34話『浅右衛門の祝言/金が売れた話』
正月、松の内も終えてからのことである。
年が明けて早々、どこかの若い姉弟が仇討ちを果たしたらしいという噂は口伝てに広まり、江戸を賑わしていた。
何せ瓦版を大々的に刷って売ることは出版統制で禁止されているので詳細はそこまで知られず、好き勝手に伝言ゲームの如く語られていく。まあ一部、お花のやっている販売先に直接売り込む新聞配達という規制しにくい形での情報ソースも出回ったが。
なので天狗が手伝ったとかヤクザが手伝ったとか天狗ヤクザが忍者と戦ったとか、様々に噂されたのだが……それはともかく。
見合いより大分に時間が掛かったが、山田浅右衛門とお七が祝言を挙げることになった。
折角金があるので盛大に祝いの席を設けようと、初めての結婚で右往左往している浅右衛門を差し置いて九郎や甚八丸などが準備してやったのだ。
身寄りのないお七であったが、とりあえず仲人である九郎が子興に続いてまたしても親役となり、新婦側の関係者としても晃之介一門や何故か藍屋の主人までもやってきた。
何故かやってきた彼は上等の白無垢まで用意してきて何か感無量な雰囲気を出している。
婚礼用の衣装に着飾り、慣れない化粧まで施されてバサバサしていた髪の毛を丁寧に結い上げている姿は普段と一変して美しいお嫁さんである。その変貌ぶりは女衆、特にお八も仰天したぐらいであった。
馬子にも衣装というが素の状態でも顔立ちは整っており、表情にどこか悪戯っ気のようなものを感じるので可愛らしくはあったのだが、こうして白無垢姿も非常によく似合っていた。ただ本人は、化粧の臭いが気になるのか鼻を何度も鳴らしているようだが。
藍屋の主人、良介は目頭を揉みながら言う。
「ううう……九郎殿、お七の仲人までして頂いてありがとうございました」
「いや、知らんが」
「実はお八に双子の姉妹が居たのですが、まだ赤子の頃大鷲に攫われていき……」
「そんなこと言われても」
重要そうなことを言うのだが、その話に関してお七の反応はやたら薄い。
昔に行方不明になった娘だと信じ切っている彼に半眼で告げる。
「どう考えても鷲に攫われた子供が生きてるわけねーだろ。普通に死んでるって残念ながらその娘さん」
「ところでお主の両親などは?」
「さあ? 村の全員が天狗面を被っている変なとこだったから、家族も他人も見分けが付かなくてな」
「そうだったのう……」
怪しげな隠れ里にある忍者の集落がお七の出身地である。
江戸に集団で忍者アトラクションの建設にやってきた際に抜け出したので、祝言だろうと故郷には報告できないのだが。
「しかし、結構見合いから時間が掛かったのう」
九郎が疑問を投げかけると、お七はあっけらかんとした
「ああ。一応三人ばっかり他の人も見合いしてみたからな」
「浅右衛門の後は知らんかったが、他とも見合いしてたのか」
「どうせ浅右衛門の旦那とは時間掛かりそうだったしな。他にも候補者居るのに一発目ですぐ決めるのも何か名乗り出た人に悪いじゃん?」
「ううむ、そういえば何かやけに落ち込んでいた忍びが何人か居たのは……」
「折角だから多少希望を持たせるような対応をしてやったぜ☆」
「男心を弄ぶな」
「うぁ痛──!」
九郎は苦々しい顔をし、額を指で弾いて叱った。
「まったく。そんな勘違いさせるようなことをして、拗らせて寝取られ気分闇落ちでもされたら大変なのだぞ」
ストーカー事件に発展でもしたら大変面倒なことになると九郎は懸念した。
実際にフラれた忍者達は祝言の日取りが決まった報告の日まで、やたら調子に乗って幸せを噛み締めていた。報告を聞いた瞬間に絶望の淵に落ちたような顔になり、土に首まで埋まったり何かに取り憑かれたように畑を耕したり示現流を習って立ち木でストレス発散したりしていたが。
(哀れなあやつらに優先的に嫁を探してやらねばな……)
女の数が圧倒的に少ない江戸ではフリーで適齢期な女など見つからないのだが、一応アテはある。
