19話『九郎と豊房と貝の話』
「むう……なんだこの蛸は。初めて食ったぞ」
九郎は皿に並べられた蛸の刺身を一切れ口にして唸った。
味付けは煎り酒が振りかけられている。これは酒に梅漬けを入れて煮たもので、酒の旨味と梅漬けの塩梅が調和して中々に味わいのある調味料だ。醤油よりも古くから使われている。
それを付けている蛸は、皿が透けて見える程に薄く切られていて、こりこりとした歯ごたえは無いが口の中で溶けるような蛸は九郎も初めての味わいであった。
何よりそれを作ったのが、九郎が駄目な方向に料理の腕を信頼している六科なのだから驚きである。
「ほら、言ったとおりでしょ」
自慢げに六科の隣で豊房が言う。
近頃は別の屋敷で暮らしていたので九郎も知らなかったことなのだが、彼が数年江戸を留守している間に蕎麦の出せない夏場は緑のむじな亭はまともな刺身料理屋になっていると聞かされてやってきたのである。
よく研がれた包丁を片手に、六科が頷いた。
「俺としてはそれに黄な粉をまぶした方が──」
「はいはい。駄目。コツはね九郎。お父さんが余計な味付けする前に切った段階で取り上げることよ」
「うむーん」
微妙に納得がいかないとばかりに六科が呻く。
壊滅的に味音痴で、料理の手間暇を省くという料理人失格属性な彼なのだが──包丁を扱う技術だけは一級品なのである。
煮ると生煮え、焼くと消し炭、味の濃さは絶望的であっても、刺身を切った時点ではそれらは発揮されない。そこを利用した、むじな亭苦肉の策なのである。
「しかしこの蛸、旨いのう。柔らかくて老人に優しい」
「お父さん凄いのよ。この蛸、身は柔らかいのに皮は硬い上にぬるぬるしてるのを、包丁でスルスルってあっという間に剥くの。そして桂剥きするみたいに蛸の身を薄く切って、おまけに切り身に隠し包丁まで入れてるんだから」
「なんと」
九郎が半透明に近い蛸の刺身をつまんで光にかざすように見ると、切り身には葉脈のように薄く切れ込みが入れられている。そうすることで、煎り酒も切れ目に染み込んでよく絡み、口の中でほどけるように柔らかいのだ。
薄造りの全てにその細工がされてあるので、ちょっとした工芸品のようであり九郎は六科の腕に驚嘆した。
「落雁を作るようなものだ」
当然のように六科は云うが、硬い砂糖菓子を削るのと柔らかく千切れかねない蛸を切るのとでは難易度が違うだろう。
「しかし夏場の蛸というと味が落ちておると聞いたが……」
「夏に産卵をした蛸は味が落ちる。魚市で産卵していないものを選んで買ってきた。値段はすべて安い」
「お父さん目利きも出来るんだから! お魚屋さんで買うより、深川の魚市で直接買い付けたほうが安いって毎朝行ってるの」
「もういっそ刺身屋になれ」
半ば呆れながら九郎は舌鼓を打った。どことなく父親を自慢している豊房が微笑ましくもある。
店の奥から娘と手を繋いでゆっくりと歩いてきたお雪が微笑みながら云う。
「九郎さんが居た時はあれこれと夏場に作るものを教えてくれていたんですけれども、居なくなった際にそれでも家族を養わないといけないって旦那様が頑張ってくれたんですよーぅ」
「最初は刺身に黄な粉をまぶしたり、生キノコの刺身を作ったりして大変だったけど──ってお母さん、もう産み月なんだから安静にしとかないと!」
「はぁーい」
腹を大きくしているお雪は、豊房の叱るような言葉にも嬉しそうに頬を押さえながら、よろよろと奥の部屋へ戻っていく。
ただでさえ盲人なのだから転んだりしては大変だと、妊娠している間は家族一同が過保護なまでに彼女を世話していた。
彼女の背中を見送っていると、九郎に次の皿が出された。
「鱸の洗いよ」
「おう。これも旨いのう。この暑い夏にはありがたい」
きりりと冷水でしめられている洗いは、飯よりも酒によく合う。甘くした酢味噌を僅かに付けて食べると、頬がほころぶようだった。
「九郎の御札で冷水も出るもの。これで洗いをすればお客も大喜びよ」
「そうだのう。繁盛しておるようだ」
昼間の店内は概ね席が埋まっていて、刺身に酒か白飯を頼んで食っているようだった。
