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41話『牛乳を使った話』




 スフィは九郎と付き合いが長い。

 これだけ長ければ熟年夫婦同然というか、もはやそれ以上にお互いの距離が近い。

 まあその割にスフィの想いに対してだけは九郎がまるでさっぱり気づきもしないのは、魔女の呪いもあるのだがあまりにも距離が近づきすぎて見えなくなった的な理由もある。

 それは扠置き。

 故郷から遠く離れた江戸にやってきたスフィに対して、九郎はそわそわと彼女の居心地を心配していた。

 大気成分は大丈夫かとか根本的な問題から、ウォシュレットをどうにかして作らなくても平気かという贅沢な悩みまで。

 スフィは傭兵や冒険者をやっていただけあり、野外でテント生活でもそれなりに順応するし文化の違う国に行っても合わせるぐらいの柔軟性はあるので実際のところ問題は少ないのである。精々、「ここのおなごパンツ履かないのかえ!?」という驚きぐらいであった。

 しかしながら、彼女は九郎の構いたがりな性分に多少甘えることにしていた。我慢できることは幾らでもあるが、我慢せずにちょっとの協力で出来るようなことをこなしていくことが、二人の絆を確かめ合うように思えたからだ。

 

 というわけで、その日はスフィの願いから九郎も行動することにした。


 

「クロー。アイスクリームが食べたいから作るのじゃよー!」





 *******




 

 その日の朝にされたスフィの提案に、九郎はふむ、と頷いた。 

 日中は春らしい暖かさを見せるようになった近頃だが、早朝や晩は冷え込んでいる。あまりに寒い場合は炎熱符を暖房代わりにするが、火鉢や炬燵で温まるのも季節を感じて良いのでそちらが多い。

 

「炬燵でアイスは最高なのじゃよー。暖かくなると出来んことじゃし」

「なるほどのう」


 江戸時代の炬燵というと火鉢の周りを木組みで囲い、それを布団で覆ったものである。

 屋敷にちゃぶ台を作らせたように、大人数用の炬燵を一時期九郎が用意したこともあったのだが炬燵の中で狐面の女がけしからぬことをしようとしたので撤去された。

 なので一人用炬燵は基本的に小さく、二人が対面に入ると顔を突き合わせるぐらいだ。ただしお互いに小さいならばその限りではなく、スフィと向き合って火鉢を抱くように幼女石燕が炬燵に入っていた。

 限定的な未来知識のある石燕はスフィの提案に、首を傾げる。


「[あいすくりぃむ]というと氷菓のことかね。あれは冷たいのだから、夏に食べるのでは?」

「そこを敢えて冬に食べるのが通というものじゃよ。夏よりも溶けにくくて長持ちするからゆっくり食べられるしのー」


 もこもこと綿の入った半纏を来て炬燵を抱いているエルフは、暖かそうに丸まりながら続けて云った。


「見たところ江戸ではアイスは売っておらぬからな。私が作るので材料をあちゅめに行こうぞ。なあに、クローの術符があれば冷やしたりするのは楽ちんじゃ」

「確かにのう。かき氷ぐらいは作った覚えがあるが、アイスはやったことがない。どんな材料が必要なのだ?」

「大したものではない。お砂糖と、卵と、牛乳があれば簡単なミルクアイスが作れるのじゃよ」


 スフィが挙げた材料で、卵と砂糖は屋敷に幾つか買い置きがあった。

 甚八丸の鶏舎から取れた烏骨鶏の卵を何日かに一度代金引換で届けて貰っているし、鹿屋から祝儀としてたっぷり砂糖も貰った。両方共江戸ではそれなりに値の張る食材だが、伝手があるので楽に手に入る。

 問題は牛乳であった。


「牛乳か……」

「あまり江戸で見たことが無いのじゃが」

「まあ、売っては居ないだろうね。牛乳を飲む文化が無いから」

「なにゅ!? う、牛が居ないとか?」


 石燕の言葉に信じられないとばかりに聞くと、九郎が答えた


「いや、牛は居るのだが農業用とかでな。肉用の牛もおらんぐらいだ」

「細かく云えば牛同士を戦わせる角突きに使う牛も一部の地方には居るみたいだがね」

「ううむ、肉も出回っておらんかったな……とすると、牛乳は無理かのー。あれだけ美味しいのに。栄養も豊富なのじゃぞ」


 スフィが残念そうにしていると、石燕がもぞもぞと動きながら解説を始めた。


「元々は一部の貴族は牛乳や加工乳を食していたのだがね。我が国における牛乳の文化は仏教の伝来と共に伝わったのだ」

「仏教というとこの国の宗教じゃな。経を唱えるとか善行を詰むとかそんな宗教ポイントを稼ぐと死後に楽になるとか来世で幸せになるとかいう」

「本来は違うのだがまあその大本の、覚者と呼ばれる僧が修行の果てに牛乳、或いは乳粥を口にして悟りを得たとも言われているので重要な飲み物なのだ」

「なら仏僧は毎日牛乳飲んでいてもおかしくない気がするがのう」


 言いながら九郎は、寺の食事を思い浮かべる。地味な飯と汁に野菜類といったものだろうか。毎朝坊さんが、牛乳をパックで一気飲みしている図はあまり想像できなかった。

 石燕は話を続けた。


「仏教が日本に伝わった際に持て囃した者の多くは貴族だったのだね。彼らは自前の牛車を持っていたぐらいだから牛の乳を調達することも容易かった。そこで仏典の『涅槃経』にあるように、『牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐をだす』といった加工をして味わっていた。我が国の牛乳文化だね」

「それがなんで今は無いのじゃ?」

「次第に貴族は衰退して武士の時代になって行ったからだよ。武士の殆どには牛乳を飲む習慣は無かった。武士に権利を奪われていった貴族達は優雅さを取り繕うこともできずに、牛乳を楽しむ余裕さえなくなって行きやがて牛乳文化自体がほぼ消滅してしまった」