吉原にて二十代半ばぐらいで借金を返し終えた遊女などは身寄りも行く宛も無いことがあるようだ。誰かが身請けしてくれるならまだ良いのだが、二十代半ばを過ぎた年増になるとそういう相手も居ない。また、病気や怪我などをした際に吉原が死ぬと手間だというので借金を帳消しにして放逐したりもするのだが、やはりこの場合も多くは行く宛無く死んでしまうことが多かった。
そんな中で貧乏でも真っ当な旦那と暮らしたいという者を嫁に宛がうというのを、吉原に詳しい歌麿と相談して見当している。吉原には常に5000人余りも遊女が居るのだ。出ていく者を知り合いに嫁がせる分ぐらいは拾い上げることも可能であった。
性病の類は九郎により江戸で根絶しかかっているのも元遊女を嫁にする問題を小さくしている。例えば梅毒だと、軽く患者の手を切って血を出させそこからブラスレイターゼンゼで血中の梅毒菌を全部回収することが可能だったりする。無論、彼にできるのは大雑把な菌と毒素の回収だけであって薬の処方や治療などは門外漢だから医者になろうとは思わないのだったが。
「さて、早く浅右衛門のところへ行くぞ。あやつの方がカチコチになっておるからな」
そうしてお七を連れて婚礼の席へと向かう。
この場所は料亭の広間を貸し切って祝言の席にしている。豪華な料理と下りものの上酒が盛大に振る舞われているのだが、浅右衛門は相当な稼ぎがあるのでまったく平気である。
趣味で貧乏のような暮らしをしているだけであって、そこらの刀剣を扱っている金貸しに声を掛ければ千両でも貸し付けてくれるという収入の保証があった。
広間では大勢の参加者が座って待っていた。山田浅右衛門は浪人身分であり、家来も居ないのだが剣術道場の先生もしているのでそこの関係者がやってきていた。その浅右衛門と関わりの深い道場の弟子達からしても、かの首切り役人の嫁となるのはどのような女かという興味津々な目をお七に向けている。
晃之介と靂もやってきているが、集まった中では一番若輩であまり人付き合いが得意ではない靂が心なしか肩身が狭そうである。
本来武家ならば色々と細かい祝言の取り決めがあるのだが、浅右衛門は周りがそういう話をしても心ここにあらずとばかりに「はあ」とか「そうなんだ」とか返事をして夢でも見ているかのように、ぼんやりと上席に座っていた。
勿論、本当の武士だった場合は身分も家柄も無いお七と祝言を挙げるなど到底許されたものではないのであったが。稼ぎだけは江戸でも上位に入る気ままな浪人という、やたら都合の良い生き方をしているのである。
純白の衣装を着たお七を連れて広間を通り、浅右衛門の隣に座らせる。
そして小声で浅右衛門を突きながら言った。
「これ、浅右衛門。ぼーっとしておるでない」
「うん。ええと、見惚れちゃってて」
「照れるぜー」
ぎこちなく反応をして、浅右衛門とお七は顔を合わせながらはにかんだ。
「さて祝詞奏上なのだが、丁度歌の専門家がおってな」
「任せるのじゃよー。結婚式の聖歌とかこれまで百回はこなしてきたのじゃぞ」
と、スフィが進み出てくる。祝詞を唱えるのは新郎新婦どちらかの家長や地主、仲人などの偉い立場にある者が行うのだが謎の少女がその役目をするという。
少しばかり妙には思うものの、しかしながら彼女に掛けられている「馴染む」魔法の効果で集まった皆もそこまで奇異には感じられないようだ。
能の如くではなく、賛美歌のようなリズムでスフィの歌声が響く。
『高砂や この浦舟に 帆を上げて
月もろともに 入潮の
波の淡路の島影や
近く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり……』
彼女の歌声は人を魅了するばかりではなく、冬の夜である冷たい空気が心地よいまでに温まり、華やいだ香りが聞いた人の心を癒やして、部屋全体が何処と無く明るくなった気がした。
祝言は夜に行うものであるが、現代の電灯による明かりに比べて当時の行灯などを使った夜間照明は数を増やしても暗いものがある。だがスフィが歌うと、暗闇に塗られた世界が色を取り戻したようにはっきりと広がって祝いの席を照らし出した。
まさに神事によって齎される現象であり、素晴らしい祝福に思えた。
参加者らは驚きながらも、このような縁起の良さそうな祝詞を読まれた新郎新婦に目出度さを感じて祝う気持ちを向けるのであった。
