18話『九郎とシン及び天一坊事件(後編)』
前回までのあらすじ。
将軍吉宗の落胤を名乗る天一坊。それを引っ立てる為に、手下の赤川大膳を別件逮捕してくるように依頼を受けた九郎とお八は品川へ向かった。
時を同じくして吉宗の命を受けたオークのシンも品川に来ていて、天一坊の持つ身の証となる刀を狙う。
そして事件の裏に居る[あのお方]とは……
一夜明けて、とりあえず九郎とお八は赤川大膳を探す任務へと手を付けることにした。
「しかし昨晩、うっかり大勢に潜入した姿を見られたからのう……変装するとしよう」
「着物の替え持ってきてて良かったぜ」
明らかに目立つ青白く仄かに光っている疫病風装を脱いで、お八が持ってきた着流しを受け取った。
着物を広げながら眺めて、九郎は尋ねた。
「む、裾の方を折っておるな。伸ばせるか?」
「ちょちょいって出来るけど、どうしてなんだぜ?」
「バレぬように外見年齢も変えようと思うてな。すると背が伸びるからのう」
ざっと七寸近くは伸びるので、今と同じ寸法の着流しでは少しばかり足がはみ出るのだ。
お八がそういえば、と九郎が大人体型になったときの事を思い出しつつ取り出した針と糸で手早く着流しの丈を伸ばした。
「極当然のように年齢を変えるよな……」
「まあ……本来の今の体は、これからは徐々に老いていくがのう」
「そうなのか?」
「うむ。そうなるな」
九郎は頷いた。そのほうが自然に江戸で過ごせるからだ。それに、江戸に帰ってきてから周りの者が大きくなっているのに自分は変わらぬ姿というのも地味につらいものであった。
近くにいるのがスフィやオーク神父、イートゥエにヨグやイモータルなど容姿が変化しない知り合いばかりだったのでこれまではあまり気にしなかったが。
「ふーん……ま、好きにすればいいんじゃないか? 年を食おうが食わなかろうが、九郎は九郎だぜ」
「そう云ってくれるとありがたいが……さて、着替えるか」
九郎が衣を脱ぎ始めたのを見て、お八は不意に昨日風呂場で見た九郎の裸体を思い浮かべて慌てて背中を向けた。
大きく深呼吸をして冷静さを保とうとしながらもお八は目を瞑ったままぐるぐると思考を混ぜ繰り返していた。
いつまでも好きな男の裸で照れて慌てて気絶したりしていては夫婦になったときに支障が出る。それは明らかである。慣れなければならないのだが、心の準備がまだできていない。
そんな事を彼女が考えている間に九郎は年齢の変化を行い、さっさと着物を巻きつけて帯を結んだ。
「もう出来たぞ」
「そ、そうか……」
幾分低くなった声に振り向くと、そこには随分と様変わりした九郎が居た。
年齢は青年を飛び越して壮年になったぐらいだろうか。いつもの眠たげだが若々しい顔つきは、中々にくたびれつつも苦みばしった男の雰囲気が出ており、体つきも円熟して見えている腕などは太く固く引き締まっている。顎には無精髭が見え、目は底光りするようであった。
もしこの場に歌麿がいれば、碌でもない弟分はこう称しただろう。
『嫁と離婚調停中で若い情婦に世話になってたりする、一応無駄にモテるヒモおっさんみたいマロ』
その表現で思い浮かぶような姿をしているのが、九郎の三十代後半状態である。
彼を見てお八は──
「ぷぁっ──!」
鼻から赤い汁を吹き出して仰向けに倒れた。
「は、ハチ子ー!? いきなり鼻血を吹き出してどうしたー!?」
「き、効くぜ……! 九郎がそんな助平な姿になるとは……!」
「お主おっさん趣味か!? っていうかなんだ人が加齢しただけで助平とか!?」
お八は離婚調停中のおっさんを家に泊める情婦的な趣味であったようだ。
鼻紙をお八の鼻下に当てながら九郎は上体を抱き起こし、前かがみにさせるようにした。鼻血を止める為のポーズである。
当然ながら九郎との距離は限りなく近づいて、お八の心臓はやたらと活発に脈動して血液を送り込む。
鼻紙一枚が赤く染まったので新しい紙に替えつつ、
「大丈夫か……?」
「みみみみ耳元で囁くな! 妊娠するだろ!」
「耳が!?」
「はあ……いや、大丈夫。大丈夫。あーうー……そうか、九郎が年食うとこうなるのか……うぇへへ」
「よくわからん……!」
嬉しそうにニヤつくお八を見て、九郎はどこか気まずい気分を味わっていた。
このお八という少女、豊房や歌麿、靂に小唄など相手に姉気質を出してはいるものの実際のところは六人兄妹の末娘であった。
幼い頃から働く兄などを見つつ、師匠の晃之介やおっかないものの助けてくれる影兵衛など、周りには逞しい大人の男が多いので自然と年上を好む傾向にあった。
九郎の場合は年上ではあるものの、見た目が自分と同じぐらいなのでまだセーブ出来ていたのだが。
壮年になった九郎はモロ好みであったのだ。
「己れがどんな姿でも己れだとかいい感じの台詞を吐いた舌の根も乾かぬうちに」
「違うんだって。これはそう……ほら、九郎の将来性が頼もしいというかさ」
「……まあよい。ところで髪を括る細長いアレは無いか?」
お八は細長い縛る道具を彼に渡してやると、大雑把に頭の上で髪を纏めた。年齢と服装、髪型もついでに変えておけば気づかれることはないだろうという判断である。
月代を剃って身だしなみを整えるという習慣を長いこと行っていない、碌でなしの浪人風おっさんといった感じになった。禄もない、家もない、刀も二本揃っていない。未来に期待を抱いていないし、過度の絶望もしていない。そんな中年浪人だ。
