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35話『二人の同心の息子/六天流道場新たな入門者の話』




 中山影兵衛とその家族は、八丁堀に住んでいる。

 本来八丁堀は町奉行所所属の同心・与力が住む場所であって、火付盗賊改方とは所属が違うのである。現代日本で言えば警察官社宅に公安の一家が入って来て住むようなもので、微妙に浮く存在ではあった。

 ただ八丁堀の同心与力屋敷で使っていない敷地の幾つかを火付盗賊改方が一時借り受けていたことがあったのだ。御手先組の組屋敷が火事で焼け落ちてしまったので仮の住居として八丁堀を借りたのだが、それから影兵衛は引っ越さず居残っている。

 浮いていることは浮いているのだが、切り裂き同心に面と向かって文句を言う町方同心は居ないことと、影兵衛は元来コミュニケーション能力に優れて人切りモードにさえ入らなければ気のいい中年親父であったので何年も住めばそれなりに馴染んできたようだ。

 何より、影兵衛としては家族の安全を守るのに非常に都合が良い為にここに住んでいるのだが。

 町方の同心与力が二百数十人も住んでいる街だけあって、八丁堀全体が江戸でも有数に治安の良い街なのであった。


 八丁堀にて明朝、袴を着た影兵衛は見送りに出てきた妻子に笑顔を見せた。嫁の睦月と、息子の新助だ。他に娘が二人居るが、一人はまだ赤子であるしまだ家の中で二人眠っているようであった。

 新助は六つでまだ影兵衛の腹ほどまでしか背丈の無い小さな少年である。目元が母親に似ていて柔らかいのは、九郎に言わせれば「母に似て良かった……」とのことだ。少なくとも父親譲りの凶悪犯に似たな眼差しではない。


「それじゃあ行ってくるからな~! むっちゃん!」

「はいよう、旦那様」


 むぎゅっと抱き合って仕事へ向かうのは毎朝の事だ。それを息子の新助が呆れたように見ているのも。

 高い声で冗談めかして新助は言う。

 

「毎朝飽きないですね父上」

「馬鹿野郎! 拙者がむっちゃんに飽きるわけねえだろ!」

「えへへ」


 嬉しそうに笑う睦月を手に、放っておくと口吸いまで始めるので新助は早く送り出そうと笠を手渡す。

 近所に見られてはいまいち気まずいと思う早熟な息子である。両親の夫婦仲が良いのは彼も承知しているのだが、世間の夫婦はそれほど良くないという比較もできていたのであまり目立ちたく無かった。


「はい、はい。行ってらっしゃい父上」

「おうよ。新助ェ! 今日は初めてだからしっかり挨拶すんだぞ」

「勿論ですよ、父上。正太郎と共に励んで参ります」


 涼しい顔で利口に告げる息子を見て影兵衛は頭を撫で回す。


「頑張れよ。強くなって悪ィことはねェからな。母ちゃんを守れるように。妹を守れるように。自分自身を守れるように」

「承知」

「うん。まあとにかく頑張れ。……なんかやけに素直なんだよな、俺がガキの頃は木の枝振り回して石礫を投げまくって遊んでた気がするが……」


 首を傾げながら、影兵衛は背中を向けて火付盗賊改方の役宅へと向かっていった。

 年も明けて、息子もそろそろ七つになる。本格的に剣術を学ぶには早くない年頃だ。影兵衛は幾つかの道場に伝手があるが、中でも子供の時分から度胸や体力を鍛えてくれる晃之介の道場に話を通し、ひとまず基本を学ばせることにした。

 あの道場は入門が若ければなお強くなれるというし、実際単なる町娘に過ぎなかったお八が鍛え上げられたことでそこらの武士より余程強くなっているのを影兵衛も知っている。それに基本的な体力と心構えを付けてから他の道場にも通わせればより効果的でもある。

 新助が強くなれば、家族が誰かに襲われるのではないかという心配の負担も減る。


「強く、正しくなれよ。お前ならできる」


 影兵衛は笠を深く被って歩きながら独りごちた。

 正しくない人斬りのツケとして家族を狙われる恐怖に今更怯えている自分とは違い、新助は頭がよく回り、利発で礼儀も正しい。きっと良い男になると、影兵衛は親ばかを自覚しながらもそう考えていた。




 ******




 父親を見送って新助と睦月は改めて家の中に入った。

 

「新ちゃん、道場へ行く前にお腹いっぱい食べて行くんだよう!」

「母上。腹八分が一番ですよ。それに聞いた話によると、六天流の道場稽古というのはきついものらしいですから満腹では気分が悪くなる。喉に支えぬように湯漬けにして頂いて行きます」

「恐ろしい子……!」


 冷静に稽古のための食事を考えている息子に、睦月は思わず白目になって慄いた。

 四つぐらいの頃までは普通に影兵衛に肩車をせがんでとーちゃんかーちゃんと呼び、鼻も垂れていたような何処にでもいる子供だったのだがここ二年程でかなり物心が付いた。

 子供の成長は早いものであるが、恐らくは八丁堀に居て父親の職業的疎外感を受けて社会性を身に着けたのだろう。人に迷惑を掛けず、両親の評価を下げないような真面目な子供になるようにと。