「うみゅ。こんなものか」
「相変わらず凄いのう。金が取れそうだ」
「向こうでも祝いの席での歌唄いに呼ばれることはよくあったからのー。お布施は勿論貰っておったぞ」
新郎新婦が三三九度を行っているときに隅の方でスフィと九郎がそんなことを話しているのを浅右衛門関係者の武士が聞いていて、噂が広まり武家の祝言などに呼ばれたりすることになり、歌い巫女周布院に祝詞をあげられると夫婦仲円満や安産健康などのご利益があると評判になるのだが……それはともかく。
こうして浅右衛門とお七は晴れて夫婦になったのであった。
「ええと、その、よろしくね」
「おう。あたしを嫁にできるなんて幸せ者だぜ」
お色直しで白無垢を着替えて来たお七と向かい合って、改めて浅右衛門は頭を下げた。
何処と無く気弱に見えるのは、自分の仕事を理解して嫌がらずに受け入れてくれるという嫁という殆ど諦めていた存在が降ってわいたように現れたからだろう。
自分が探したというより、友人の九郎からの紹介ではあったので余計に棚から落ちてきたぼた餅のようで、躊躇いと後ろめたさすらあったのだが。
それでも、浅右衛門は顔を緩めて言う。
「そうだね。夢みたいで、嬉しくて、泣きそうだ」
「笑う門には福来たる、だぜ。幸せなら笑うこった。ほら、こうして。にっとな」
歯を見せて笑顔を作るお七に、浅右衛門は目を僅かに潤ませて笑みを返した。
「にん」
「きししししし! 旦那さん、笑顔ヘッタクソだな! きめえ!」
「ひどい」
凄い笑われて浅右衛門は真剣に凹んだ。そのまま消えてしまいたかった。切腹も考えてこの集まった中で介錯が一番上手い弟子は誰だろうかそいつに首切り仕事を継がせるかとか一瞬で考えた。
だが絶望から白目になった浅右衛門の両頬をお七の冷たい手が包むように触れる。
「ちゃんと最高の顔で笑えるように、あたしが幸せにしてやるぜ。覚悟しておくんだな」
「……某は幸せ者だなあ」
はらはらと見守っていた周りだが、どうやら大丈夫なようで皆も安堵の息を吐いた。
しかしながら、
(尻に敷かれそうだな……)
と、皆は思った。
悪戯気質がある嫁とマイペースなのだが受け身な旦那との力関係が早速見えてくるようだった。
九郎も浅右衛門の肩をぽんと叩いて、
「何か悩み事ができたら相談するのだぞ。仲人としてどうにか対応はするからのう」
「うん。ありがとう九郎氏。本当に……ありがとう」
「よせよ。己れとお主の仲だろう」
「山田家の子々孫々にまで九郎氏への恩を伝えていくよ」
「恩義が重たい!」
そしてお七にも九郎は顔を向けて微妙に苦々しい顔で、
「お主もあまり問題は起こすでないぞ」
「わーってるって。知ってるか旦那さまよ。このにーちゃん、嫁になる前にあたしになんて言ったと思う?」
「なんて?」
「『犯罪と不倫はするな』だってよ。すげーなあたしの信頼感。どんだけ底辺なんだ」
「自分を省みろ不良娘め」
忌々しそうに云うが、とりあえず紹介者としてそれだけは守らせねばいけなかった。どちらもお七の生き方からすれば怪しいところがあったからだ。窃盗や一人美人局で金を稼いでいたのを捕まえて晃之介の道場で矯正したぐらいである。
なお守らなかった場合は九郎どころか晃之介から厳しい罰が与えられるのを宣告されれば凄まじく嫌そうな顔をしていたので、恐らくは大丈夫だろう。
お七が肩を竦めて云う。
「しねーって。当たり前田の加賀百万石だぜ」
「そうか。なら良いのだ。夫婦共々、仲良くのう。まともに人と付き合い、家族となって過ごすのが幸せというものだぞ」
「ああ。あたしも色々旅して楽しんだけど、結局そういうまともになりたくてな。だからありがとうよ」
九郎もそのお八によく似た少女が、多少は性悪ではあっても正しく幸せを願う心を持っていると信じることにした。
とても幸せそうな顔をしている浅右衛門を不安にさせても仕方がない。
「ところで九郎氏も早く祝言上げなよ」
「ううう」
九郎は目をそらして呻く。それにしても、嫁になりたがるのが複数人居る場合は祝言はどうなるのだろうかと非常に面倒な気分が湧いてくるのを自覚していた。
