう。いやそれにしても大したもぷすっ」

「……ぷすっ?」」

「……き、聞かなかったことに……」


 将翁の腹のあたりから空気が抜けるような音が漏れたが、彼女は震えながら顔を赤くして口の前で人差し指を立てた。

 見て見ぬふりをする優しさが皆にはあった。


「っていうかこれだけ美味けりゃ充分売り物になるよな。お店とか出さねえの?」

「そんなにかのー? ふーむ……金儲けの足しになるんじゃったら考えんでもないのじゃが、どうかの、クロー」

「店か……伯太郎とか利悟の稚児趣味野郎共が通ってウザそうだのう」

「それは確かに」


 納得で数人が頷く。狐面の薬師は先程の失態を誤魔化すように咳払いをして、


「金を儲けるのなら、一般販売するより茶会の菓子として受注生産したら面倒が無くて良いですぜ」

「茶菓子か?」


 聞き返した九郎に石燕が続けて言う。


「茶会なんてのは見栄の張りどころだから、多少高くても購入してくれる。それに、店頭では一部の許可された店以外では白砂糖を使った菓子を売ってはいけないんだ」

「そうじゃったのか」

「高級菓子と大衆菓子の区別のためだね。ちなみに羊羹一本で二百文(約4000円)はするのだから、お高い菓子の値段は大したものだよ」

「結構なもんじゃのー……私のパンケーキなんぞ売れるんじゃろーか」

「そこはほら。宣伝次第だろう。九郎くんの得意分野だ」


 顔を向けると、芋ケーキも持って帰ろうとしているのか九郎はこっそり紙に包んでいたのだがバツが悪そうに頭を掻いた。

 

「売り込みと言ってもな。茶人なんて知り合いにおらんぞ」

「偉い武士でも良いのだけれど。こう、仕事が暇だけど金はあって茶でも飲んでそうな」

「……うーむ、偉い武士なあ。知り合いは偉くないのが多いからのう」


 影兵衛などの同心組は言わずもがな下級の武士である。面識があるというレベルでは、尾張藩の徳川宗春と合ったことはあるがそれに売り込みに行くわけにもいかないし、そもそも最近吉宗から隠居を申し付けられて表舞台から去った。

 

「まあ……多少は当たってみるか」

「金持ちの町人などはあたしが話して見ましょうかね。阿部将翁として、お偉方に関わるのはちょいと出来ませんが民間の方なら名乗っても大丈夫ですので」

「パンケーキをのー……そんなに美味かったか?」

「そりゃあもう。ほらお八殿など、卑しくも皿まで舐めている。しかも手を使わずに犬のように」

「よ、余計なお世話だぜ!?」

「でも名前がちょっと変よね。南蛮丸出しだわ。もっといい名前は無いかしら」


 豊房の言葉に、皆は暫く思案した。

 確かに売り込むにはパンケーキというのは呼びにくいのでキャッチーな名を付けた方が良いだろう。

 日本人慣れした響きかつ、見た目や適当に由来を捏造できそうな名前が良い。

 誰かが頷き、次々に発言した。


「大判焼き」

「今川焼き」

「お焼き」

「御座候」

「太鼓饅頭」

「あじまん」

「回転焼き」

「銅鑼右衛門」

「スネ夫」


「……………………」


 一同は無言になって、バラけた名前に対して牽制し合うのであった。



「いや待て誰だ今スネ夫って言ったやつ!? 9人目が居なかったか!?」




 とりあえず、その後も色々と案を出し合った結果、平和的にくじ引きで決められることになり。

 小麦粉に牛乳と卵、砂糖を入れてふっくらと焼き上げたお菓子の名称は、食べた時に感じる幸せの喜びを表した良い字面で名前を再現した、


慶喜(ケイキ)


 に、決定されるのであった。

 めでたさを表す[慶び]と、感情を示す[喜び]が合わさり非常にハッピーな感じの菓子になった。

 九郎は筆字で書かれたそれを見ながら、


(どっかで見たような字面の気が……)