 八丁堀の同心以外に貸し出している住居には、学者などもよく入っている。それから文字も習って、簡単な絵付きの黄表紙本ならばどうにか読めるようになっているのも向上心のなせることだろう。


「それにしても、道場の道具はどうするの?」

「木剣とかは道場の方が、体に合った大きさで用意してくれるそうで」

「なら良いけれど……あっ正太郎くんとも一緒に行くのよね。仲良くして、お兄ちゃんなんだから気を掛けてあげてね」

「わかりました」


 新助は愛想の良い笑みを浮かべて頷き、たくあん漬けと湯漬けを啜った。湯漬けには紫蘇と若芽を味付けして胡麻を混ぜたふりかけが混ぜられている。固い飯にも良く合うが、おかゆや湯漬けに混ぜ込んでも旨い。

 そしておかずには干物を炙ってほぐした魚の身が小鉢に取り分けられている。影兵衛への酒の肴に、予め睦月が丹念に小骨を取り除いてほぐし身をたっぷり作り置きしているのである。今朝、影兵衛はそのほぐし身に生卵を混ぜて飯に掛けて食べていた。握り飯に入れても塩気がじんわりと飯に染みて、いける。

 手早く朝飯を食べ終え、裏手の溝で歯を磨く。父からとにかく歯を大事にすることを教えられていた。噛みしめれば人の力は三割増しにもなる。腹が立ってもしんどくても歯を食いしばれば三割は耐えられる。そんなことを影兵衛は教えている。

 出かける準備を整える。懐には短刀を忍ばせた。武士は幼かろうが刀を持っているべきだと影兵衛は云って渡したものだ。とはいえ、抜く時と抜かない時の区別は口を酸っぱくして教えられている。

 

(そういった、早く一人前になって欲しいというのが父上の願いなんだ)


 幼少期から教え込まれる心得を、口うるさいと思うか応えねばと思うかは子供次第である。新助が自然と後者になったのは、父親の仕事が火付盗賊改方で市中の平和を守ることと、新助にも守るべき妹が二人居るからそうなったのだろう。

 

「行ってまいります」

「気をつけてね」


 家を出発した新助はまず近所の家へ向かった。

 共に道場に通うことになった幼馴染と合流するのだ。[菅山]と表札の掛かった戸を控えめに叩いて開ける。


「おはようございます。新助です」

「あら。おはようございます」


 そう返事をしたのは、菅山家のご新造である瑞葉であった。やや物静かで表情の変化に乏しいところがあるが、近所でも旦那には勿体無いと評判の美人な良妻であった。

 幼いころからの兄貴分で初恋であった稚児趣味野郎で人間失格な菅山利悟へ、周囲の者の協力もあり嫁入りを果たした。

 そして寝たがらない利悟に催眠術や洗脳、コスプレなどを駆使して誘惑し見事に男児を産み育てているのである。

 菅山正太郎というのがその息子で、新助の一歳年下だが歳も近いので友人として共に過ごしていた。


「正太郎の準備はできていますか?」

「ええ。正太郎。新助さんが来ましたよ」


 母親から呼ばれて、隣室に居て着替えていたようだ。

 庶民の暮らす長屋と違い、下級の武士とはいえ同心の家である。四畳程の部屋が三つか四つに物置なども付いていてそれなりにゆったりとした広さがある。

 

「へーい」

 

 どこか投げやりな声がして障子戸を開けて、外行の恰好に着替えた少年が出てきた。

 色の白い少年である。一つ下とはいえ新助に比べて手足も細く、しかし髪の毛はかなり長い。七歳前後の少年がする髪型というのは、前髪を垂らして後ろは伸ばした髪の毛を布でお下げのように纏めていることが多い(若衆髷を結うための準備で伸ばしている)ので、女顔も相まって少女のようだった。

 利悟はまったく実の息子にそんなつもりは無いのだが──お稚児さんのようだと言われるぐらい可愛らしい男の子なので、本人もいい気分はしないためにあまり外には出歩かず、精々友人は新助しか居ない子供なのである。


「正太郎。道場に行きましょうか」

「あいよー。頑張ろうぞー」


 新助と同じく今年から晃之介の道場に通うことにしたのは、あまりに正太郎が引きこもり気味になるのを懸念した両親の考えもあった。

 正太郎も、体を鍛えれば男らしくなると影兵衛に言われて通うことを承諾した。それに一人で行くよりは、友人と共に通ったほうが不安も少なかろうという配慮もある。


「それでは新助さん。うちの正太郎をどうかよろしくお願いします」

「いえ、行き帰り一緒にするだけですから」

「何か危ないことがあったらすぐに番小屋にでも逃げるのですよ。迷ったり困ったりしたら──」

「大きな通りでお店をやってる人に聞く、ですね」


 知らない人に聞くよりはしっかり土地を持っていて商売をしている人の方が信用できるという教えであった。

 とはいえ6歳の子供二人だけで道場に行かせるのは不安もあるのだが、一応影兵衛の方が手先の小者を後ろから付いて行かせてくれるようだ。

 利悟は武士なのに碌に従者などが居ないというか、名前だけ貸してくれた親戚の寝たきり爺さんがそれに当たるので当然ながら付いてはいけない。


(九郎さんに頼んでおけば良かったのだけれど)