「仏教側で牛を用意して牛乳を得るとかは無かったのか?」

「まず牛の数が少なくて寺で飼っているところなど殆ど無かったからね。少数の貴族や僧侶は口にしていたかもしれないが……そもそもお釈迦様の住んでいた天竺とは牛の数が段違いに少ないのだから、一度牛乳を飲む文化が廃れたら無理して用意しなくても良いかと云う風になってしまうのだよ」


 確かに牛を飼っている寺というのはあまり聞いた覚えがないと九郎は思案する。と言うより、動物全般飼っているイメージがわかない。奈良に鹿が住み着いているぐらいしか思い浮かばないが、そもそもあの鹿は家畜ではなく奈良県民であった気がする。

 立て板に水を流すように続ける石燕の解説にスフィが行ったことの無い国に思いを馳せて聞いた。


「ほほー……テンジクとは牛の国かの」

「牛の国だね。そのあたりで信仰されてきた仏教、拝火教、ヒンドゥー教でそれぞれ牛は神聖とされている。まあ、仏教の二大守護神である帝釈天は拝火教の方に登場すると牛を食う悪魔なのだけれど」

「二大守護神がそれでいいのか……」

「ちなみに二大というにはもう一柱居るのかえ? そっちは?」

「もう片方は梵天様だね。こっちはアムリタを飲みすぎて口から牛を吐き出したことがある」

「食ったり吐いたり忙しい守護神じゃなー……」


 片方が吐いたのを片方が食っている様子を想像して何ともおかしな気分になった。

 拝火ゾロアスター教では特に牛を大事にしており、牛を食うことが最大の悪行とされた。トップの悪神アンラマンユがわざわざ人間界に降り料理人に化けて牛肉料理を振る舞い人を堕落させていたぐらいである。 


「一方で日本の場合は穢れの概念が他宗教に影響を及ぼすほど根強くあるからね。牛の肉は腐りやすいとされていて、これを殺すことで穢を牛に集中させて他を清めるという儀式に使われることもあった。それに仏僧も武士の時代になれば、貴族が出家するのではなく武士が出家するようになったからね。結局のところ、牛乳を飲む文化は寺からも衰退していった」

「ふむ……」

「ついでに云えば隣の唐国でも牛乳を飲む文化が殆ど存在しなくてね。唐国に影響を受けていた我が国で流行らなかった理由の一つかもしれない」


 この時代の中国は満州族である清が統一しているので、北方での羊や馬の乳文化が多少入っている可能性はあるが漢人の数が圧倒的に多いので相変わらず飲まない文化が主流だろう。 

 21世紀においても中国人は牛乳摂取量が一人あたり平均一日1.5グラムと先進国の中ではかなり低い数値である。

 しかしながら、様々な理由で牛乳が無いと聞かされてがっかりしたスフィは呻いた。


「牛乳が無いのかー……これが無いとミルクアイス系はのー……」


 そんな彼女に九郎が安心させるように云う。


「大丈夫だスフィよ。将翁に頼めばなんとか用意できる」


 そう告げるとスフィが微妙そうな顔をした。そして何やらわきわきと揉むような仕草を見せて、


「みゅ……いやな、クロー。さすがにあやつの乳とかでアイスを作るのはちょっとのー……」

「違うのだが!? なんで発想がぶっ飛んでおるのだ!」


 慌てて否定する九郎。咳払いして、石燕が話を進める。


「実は昨今、徳川吉宗公が乳牛を輸入してそれから絞った乳を加工して滋養強壮などの薬を作らせているのだよ。幕府にも顔の聞く本草学者である阿部将翁ならばその薬、白牛酪の素である牛乳も伝手で手に入れることができる」

「ほー! やるのうあのフォックス!」

「フォックスて」

「よし、それなら早速頼みに行くのじゃよ」


 そういう話になったので、三人は将翁の部屋に向かうのであった。

 襖を開けると、なんか将翁が変なポーズで固まっていた。正座をしたまま前のめりになりつつ背筋を伸ばしているというか。


「……何をやっておるのだ?」

「ああ、いえ。ちょいと腰が痛くて……柔軟をいたたたたた」

「年ではないのかね? ん?」


 伸ばしている背筋を石燕が意地悪そうな表情で足裏でぐいぐいと踏むと、普通に呻いた。

 幼女に踏まれて苦しむ熟女。その構図に、将翁がぽっと頬を染める。

 

「……これはこれで興奮するというか」

「利悟のようなことを云うな。それより将翁──」


 と、彼女に菓子作りのため牛乳が必要な旨を説明すると快諾し、書状をしたためてくれた。


「あたしも一族からは離れましたが、[阿部将翁]という存在が居る時代では名前を使っても構わないらしいのでね」

「居る時代というと……?」

「世代代わりで数十年から百年ほど経過すると、また別の阿部なにがしと名乗って活動をするんですよ、あの一族は……と、はいどうぞ」


 薬用に使うので一升買い受けることを書いた文を九郎に渡す。

 そして彼女は己の腰やら肩やらを軽く拳で叩いて、


「あたしが行けば楽なんですがね、どうも体がしんどいもので」

「あー……うむ。楽にしておけ」


 九郎が目線を泳がせながら適当にそう云った。


「小石川の薬草園で確か一頭連れてきていたはずですぜ。そちらに向かわれては如何かと」


 という将翁の勧めにより、九郎はスフィと石燕を連れて小石川へ向かうことにしたのである。


「乳搾り体験とか出来ぬかのー。しぼりたて牛乳をキュッと冷やしたら旨いのじゃよー?」

「ふむ。己れがいれば低温殺菌ならぬ常温殺菌も可能だのう……正確には菌を殺すのではなく抜き取るのだが」

「それよりも牛乳を飲んだら胸が大きく育つのではないかね!?」

「にょほほ、見よ! この150年牛乳をたっぷり飲んで育った胸を!」

「ごめん」


 などと話をしながら出かける準備を軽く済ませて屋敷を出た。

 だが三人で屋敷の敷居を跨いだ瞬間に、切羽詰まったような声で呼び止められた。


「待つんだ!!」


 そこには真剣な顔をして同心・菅山利悟が手を制するように向けて、ごくりと唾を飲み込んで九郎に尋ねる。


「少女と幼女を連れて乳を絞るとか絞らないとか如何わしい話が聞こえた気がしたんだけど────」


 問答無用で埋めてやった。

 

