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42話『火付盗賊改方とヌルヌル怪人の話』




 ──ここ半月ほどは纏まった雨が降らず、春らしい乾いた風が吹きさらしている天気の良い日和が続いていた。

 江戸の町人らはやれ花見だ何だと好天を喜ぶ者も居たが、役人らはこの時期に火事でも起きたら盛大に燃え広がるとピリピリした様子で江戸を見廻り、町火消しなどに火の用心を呼びかけて注意喚起させていた。

 そんな中で、まだ被害は出ていないものの事件が起きていた。

 

 大笑いが夜に響く。

 何が楽しいのか追いかける方は意味不明でありながらも、毎晩現れるその笑い声の主を捕らえるべく町奉行所、火付盗賊改方、各所の木戸番などは目を光らせている。

 その日も火付盗賊改方は夜廻の特別警戒任務を与えられて、笑う男を追っていたのだが……


「居たぞ! あっちだ!」

「拙者ァ通りを回り込む! そのまま真っ直ぐに追い詰めろ!」


 [火盗]の提灯を掲げて、一人の与力に二人の同心、八名の従者が夜の町で見つけた犯人を追いかけ始めた。

 伴の者は袖搦などの長物を持っている。既に戦闘を前提においた装備で夜廻していたようだ。遠くに聞こえる笑い声の元へまっすぐと向かう部隊と、一人の同心は横道にそれて信じがたい速さで駆け出して回り込むべく移動していく。

 近づくと下手人の姿が月光の下、露わに見え始めて、一同は顔を顰める。

 

「ワハハハハ! そうれ、そうれ!」


 そう叫んでいる下手人は──どうあがいても全裸なのであった。

 いや、全裸でありながら更に頭までつるりと剃り上げて、眉も含めて体毛らしいものが見当たらない。体つきはしっかり鍛えられていて筋肉がありありと見える。全裸なだけに。おまけに、体中に油を塗布しているようでテカテカとしていた。

 身につけているものと云えば首に細長いアレで下げた竹筒と、テカリを磨いて増すかの如き油が滴り落ちんばかりの手ぬぐいである。

 異常者だ。そして紛うこと無き変態だ。そうでなければ妖怪だ。

 それだけならば春先の陽気に頭をヤラれた変質者で住むかもしれないのだが、この乾燥しきったご時世で油まみれで町中を走り回り、おまけに油がべったりと染み込んだ手ぬぐいを振り回してあちこちの建物に油を付着させていくのだ。首に下げた竹筒にも追加の油がたっぷりと入っている。

 つまりこの異常者は、毎晩全裸で徘徊しつつ町に油を撒くという色んな意味での危険人物なのである。


「見つけたぞ! おのれ、神妙にお縄につけ!」


 筆頭与力の足島たるしま喜左衛門が男の顔も判別できる距離に近づき、そう指示を出した。

 取り巻きの従者らは長柄の捕縛道具を構えて、ごくりと緊張の面持ちで相手を見る。

 毛の抜けた熊のようなガッシリとした体格で全裸の巨漢。それだけで警戒心は最高潮に達しているのだが、しかも相手は既に何度も捕縛寸前から逃走した経緯を持っている。

 火盗改メと町奉行所が夜な夜な追いかけている危険人物を前に、油断は無い。

 ぶるんべちんと何か妙な音を立てて振り向いた男は、同心与力らの姿を見て言う。


「む? 官憲か。ハハハおさらばとはアヤツの口癖だが……ここで捕まるわけにはいかんのでな」


 周囲に目線をやりながら男は言う。その間に、手慣れた火盗改メの手先らは道の左右に別れて男を取り囲むように布陣した。 

 十人の人数で取り囲む。号令を出す与力は十手を、逮捕の為に同心の中でも最も捕縛に長けた筆頭同心・瀬尾彦宣は捕縄を構える。

 瀬尾は嶽内(たけうち)流の捕縄術を使う凄腕で、かつて一つの事件で五十五人もの大人数を召し捕ったことで名の知れた男であった。

 そんな歴戦の同心の目つきを見て、全裸の男はべちんべちんと音を立てながら全身を震わせて笑う。


「怖い怖い! 思わず脂汗が吹き出てくるわい! ワーハハハ!!」


 とくとくと竹筒から油を頭に掛けてそう言う。抵抗の無いつるりとした肌の表面を油が流れ、頭の先から足まで油膜が掛かる。

 

「やれ! 瀬尾!」

「承知!」


 与力の合図で瀬尾は捕縄を投げつける。両腕を巧みに使い、二種類の捕縄術を展開させた。

 一つは[網縄]。相手の真上から網状に編んだ縄を漁のように投げつけて捕らえる技だ。網目が無数にあるが、瀬尾の手元に繋がる一本を引っ張るだけで網目はぎゅっと絞られてそこに引っかかった相手の手や首を締め付ける。

 もう一つは[鞭縄]。投げ縄の一種で、重りを付けた縄を鞭のように打ち付けると同時に巻きつけて拘束する、打撃と捕縛を同時に行う技である。

 片腕ずつ違う縄を操り、上方向と横方向の二軸から相手を攻めた。本気の攻撃に、犯人を囲んでいる小者らも興奮する。


「で、出た! 滅多に使わない瀬尾さんの投げ縄に殺傷力を加えた鞭縄!」

「あれを食らって再起不能になった悪党を俺は五人は知ってるぜ!」

「……結構使ってない?」

「そうかも」


 ともあれ、真上から叩きつけられる網縄に対応すれば鞭縄が直撃し、鞭縄を受け止めれば網縄に捕らわれる。

 二択のどちらを選んでも捕まるという隙の無い二段構え。

 だが──

 男は嗤って、その両方に対応せずに受けるがままにされ。

 そして、ぬるりと。

 上から降ってくる縄と、打たれる一撃をすり抜けた。

 慌てて瀬尾は捕縄を引くのだが、男の表面を濡らす油で縄は滑り、引っかかることなく手元に戻ってしまう。


「ワハハハ!! 無駄だ! さらば!!」

 