 夫婦共通の知り合いで信頼がおける男の事を思ったが、ここ暫く忙しそうで捕まらなかったのが残念であった。

 歩いて行く小さな二人を見送る。影兵衛の方は「子供だけで道場までたどり着くことがまず修行だろう」と主張し、利悟はひたすら心配してついて行きたがったのだが職場がその理由で休めるはずもなく、泣く泣く今朝も奉行所へ出ていったのである。

 母親が道場についていくなどは武家としてできないので、瑞葉も歯噛みしながら手を振った。




 *******




 八丁堀の外には正太郎は殆ど出たことがない。一方で、新助は何度も父親に連れられてあちこち出かけているので道場へ向かう主導は新助が手を引いて向かっていた。

 というよりも実際、六天流の道場にも行ったことはあった。良いところを見せようとした影兵衛と同じく息子の前で張り切った晃之介の勝負も見せられて、子供心ながら「何かこの二人の戦闘力ヤバイのでは」と認識したのを覚えている。

 きょろきょろと手を引かれながら通りを見回している正太郎を連れて新助はなるべく見覚えのある大きな通りを進んでいく。


「おー。なんだ、全然どこ歩いてるのかわからないな」


 低い背丈に初めて歩く街では方向感覚も危ういだろう。普段以上に正太郎はふらふらと歩いていて、危なっかしい。

 とぼけた声で言う正太郎にやや不安を憶えながらも、


「はぐれないようにしてくださいね。さすがに居なくなったら新助では探しきれません」

「そしたらどうするんだ?」

「とりあえず父上か……父上のご友人の、九郎さんという人探しが得意な方に相談して探してもらいます」

「九郎。ああ、知ってる。会ったこと無いけど親父がよく殴られてるって……危なくないか?」


 正太郎が顔を曇らせる。

 大抵の場合は利悟が屋敷にやってきてロリを拝んでいるので殴られるのだったが、子供に伝わる情報としては警察をやってる父を叱り飛ばす怖い人というイメージが付いているのだろう。


「……『頼るのはいいが絶対憧れたりするな』とか何とか父上も云っていましたが、まあ普通の人でしたよ。何度か会ったことがありますけれど」

「ふーん」


 子供を自慢したがりな影兵衛に連れられて、赤ん坊の頃から九郎には何度か会っている新助である。

 九郎が異世界から再び帰ってきてからは一度か二度程度だが、彼としてはよくわからない仕事をして父親を手助けしているお兄さんといった普通の印象であった。


「それにしても賑やかなー」

「正太郎はあまり組屋敷の敷地からも出ませんからね。まあ、なんというか……」

「?」


 じろじろと正太郎の姿を見て新助は思う。

 なんとなくだが、とても攫われやすそうな容姿をしている気がする。見た目が同性の新助から見ても可愛らしいのであった。

 八丁堀はまだ治安が良いから問題は無いのだろうが、こうして外に子供だけで歩いているとそこはかとなく危険を感じる。

 新助は強く正太郎の手首を握ってぎこちなく足を早めた。僅かに体勢を崩しながら、正太郎はついていく。


「大丈夫。父上が悪党を懲らしめてるんだから、危なくなんてないはず」

「いやでもうちの親父はよくお袋に『正太郎は危ないって! 絶対変態に狙われるからあんまり外に出さない方がいいって! 拙者が変態なら狙うもん!』とか言ってたりしたから……ヘンタイは居る?」

「君の父上殿は病気だ!」


 言いながら足早に進んでいく。子供二人が手を繋いで急ぎ歩いている姿というものは目立つものがあった。

 二人に不意に目を止めて、話しかけてくる者が居た。


「うむ? おい、新助ではないか」


 声を掛けられて顔を向け、空を仰ぐように見えると巨人のような男女が新助を見下ろしていて、思わず息を呑んだ。

 硬直した少年に、男の方がひょいとしゃがんで目線を合わせてくる。


「己れだ己れ。お主の親父と友達の九郎おじさんだ」

「……!? え? ええと……本当だ」


 安心させるように笑みを見せる年上の青年に、新助は動転しながらもそれを認めた。

 果たしてその九郎おじさんはこんなに巨大だっただろうかとも思うが、新助目線で見れば普段の少年姿も今の青年姿も見上げるような高身長であったのでどうにか記憶違いで処理できたようだ。

 

