29話『生活費を計算すると意外と使っていることに気づく話』
ある昼下がりの神楽坂の屋敷にて。
大きな問題も起きずに自然の流れとして緑のむじな亭の客入りも落ち着き、九郎は再び屋敷の方でのんびりとした日を過ごしていた。
臨時の雇い賃も六科から貰ったので、暫くは酒やつまみの金を自分の懐から出すという満足感のある買い物ができる。
いや、勿論九郎は様々に儲けたり付け届けとして貰ったりした金がかなりの額あるのだが、それはそれとして労働の対価として得た賃金というものは特別だ。土蔵の地下に埋めている百両二百両といった大金は現実味が無さすぎてあまり直視できない。
「よし……今日は奮発して灘の上酒でも買って飲るか……」
などと九郎は満足気に財布を摘んでニヤついていた。なおこの場合の財布とは彼と同居している女性のことではない。
神戸・灘の酒造りは江戸に入って享保頃までが活発に行われるようになり多くの酒蔵が作られている。海上輸送に便利な土地にあるので江戸にも多く下り酒として入ってきていた。
灘の酒の特徴であり酒造りに適していると言われる、僅かに塩分を含む中硬水の湧き水[宮水]はまだ発見されていないが米が酒造に適しているのか好まれる味として既に知られていた。
「ふうむ、しかし稼ぎを全て酒に回していかんな。生活費にも入れておかねば……」
「ふふふ、殊勝な考えだね九郎くん!」
九郎の呟きに、石燕が颯爽登場しながら同意した。ちびっ子になってからは酒と病に汚染されていないので随分アクティブに見える。
「石燕」
「ぜひそうしてくれたまえ。何せ、遊んで余生を暮らせるだけあった私の貯金はごっそり消え去ってしまったからね!! ううう」
「泣くでない、よしよし」
泣き崩れる石燕を九郎が慰めた。
千両ばかりもあった石燕の財産──いや、石燕の亡夫が残した遺産──は、屋敷の床下に隠してあったのにまんまと盗まれてしまったのである。
おかげで彼女は九郎に高い酒を奢ったら無造作にお小遣いをあげたりといった趣味が行えなくなっていた。
「それにしても大所帯になったものだからね。私はこんな体だからまだ碌に絵でも稼げていないのだが、全員分の生活費も結構掛かっているだろう」
「たしかにのう。その辺は豊房と夕鶴が管理をしておるようで、己れはさっぱりわからぬが」
「私が住んでいたときも子興に管理させていたからね……ちょっと計算してみようか」
簡単に食費を計算してみると、
米代を1升で100文とする。当時の一人扶持という武士への給与からすると、男一人あたり一日米5合、女は3合の消費を標準としよう。
現代からすると結構な量を食べているが、おかずの種類が少なかった当時は米でおかず分までカロリーを摂取しているようなものである。
というわけで九郎の屋敷で一日に消費される米は、九郎が5合で豊房・お八・石燕・将翁・スフィ・夕鶴・サツ子が3合ずつ。
合計26合で、2升6合(4.68リットル)。そんなに。
まあ勿論、晩酌で九郎や豊房が飯を食わなかったり外食に出たりするので実際の消費量とは異なるかもしれないが目安である。
続けておかず代。これは様々な種類があるのでこれといい難いが、一人一日20文も使えば納豆なり魚の切り身なり味噌汁なりが一日三食に付けられたであろう。
沢庵大根が一本15文、納豆が8文、鮪の柵が12文、大福や団子などが4文。大勢で買って分け合えばそれだけで節約できる。
というわけで食費が一日に、
米代2升6合=260文(1文20円計算で5200円)
おかず代=160文(3200円)
合計420文=8200円。
それが一ヶ月分なので、
一ヶ月の食費=12600文=3両と600文=25万2000円。
「……結構金かかっておるな」
「そうだね……」
石燕が紙に書いて計算したのを見て呻いた。まあ8人という大所帯なので仕方ないところもあるが。一人一日1000円食費が掛かるとして、8000円の30日と考えれば大体それぐらいになる。