特に江戸っ子は気が早いので、刺身と飯の客は勢い良く掻き込んで食べて出ていくので蕎麦よりも回転率が良い。
「そう言えば歌麿は何処へ行ったのだ?」
いつも店の手伝いをしている弟分の姿が見えないので九郎が聞いたら、師弟関係にある豊房は溜息混じりに応えた。
「あいつなら、靂と一緒に[女体化悪堕ち奉行~えっち洗脳神ただスケベ~]って本を出版したらお奉行様の越前守忠相がキレて即発禁食らったから逃げているわよ」
「タイトル最低だな!」
「『ぐふふぅ……あの気丈な上様とは思えぬ変貌ぶりですな』って感じの」
「内容も最低だな! そりゃキレるわ!」
「まあ二人共偽名を使って、脱法版元で製本して売り切りだったから同人誌みたいなものね。暫く隠れていればほとぼりも冷めるの」
大岡越前の元で江戸では出版規制が行われている享保の時代であるが、同じく無数にその規制の穴を潜り抜けたり違法出版をして売り逃げしたりということがあったようである。
例えば瓦版売りのお花も本来は事件を扱った瓦版自体が禁止されているのであるが、自力で全て刷って路上販売でなく配達することで咎めの手が及ばないようにしている。
「おねーちゃん」
と、か細く呼びかけて豊房の袖が引っ張られたので、彼女は振り向いてかがんだ。
妹のお風である。豊房よりもお雪に似ている顔立ちをした肌の白い娘だ。関係者は皆「父親に似ないで良かった」と安堵している。
若干口下手で甘えん坊な妹が何か言い淀んでいる様子に、豊房は頭を撫でながら聞いた。
「どうしたの? ……ああ、ひょっとして寂しかったかしら」
「おねーちゃんは……もう一緒にいれないの?」
お風は不安そうな顔で見上げながら、そう聞いた。
4歳の妹は姉が家を出たことをまだ理解しきれて居ないのだろう。
何故出ていってしまうのか。家族で一緒に暮らせないのか。幼い彼女にとっては、姉は大事な存在だったのだ。それでも優しい父母と兄代わりの歌麿が世話を焼いてくれているから耐えていられるが。
九郎はどことなく気まずい気分になってきた。だが豊房は「そうね」といつも通りの調子で軽く告げる。
「そんなものよ。いい? お風。どれだけ惜しんでも姉なんてのは先に出ていくものよ。それが早いか遅いかの違いだわ」
「そうなの……?」
「わたしはその点、時々帰ってくるだけマシだわ。だって会えるもの。それにあんただってもうすぐお姉ちゃんになるんだから、しゃきっとしなさいよ」
そして豊房は九郎のところへお風を連れてきて、
「あとあんた、怯えてばっかりで挨拶もあんまりしていないでしょう。こっちは九郎お兄さんよ」
「うむ。なんというか……甘納豆でも食うか?」
九郎は懐から小袋に入れている甘い豆菓子を少女に渡しながら、怯えさせないように柔和な顔をした。
お風は甘い匂いのする菓子袋を受け取りながら、おどおどとした様子で九郎を見上げて聞く。
「……九郎おにーちゃん?」
「おう」
「……こんにちは」
警戒した猫みたいだな、と九郎は苦笑する。まだ幼い妹からすれば、頼りになる姉をさらって行く謎の元居候と言ったところなのだろうか。
そんな妹の様子を豊房は見て「まあいいわ」と適当に納得した。
「わたしが出て行った分、弟だか妹だかが増えるんだから問題は無いわよね」
「そういうもんかのう」
「大丈夫よ。わたしとお八姉さんだってよくお店手伝いに来ているのだから。此処まで嫁入り後にも実家を手伝う孝行娘はそう居ないわよ」
嫁入り。
その単語に九郎はぐっと酒を呑んで口を満たした。否定すれば外道だし肯定すればどツボである。六科の目が何かグポォンと音を立てて光りながら九郎を見ていた。誤魔化すように酒を追加で頼む。
「そうだわ。九郎、これから出かけるわよ」
「む? 何処にだ」
「ちょっと買い物よ。お父さんの面倒は……そうね。お風。あんたが覚えなさい」
「おてつだい?」
「そうよ。お父さんが黄な粉の袋とか取ろうとしたら『だめ』って云うの。お父さんもわたしが居ない間に、刺身に変な工夫をしないようにね。お風を見張らせておくから」
「うむ」
「返事はいいのよね、返事は。それじゃちょっと行ってくるわ」
豊房が手を引っ張るので、九郎は慌てて徳利に入った酒を飲み干して立ち上がった。
