37話『吉原豆まき大会』
《 おにはそと♪
ふくはうち♪
いわしのあたまに♪
ひいらぎかざり♪
まめをまく♪
おには どこかに♪
にげていく♪ 》
「待てええええ!!」
「追え! 打て! 足を狙え!!」
「魔を滅する弾丸よ! 彼の者に鮮烈なる報いを与えたまえ!! 秘技──『黄泉意富加牟豆』!」
どれだけ荒んでいる気分でも心地よくなるような澄み渡る歌声の下で、どれだけ荒んでるんだよと云うような怒号が響いていた。
場所は浅草寺裏手、吉原遊郭。田地に囲まれた幕府公認の色街であり、江戸であって江戸ではない規則と時間で隔絶された異世界の一種である。
その日は節分であった。
仲ノ町という中央大通りに建てられた櫓の上で、小柄な歌い巫女が豆まきの歌をリピートしている。その姿を遊女屋の二階窓から遊女らがうっとりと和んで見ていたり、或いは通りを走り回る騒動を指差してケラケラと笑ったりしていた。
祭りというには殺気立って豆を持って男達は鬼を追いかけ回している。
然ることながら鬼の面を被った者は、飛んだり跳ねたりしながら三次元的に逃げ回り豆から逃げていく。地面から二階の窓まで一息で飛び上がるなど曲芸めいた動きを見せ、遊女を沸かせては追跡者を翻弄する。
しかし、しかし。
それでいて追いかける方の男らも二階どころか遊女屋の屋根まで鉤縄を引っ掛けてあっという間に上ったり、壁を走って追撃したりなどと尋常ではない。覆面とか被っているし、やたら長く格好を付けたセリフも吐いてくる。
「喰らえ! 豆手裏剣の術──!」
「豆煎餅だろそれ! 指定された豆を使え!」
回転しながら飛んできたぶつぶつと豆が埋め込まれて、塩気の効いた煎餅を鬼は口で受け止めて手も使わずにバリバリと食べた。悔しいことに香ばしくて味は良かった。一気に喉が乾く。何処かで酒か茶を補給しなければならない。
鬼役の九郎はどんどん集まってくる豆まき参加者から逃げながら悪態を付いた。
「ええい、面倒な仕事を引き受けたものだ……」
*******
「豆まきの鬼役をやって欲しい?」
九郎にそう頼んだのは奇妙な面を被った男からだった。鼻から上を覆った半面で、ノッペリとした白地に『八亡』と横並びで筆字が書かれている。
どう見ても不審者丸出しなのだが、普段から忍び連中が覆面を被って出歩いている江戸の町である。もっと云えば虚無僧も歩いているし、武士も身分を隠して出歩きたい場合は覆面や編笠で顔を隠す。小間物売りの女も手ぬぐいを頭に掛けるし、『手ぬぐい被り各種』という本では三十四種類もの手ぬぐいの被り方が紹介されていたりもするので、江戸は案外顔を隠すのに寛容な町かもしれない。
「それはそうとして誰だお主。ハチボウ?」
菓子折りを持って屋敷にやってきてすぐに要件を告げた男に、九郎はひとまずそう聞いた。
「おっと、わたくし吉原の楼主組合から来た、ほら『亡八』というものでして」
『ほら』という言葉と同時に半面の字を右から左へ指差しながら云う。
「亡八? 碌でなしの代名詞ではなかったか?」
顔を顰めて、無礼ではあるが疑問顔で九郎が聞き直した。
八を亡くした或いは忘れたと書く『亡八/忘八』は、八徳と呼ばれる仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌が無い者という儒教的落伍者を差す。
妖怪に居る五徳猫すら、五徳のうちで何かを忘れているというだけなのにそれと比較してもとんでもない人間であるとされる。
「吉原の楼主を人は碌でなしの亡八と呼ぶのですよ。ほら、お世話になっておきながらねえ」
「客がお世話になるのはお姉ちゃんだからのう」
「ま、そんなこともあり、自嘲と戒めの意味も込めて楼主組合は亡八を名乗らせて貰っているので。ほら、自分から悪人だと名乗る者に真の悪人は居ないみたいな?」
「それを敢えて言った時点で台無しだが」
「あと素顔で歩いていると妙な正義感を持った者に刺されたりするので。ほら、こうして堂々としていれば逆にまさかあれがとは思われない」
半眼でうめきながら九郎はサツ子の持ってきた茶を啜った。
「それで、今度吉原全体で大豆まき大会を開くことになったのですよ。ほら、節分ですので」
「ふむ……初めて聞くな。いつもは豆まきもやっておらぬだろう?」
江戸で数年暮らし、吉原に詳しい知り合いも居るがそのような豆まき大会の話は聞いたことがなかった。
亡八は半面で表情を見せない分身振りを大げさにしながら
「名前は伏せますがお大尽のお客様が大盤振る舞いで後援を申し出てくれまして……ほら、吉原全体のお得意様のご希望ですので応えなければなりません。なるべく派手に。豪華に」
「豆の代わりに一朱金でも撒くか?」
「直接的すぎるでしょう……いやまあほら、似たようなことをした方は居ますが」
「どのような?」
「放生会のときに、背中に金を載せた小蟹を遊郭で大量に放ったお方が居ましてね。ほら、あちこちに逃げ回るものだから大騒ぎに」
「微妙に迷惑な成金だな……」
放生会はそこらの路端で販売されている亀やメダカ、うずらなどの小動物を購入して川や空に放つ祭りのようなものだ。普段動物へ行っている殺生の分を取り戻す徳を詰む儀式である。