一両あれば一家族が一ヶ月生活できた、といわれているが、それは一家族が三人程度を想定しているのである。
屋敷の皆が自らの仕事で金を稼いでいるのでやりくりは出来ているのだが……
「う、ううむ……もし何かあり、己れが皆を養わねばならんとなれば、最低でも毎月それだけの稼ぎが必要になるのか……」
「これはご飯とおかずだけだからね……酒代を加えたり、衣や履物、行灯の油、ちり紙なども日常生活では掛かるだろう」
ちなみに江戸での花形職業であり、仕事が一年を通してある大工の一日の稼ぎは銀5匁から6匁。60匁で一両なのでわかりやすく高い方で計算すると日給が6匁(8000円)となる。
野菜売りや魚売りの倍ほども稼ぎがある大工ですら7人は養えない計算になる。
「いや、待てよ……8人というのも今現在の話だからな……これが変動することも考えられる」
例えば夕鶴が仇討ちを終えたら(多分)故郷に帰るのではないかと思っているし、サツ子を何処か良縁の嫁に出してやらねばならないと考えている。
「減るばかりが人生ではないよ九郎くん。子供が出来たら増えるだろう」
「その話は後々──」
「後々に回してばかりではいけない問題ではないか。九郎くんもわかっているだろう」
九郎としてもいつまでも現実逃避している場合ではない。そういった可能性も考慮しなくてはならないと、「明日起きたらサザエさん時空になっておらぬかなあ」と寝る前に考えながら過ごすようになったのだ。
「房もはっちゃんも子供ができるだろうし、私だって……まあ、とにかく大雑把に子供がぽんぽん出来たとして、屋敷に居る人数が倍の16人になったとしよう」
子供の食費はひとまず女と同じ一日三合の飯と20文のおかずと考えて、
16人の米代=5升=500文(1万円)
16人のおかず代=320文(6400円)
一日の食費820文×一ヶ月30日で24600文=6両600文(49万2000円)
それが一年で24600文×12=29万5200文=73両3200文(590万4000円)
「ヤバイなこれ……」
九郎は老後の年金が差止めを食らったと聞いた時のような青い顔になった。
月に50万稼ぐなどどう考えてもカタギの仕事ではない。想像上の数だとしても、胃の辺りがふつふつと痛くなる感覚であった。
確かに16人となるとちょっとした野球部の合宿のような食費になるだろうが、それが毎日続くのである。むしろ食費だけでこれであり、これ以外にも幾らでも金は掛かっていくはずだ。倍は考えていいかもしれない。
「並の稼ぎでは無理ではないか……やはり皆の協力が必要だな」
「屋敷に住まう者の中で一番に稼ぐのは将翁だね。薬師はとにかく大金を生み出せる」
野山から無料で手に入れた植物で薬を作ったり、購入した生薬を調合して値段を原価の百倍以上にして売ったりと薬師は非常に儲けが大きい。医者としての働き口もある。
おまけに口も上手く富豪や大名との伝手もある。そういったところでは、一つの薬に十両も二十両もポンと金を出す者がいつの時代にでも存在している。
将翁が本気で稼ごうとした場合は恐らくだが余裕で16人程度の生活費は捻出できるであろう。現代でも医者の年収は平均で1000万を越えていることから考えれば、大家族を養うのに相応しい職業だ。
「将翁に養ってもらおう」
「九郎くん!」
頭に自然とその考えが浮かんで口に出したのを石燕に咎められ、九郎は正気に戻り首を振った。
「いかんいかん。思わず高収入になびきかけてしまった。そう云う暮らしをしては碌な噂が立たぬ」
「そうだよ。危うく自発的に、あの細長くて物を縛るアレになりかけていたではないか」
年も取らないし妊娠もしないのでいつまでも働けるし、恐らく自分から離れていくことはないので非常に都合がアレだと思った自分を九郎は反省した。
大事なのは皆の協力だ。スフィは歌で稼げるだろうし、豊房と石燕の絵師も長く続けられる。お八は定職が無いが料理から縫い物まで家庭にて万能である。
そして九郎。色々と店への助言などで稼いでいるが……