こうしてグイグイと引っ張っていく行動力は、昔ながらか石燕の影響かと思いながら彼女について行くのであった。
*******
「無かったわ」
深川、日本橋の魚市を順に見て回りきっぱりと豊房は断言した。
連れ回されつつも九郎は目的の物を聞いていなかったので彼女に尋ねる。
「で、何を探しておったのだ?」
「鮑貝よ。干したのじゃなくて新鮮なのがいいのだけれど。だって干したの高いわ」
「まあ……一つで一分(約2万円)ぐらいするからのう干しアワビ」
江戸で売られている食料品としてはかなり高価な部類で、それゆえに乾物屋は金があると見なされ押し込み強盗に狙われることも多かった。
「しかしどうしてまた、急に鮑貝が欲しいのだ?」
「鮑貝は妊婦さんに食べさせると生まれてくる子供の目が良くなるって云われてるの。お風を産むとき、お雪さんが教えてくれてそのときは売ってたんだけれど」
「ふむ。そのような言い伝えが」
「迷信じゃないわよ。将翁さんに聞いたら、鮑貝は石決明って云う漢方で目の薬になるんだから」
お雪も初産で不安だったのだろう、と九郎は思った。
彼女の視力がほぼ完全に無くなったのは火傷の後遺症もあるが、生まれつき視力が薄弱だった。本人としては、生まれてくる子供も盲いていたらと思うと不安であったはずだ。
二度目の今はある程度落ち着いているが、それでも豊房は母の為に鮑貝を探そうと思いだしたのであった。
「……売ってないなら海に取りに行くしか無いわね」
「そう簡単に見つかるのか? いや、鮑を採ったことはないので知らんのだが」
「大丈夫よ。晃之介さんが知ってるはずだわ。お金がないからって山で猪を、海で鮑を取って稼いでたってお八姉さんに聞いたもの。居そうな場所ぐらい教えてくれるの」
「あやつ、江戸で暮らしておるのにサバイバリティに溢れておるのう」
ちゃんと嫁の子興と子供は養えているのだろうかと不安になる。何せ九郎が帰ってきたら道場の裏に畑まで作られていたのだから、自給自足めいていることは想像に難くない。
定収入であった柳川藩の弓術指導も藩主が変わったことで打ち切られたのが痛かったのだろうか。
「……何か土産を買っていってやるか」
「そうね。お菓子とか。あと子興さんに一枚絵の仕事を何件か持っていってあげましょう。八方睨みの猫絵は高く売れるのよ」
娘夫婦と妹弟子に気を使う二人であった。
道場にて晃之介に事情を話すと、
「それなら芝の少し沖に行くといい。岩礁が海面から見える場所があって、そこに鮑貝が居るぞ」
快活にそう教えてくれた。九郎は頷きながら、
「なるほどのう。しかしそんな近くに高級食材があるのならば、漁師が放って置かぬのでは?」
「灯台下暗しと云うじゃないか。あの辺りは魚の漁が盛んだが、貝類は採っていないんだ。芝は海藻もよく取れるからな。それを餌にしているのだろう」
「ほうほう」
「行くのだったら小舟と道具を貸してやるぞ」
「助かる。というか小舟なんぞ持っておったのか」
貧乏をしているのに、と九郎は聞くと晃之介は肩を竦めた。
「自分で木を削ったり切ったりして作ったんだ。弟子の水練にも使うからな」
「泳ぎも教えておるのだったな。どういうことをしておるのだ?」
「深場に舟で連れて行って、鉛を巻いた重い木剣を水に沈めたあとそれを取ってこさせたり」
「大変だなそれ!」
「靂は溺れて暫く浮いてこなかった」
「大事だなそれ!」
一方で晃之介は、知り合いから「河童が付け届けに来る」とまで云われるほど泳ぎが達者である。
僅かな距離ならば軽功を使って水面を走り跳べさえできるし、内功を満たせば冬の海に一刻浸かっていても平気であるようだ。
晃之介が立ち上がり、「待ってろ。裏から貝を取る鈎を持ってくる」と出ていった。
茶のおかわりを子興が注いでくる。江戸に帰ってきて久しぶりに会ったら人妻らしい丸髷にしていて、すっかり大人の女らしい雰囲気を出していた。
(昔は行き遅れを誤魔化すようにきゃぴきゃぴしておったのにのう)
失礼な事を考えていると、
「そうだねえ、九郎っちには次に小生が妊娠したらまた鮑貝を取ってきて貰おうかな」