以前に石燕が詳しく説明をしていたことも思い出した。死後閻魔の裁きの際に生前に助けた動物が弁護に来てくれることもあり、逆に動物を殺しすぎた者は罪を訴えにやってくるという。放生会はそれを説くことで民間にも広まり、また商売の種にもなった。免罪符か贖宥状のような話だと九郎はその時には思ったのだが。
(蟹が死後に弁護しに来ても嫌だよな……しかも無理に甲羅に金を載せられているから逆に恨まれてそうだ)
何故蟹をチョイスしたか謎であったが、江戸で尋常ならざる金持ちの考えることはよくわからない。五年ほど前に九郎が蕎麦屋で世話になっていたときも、江戸中の蕎麦を一日だけ買い占めて江戸でその日食べることができるのは自分達だけだという無駄な遊びをしていた。こっぴどく町奉行直々に叱られてかなり罰金を食らったらしいが。
世間は八代将軍の倹約令で質素にしているのだが、吉原は別である。元禄期から儲けた町人──御用商人が栄耀の極みとばかりに大金を使っていたのであった。
「しかし何をどうするつもりで己れに頼むのだ?」
「ええ、実はお客参加型豆まき大会ということで、お金を取って撒く豆を売りつけ、それを共通の目標である鬼に当てることで賞金なども出そうという感じで話が纏まりまして。ほら、豆に色粉を付けて当たったかわかるようにして」
「となると己れは……ひたすら逃げ回る役としてか」
豆をぶつける方に賞金まで出るとなれば、ただでさえ有料で──それも恐らくお高い値段で──販売している豆なのだから、参加者は必死になって鬼へぶつけようとするだろう。
ちゃんと公正に賞金を振り分けなければスポンサーのお大尽がケチ野郎という風評になるのでそこは誤魔化せない。それでいて損失を減らすためには、鬼役が手頃に当たらないよう動いてくれた方が良い。
「天狗のように身軽であり、それでいて九郎どのは吉原でも知られていますからな。ほら、吉原での騒動を解決したりしていたし、それに遊女は客からいろんな噂を仕入れますので」
そこらの一般人では付いてこれない程度に動けて、吉原の遊女らも噂ぐらいは聞いたことがある。まさに九郎に打ってつけと亡八が判断するのも当然ではあった。
九郎は暫く考えこんだ。実際、この亡八相手に依頼を蹴ってしまうと多少面倒になる。弟分の歌麿が吉原内の脱法版元でぶいぶい言わせているのもあるし、病気や年季明けで吉原を去る遊女の中で行く宛のない者を独身男性との見合いに当てる計画も進めている。
逆に受けておけば伝手が出来てそれらに対し有利になる可能性がある。
「ふむう……まあ構わぬか。礼金は貰えるのだろうな。それと何回当たったから責任を取れというのも無しだぞ」
ボランティアで町内会の鬼役になるようなものだ。予め自分が損をしないように前置きをして、九郎は受けることにした。
亡八は大げさに胸を撫で下ろして告げる。
「それは勿論。それにほら、わざと当たる分とか幾つか細かい取り決めもある。ああそれと、近頃有名な歌い巫女も九郎どののご友人で?」
「うむ。寿司ィ……違った。スフィのことだな」
神社仏閣などで辻歌いをしている謎の美少女は町人の間で有名になっており、中には専属の歌い手スカウトや弟子入り志願まで現れるぐらいであった。
彼女の世界ペナルカンドならば幾らでも弟子入りに応えるのだが、身分が怪しい江戸ではスフィもさすがに断りその場で合唱などをすることで教えているようだ。
「彼女にも節分に良いような歌でも歌って欲しいのですが……ほら、中々遊女らも外部の歌い手とは縁が無いもので。節分の日はお祭りで女人の立ち入りも許可されます」
「スフィもそういうのは結構好きな方だから受けると思うぞ。むしろ歌の方はあやつが専門家だから、目立つ方法でやってくれる」
と、こうして九郎は吉原にて節分豆まきの鬼役を引き受けることとなったのであった。
********
九郎が鬼役として行うルールが幾つかあった。
一つ、なるべく豆を撒いてくる客に暴力は振るわないこと。なるべく、というのがポイントで喧嘩は江戸の華というように、興奮して荒っぽくなる客も出ることが考えると自衛も必要ではあった。
二つ、同じ道を通っても良いが、吉原にある通りを全て通過すること。客や遊女が建物の窓から楽しめるようにである。あくまでガチの鬼と豆まきの戦いではなく、エンターテインメントなのだ。
三つ、幾つかの話を通してある遊女屋に入って、客と遊女から豆を避けずに受ける。全ての通りと指定された遊女屋がチェックポイントのようになっており、それらを経由しないと終わらない。
まあそんなところだろうと九郎は条件を受け入れて出向いたは良かったが……
「ほっほっほっほっほ!」
「……」
スフィが腹を抱えて聞いたことが無いような笑い声を上げ、呼吸困難に陥っているのを九郎は無言で見ていた。
涙を流して顔を真っ赤にしつつ、口元がどうしても歪んで治せないとばかりにスフィは大笑いしながら九郎を指差す。
「はだっ、ティ、ティクビまで丸出しではないか!! お主何歳じゃ! にょほほほほ! 年寄りの冷ヌードとはこのことか!」
「やかましい」