鼻紙が赤く染まった。
「ぶぱっ」
「だから何がお主の琴線に触れるのだハチ子!?」
別に誰でも良いというわけではないのだが。
彼女的に、九郎が少し駄目な雰囲気がにじみ出ている感じの中年形態がどうもツボのようであった。
*******
とりあえずお八が落ち着くまで部屋で休憩してから二人は外に出た。
入った来た時と出る時で九郎の姿が変わっては居たが、この品川のご時世だ。浪人風の九郎に咎める言葉は掛けられなかった。
通りに出るとどこか昨日よりも物々しい雰囲気が漂っている。数人で固まった浪人らが睨め回すように顔を左右に向けながら歩いている姿が見えて、旅人などは通りの端によりびくびくとしていた。
九郎はお八を連れて歩く。あたかも浪人が買った女を連れ回しているような構図になり、街の雰囲気には似合っている。お八も九郎の腕にしがみつきながら、どうにか部屋で練習しニヤつかなくなった顔を周囲に向けて観察していた。
宿近くの汐待茶屋にて浪人らが朝酒を呑んでいるのを見つけ、九郎も店に入って酒を注文した。情報収集だ。別に朝から呑みたいわけではない。
「酒を」
「こっちは茶でいいぜ」
注文を受けて、お八が財布を取り出し先に金を払っておく。何故ならば九郎はうっかり財布を屋敷に忘れてきたので、滞在費は基本的にお八が出しているのである。
「無論、ハチ子が払っておるとはいえこれは事前に影兵衛から貰った活動費から出しているのであってハチ子の稼ぎを呑み潰しているわけではない」
「誰に小声で言い訳してるんだぜ……」
「あやつらに云ってやりたいのだがな……」
九郎はちらりと視線を向けると、先に入っていた浪人らが「引っ掛けた遊女に払わせるとは……」「あいつ、かなりの細長さ……」などと男を下げて評価を上げられている会話が聞こえてきた。
天一坊事件にどうにか絡んで、甘い汁を啜れないかと集まってきた浪人の仲間だと思われている。変装の甲斐があったというものである。
この天一坊という自称将軍の落胤、次々と自分に忠誠を誓う浪人へと気軽に役職を与えまくっているのである。
おまけに店などにも将軍御用達にするとか約束をして金を借りまくって豪遊している。無論、商人とて馬鹿ではないから天一坊が怪しいことは百も承知なのであるが、完全に違う詐欺師だとはまだ幕府も認めていない以上もしもの事を考えて金を与えざるを得ない状況であった。
万が一天一坊が認められれば、自分を無下にした店をどうするかは想像に難くない。
浪人らも天一坊が次期将軍になるとまでは思っていないが、しっかりと身の上を立てられさえすれば大名にぐらいは付かせねば徳川家の名に関わることだ。そこで召し抱えてもらえるように、こうして集まり彼の直参気取りをしているのだ。
「ふう……」
朝っぱらから無精髭も剃らずに女の金で酒を呑み熱い吐息をこぼす九郎の姿に、お八は思わず鼻を押さえた。
九郎は幾分渋くなった声で、浪人らに呼びかける。
「おう、お主ら。随分と街が物々しくなっておるが、どうかしたのか?」
「なんだ聞いていないのか、貴殿は。まあ、昨晩から今朝に掛けて呼びかけられたことなのだが」
「昨日の晩はちと忙しくて、な」
浪人らの視線が九郎とお八を行き来して、下衆な笑いを僅かにこぼした。
「そりゃお楽しみで。それにしちゃ、随分と胸のない女を買ったものだな。もっと上物の女郎が居る宿を教えてやろうか?」
「胸がないってのはお前さん、女として格下だってことだぞ」
「顔は田舎娘でもいい、胸さえあればってな」
三人は下卑た声で言い合う。お八がぷるぷると震えているのは、怒りからか羞恥からか。
下手に爆発されたら拙いと九郎は思って即座にフォローする。
「莫迦。己れはこの胸がいいんだよ。己れの女に文句でもあるのか」
おかしい。
九郎は何故かフォローを入れたのにお八の体温が爆上がりしてガクガクと震えが酷くなったのを感じてそう思った。
ちらりと見ると顔を真っ赤にして何か凄い表情をしていた。怒っている様子ではないが、泣きそうなあれだ。「おれのおんなおれのおんな」などと小さく繰り返していた。
あんまり人様に見せる表情でも無かったので引き寄せて抱きつかせる。
(体が大きいとこういう動作には便利なのだが、加齢臭とか大丈夫であろうか)
気になったが、顔を押し付けられているお八が「ご褒美ご褒美」とか謎の言葉を呟いているので判断がつかない。
九郎は気にしないことにした。
「で、なんだったか?」
「ああ。実は幕府の犬がもう入り込んでるみたいでな。昨晩、天一坊様を狙って襲撃してきたらしい」
「ほう。大胆不敵だのう」
当人である九郎はおくびにも出さずに返す。
「なんとか追い払ったようだが……下手人は青い着物で童顔の小僧でな、とっ捕まえれば四百石の勘定組頭にしてやるってもんで皆で探しまくりだ」
「豪気な話だ。ところでお主ら、赤川大膳殿は知らぬか? 額に傷のある……」
九郎が何気なく尋ねると、浪人らは刀に手を当てながら九郎へと鋭い眼差しを向けた。
「……何故赤川様の事を聞く? 天忠様が云うには、天一坊様のみならず、幹部の誰かを狙っているかもしれないので探し人をしている者には注意するようにとお達しがあったが……」
剣呑な雰囲気を出しながら逆に聞き返されて、お八はいつでも逃げられるように九郎から僅かに体を話しながらも背筋に汗を浮かべた。
先程まで普通に会話をしていたというのに、気配が変わるのが早い。