「む。そう言えば二人目とか……ちゃんと……なんだ」
微妙に言いよどむ。男親が娘の夫婦生活に突っ込みにくいように、九郎も若干気まずい思いがあった。
子興と晃之介は仲が良い。新婚当時よりもより自然に、親密になっているようだ。しかしそれでも子供はまだ一人である。避妊具もないので夜の営みをしているのならばもっと子供が居そうなものだが、と単純に疑問を浮かべた。
彼女は「えへへ」と照れくさそうにしながら、
「大丈夫大丈夫! 単に、歌麿くんに図説でいろんな営み方法を夫婦揃って教えてもらっただけだから!」
「そ、そうか。あやつそう云う指導までしておるのか」
「胸を使ったり口を使ったりお尻を使ったり色々あるんだねえ」
「娘の性生活はあまり聞きたくないのう……」
砂を噛むような顔をする九郎と、変な想像をして豊房は「ううう」と呻いて赤面した。
そんな彼女の様子を見て、子興がちょいちょいと指で招いて九郎からやや離れたところで内緒話を始めた。
「ところで師匠。鮑貝取りにいくの豊房ちゃんが潜るの?」
「そうよ。お八姉さんに教えられて、早く泳ぐのはともかく潜って浮かぶことはできるもの」
本職の海女とまではいかないが、豊房は才能豊かなようで教えれば勉強も運動もある程度簡単にコツを掴むことが出来るのである。
潜る練習をしたのは、以前に子供の頃橋から落ちた──というよりも橋が崩れ落ちて、川に放り出されて死にかけた経験からいざという時の為に習ったのであった。
子興は「それはいいんだけど」と前置きして聞く。
「潜るとなると、着物は脱ぐよね?」
「それは当然──あ」
豊房はその図を想像して、固まった。昼間っから舟で九郎と二人きりになり、目の前で全裸にならねばならないのだ。
幼い子供の頃ならば共に湯屋へ行ったこともあるのだが、帰ってきてからは同じ屋敷で暮らすにしても風呂を共に入ることはなかった。相互監視の如く、女衆は複数人で入浴するのが暗黙のルールである。
いや、裸を見せるのが風呂ならば納得は行く。
しかしお日様の下、目の前で二人っきりというのは──
「うわうわ!? そんな赤くならないでも!」
「でも、だって……恥ずかしいじゃない」
「乙女なところはそっくりだなあ……それなら、お八ちゃんが使う水練着があるからそれを着ていこうか」
「うん……」
可愛いなあと思いながら、年下の師匠を伴って着替えに道場の奥へ向かう。
「じゃあ九郎っち。ちょっと借りていくから」
「ああ、よくわからんが」
ひとまず九郎は見送り、ぽつんと道場に残された。
「晃之介のやつ遅いな。仕舞い込んだ場所を忘れたのか?」
と、手伝いにでも行こうかと思ったら道場に入ってくる小さな影があった。
少年だ。晃之介と子興の息子である長喜丸だ。
4歳という年齢にしては晃之介の子だからか、体幹のバランスが取れていて歩き方に危なげがない。顔つきは目元がぱっちりとしている少年で、物静かな方だが人懐っこい性格をしていた。
同じ年頃の子供で物怖じするお風相手にお手玉をして見せたり、遊びに連れてきた影兵衛の息子新助と小川で石投げをしていたりするのを九郎も見かけたことがある。
「おう、どうした長喜丸」
「ん」
指を向けると、道場に迷い込んだ蝶がひらひらと天井付近を飛んでいるようだった。
特に捕まえようという素振りは見せずに、追って見ていただけなのだろう。道場の入り口で暫く蝶を眺めて、蝶はやがてまた外へと出ていった。
「ふむ……」
九郎は、自分が子興の父親代わりならば孫とも言える長喜丸へと何か構ってやりたいような欲求が浮かんでくる。
「長喜丸や、お主……父ちゃんから高い高いとかされたことあるかえ?」
「んー?」
首を振る。九郎は「そうか、そうか」と腰を上げて近づいた。
「蝶のように空を飛んでみたくはないか」
「みたい」
「よしよし。己れが連れて行ってやろう」
九郎は長喜丸を持ち上げておんぶしてやり、道場の外へ出た。
落とさぬように足をしっかりと持ち、子供にも背中を掴むように伝えて──空へと浮いた。
「おー」
「はっはっは。高いところは怖くはないか?」
「こわいような、いけるような」