「……鹿屋に商品のアイデアを売りつけるのも何時まで続くかはわからぬが……北海道で砂金でも取りに行くかのう。飛んでいけば往復もそう不便ではないし」
「一攫千金狙いだね……」
幸いなことにアイヌだろうと言葉は通じる。何か土産に持っていけば金の取れる場所など聞き出せないだろうか。
九郎の利点はどことなりへ飛んで行けるということだ。関も海も関係なく、未開拓の蝦夷地まで一日もあれば到着するはずである。
しかしながら、中々真っ当に商売でも初めて店主になり、堅実に生きようとは思えないのがこの男であった。
年齢がもう百近いのだ。たまに遊ぶように労働するのはともかく、何十年も労働に従事するには精神がくたびれている。
「とにかく。今は鹿屋などで金を稼ぎつつ何かあったときのために貯蓄しておこう。金は大事にせねばな」
「そうだね。私も絵の仕事で上手く大金が稼げないか考えてみよう。しかし今時の贅沢を禁止している政権では中々多色刷りや、豪華な顔料を使った絵などは出しにくくてね」
「まあ……金勘定を頭に入れつつ、灘の酒でも買いに行くか」
「私にもちょっと舐めさせてくれたまえ」
「ちょっとだけだぞ。お主、小さい頃から肝臓を駄目にしたら目も当てられぬ」
などと会話をしつつ出かける為に玄関へと並んで足を運ぶと、慌てて屋敷に駆け込んできた男が居た。
録山晃之介だ。彼の方から来るとは珍しいと、九郎が話しかけようとすると先に彼が口を開いた。
「九郎! 突然だが百両貸してくれ!」
「お金を大事に!」
思わず二人でハモって返事をする九郎と石燕であった。
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どこか焦燥と、真剣さを感じる雰囲気の晃之介と共に屋敷に連れられてやってきたのは彼の妻である百川子興である。
そちらはよりそわそわとしていて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
あまりに見ていられないので石燕が頭を抱きかかえて撫でてやっている。
「それで、どうしたのだ晃之介よ」
「単刀直入に云えば、うちの長喜丸が何者かに拐かされて百両の身代金を要求されている」
「なに!? それは大事ではないか!」
「これが家に残されていた」
晃之介は紙を差し出すと、そこには悪筆でこう書かれている。
『こどもはあずかった 道灌山一本杉にて待つ 百両持参すべし』
明確な誘拐犯の脅迫状である。九郎は眉を寄せて犯人への憤りを露わにする。
子興が涙ながらに石燕に縋り付いて云う。
「ううっ、しょ、小生が家事をしていたら、急に後ろから手ぬぐいで目隠しをされて、手足もあっという間に縛られて、その間に近くに居た長喜がぁ……」
「よしよし。せめてお前は無事で良かった」
石燕が子興の頭をぎゅっと自分の小さな体に擦りよせさせながら優しく云う。
安心させるように。石燕の方が今は小さいが、子興が少女の頃から面倒を見ていた娘のような存在なのだ。
九郎もその状況から感じたことを彼女に告げる。
「確かに、もっと大きな悪意を持って攫おうとする悪漢ならば子興は後ろから殴りつけたり斬りつけられたりしていたかもしれぬ。そう思えば長喜丸もきっと無事であろう」
「ああ。まずは長喜丸の安全を確保しなくてはならない。しかしながら俺にはすぐに百両を用意することが難しい。社会的に信用の無い俺では、刀などを質屋に持ち込んだところで買い叩かれるだろうしな……」
「そこで己れか。よかろう」
九郎としても、子興の父役として祝言を挙げさせた身であり、いわば晃之介などは婿殿である。
長喜丸も孫のようなものと思えば百両でも安いものだ。お金は大事にしなくてはならないが、使い所を惜しんでもいけない。
「それで、百両を持っていってどうするのだ?」
「とりあえずはまず長喜丸を無事に保護する。そのためには相手に渡すことも考えている。だが、長喜丸を確保し次第、相手を叩きのめして取り返すつもりだ。必ず金は返す。もし返せなかったら、腹を切って詫びる。だから頼む」