(警戒心が向こうも強いな。先手を取られておったか)
九郎は胸中で舌打ちをしながら表情には出さずに云う。
「いやいや待て待て。己れは単に赤川殿に借りておった金を返そうと思うただけだ」
「金だぁ?」
「うむ。この女が援助してくれるというのでな」
「なるほど……お前普通に最悪だな」
「遊女にまで金を借りるとか武士としてどうかと思う」
「こんな時だけ真人間みたいなことを云うなよ。欲に目がくらんで品川に集まってきたのに」
普通に引いた浪人らに九郎はジト目で返した。
「大体、昨晩の襲撃犯は小僧だろう。己れと見間違うものか」
両手を広げて云う。確かに壮年の顔つきであり、背丈も大男だ。どう人相を照らし合わせても一致しないだろう。
「昨晩はお楽しみだったしのう。なあ?」
「え? ええっあっ」
話を振られて想像したのか、お八が顔を真っ赤にして目を白黒させた。
その初々しい未通娘めいた様子を見て、
「おぼこを引っ掛けて金づるに……」
「あまりにも細長すぎる……引っかかった方も哀れな……」
と、浪人らは九郎へのストリングス的な評価を上げつつ、人間性は低く見積もっていく。
「やかましいわい」
少年形態の十倍ぐらいアレに見えるという謎の補正に顔を顰めた。
しかしながらここで再び赤川大膳の情報を探るのはリスクが大きく思える。
全体的な警戒心が高まっているので下手に話題に出すだけでも怪しまれてしまうだろう。特に、複数人が居る場所では一気に不審者としての情報が広がるかもしれない。
「まあ良い。ちょいと騒がせた詫びだ。酒代ぐらいは持ってやろう。ハチ子」
「見知らぬ他人の酒代も女に奢らせている……」
「彼女はもう戻れない。この破滅への道を……」
「ぶん殴るぞお主ら」
何度も云うが、あくまで活動費の管理をお八がしていてそれから支払っているだけである。
店を出た九郎とお八の次の方針は、
「ひとまず、午前中は間を置くか。刺客をである己れを探せという指令によって浪人らの警戒が厳しい。下手をすれば騒ぎが起きるぞ」
「午後はいいのぜ?」
「半日も時間を置けば探している連中も、もうどこかへ犯人は逃げただろうと冷静に考え始めてやる気が薄れてくるはずだ」
「なるほどな……じゃあどっか遊んどくか。泉岳寺にでも行かねえ?」
「いいのう。高輪だったか」
そう決めて二人はぶらりと品川の北にある大きな寺院へと向かっていった。
江戸に近い大きな寺となると食い物の屋台が立ち並び、大道芸や簡易的な芝居小屋がやっていることも珍しくない。時間を潰すには困らぬ場所であった。
*******
『吉良上野介覚悟ォー!!』
鉢巻を巻いた袴の侍が、吉良邸の門に蹴りを叩き込んだ。
がん、と大きな音を立てて門が軋む。二発、三発と蹴りを入れ続ける。
そして彼は助走を付け勢い良くドロップキックを門に炸裂させて自分は地面に倒れた。
『おおおお! 主君の仇ィー!!』
次に抜いた刀を何度か門に叩きつけ、今度は槍で叩く。
続けて赤穂浪士が渡してきた大木槌を大きく振るって門をガンガンと殴りまくるが、門は開かない。
『皆の者、続け続けえええ!!』
巨大な丸太杭を数人で持ち上げて門に向かい突進する。破城槌の如く門を突きまくるがそれでも開かない。
肩で息をして侍は素手で門を叩きながら、嘆き叫んだ。
『ここの門──滅茶苦茶硬ァー!!』
どっと芝居小屋に笑いが溢れた。
泉岳寺は赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られているところだが、そこで行われていた喜劇芝居であった。
題はそのまま『吉良邸の門が硬かったときの討ち入り』である。
いざ突入という段階になって門に太刀打ちできない赤穂浪士の姿を滑稽に描いていて、町人に人気だ。
泉岳寺まで来た二人はあれこれと観光をしつつ、芝居見物に来ていた。
「あははっ、おい見ろとうとう門に放火し始めたぞ」
お八が腹を抱えながら云う。油を撒いて火打ち石をカチカチとやるが、綿のようなものが吹き付けてくる。
『くそっ! 大雪でさっぱり火がつかない!』
討ち入りの日は十二月十三日。厳冬で雪が積もっており、雪あかりが襲撃に便利だったとまで記録が残っているのである。
「裏目裏目だのう。お、とうとう梯子を持ってきたぞ」
すると赤穂浪士は、先程丸太で破城槌をしたように梯子も数名で持って門に叩きつけた。
バラバラになる梯子。爆笑する客。
「襲撃側のIQが下がっておる……」
「いやあしかし、吉良って爺さんも大変だよな。四十七人に襲われるとか、武芸者でもヤバいぜ。九郎だったらどうする?」
「ふむ。事前に吉良上野介は襲撃を読んでいて準備する時間があったということだからのう。助っ人を連れてくればよい。影兵衛とか」
「赤穂浪士惨殺事件に名前が変わるな」
彼ならば仇討ちの為に立ち上がった義士だろうがなんだろうが、喜々として皆殺しを狙うであろう。
仇討ちには返り討ちが付き物だが、最強の返り討ち伝説として事件の名が残りそうではあった。
そうして芝居のクライマックスで、神頼みに門の前で祭壇を作って祈祷を行っている赤穂浪士らの目前で門が引き戸だったことが判明して終幕となった。
芝居小屋から出て大きく伸びをする。
お八もそろそろ九郎に慣れた頃合いである。芝居小屋近くの飯屋で塩気の効いた握り飯を食って腹ごしらえをした。
「さて、それでは赤川大膳を探すとするか」
「どうするんだぜ?」