「そうか。よし、もっと高く行こう」
そのまま垂直に道場の上空へと浮かんで見せた。
長喜丸の視界には、今まで見たことがない空から地上を見下ろす景色が鮮やかに広がって見える。
道場も小さくなり、周りの畑が四角に並び、道が線を引いていた。幼い子供視線からはまったく想像もつかない、世界が形で出来ているというのが感覚的に理解できた。
「すごー」
「良い景色だろう? ……おっと、いかんな。地上で晃之介と子興が心配しておるようだ。降りるとするか」
そして九郎はゆっくりと地上へ向かっていくのだが、背中の長喜丸が大層喜んでいるようであり。
多少晃之介らから怒られても気にしないことにしようと決めた。
なお、その後近所の農家が「先生の子が天狗に攫われてた!」と慌てて駆け込んで来たのだったが。
*******
道場近くの手作り感溢れる船着き場から、手作り感溢れる丸木舟に乗って海を目指すことにした。
「九郎、大丈夫なの?」
「まあのう」
九郎が握っている櫂の先端には[精水符]が巻かれてあり、水を常の後方に向けて放出する仕組みにしていた。
ウォータージェット推進の要領で、すいすいと舟を進ませる。漕ぐのに慣れていない九郎でもこれならば簡単かつ楽に舟を動かせた。
「九郎と一緒ならどこへでも旅に出れそうね」
風を切って舟が進むのを気持ちよさそうに浴びながら豊房はそう云った。
川の支流から大川本流へと入り、そこから河口へ向かう。
岸沿いに江戸を南下して芝雑魚場の水を張ってある板舟が多く見えるようになったら舟を沖へと向けた。
幸い波もまったく無い日だった。周りに板舟も見当たらない海原で一旦舟を止めた。
「海もそこそこ澄んでおるから見つかるはずだが……少し飛んで探してくる」
と、飛行して周囲を探して海面近くが黒くなっている岩礁を見つけて、舟を近づけた。
「この辺りに鮑貝が多くいるらしいな」
「それじゃ潜って確かめてみるわ」
「お主が行くのか?」
「そうよ。うちのお母さんの為だもの」
当然のように言い切って、豊房は赤い模様の入った着物の帯を緩める。
着物の中には予め、お八が道場に置いていた褌に似ている腰巻きと、胸の晒布が付けられていた。
また、用意していた細長くて物を縛る道具を腰に結びつける。
「それは?」
「何か合ったときとか、水面に上がるときにこの細長くて引っ張り上げる道具で合図を取り合うの。わたしが海の中から引いたら九郎は引っ張り上げて頂戴」
「そこまでするのならば、己れが潜って探してくるが……」
「なに言ってるのよ。普通に考えて、引っ張り上げるには力の強い人を舟の上に残すじゃない」
「それは確かにそうだが……はっ!?」
九郎は説明を受けながらとんでもない事実に気づいた。
細長くて引っ張り上げる道具。
海に潜る女。
上から成果を待つ男。
その三つの要素はつまり、女の稼ぎを引っ張り上げる道具で男は上で楽をしながら手に入れるという構図そのものである。
それ即ち──[ヒモ]の語源だ。
[ヒモ]を使って女に金を稼がせる状況だ! 言い訳ができないぐらい、原点にして頂点のヒモ行為だ!
「ままままま待て! やはり己れが潜る。潜らせてくれ」
九郎はこれまでに無いぐらい狼狽して豊房にそう言い募った。
「なによ、そんなに慌てて」
「このままでは己れはパーフェクトな細長いアレ存在になってしまうではないか! 今までは周りの目線がどうあろうと実質的には否定できていたのが否定不可能になる。というか此処まで本格的な言い訳の聞かない行為をする男はそうおらぬぞ!」
「わたしと九郎しか見てないじゃない」
「いいや、この光景を異次元から見ておるやつが居るかもしれん……ヨグとか」
疑わしげに周囲を見回す。彼は警戒している。異次元から監視されている可能性というと、かなり神経が参っているように思えるが。
「とにかく、フサ子も潜水ができても慣れておるわけではあるまい。危険があるかもしれんから潜って監視していたほうが良い」
「九郎がそう云うなら構わないけど……」
「術符を使えば多少は便利に動けるしのう」
そう云って九郎も着物を脱ぎ捨て、トランクス一丁になった。