「うわ何この大きい人!?」

「うん? これは? 妹か誰かか?」


 驚いている正太郎に九郎が視線をやって首を傾げる。


「彼女……いや違った、彼は菅山正太郎と云います」

「菅山……? ああ、利悟の息子……か……?」

「ど、どうも」


 じっと九郎は訝しがる目で正太郎を見やり、難しげに目元を揉んだ。


「利悟とはしっかり話し合わねばならんな。息子を女装させる趣味とはけしからん」

「いやこの髪型は普通に武士だったら男女両方するものですから!」

「そうなのか?」


 新助の説明に九郎は目を丸くして、ひとまずしゃがんでいた腰を上げた。

 やはり子供らが見上げるとそこらの人間より頭一つは大きい。ついでに言うと、九郎の隣に立っている女性まで背が高かった。

 髪の長いほっそりとした女性は片手に杖を付いていて九郎を見て尋ねた。


「九郎君。この子供達はどちらさまでありますか?」

「ああ。影兵衛と利悟の子供だ」

「なんと!? あの二人の……そうかあ、男同士でも子供ってできるのでありますなあ」

「気色悪い想像をするな!」

影利カゲトシ

「専門っぽく略すな! 影兵衛と嫁の子と、利悟と嫁の子だ!」

「わかってて茶化したでのーんた♥」


 九郎は夕鶴の額を指で弾いた。「あう」と言いながら顔を上に逸らす夕鶴だが、よろめいたり倒れたりしないように杖を持つ反対の手は九郎と組んで繋いでいる。

 額を押さえて涙目になっている夕鶴を指差して新助が聞いた。


「あの、そちらの方は?」

「こやつは己れの…………なんだろうなあ、仇討ちも終わったし」


 居候というには九郎も屋敷の主人というわけでは、まだ無い。

 夕鶴は指を立てると九郎に提案した。


「九郎君に目を掛けられている女というあたりでいいのではありませんか?」

「間違ってはいないな」

「略して『妾女(めかけおんな)』で」

「不純になった感があるな!」

「ちなみに九郎君。めかけという立場の定義は旦那が衣食住の保障を与え、その代わりに旦那へ家事などで生活の面倒を見てやる、お嫁さん公認の女のことでありますな。あれれー? 自分、何か現状そのものではありませんか?」

「……」


 九郎は己れの顔を手で覆って背けた。


「……まだ己れ嫁居ないし」

「あんまり面倒なこと云ってると自分が嫁になるでありますよ? 子供とかできて」

「いやそれはちょっと……影兵衛とか六科とかに殺されるし……順番というものがだな」


 たじたじとしている九郎に、子供二人はわけが分からず顔を見合わせている。


「何を話し合ってるんだ?」

「さあ……ひょっとして、九郎さんが見る度に違う女の人を連れているのと関係があるのだろうか」

「とにかく!」


 咳払いが聞こえて九郎は話を戻した。


「この夕鶴はもう大分良くなったが足を軽く怪我しておってな。天気も良いから、歩く練習も兼ねて馴染みの蕎麦屋まで連れて行っておったのだ。お主らはどこへ?」

「はい、ええと──」


 新助は今日から父親の勧めで六天流の道場に二人通うことを伝えた。


「なるほど。そういえば今朝からお八が張り切っておったのう。しかし二人だけでは危なっかしい。ちょいと蕎麦屋に寄り道をして、己れが連れて行ってやろう」


 九郎の勧めに、新助は一瞬自分らの力だけで道場に向かうことを考えたが。

 正太郎を連れていて、初日だということも考えて素直に九郎の提案に従うのであった。

 蕎麦屋[緑のむじな亭]へ向かう九郎と夕鶴について二人の少年は歩いて行く。

 ひそひそと正太郎が新助に話しかけてきた。


「大丈夫かな。うちの親父が言うには、九郎って人は小さな女の子をお婆さんみたいに喋らせて喜んでいる外道だって云ってたけど」

「多分それは大いに君の父上殿がひがんでいるだけだよ……」


 その言葉も九郎の耳に入って、さすがに子供の前では云わないが後で利悟をねじることに決めた。


「ほらちゃんと大きな、大人の女の人と仲良さそうじゃないか」

「んふふ~」


 新助の言葉が聞こえて夕鶴は嬉しそうに九郎に体を寄せた。

 ため息を付きながら九郎は夕鶴が転ばぬように支える。どうしてここまで懐かれたものだろうかとも思うが心当たりはあるので何とも言えない。散々甘やかしてみたのは自分だった。


「はあ……」

「九郎君。ため息をしていると……」

「幸せが逃げるか?」

「関ヶ原で負けるであります」

「思ったより大事だった」

「まあまあ。あんまりがっかりされると、こっちも悲しくなるでありますよ」

「そうか」

「関ヶ原後に毛利の殿様が領地全没収食らった後で、没収される原因になった吉川広家が殿様に云った言葉であります」

「慰め方下手くそだな吉川……というか関ヶ原引っ張るなよ」

「なあに萩じゃあ今でも引っ張りっぱなしでありますよ関ヶ原」

「薩摩じゃあ関が原を忘れるなという言葉でチェスト関ヶ原というらしいが、萩でも何かあるのか?」

「チェスト空弁当であります」

「チェストは残すのかよ!?」

「のーんた♥」


 冗談めかした夕鶴の額をまた小突くと、彼女は嬉しそうに笑って「酷いでありますな」と返した。

 無駄に仲の良さそうな様子を見せつつ一行は暫く歩き、店を開けた緑のむじな亭に入った。

 まだ客も入っていない。暖簾を潜ると、むっつりとした顔で板場に立って仕込みをしている六科が目を向けた。

 九郎と寄り添っている夕鶴の二人に。

 目が怖かった。

 