問題は当日になって判明した。
鬼役の格好が鬼の腰巻き一枚なのだ。それにやたら精巧な鬼の面を被り──ただし目元に穴が空いていないので、お祭りではしゃいで買ったかのように顔の横に結び付けなければならない──やたら重い金棒まで渡された。
当然ながら生足で上半身裸。ぽろりが出ないようにトランクスの上から腰巻きを付けているが、パンイチな格好なのは変わらない。
「くそっ……! こんな事ならお八に頼んで着包みでも作ってもらうのだった」
「にょふふん、あー面白い。寒くないのかえ?」
「腰に炎熱符を貼り付けておる」
「ぷふっ! 湿布みたい……」
スフィはかなりツボに入っているようだ。によによしながら、九郎の生肌を指で突いている。
この格好の問題は避けて逃げ回るに便利な疫病風装が完全に脱がされていることだ。いやまあ、大勢が見ている中で堂々と空を飛ぶわけにもいかないが。
一応、首元には力を増幅させる相力符は巻いているので、軽い体重に強力な脚力を加えればすばしっこく跳び回れる。九郎はそれで行こうと決めた。
(いっそ体を筋肉モリモリの李自成モードにして本気の鬼っぽくしてやろうか……)
とも思ったりもする。魂に残る中国武侠の能力を引き出せば、大人九郎の倍以上に筋肉が膨れ上がる。オマケに変な気とか垂れ流しになる。かなり鬼っぽい。
しかしながら、大人が真面目に鬼を演じている状況と、子供が鬼の格好をしている状況。どちらが世間の目が痛くないかと考慮して九郎は後者を選んだのだった。心なしか、いつもの十代半ばな肉体年齢より僅かに若くなってさえいた。
ショタ鬼である。そんな涙ぐましい努力をする九郎の姿が、スフィにはおかしくてたまらなかったのだろう。何せ彼女の場合九郎がジジイになるまで一緒に居たので、いうなれば無理な若作りをしている風に感じるのだ。
「良いからスフィは櫓の上に登っておれ。落っこちるなよ」
「なーに、高いところで歌うのは得意じゃ」
気楽にひらひらと手を振って、スフィが吉原中央に設置された簡易の櫓へ向かっていった。
当初は金を出すお大尽の前や、店を練り歩いて歌を聞かせる計画を亡八は告げたのだがスフィに掛かれば吉原全体に歌声を響かせることなど容易い。亡八は半信半疑だったが。
「ほら、九郎どの。参加者が大門に集まってきましたよ」
亡八は機嫌悪そうに佇んでいる九郎を呼んでまずは開始のために人の集まる大門へと向かった。
裸足なのがどうも気になるが、派手に走り回るには草履より良い。それに吉原は綺麗に地面が払われていて、小石などが刺さることも殆ど無い。少年の体には明らかに大きい金棒(オマケに地味に重たい。木製だが芯と棘は鉛で作っているようだ)を担いで進む。
仲町を左右から見れるように並んで作られている茶屋は既に、不参加の客や特別に非番を貰った遊女、及びその下働きの女性などが珍しそうに子鬼九郎を見て、勝手に声援などを送っていた。
「頑張れよー! いや、鬼が頑張っちゃ駄目なのか?」
「可哀想に、きっと借金で……!」
「強く生きるんだよ……!」
「ショタペロペロー! くーちゃんショタペロペロだよー!」
「ご自重致してください」
どっかから聞き覚えのある声がしたが、九郎は決して振り向かなかった。
吉原唯一の出入り口、大門近くでは色粉を付けた大豆の販売が行われていた。
参加料でもある大豆の値段は一升で一分(約2万円)。一般には高いが、吉原で云うと低ランク遊女[部屋持]の指名料ぐらいである。なおあくまで指名料なので、仲良くなるには低ランクでも別途金が掛かることが多い。
大豆には蒔絵で使う色粉で白、黒、赤、黄などに彩色されており、それをぶつけると九郎の肌に色がつくだろう。石燕が何やら、インドで行われる食人鬼ピシャーチャを追い払うために色粉を投げる祭りを解説していたがそれとは関係がない。
それでヒット確認をしてその色の大豆を持っていて投げたと思しい者──複数居る場合は気前よく複数──に賞金一両が進呈される、と九郎は聞いている。
一升分もある玉を、逃げる鬼役に当てるだけで四倍になって参加費が帰ってくるのだ。ある程度の人数制限はあったとは云え、こぞって人は参加した。
「えーそれでは皆々様方。此度の鬼役の登場です。あ! ほら、まだ投げないでくださいね! 合図があって始まりですので、投げたら帰ってもらいますよ」
亡八が告げて九郎を参加者の前に出した。多くの者は小さい少年が鬼役というのに面食らいながらも獲物を見るような目を九郎に向けて──
「うしゃしゃしゃしゃ!! おまっ九郎ー! なんだそのご機嫌なっプヒー!」
笑い転げる胴間声があった。
中山影兵衛が膝を付いて地面を叩きながら九郎を見て笑い転げる。九郎の渋面がこれ以上無いというぐらい顰められた。
どうやらこの不良同心は噂を聞きつけて、外回りのついでに参加しに来たのだろう。
「ゼヒーッゼヒーッ!」と呼吸を整えつつ影兵衛は顔を上げて、鬼のパンツを履いてる九郎を見やる。
「鬼かお前は! 拙者を笑い殺そうとしているひっでえ鬼だろ! げひっきひひひっ!! あー腹いてえ! 九郎が鬼役で出るって聞いたから来てみりゃ……今年一番笑ったわ。なんかもう参加しないでこれをつまみに酒を呑むのが良いかも」