「頭を下げるな。そういうことならば、己れもついていこう。身を隠せて空を飛んででも追跡できるのならば、如何ように金を運ぼうとも相手を逃すまいよ」
「助かる。どうか、うちの息子を助けるのを手伝ってくれ」
「任せろ」
そうして作戦が決まる。
どのような身代金の受け渡しにしても、受け取る相手が必ず居るものである。
代理人に渡そうが、川から船で下流に流そうが、身代金が突然消えるわけではない。一方で追跡してくる九郎は自在に姿を消せるのである。まさか相手も想定外だろう。
勿論九郎がおらずとも、一瞬の隙をついたり僅かな痕跡から相手を追ったりする晃之介も充分に勝算はあるのだが、確実な方法を取ることにした。
早速出かける準備をする九郎と晃之介。子興は子供が攫われたのと、危害は加えられなかったが襲われたので酷く怯えている様子なので屋敷にて待たせることにした。
彼女は九郎の手を握りながら涙ながらに頼み込む。
「九郎、お父さん……小生の子供を、どうか助けて……!」
「大丈夫だ。安心しろ子興。己れと晃之介に掛かれば、魔王に攫われていようがぶちのめして救出してやる」
──その時、どこか別の次元でくしゃみをする魔王が居たとか。
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道灌山は新堀のあたりにある高台だ。
享保の頃から新堀は日暮里と呼ばれるようになり、景色が良く夏場ならば虫の音がよく聞こえる名所として人が多く訪れる場所であった。
とは言え今は虫も鳴かぬ、雪がちらつく冬である。道灌山に人影はなく、寒々として澄んだ空の果てに白く染まった富士山が見えた。
道灌山の高台上には一本のまっすぐで高い杉があり、それだけ突出して高いのだが不思議と雷が落ちないので土地の者は雷除けのご利益があると拝んでいる。
晃之介は一人、一見武器は何も携帯していない恰好でその杉へと歩み寄った。
何も持っていないように見えるが袖には短刀を忍ばせているし、羽織には捕縄が隠されている。そして何より、周囲には不可視の天狗が彼を援護するために警戒に当っていた。
だが──
「誰もおらぬな」
「ああ……」
待ち合わせに指定された場所には誰も居なかった。長喜丸はおろか金を受け取りに来た者の姿も見えない。
訝しんでいると、上の方でがさがさと音がする。
「まさか……」
と、二人は仰ぎ見ると、ここまでやってきた方向からは見えない側の木の幹に誰かが縛り付けられている。
それもかなり高いところにであった。高さ十間(約18メートル)以上はあるだろう。ビルで云うと五階か六階の位置である。
「長喜丸!」
晃之介が呼びかけるが、長喜丸は顔を向けずに虚空を眺めている。
九郎が急いで飛んで助けに行こうとすると、子供が縛られている場所のすぐ近くの枝を足場に気配を消していた何者かが現れた。
「おっと! 安心しな。暴れねえように縛ってるだけだぜ」
「貴様……! 子供を離せ!」
「離していいのか? ここで開放すると真っ逆さまで潰れた柿みてえになっちまうぜ。キヒヒヒヒ!」
虚無僧のような深編笠を被ってくぐもった高い声をしているその相手は、手を向けながら晃之介に呼びかける。
「それで百両は用意出来たのか?」
「ここにある。子供と引き換えだ」
「子供と? おいおい、そいつはおたくが決める取り引きじゃねえだろ──」
そこまで発言した時点で空を飛んで背後に忍び寄った九郎が飛び蹴りをかまして、誘拐犯を吹き飛ばした。
「んなっ────!?」
突然の衝撃に防御もできず、十間の高さから横に吹っ飛ぶ相手。
慌てたように手を藻掻くが、一本杉の周りには他に掴めそうな樹木は無い。
落下して潰れた柿のようになる運命はその誘拐犯に──
編笠が外れた。
九郎も晃之介も知ってる顔だった。
「アホかああああ!!」
叫びながら九郎は慌てて、落下中のお七を拾い上げる。