「目を光らせてこっちを睨むな六科。なんだその機能は。夕鶴に手を貸して来ただけだ」

「店の中で給仕をするぐらいなら何とか歩けるでありますからな。お手伝いに来たであります」

「そうか。助かる」


 ぐぽんと水をくぐるような音を何処からか発し、目の光を消す。 

 ひとまず夕鶴を座敷に座らせるために九郎は手を貸す。九郎に一旦抱きつくようにして体重を預け、夕鶴は座った。

 この店にも夕鶴はそれなりに来る方である。彼女の雇い主はこの数年間、石燕から六科の娘である豊房になっていたのだから彼女から頼まれて店を手伝うことも何度もあった。

 なのだが、どうも夕鶴の九郎に対する様子がちょっと見ない間に随分と変わっていないだろうか。

 具体的には九郎に触れるたびに夕鶴の体温があちこち上昇していると六科の目は把握していた。

 怪しむ六科に、九郎は近づいて冷や汗を垂らしながら云う。


「大丈夫だ。安心しろ。フサ子は……大丈夫だ」

「天狗の肉を食うと万病に効くらしい」

「大丈夫だからなその変な知識は忘れろ!」


 何か必死に説き伏せた。その尋常じゃない様子を入り口から入ってきた少年二人が見ている。


「ええと、あの二人を連れて晃之介の道場に行くのだが、土産に何か食い物は無いか? 昨日の残りなどでも良いぞ」


 九郎が二分金を差し出すと、六科はそれを受け取らずに九郎の懐に押し戻した。そして温めていた出汁で煮た大根を土鍋にたっぷりと詰めて、練り味噌の入った小鉢も渡す。


「ありがとうよ」


 と、九郎は素直に受け取って礼をする。

 その間、奥の部屋からじっと六科の娘、お風が店内を見ていて正太郎と目を合わせていた。

 ふとその存在に新助も気づいて、軽く手を上げて会釈したらびくりと震えてお風はぴゅっと奥へと引っ込んでいってしまった。

 人当たりの良さで八丁堀では通っている新助は僅かに傷ついて肩を落とす。


「時々父上に連れられて来るんだけど、まともに顔を合わせてくれることが無いんです、あの子」

「お風は人見知りだからのう。ひたすら無害そうにぼーっとしておる長喜丸は平気なのだが」

「んん? あれひょっとしておれって、女の子だと思われてたからこっち見てたんじゃ?」

「気をつけろよ。この長屋は女装の元専門家が住んでおるから」


 歌麿が出てきて話を面倒くさいことにさせる前に九郎は鍋を持って二人と店を出て、道場に向かうことにした。


「では夕鶴。帰りに迎えに来るからのう」

「了解であります。行ってらっしゃいであります旦那様♥」

「六科の目が光っておるから! 冗談でも場所を選べ!」


 場所を選んだら何がいいんだろうか。子供達は九郎に対して謎の疑問を浮かべっぱなしであった。

 やはりイマイチ教育に悪い男である。




 *********



 

 

 さっさと道場に向かうならば姿を消して飛んでいくのが早いが、今後も通うとなると道を憶えねばならないのでわかりやすい道を通って大きな寺などを目印に進み、やがて畑に囲まれた道へと行き着いた。子供の足でも一時間も歩けばごみごみとした喧騒から抜けて田園風景が見えるのが当時の江戸である。

 道場にたどり着き、玄関から中に入ると晃之介の弟子四人──お八、お七、靂、小唄が一斉に道場を拭き掃除していた。

 鬼気迫る勢いで雑巾がけをしつつ道場の外側を周回しており、何やら競争をしているようだ。特に先頭を行くお八とお七が拳や足払いの応酬を、速度も落とさずに打ち合っていた。


「くししし! どうした真似っ子娘! 久しぶりに帰ってきたら鈍ってんじゃねーか!?」

「へっ。こちとら誰かさんと違ってお胸にお肉がついたもんでな! ちょっと重たくて困っちゃうぜ!」

「ぶっころ」


 それに一歩遅れて靂と小唄が並んでいて、こちらも走りながら攻撃を仕掛けているようなのだが、


「うわっ!? な、ちょっ!? 小唄、きみさっきから僕の尻とか集中的に攻撃していないか!?」

「仕方ないんだ靂! これは鍛錬だからな! 仕方ないんだ!」

「撫で回すなあー!!」


 セクハラを仕掛ける小唄の手を跳ね除け続けている靂という構図のようだった。

 ぽかんと九郎が見ていると、目の前に軽い音を立てて梁の上から晃之介が降りてきた。


「九郎。今日は大きい方か。それに入門希望の二人だな。よし、皆雑巾がけを止め!」


 晃之介が指示を出すと、ゆるゆると速度を緩めて四人は道場の端に座り込んだ。ひたすら周回をさせられていたのだろう。それぞれの体からは湯気が上がっていて、小唄はだらしなく顔を緩めていた。

 

「今日が道場初めだったものだからな。掃除をさせるついでに低い姿勢での組手をやらせてみてたんだが……」


 頭を掻きながら晃之介は四人に向かって云う。


「上から見ていてわかった。周回してもあまり磨けていないな、床。四人とも隅から隅まで並んで拭き直すように」

「師匠酷ェ!!」

「こちとら嫁入り先の掃除で疲れてんだぞー!」

「つらい」

「靂? しっかりしろ! 靂……靂の太腿固くなってるぞぉ……! うふふ」


 散々やらせた上での掃除やり直しで弟子達はがっくりとするのであった。小唄は困憊して動けない靂の太腿を揉みしだいていたが。

 ひとまず晃之介は新助と正太郎を上げて四人の兄姉弟子を紹介しつつ道場の指導方針などについて説明を始めた。

 その間に九郎は鍋を持って道場の裏、自宅の方へと顔を出す。


「おい子興や。煮込み大根を持ってきたぞ」

「あら、いらっしゃい九郎お父さん。竈に置いてくれる?」

「うむ。練り味噌もあるぞ」

「お店から持ってきたの? じゃあきっと、練り味噌は歌麿くんが作ったのよう。前に小生と二人で美味しい練り味噌を作ろうといろいろ試したもの」

「ほう……ちょっと味見をしてみるか」


 九郎が大根の欠片を箸で取って味噌に付けて食べてみると、まとまりのある甘さを感じて僅かに爽やかな味わいだった。六科の好みか塩気の多い出汁をよく染み込ませた大根の僅かに苦味を残した味わいに、ほどよく合う。