「よし、行くぞ。決して無理はせずに息が苦しくなったらすぐに上がるように。海面から三間(約5.5m)以上は潜らぬように」
「わかったわ」
「上を指差したら二人共浮上の合図だ」
頷き合って、深呼吸をしてからやがて同時に二人は海に飛び込んだ。
まだまだ水温は高くぬるい水の中だ。低水温による体力の消耗は押さえられるということは肺の空気も長く持つということである。
まず水中では冷静になることが大事だ。慌てるとすぐに息苦しくなる。
九郎は自分を落ち着かせて、やや海水で潤んだ視界で周囲を見回した。
意外なことに豊房はさっさとやるべきことを済まさんとばかりに岩礁へ向かって泳ぎ、岩の下などを確認している。非常に冷静で効率よく動いているようだ。
(これが石燕ならまず溺れるな)
そう思いながら、周囲に鮫などが居ないか見回す。豊房の腰には舟から伸ばしてある細長くて引っ張る道具がゆらゆらと揺れていて、離れていても九郎はそれを掴めば引き寄せることができる。
それにしても、
(水中眼鏡が欲しいところだのう)
塩水が目に染みて、楽しいダイビングというにはゆらゆらと視界がぶれている。
これではアワビ探しも効率的では無さそうだ。九郎は[精水符]の推進力を使いながら水中を移動して岩礁へと近づく。
小型の苦無に似た道具を片手に豊房は鮑貝を探しているようだ。採取する人間が居なければ案外に浅いところにも鮑貝は生息するが、光を嫌うので岩陰などに多く居る。
やがて数十秒が経過して、二人は一旦海面に戻った。
「ぷはっ……やっぱりちょっと見えにくいわよね」
「ふむ……どうにかしてみるか」
九郎は腰に付けたままの術符フォルダ──後で水洗いが必要だ──から[隠形符]を取り出す。
「範囲を狭めれば効果時間を増やせるであろう」
「どうするの?」
「こうする。[隠形符]──上位発動」
と、術符に込められた魔力を大きく開放すると、二人の足元がぽっかりと空洞になった。
空中に投げ出されたような光景だ。豊房は短く悲鳴をあげて、九郎に抱きつく。
溺れないように彼女を掴みながら九郎は説明した。
「この岩礁近くの深さ三間まで、海水を透明にした。潜る手間は変わらぬが、水中で目を開けても問題なく見える」
透明になった海水は太陽光も遮らずに通して、陸上と何ら変わらぬ視界になっていた。岩礁のみが大岩として浮いているだけに見えた。
「なんかこうしてると、空中を泳いでいるみたいね」
「間違えて水の中で息を吸うでないぞ」
「気をつけることにするわ」
大きく息を吸い込んで、豊房が再び潜った。
九郎としてはいっその事岩礁も消して鮑貝だけ残すことも考えたのだが、まず岩礁を消したら不意にぶつかりそうで危うく、ついでに外から見たら鮑貝も岩礁の一部にしか見えないので選択するのが難しかったのである。
潜って自分も岩礁を眺めてみるが、さっぱりどこに鮑貝が付いているかわからない。
(豊房はわかるのだろうか? ……それにしてもこの岩礁、円錐型に渦を巻いているようで、まるで巨大な栄螺だのう)
突き出た棘はまるで鬼の角のようであったが。
やがて二回目の潜水も終えて、豊房が水面に向かったので九郎も追いかけた。
彼女は呼吸を整えて告げる。
「見つけたわ。でもがっちり岩にくっついていて剥がすのが大変ね」
「己れがやろう」
「そ。じゃあ付いてきて」
と、三度目の挑戦を行って九郎は豊房が指し示す場所へと泳いで向かった。
彼女が指差す場所には藤壺や藻が表面についているが、一尺以上はある大きな鮑が岩に張り付いていた。
(これは中々でかいのう)
九郎は鈎を隙間に入れて引き剥がそうとするが、強い抵抗があり中々上手くいかない。
大工道具のノミに似た道具を岩と鮑の隙間に入れて、片手で岩礁を掴んで固定し万力のような力を込めて岩を砕かんとばかりにめりめりと押し込んだ。
すると意外な抵抗なく、岩はぼろりと内側へ向けて崩れた。
鮑貝も外れると、最初から穴でも空いていたかのように張り付いていた場所が真っ暗な空洞になっている。
──中で何か動いた気がしたと思った瞬間、岩礁が揺れた。
(いかん──地震か!? 豊房を連れて海に上がらねば!)