 縄の攻撃を抜けきった男は、瀬尾らに背中を向けて逃げ出そうとする。

 慌てて退路を塞ごうと手先らが袖搦で道を塞ぐが、駆け出した男はその隙間をやはり油で滑るようにぬるっと抜けて、周囲に油滴を撒き散らしながら逃亡を図った。べちべちと音を立てて。


「いかん!」


 馬鹿のような格好をしているがその走りは異様に素早い。

 これまでもその速力で取り逃がすことが多かった。既に背中が遠くなりつつあり、追いかけても誰も追いつけないだろう。

 しかし、


「ハッハァ!!」


 抜き放った刀を片手で構えて、男の行先を塞ぐ同心が居た。

 切り裂き同心・中山影兵衛。先回りをして退路を塞ぐ役目にあったのだ。


「瀬尾のとっつぁんでも捕まえられねえとなりゃ、斬り殺すしかねえな! 残念ながら! ああ残念だ! できれば逃げねえで戦って殺されろ!」

「油ぎってきた……!」


 走りながら再び竹筒の油を全身に塗布し、男は影兵衛に向かって突っ込んでいく。

 良い覚悟なのか、策があるのか。

 

(どちらにせよぶった斬るだけだ……!)


 相手の速度を読み切り、間合いに入った瞬間に影兵衛は横薙ぎ一閃、刃で相手の胸を切り裂く軌道で振るう。 

 岩や鉄をも切断し、人に振るえば両断死体を作り上げる影兵衛の剣。例え全身鎧でも、分厚い筋肉と脂肪で身を守った大熊でも切り捨てるだろう。

 だがここに例外が発生した。

 刀刃から逃れるように瞬時に上体を逸らした男。しかしそこは熟達した影兵衛、避けようとした動きに合わせて、剣の軌道を途中で変えることも可能である。

 問題なく刃が肌に食い込み致命の刀傷を与えるはずが──ぬるりと、油で滑って刃が立たず、肌の表面を滑るようにして振り抜いてしまった。

 

「んなっ!?」


 そこらの油ではない奇妙な感触に影兵衛は慌てたものの、返す刀で横をすり抜けて逃げる男の背中から切りつけようと振るうが、今度も相手は前にかがむようにすると影兵衛の必殺剣はぬらぬらとした男の背中を滑って避けられた。

 刃にはべっとりと油が付着している。無理な体勢で剣を振り抜いて、更に躱された影兵衛は咄嗟に追いかけられない。

 

「ちい──! 九郎! 頼むぜ!」


 だが、更に念のための後詰を用意していた。

 男が駆けていく先に、青白い衣を纏った九郎が待ち構えているのだ。

 

「影兵衛の剣をもすり抜けるような者を、己れが取り押さえられるとは思えぬな……」


 と、真っ向から戦うことを諦めて九郎は術符を取り出す。

 何を使うべきか。油を身にまとっているならば炎熱符で燃やすのが変態の処理としては一番簡単だが、これだけ油まみれの者を燃やして暴れられでもされたら周囲の人家に燃え移り大惨事になりかねない。火は厳禁である。

 全裸に付け込んで氷結符で周辺の温度を奪い体力を減衰させる方法は、相手の足力で現実的ではない。周囲を冷やしてもあっという間に範囲外に出るだろうし、それをも逃さぬほど広範囲を冷やしたら被害が甚大だ。

 決めた。今こそアレの役に立つところを見せるべきだ。


「[電撃符]」


 変態が駈ける通りを網目のように無数のジグザグに乱れる光条が走った。

 予想しようにも九郎自身にすら大雑把に方向指定しかできぬ、大気をプラズマ化させて電流が突き進む。見てから避けることは不可能な──恐らく、常識的な範囲では不可能な──電光の速度で迫る攻撃。あたれば激痛と共に体の運動能力を奪い行動不能にさせるだろう。

 男の体に電撃が幾筋も当たる。

 勝ったな、と九郎が思ったが次の瞬間には男は電撃を物ともせずに、だが警戒して細い路地に飛び込んで道を変えて走り去っていく。男の体表を覆う特性の油[永照(えいてる)]が電気を通さなかったのだ。

 派手に油を撒き散らし笑いながら移動するのとは違い、本気の逃走だ。あっという間に幾つも路地を経由し、木戸を飛び越え、町の何処かへ消えていった。狭い路地を通られれば、夜ということもあり空から追跡することも不可能になる。

 九郎は手元の術符をつまんだまま半眼で睨む。


「毎度毎度、見事に効かん術符だのう……怒りすら覚える」


 余談だが、この場合は油が非常に絶縁性の高い物質であることを知らずに術符をチョイスした九郎が悪いのであったが。

 またしても評価を下げることになった電撃符なのであった。





 *********




「そいつぁ『素裸(すっぱだか)走りの熊五郎』ってやつだな。間違いねえ」


 影兵衛からの要請で変質者捕縛の任務に同行し、失敗した翌日。

 異様に捕まえ難い件の悪党について情報を集めてこいと九郎は言われたので、ひとまず千駄ヶ谷の忍び頭領、甚八丸のところへやってきた。

 筋肉モリモリで変態でやたら素早いのだから知り合いかと思ったら、物の見事に心当たりがあるようだった。

 甚八丸は多くの忍び、裏社会や武家と繋がりがあって情報収集能力に優れている。特に、噂になった忍び崩れなどは話が入ってきやすいのだろう。


「何だその、変質的な要素しか感じぬ男は」

「二つ名の通り、素っ裸で走り回るのが得意としている男でな。忍び崩れというかなんというか」

「全然忍んでおらぬが。見た目が」

「だからまともな忍びにはなれなかったんだよ」


 覆面に赤褌一丁の忍び頭は当然だとばかりにそう云った。

 まあ、彼の場合この格好は趣味のようなもので実際に気配を消して潜入などをさせたら、その巨体をどうやって見えなくさせているのかとばかりに見事隠れ忍ぶことができる技能を習得しているのだが。