「ふんっ」
九郎は金棒(木製)を一切躊躇せずに地面に四つん這いになっている影兵衛へと振り下ろした。咄嗟に横に転がり避けるが、爆発音と共に何万人にも踏み固められた地面が陥没し、ひび割れている。
影兵衛と一緒になって笑いかけていた参加者の顔から笑みが消えて凍りつく。
「馬鹿野郎! 殺す気か! そうならそうと云え! 勝負すっから!」
「お主の武器はその豆だ」
「鬼畜かよ!」
「鬼だからな」
言いながら、子供の残酷に歪んだ表情で金棒片手に参加者を見回す。容赦のない影兵衛への金棒攻撃に、鬼イジメだと思って参加した一般人はかなり引いているらしい。
このまま『俺は残虐(作詞作曲:九郎)』でも歌って脅せば少し楽になるだろうかと思っていると、男が一人進み出てきた。
顔を向けると菅山利悟である。吉原でのお祭り騒ぎに町奉行は関与しないものの、一応の目付けとして派遣されたのだろうか。
利悟は真剣な顔で頷いて云う。
「九郎ってすね毛が無くて足すべすべしてるよね──ぐあああああ!?」
無言で九郎は利悟の治りかけていた鎖骨をへし折った。ラガーマンは何度も鎖骨を折ることで強靭な鎖骨が出来上がり強くなる。そんな迷信を思い出しながら、気色の悪い目線を向けた男女いける稚児趣味野郎が泣き叫んで倒れたのを九郎は冷たい目で見ていた。
確かに稚児趣味が見れば、仄かに赤くなっている関節とか僅かに浮き出た肋骨とか二次性徴前後で少しだけ肉のついている胸元とか桜色の乳首とか白い太腿とか柔らかそうなほっぺたとかそういうのを無防備に露出しつつ、恥じらわずに面倒くさそうな目つきの悪さを見せているのはギャップ萌え的な感じからしてもクルところがあったのだろう。作者にはわからないが。
ともあれさらなる残虐行為にまた客が引いた。錯乱したあまり、豆をその場で食べ始めて棄権する者まで現れる。口元は色粉でベッタリになるが。
「あの。九郎どの? ほら、暴力は控えめに」
「あやつらは一般人ではない。同心だ」
「公権力じゃないですか! ほら、余計に駄目でしょう!?」
「鬼とは権力者に逆らう勢力を朝廷が名付けたという説が」
「豆まきとは関係ありませんよ! ほら、お客さん引いてるでしょう!」
「うむ……ん?」
確かに。
目の前で金棒を振るい地面を叩き割り、近づいた同心の鎖骨をへし折ったとなれば一般人は引くのが道理であった。
実際露骨に怯えているものはそっと離れている。
しかし……何故か豆の入った升を手に、やや遠巻きに九郎に狙いを定めたように闘志十分と云った雰囲気の参加者が結構な人数残っているのだ。
亡八が九郎の前に立って皆に言う。
「えーそれでは開始前に改めてご説明します。こちらの鬼どのが規定の道と揚屋・遊女屋を回りきるまでが勝負となります。店の中に追いかけるのは禁止ですが、鬼役も長くは留まりません。ほら、出てきたところを狙いましょう」
さすがにドカドカと入り込むのはいけないし、遊女屋の中に入って客や遊女から豆を浴びることも仕事のうちである。
「それと賞金として、しっかり鬼役に色粉付きの大豆を当てたと思しき方には一両。更にほら一等賞として──」
ちらり、と亡八が半面を九郎に向けた後で続けた。
「──最も鬼に個人で当てた方に、こちらの鬼どのが福の神となり、できる範囲で願いを叶えてくれるという賞がほら──」
「ちょっと待て!?」
初耳であった。まったく承諾した覚えの無い特賞である。
九郎は問いただそうと亡八を呼び止めたが、集まっている者らが勇ましく豆を掲げて鬨の声を上げる。
「うおおお!」
「嫁だ! 次は俺が嫁を紹介して貰うんだ!」
「色黒巨乳つり目で口悪いけど優しくてメチャクチャちょろい女の子希望!」
「伝手を借りて超精巧な可動式美少女木像とか作って貰えないかなー」
「助平な妖怪特集画集を妖怪絵師の繋がりで作って欲しい!」
口々に願望を叫ぶ民衆共。彼らは九郎が鬼役で、かの天狗ができる範囲で願いを叶えてくれるという募集でやってきたのだ。
彼らにとってそれは大抵の欲望を叶えてくれると保証しているに等しい。
見合いの優先順位、大店への伝手、新商品開発、宣伝、仕事の斡旋、腕試しなどなど。様々な理由で九郎を知っている連中が集まっていたのである。
背後にある茶店から何やら悪態が聞こえる。
「あ、クソ! マジか! ガトリングガンに豆って入る?」
「時空警察に目を付けられかねませんので承服致しかねます」
それを無視して、九郎は妙にやる気溢れている参加者を睥睨する。
「というかこやつら半分ぐらい忍者だろ!? 暇なのか!」
言いつつ、彼らの普段の仕事一覧を見たことがあるので暇なのだろうなあという他は無かった。
自分の店を持っている者などほんの一部。大体が手に職があれどもその日暮らしの独身男らであった。
そこらの一般人がお祭り感覚で豆を投げつけてくるならまだしも、江戸の忍者は忍びとしての仕事も無いのに無駄に鍛えている者が多い。それから逃げ切る……しかも、下手をすれば自分が何か願いを叶えてやらねばならない。
「おいこら亡八! 聞いておらぬぞ!」