 そう考えるのだが、遠い昔の知識のようで上手く思い出せなかったのである。




 これより百五十年ほど後に、将軍職を辞した徳川慶喜が静岡に隠居時に、わざわざ江戸からケイキ作りの菓子職人を呼び寄せて雇い作らせて親しんでいたという。

 幕末時のごたごたでは、公方様と同じ名前の菓子などけしからんなどと文句を付けてくる者もそんな暇は無かったか……

 或いはそう言ってきた相手が天狗に拉致されたかは、不明であるが。

 少なくとも最後の将軍は気に入っていたようである。





 ***********





 ともあれケイキを茶会で流行らして販路を作るために、九郎はひとまず知り合いと言える中で一番石高が大きい相手を尋ねることにした。

 実際に追加で作ったケイキを包んで本所四ツ目へやってきた。

 敷地は千五百坪以上あるだろうか。塀の代わりに長屋が立ち、大きな門を構えた立派な武家屋敷があるそこで九郎は立ち止まった。

 四千石もの高禄を貰っている立派な旗本の屋敷である。何度か来たことはあるが、気後れもする。火付盗賊改方の本部とほぼ同じぐらいの広さをしているのだ。


「いや、立派な旗本というのは……別にそうではないのだが」


 九郎が表門の方に近づき、門番に軽く挨拶をした。


「すまんのう、己れはここの、津軽政兕(つがるまさたけ)殿と釣り友達なのだがご在宅だろうか」

「ん? ああ……いつかお殿様が連れてきたことありますよね。ええ、どうぞ。お入りください」


 大雑把に門番が通す。

 ここは陸奥弘前藩分家黒石領の当主にして、江戸の旗本である津軽政兕の屋敷であった。

 九郎は結構釣りに出かけるのだが、新井白石こと天爵堂の紹介で知り合ったのが釣り好きの旗本・マサさんであった。ゆるい雰囲気で釣りばっかりしている昼行灯の旗本という雰囲気だったが、実のところこんな屋敷を構えるだけの高禄を食んでいる。

 何度か釣りに同行して、盛り上がって魚を持ってこの屋敷に連れてこられて酒を飲んだこともある。

 当主がぶらぶらと釣りに出歩いているだけあって、屋敷の雰囲気が他の武家に比べてやたら緩いのも特徴である。こうして、事前に連絡なしで釣り友達がやってきても門番は通してしまうのだ。

 九郎が知る限り友好的であり石高が高いのが津軽政兕なので、茶会について伝手でも無いかと聞きに来たのである。


(釣り好きで枯れてる感じだから、茶も結構好きそうなのだがな)


 そう思いながら玄関に入ると、一人の若い侍が奥の間からやってきて九郎を出迎えた。

 

「ああ、殿のお友達のヤクザの人ですか」

「誰がヤクザだ、誰が」


 その若い侍には見覚えがある。近習をしている上山平角という男だ。主に政兕の護衛をするために釣りにも付いていっているのだが本人が生真面目なのか一緒に釣りはせず、離れた場所でいつも見守っていた。

 九郎もたまに政兕と釣り場を共にしたり、海釣りで船に乗ったりするので顔見知りではある。船で行くときは丁度漕ぎ手になってくれる便利な護衛であった。


「今日はどのようなご用件で?」

「いや、たまにはマサさんと茶でも飲もうかと菓子を持ってきてな。おるか?」

「ええ……珍しく殿は屋敷におられるのですが……」


 さっと彼は顔を曇らせて、首を振った。


「実は今、殿は悩んでおいでで……」

「何をだ? 魚釣りのし過ぎでクビにでもなったか?」

「ええまあ役目を外されたのはそうなんですが、本人はこれで気兼ねなく釣りに集中できてありがたいとしか思っておらず……」

「武士とはいったい……」


 とんだ釣りバカ武士である。大体、普通は四千石の旗本が出歩くとなれば二十人から三十人の伴を連れていなければならないのが武士の規則である。一人で出歩いていい武士は最下級の者で、本来武士は一人歩き厳禁なはずなのだ。

