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17話『九郎とシン及び天一坊事件(前編)』

「品川で偵察? あたしと九郎が?」


 と、声を上げたのはお八であった。

 神楽坂の屋敷、ちゃぶ台のある応接間にて中山影兵衛が告げた任務についてである。

 相も変わらず獰猛な顔をしている人斬り同心は「そうよ」と軽く返事をして、出された茶を啜った。


「実はここのところ、南品川に不逞の浪人共が集まってるようでな。そん中に昔に江戸から逃げ出した悪党が混ざってるって話だ」

「というと?」

「ほら九郎、前に手前と道場の兄ちゃんが解決したヤマがあったろうが。侍を襲う似非同心のやつ。それの関係者だったんだが、ドロンされて取り逃して以来どっかに逃げてたらしくてな」

「そういえばそんなこともあったのう。もう五年も昔だが……」

 

 夜な夜な、侍を辻斬りで殺して刀を奪いそれを売り払う凶賊を以前に九郎は退治している。

 てっきり犯行の手口から、血に飢えた目の前の同心が犯人だと思い込んでその子分と思われぬように囮作戦でおびき寄せたところを、晃之介に狙撃してもらったのである。

 余談だが書籍版だとその似非同心がぞろぞろと総勢二十四人もおびき寄せられた上に、通りすがりの切り裂き同心まで混じっての大乱戦大捕り物になったりした。


「で、品川のどっかに居るって噂なそいつの根城を探して来てくれ。隙ありゃ拉致って来てもいいぞ」

「あたしもか?」

「デカイ捕物になりそうなら嬢ちゃんが連絡係として拙者のところまで走ってくれりゃ良い。大体、品川なんぞ男一人でウロウロしてたらお姉ちゃんに声かけられまくって仕事にならねえだろ。手前ら二人は夫婦のフリでもしとくんだな」

「めおとっ!?」


 お八がそう叫んでアワアワとしだした。

 

(こいつ確か九郎の嫁になるつって同じ家で寝泊まりしてるんだよな)


 ちゃんと正面から求婚はしたはずなのに自覚すると恥ずかしいのか、つまりは関係がまったく進んでいないのだと影兵衛は表情に出さない程度に苦笑した。


「ま、まあいいんじゃあねーのっ? ほら、まあな。お似合いの夫婦だしな?」

「だしなってお主……」


 九郎が胡乱げに呻いた。

 実際に品川は女遊びの繁華街で、北の吉原南の品川というぐらいだ。吉原ほどゴテゴテと綺羅びやかではないが、数百人の遊女・飯盛女が客を積極的に引き込んでいる。

 通りすがる程度ならまだしも、ウロウロと探し歩く分には男一人では誘惑が多い。


「この枯れ老人は引っかからねえとは思うが、あんまり断り続けるってのも周りから怪しまれて探りが見つかるかもしれねえしな」

「それは確かにそうだのう……」


 九郎も納得したように頷く。

 すると、廊下の方から上下に頭が二つ並んで応接間を半眼で見ていた。

 豊房と石燕だ。夫婦として品川に行くお八を羨むような目線であった。


「じとー」

「じとー」

「そんな目で見るなって。大体、嬢ちゃんらは走り方も知らねえだろうが。その点こっちのお八は、あの道場の兄ちゃんところで鍛えてんだから、そこらのチンピラなんてシュンコロだからな」

「おう。そうだぜ。大体、簡単な偵察とはいえ火盗改メの仕事なんだからよ、二人じゃちょっと危なっかしいだろ」


 普通の町人ですら全力疾走したことがない者も多いぐらいだ。女で走って跳んで回れるのは、お八かくノ一、それに将翁ぐらいのものだろう。

 一瞬不満そうな顔をした豊房だったが、九郎にこそこそと近づいてきて彼の耳に口を寄せ、手で覆いながら囁いた。


「むー……仕方ないの。九郎。お八姉さんをちゃんと守るのよ」

「わかっておる。絶対にな」

「それと、婚前交渉は駄目よ。誘われたら当身よ当身」

「何を心配しておるのだ」

「あいたっ」


 豊房の額を軽く弾く九郎。

 僅かに額を赤くして、どこかこらえるようにぐりぐりと九郎の背中に指を押し付けながら、


「……ちゃんとそこは抜け駆けしないように、祝言あげたら同時にって約束はしてるけど念の為よ」

「どうじに」

「ああっ! 九郎くんの魂がすごい勢いで昇天していく!」

「真っ白に燃え尽きてるのぜ!?」


 あんまりそういう具体的なプランは聞きたくなかったなあと云う処刑宣告のような発言を受けた九郎が、口を半開きにして脱力した。

 未来など来なければいい。何かこれまでに生きてきて様々な人から受けたいい感じの言葉を無視し、九郎はそう思いさえもした。

 こう、年頃の娘の性事情をうっかり聞いてしまった父親の気分である。

 しかもそれの相手が自分。ついでにお八もほぼ同じ状況。

 とてもつらい。九郎はガクガクと震えた。もし他人とのノロケならば、婿を冷やかす側に立つのが九郎なのだが。

 身を乗り出して、ぽんと影兵衛が九郎の肩を叩いた。

 