「まあまあ、ほらこちらも負担しますので。年季明けの遊女の嫁入り先とか」
「むぐっ……」
文句を噤んだ。遊女上がりを見合いさせるプランは既に吉原の組合に知られているようだ。
こうなれば裏からコソコソとするのではなく、協力を取り付けるためと割り切って受けるか……そう九郎は思う。
あまりに馬鹿な要求をしたやつはぶん殴ろうと決めつつ。
影兵衛が大豆の入った升を明らかに一両分以上購入して朗らかに声を掛ける。
「九郎ー! 首洗って待ってろよー! 拙者と殺し愛しようぜ可愛い鬼ちゃんよー。クカカカカ!」
アレには特に一等にさせまいと、本気で避けて逃げることにした。
「仕方ない。とっとと始めるぞ」
「では陣太鼓で合図をしますので……用意──」
中央通り、仲ノ町の奥へと向き直りながら九郎は走り出そうと構えた。
参加者も一斉に、指先が色粉で汚れるのも気にせずに升から大豆を取って構える。
陣太鼓がどん、と威勢よく鳴り響いた。それを合図にスフィの歌も始まる。同時に、参加者は距離が近いことを最大限利用して絨毯爆撃のように遠くまで降り注ぐ波状攻撃として豆が一気に鬼へと投げつけられた。
以下に早く逃げようが重力加速を受けて十メートル以上先まで降り注ぐ豆の雨では鬼も避けきれまいと云う狙いだ。
だが、
「甘いわ馬鹿者共」
真っ直ぐに走って逃げると見せかけた九郎は即座に左へ向き直り、最も手前にある伏見町通りへと直角に曲がって逃げることで避ける。
吉原の通りを大雑把に説明すると、中央の仲ノ町が遊女屋を左右に分断していて、その遊女屋の裏手が吉原を囲む鉄漿溝と面した西河岸と羅生門河岸。縦の道はその三つである。
そして横道として、大門から見て右手西側から遊女屋の合間を通る、江戸町一丁目、桶屋町、京町一丁目。
左手東側に伏見町、江戸町二丁目、堺町、角町、京町二丁目と順番に道が並んでいる。
縦に三本、横に七本。その内で大門から最も手前の横道に九郎は逃げたのである。
「追え!」
と、最初の攻撃を避けられた参加者が次々に伏見町に追いかけて入っていく。少し頭の回るものは更に次の通り、江戸町二丁目や堺町の横道へと向かって前を塞ごうとする。
すれ違う者が九郎の素早い走りに目を丸くしつつ、九郎は全速力で伏見町通りを駆け抜けて羅生門河岸の縦道へ。そこから奥へ速度を落とさずに真っ直ぐに向かう。
時折背後から大豆が飛んでくるが、距離もあけている上に走りながらの投擲ではまず当たらない。
九郎の走りを遊女らが窓から身を乗り出して、騒動が近づくと何処だ何処だと見ようとする。
まず最初に入ったのは吉原で一番奥にある京町二丁目の遊女屋である。
あまりの迷いない走りっぷりに、その通りへたどり着いたときにはまだ誰も前を塞いでいないし、背後に迫る者も居ない。
九郎は地面から飛び上がって二階の窓から遊女屋に押し入った。
この時間は営業を停止して豆まきを待ち構えている。
「おーにーだーぞー」
言いながら面を顔にあてがい、九郎は部屋に集まっていた遊女らに云う。
すると女達は窓から入ってきたことにキャイキャイと驚き半分楽しさ半分で騒ぎ出して、他の部屋に居た者らも呼び寄せる。
まとめ役の花魁が笑い声を混じらせながら合図を出した。
「はい、みんなおやりなんせ」
「鬼はー外ー!」
一斉に九郎に、色粉の付いていない大豆が浴びせられる。
九郎もぴしぴしと素肌に豆が当たるのを確認して、お手上げのポーズを見せて退散しようとする。
遊女たちがとても盛り上がっているのがわかった。
「よし、それじゃあ次に──」
「あ、鬼ぃさん、これはお捻り」
「うむ?」
背中を向けた九郎のパンツに何か折りたたんだ紙が挟まれる。
引っ張るとそれは遊女を指名するための差し紙であった。これを使って揚屋に行けば、初見の客でも常連待遇である。
まあつまりゾクフーの姉ちゃんから貰うクーポンである。
「……」
「あー姐さんばっかりずるいー」
「うちも用意するから待ってーや」
「可愛い鬼ぃさんやもんね」
「いらん」
九郎は問答無用に遊女らの目の前で差し紙を破り捨てた。こんなものを持ち帰っては女達になんと言われるかわかったものではない。
せっかくのサービスを無碍にした九郎へ遊女達からの非難轟々の声が上がる。
「うわ酷ー」
「最低ー」
「鬼!」
鬼面をずらして笑みを見せながら九郎は告げる。
「うむ。鬼だからのう」
そう告げてさっさと部屋を後にして、見世を抜けて揚屋の入り口から外へ飛び出していった。
遊女屋に長居することはルール上許されない。次の通りへ向かい、遊女屋に入らなくてはならない。
「居たぞ! そっちだ!」
九郎の姿が見えなくてバラけて捜索していた参加者が左右から現れて声を上げた。
仲ノ町方面へと向けて体勢を低くして駆け出す。こうなれば小柄になっていたのは、的が小さくなって有利かもしれない。まあ、李自成モードだと拳の風圧で飛んでくる矢を落とす技とかあるのだが。
正面に二人。接近してくる九郎に対して、豆を升から補充して腕を振り上げた。
九郎は相手の右側に寄るようにして近づく。右手で豆をオーバースローの形で投げつける場合、どうしてもその軌道は右手よりも内側に撒くことになる。右手肩よりも更に右側へと投げるにはどうしても不自然な体勢になり、的に当てにくい。