 

 

 

 ********





「おおー爽快じゃのー」

「天気に恵まれて良かったね……ふう。落ちたら絶対受け止めてくれたまえよ?」


 九郎はスフィを両手で抱えて、背中に石燕をしがみつかせて江戸湾上空を飛んでいた。

 石燕の云う通りに天気の良い日だった。風も少なく、空から眺める眼下の海では岸沿いに忙しそうに船が行き来している。江戸の近海は浅瀬になっているので大型の廻り船などは品川の沖で小型の船に荷物を積み降ろしてちょこまかと海を進んでいた。

 上から見て船で作業する人間の姿が豆粒にしか見えない程度の高度である。もし海上から発見されても、野生の天狗だと思われて九郎とバレることはない。

 

 一度小石川の薬草園へ向かった三人であったが、丁度そこで飼育していた牛は繁殖の為に牧場に帰していたのである。

 場所は房総半島の峯岡牧。ここは元々房総半島を領地にしていた里見氏が馬を育てていた山地に作られた牧場であり、現在は幕府の直轄地として引き続き馬を放牧している。

 そこにインド産の白牛を輸入して酪農を始めさせたのが徳川吉宗であった。九郎達はとりあえず牧場に向かおうと、空を飛んで移動することにしたのだ。

 小柄な二人ならば持ったまま飛ぶことに支障は無いし、空を飛んで一直線に向かえば一時間も掛からない。

 むしろ好天の下で行われる空の旅を楽しむように進んでいった。


「うーむ、不思議なことに体が小さいと前より怖くない……」


 背中にしがみついている石燕が、恐る恐る江戸湾の海岸線を眺めながらそう云った。

 彼女は以前に妙齢の体をしていた頃、九郎にしがみついて飛んだ際にはあわや恐怖から失禁しそうになっていたのである。


「前のときは己れとそう身長が変わらなかったからのう。持ちにくかったし」

「クローは成長するとでかくなるんじゃがなー。というかよくあんなに伸びるのー身長。何を食ったらあーなるんじゃ」


 現在の九郎の身長は肉体年齢15歳換算で160センチメートル前後。だが18歳時には180センチメートルにまで伸びているのである。スフィも最初に出会った頃はそれぐらいの背丈で、若返った九郎を初めて見たときには思わず「可愛いっ!?」とリアクションしたぐらいであった。

 

「さてのう……牛乳は飲んでおったと思うが」

「やはり牛乳か」

「特に中学の頃は学校の給食で牛乳が毎日出てな。これが案外飲まない者も居て余るんだ。全校生徒合わせれば何リットルも余ってのう。紙パックごと余ったのを貰って帰ることが多かった」

「そんなに飲むのかね?」

「いや。帰り際に知り合いのパン屋に売りつけて小銭を稼いでいた」

「横領に近いよ!?」

「こすいのー……」


 非難を受けて慌てて九郎は話を変えた。


「しかし牛乳を飲まん文化だが、それを使ったアイスを作って他の者は食うかのう?」

「ふーみゅ。牛の乳など気味が悪いとか言いだす可能性があるのかえ」


 かつて食べていた文化のある公家や僧侶ならば理解があるかもしれないが、一般人は果たしてどうだろうか。

 大黒屋光太夫の船が遭難してロシアの地に辿り着き、厳寒と栄養不足で嘆いていた彼らだがミルクのスープを飲まされた後にその材料が牛の乳と聞かされたらもう飲まなくなったという話もあるぐらいだ。

 牛乳が食品だという意識が無ければ、獣の乳首から分泌される白濁液なわけで抵抗はあるかもしれない。牛乳に親しんだ現代でも、山羊の乳や馬の乳はちょっと遠慮したいという日本人も多いのではないだろうか。


「大丈夫ではないかね。白牛酪を使ったぴっつぁなどは食べていただろう。それに白牛酪は滋養強壮の薬になるのだ。こほん。励んでいる彼女らにはありがたいのではないかね九郎くん!!」

「耳元で叫ぶな!」

「まーそうじゃのー。お砂糖に、牛乳に、卵じゃぞ? 全部栄養豊富なものじゃ。食べ過ぎると太るというだけで。そう云えばよかろー」


 日本人が初めてアイスクリームを食べるのはこれより百年以上先、万延元年の日米使節団によってと言われているが、その時に食べた武士らも驚きつつも甘くて美味だったと云ったという。

 そこから考慮すれば、突飛な味の方向と牛乳という素材を使っているが、それほど食べてみれば拒否感は生まれないかもしれない。




 湾を跨いで房総半島に入る。

 大まかな地形は石燕の指示に任せてあった。彼女の記憶能力にかかれば未来視で見た日本地図と地名をあわせることは容易い。 

 九郎としてもそれは非常に助かった。彼からしても「千葉県って何があるのだ? ピーナッツ畑とか?」ぐらいの知識しか無いので、街道沿いなどでなければ地理に疎い。

 

「まあしかし峯岡牧はかなり広いからね。空から見るだけで一目瞭然だと思うよ」

「ふむ……牧場だからのう。どれぐらいだ?」

「確か全部合わせて1760町ぐらいじゃなかったかな……」

「……パッと思い浮かばん」

「単位がわからにゅ……」

「まあ、とにかく広いのだよ」


 大雑把に計算すれば面積一町が1ヘクタールほどで、1760ヘクタールは東京ドーム376個分ほどである。

 現代千葉県にあるマザー牧場が250ヘクタールの敷地と考えればその広さが想像できるだろうか。有名な東北の小岩井農場でも3000ヘクタール。その半分以上の大きさで峯岡牧は馬を飼育していた。