あれ以来夕鶴が時々こっちをじーっと何か期待したように見てくるのも問題だ。彼女は仇討ちの場で足を軽く怪我したので、暫く介護が必要であった。すると身の丈の大きな夕鶴を手助けできるのは九郎ということになり、色々と距離が近づいてしまった。豊房とお八は諦めたような顔をしていた。
石燕の問題もある。彼女も嫁になるという。石燕の性格は熟知しており、まともにこれから男と出会い付き合えるとも思えない。いっそ彼女が大きいままだったならば問題なくそれと結婚して、子供のような豊房とお八を諦めさせることもできたのだが。
そうなるともはや将翁も除け者にするわけにはいかないだろう。色々と関係が無いわけではないのだから。おまけに最近彼女は、大工に頼んで屋敷の庭にお稲荷様のお堂まで作らせていたが明らかにアレ目的の離れである。
更に子供ができたらと思うと、こう父親が複数の女に手を付けまくっているという特殊なご家庭は明らかに情操教育に悪そうだ。悩み事は無数にあった。
「旅とか出たい」
「にーちゃん今あたしに、人生の先輩顔でまともに生きろって言ったばっかりだよな!?」
びしりとお七にツッコミを受けた。スフィにも呆れた顔で「クロー、それは無いわ」と言われる九郎であった。
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年末には江戸の町では金が多く動く。
貧乏な武家では刀や掛け軸などを担保に金を借りて年越しの準備をしなければいけない。また、現代からすれば奇妙なことだが一年の借金・ツケの取り立ても師走に一斉に行われていて、何故か年を空けると次の催促日がまた年末まで伸びるという取り決めもあったようだ。なので取り立て人から逃げ回る者や、年末専門で人探しをする仕事の者も居たほどだ。
ともあれ、その金が多く流通するどさくさに紛れて甚八丸は黄金の壺を換金することに成功したようだ。
話を持ちかけられて半月程度の期間で何とかするのは、やはり彼の持つ裏社会とのコネの強力さによってだろう。本人としても、厄介事になりそうな黄金の壺を手早く売り飛ばしたかったこともある。
それでも慎重に、甚八丸とその関係者に対して他のハイエナめいた悪党から探りを入れられないよう手を尽くした。ただし当初の、偽金作りの一派とはまた別のところに売れたらしいことは甚八丸は聞いたがそれ以上深入りはしないようにした。
そして千両箱を三つ用意して、九郎と晃之介と靂を呼んでそれぞれに渡す。
「壺にでも分けて床下に埋めてちょっとずつ使うこった。いきなり豪遊すると怪しまれるぞ」
「心得ておる」
「あー九郎は適当にしろ。おめぇさんはどんだけ遊んでも、侍らかしてる女の金で遊んでると思われるから全ッ然問題ねぇし」
「ぶっ殺すぞ」
「俺様が注意してんのはてめぇだよてめぇ。眼鏡! どんな風に金を使うか云ってみろ!」
「僕ですか?」
指を向けられて目を丸くした靂が顎に手を当てながら金の使い道を述べる。
「とりあえず……本屋に行って持っていない本を全部買い漁ってこようかなあと」
「超目立つだろうが! いい布と簪ぐらいにしとけ!」
「そうだ……甚八丸さんの云う通り、お遊と茨に着せるものを買ってあげることにします」
「あれェー!? ちょっと待て。なんかおかしくねえか? いや、認めたくねぇんだけどその二人に加えてもう一人ぐらいてめぇが世話になってる女が居るんじゃねえの?」
最近朝から晩まで向こうにいる自分の娘が居ないものとして扱われているのにさすがに甚八丸も指摘した。
靂は頷いて爽やかな顔で云う。
「ええ……小唄には日頃から助けて貰っているので、給金ではありませんが現金でも渡そうかと」
「カネをそのまま!? こいつ最悪──いや、待て! そうだな! それが良い!」
とても世話になっている女達の中で。
一人だけ簪とかじゃなくて現金を渡そうとする塩対応を思いつく靂である。クリスマスプレゼントに現金を渡されるようなものだ。限りなく酷いが、まったく悪気はない。
思わず罵ろうとした甚八丸だが、それで小唄が傷つくのは仕方がない犠牲だが靂を見限るのではないかという考えで止めないことにした。
(ざまぁーカンカン!)