山伏のような恰好で編笠を被っていたが、その中身は紛うことなき晃之介の弟子であったお七である。晃之介が子興と暮らすようになって暫くした後に放浪の旅に出たと聞いていたが……
落ちないように抱きしめて間近で見る。相変わらず、お八と顔立ちは似ているが無造作に伸ばしている髪の毛と心なしかより吊り上がって見える目つき、それにやや成長して膨らんだ胸部の感触は異なっていた。
双子の姉妹の如く似ていたお八は嘆きの平原を続けているというのに旅に出ていた彼女はしっかり女らしい体つきになっている。不公平さにお八が文句をいいそうだと九郎は思った。
お七を地面に下ろして九郎は指を突きつけ詰問する。
「お主何をやっておるのだ!?」
「ん? 土産話が聞きたいか?」
「そうではない!」
九郎がびしびしと額を小突いていると、晃之介が呆れ半分怒り半分でお七の肩を掴んだ。
「それでお七。お前は何故、旅から帰ってきたと思ったらいきなり俺の息子を誘拐して百両も身代金を要求しているんだ……!」
「あー痛タタタタタ! 師父! それめっちゃ痛い!」
ごりごりと肩を強く揉んで問いただすと、お七はすぐに口を割った。
「誘拐なんかしてねーって! ちょいと遊びに連れ出しただけだろ!」
「遊び?」
聞き返すとお七は順を追って説明をしだした。
「久しぶりに師父んところに帰ってきてみたら、師父は出かけてるし見ない間にできてた子供は暇そーにしてるし。で、子供と遊んどいてやろうかなって思ってどっか行きたいところあるか?って聞いたら富士山が見たいって言ったわけだ」
「それで」
「あたしのお薦め場所の道灌山の一本杉に連れてきて、背負って登ったわけよ。で、落ちると危ねーから細長くて縛るアレで木に巻きつけてたってわけ」
「百両持って来いというのは?」
「ああ、それあたしが旅先で宝の地図見つけたから師父に百両で売ってやろうかと思って。佐々成政の埋蔵金だぜ? 見つけりゃ何万両になることか」
「……」
「……」
九郎と晃之介は顔を見合わせた。
確かに脅迫状にも、「金を払わないと子供の命は無い」とも「子供と引き換えに百両を寄越せ」とも書かれていなかった。
そしてこの場に現れたお七も、長喜丸の安全と百両の交換先は子供ではないとしか言っていない。
彼女は背中を擦りながら、
「いててー。クソ。なんか蹴られ損な気がするぜー。医者に見てもらった方がいいかも。あーあ。九郎の兄ちゃんが勘違いで蹴らなければなー」
「それで、子興を目隠しして縛ったのは?」
「……」
「……」
「その場のノリ?」
快音。少し悩んが後にいい笑顔で告げたお七を、九郎がアダマンハリセンで叩きのめした。
誤解からすれ違いを招いたと見せかけて、全力で誤解させようと悪戯を企むのがお七という女である。
全くもって同情できない。
「お前なあ、俺や子興殿がどれだけ肝を冷やしたと思っているんだ!」
「悪かった悪かったって! ほら折角帰ってきたんだから、賑やかしな登場したかったみたいな?」
「後で十貫(37.5キログラム)の重りを背負って寒中水泳だ」
「師父……それやっぱり死ぬって。大体、長喜丸が高いところから富士山を見たがってたのは本当だぜ? 連れてきたんだから褒めて欲しいぐらいだ」
「しまった。長喜丸が縛られたままだった」
九郎が飛んで救助に向かおうとしたが、晃之介から手で制された。
どうするのかと思うと垂直に立っている杉の木を、晃之介は幹を駆け上がるようにして一呼吸で長喜丸の近くまで上がった。
見事な軽業である。山での修行では木から木へ飛び移る移動などもしている晃之介からすれば、坂を登るのと変わらぬ感覚で木登りが可能であった。
「長喜」
「ん」
晃之介が話しかけると、彼の子供が短く返事をした。
袖から取り出した短刀で細くて長喜丸を縛っていた道具を切り裂くと、息子を肩車するように背負った。
「悪かったな。俺が修行ばかりで、あまりこうして構ってやれなかったと思う」
「……」
「今度富士山に登ってみるか」
「おー」