 空から眺めるとなるほど、一繋ぎではなく転々と草地が水滴模様のようにあまり高くない山地から平地にまで広がり、馬の姿も見え始めた。

 

「ほう、確かに広いのう」

「うーみゅ、どこに降りるべきかのー」

「[厩預(うまやあずかり)]という幕府から派遣された役人が居るはずだよ。適当に大きな屋敷が隣接しているところに降りればいいんじゃないかね?」

「それもそうだな」


 と、九郎は広がる牧草地の中から立派な屋敷がある場所へと降り立った。

 降りる時はさすがに人目に付かないようにして、それから徒歩で厩預の屋敷へと向かった。住居と仕事場を兼ねた役宅のような作りで、厩があるのは各牧場を巡る移動手段だろう。近くには家来か牧士を住まわせる長屋も建てられている。

 だが近づくに連れてやたら人がドタバタと走り回り、馬に乗って飛び出していく者も見えた。恐らくは一帯の百姓も集めているのか、農民らしき者達もぞろぞろと森へと向かって散らばっていく様子が見える。


「なんか忙しそうだのう?」

「そうだね……」


 呟いていると武士らしき男が三人を見つけて、馬を駆って近づいてきた。

 何かやたら焦っているような、血走った目を向けて怒鳴り聞いてくる。


「その方ら! 何者か!」

「ああ、ええとうむ。己れらは江戸から阿部将翁の使いで牛の乳を貰いに来た者だ。ほれ、書状も」


 云って渡すと、それを開いてちらりと見て舌打ちでもせんばかりに顔を歪めた。

 てっきり怪しい者かと思ったら身分はしっかりしている相手のようだ。


「今はそれどころではないというのに……」

「何かあったのか?」

「私は峯岡牧の厩預、斎藤三右衛門だ。馬もそうだが、ここで上様から預けられた牛も管理しておる」


 この牧場を取り仕切る役人のようだ。彼は酷く苦々しげな様子であった。


「それで近頃、牛の繁殖も進んで来たというのに……先日、何者かが子牛を拐かして殺害したのだ!」

「なんと。狼か何かか?」

「いいや、人だろう。もしくは妖怪の仕業か」

「妖怪!?」


 石燕がわくわくとして聞き返す。妖怪話を聞くのは大好きなのだ。


「死骸になり見つかった牛の死に方が異常だったのだ」

「どういうことだ?」

「腹が縦一文字に裂かれ、はらわたの殆どが消え失せ、血が抜き取られていた。切断面には僅かに焼け焦げた痕まで残っていた」

「それはかなり変死体だね……」

「……」


 九郎は何とも云えない顔をした。質の悪い悪戯だろうか。それとも、なんかこう政府の陰謀的なアレだろうか。


「上様より任された牛をそのような目に合わせただけでも切腹ものだが……あろうことか、またしても子牛が攫われてしまった! 我らは今すぐ賊を探さねばならん! 腹を召すのはその後だ!」

「牛泥棒か……幕府の天領でようやるもんだ」

「よって牛の乳を用意している暇はない!」

「困ったのう……それならば、己れも探すのを手伝おうか?」

「それは助かる。今、近隣の農民を集めてきて森を探させていたところだ。急いで探してくれ!」


 と、それだけ三右衛門は告げて馬で何処かへ走り去っていってしまった。

 余程切羽詰まっているのか、九郎の申し出も二つ返事で受け入れる。

 

「攫われた牛が心配なのもわかるが、大急ぎの様子だったのう」

「武士が役目を果たせないとなると切腹だからね。さて、私達はどうやって探す?」

「ううみゅ、その子牛が生きていればなんとかなるじゃろ。まずは親牛の方を見てこよう」


 スフィが長い耳を揺らして音を感じるように目を閉じると、すたすたと歩き始めた。

 どうやら攫われるのを警戒して牛舎は役宅の近くに作っていたらしい。彼女の先導でそちらへ向かうと、六頭の牛が繋がれていた。


「おお。なんかまっちろくてカッコイイのー」

「真っ白だから山羊の親玉みたいだね」

「で、どうするのだスフィよ」

「うみゅ。待て待て。ええと、攫われた子牛の親は……」


 モーモーと泣く牛の声を聞き分けてスフィは何か頷いている。九郎と石燕にはさっぱりわからないが、声に感じる悲哀のようなものを判別しているのだろう。


「こやつじゃな」

「解き放って探させるとか?」

「うんにゃ。鳴き声を覚えた(・・・・・・・)。クロー。適当なところに飛んで行き、親の鳴き声を響かせるのじゃよ。攫われた子牛が生きておれば返事ぐらいするじゃろ」


 しれっと云うスフィに、石燕は目を丸くする。

 何やら喉を軽くもんで咳払いし、「も゛おおおお」と音合わせをしているが普段の高い声とは打って変わって、凄い再現度の鳴き声である。再現された方の牛もスフィを凝視していた。

 

「よし、行くぞえ!」

「なんというか、凄いね九郎くんの親友は」

「だろう?」


 どこか誇らしげな九郎の様子に、僅かに嫉妬を覚える石燕である。

 

 空を飛び、捜索の手が入っていない山の谷間にてスフィが牛の鳴き声を響かせる。

 歌司祭の拡声能力ならば周囲1キロには軽く届く。それ以上も距離を伸ばすことは可能だが、子牛の返事を聞き取る為にその程度の範囲で捜索を開始した。

 不思議とスフィの声は遠隔まで届くのにすぐ近くで聞いても大音響で耳が痛くなるということはない。


「しかしこれ、空を牛の鳴き声が行ったり来たりする怪奇現象みたいだよね」

「他の探している連中が惑わされまくっておる気がする」


 高速飛行+半径1kmの音波レーダー。子牛が応えるという前提ではあるが、ひたすら効率の良いそれにより四半刻も掛からずにスフィが子牛の返事を察知した。


「居た! 向こうじゃ! 不安そうにしておる!」

「合点承知」


 指示された方向へ向かうと、森の一角だというのにそこだけ直径10mほど円形に禿げている土地であった。

 樹木が切り倒されて上から禿げているように見えるのではなく、根本から引っこ抜かれたような後が地面に残っている。近くに木を運び出す道などは見えず、奇妙さを感じたがそこに白い子牛と二人の男が居た。あれが牛泥棒だろうか。