腹の中で笑う甚八丸を、九郎と晃之介は何とも云えずに見ていた。
弟子の女性関係にため息を付きつつ、晃之介は千両箱を撫でて満足そうに云う。
「とりあえず俺の方はこれで当分の暮らしは大丈夫だな。俺の布団に綿も入れられる」
「そこまで貧しかったのか……」
「最近はめっきり挑戦者も居なくなってな……弟子三人の月謝では中々」
ちなみに道場に通う月謝は二朱。大体一万円である。月収3万円の男が録山晃之介の現状であった。
無論それ以外に、道場近くの農民に頼まれて鹿や猪を狩って肉や角などを売ったりといった副収入があって生活はできている。
柳川藩に通いで弓の稽古を付けに出かけていた頃はかなり余裕のある生活をしていたのだが……何度か物理的に潰れた道場を再建したりしているうちにその貯蓄もかなり乏しくなっていたのである。
「食べ物は何とかなったのだが、どうしても金が足りないときに子興殿が絵の仕事で稼いできた金を渡してきてな……あれはつらかった……よく平気だなお前ら」
「人を何だと思っておる」
嫌な尊敬の目を向けてくる晃之介に九郎はうるさそうに手を振った。
「ところで甚八丸の分は余ったのか?」
「まあ、そこそこにな。言われた通り適当に鶏でも増やしてみようと烏骨鶏も買ってきた」
「烏骨鶏か……肉がまっ黒くて評判が悪いが結構旨いんだよな、あれ。うちでも育ててみるか」
晃之介が頬を緩めながら云うと甚八丸は気前よく云う。
「二、三羽持ってけーい。今更ケチるようなもんでもねえぜ。増やす用に雄も何匹か居るからよ」
「感謝する。お前らは?」
「うちは犬がおるからのう。育てた甚八丸から卵と肉だけ買い取っていこう」
一方で靂の方は若干目を逸らし、顔を曇らせながら云う。
「前に我が家でも飼ってたんですよ、鶏」
「うむ?」
「それで老鶏になったので食べようってなったときに、お遊が鶏の首を切ったら顔に血を付けたまま包丁片手にニコニコ笑ってたのがやたら怖くて……なんでその笑顔を僕に向けてくるんだ……目に光が灯ってないし……」
「うわあ……」
「や、やめとけやめとけ。何か凄くまずい気がする」
想像して一斉にドン引く大人たちであった。目覚めてはいけないものを目覚めさせかねない。
「ああそうだ、甚八丸よ。烏骨鶏はどれぐらい卵を生むのだ」
「四日か五日に一個生むから、年に七十か八十ぐらいじゃねえか? なんでだ」
九郎が指を立てて考えを伝える。
「しばらく様子を見て、よく産む鶏を厳選して子供を孵化させるのだ。それで増えた子も雄を残しておき、また別の鶏から生まれた子の中で良く生むのを選んで掛け合わせる。そうすれば生む卵の数が多い烏骨鶏になっていくだろう」
「むう……そういうもんなのか?」
疑わしげに見てくる甚八丸に九郎はなんと云って説明したものかと考えながら云う。
「そういうものなのだ。知らぬか? ほれ、色の鮮やかな金魚などを選んで、それらだけで繁殖をさせると同じ色合いのものばかり生まれるであろう」
「あー……そういや、金魚の地金って高級品は確か、偶然見つけた尾張藩士が増やしていったとか聞いたことがあるな」
「金魚も鶏も人間も同じだ。親に似るというだろう。というわけで優秀な烏骨鶏を頑張って選別してくれ。金になるぞ」
まだメンデルすら生まれていないこの時代、品種改良というのはピンと来ないのも無理はない。最も重要な主食の米すらも、せいぜい行われていたのは稲の品種分類程度だ。本格的な品種改良は明治時代になってからである。金魚も、突然変異種を選別して増やすという方法であった。
交雑種の中から良いものを選ぶというと錦鯉の養鯉が思い浮かぶがこれも始まるのは19世紀に入ってからの文化なので、遺伝に関してはなんとなくという理解しかできないのも仕方が無かった。
「ま、卵が多くとれりゃそれに越したことはねぇか。わぁーったよう」
なお現代に於いて、卵を多く産む烏骨鶏同士を掛け合わせた品種は『東京烏骨鶏』という名前で実在している。
その産卵数は通常品種が80個程度なのに比べて年間190個も産むという。ちなみに流通している多産に改良された白色レグホンは年間280個ぐらい産む。それには及ばないが、烏骨鶏のみの選別で卵の量を倍以上に増やせる品種が出来上がるのである。