「お前がもう少し大きくなって、体力が付いたらな。だから今は、これで我慢しておけ」
晃之介はそう告げると、長喜丸を肩に担いだまま跳躍を繰り返して杉の頂点に上がった。
先端部はとても晃之介のような大柄な人間が体重を預けれるものではないが、軽功の使い手である彼に掛かれば槍の上でも立てる。
「すごい」
周りに何もない、一本杉の頂点から景色を見て長喜丸はそう素直に喜んだ。
それを見上げて、お七は肩を竦めながら溜息を吐いて告げた。
「やれやれ。終わりよければ何とやらだぜ」
「お主が云うな」
再びスパンと軽くお七の後頭部をアダマンハリセンが叩いた。
********
ひとまず長喜丸誘拐事件は解決したのであったが、問題はお七である。
この場合の問題とは、久しぶりに見た彼女がやや豊かな胸になっていたのを見たお八が目を回して卒倒したことではない。
「つーわけで、そろそろ身を落ち着けようと思うんで九郎の兄ちゃんよ、どっかお見合いの口探してくれ」
「旦那探しに帰ってきたのか?」
「旅も充分楽しんだしな。次は次の楽しみがあるだろ」
ということで、お七が嫁入り先を九郎に聞いてきたのである。
あのガサツで強盗とかやってて貧乳をまろびだし野生児めいた少女がそんなことを言ったので、九郎はかなり意外に思った。
山伏めいた服装を脱いで普通の着物に髪を整えればお七も中々見た目は良い。引く手あまただろう。
「ああ、ちなみに九郎の兄ちゃんは駄目な。なんかこー、面倒なことになりそうで」
「己れも来られても困るわい。相手の理想とかはあるか?」
「浮気しねーなら別に誰でも構わないけど……」
「ううむ……まあ、一応候補者を募ってみる」
そこで九郎が話を通しに行ったのは、例によって江戸の忍び集団にである。
何故か彼が関わると良い嫁が貰えると評判になっている──数例しかないのに──ようで、九郎は度々忍びから次の縁談は無いのかと期待の眼差しを向けられていたのだ。
歌麿を呼んできて写実的に描かせたお八の似絵をお見合い写真代わりに九郎が甚八丸のところに持ち込むと、半日も経たずに希望者の忍びが部屋に集まってきた。
そして似絵のお七を見ながら忍びらは悶えて、感極まって涙した。
「来た!! ついに僕の時代がやってきた!! 子孫には代々由緒正しい『外流外』の名前を継がせるんでゲルゲ!」
「うおおお!! 蓮っ葉でキヒヒって笑う悪戯っ子系ー!!」
「浮気しなければ童貞でも低収入でもいいって優しすぎない? 僕の童貞は君の為に残していたに違いない……!」
「待て! これは何かの罠だ。ここは俺が様子を見てくる……!」
大興奮であった。
とりあえず彼らは嫁に飢えている。顔のまずい後家でも嫁の貰い手に困らない江戸の社会、彼らのような底辺忍者が可愛い嫁を手に入れる可能性は富くじに当たるより低かった。
「さすが九郎天狗殿……縁結びに効果があるとか噂されるだけはある……!」
最近はそういう噂も流れているらしい。九郎は嫌そうに顔を顰めた。
「いや、知らんが。とにかく書類を纏めるから希望者は名前と住所、嘘偽り無く職業を紙に書け。抽籤でお見合いの順番を決める。あくまでお見合いの順だから、シチ子が気に入らなかったら次の順番の者にも機会が回る方式だ。決して恨み言を抜きで申し込むように」
と、九郎は騒ぐ一同を纏めて札を作らせた。
さてこの抽籤システム、実のところ全くの嘘で九郎による書類選考を行う為のものであった。
幾らお七が浮気さえしなければ誰でも良いと言っているとはいえ、紹介する方からすれば少しでも知り合いの娘は条件の良い相手に嫁がせたい。
そこで名前と職業を書かせた紙を持って九郎は一旦別室に引っ込み、忍びの素性に詳しい甚八丸──本来はお互いが何をしているか完全に秘密にしている集まりなのだが、頭領である甚八丸のみは全員の詳細を知っている──と共に、応募した連中を詮議するのである。
むしろ完全にランダムで選ぶ方が無責任とも言えるので当然ではあった。
家族を養うにはそれなりの収入が必要と再確認したばかりなのだ。