 

「味噌にお酒と砂糖を加えて、柚子と陳皮を半々で混ぜて入れてるのよう」

「うむ。旨い旨い」

「今日はお弟子が沢山居るから、お昼はいっぱい作るから食べていってね」

「そうさせて貰うよ。長喜丸は?」

「鶏に餌をあげに行ったよ。どうやら動物が好きみたいで」


 晃之介が甚八丸から貰い受けた烏骨鶏だろう。美しいほどに真っ白い姿をしたその鶏は、小型なので愛玩用にもなる。

 ちらりと竈の上にある窓から庭を覗くと大雑把に板で囲んだ鶏舎があり、その中で長喜丸は座っている烏骨鶏とじっと見つめ合っていた。なんとも不思議な感じがするが、鶏に襲われるような雰囲気ではないのでひとまず大丈夫だろうと九郎も判断する。

 道場に戻ると拭き掃除も終えて、少年二人と晃之介は座って向き合い話し合っているようだった。


「あのう、おれはこの通りひょろっちい体なんだけど、ついていけるかな」


 同年代の新助よりも随分とか弱く見える正太郎がそう尋ねた。

 とはいえ彼らは成長期にあり、毎年5センチから7センチほども伸びていく年頃だ。一歳の年齢差でもかなり違って見えるのは仕方ないだろう。

 晃之介は頷く。


「大丈夫だ。体が出来上がるまではそこまで厳しい修行ではないしな。度胸を身に着け、体を動かすコツを掴み、徐々に体力を付けていく。よく動きよく食べてよく眠れば自然と鍛錬にもついていけるようになるだろう」

「よ、よくわからないけどそれなら──」


 正太郎が目を輝かせて応えると、弟子の四人は一斉に顔を逸らした。


(きっと君が想像している百倍ぐらいつらいけどね多分)


 靂はそんなことを思ったが、口には出さなかった。彼の師匠の云う「控えめ」は普通から逸脱しているのだ。

 とはいえ子供用の鍛錬から徐々に慣らしていくのは確かに六天流の指導にあっている。

 そこらの並程度の運動量で鍛錬をしてきた大人の剣客が、最初から六天流の大人向け指導に入ると走り込みだけで倒れかねない。というか実際倒れて一日で道場を去ったのを何人も靂もお八も見ていた。 

 

「よし、じゃあまず物は試しだな。四人とも、あれの準備をしてくれ」


 早速第一の試練がやってきた。弟子達は少年らが辞めると言い出さないか不安になりつつ、二人の肩にぽんと置くのであった。



 

 

 *********





 六天流の基本にして最も大事なことは[観る]ことである。

 どのような強敵が相手でも観察を欠かさず、攻撃の癖や隙などを見切り弱点をつく。いかなる窮地に追い込まれてもしっかりと相手の動きを見て逆転の機を図る。

 その為には本能的に目を閉じそうになる危機でも目を見開いていなければならない。

 というわけで基礎的な鍛錬として、木に縛られて身動きを取れなくされたまま頭の周囲に矢を射掛けられるということが行われる。

 当たれば死ぬ。


「ぎゃあああぎょおお死いいいぬううううううう!!」


 ダン!と音を立てて泣き喚きながら悶えている正太郎の頭の上に矢が突き刺さった。

 酸欠気味になるほど叫んで顔は真っ赤になり、目からは涙を流しつつ首を振っている。

 無様な姿だが、六歳児がいきなり連れてこられた道場で殺され掛ければそうもなろう。むしろ強烈なトラウマになりかねない。

 離れた場所で弓を持っている晃之介はその非常に苦しそうな様子に「ふむ」と一考し、


「靂とお八。正太郎は錯乱し矢も見えていないみたいだな。頭を押さえて目を見開いてやれ」

「鬼だ」

「鬼がいる……」


 それでも師匠に指示にしたがって、死刑執行前に暴れる罪人のように首を振っている正太郎の頭を左右から押さえて、指で目を広げて正面を見させてやった。

 

「おおおおおおおおお」


 細かい震えを見せる正太郎。そして左右で押さえながら嫌そうに正面を見ている靂とお八にも近いところにそれぞれ速射で矢が放たれた。

 この距離から避けれるわけではないが下手に動くと危ないということを認識している二人にも掠めて矢が通過していったが、目に力を込めただけで瞬きもしなかった。

 一方で正太郎は失禁して気絶していた。だが晃之介は落胆せずに、


「徐々に慣れていけばいい。最初はこんなものだろう」

「……うちに子供ができてもここには通わすまい」


 九郎は処刑めいた練習風景に瞑目しながら、縄で結べれている正太郎を解いてやろうと近づいた。

 だが晃之介から制止される。


「ああ九郎。起きたらまたやるからそのままでいいぞ」

「拷問か」

「早いうちに慣れれば後が楽なんだ。次は新助」


 次に矢を向けるのは、影兵衛の息子の方であった。

 幼馴染の絶望的な体験を目の当たりにしていたからだろう。顔は青ざめて歯を食いしばり硬直している。

 晃之介が真っ直ぐに構えた弓から矢が放たれる。


「ぐっ」

 