「そこらの浪人をとっ捕まえて居場所を聞くとするか。どうも己れは天一坊一味に入るには遅いようだ。警戒していて、今更近づけはしないだろうからのう」
「そうだな。しっかし、浪人連中は二人以上で固まってることが多いぜ?」
「ううむ、騒がれても面倒だから路地裏に引き込むのが一番なのだが……」
「ついでにだけどよ、集まってる浪人も悪党ばかりってわけじゃないのもな」
仕官先を求めて藁にもすがる思いでやってきた貧乏浪人も居るかもしれない。
無作為に選んで尋問してそういう手合だった場合後味が悪くなりそうだな、と九郎も頷く。
「さて、浪人一人を引っ掛けて、それが少なくともぶちのめしても罪悪感が無さそうなやつを選ぶには……」
「あたしにいい考えがあるぜ」
「うむ?」
お八が指を立てて告げる。
「集まっといて女遊びにうつつを抜かしてるのは、まあ間違いなく駄目な浪人だな?」
「まあな──まさかお主の、駄目な中年判別能力を使って」
「変な能力を持たせるな! 九郎が特別だ! ええい」
「云っといて照れるなよ」
「とにかく! あたしが私娼のフリをして浪人を引っ掛けるだろ? そうして路地裏に連れて行って九郎がとっちめる」
「美人局だな」
ますますヤクザめいた手法に手を伸ばしている気がしないでもないが。
とりあえずやってみようということで、二人は南品川の材木置場近くへと足を進めた。程よくひと目が避けられる場所が多いので連れ込むには適しているのだ。
お八は頭に白い手拭いを被って端を口で咥え、茣蓙を持って客待ちの格好をしながら通りから隠れた場所で浪人らに視線を送りつつ待った。
彼女は九郎から見ても愛らしい容姿をしていて、実際のところ六科の長屋に住む独身男や蕎麦屋の近所でもお八を好いているものは何人も居たらしいとは歌麿に聞いている。
ならばすぐに男が引っかかるだろう。それにしても、度胸も行動力もあるものだと九郎は頼もしさを感じていた
それから。
二刻後。
「だあああ!! 全ッ然引っかからねえ! 二刻だぜ!? お天道様が思っきり傾いたじゃねえか!」
「むう……」
現在、寄ってきた客数ゼロ。
惨敗である。
お八の女としての自尊心もボロボロであった。
そこらの娼婦に比べて雑魚以下と宣言されたに等しい。
がくりと膝を付くお八に九郎が背中を撫でてやる。
「ふ、ふふ……慰めなくていいぜ。どうせあたしは色気ゼロの褌女だぜ……」
「別にそんなことは思っておらぬが……はて、どうしてハチ子に引っかからないのかのう」
「なんか思いつくところがあったら教えてくれ……」
「ふむ……」
とりあえず九郎は再び、ハチ子の姿を上から下まで眺めてみて。
一度瞑目し、自分でも半信半疑な上に怒られるかもしれないが提案してみた。
「胸に詰め物を入れてみたらどうだ」
「……」
暫くして。
「おほー? ねえ君、ちょっとお話いい?」
目線は膨らんだ胸部に向かっている、鼻の下を伸ばした浪人が近寄ってきた。
お八はニッコリと満面の笑みを浮かべながら、浪人の手を取る。
「あれ? 君もしかして」
「くたばれ」
「おおおあああ!?」
腕を基点にぎゅるん、と浪人の体が空中で半回転し、受け身を取れないまま顔面から地面に叩きつけられた。
お八が投げたのである。油断している相手ならば、成人男性でも投げ飛ばせるように鍛錬は積んである。
固く踏みしめられた地面に落とされて意識が軽く飛んでいる浪人を物陰に連れ込む。
「は、ハチ子? それはもう美人局というか通り魔に近いぞ」
「うるせー! 胸しか見ない奴はくたばれ!」
涙目になって九郎に引き渡すお八であった。
二刻も無駄に待っていて誰も来ないのに、胸に詰め物をしただけですぐ寄ってきたのが釈然としないのである。
とはいえ、こうして路上で売春をしている女の場合は手拭いで顔を半分以上隠す普通であり、お八もそれに習っているので本来の彼女の顔は見えずに、フラットな体だけがセールスポイントになっていたので買い手が付かなかったのであるが。
呆れながらも九郎は浪人を通りから離れたところへ引っ張っていく。風采の上がらない、どこにでも居そうな浪人の男であった。
「で、どうすんだ? 指に竹串でも刺すのか?」
「火盗改メ式拷問をおなごが提案するでない。前に拳法家の霊に取り憑かれたとき、点穴の知識が入ってきてだな」
中華の武侠・李自成による知識である。
六山派掌術は攻撃に点穴を用いることはないが、相手が点穴を突いてきた場合の解除法などは必要ということで知識のみはあったのだ。
「点穴?」
「押すと動けなくなったり凄まじく痛かったりするツボだ。確か、ここだったかのう?」
九郎が浪人の上腕部をぶすりと指で突いた。
即座に覚醒した浪人は痛みに叫び出す。
「ぐああああ!! いっつぁああああ!! んんんんん!!! ひぎゃあああああああ!!!」
「んー? 違ったかな?」
「いや、メッチャ効いてるぜなにこれ怖っ」
「よーし、おいお主。己れの質問に応えねばその痛みは子々孫々の代まで続くぞ」
「えげつなっ」
九郎の脅しに、浪人は涙を流して地面に押さえつけられながらも身を暴れさせている。
耐え難い激痛であった。体表面の欠損ではなく、痛覚神経に極細の針を刺して引っ張っているようで、あまりの激痛に脳が死滅していく錯覚すら覚える。
「はいはい応えますうううう!! 俺は町奉行所の同心で天一坊の刀とお墨付きを盗むために変装して潜入してきましたあああああああ!!」