「うーん、こいつはお人好しで仕事も版木職人なんだが、春画を買って浪費する癖があるな」
「順番は下位だな」
「こいつは忍びの腕っ節は確かで嫁をどんなときでも守るだろうよ、ただ春画を買って浪費する」
「これもか」
「こいつは良いぞ。提灯の張替えをやらせたら江戸でもかなりのもんで、あちこちに顔が効く。ただ稼ぎの大半を春画になあ……」
「どれもこれも春画の見すぎであろう」
「仕方ねえだろ。独身の男なんだから」
消費先が岡場所ではなく二次元なのが微妙に悲しいところではあった
すると紙の一つに九郎の目を引く相手の名前があった。
「山田浅右衛門吉時……外桜田平川町……職業首切り、及び死体の試し切りと販売」
「それだけ聞くとトンデモねえ異常者みてえだなおい」
そう言えば、と九郎は思い至った。かの首切り役人山田浅右衛門も、友達が居ないことを気にしていたので九郎がこの忍び集団に入会させていたのだ。
ついでに彼も嫁探しの真っ最中であるが、生憎と彼の仕事を許容してくれる相手が見つかっていないのであった。
「……」
九郎が真剣にそれを見ていると、甚八丸が微妙そうな顔をして告げる。
「おいおい、それを勧めるのかよーう。正直、あんまり人に好かれる仕事じゃねえぞう」
「だが浅右衛門は心底良い奴ではあるのだ。収入も確かだしのう」
ただ彼に嫁が居ないのは。
罪人の首を切って、その首無し死体を持ち帰り、大名などに依頼されて刀の試し切りに使って見せ、さらに内臓を煎じて薬を作ったり指を切り取って酒に漬け保存して吉原に売ったりという、どうあっても死体に深く関わる仕事であること。
そんな仕事をしている男に、無理に嫁いでくるものではないと彼が思っているからだ。
相手の女性を思ってこその独り身であり、彼自身は相手が理解とまでは行かずとも、物怖じせずに暮らしてくれる嫁が欲しいのである。
(シチ子は死体を扱う仕事に理解があるか?)
と、自問する。
それは特殊なケースすぎて分からないが……お七自身も、そこらの女とはまた違った精神性を持っていることも確かだ。
「試してみよう」
そう決めて、お見合いの順番を上位にした。
誰の人生にも試さなければならない瞬間は訪れるのだ。
********
「やは。どうもこんにちは」
「おう。こんにちはだぜ」
「山田浅右衛門吉時です。あ、大層な名前だけど浪人だからね、某」
「あたしはお七だ。八百屋お七じゃねーからな。キヒヒ」
「あはは。さて、最初に──某は罪人の首を切る仕事なんだ。刀の試し切りで屍を真っ二つにもする。死体から薬を作って売ったりもする。────はっきり言ってあまり世間から好かれない役目でもある。だから、嫌だったり気持ち悪かったりするときは遠慮なく断って欲しい」
「そっか。じゃあさ、今度仕事を近くで見せてくれよ」
「……へ?」
「見もしねえで嫌とか気持ち悪いとか言えねえだろ。いやまあ、死体を斬りながらギンギンだったりすると引くけどな。とにかく。あんたがその仕事を大事に思ってることはわかったから、ちゃんと見させてくれよな。それからお見合いの続きしよーぜ」
そんな二人の、一風変わった調子で進むお見合いを九郎はお七の隣で見つつ、挙動不審な動きで「本気?」と聞く浅右衛門に小さく笑うのであった。
金勘定など無く夫婦とはこうして互いに理解し合う姿勢から生まれるのかもしれない。
「ちなみに浅右衛門や。お主、年収ってどれぐらい?」
「うーん。結構供養に使ってるから正確にはわからないけど」
「けど?」
「5000両ぐらいだったかなあ、もっとあったかなあ……薬を売ったり刀の鑑定とかで」
(己れも浅右衛門に養ってもらおう)
思わずそんなことが頭をよぎる九郎であった。
山田浅右衛門は多分これより後の代ですが
浪人身分なのに一説によれば三万石の大名並に収入があったそうです
更に大名は家来に分け与えないといけないけれど、浅右衛門は浪人なのでその金がダイレクトに入るというコンボ