「つまり……もし九郎の子供と靂の子供がくっついて孫を作ったとすると、とんでもない女誑しが生まれてくるわけだな?」
「おい晃之介」
「馬鹿野郎! 江戸の未来が危ねえじゃねえかそれ! ようしお前ら去勢しろぉい!」
「甚八丸さん……」
この九郎の提案により、甚八丸の家は玉子の流通販売で大儲けして玉子長者とまで呼ばれるようになるのだが……
それはまた後の話である。
*********
余談だが、現金を渡された小唄はこうなった。
「靂……つまりお金を預けるということは私に家計を任せるということだな!?」
「えっ? あーうーん……」
そう云われて、金銭感覚がイマイチで買い物に出かけるのも無精している自分が金の管理をするよりも、この信頼できてしっかり者の幼馴染に管理してもらった方が良いのではないか。
靂はそう考えて、頷いた。
「小唄さえ良ければこれからも、よろしく頼んでいいかな?」
「これは完全にお嫁さん扱いだな……! ま、任せろ靂ー!!」
超本人は盛り上がった。完全にプロポーズと勘違いしたようだ。
やはり積極的におさんどんをしていたのが決め手だったかな!と頭のなかでこれまでの自分の行動を褒める小唄。ポジティブに解釈しすぎである。
「はぁーっはぁーっ! 明るい家族計画が待っているぞ!」
「こ、小唄。何を興奮して」
「一姫二太郎三なすび────!! むぎゅっ」
「あっ茨」
背後から現れた物静かな娘に首をシメられ、小唄は数秒で気絶した。
小唄を床に寝かせて、茨は自分に渡された布と簪を手にして枯れた声で靂に云う。
「一緒゛の……渡して」
「小唄も布と簪の方がいいって?」
「ん゛」
「わかったよ、茨。ありがとう」
そうしなければ興奮した小唄の身がむしろ危ないということは茨にはわかっていた。
背後の襖に空いた穴から真っ黒な瞳が室内を覗いているのだ。
状況を脱したとその者が思ったのか、能天気な声と共に部屋に入ってくる。
「れーきー。布を巻いてみたー」
「うわっ、お遊。お前なあ、反物をそのまま体に巻きつけて……ちゃんと着物に切って縫ってから着ろよ」
入ってきたお遊は裸にゆるゆると長い布を巻きつけただけの姿であった。無防備な白い足や胸の膨らみなどが見えて、靂は目元に手をかざして見ないようにしている。
かつては色気も糞もないような少女だったのだが、ここ数年靂のところで暮らすようになり栄養状態がよくなったせいか体つきが女性らしく成長したのだ。それでいて無防備な性格はそのままだから、靂としてもつらいところであった。
いや、以前までは靂も女体を見ても顔をしかめるような男だったのだが、九郎に連れられてお稲荷様のところでお篭りなどをしたのがいけなかった。それにより意識するようになってしまったのだ。
「おー。後でするぞー」
「ああもう、恥ずかしいから早くいつもの服に着替えろよ」
「んー」
ややお遊はこのまま近づいて靂に抱きつくなりしてみようかと悩んだが、靂が情けなくも茨を盾にするような体勢であったのでそれは諦めて素直に元の部屋に戻っていった。
靂を庇うような位置に居た茨も、あのまま近づくとむしろお遊が危ないと察しての邪魔をする形を取った。
近くの足元には苦無を着物の中に隠したくのいちが気絶を続けているフリをし、待ち構えていたのだ。
はあ、と茨は小さくため息をつく。
この幼馴染達は、非常に危ういバランスで成り立っている。
「ふう……なんだったんだ」
「ん゛」
何も気づいていない彼に呆れながら振り向くと。
密着していた茨の手が不意に、靂の腰元にある固い何かに触れた。
「ぬっ!? あ、い、いや、これは腰に小判を入れていてな?」
固くなったモノに関して靂がヘタクソな言い訳を茨に告げるが。
茨は触れた手を凝視しながら──普段青白い顔色を、真っ赤に変えてから涙目で部屋を走り去っていった。
「ちょっと茨!?」
靂は絶望的な心持ちで呼び止めるが、耳まで赤い彼女は聞かずに離れていく。
靂からすれば茨は、下女としてかつて雇ったものの守るべき妹のようなもので、そんな相手に変なことをしたようで。
罪悪感で彼は膝をついて俯く。
「僕はクズだ……」
三日ぐらい落ち込んだ。
茨ちゃんは天使なんや
なお小唄はこの後、大金の管理が本当に必要だと判断して靂の屋敷に住み込むようになりました(今までは通いだった)
今日も幼馴染は仲良し!