大声で。
とにかく大声で、浪人はそう叫んだ。
「……」
「……」
「いたあああああ!? これ止めてえええええ!! 死ぬううううう!!」
とりあえず、同心と名乗った男の点穴を解除するツボを突いてやる。
すると嘘のように全身を襲っていた恐るべき激痛は解除される。
暫く沈黙が場を支配し、呼吸を整えた浪人は顔を拭って二人を見やる。
「ええと、お八ちゃんと九郎だよね? うわー上手な老け変装だな。僕だよ。町方の藤林」
町方同心、隠密廻[無銘]藤林尋蔵であった。
普段は黒頭巾を被っている忍びの一人と云った雰囲気であるが、特技は百面相とも噂される変装技術である。こうして誰でもない印象に残りにくい平均値のような顔をした者に化けるのは得意中の得意なのだ。
九郎は調査員の同士討ちみたくなったことに溜息をつきつつ、
「なんと紛らわしいところに出くわすのだお主は」
「町方の方で独自の情報収集をしていて、私娼の人にも話を聞こうと思って近づいただけだよ!」
「胸ばっかり見てた癖によ」
「大体お主、忍びなのに拷問でペラペラと喋りおって」
「じゃあ一度君らもあのツボ押されてみればいいから! 尋常じゃなく痛い上に終わらないとかひどすぎるでしょ! ──でも情報漏えいに関しては、もう仕方ないかなって」
「うむ?」
尋蔵が仕返しをするような、若干恨みがましい顔つきになっていた。
「君ならどうにか逃げ切れる事を信じているよ──」
尋蔵は立ち上がって、二人から距離を取った。
九郎も視線を上げると──周囲には無数の浪人が集まってきている。
叫び声がした。尋蔵だ。
「居たぞぉー!! こいつらが奉行所の手先だぁー!!」
「裏切ったー!?」
「き、汚いぞ忍者め!」
尋蔵は、自分が叫んだ内容を全部九郎におっ被せるよう周りを先導して殺到してくる浪人の群れの中に消えていった。
「あっちに幕府の犬が居るぞー!」
と、更に人を向かわせる。
(さてと、混乱が起きている間に天一坊の方を狙うか……)
本来ならばもう少し様子を見て手際よく奪うつもりだったが、こうなっては仕方がない。
いきなり拷問を仕掛けてきた九郎にも責任を取ってもらうつもりで浪人の相手を任せて、尋像は周囲に怪しまれないように、だが素早く移動を開始する。
*********
殺気だった浪人らに囲まれた九郎とお八は、互いの背を守り合うようにしていた。
「こうなっては任務は失敗だのう」
「まーな。で、どうするよ」
「己れらのせいで失敗したとなれば癪だからのう。とりあえず、品川では浪人の乱闘騒ぎが激しくて介入自体できなかったとでも言い訳するか」
「そいつはいい。景気良く喧嘩でぶっ倒れた連中が多ければ信憑性も沸くだろうぜ」
今は疫病風装を着ていないので咄嗟に空に逃げることもできない。
こう囲まれては、赤穂浪士に踏み入られた吉良の気分である。だが負けるつもりは勿論二人には無かった。
九郎は腰に帯びていた直刀に近い太刀を抜き放つ。囲んでいるのは二十人は居るだろうか。これだけの数に刀で戦うつもりは無いが、牽制として手に持っているのと居ないのとでは相手への威圧感が段違いである。
ひょいと軽い仕草で、お八は足元に落ちていた長さ九尺ほどの細い角材を蹴り上げて手に取る。
「ハチ子はなるべく危なくないところにな」
「じゃあ上にいってるぜ」
角材を担いでお八は軽業師のように、材木が九郎の背丈よりも高く積まれている上へと跳び上がっていく。
それを目で追って、浪人の一人が呼び止めようとした。
「待──!」
「隙あり」
瞬時に接近した九郎が素手で浪人の胸を突き飛ばす。
拳の先を尖らさずに平らにして面の力で殴る握り方であった。浪人は背後の数人を巻き込んで倒れた。
続けて、左右の浪人が同時に切りかかってきた。
普段晃之介や影兵衛に慣れている九郎からすれば緩慢な動きだ。
身を引きながら右側に居る相手にはどうたぬき+3の峰ですくい上げるようにして肘を叩く。骨が砕ける感触がした。
左側のおおきく振りかぶって上段から切りつけてきた相手は、振り下ろす前に手首を掴んで、体捌きと同時に捻った。いい感じの音がして間接が外れる。そのまま適当に投げ飛ばす。
「野郎!」
と、九郎が身を躱すと下駄が体に掠った。やや離れたところでむさ苦しい姿の浪人が、己の履いていた下駄を投げつけてきたのだ。
その浪人の左右にも一人ずつ居て、指示されたのか各々下駄を持って構えていた。
「皆! 下駄の力を信じるんだ!」
「投げる瞬間を合わせるぞ!」
そうしていると、彼らの背後にある材木山の上からにゅっと角材が伸びてきて下駄を持っている腕を次々に打ち付けた。
指の骨が砕けるぐらいに叩かれれば堪ったものではない。取り落として、上を見上げると角材を構えて不敵な表情をしている女が見下ろしている。
「頭上注意ってな」
「まったくだ」
その間に九郎が三人に接近して拳で即座に沈黙させる。
「あの女を引きずり落とせ!」
誰が叫んだが早いか、身軽な浪人が数名材木の山を登り始めた。
だがそれよりも身軽に、どんな足場でも走り跳び回れるように鍛錬しているお八である。
登りきる前に近づいて角材で顎を狙って突き、気絶させて浪人を一人落とした。
上にあがったものが、刀を抜いてお八に接近してくるが彼女の九尺棒の間合いからはあまりに遠い。
「おらよっ!」
遠心力を活かして振るった角材によって足を払われて地面に落ちていく。刀を持っているものだから碌に受け身もとれない。