 娘が六天流道場で修行をしている様子を確認する為に道場へ潜入しても、ひたすら隠れて見るだけに行動を留めれば武芸の達人である晃之介すら気づかないほどであった。


「とにかく、熊五郎は軟体術をやっていた忍びの一派でな」

「軟体術?」


 甚八丸の言う聞きなれない術に九郎は首を傾げる。


「体を柔らかくする術だ。こいつを使えば狭い隙間だろうが通り抜けられるし、無茶な体勢を長時間続けても平気になる。それでいてしなやかな筋肉と流れるような力の伝達で高い運動能力を得るという。元々は坑道何かを掘ってた連中から出てきた忍び一族だな」

「ほう……確かに何かやけにぬるぬるした動きだった気がするが……と言うか物理的に油でぬるぬるしておったが」

「秘伝の油だろう。俺様も詳しか知らねえが特殊な作り方の油で、弓矢や手裏剣も滑らすらしい」

「面倒極まりないのう……」


 敏捷が高くて高回避値持ちですぐに逃げてフィールドに悪い効果をばら撒いていく相手。

 まだ直接的な被害は出ていないが、役人らが頭を悩ませるのもわかる。


「それにしても熊五郎か……こりゃ火事に警戒だな」


 甚八丸が神妙な声で告げる。


「こいつは忍び崩れであちこちの盗賊一味に雇われるやつでな。趣味も兼ねて派手に目立ち、火事をちらつかせ役人の気を引いてその間に他の仲間が行動しやすくなる。実際、熊五郎が活動している間に火事になったこともあるから警戒が必要だぜ」

「本人は放火などせんのか?」

「油まみれだから火に巻かれるような真似はしねえだろ。盗賊団の仲間が火をつけたりはあるかもしれねえが……」


 ともあれ、早く逮捕せねば盗賊が行動を起こす危険性と火事の可能性がどんどん高まっていく。

 春風の吹き荒れるこの季節で火事にでもなったら目も当てられない。熊五郎が油を撒いているのも、役人達が見つけきれない分を含めるとかなり広範囲に渡っているはずでゾッとする。

 神楽坂の屋敷に住んでいる九郎も他人事ではなく、ここ数日は影兵衛を手伝っているのであった。

 

「ううむ、とにかく其奴を捕まえる術は無いか? 協力してくれるとありがたいのだが……」

「いや露骨に俺様が抜け忍狩りをすると色々と面倒なことになるからなあ……まあ、捕まえるコツを教えておこう」


 この太平のご時世に、抜け忍も忍びの末裔も活動中の密偵も区別が怪しいところであり、江戸に住む場合はその辺りをお互いに不干渉ということにして忍びの集まりを取り仕切っている甚八丸なので悪党と言えども忍びの関係者なら手が出しにくいのであった。

 それでも火事は困るので九郎に教える。


「実は奴さんの体をヌルヌルさせてる油よゥ、物や道具を滑らすことに特化しているが、人肌同士の場合はあまり滑らねえんだ」

「というと……」

「縄やら何やらで捕まえねえで、捕まえる方も真っ裸になってがっぷりと組み合えば捕まえられるって寸法だ」

「うげ」


 九郎があのテカテカとした全裸無毛のボディビルを思い出して心底嫌そうに呻いた。

 それに対抗すべくこちらも裸で組み合う? 身震いがする。まだその瞬間に殴って内臓を凍らせてやった方がマシな気がした。

 しかしまあ、現状では非常に危険な奇行をしている変態というだけであり、影兵衛ぐらい図々しくない限りは殺処分より捕縛が目的になっている。熊五郎側からも、逃げるだけで一切攻撃は仕掛けてきていないのだ。

 

「あー……他に何か、おびき寄せる方法とか無いか?」

「男狂いの衆道野郎で背丈が六尺ぐらいの大柄で引き締まった感じの男を無理やりぬるぬるするのが好きとか」

「それ以外で」


 ますます関わり合いたくなくなる情報だった。絶対自分が大人形態にならないと決める。


「そうだな……そう、蜂蜜にやばいぐらい目がない好物とか何とか」

「そんな情報がなんで回ってくるのだ」

「いや、京の公家屋敷かどこかに侵入して蜂蜜をペロペロ舐めている姿が何度も目撃されたとなりゃ、噂も立つだろ」

「完全に妖怪だな絵面が……」


 貴族の屋敷に出没する、全裸で無毛な筋肉ムキムキ油テカテカ蜂蜜ナメナメ怪人。

 もしそんなもんを見かけたら、被害を考える事なく燃やしてしまうかもしれないと九郎は戦慄する。


「つまり蜂蜜でおびき寄せて捕まえるのか……なんかもう、人間を相手にしている気がしなくなってきたな」

「気にするなぃ。考えても見ろ。熊五郎のあの姿で人間と胸を張って言えるか?」

「……妖怪だな」


 本当に関わり合いたくないのだが、江戸大火の危機という規模は大きな被害が待ち構えているのでどうしても捕まえねばならない。

 

「とりあえず蜂蜜を用意するか……いやしかし、これも江戸で売っていた覚えは無いのう……」

「まー高級品で公家や大名家が口にするようなものだしな。養蜂も殆ど西国で行われている。ここらで手に入れるには、野山で取ってくるしかねえ」


 日本で蜂蜜を高級な食品として扱ってきたのはこれより千年以上昔からだが、その多くは貴族や天皇の嗜好品として扱われていた。特に、牛乳を加工して作る醍醐に蜂蜜を掛けて食べるものは最高の贅沢とされたぐらいだ。