 いきなり空からそこへ行かず、姿を消して近くの森に降りてその場へ徒歩で向かった。


「お主らだな、牛泥棒は」


 森から広場へ進み出て九郎が云うと、二人の男はビクリと九郎の方を見て顔を引きつらせる。

 奇妙な格好をした二人であった。敢えていうならば、飾り気の無い格好をした山伏だろうか。真っ白い着物に目元以外顔を見せない白い頭巾。金属製に見える変な冠。背中には大きな背負子バックパック。手指の先から足先まで白くて肌に張り付いた布で覆っていて、こちらも金属製の光沢が浮かんでいる高下駄を履いている。

 超怪しい。町中を歩いていたら、間違いなく同心に呼び止められる。関所すら抜けられ無さそうな容姿であった。

 二人は慌てた様子で顔を見合わせて、ぼそぼそと……だが聞こえる声で話し合い始めた。


「しまった。現地人が出てきたぞ。どうするXXX(聞取不能)

「きゃとるを捕まえたのにのんびりしているからだZZZ(聞取不能)。こうなったら適当に誤魔化すぞ」


 何か、名前らしい単語の発音が聞き取れなかったが明らかに素直に反省して自首する様子ではなかったので、九郎達三人は非常に訝しい顔で睨む。

 ちらり、と白い男らがこちらを見てまた話し出す。


「何かこちらを訝しんでいるぞXXX。大丈夫か」

「莫迦。我らの言葉がこのような未開の連中に通じる訳がないだろうZZZ」

「いや……しかし何か妙な感じがしないか、あいつら。ひょっとしてお仲間か別の集団だった場合問題が起きないか?XXX」

「……一応我ら連盟の合言葉を使ってみるかZZZ」


 何やら、話し言葉が通じていないと思っているらしいと九郎ら三人は顔を見合わせる。

 もしかしたら彼らは何か方言か外国語で喋っているのかもしれない。だが、魔王ヨグの術式で世界移動したこの三人は言語を自動翻訳して会話することができる能力がある。なので言葉が丸聞こえであった。

 白い男二人はこちらへ向き直り、やおら今度は意味不明な言葉をそれぞれ放った。


「キャシュラエリミネイト」

「ペペンタクル」

「?」


 意味がまったく通じず、三人は首を傾げた。それを見て二人の男はまた会話を再開する。


「共通の合言葉を知らないから、間違いなくここの原住民だなXXX」

「よかった……後々問題になったら面倒だからなZZZ」


 そして彼らは落ち着いた様子で話しかけてきた。


「あー君たち。ひょっとしてあの牧場の関係者かな?」

「うむ。というかその牛はあの牧場のものだろう。返してもらうぞ」

「悪いんだけど見逃して貰えないかな。ほら、幾らで雇われているか知らないけど金の粒をあげよう。見なかったことにして帰るだけでいいよ」


 そう云って白装束は、小さな袋を取り出し自分の手の上で絞りを緩めて振ってみせると、中に砂金が入っているようで真っ白い手のひらに何粒か零れて来た。

 それで買収しようとしているようだが、九郎は顔を顰める。


「まず何者だお主ら。怪しい格好に金粒とは」

「我らは山の民。お前らが山窩サンカ転場テンバと呼ぶ、国の庇護を受けず、定住することの無い集団だ」

「山窩……」


 そう九郎と石燕が顔を見合わせる。

 その集団に出会ったのは初めてではない。以前も山の中に不審な人物が居て怪事件が起きているという噂を探る為に出向いたところ、一人の山窩がその噂の元だったことがあった。

 彼らは山々を移動し、時には山から取った狩猟品や細工品を里に売ったり物々交換して生活したり、或いは盗賊集団として村を襲うこともある。一概にどうとは云えない、まさしく戸籍も定住地も無い無法者を広く指して山窩と呼んだ。


「そう。山の民だから謎の言語を喋ったり、金粒を持っていたりしてもおかしくはない。いいね?」

「なるほどのー。完全に納得したのじゃ」

「いやそれはそうと牛を攫うな。置いていけ。ついでに云うと二度とあの牧場を襲わぬのなら見逃すが」


 山窩の二人は肩を竦めて馬鹿にするように云う。


「ところが我らは栄養補給の為に、どうしても牛が必要なのだ。申し訳ないと思うが、生きる為に盗むのだから仕方がない」

「そう。我らはまつろわぬ民。幕府だか国家だかの法の庇護を受ける存在ではないから、法を守らないといけない義務も無い」


 まったく悪びれては居ないようだ。世の中悪人とて、自分が悪の行いをすると自覚しているものだが、彼らの場合違う倫理観と優先順位、自らが定めた規則のみによって生きているので悪いとも思っていないのだろう。

 九郎は念のために聞いておく。


「ちなみに子牛の腹が裂かれて血と内臓が抜かれていたのはお主らの仕業か?」

「……ああ。我らが生きるのには内臓と血に含まれる酵素……おっと、そう云ってもわからないか。とにかくそれらが必要なのでな」

「肉は要らないから返しておいたわけよ」

「……」


 軽く頭痛を堪えるようにしながら、半眼で九郎はその自称山の民二人に聞いた。


「お主ら……まさか異星人ではないよな」


 ──静まり返った、次の瞬間。


「はぁっ!!」


 びっくりした。突然白装束が、その場で上を仰ぎながら大きな声で叫んだのだ。


「はぁっ! はぁっ! はぁっ!? 面白い冗談だ!! なあXXX!!」


 それは大げさな笑い声のようだった。固まっていたもう一人が早口で告げる。


「まったくだよZZZ。我らが異星人? 他の星ってあの夜空に光る? そこからやってきた? ははは探偵なんて辞めて作家にでもなったらどうだい!?」

「いや別に探偵では無いが……もういい面倒臭い。ぶん殴って牛は取り戻させて貰う。スフィ、石燕。離れておれ」

 