更にその間にお八の背後へと忍び寄った浪人が刀を切り払ってくる。
だが冷静に彼女は角材を差し出して受け止める。足場も悪い状況で、そうそう角材を真っ二つにする剣術は使えない。動作からみて力量を読むこともできた。
刀が角材に食い込んだのを浪人が焦ると同時に、お八が蹴り落とした。
それを見て九郎は感嘆の声を漏らす。
「ううむ、確かにそこらのチンピラでは相手にならんのう。逞しく育ったことを喜ぶべきか」
「余裕こきやがって!」
腰だめに刀で突きを入れてくる相手の攻撃を避けて、肘打ちで側頭部を殴りつけながら何事も無かったかのように前進し次の相手へと向かう九郎。
彼とてこの数年、襲い来る魔物が跋扈しているダンジョンにて実戦を行ってきたのだからそこらの浪人では相手にならない。まあ、ダンジョンの中には[素浪人]というやたら強い人形の魔物も出たりしていたのだがそれとは比べ物にならなかった。
お八が落とした相手もきっちりと戦闘不能にして行き、どんどん浪人の数は減っていく──かに思えたが、援軍もやってきているようだ。
(それにしても、どんどんやられていっておるのに士気が下がらぬな。それだけ何百石かの役職は、取らぬ狸の皮算用とはいえ魅力的か)
お八が材木山の上から援護してくれることもあり、どんどん浪人を打ち倒していたのだが──
「[あのお方]だ!」
「[あのお方]が来てくださったぞ!!」
という浪人のざわめきが聞こえてきて、九郎は身構えた。
場の空気が変わった。功名争いをしていた浪人らも九郎から離れて行く。
遠巻きに囲んでいる浪人らが、道を作るように分かれていった。
「九郎、いったい何が……」
「さあのう。誰が出て来るのやら……」
浪人らの間から大股で近づいてきたのは、立派な体格をした男であった。日焼けした手足に、柿色の袴。ぼさぼさの蓬髪をしており、目は強い意志を感じる。口に木の枝を咥えている彼は──
「……誰だ、お主は」
九郎の問いに、こう応えた。
「わしじゃ」
「……!」
九郎が身じろぎをして周囲を見回す。
浪人らは安堵の笑みを浮かべながらざわめきを零している。
「あのお方が来たからにはもう大丈夫だ」
「役は惜しいが、あのお方に任せよう」
随分と信頼されているようであったが、再び九郎は疑問を口にする。
「……だから誰!?」
「くくく……」
忍び笑いを漏らす[あのお方]。
彼は緩慢にも思える尊大な態度で自らの存在を名乗る。
「これでも裏ではちょいと知られた者なんだがな」
「む……」
「儂の名は[安納緒方鷲社]……用心棒をしておる」
神速一閃──。
彼は瞬時に間合いを詰めると抜き打ちの要領で相手に一撃を先制で叩き込んだ。
九郎が、あのお方に。背中から取り出したアダマンハリセンを振り下ろして。
「知るかああああ!!」
品川中に届くようなハリセンの大音響が鳴り響き、安納緒方はクレーターを作って地面に叩きつけられた。
九郎は続けてアダマンハリセンを真横に構える。
「あのお方って名前かよ!!」
再び、快音。ホームラン!と大空に浮かび上がるが如く、突っ込み時に発動する常軌を逸した衝撃波によって安納緒方は品川湊まで文字通り吹き飛んでいってしまった。
浪人らは、頼みの綱であった用心棒先生が目で終えないぐらい遠くに飛ばされたことに、固まってしまっていた。
九郎がハリセンを肩で担いで、凶悪な目で浪人らを睥睨すると誰からともなく「退けっ」と声がして、走り去って行ってしまった。
材木山からお八も降りてきて、疲れた様子の九郎にぽんと肩を叩いた。
「九郎お前……地味に期待してたんだな、あのお方って」
「いや……単に真面目に考えていた己れのバカバカしさがな」
「帰るか」
「そうだのう。影兵衛には適当に言い訳しよう」
肩を落とす九郎であったが──
ふと視線を向けると、何やら街道の南から土煙が上がって近づいてきているような──
******
オークのシンは現在逃げていた。それはもう逃げていた。
昨晩に天一坊一味の仲間入りをさせられてからシンは凄まじく下手に出て隙を伺っていたのである。
特に代表の天一坊にはひたすら褒め称えるようなことを言いまくっていたが、これが功を奏した。
一味の中で最も偉いのが天一坊なのであるが、故に彼に自由や命令権はあまり無かったのだ。狙われると危ないからということで寺に篭りきり、手下への指示や金集めは手慣れた天忠や赤川大膳が行う。飾り物の御落胤。それが天一坊という存在であった。
そういう扱いをされている者へは、集まった浪人らもそう対応する。
最も偉いのが天忠であるかのように振る舞う自分の部下。役職に集まっただけで、忠義などは一つもない。
そんな中でシンがなんとか天一坊を誠心誠意褒め称えたところ、デレるまでに一日掛からなかったのだから余程自己承認欲求に飢えていたのだろう。
「あっ、ところで噂の、上様の短刀を見せて貰えませんでしょうか。ぜひ、一生の思い出になりますので」
「仕方ないの。天忠が居るところで出したら怒られるから、厠の方で見せてやろう」
厠で見せる宝刀ってのもなんだかなあとシンは思いつつ、天一坊と共に厠へ行った。
その場で見せてもらった刀は確かに吉宗が持っていた物に似ている。
(これかぁー……よし)
シンは頷いて天一坊が持つ刀へ指を向けた。
「あれ? でもここに傷がついてません?」
「なに。どこだ?」
「ほらここに……」