 甚八丸は親指を、靂の屋敷の方へ向けて云った。


「山ん中の蜂の巣探すならあの低収入野郎のところのお嬢ちゃんにでも頼むんだな。見つけるのが得意だから」




 *********




 靂の家に住む茨は、あまり喋らず感情も表に出さないので不思議な雰囲気を出しているが、案外に野生児めいたところがある。

 蛇を捕まえたり魚を捕まえたり雉を捕まえたり、そこらで適当に道具も使わずに食材を集めてくる。

 蜂の子なども好物だが一人で取ってくると靂に心配されて怒られるので、雀蜂の巣を見つけたら甚八丸に報告して取ってもらったりしていた。油で素揚げして塩を振ると、中はジューシーでとろっとしていて旨い。まあ茨は生でも食べるが。

 蜜蜂の巣もまた茨は見つけて、蜜蝋ごとばりばりと齧っているのを甚八丸は何度か目撃していた。


「というわけで茨に頼みに来たのだが……」


 九郎は道具箱を背負子に担いで持ってきている靂と、網籠を背負ってきているお遊を見て尋ねる。


「お主らも来るの?」

「茨が蜂に刺されたらどうするんですか。こいつ、素手でバリバリ蜂の巣を壊しに行くんですよ」

「ついでにタラの芽なんかも取れるといいなー」


 と、二人もついてくる様子だった。九郎は周囲に隠れている者が居ないか見回して、


「小唄の奴はどうした?」

「ああ……小唄なら、先生の道場を手伝いに行っていますよ。近所の農家の子供にも寺子屋の真似事みたいなことしていますし、子供の面倒見がいいんですよね」

「お節介故に日常が疎かになるタイプだのう」


 六天流の道場では新しい門徒でありまだ幼い少年二人と長喜丸を基礎稽古しているのでそれなりに忙しいらしい。

 これまでの門徒と言えば、お八とお七は嫁入りしてしまい、靂はサボって家で本でも読んでいるので結果一番新参の小唄があれこれ面倒を見ることになっているという。

 

「まあ、とにかくさっさと探してみよう。茨よ、よろしく頼むぞ」

「お゛」


 腕を上げて返事をする茨の素直さに九郎は微笑ましく思う。今度アイスとか持ってきてやろう。

 四人は千駄ヶ谷から東、本郷のあたりまで来て山に分け入る。千駄ヶ谷周辺はまだ江戸の郊外といったところだが、本郷までくれば江戸ではなく多摩郡に入る。

 春の芽吹きで草木が茂り始めているが、手入れされた里山のようで落ち葉や枯れ木はそう多くない。燃料が重要な大都市である江戸では、落ち葉なども大事な資源であり掃き集めて使っていた。

 それでもあちこちに日差しの中で色を鮮やかにしている花などが見受けられ、虫の気配もした。蜜蜂も既に活動をしていることだろう。

 

「セーリーウードーターラのメー♪」


 山を歩きながらお遊は蜜蜂よりも生えている山菜に注目しているようだ。あちこちで見つけてはちょいちょいと摘み、群生しているところでは皆で立ち止まって採取してお遊の籠の中に放り込んだ。

 靂が念のために籠に入れられる草を同定しながら云う。


「毒芹を間違えて取るなよお遊」

「わかってるよーだ。九郎にも分けてあげるね!」

「おお、それはありがたいのう。天ぷらも良いがぬたで酒のつまみも良いのう」


 ぷちぷちと野草をむしっていくお遊に九郎はにっこりと微笑んだ。

 春のうららかな天気に山菜摘みと蜂蜜集めとは優雅なことだ。

 その蜂蜜を餌に変態を捕まえるという後のことを考えなければ。

 すんすんと犬のように鼻を鳴らしながら先頭を進んでいた茨が、きょろきょろと辺りを見回し始めた。


「ふすー」


 と、息を吐いて指を向ける先に九郎が視線をやると蜜蜂が一匹飛んでいるのが見える。 

 

「よく気づくのう……」

「茨は音や匂いに敏感なんです」

「そーだなー。あたしが後ろ手に短刀とか抜いたらすぐ気づくもんねー」

「……なんで短刀を抜くんだ?」

 

 同居人の意味不明な行動に訝しむ靂。

 ふるふる、と茨は顔を振って話題を変えさせた。 

 茨は迷いなく蜜蜂が飛んでいく方に向けて足を進め、皆もそれについていく。

 数十メートルほど進んで立ち止まり、茨は今度は木のうろ(・・)に指を向けた。


「ん゛」

「あそこの中に巣があるのか?」

「お゛う」

「ふむ……では早速取らねばな……」


 九郎が着物を頭まで深く被り、茨も腕まくりをし始めたので慌てて靂がそれを止める。


「ちょっと! 二人共なんでいきなり突っ込もうとしているんですか! 蜂の巣ですよ! 刺されますって!」

「なあに蜜蜂はそこまで痛くない。パッと取って逃げれば大丈夫だ」

「だ」

「兄妹みたいに二人で頷かないでくださいよ……もう、ちゃんと僕がどうにかしますから見ててください」


 靂が道具箱を地面に下ろして、中から火縄と火打ち石を取り出す。

 枯れ葉と枝を集めて纏め、蚊取りという穴の空いた陶器製の器に入れて、火縄から火を移した。

 空気穴があるので中でよく燃えてもうもうと穴から煙が大量に吐き出される。

 