数少ない九郎が父親から聞いた知識だ。投石でも銃弾でも、構えている相手の腕の外側へと逃げるようにすればそうそう当たるものじゃないと海外によく行っていた実父は云っていた。一緒に入った風呂で体に銃創を見つけたことも覚えているが。
二人の投げた豆を避けた。そのまますれ違って抜ける。升から大豆を掴んで投げるという動作は連射には向かない。
風切り音。九郎は路端に置かれている灯籠を咄嗟に掴んで体を隠すように掲げた。
がつんと強い衝撃。
「なんだ!? 今の豆ではなかろう!」
灯籠の木製な底面に突き刺さっていたのは、先端に鏃こそ付いていないものの矢であった。申し訳程度に、先端付近に幾つか大豆がくっついている。
大騒動で走り回る参加者を避ける為に、一般人は左右の茶屋に別れている仲ノ町中央通りに堂々と弓を構えた男が居た。
ざわ……と突然の凶器出現に静まり返る町中を、朗々と声が響く。
「面白そうだから参加しに来たぞ、九郎!」
「豆まきで弓矢を使う奴がいるか! 晃之介!」
九郎が鬼役をやると聞いて駆けつけてきた録山晃之介であった。購入した豆を膠でくっつけて射撃しているらしい。
「ここにいるぞ。大体、豆まきの元は追儺の儀式と云うのだが、詳しくは省くが弓も使う儀式だから大丈夫──だ!」
第二射が放たれた。九郎は行灯を正面に投げ捨てながら避ける。弓矢の構えている位置を見れば、矢は基本的に放物線を描いて真っ直ぐに飛ぶので問題ない。
はずだったが、
「曲がった!?」
横軸移動した九郎へ矢はカーブして追尾する。危ういところで、金棒を盾にして弾いた。
地面に落ちた矢をちらりと確認すると矢羽が均等に付いておらず、どうやら仕掛けをして空気抵抗で曲射するための矢のようだった。そしてやはり大豆が付いている。
弓矢まで持ち出している様子を櫓の上からスフィは歌いながら見るが、
(まあ……ペナルカンドの祭りでもよくあることじゃな!)
そう微妙にズレたことなので特に心配もせずに歌を続けた。
とりあえずこんなもので狙われてはたまらないと九郎は京町一丁目の通りに入る。
「行かせるかー!」
正面から大勢の気配。道を塞ぐ形で数名が大豆を構えていた。
膝を曲げて飛び上がる。一階の屋根を蹴って二階の屋根へ。2階建てで並んでいる遊女屋の屋根へと上がって次々に飛び移って移動する。
このまま撒こうかと思ったが、次々に遊女屋の屋根に鉤縄が掛かった。
「屋根の上だ! 上がれ!」
(普通に上がれるのかよ)
用意の良い忍びらが縄を使ってものの数秒で登ってくる。
九郎を見つけ次第、色粉を撒き散らしながら豆を投げつける。
弾が小さく散らばるので大きく避けつつ、九郎は近くにあった遊女屋の窓から内部に侵入した。
「おーにー」
適当に鬼面を付けつつ主張すると、楽しそうな遊女らが豆を持って九郎に撒いてくる。
パンツにねじ込まれた差し紙を焼き捨てつつ一階から出て次へと向かう。
入り口を固められる前に遊女屋を脱出するのが肝要だ。九郎が見世から飛び出ると、
「行けよォ!! マメェ!」
叫びと同時に投擲されたのは十間は離れた位置からだった。影兵衛だ。
ただし彼が投げたのは普通の豆ではない。色粉の付いた豆をモチに埋め込みまくって丸く固めたものだ。
人に向かって小柄を投げ慣れている影兵衛からの投球である。九郎は正確な狙いをどうにか上体を逸らして躱した。
そして──避けたはずの豆が、ブーメランのように戻って来たのを見てぎょっとする。
「豆餅なんだよォ!」
影兵衛の十八番、投擲物にテグスを巻きつけて操作する技だ。豆餅の表面が緊縛されて窪み、それでも九郎の脇腹に叩きつけられた。
「くっ……!」
搗きたてのお餅だったのだろうか。粘度が高く、ベッタリと豆を多く含んだままで付着した。誰が見ても被弾形跡だ。
「よっしゃあ! これが実戦だったら死んでたぜ九郎ちゃんよう!」
「パンイチで大量の男や弓兵から狙われまくる実戦ってどんな状況だよ」
忌々しそうにしながらモチを剥がそうとするが、屋根の上から豆の雨が降り出した。
登った連中が下にいる九郎に投げつけてきたのだ。
「くっ!!」
幾つか腕に被弾しつつ金棒を盾にして急いで離れる。
「俺が当てたぞ! 俺が当てたぞ!」
「しまった! 一枡使い切った!」
「豆を買い足しに行こう!」
と、早速豆が無くなった者まで現れだす始末である。
何せ的が小さく早いとはいえ、思いっきり手で握って投げつければ一枡とはいえそう持たない。すりきり一杯入っているわけではないのも嫌らしい商売を感じさせた。
賞金を余裕でオーバーするぐらいに買い足す者が現れるのも時間の問題だろう。
その点影兵衛は豆餅を当ててアドバンテージを得た後は堅実に、指弾で九郎に豆を飛ばしてくるようになった。
指の力で一粒ずつ弾けば弾の消費も押さえられ、また手の中だけで補充できて振る必要も無いので走りながらでも正確に撃てる。
「ええい、面倒な!」
「おじさんをあんまり走らせるなよ、息切れるんだから──っと頭上注意だぜぇ?」
影兵衛が指摘すると通りの中央を升がそのまま飛んでいた。