「なあに、先の事を気にすんなって九郎。逃げたら拙者が殺しに行くだけだからさ! むしろ逃げろ! な?」

「な? じゃねえよ……とにかく! その話は後回しだ! それより!」


 何もかも後回しにしてしまう九郎である。


「お主が直接行かぬのか? その探している不逞の浪人……ええと、なんというのだ?」

赤川大膳あかがわだいぜんとか今は名乗ってるらしい。額に削れたみたいな傷がついてるのが特徴だな。これは入れ墨を消した痕だけどよ」

「そやつが居ると分かっておるのならば、お主が探して斬り殺しそうなものだが」

 

 九郎が疑問を口にすると、影兵衛は肩を竦めながら応える。

 そうしたいのは山々であった。品川は町奉行の管轄外だが、火付盗賊改方ならば捜査に向かえる範囲だ。情報を掴んだ時点で上司に提案したのだが、それは却下されてしまったのである。


「ところがぎっちょん。今、品川の辺りは勘定奉行の手が入って非常~に面倒くせえことになっていてな。他の部署の同心である拙者が入ったら大問題になるわけよ」

「勘定奉行の? 事件か」

「おうよ。赤川大膳も関わりがあるんだがな」


 片目を瞑り、指を立てて声を潜めるようにして影兵衛は云う。

 事件の本題だとばかりに。僅かに揶揄するような、皮肉げな声で。



「上様のご落胤と名乗る人物──天一坊って謎の坊主が居て、浪人を集めて乱痴気騒ぎを起こしているんだそうだ」 






 *******





「天一坊──?」


 巨体を揺すりながら、他の誰も着れない特注サイズの僧衣に身を包んだ男はその名を繰り返した。

 場所は江戸城本丸、休息の間である。将軍の私室であるそこにて、徳川吉宗と僧衣を着用している大奥のオーク、シンは対面していた。

 政務の間にある武技鍛錬の時間を割いて吉宗はシンと話をしていた。将軍で四十半ばを過ぎたとはいえ、吉宗は毎日柳生の剣術を主に、槍術、弓術、馬術、水練などの稽古を欠かさず行い、部下にも奨励させていた。

 彼のお気に入りとして江戸城に住まわせてもらっているシンはといえば相撲の腕前で象と張り合える程なので、周りからは一目置かれている。城の中をある程度自由に歩けるように、僧衣を与えられていた。僧侶ならば大奥近くから将軍の側まで近づける上に、身分上他の武士から妬まれることもない。


「うむ。儂の子と自称しているらしいな」


 吉宗は厳しい顔で頷いた。

 天一坊と名乗る、自分の落胤と称した者が江戸でも噂になり、幕臣らはその対応対策に右往左往している状況なのであった。

 特に問題とされているのは、将軍と天一坊の動向である。

 基本的にはまかり間違っても天一坊を将軍に目通しさせるわけにはいかないのだが、万が一本当に吉宗の落胤であった場合に下手な対応をしていたら問題になる。できれば誰も触れたくない、危険な存在が天一坊なのである。

 外界のこと、お家のことには疎いシンは「はあ」と気のない返事をして、


「それで、その天一坊は上様のお子さんなんですか?」

「証拠は、儂が書いたというお墨付きだ。『沢の井の御方 その方が産む子は余の血筋に相違なし』と云う証明書を持っておる。沢の井は儂が十代の頃に世話になった側女でな」

「認めてるじゃないですか!」

「だが儂はそのようなものを書いた覚えはない」

「じゃあ偽物?」

 

 シンは首をひねりながら聞いた。


「しかし偽物と断じるには少しばかり自信が無くてな。何せ書かれた日付は元禄十一年。今より三十年近くも前のことで儂もよく覚えておらぬ。こうして将軍になるなど想像もしておらなんだから、女に手を出して調子よく認めるなどと言った……かもしれん」

「上様でもそういうことあるんですねえ」


 確かに、とシンは頷くところもあるのだが。

 四十半ばを過ぎても体力の有り余っているように見える吉宗の、豪の者っぷりは大奥の番をしている彼もよく知っている。なので、立場が無く今よりも若い頃ならば女に手を付けることもあっただろう。

 吉宗は面倒くさそうな顔をしながら記憶を手繰る。


「何せ、証拠品の詮議を行った大目付の鈴木飛騨守が筆跡は間違いなく儂だと断じたからのう。自信も無くなる」

「ははあ……」

「だがもう一つ天一坊は証拠を持っている。それは[志津三郎兼氏]の短刀だという」

「刀……有名なんですか?」

「儂が集めさせた名物だ。ここにもある」


 吉宗が取り出して見せるのは刃渡りが八寸九分ほどの短刀であった。

 シンはこの世界の刀剣に関する知識はまったく無いが、まず王とほぼ同じだと彼が認識している将軍が持っている刀な上に見た目も黄金色のハバキが眩しく、非常に大事なものであることはすぐにわかった。