自然な仕草でシンは指を刀に近づけて──掴んだ。
天一坊の目が丸くなる。
「つ、掴んじゃ駄目だろう」
「駄目ですか」
「ああ」
「あれ? なんかお堂から煙が出てません」
「ほ、本当だ!? 火事か!?」
丁度その時、常楽院にやってきた尋蔵が煙玉を撒いたところであった。
一気に騒動が終わる前に証拠品を奪い取りたい彼は、警備の浪人らが集まっている院内から天一坊、天忠らを煙で火事と誤認させ外に出すつもりだ。
その際に重要だと彼らも認識している刀とお墨付きを必ず持ち出すのでそれを奪う算段である。
「いけない! 刀を避難させないと! 僕が持って逃げます!」
「え? なんで?」
「さようなら!」
なるたけ必死そうな雰囲気を見せてどさくさでシンは刀を手にダッシュでその場を走り去った。
一瞬遅れて、
「あの化け物坊主が刀を盗んだァ!!」
そう叫び、逃げるシンを浪人らが次々に追いかけることになったのである。
浪人らを押しのけて通りに出たシンはそのまま北へと向けて突っ走る。
走る訓練は日頃していた。吉宗と共に鷹狩りに出かければ、二里や三里走らせられるのはざらである。
不健康な浪人らなどある程度差をつければ追いつけはしないのだが、
「待て!」
「怪しいやつ!」
などと云って品川の街中に居る浪人と、勘定奉行の手先が通りを爆走するシンを止めようとしてくるのである。
図体こそ巨大だが人間相手の暴力は控えたいシンとしては傷つけるわけにも行かずに道を大回りしたり脇道に逸れたりしながら逃げ回る。
(ええと、これを持って江戸城に行くか壊せばいいんだよね!? でも壊すったってこんな高そうな物……それに壊したら追いかける人たちが許してくれるわけでも無さそうだし!)
とにかく逃げるしか無いシンに、素早く追いつく影があった。
藤林尋蔵だ。彼は何故か刀を持ち逃げしている巨体の僧に驚きつつもどうにか奪わねばならない。
「ちょっとチクッとするよっ!」
苦無を構えて、追いかけているシンの背中へ大跳躍する。
刀を握っている手をちくりと刺すことで、反射的に開くのを利用して奪い取る算段だ。
だがしかし、すぐ背後に人が来ていることに気づいたシンが突如走る速度を凄まじく加速させて尋蔵の一撃を振り切った。
肉体強化の術を使って脚力を増したのだ。
「んなっ!?」
急に早くなったシンの動きに対応できずにつんのめる尋蔵。
そして突っ走る先には、つい先程見た二人組──九郎とお八が近づく暴走特急オークにぽかんとしていた。
尋蔵は叫ぶ。
「二人共ー!! その人を止めてくれー!!」
この剛力を相手に出来るのは天狗の怪力を持つ九郎しか居ないだろうと思い、天の助けとばかりに頼んだ。
そして九郎は一瞬身構えて、
──そのままシンとすれ違ってスルーした。
「なんで止めてくれないのおおお!?」
「いや……さっきお主から嫌がらせみたいなの受けたしのう」
「危なそうだしな」
「くそおおお!!」
尋蔵は泣きながらシンを追いかけていった。
更にその背後からは早馬の蹄音が聞こえたかと思えば、三頭の馬が更に二人を追いかけていく。
特に大きい一頭には天忠と天一坊が相乗りしており、他二頭は伊賀亮という男に、額に傷のある男が乗って先行しているようだった。
「九郎、今の」
「ああ、居たな。あれが赤川大膳か」
「どうする?」
「……まあ、様子だけでも見に行くか」
特に焦らずに、そのまま帰るついでだとばかりに九郎はお八を連れてそちらへ向かうことにした。
甚八丸クラスならまだしも、どちらかと言うとシティ系忍者な尋蔵は馬より走るのが遅い。
途中で三頭に追い越されて、馬は更にシンの前へと回って彼を足止めした。シンの身体強化も瞬間的な強化には便利だが、持久力はあまり上がらずに下手に長距離で使い続けると倒れる羽目になるのだ。
場所は丁度、品川橋の上である。東海道を行くならば必ず通る場所で、騒ぎを聞きつけて他の浪人らも詰めかけていた。
前方の三騎、後方の忍者。そして浪人らに囲まれてシンは隠している顔を青くした。
「ど、どうしよう……」
おどおどと短刀を持っているシンは周囲を見回す。泳いで逃げようにも、これだけ見張られていれば逃げ切れるはずがない。
「刀を返して貰おうか」
天忠が代表して云う。シンは従っても断っても殺されそうな気配で、泣きそうになっていた。
後ろからついてきた尋蔵はまだ彼の正体がバレていないので、ここは様子を見るべきかと周囲の浪人に紛れている。
「どうする九郎。上からふわ~って助けてやれないのか?」
「いやあ、あやつの巨体では疫病風装で持ち上げきれぬな……」
やや離れて観察している九郎とお八もことの成り行きを見守っていると、
シンが、ヤケを起こしたように刀を頭上に掲げた。
彼の作戦としては、品川橋から海に向けて思いっきり放り投げてそちらに注目が行った間に逃げるということだ。
柔らかい砂が堆積している目黒川の流域では刀は沈み、発見することは困難になるかもしれない。
と、その時。
雷鳴のような音が響いて──次に金属が砕ける音がした。
「──!? 痛い!?」
慌ててシンが掲げていた手を下ろすと──
そこには、鍔元から砕け散った刀と、その破片で血まみれになっている自分の手が見えた。
落胤の証拠である刀が唐突に弾け飛んだのである。
「何が……!? 狙撃か!?」
天忠や他の浪人らも慌てて周囲を見やるが、どこの屋根や路地にも狙撃者の影は見当たらない。