見上げた瞬間、その升を飛来した矢が破砕するように打ち抜き四方八方に色付き大豆を撒き散らして幾つか九郎に被弾する。
まるごと投げた升を破壊することで予想のつかない拡散弾にしたのである。
「おのれ晃之介め……金があるからと無駄遣いしおって!」
どう考えても、晃之介がわざわざ勝負事をして頼むようなことがあるとは思えないし、千両稼いだ近頃では一両欲しさに弓矢まで持ち出すはずもない。単にノリで参加したのだろう。
被弾の確認は櫓で歌うスフィの更に上の屋根から、亡八が南蛮渡来の望遠鏡を構えて行っているようだ。
「いやあ、あの御仁も凄いが集まった連中も無駄に凄い。ほら、複数人が連携して追い詰めていっている。おっアレはまさか伝説の『黄泉意富加牟豆』──! 使い手が江戸に居たとは……!」
「盛り上がっておるのー」
茶屋の傘を奪って弾幕を回避しているが傘は遊女屋に持ち込めず、やむを得ず九郎が置いて入るのが見えた。
スフィはそれを見ながら、あれだけ枯れてジジイをしていた九郎がこうして若返り元気に馬鹿をしているので懐かしいやら嬉しいやらでほろりと涙が出てくるのを堪えながら、追うのを諦めた参加者などが見上げて聴いている中で歌を続ける。
《 おにはそと♪
ふくはうち♪
いわしのあたまに♪
ひいらぎかざり♪
まめをまく♪
ようこそこいこい♪
ふくのかみ♪ 》
*******
どれだけ襲撃を受けようが遊女屋を周りきらなければ終わらないし、ジリ貧になる。
指定されていない、最下級の切見世局女郎が居る河岸に面する長屋などにもサービスで寄って豆を受けつつ終わらせる為に奔走した。
矢が付きて走り出そうとした晃之介から豆の入った升と財布を奪い取り再起不能にして、走り回って疲れた影兵衛に強い酒を飲ませてダウンさせたが忍び連中はとうとう技能を隠そうともせずに隠れ、待ち伏せ、しつこく襲ってくる。
なんとか遊女屋に逃げ込み一息付いて遊女から豆と歓待の声を受けつつ、残りのルートを思案する。
そろそろ回る遊女屋の数が少なくなっていることに忍びらも気づいている。大勢が協力して道を封鎖することも多かった。正面突破するには、敵の人数が多すぎる。
考えつつ下に降りていると、部屋が開いて遊女の一人が寄ってきた。
やや細身だが総刺繍が施された着物に俎帯を絢爛に結び、太夫か格子女郎らしい高い身分を思わせる身なりだった。見上げる目線は男に媚びつつも弄ぶような慣れた色をしていた。
「あー☆ 鬼さんでありんす~! お豆さん投げてもよろしゅうござんすか?」
「ん? ああ、どうぞ」
「みゅふふー……」
太夫は升から──色粉の付いた豆を取り出して至近距離から九郎に投げつけた。
「しゃばあああ!!」
「うわ危な──っ!」
咄嗟に九郎はブリッジ回避しつつ升を蹴り飛ばした。廊下に色粉が舞う。
「ちい! 大部分は外れたでありんす!」
「なぁにをやっとるか! お主、玉菊……じゃなかった歌麿だろ!」
「吉原でのお祭りにボクが参加しないと思ったら大間違いマロ! こうして待ち構えていたのさ!」
「ええい、そのようなだまし討ちをしてまで、一体なんの願いがあるというのだ!?」
「ボクはただ、兄さんにこのお酒を呑んで欲しいだけマロ!」
歌麿が取り出したのは何か強烈などくだみのような匂いのする徳利であった。
顔を顰めて九郎は尋ねる。
「なんだそれ」
「飲むと眠くなって寝ている間に助平なことをしても体は反応するけど起きないお薬……お酒」
「せっ」
「ボクのヤクがー!」
徳利を奪って窓から投げ捨てた。
弟分が如何わしいことを考えていることに頭痛がしてくる。しかも吉原から足抜けしたのにわざわざ吉原で女装までして。
九郎は涙を流いて嘆く女装歌麿を見て、ふと思いついた。罪悪感ではない。
「よし、ちょっとお主盾になれ」
「え?」
暫くして出口を固めていた参加者は、九郎が遊女と思しき娘を盾にして豆から己の身を守りつつ強行突破するのを見て、
「鬼かあいつは!」
と、戦慄するのであった。
肉の盾戦法により効率よく包囲を抜けて、九郎はどうにかこうにか遊女屋を廻りきり、終わりの合図が太鼓から鳴り響いた。
全身色粉まみれ──とまでは行かないがさすがに九郎もあちこち被弾の跡が残る体になっている。
もし豆が鬼にとって効果的な武器だったならば致命傷になっているだろう。
飛んだり跳ねたり飛び降りたりしてさすがに九郎も疲れた。参加者と仲ノ町に建てられている櫓下へ集まり、大きく息を吐く。
(軽い気持ちで引き受けたのに大変な目にあってしまった)
脇腹にくっついたモチがカピカピとして気持ち悪い。やや背中側にあり、自分では見えにくいのがもどかしかった。
「やっぱり一等は拙者だろ。直撃だぜ直撃」
「いや、俺が矢でぶち撒けた分がかなり頭に当たったはずだ。頭が急所だろう」
「マロローン……兄さんよりボクの方が全身色粉まみれ……ハッ!? もしかしてこれは一発冗句、[色男]をやれば……」
「ぷっくっくくく……」
「道場の兄ちゃんそんなのでウケるのかよ!?」
などと思い思いに誰が当てたか、一等は誰かを話し合っていた。