 九郎が素手で構えると白装束は胸元に手を入れて、引き抜いた。

 そこには何か妙に丸みを帯びた形の短筒が握られている。火縄式ではない奇妙な銃だ。その銃口をまっすぐ九郎に向けていた。


「ふふふ……山の民には謎の技術力があるのも付き物さ」

「安心して欲しい原住民。諸君らは殺さずに、記憶だけ消させて貰う」

「ふむ……人に銃を向けるのはいいが」


 九郎はにやりと笑って指を鳴らした。



「まずは安全装置セーフティーを外しておくべきだったな」


 

「なっ!?」


 指摘されて慌てた様子で短筒に目を落とす白装束だが、その隙が致命的だ。

 近くで見ていたら消えたような速度で加速し接近した九郎が、相手の構えた短筒を真横に蹴り飛ばした。手から吹き飛ばされつつ、蹴りの威力で破壊される短筒。


「私の[ぽわわ短筒]が──!! おのれ」


 話は続けられなかった。九郎の掌底が鳩尾に入り、


「ぐ……」

 

 と、呻いて数メートル吹き飛び動けなくなる。

 もう片方の白装束はいつの間にか目元に黒ガラスで作った眼鏡を覆面の上から被っており、何か筆のようなものを取り出して掲げた。


「こっちを見ろ!!」


 そう叫んだ。何やら筆を見せたいようだ。

 九郎は無視して掲げている相手の脇腹に拳をめり込ませた。隙だらけだった。


「えげえ……」


 めきめきに肋骨をへし折る感覚が手に伝わり、嫌そうに九郎は手を振る。

 ついでに地面に落ちた筆のような棒を踏み折って、二人に云う。


「ああ……[ぴかっ]が……」

「変な抵抗をするからだ。役所に連れていくのが面倒だから放置するが、またあの牧場から牛を攫ったら裸にひん剥いて江戸で見世物にするから覚悟しろ」

「……」


 がっくりと項垂れた二人を置いて、九郎は牛の手綱を引き石燕とスフィの元へ下がった。


「良いのかえ?」

「いや……あんまり関わると厄介な事になりそうな集団の気がひしひしとしてな。牛は脱走していたのを見つけたことにしよう」

「山の民は不思議がいっぱいだね!」

「そういうことにしよう」


 そういうことになった。

 子牛はスフィが落ち着かせ、九郎が超頑張って軽功の応用で重さを感じさせなくすることでどうにか二人と一頭を持って空を飛び戻ることができたのであった……





 *******

 



 役宅へ牛を連れて戻ると、何やら武士が増えていた。

 酷く憔悴した顔の斎藤三右衛門が、牛を牽いた九郎の姿を認めて慌てて今度は下馬した自分の足で駆け寄ってきた。


「見つけてくれたのか!?」

「おお。攫われたというか脱走したみたいだったのう」

「助かった、助かった……!」


 心の底からそう云っているようで、九郎の肩を何度も両手で叩いて感動している。

 周囲から視線が集まっている。何やら、斎藤よりも身分の良さそうな武士が多い。

 

(ひょっとしたら江戸城から監査でも来ていたから焦っていたのかもしれんのう)


 トラブルに見舞われた厩預に同情していると、役宅で茶を飲んでいた立派な袴姿の武士が一人、こちらに歩み寄ってきた。

 周囲の侍が伴しようとするが、背筋を伸ばした大柄でがっしりした体格の中年男は真っ直ぐに向かってくる。

 恐らくはやってきた中で一番身分が偉い者なのだろう。三右衛門が慌てて膝を付いた。


「よい。面をあげよ」


 低い声で三右衛門にそう告げた。いかにもお殿様といった雰囲気だ。ひょっとしたら大名かだれかかもしれない。

 間近で九郎達三人はその偉い武士を見る。ひそひそと九郎と石燕は言葉を交わした。


「何処かで見たことがあったっけか?」

「いや? どうだったかね」


 そのような様子に、彼の家来らはハラハラと様子を見ているようだ。

 旗本三男相手に無礼を働かないか心配だが、迂闊にそこらの農民や子供が旗本三男の正体を知らずに無礼を働き、それを咎めた場合は咎めた方が厳しく叱られることがあるのだ。

 実際前にも、旗本三男が鷹狩りに出かけた先で農家を見つけて食事を所望し、稗や粟の混じった不味い粥を出されて三男はバクバクと食べていたが同席した側近が憤慨し農民を叱ろうとしたところ、固い拳骨が落とされた。後々その農家には米が送られたが。