 と、喉を鳴らして反射的に顎を引き、目を瞑ってしまった。


「意識的に、目を見開け。最初は飛んでくる矢を見ようと思わなくてもいい。ただ目を開けておけ」


 強く歯噛みして睨むように前を向く。脂汗がびっしりと額のみならず、背中にも浮かんで冷たかった。

 恐怖を感じる。生まれてきて初めて感じる死だ。ほんの少し、師匠が手元を狂わせるだけで人生は終了してしまう。そう考えるだけで頭の奥が疼き逃げ出したくなった。

 自分の命を掛けるほどに信頼のある先生ではない。単に父親の知り合いで、多分強いという大雑把な認識しか持っていないのに何故生殺与奪の権利を相手に渡せる?

 嘔吐感がこみ上げてくる。歯を食いしばり堪える。目を無理に見開いているが、まったく目の前の景色を脳が受け取らなかった。

 矢切り羽の風音が聞こえる。木を穿つ音も。涙がぼろぼろと乾燥した目から零れた。悲鳴は上げなかった。ただ歯を食いしばっていた。


「……よし、まあまあだな」


 晃之介が弓を下ろした。やせ我慢の虚勢でもこらえきれたのは随分と逞しい精神の子供だと感心するのであった。



 それから気絶から回復した正太郎を泣き疲れるまで射ってから、休憩に入り昼食を取るのであった。

 一応失禁した正太郎の為に九郎がわざわざ風呂を用意して、新助共々入れてやった。(新助も微妙に漏らしてはいた)


「ほ、本当におれ大丈夫か心配になってきた……」


 熱い湯に浸かって少し落ち着きながらも、飛んでくる矢を思い出しただけで涙が滲む正太郎は云う。

 九郎は慰めるように背中を叩いて、


「なに、要は慣れだ。むしろ筋が良いと先生は褒めておったぞ」

「まさか」

「お主の場合は飛んでくる矢が感覚的に見えているから余計に怯えているらしい。視線と首を振る位置からして、どうにか避けようと咄嗟に動いているようだ。後は怯えなければ正しく見切れるようになるだろうと」

「そ、そんなふうに意識はしてなかったんだけどなあ……」


 正太郎が褒められている一方で、新助は飛んでくる矢を前に目を開けてはいたもののまったく矢など見えず反応もできなかったことに、若干の悔しさを感じた。

 そんな少年の沈黙を九郎は悟って、湯船に浸かりながら二人にそれぞれ微笑みかけて告げる。


「悔しくても、それでも良いのだ。そう感じるのは当たり前でな。ただ駄目なのは、こんなことをしていて強くなれるのかと疑問に思うことだ。強くなるのだと思って修行を積むことが大事だぞ」

「あの、九郎さんはそういう修行を……?」


 新助から聞かれて九郎は一瞬固まった。

 していない。全然鍛錬などしていない。

 したり顔で諭してやったが、それを告げると説得力はゼロだ。九郎は子供の成長を妨げぬためにしれっと嘘をついた。


「勿論だ。そうでなければ、晃之介やお主らの親父共と喧嘩友達になどなれないだろう」

「やっぱり凄いんだ……!」


 憧れの眼差しを受けて気まずそうに九郎は顔を逸らした。


 昼飯は寒蜆の味噌汁に、ふろふき大根。たっぷりと炊いた蟹飯に焼き鰻を全員分子興が用意した。

 寒蜆の味噌汁はわざわざ蜆の出汁を取った分は取り除き、味噌汁の実にする分を後から加えて旨味の抜けていない蜆が入っているのが嬉しい。臓腑に染み渡るような味わいで体を温めてくれる。

 温めた煮大根も柔らかく、練り味噌を塗りつけて口に含めばじゅっと熱い煮汁が滲み出てくる。

 蟹飯は割った渡り蟹を煮た汁で炊いた飯に、ほぐした身を混ぜ込んだものである。濃厚の蟹の旨味が米粒にしっかりついていて、おかずがいらないのではないかと思わせるような味わいだった。

 子興と歌麿は度々絵やら料理やらの技術を教えあっているようで、焼き鰻は深川に居た頃に玉菊が得意としていたものだ。ぶつ切りにした鰻を醤油と大蒜と酒を混ぜたタレに焼いて絡めたもので、力が湧き出てくる。