「これを蜂の巣の近くに仕掛けて……」


 と、姿勢を低くしながら巣がある穴に近づき、中に煙が入るようにその入口に置いた。

 蜂の巣は突然煙が流入してきたことに慌てて中と外の蜂が暴れだす。混乱した蜂が、巣に向かって飛び込んでいき煙に巻かれ気絶するか、大人しくなってふらふらと離れていく。

 蜜蜂という虫は非常に毒耐性が低く、ハエよりも弱い。そうすると特に殺虫成分の無い煙でもみるみる弱り、行動不能に陥るのである。

 靂は充分に弱ったのを確認して、うろに手を突っ込んだ。


「よし、巣を取り外そう……んっと、結構硬いな……」 

「靂ー! はい短刀」

「ああ、ありがとうお遊。なんで持ってきてるんだろう……」


 お遊から短刀を借りてその刃でバリバリと巣板を切りはずす。


「痛たたた、まだ元気な蜂が居た!」

「大丈夫?」

「ああ、ちょっと刺されたけど……よし取れた!」


 ぼこりとそれなりに大きな巣板を取り外し、担ぐようにして靂は逃げてきた。

 蜂から追撃を受けないようにやや遠くまで離れる。一度奪ってしまえば、それほどしつこくは襲ってこない。

 

「靂ー大丈夫なのかー?」

「ああ、うん。顔を刺されたみたいだけど……どうです?」


 九郎に聞いてきたのでじっと見ると、両頬のあたりに蚊の刺し痕のようなものと、針が付いていた。顔を突っ込んで巣板を外していたので刺されたのだろう。


「このままでは頬が赤く腫れるかもしれんのう」

「毛抜きを持ってきたので針を抜いてくれます?」

「うむ」


 道具箱から渡された毛抜きで、刺さったままになっている蜜蜂の針を引っこ抜く。

 雀蜂などに比べれば弱いが蜜蜂も毒がある。まあ、謎の毒耐性がある靂ならば大したことは無いだろうが、


「毒を絞り出した方がよいな。摘んでやろうか」

「ううう、九郎さんって微妙に僕を治療するとき手荒にするフシがありません?」

「男の子だから大丈夫だ」


 単に靂が過呼吸になったから気道を締めて呼吸を整えさせたり、疲労困憊で倒れたから強制復活させてまた走らせたりしただけである。

 九郎が指で靂の頬を摘んで毒を絞ってやろうかと手をのばすと、靂の襟をぐいと掴んでお遊が自分に引き寄せた。


「あたしが吸い出すー」

「え? ちょっお遊!?」

「ちゅううー……」


 靂の右頬にある刺し痕に、お遊が口を付けて吸い付いた。

 突然の幼馴染が行った治療行為に、靂は目をきょろきょろさせて顔を赤くした。


「いや、ちょっとお前そんな……」

「吸うのは良いが飲んだりするでないぞ。適当に吐き出せ」

「んー」

「九郎さんも止めてくださいよ!」

「いやぁー……」


 お遊がなんか鋭い目線をこっちに向けて、後ろ手に短刀持ってるし。

 それは言わなかったが九郎は曖昧に濁した。

 反対側の頬も刺されているのだが、そちらは茨が近づき、


「……」

「あいたたたた茨!? 絞ってくれるのは良いんだけど力強すぎない!?」


 ぎゅーっと頬を摘んでやっていた。

 微妙に顔が不機嫌に見えるが、九郎は素直に感心する。

 

(安易に左右からチューして修羅場にならんようにバランスを取っておるのは賢いぞ、茨よ……!)


 九郎は密かに茨を応援しつつ、この靂関係が惨劇へのシナリオを回避するのはどうすれば良いのやらと考えるのであった。

 

 とりあえず暫く毒を絞って流水で洗い、応急処置を終えた。

 巣板は蜜を溜めている部分と蜂の子が居る部分が別なので切り分ける。巣板を砕いて絞るので予め取り除いておかねば、蜂の子エキス入り蜂蜜が出来上がる。


「蜂の子は……ん? 茨が食うのか?」

「ん」


 というわけで茨に渡す。それからどうせならということで、もう一つぐらい蜜蜂の巣を探して見ることにした。

 間もなく茨が再び巣を発見する。今度は倒木に巣を作っているタイプのようだった。

 

「よし、靂の作戦を参考に今度は己れが行こう」

「大丈夫ですか?」

「子供にばかりやらせるのもなんだろう。見ておれ。見事に取ってきてやる」


 九郎がそう宣言して一人で巣に近づく。蜜蜂は攻撃性が低く、巣を破壊しない限りかなり近づいても余程運が悪くない限り刺しては来ない。

 ある程度近づいたら九郎は術符フォルダから二枚ほど符を用意した。


「[氷結符]、[起風符]」


 ──マイナス20度の冷風を巣に向けて吹き付けてやると、ぼとぼとと蜜蜂が凍って落ちていく。

 巣を構成している六角形のハニカム構造は保温性と頑丈性に優れているので念入りに冷風を叩き込む。ダンボールもハニカム構造なので保温頑丈のイメージができるだろうか。大気圏に突入しても平気なガンダムの装甲もハニカム構造だ。

 暫くして漏れなく蜜蜂を凍らせ終わった九郎が悠々と巣板を外して持ってきた。


「できたぞ」

「ズルくないですか!?」


 そうして、ひとまず持ち帰った巣板を砕いて絞り布で濾し取り、小さな壺に分けて蜂蜜を入れた。一つは靂達の分、一つは囮用、もう一つは九郎の家族分だ。

 濾布に残ったバラバラになった巣板の蜜蝋はそのまま、茨とお遊におやつとして上げるとめりめりと甘い蜂蜜がついた蝋を食べていた。


「小唄にも残してやるのだぞ」


 と、言い残して蜂蜜を持ってひとまず屋敷に帰った。





 ********





 屋敷の皆に蜂蜜を持ち帰ると大層喜ばれたが、今晩も夜廻だと告げるとがっかりされた。

 家族として夕飯を共にしたり、危ない現場に行くとなると不安なのだろう。多分。

 