「その方ら、大義であったようだな。儂は通りすがりの、旗本の三男坊だ。恐縮せず楽にせよ」

「貧乏じゃない旗本の三男っぽいよのう」

「これで三男じゃったら次男長男へのプレッシャーが凄かろーなー」


 言い合う二人に、旗本三男はいかにも武芸をやっていて、日頃節制してそうな厳しい真顔で尋ねてきた。


「して、この者らはどういう者だ? 牧童か?」

「い、いえ。うえさ」

「三男」

「三男様……ええと、彼らは本草学者・阿部将翁の使いとして牛の乳を貰いに来たところ、此度の牛脱走を聞き捜索を引き受けてくれたのです」

「ほう……阿部将翁のか」


 旗本三男は再び九郎らに顔を向けて、


「牛乳を使い何を作ろうとしていたか聞いておるか?」

「料理の材料にしようとのう。医食同源という言葉の通り、食事は毎日の薬のようなものだから」

「ほう……牛の乳を使った料理とな?」


 面白そうに聞き返した。周りの家来らは「面倒なことになったぞ」という顔になる。

 この旗本三男は珍しいもの好きなのだ。美食にはこだわらないが、牛乳料理となると興味も深々になるだろう。


「よし。それならば一つ作ってくれぬか?」

「なんか結構図々しいのう、この旗本」

「まー良いんじゃないかえ? 事件も解決したし」

「そうだね。役宅の厨房でも借りれればちゃっちゃと作れるだろう」


 というわけで、旗本三男に牛乳料理を馳走することになったのであった。

 家来衆も役宅に集まり、ひとまず役宅で旗本三男を如何にして快適に待たせるかを色々気を使っている。

 そのうち武士の一人がおずおずとスフィの元へ近づいてきて、


「ひょっとして貴女は、巷で噂の歌巫女、周布院殿ではありませんか?」

「うみゅ。そうじゃよー?」

「よかった! ええと、料理ができるまでの間にうえさ……三男様を待たせねばなりませんので、一つ歌でも……」

「ふみゅ……料理もあるのじゃが……」


 スフィが顔を向けると、石燕と九郎は「大丈夫」と頷いた。

 

「仕方ないのー。では時間を忘れさせるような歌を聞かせてやるのじゃよー」


 そうしてスフィが一旦別れて、九郎と石燕が料理を作ることにした。

 三男は歌を聞かせるというのでやや困った顔をした。


「儂はあまり歌や芸能は得意でないのだが……」

「なに、小難しいことは無いのじゃ。何なら歌には歌詞も要らん! 魂にこみ上げる音楽を口から出すのが歌なのじゃよー」


 スフィは敢えて歌詞が無く擬音を口にして歌うように、即興の歌を聞かせ始めた。


「ジャーンジャーンジャーン♪ ジャララジャララジャーンジャーンジャーン♪ テケツクバーババーンババーンババーン♪ バンバンバーンババーン♪」

 

 どっかで聞いたことがある……九郎は遠くで聞こえるそんな音を聞きながら、搾りたての牛乳(殺菌済み)を用意した。

 妙なものを料理に入れないように、見張りの家来が一人台所に入ってきている。

 料理の音頭を取るのは石燕だ。彼女は、厨房にある材料を見回して思案した。アイスクリームを作る場合には卵が無いし、あのような中年のおっさんに好まれるかは不明だった。

 石燕は家来に幼女のように作った口調で聞く。


「ねえお侍さん。あの旗本三男さんはどんな料理が好きなの?」

「そうだなあ……地味な料理の方が好きだよ。絢爛な料理は贅沢だと思っているようでね。豆腐とか、納豆とか、焼き味噌とかそういうのが好きかな」

「ありがと……ふむ」

「決まったかえ?」


 料理上手とはいえ石燕は牛乳文化の無い江戸出身。こういうのはスフィの方が得意なのだろうが……」


「まあ見ていたまえ」


 石燕はにやりと笑って胸を叩いた。

 まずこの厨房には本葛粉が置かれていた。というのは、葛は成長が早くて広がりやすい為に非常に厄介な植物と知られているが、馬や牛の餌になるのだ。牧場で使われていたのだろう。その根を加工したのが葛粉である。

 石燕は葛粉に少量の牛乳を混ぜて完全に粉が溶けるように混ぜ合わせる。

 溶けて糊のようになったそれに更に牛乳を追加し、鍋に入れて弱く熱しながらかき回し続ける。

 次第に水分が抜けて、ぺったりとしたクリーム状になった。それを台所にあった小さな一合升の中にどろりと注いだ。


「九郎調達員!」


 突然石燕から呼びかけられて、九郎は間の抜けた返事をした。


「お、おう?」

「春らしい天気になったが昨晩は寒く雪も降ったらしいな」


 そうだったっけ、と思いだそうとしている。

 だが石燕は眼鏡を光らせて、


「というわけで、殆ど雪は溶けていると思うが岩陰などにあるかもしれないので取ってきてくれたまえ」


 そこまで云われて、九郎はピンと来た。

 見ず知らずの武士が見ている前で術符を使うのもあまりよろしくないから、それらしい理由で隠れて氷を作ってきてくれという指示なのだ。

 頷いて勝手口から外に出て、二秒後に戻ってきた。


「ありました石燕料理人」

「早いね。さすがは敏腕の助手だ」

「凄い早くない!?」


 適当な誤魔化しに家来の方から突っ込みが入ったが、出すとこを見せなければどうとでもなる。

 九郎がどっさりと桶に入れて持ってきた雪の中に、蓋をした升を埋めて冷やして固める。

 冷やしている間に石燕は抹茶と砂糖、牛乳を軽く熱しながら綺麗に混ぜ合わせる。白牛酪の材料として砂糖も置かれていたのだ。

 

「よし、完成だ」


 雪の中から升を取り出し、それを皿の上にあけると豆腐によく似た形でぷるんと固まった牛乳ゼリーになっていた。

 しっかり煮詰めているので濃厚で真っ白だ。家来から毒味の必要があるので、と半分に切って二皿に分ける。

 その上に、抹茶ミルク味の甘い蜜を掛けて出来上がりである。

 二人は旗本三男にそれを給じようと持っていくと、スフィの歌のステージは盛り上がっているようで家来衆が皆揃って口を半開きにしてスフィの歌を聞き入っていた。元来無骨な旗本三男すら、軽く手拍子をしている機嫌の良さだ。

 九郎達が帰ってきたのを見て、うまい具合にスフィは歌を終わらせる。

 そして注目が集まる中で、九郎と石燕はそれぞれ一皿ずつ持って旗本三男の前に置いた。

 白くつややかな羊羹の上に、淡い緑のタレが掛かっていて見た目は爽やかである。


「料理というか、菓子になった」

「殿。まずは毒味を……」

「うむ」


 と、家来の一人が皿を受け取り、神妙な顔でその菓子を口に運んだ。


「んんんんん……これは」


 年を食った毒見役は、何か凄いニヤケ顔を抑えて邪悪になっているような笑みを浮かべて云った。


「いけますぞ殿……!」

「毒見役殿のあんな顔初めて見た!」

「美味しかったんだ! いつも塩気たっぷりであんまり美味しくないのに!」

 