「さあさ、皆いっぱい食べてね」


 晃之介がたっぷり金を稼いできたもので、気前よく子興も門下生に料理を振る舞っていた。それに二人分だが月謝も増えるのだ。道場はお祝いのようなムードであった。

 少年二人も胃が潰れるような恐怖体験をしたが、湯気を立てて食欲を唆る香りをしている昼食を前に盛大に腹を鳴らしてばくばくと食べ始めた。

 武士と云えども普段の食生活では、ハレの日以外質素なものである。しかしながら晃之介の道場は、余程の貧乏時以外凝り性な子興によって結構な料理が出てくるのであった。

 九郎も折角なので料理を堪能している。


「うむ旨い。晃之介、お主良い嫁を貰ったのう」

「そうだろう? 九郎、お前も早く嫁を取れ」

「じとー」

「ほうらハチ子、己れの鰻をやるぞー」

「九郎……話の逸らし方が露骨な上にそっちはお七の方だぜ」

「九郎お父さん……見間違うとか最悪だよう……」

「うぐっ……」

「大丈夫だぜ九郎。最悪でもあたしは見捨てたりしねーから」

「お主……男の趣味が悪いぞ」


 残念そうな顔で九郎がお八を見る。この娘は──自分が当事者だとあまり認めたくないが──しっかり者の分、男の駄目なところに惹かれるという性質があるようだ。

 そんな彼女に相性ピッタリの相手を探すのはクズを探せというようなもので、九郎もまったく気が進まない。

 靂と小唄も食べながら笑いあっていた。


「よし靂、今度家でも作ろうか。何が美味しい?」

「そうだね……この鰻なんかは、特に元気が出そうだ」

「う、鰻で元気か! そうだな! 元気ビンビンなのは重要なことだ! この──色を知ったか!」

「なんで小唄は無駄に元気なんだろうね……」


 そして少年二人もこれまででこんなに腹いっぱい食べたことはない、とばかりに満腹になるまで食べた。

 朝方に新助が腹八分目を意識したが、実際に死の恐怖を浴びる鍛錬をしてみれば理屈ではなく生存本能で非常に腹が減ってしまっていたのだ。

 

(食べて強くなるんだ)


 そう信じて、飯をおかわりするのであった。



 食事を終えてたっぷり一刻はまったりと休憩し、それから一同各々の訓練が始まった。

 四人の弟子らは指示を与えてやらせ、晃之介は二人の少年にそれぞれ軽い運動の指導を行った。

 まだ体が出来上がっておらず鍛えても思うように筋肉もつかない年頃なので、主にバランス感覚を身に着けさせる。

 小さい頃に逆立ちができた者は大きくなっても感覚を掴めているが、大きな体になってから逆立ちを覚えようとしても難しいように、まだ体が小さいうちに感覚を掴ませるのだ。

 最終的に空中姿勢制御のため真上にぶん投げられたりする訓練だが、初日なのでつらさはそれほど無い。

 九郎もある程度手伝って続け、その日の稽古を終えた。




 帰りも九郎とお八が八丁堀に送り届けて、二人は夕鶴を迎えに行った。

 厳しい訓練をすることは承知していた父親二人が子供にそれぞれ道場の話を聞く。

 母親似で朗らかな目元をしていた新助は、死を感じても目を開け続けていたことでどこか目つきが変わっていた。

 

「強くなるために、これからも頑張ります。正太郎と共に、励みます」


 父親にそう告げる姿を見て影兵衛は笑みを隠せないばかりに浮かべて、新助を抱いて顎で撫でた。


「父上! ヒゲがちくちくして痛い!」

「こいつぅー! ちったァ男らしくなりやがって! いい顔じゃねえか!」


 たった一日でここまで少年の心を強くする道場もそう無いだろう。

 影兵衛は自分の考えが間違っていなかったとして、とても嬉しくなった。

 

 一方で利悟の方である。


「道場へ九郎って人に連れて行って貰って……」

「ふむふむ」

「縄でぐるぐるに縛られて」

「なに!?」


 思わず膝を立てて耳を疑う利悟であった。


「顔を押さえられていっぱい顔に向けて飛ばされて」

「 」


 絶句しつつ体が震えだす。


「怖くておしっこを漏らしたんだけど」

「 」


 利悟は立ち上がり刀置きへ視線をやった。正太郎の話は続く。



「九郎って人にお風呂に入れてもらって」

「 」


 二刀を腰に帯びた。頭に血が上り、額に血管が浮き出ていた。


「悔しい……でも感じちゃうのは仕方がないとか何とか」

「あの正太懇(ショタコン)野郎!! 許さねええええ!! 拙者の正義が火を吹くぜ!!」


 大いに勘違いし、武装して飛び出す利悟であった。 

 飛び出していく利悟をぽかんとして見て、それから正太郎は瑞葉へと顔を向き直り、


「とにかく、大変だけどおれ頑張る」

「うん。きっと貴方は強くなれるわ。お父さんの子だもの」


 


 その夜、無駄な強さを発揮しまくった利悟を取り押さえるのに九郎は骨を折ったという。まあ、具体的には自分のあばら骨と利悟の鎖骨がへし折れた。かなりの強敵であった。

 子を思う気持ちはあれども、勝手にショタコン扱いをして勘違いで襲いかかったものだから死ぬほど説教を食らわせられ、利悟は暫く九郎に頭が上がらなかったという。






九郎「ふむ……『プロポーズに使われるセリフ職業別ランキング:ヤクザ編第一位「ガキができたんだから仕方ねえだろ」(フランス書院調べ)』か……」

ヨグ「へー」

将翁「ふむ」

夕鶴「仕方なくなるであります?」

九郎「いや己れは使わんからこのセリフ!」


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