 だと云うのに釣り人の格好をし竿を持ってひょいひょいと出かける政兕は、まるで[旗本退屈男]の早乙女(さおとめ)主水之助(もんどのすけ)である。剣術の達人ではなく、釣りの達人だが。


「実は殿は……最近、コイの悩みに苦しんでおられる」

「コイ!?」


 津軽政兕。もう六十代の老境にある。そんな彼が悩むには若々しい話で──


「魚の鯉か」

「うん。まあ。聞いた人全員、一発でそうわかるよね」

「だろうよ」


 魚の鯉だった。当然ながら、彼の知り合いは全員政兕が釣り著しく好き(キチ)だと知っているのですぐに思い至る。

 平角が云うには、王子の音無渓谷にある淵に巨大な野鯉が居て、人を食うとか呪うとか噂になり土地の者も恐れているらしい。

 その噂を聞きつけて魚が相手ならばという義侠心と、まだ見ぬ巨鯉を釣り上げたい思いで政兕は挑戦しているが、竿はまったく動かない。

 実際、政兕以外の釣り師もその淵へやってきたのだが尽く餌には掛からなかった。

 だがその巨鯉の姿は見たようで、どうして餌に掛からないのか悩んでいるところらしい。


「ふむ。とにかく話をしてみるか」


 九郎が政兕の居る寝室へ通されると、彼は文机を前に針やら糸やらを並べて吟味しているところであるようだった。


「糸が悪いわけじゃない……鯉は目が悪いから、口で餌を吸い込んで確かめるはず……針の鉄気が水に溶け出しているとか……じゃあ骨で針を……」

「おいマサさんや。入るぞ」

「うん? ああ、九郎さか。どんぞ」

 

 九郎が話しかけると気づいたようで、向き直って云う。


(どうも釣りに頭がいっぱいそうで、こちらの頼みを云うどころでは無さそうだな)


 そうは思いながらも、謎の巨鯉釣りの方にも興味が無いわけではない。


「大物を追っているようだのう」

「そっだな。鯉は結構釣ったことがあんだけども、今回はまんず、上手くいかね」

「ふーむ……ちなみにどんな釣り場で、狙っている鯉はどれぐらいの大きさなのだ?」


 政兕が説明するに、獲物が居るのは音無渓谷で[主の滝]と呼ばれる淵らしい。

 左右を崖に囲まれていて薄暗く、落ち葉などが常に浮かんでおり、淵の底は深く濁り見えにくい。 

 そこにはかつて、主と呼ばれる白蛇が住んでいて地元の人も時折見物に来る場所であったのだが、ある日その白蛇が巨鯉に食われている光景が目撃されたらしい。

 それからその淵に住む主は巨鯉に取って代わり、悪い噂が流れ始めたという。

 

 鯉の大きさは、政兕が自分をあざ笑うかのように水面近くに出てきたのを見て、


「軽く四尺はあった」

「四尺(約120cm)もか? それはデカイ……釣れたら魚拓でも取らんとな」

「魚拓とは?」


 九郎の発言に政兕が聞き返してくる。


「知らんのか? いや、まだこの時代無いのか。釣った魚の片面に墨を塗りつけてだな、紙に押し当てることで姿を写し取るのだ。魚は切って食えば無くなってしまうが、その写し身はずっと残るであろう。記念にもなる」

「ふむん。大物を釣った釣らないで真偽争う釣り人が居るが、それなら正しく記録に残る。広めて見ようか」


 と、江戸でも評判の釣り師である政兕が乗り気になった。

 魚拓の文化が広まるのは本来百年以上先になるのだが、釣り専門書まで出すような人物が広めたのでこの後にあっという間に江戸中で魚拓ブームが起こり、大きい魚の魚拓などは売り出されるほど人気になったりするのだが、それはまた別の話である。


「それで釣ろうと餌を垂らしているんだけども、掛からない。田螺たにし蚯蚓みみず、蛙などを試したが、の釣り針にはまったく掛からなんだ……」

「鯉は悪食で何でも食うと聞いたがのう……」

「私もそう思っているんだども……」


 或いは嗅覚でそれが用意された餌だということを判別しているのだろうか。その場合は、嗅覚よりもそれを理解する知能が鯉にしてはかなり高いのだろう。

 巨体だけでなく中々に厄介そうな鯉であった。

 