「──というわけで、蜂蜜で件の変態を誘引せねばならんのだが……」

「そうは云うけどよ、蜂蜜ってそのままだとあんまり匂いしなくね?」

「ふむ。確かにそうだのう」


 壺の匂いを嗅いでみると、仄かに甘い匂いと花の香りがするが部屋中に広まるわけでもない。

 蜂蜜の粘性が高く揮発性が低いので匂いがあまり拡散しないのだ。

 将翁が提案をする。


「それでしたら多少薄めて、酢を混ぜると効果があるかと……」

「まるでコバエでも取るような手段だのう……」

「蜂蜜酒にすればどうじゃ? アルコールの揮発成分でよく匂いが飛ぶと思うぞ!」

「蜂蜜酒か。どうすれば良いのだ?」


 スフィは指を立てて微笑みながら云う。


「なあに簡単じゃ。蜂蜜に水を二倍か三倍ぐらい混ぜて放置しておけば、勝手に発酵が進んで酒になる! 超簡単な酒造りじゃな!」

「ほう、それは簡単だのう」


 ※現代日本で行わないでください。酒税法違反になります。

 九郎は徳利に蜂蜜を移し、わざとらしく、


「おっと。うっかり蜂蜜を入れっぱなしの徳利に水を入れてしまったぞーう。決して計画性は無くて偶然の産物だのうー」

「何をやっているのだね九郎くん……わざとらしい」

「いや、念のための配慮だ」 


 それから蜂蜜酒は発酵の為に冷暗所で暫く寝かせるのだが、


「ここは一つズルをしよう。変な効果が出るかもしれんので普段はやりたくないのだが……」

 

 九郎がブラスレイターゼンゼで強制的に発酵を促進してやる。調整が難しく、発酵菌が毒素を生み出すものに突然変異するかもしれないので正直あまりやりたくない。まあ、アルコールも毒の一種と云えなくもないが。

 これで作る蜂蜜酒は悪党を誘引する用なので程よく臭う具合で発酵を止めさせて菌を回収。

 黄金色に輝く見た目だけは立派な蜂蜜酒が出来上がった。味や効能はまったく保証できない。

 非常に綺麗な酒にスフィや豊房の目が九郎にねだるように向いた。


「じー」

「じー」

「ええい見るでない。蜂蜜酒が飲みたければその蜂蜜で作るか、また取ってきたときに作れ。その時は普通に時間を掛けてな」


 そうして九郎は蜂蜜酒を入れた徳利を片手に、再び火盗改メの影兵衛のところへ向かうのであった。





 **********




 素裸走りの熊五郎捕縛の件に関して、火付盗賊改方は焦っていた。 

 先日などは所属同心の中で捕縄術の一番の達人瀬尾と、剣術一番の達人影兵衛が接敵しながらも逃してしまうほどの相手だ。

 更に近頃では大火事の条件となる天候が続いていて、このような時に火でも出れば大変なことになる。

 明暦の大火では一説によれば十万人もの犠牲者が出たのだ。それを避けるためにも、危険人物を捕らえて背後に潜む盗賊団も捕らえなくてはならない。

 こうなれば形振りかまっていられないと、九郎が得てきた情報を全て承諾した。

 それから長官が指示を出して大規模な捕物を展開させることにした。この夜で熊五郎を捕まえるべく。


「……で、己れがこういう役目か……」


 九郎は夜の町にて、青年の姿で蜂蜜酒を手にしながら報告を待っていた。

 まずは火付盗賊改方に合法非合法に所属している小者密偵を動員させて熊五郎の居所を探る。全動員は連日使えない、乾坤一擲の作戦である。

 見つけ次第に報告が行って、熊五郎好みの大柄な九郎が蜂蜜酒を匂わせ引きつけ、捕物の要員が待ち構えている地点へ誘導・捕縛する作戦であった。

 結局影兵衛から背を伸ばせることをバラされてこの役目にさせられた。なお、背が伸びるのは[気]的な何かで大きく見えるという大豪院邪鬼めいた理由でそれなりに納得された。天狗という噂も信憑性を持って知られているからだろう。

 

 それから暫く待つと、密偵から九郎に連絡が来た。


「九郎殿、こちらへ」

「うむ」


 熊五郎が出没していたのは下谷御徒町のあたりだ。現代でも御徒町は変態がよく出る。

 御徒町は武士の屋敷が密集して建てられている町であり火事になった場合の延焼を防ぐ空き地が殆ど無かった。特に下谷広小路周辺は小さな屋敷が多く立ち並び、一度燃え広がれば一帯を焼き払ってしまうだろう。

 微妙におびき寄せる地点からも離れている。九郎は顔をしかめながら現場に向かった。

 

 油をビシャビシャと撒きながら、ビタンビタンと謎の音を建てつつ歩いているハゲの変態。

 それを目撃して心底嫌になる。あれをおびき寄せつつ捕まらないようにしないといけないのか。

 九郎は若い頃にホモから逃げ切ったら十万円とかそういうビデオ企画を持ちかけられたのを思い出していた。何故か幼馴染の女が企画屋に怒って断り、幼馴染から逃げ切ったら二十万円に変えられた。若い衆まで援軍につけて追いかけてくる幼馴染から迷いなく全力で逃げ切ったが。

 ともあれ九郎は蜂蜜酒を熱して匂いを拡散させる。 

 熊五郎は周囲を見回しながら虚ろに何か獣のような呻きをつぶやき始めた。


「むぐるう……むぐるう……」

 

 不穏な空気を感じつつ、九郎がわざとらしく聞こえるように。


「う、うわー何か、たまたま蜂蜜を持って夜道を歩いていたら裸の変態がおるー」 

「おおおおお!!」

「うわスッゲ追いかけてきた!?」

 

 全力ダッシュでこちらに向かってきたので九郎も慌てて逃げ出す。

 滑るようでありながら何度も加速を繰り返して巨体を思わせぬ素早い速度で迫ってくる熊五郎。もう妖怪と断定してもいいぐらいだった。身の丈六尺な九郎の姿を認めた彼は、普段ビタンビタンと鳴らして歩いているのが不思議と音を立てなくなっている。確認は一切したくなかったが。