 そう告げられた三男は頷き、皿を手に取って楊枝で切り取り、タレを付けて食べた。

 濃厚な、人によっては乳臭く馴染みが無い牛乳の味が半固形で纏まっていて、口の中にタレと共に入れると馴染み深い抹茶の苦味と、たっぷりと入った砂糖のガツンと脳に来るような甘みが乳臭さを打ち消す。

 そしてつるりとしているのに咀嚼しようとするとあっさりと液状に戻る感触。混沌と口の中で抹茶タレと混じり、程よい冷たさも口当たりが良い。


「よい」


 三男からその短い評価の言葉が口から漏れて、家来衆はほっと胸を撫で下ろした。

 そしてその普段厳しい彼の口元に微笑が浮かんでいることに驚く。


「これはどうやって作ったのだ?」

「なに、この牧で取れる牛乳に、この牧で取れた葛粉を混ぜ合わせて冷やしただけだよ。上に掛けるタレは甘ければ何でも合うと思うがね」

「ふむ……まさに峯岡牧の特産品。そうさな……[峯岡豆腐]とでも名付けようか」

「豆使っておらぬがのう……」


 とりあえずは謎の旗本三男も満足した様子なので、九郎ら三人も用件は果たしたとばかりに適当なところで牛乳を受け取って、江戸に飛んで戻るのであった。

 

 いつの間にか帰ってしまっていた彼らに褒美を渡すのを忘れていた三男は、三右衛門にひとまずこう命令しておくのであった。


「あの者が来た場合は、牛の乳を譲ってやるように」

「ははー!」

「正式な証文は後々送るので、代替わりしてもそうしてやろう」


 そうして旗本三男こと、徳川吉宗は面白がって妙な料理を作った九郎達に、牛乳の供給を保証するのであった。


 牛乳と葛を使った峯岡豆腐は徳川吉宗が嶺岡牧にて、豆腐を所望した際に作られたとして現代にも伝わっている……






 *******




 


 砂糖と牛乳と全卵を弱火に掛けながら混ぜて、しっかり混ざり若干のとろみが付いたら冷やす。

 スフィがやっていたアイスクリーム作成の手順を大雑把にすればそんな感じだった。

 

「分量とか良いのか?」

「エルフセンスは計測力じゃ!」


 よくわからないが自信があるらしい。黒砂糖を入れたので若干コーヒー色をしたアイスクリームの素を、スフィが茶筅でかき回す。

 

「中に空気が入るように混ぜるとふわっとするからのー」

「いやというか早くないかねスフィくん。その手つき。シュバーッって音が鳴ってるよ」

「エルフミックスは撹拌力!」


 ということで混ぜたものを氷結符で冷やし、アイスが完成して小皿に盛られて皆に配られた。

 居間に全員揃い、この日ばかりは大型の全員入れる炬燵を九郎が復活させて足を突っ込みながら一同は匙でアイスを舐める。


「おっ、甘くて冷たくて旨いな!」

「冷たかもんを食っちゅうのが珍しかが、甘かな」

「これなら桶一杯食べれそうであります!」

「そんなに食べたらお腹壊すわよ。でもそうね、食べやすいわ。牛のお乳ってのも悪くないのね」

「いやはや、体に染みるようで」


 と、皆にも好評なようで石燕が首を傾げた。


「ふむん? 案外……牛乳に抵抗が無かったようだね。不思議なことに」

「ははーん」

「どうしたね? スフィくん」

「あれじゃな。近頃は白濁液を飲みなれているから……」

「下品なの禁止!」


 スフィの両隣に座った九郎と石燕に同時に手で口を塞がれ、もがもがと呻いた。


「まったく。スフィめ。親父みたいなセクハラ発言を云うようになりおって」

「ちょっとしたエルフジョークじゃよー」

「ま、とにかく食い過ぎは良くないが甘いものは疲れにも良いからたまには作ろうかのう。医食同源で予防にもなる」

「……ふむ」


 石燕がやや思案顔をしているのが気になり、九郎が視線を向ける。


「どうした?」

「いや、九郎くんが云っている[医食同源]という言葉だがね。どうも意味合いが違う気がして」

「うむ? 栄養のある飯を食うことで健康を保つとかそういうことではなかったか?」

「いや、これは元々唐国の言葉なのだが……つまり、肝臓が悪い患者には肝臓を食べさせると効くとか、猿の脳みそを食べると猿知恵が付くとか、足を怪我したら鹿の腱を食べて回復祈願するとかそういうことを差すのだよ」

「というと牛乳は……」

「母乳の出が良くなるとか……それはそれで子供を産んだ母親には良いのかもしれないけれどね」


 なんとなく。

 特に理由は無いが。

 皆の視線が唯一の経産婦阿部将翁に集まった。

 彼女は恥ずかしそうに咳払いをする。


「何か胸が張ってきたような……」

「そんなに即効で効くものではなかろう!?」


 




 ********

 




 江戸城にて。

 峯岡牧に馬の視察に行っていた吉宗が帰ってきて、大奥への入り口である御錠口にてオークのシンは吉宗を迎えた。


「おかえりなさい上様。どうでした?」

「中々に楽しかったぞ。変わったものも食えた」

「それは良かった」


 上機嫌な吉宗がすれ違い、大奥へ向かっていく。

 その際に彼が小さな声で何か口ずさんでいるのがシンの耳に聞こえた。


「テケツクバーババーンババーンババーン……バンバンバーンババーン……♪」


 ちらっと肩越しにシンは一度吉宗を見た。

 そして数秒後、ガバッと大きく振り向いて二度見した。


「う、上様が何か歌ってた……!?」


 思わず二度見するほどの衝撃を受け、一体峯岡で何があったのかと訝しむシンであったという……






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― 新着の感想 ―
スフィが歌ってた歌は文字だけのはずなのに歌える不思議wこの世界の上様も仮面ライダーと共闘とかしてほしいな
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