ましてやシンに当てないように掲げた刀だけ一発で狙うなど、普通に考えて行えるはずもなかった。
だがそれでも、志津三郎兼氏は破壊されたのだ。刃は根本から折れ、鍔は四散し、こびりついた鉛が刀身を汚していた。
「お、おわりだ……すべておわりだ!」
天一坊が馬から降りて、膝をついて嘆いた。
それを慌てて幹部らが起き上がらせようとする。
「まだお墨付きがある! 毅然とした態度を取れば──」
「おわりなんだ!! お、おわり……」
「天一坊様!」
すっかり心の支えを失ったように泣き喚く天一坊を見て、誰が将軍の実子であると信じれるだろうか。
集まっていた浪人らは、気まずそうな顔をしながらも責任を被らないように一人また一人とその場を離れて行く。
「……なんか、もう関係者逮捕って段階じゃないっぽいな」
「うむ。ほら見てみよ。勘定奉行がやってきたぞ」
「これ以上首を突っ込んでもまずいな。やっぱ帰ろうぜ」
「そうだのう……しかし」
どこから狙撃者は刀を狙い撃ったのか。
周囲の屋根などではすぐに見つかる地形であった。それ以外には──
品川橋の下流は北方向に曲がって海に出るが、洲崎という突き出た地形を乗り越えればすぐに海があるので、橋の上から陸地を飛び越えて近くに海が見える。
その海には、ぷかぷかと小舟が浮かんでいて波で揺れていた。
「まさかのう。二町(約220m)は離れておるし、波も風もある」
「そうだろ。師匠の弓じゃあるまいし、火縄なんかであんなところから狙えるかよ」
「もしあそこに銃を持った男がおったとしても、誰も刀を狙い撃ったなど信じられぬだろうしな。どちらにせよ無罪というやつだ」
やがて静かに船は漕ぎ手によって、遠くへ去っていった。
船上で、煙管を咥えた太い眉の男がぼそりと漕手に話しかける。
「……云っておくが」
「へいへい! わかっておりますよ。この朝蔵、今日誰も船に載せちゃいねえし、すぐに忘れる!」
「……」
********
『あの天一坊という男が持っている短刀は、実は公方様の物ではないのです』
『詳しく調べればあれが尾張藩が所持していた名物だと判明してしまう可能性があるでしょう』
『そうなれば、尾張徳川家から承った短刀を盗まれ使われた我が殿の責任も追求されます』
『果たしてこの騒動にどこまで尾張藩が関わっているのか、それは想像もつきませんが』
『我が藩が巻き込まれるのは防ぎたい』
『ですからゴ──いえ、筧十三! どうかあの短刀を修復不能に破壊して頂きたい!』
『……わかった。やってみよう』
『おおっ! 感謝します!』
********
その後、事件は素早く収束していった。
町奉行所や火盗改メ、吉宗の派遣したシンなどの影響を物ともせず、勘定奉行稲生正武が集めさせた証拠と「おわり」だと呆然としながら繰り返す天一坊の自白により、その後も厳重に詮議の上に年が明けてから死罪になる予定である。天忠や赤川大膳も捕まり刑を待つ身となった。
品川に集まった浪人らも四方に散っていき、品川にも平和が戻った。
どうにか現場から離脱できたシンは江戸城に帰る間際に寄った饅頭屋にて。
江戸城では中々食べることの出来ない饅頭を緋毛氈の敷かれた道沿いの座敷で頬張っていると、隣の座敷に後から来た少年少女らが座ったのでぼんやりと虚無僧の深編笠から見ていた。
「靂ー! ここのお饅頭美味しいねー!」
「喉に詰まらせるなよ、お遊」
「あっ……あと一個だね。はんぶんこしよっか」
「別にいいよ。お遊が食べれば──っておい。守り刀を出して切るもんじゃないぞ」
「切れ味抜群なんだーえへへ」
懐から取り出した、町娘にはふさわしくないような立派な短刀を見ながら、
(なんかあれ例の志津三郎に似てるなあ……)
などと思いつつも、そんなはず無いかと考え直して編笠の下から茶を啜った。ストローが欲しかった。
*********
「おかえり、九郎。大丈夫だった?」
「ハチ子が己れを見て鼻血を出しまくって怖かった」
「お八姉さん……?」
「うわなに!? ちょっとすぐ密告してんじゃねえよ九郎!!」
警戒心を持った眼差しで豊房から見られるお八は慌てて否定する。なお九郎の姿はもう元に戻っているのだが。
そんなお八の左右に、将翁と石燕が立ってお八の両肩をぽんと叩いた。
「ようこそ」
「ちょっとアレな女子の分類へ」
「いっ一緒にするなああ!! っていうか自覚してるのかよ!?」
わいのわいのと騒ぐお八に、くすりと豊房は笑いを漏らしながら九郎に向き直る。
「そうね、お酒でも呑みながら何があったか教えてくれる?」
「わかった。ああ、それと……ただいま」
「うん。おかえり。あら、云ったの二度目ねわたし。でもいいわ。だっていいもの」
上機嫌に笑う豊房に酒を注がれながら、浪人達との大立ち回りなどを語り。
語っていると歯ぎしりしまくる影兵衛がやってきて、喧嘩になるなら呼べと文句を言われたりするのであった。
なお九郎壮年形態の感想は
豊房「ちゃんと御飯食べさせて規則正しい生活させたくなるわね」
石燕「一緒に昼酒を呑んで堕落したい感じだね」
将翁「こってりとしたスケベをしてくれそうで興奮しますぜ」
夕鶴「生活費をむしり取られる日々にそれなりの満足感を覚えそうであります」
サツ子「子供を五人ばっか作っちょりそうじゃっど」
主人公(堕)
あくまで九郎に好意的な人たちの感想なので、別に一般の人が見れば普通のおっさんですのでご安心ください