 九郎とて常人の走る速さではない。強化された脚力に六山派の移動術で地面から弾かれるように高速移動をする。捕まればヌルヌルさせられるとなると九郎も本気だ。

 逃げるノンケを襲うのは最大の楽しみだとばかりに熊五郎は走りながらワキワキと手を動かしている。


「ワハハハハ!! この透破走りの熊五郎が追いつけぬとはやるな青年!!」

「話しかけんな燃やすぞボケ!」

「そう、私も燃えてきた……! 二人の炎に油を注いでヌルヌルしようではないか!」


 いっそ疫病でもぶち込んでやったほうが良いのではないかと思いつつも、移動速度が途轍もなく早いのでそう時間も掛からずに待ち伏せのポイントへ着きそうであった。

 下谷から東へ進み、吾妻橋を渡って本所へ。変態を引き連れながら爆走して業平橋で横川を越え、本法寺の裏手にある柳島村へとたどり着いた。

 その中で大きめの一軒家があり、九郎はそこの中へ飛び込む。続けて熊五郎も中へ入り、屋敷の中央で待ち構えている九郎ににじり寄ってきた。

 にたりと毛のない顔を笑みの形にして云う。

 

「上等の料理に蜂蜜を掛けたようなありがたい存在が出て来るなんてな……!」

「知っておるか。それを台無しというのだ」


 九郎は告げて大きく飛び上がる。同時に、屋敷中に捕縄が張り巡らされた。


「なっ!?」


 例えるならば足元から網が浮き出てきたとでも云うべきだろうか。人の膝丈ほどの高さに、ピンと張った網目状の縄がレイヤー模様のように屋敷中に展開されたのだ。

 予め仕掛けておいて見えないように配置し、一気に張る事のできる足払いの縄。

 建物の外から縄の先端を握った瀬尾彦宣の声が聞こえた。


「嶽内流捕縄術、極めの伍──[地縄(ちのなわ)]」

「しまっ!?」


 全身に潤滑油を塗布し、体の柔らかさで縄の捕縛が通用しない熊五郎だが。

 移動するには足を動かさねばならないのだ。それでこの絶妙な高さに仕掛けられた縄の数々は、匍匐移動でもしない限り必ず足を邪魔する。移動できないわけではないが、酷く行動が束縛されるものだった。

 怯んだ隙に九郎は窓を突き破って外に飛び出した。

 そのまま捕まえに来るかと警戒した熊五郎は突然の逃走に虚を突かれる。

 ──そして、建物が軋む音がした。


「生憎だがその家屋は既に──」


 屋敷に背中を向けて離れていく黒袴の同心が、建物に使われていた楔を手で弄びながら静かに云う。


「──解体済みだ」


 言葉と同時に、熊五郎が取り残された家屋が盛大に崩れ落ちた。崩れる前に瀬尾も退避している。

 同心二十四衆が一人、[家屋解体]の奥村政信。建物に存在するあらゆる隠し場所を探る家宅捜索の達人だが、家屋の構造を見抜く彼にかかれば僅かな仕掛けで建物を崩壊させることも容易い。

 呼び込んだ建物は予め火付盗賊改方が接収した廃屋であったのだ。

 [五十五人逮捕]の瀬尾を足止めに、[家屋解体]で打撃を与える。だがそれしきで沈む変態ではないのは、火付盗賊改方も考慮済みだ。


「よぉーし! お前ら囲めぇー!!」


 現場指揮を任されている足島与力が指示を出すと、彼本人も同じ格好だが……褌一丁になった同心与力に体格の良い手先の者達が、倒壊した家屋をぎっしりと囲み、その包囲の後ろから小者らが龕灯という光に指向性をもたせた提灯式サーチライトで熊五郎が埋まっている廃屋を照らしている。

 裸同士ならば油で滑らないという馬鹿のような話も真摯に受け止め、全員で裸になり捕まえる作戦に出たのだ。九郎はこっちに参加するか囮になって誘い込む方に参加するかの二択を迫られて後者を選ばざるを得なかった。

 武士が悪党を捕らえるのに、刀も十手も用いず相撲の如き手段を取るなど普通は無いのだが、それだけ皆は本気で捕まえる気なのであった。

 家屋の中に全員で潜んで捕らえないのは、どうしても夜間の場合灯りが必要になり乱戦になったら行灯を蹴倒して熊五郎の油に引火し一気に燃え広がる可能性があったので外で待ち構えていたのである。

 褌軍団の中には白竜の入れ墨を彫っている影兵衛の姿もあった。武器を形態できないのが残念そうだが、彼は蹴りだけで人を殺せる体術を使う。


 にゅるり(・・・・)


 そう形容するしかない雰囲気で、瓦礫の中から全裸の男が姿を現した。

 さすがの滑る油に軟体の能力も無敵ではなく、片目が潰れて体のあちこちに傷ができて油に血が混ざっている。足の甲には釘が貫通していた。

 徹底的に崩れるように予め影兵衛が柱や梁などに切れ目を入れまくっていた上に、九郎の提案で建材に釘を打ち込みまくって刺さるように細工していたのだ。

 普通の者なら死ぬであろうベトコンめいた罠だったが、それでも油断せずに火付盗賊改方の面々は逃さぬように肩を組んで男を睨む。


「[素裸走り]の熊五郎! 神妙にお縄を頂戴しろ!!」


 筆頭与力、足島が朗々と告げるが裸の男はわなわなと震えて、凶相で周囲を睥睨した。


「こうなっちゃ仕方ねえ──今の今まで余裕で逃げ切れるから、まったく覚悟はしていなかったが……」


 拳を固めて、腕をその場で振る。筋骨隆々な体格の男が見せる拳骨は金槌を束ねたような迫力があった。


「殺す覚悟を決めよう。今決めた。死にたい奴からかかって来い……!」


 迫力のあるその言葉に、息を呑む。熊五郎の振るう拳には確実に人間を殺す威力があると、現場慣れしている火付盗賊改方の面々は理解した。

 柔らかい関節と鍛え上げられつつもしなやかな筋肉から放たれる拳は鞭のように素早く、激烈に相手を打ち据える。構えた熊五郎に対して──


「うおおおおお!!」


 と、叫んで真っ先に突撃したのは小兵でありながらずんぐりとした筋肉の付いた同心であった。

 怯えた様子も、かと言ってやけっぱちになった様子も無い。

 挑むつもりで、そして勝つつもりで迷いなく待ち構える相手に向かっていく。

 彼は火付盗賊改方同心の中でも怯え知らずであり、誰よりも先陣を切るのが得意な男。同心二十四衆が一人[巨心]内村百助であった。

 