(ここで淵を沸騰させるとか、電撃を流すとか、凍らせて削り出すとか提案したら怒られそうだしのう)


 もうそこまで行くと釣りではない。おまけに環境破壊の度合いも強い。


「とりあえず甘いものでも食ってから考えたらどうだ? 頭が回るようになるぞ」


 九郎は持ってきた菓子折りを出しながら云う。

 ひとまず政兕も近習の平角に茶を頼んで、難しそうに考え続けていた。

 

「何を餌にすれば引きつけるのか……うーん……おんや? この菓子、美味い」

「だろう。江戸の茶会で流行するかもしれんものだぞ。[ケイキ]という」

「初めて私も食った味だけども、うん。口の中が甘くなってこりゃ美味い……」


 初めての味わいに政兕が驚いているのを見て、九郎は膝を叩いた。


「おお、そうだ。恐らく試しておらぬ、鯉も食ったことの無い餌があるぞ」

「ん?」





 *******




 薩摩芋をじっくりと蒸して柔らかくし、皮を剥いで身を潰す。

 それに小麦粉を混ぜて団子状にする。

 更にあれば蜂蜜を加えるとなお良いという。今回は、靂の家から少し分けて貰ってきた。


「これはねったぼ(・・・・)という餌でな。練った芋のことだな名前の通り」

「ほう。人が食っても旨そだな」

「そりゃあ甘くて旨いだろうな。当然ながら、鯉というやつは甘味なんぞ味わったことが無いはずだ。この団子の中に針を埋めるようにして試してみよう」


 鯉というものは一説によれば味覚と嗅覚に優れているという。

 何でも食う悪食のように思えるが、食べれるものと食べれないものは口の中で区別して食べれないものはすぐに吐き出す性質がある。また、水の中で発揮される嗅覚は非常に鋭く、人間の何百倍もあるという。

 そこに甘い薩摩芋と蜂蜜の匂いが水に投下されればすぐに気づくだろう。実際、現代でも薩摩芋を餌に鯉釣りは行われているのだが、この時代ではまさに江戸に薩摩芋が入ってきたばかり。誰も使っていない餌に惑わされることを狙っている。

 実際、薩摩芋は鯉の餌に効果的であり、様々なこだわりを持って薩摩芋を餌に使うので現代の鯉釣り業界では[イモ煮3年]と呼ばれるぐらい、理想的なイモ餌を作るのに修行している。

 針を完全に団子の中に埋め込んで隠すのも効果的で、ねったぼを突き崩すように口を付けて吸い込むと自然、中から出てきた針が口に入る仕掛けである。

 この練り餌を使った鯉釣りが行われるようになったのは大正時代からだと言われていて、江戸時代では政兕が試したものの他にエビやブドウムシなどを使うのが主流であった。

 九郎が与えた釣り餌はまったく新しいものなのである。


「よし、早速[主の淵]へ行くとするか」

「おう。夕まずめを狙うべし」


 そうして二人は仕掛けを付けた竿を担いで、大急ぎで王子の方まで出かけるのであった。

 後ろからため息を付いた平角が追いかけつつ、


「殿様の悩みが解消されればいいとしようか……」


 と諦めるのであった。





 *********




 九郎の考案したねったぼを餌にした吸い込み釣りは見事に効果を発揮した。

 

 太く頑丈に加工した糸と、長く靭やかな竹竿で政兕は主の鯉に挑み──


 巨鯉と一刻半(三時間)のファイトで粘り勝った政兕は、ひとまず地元民を安心させるために魚拓に取った。予め用意させておいた墨をべたべたと塗りつけ、長い紙で写し取る。近くに焚いた篝火で魚拓を乾かして出来上がりである。鯉の墨は精水符で洗い流した。