岩でも崩落して巻き込まれれば海底まで押し潰されかねない。
九郎は鮑貝以外の道具を捨てて岩礁から離れて豊房へ近づいた。
海流が渦巻く。岩礁が激しくうごめいているようだ。一瞬、ぐんと引っ張る力が豊房に掛かる。慌てて九郎が掴むと、彼女は腰に結んでいるロープが何処かで岩礁に引っかかっているようだ。
切ろうにもついさっき道具を捨てたばかりであった。結び目を解くにもそう簡単ではない。九郎は咄嗟の判断で豊房の腰に巻いている部分を下に降ろして足から脱ぐようにして縄を外した。その際、腰巻きも一緒に外れたがやむを得ない。
突然の海の変化で豊房も慌てている様子が九郎には見えて、ひとまず海面へと向かった。
「──ぷはっ!」
「舟に上がるぞ!」
まず九郎が舟に登り、豊房を引っ張り上げる。
下半身が裸になっている彼女は呼吸を整えながら舟に座り、脱いで置いてあった着物で下腹部を隠した。
九郎はそちらを気にせず、岩礁の様子を船上から見る。
「むう……なんだったのだ? 岩礁が沈んでいくとは……」
正確には深さ五間(約9m)あたりには土台のように岩場が見えるが、二人が鮑貝を探していた海面近くまで突き出た部分が消えてなくなっていたのだ。
「地震じゃなさそうよね。だって、岸の方で火事とか起こっていないもの」
岩があれほど脈動するような地震になれば、必ず竈の火が倒壊した家に燃え移り大事になるはずだが。
ただ、この海で岩礁のみが動いたというような謎の状況であった。
「……或いは、わたし達が岩礁だと思っていたのはとても大きな栄螺だったのかも。それで殻に穴を開けられてびっくりして逃げたとか」
「あの巨大な岩がか? ……そんなことがありえるのかのう」
「さあね。幻を見せる竜に似た大蛤が居るのだもの。栄螺が鬼にでもなれば、あれだけ大きくなるかもしれないわね」
さしずめ、妖怪[栄螺鬼]。
豊房はそう云って、水で濡れた髪の毛を手櫛で整えた。
「ふむ……なんか鳥山石燕っぽいのう」
「鳥山石燕だもの」
「そうだな」
九郎は笑いながら、舟に採ってきた鮑貝を置いた。
「目標は達成したから帰るとするか」
「そうね──ってあら? なんか……水が舟に」
「うむ?」
九郎が改めて見やると、ぶくぶくと船底に水が溜まり始めていた。
顔を青くする。
「いかん、浸水だ。さっきの岩礁に擦ったか!?」
「ど、ど、どうするの!?」
「舟を捨てるにも晃之介のものだしのう……! とりあえず、着物を穴に詰めてみよ!」
「わかったわ!」
豊房が下に巻きつけている着物を丸めて穴を塞ぐ。
溢れ出ている二箇所を豊房と九郎の着物を詰め込んだ。
水の増える勢いは衰えたかに見えたが、今度は船尾あたりから水が噴き出てきた。
「こっちからも……もう塞ぐものが無いのよ!」
「ええい、鮑で塞ぐのだ!」
「え!?」
「急げ!」
九郎に云われて、豊房は。
「し、仕方ないわ……背に腹は代えられないもの──!」
何故か、ぺたんと穴の上に女の子座りで座った。
船底から湧き出る水の流れが、股の割れ目をくすぐる。
「ん……塞げてるの?」
「いや、何をやっておるのだお主」
「え、だってあわびで塞げってそういう……」
言いかけて、九郎が採ってきた鮑を見て彼女は小刻みに震えだして顔を真っ赤にした。
どう考えても豊房のアワビとも云えない乙女の秘所を示したのではなく、その張り付くことが生きがいのような貝類で塞げという意味であったことに、ようやく気づいたのだ。
九郎はなんとも言えない顔で、
「お主……助平な駄洒落は石燕の真似をせんでいいのだぞ」
「ちがっ違うのよ九郎!? 慌ててたから間違えたの!! わた、わたしそんな下品な冗談を云うつもりじゃなかったんだから!」
「いかん。徐々にツボに入ってきた。アワビて。アワビ云われて自分のアワビを使うって……」
「笑うなぁー!」
羞恥のあまりに涙さえ浮かべているが、九郎は口元を押さえてこみ上げる笑いを堪えるので精一杯であった。
それから暫くして。
ようやく豊房の恥ずかしさと九郎の笑いが落ち着いてきたので、舟の処置をすることにした。
何の事はない。着物をどけて穴が空いた箇所を[氷結符]で凍りつかせれば暫くは持つ。少なくとも晃之介の道場近くに戻るまでは。
しかし豊房の機嫌は急降下したままであった。
「まあ良いではないか、フサ子。機嫌を直せ」