「応ッッ!!」


 向かってくる内村同心を迎え撃つ、熊五郎の打ち下ろすような拳。

 内村は単に無策に突っ込んで行ったわけではなかった。途中で板切れを拾い上げて、熊五郎の拳を斜めに受ける角度で板を盾にする。

 拳と板の間で滑りが発生した。だが完璧ではない。板は半ばで割れて、若干逸れたが打撃は内村の半身に命中した。


「まだだあああ!!」


 体勢を大きく崩しながら、自分を殴った拳に抱きついてぐいぐいと締め上げる。油はやはり肉肌同士ではそこまで滑らず、しっかりと掴むことが出来た。


「内村が行ったぞ! 続け!」

「火付盗賊改方の力を見せてやれ!!」


 大声を上げて次々に熊五郎に組み付いていく同心与力達。内村を腕に張り付かせたまま、蹴りなどで牽制するが多勢に無勢で次第に押し包まれる。

 それでも何とかにゅるにゅると人の中から逃げ出そうともがき、顔を肉壁の外に出した。


「頑張るが、お主の負けだよ。火盗改メの執念にな」


 顔を出したところには、九郎が同心らのコンビネーションに感心したように見ている九郎が居た。

 動きが止まっている今こそチャンスだ。

 九郎は蜂蜜酒の入った徳利を熊五郎の口に叩き込む。甘さとアルコールの味わいに、蜂蜜の香りと発酵した炭酸臭が一気に広がった。


「え……う、ぐ……」

「眠り薬もカクテルしておいた。走った後はよく効くであろう」


 その言葉を聞き取れたか定かではないが──

 素裸走りの熊五郎は、全身の力を抜いて気絶するのであった。



 


 ********




 捕縛されて油を落とされた熊五郎は様々な尋問を受けているようだが、ひとまず九郎の仕事はそれまでだった。

 江戸でも暫く振りの雨が降りしきり、ひとまず大火事の心配は無くなった。

 九郎も屋敷に戻り再び日常が戻る。


「しかし全裸で油をテカテカさせて町中を徘徊する変態ね。本当に妖怪みたいだわ」


 事件に解決したので概要を云うと豊房は呆れたようにそう告げた。


「まったくだ。あんなもん見たら心に傷を負ってしまいかねん」

「しかしのー。捕まえるのが大変じゃったら、私でも連れていけば一発で音波攻撃をして仕留めてやったのじゃが」

「スフィにあんな特殊な性癖を持った男を見せるわけにはいかん」

「……いやまあ心配してくれるのは良いが」


 微妙そうな顔をするスフィである。過保護を受けているが一応は九郎より年上だし、知識はあるのでそこまで問題はないとスフィも思っているのだったが。


「その素裸走りの熊五郎も例の、ヒモ切り仁左衛門の一味らしくてな。そこら辺の繋がりを今調べているらしい」

「ほー。でもよ、一味って割には結構別々に活動してる奴多いんだな。前は助っ人だか用心棒だかで別の盗賊団に入ってた奴が居たっけ」

「江戸での盗み先の情報を得る為に地元の盗賊団と接触しているとかだろう」

「ヒモ切り仁左衛門……その尻尾は出してもなかなか正体を現さないね」


 町奉行所でも火付盗賊改方でも、殆ど手がかりが掴めていないのだから熊五郎の尋問は重要なものとなるだろう。

 

「まあそれと、やはり脱いでがっぷりと熊五郎に抱きつき捕まえる方に回らんで良かった。やつの体に塗りたくっていたのはどうも特殊な油らしくてな、洗っても洗ってもヌルヌルして落ちないと同心らは嘆いておった」

「酷く気分が悪そうでありますな! しかし九郎君!」

「うん?」


 夕鶴がごそごそと竹筒を取り出して見せてきた。

 その中に入っている液体を彼女は自分の手のひらに垂らして見せる。透明度の高い、薄い糊のような液体だった。


「なんだそれは?」

「ふりかけの原料である若布の茹で汁を、将翁さんの指導で色々加えて作った[ぬめり薬]であります! これを使えば安全でヌルヌル楽しめるでありますよ!」

「[天狗散]という名であたしが販売でもして家計の足しにしようかと思いまして、ね」


 九郎は何とも云えずに畳に突っ伏した。全力で変なものなんぞ作るなと叱ってやろうかと思ったが、販売する品ということならばあまり強くも言えない。

 実際に江戸時代では黄蜀葵トロロアオイや海藻、卵白などを使った潤滑剤が販売されていた。

 

「そ、そうだのう……ええと、肌の保湿とか股擦れなんかにいいかもしれんのう……その薬」

「あっクローが逃避して薬と言い張った」




 

 余談だが、こうして売り出した[天狗散]。

 九郎の強い希望により、せめて肌荒れや火傷などに効果がある薬として売り出したのだが、これが大層高く売れることになった。

 原料も夕鶴の本職がてらに取れるし、将翁も一応肌に良さげな薬草を混ぜているから嘘ではない。薬草のお陰で海藻臭さも取れて、目や口に入っても無害である。

 [天狗散]を買った客達が果たして九郎の希望通りの使い方をしたかは──九郎も聞かなかったのであったが。




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