九郎はどうとでもなれと云う気持ちで見ている。もはや誰の豆に一番当たったかなど、覚えても居なかった。
「おーい、クロー」
やや上の方から呼びかける声があった。九郎が仰ぐとスフィが櫓の上から下りてくる途中でハシゴから手を振っている。
「飛び込むから受け止めてくれー」
「おいおい、己れは色粉でべったりだぞ。受け止めると汚くなる」
「なあに、気にせんよ」
スフィは笑いながらハシゴから手を離して、下に居る九郎の元へ体を預けた。
戸惑ったような顔をしながら九郎も金棒を放り捨てて受け止めようとする。
ほんの二メートル程の落下だったが、スフィはとても楽しんでいるような顔をしているのが九郎には不思議だった。
(なんとなく思い出すのー。クローが人から追われて、魔女と一緒に汚名を受けて、私が一緒に行こうとしたら)
──お主まで指名手配になるから止めておけ。
そう云ってやんわりと断られた。汚名でべったりで、汚くなるから近づかない方が良いと。
(こうして、今は一緒に汚れることができるのが──)
考えながらも、九郎がスフィを抱きとめる。
一体どうしたのかといった目で九郎がスフィを見ていると、彼女はにっこりと笑みを浮かべて少し離れ、
「──とりゃー!」
色粉の付いた豆を一枡全部九郎にぶち撒けた。
「ぬわー!?」
「よし! これで私が一等賞じゃな!」
「ひ、酷ェ──!!」
一斉にスフィの奇襲に対して非難の声が上がった。
試合終了後にまさかの裏切りである。九郎も唖然としている。
スフィに続いて梯子を下りてきた亡八が、九郎の視線を受けてさも、
『こちらも負担するって云ったでしょう?』
と、ばかりに半面をコツコツと叩いた。端からスフィを言いくるめて、盤返しの優勝者を用意しておく算段だったのだ。
誰かが一等になって何の願いを云うかより、九郎の身内に取らせたほうが良いと判断して。
「そんなのありか」とか「終了後だっただろう」とか文句を次々に云う参加者達に、亡八は声を張って云う。
「えっ!? もしかして皆さん……ほら、こんな小さな子が一等を取ろうと頑張ったのに、自分の方が相応しいとか云って子供から奪うんですか? いたいけな少女から! 人でなし! お金は払うっていってるのに女の子の願いを奪うなんて!」
「うぐっ……」
「亡八にだけは言われたくない罵り文句だ……」
集まっている殆どは九郎を知っていてスフィが彼の身内であるのも知っているので、ヤラセ感丸わかりではあったが。
正面からそう言われると中々主張しにくい問題があった。
大した望みも無かった晃之介と影兵衛は腰に手を当てて呆れたように息を吐きつつも笑顔で、
「まあ、いいんじゃないか? 優先したい頼み事があるなら九郎に菓子折り礼金でも包んで持っていくべきだな」
「九郎。拙者ァ信じてるぜ? そのうちまた殺りあえるって……」
忍びらは肩を落として項垂れた。
まあ、見合いも待っていればそのうち来るであろうし、何か新商品や欲しい物がある場合は対価を用意するのは当然ではあるので一応は渋々納得するのであった。
亡八がすっかりやり込められた皆を満足そうに見回して、
「では寿司ぃどの」
「スフィじゃ」
微妙に発音が難しいようである。実際のところ、江戸訛で云えばスフィがスシィになるのはあり得る話だ。コーヒーがコーシーになる例を考えれば。
しかしスシィが違うということでなんとか発音の妥協点を亡八は見つけた。
「周布院……周布院どの。鬼から福の神になった九郎どのに、ほら願いをどうぞ」
「寺か温泉地のような名前だのう」
「うーみゅ」
スフィは九郎の体をじろじろと眺め回して、願いを告げた。
「じゃあ色粉で汚れておるし、帰って一緒に風呂へ入るかのー。背中を流してやるのじゃよ。モチがくっついておるし」
「む? 願いはどうしたのだ?」
特別なこととは思えず、九郎は首を傾げて聞き返すとスフィは満面の笑みを浮かべて告げる。
辛気臭かった忍びも、見物をしている吉原の客などもハッとする綺麗な笑顔であった。
「いいのじゃ。クローと毎日過ごしているだけで、私の願いは毎日叶っておるのだからな。クローが側にいれば、特別なこともなく私はいつも幸せで嬉しいのじゃよー」
九郎も疲れが取れたような顔を返して、スフィの手を取った。
きっと自分と彼女の関係はそういうものなのだ。お互いに、近くに入れば何事も無く穏やかな幸せを感じられる。
「……そうか。うむ。己れもだよ。さて、帰るか……おや?」
項垂れていた忍び共が一斉に倒れ伏し、もぞもぞと死にかけの蚯蚓のように動きながら地面や己の体に爪を立てて居た。
「う、羨ましい……! ずるい……!」
「口が甘ったるい……! 誰か蕗の薹でも持ってきて口に放り込んでくれ……!」
「幸せになぁれ……! 幸せになぁれ……!」
自分達を取り巻く現実とラブいところを見せつけた九郎とスフィとの違いに、全身が耐えきれなくなる忍び達であった……
とりあえずこうして、九郎の吉原豆まきは終わる事となる。
名前と顔を売った九郎は遊女上がりを嫁に斡旋する仕事が問題なく進むようになり、多方面から感謝されることとなるのであった。
スフィ「どうりで時々寿司ィに聞こえると思ったら訛りだったのか……」