 それから手早く解体をする。血を抜いて内臓を取り払い、皮を剥ぐ。皮ごと煮込む料理も旨いのだが、持ち帰る間に生臭くなるので剥いでおくのが良いと政兕は教えた。


 辺りはすっかり暗くなっている。屋敷に戻ると政兕は娘に叱られながらも、獲物を鯉汁にして夕食のおかずにした。

 九郎も馳走になって酒も進み、お互いにいい気分になり打ち解けていた。

 協力して大きな相手と戦った後だ。楽しくもなるものである。


「あれ? ところで九郎さは何しに来たんだっけか」

「ああ……まあ今となっては別に構わんのだが、うちで茶菓子を作ってるからどこかの茶会で買って使ってくれる伝手でも無いかと思ってのう」

「それなら別に構わね。私は今、寄合つって役目が無い高禄旗本の暇人が集まってるみたいなところに所属してるから、そこに話を持っていけばいい。暇だから茶でもやりたい連中の集まりだ」


 寄合というのは基本的に、三千石以上の旗本で無役の者が所属させられるところである。隠居俸禄金を幕府から石高に応じた額が支給され、また何か緊急に役目が空いた場合は寄合から選出されることもある定年退職後のオブザーバーみたいなものであった。

 政兕からすれば年金を貰いながら仕事も無く釣りし放題なので楽な立場である。


「それに私も茶人に少しは知り合いが居るからね。早死した、最初の嫁の親父さんが茶好きで茶人の弟子にもなっててその縁で」

「ほう」

「晩年は『赤穂浪士は儂を殺そうとしておる!! この馬鹿野郎!!』とか何とかちょっと情緒不安定だったけんども……かわいそうなこって」

「ああ……例のあれか……」


 津軽政兕の最初の妻、阿久理は赤穂事件で有名な吉良上野介義央の娘である。

 そして吉良は茶道の千家三代目千宗旦の弟子であり、宗偏流を興した茶人・山田宗徧と知古の仲で襲撃を受けた日の昼間にも家に呼んでいたぐらいであった。

 高禄旗本は色んな所に親戚が居るものだが、その亡妻・阿久理の兄は米沢藩上杉家十五万石の藩主であり、姉は薩摩藩島津家六十九万石に嫁に行っていたりする。

 繋がりは薄いが、こうした高禄の家に伝手を持つとあちこちに縁が出来たりするのである。 


「とりあえずあの菓子を注文する時は神楽坂の屋敷に使いを出せばいいんだな?」

「おうよ。無理に勧めるわけじゃないが、頼んだぞマサさんや」

「なんの。あれだけ旨ければ皆喜ぶ」


 政兕はにへらっととてもお偉いさんには見えない、好々爺めいた朗らかな笑みを浮かべて応えた。





 こうして少量の受注生産であるが、高級菓子としてパンケーキあらためケイキが徐々に茶会にて噂になり、その旨さからもてなしや贅沢品としても注文が来るようになるのであったが……


「ええと、何々最初の注文が……『ねったぼ:一斤』……」

「クロー……釣り餌まで注文を取ってこんでも」

「己れじゃない」


 味をしめたのは菓子だけではないようであった。






 ********




 余談。


 ケイキより安く作れる、薩摩芋の細切りを使ったスイートポテトケーキは、芋の天ぷら亜種として競合しそうなので素直に鹿屋にレシピを売りつけることにした。

 ついでに名前も考えてくれと頼まれ、


「そうだのう。この菓子は平たく焼いて熱々のものを切り分けて売るから、何か紙に包んで持ち帰らせるのが良いだろう?」

「紙も用意せねばなりませんな」

「紙はこうぞを原料にする楮紙ちょしと云うのだから……楮紙に包む香ばしいもの。そして芋天はがね(・・)という」


 九郎は頷いて、



「お口の恋人、[がーね楮香ちょこ]」

「ゴラク的ですな!」



 だけど何か商標的に色々アレだしロッテに怒られそうなので、甘藷饅頭という無難な名前が協議の結果決められた。

 

芋の天ぷらに溶かしたチョコレート(或いは店で売ってるスライス生チョコシート)を漬けたメニュー「がーねチョコ」

普通においしいのでオススメです

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