「……絶対、絶対内緒だからね。九郎、人に云うんじゃないわよ」
「忘れるように努めよう」
「ふん」
肩を竦めて応える九郎に、豊房は鼻を鳴らした。
「……別の情報で上書きしようかしら。九郎、鮑貝を使って舟の穴を塞ぐというのは実は日本各地の説話で見られるの」
「そうなのか?」
「一番古いのは古事記に出てくる日子坐王ね。丹波を平定して船に乗り出雲に帰る途中で船に大穴が空き、そこを大鮑が塞いだとされているわ。そのことから大鮑を[船魂潮路守の大神]として二方の地に神社を作って祀ってあるの」
「殆ど神話の代だのう」
「次に有名なのが、表米宿禰命ね。丹後白糸にやってきた神羅の海賊と戦った際に、船に空いた穴を鮑が塞いで助かったとされているわ。こっちも神社に祀られているわね。
それに日蓮大聖人の話にも出て来るのよ。佐渡ヶ島に流罪になったときやっぱり定番の如く船が沈みかけて鮑が救った話が伝わっているわ──って九郎聞いてるの?」
「すまぬ。なんかどれも想像したら必死こいて穴を塞ぐお主の姿が浮かんだ」
「ばかーっ!」
笑う九郎の背中をぽかぽかと叩きながら、豊房は嘆くのであった……
********
その後、無事に鮑を届けて六科の作る刺身と鮑の雑炊を皆で舌鼓を打って食べた。
お雪などは豊房に抱きついて頬ずりをするほどであり、お互いに血は繋がっていないがそこには確かな愛情の絆があるようだ。
何せ大きな鮑だったので神楽坂の屋敷に持っていく分も切り分けて貰い、豪華な夕餉となったのだが。
その夜、豊房の寝室ではため息が何度も聞こえた。
彼女らの部屋は夜遅くまで作業をすることもあるので行灯が明るい。石燕はちまちまとぬる燗を呑みながら書き物をしていたのだが、あまりに後ろで布団に寝転がりながら豊房が呻いているので最初は放っておこうとしたのだがついに声をかけた。
「どうしたのだね、房よ。ため息を付くと何かが逃げるよ」
「何かって?」
「婚期とか」
「やめてよ先生。その現実味のあるの」
嫌そうな顔をする豊房に、石燕は眼鏡を正しながら尋ねる。
「何か悩み事があるのならば云ってみたまえ。私が即座に解決してあげよう」
「うーん……解決ねえ」
「どうせ九郎くんのことだろう。今日鮑を取りに行こうと提案したら九郎くんに遊郭に連れて行かれたとか」
「やたら下品じゃない先生の脳内九郎!?」
軽く発想に引いたものの、豊房は笑われる覚悟をしながら小声で石燕に事情を話してみた。
アワビではなく自分の秘所で塞ごうとした失敗談だ。
しかし石燕は神妙な顔をしたまま聞いて、
「なんだ、ただそれだけか」
「ちょっと先生。酷くないかしら」
「小さい小さい。九郎くんなんて基本的に他の女の駄目なところ見まくりなんだから。房もそれぐらい隙を見せたほうが可愛げもあると思ってくれるよ。お前は真面目なんだから」
「そ、そうかしら……」
「それでも気になるというのならば……仕方ない、ここはこの私の天才的な頭脳でどうにかしてあげよう!」
石燕は立ち上がると、台所へ向かった。豊房も持ち運び用の行灯を手に彼女についていく。
「鮑の殻を貰ってきただろう?」
「ええ」
「これを使ってだな……次に九郎くんの部屋に行き」
部屋の障子の前で、石燕は寝間着を脱ぎ捨て何故か全裸になった。
豊房は意味不明な姉の行動に引く。
そして貝殻を一つ持って部屋に突入していった。股間を貝殻で隠しながらポーズを付けて、術符から塩抜きをしていた九郎に云う。
「九郎くん!! 見たまえ一発芸『ヴィーナスの誕生』!」
「ヴィーナスは股間を鮑で隠してねえよ!」
石燕は酔っていた。
大体、ヴィーナスの誕生の絵画に出てくる貝はホタテである。
幼女の姿になり開放的な石燕はヨゴレ芸すら無意味に己のものとしている。まあもはや粗相すら見られたのだ。開き直っているところもあるし、幼女なら許されるという打算も持っているのだろう。
この師匠に比べれば自分の失敗など確かにそう変なものではないのかもしれないと豊房は思い至り。
率先してヨゴレ芸で上書きしてくれそうになった石燕に少し感謝するのであった。
********
「俺の舟が……沈んでる……!」
なお氷を詰めたままうっかり忘れて船着き場に置きっぱなしだった晃之介の舟だが、見事に沈んでしまったようであった。