「志津三郎兼氏は儂のお気に入りでな。気に入った藩主にくれたこともあるが、何人か女に渡したこともある。相手はよく覚えておらぬが」

「藩主と女性に同じ贈り物をしたんですか……」


 そこは詩とか花とか贈れば良かったのでは、とシンは冷や汗を流しながら思った。

 しかしながら何年も仕えていてわかるが、この吉宗という君主はさっぱり貴族めいた詩だの歌だの茶会だのには関心が薄いようである。好きなことは倹約と鍛錬と刀や舶来品の蒐集。あとは酒を好むぐらいであろうか。

 そんな男なので、女にまで短刀を贈ったのだろう。その刀を部下や藩主にやれば女の何倍も喜ぶというのに。


「つまり天一坊という男は、儂が沢の井の方に手を付けていたということ。女に志津三郎兼氏を渡していたということ。その二つをどこからか情報を集めて準備し、落胤だと名乗っておるということだ」

「ええと……つまり、その天一坊が落胤じゃないってのは確実なんですか?」

「ふん。シンよ。一つ教えておいてやろう」

 

 吉宗は鼻で笑うように告げる。


「自分から落胤と名乗るやつはもれなく偽物と相場が決まっておる」

「……なるほど」

「ちなみに周りから落胤だと担ぎ上げられるのも偽物だ」

「偽物ばかりですね……あれ? だとすると本物の落胤ってのはどうなるんです?」

「それはな。後の歴史で語られる者が本物だ。歴史を残す側が認めなければ本物などおらぬ」

「難しいなあ……」


 シンは太い指で頭を掻きながらそう唸った。

 でも、と彼は吉宗に尋ねる。


「だったら上様がそう御触れを出したら問題は解決するんじゃないですか?」

「それでは駄目なのだ。証拠が揃っている状況を、儂の一声でひっくり返しては逆に信憑性が出てしまい、子を認めずに死罪にしたと謗られるであろう。だから部下が、そうでないという証拠を集めて儂に合わす前に解決せねばならん」

「大変だなあ」

「そして証拠を崩せないとなると本当に儂の子ではないか……と、部下も疑うと強気の態度では出れなくなる。事態は硬直気味だ」


 吉宗は握り拳を軽くシンの胸に当てて、告げる。


「そこでお主の出番だ」

「はい!?」

「儂の代わりに現場へ向かい、奴らが証拠としている刀を奪うか破壊してこい」

「ええええ!? 僕が!? っていうかいいんですかそんなことして!」


 突然告げられた任務に、慌ててシンが聞き返す。


「良いか、シンよ。儂は確かに女に手を付けては来たが、刀を息子としたことはない。刀はただの物だ。もし、天一坊とやらが本物ならば刀を失っても堂々としているだろう。偽物ならば慌ててボロを出す。そうなればお終いよ」

「上様がそうしろというなら、僕はやりますけど……」


 そもそも逆らえる立場ではないのだが、消極的なその態度に吉宗は胸中で笑う。

 拾ってから数年も経過しているが、性根自体がシンは農民とも侍とも違うので将軍を前にしても応対は下手ではあってもどこか奇妙なものである。

 もしこれが侍ならば重要な役目を申し付けられた重圧で脂汗をびっしりと浮かべながらひれ伏し受けるのであろうが。


「僕より御庭番の人の方が上手く行くと思うけどなあ……こんな体だから目立つし……」

「構わん。行け。準備は小姓に任せてある。寺社奉行のお墨付きも用意しておいた。それで品川の寺では自由に出入りして泊まれるだろう」

「はい……頑張ってきます」


 シンは頭を垂れて承知し、準備へと向かった。

 見た目は妖怪とも思われかねない異形だが体を僧衣で包み、顔を業病で崩れた患者が隠すように白い布で覆って目元だけ出していて、頭巾や笠を被っていれば巨体の怪僧程度に異様さは押さえられるだろう。

 休息の間で一人、腕を組みながら吉宗は思案していた。

 彼がシンを向かわせたのには理由がある。

 シンは非常に目立つ存在である為に今も証拠を探している勘定方の調査の隠れ蓑となってくれることを期待してだ。

 怪しまれて彼がとっ捕まる可能性もあるが、そこは寺社奉行のお墨付きがあるので問題は無いはずである。

 証拠を集めている勘定奉行稲生、何やら裏で探っている町奉行大岡のことも隠密から報告が来ていた。シンの行動は吉と出るか凶と出るか。


(まあ……ついでだが。儂が出ていきバッタバッタとなぎ倒す──のは不可能なので、シンが代わりにやらぬものだろうか)

 

 などと思っていたかは、不明である。

 それよりも、


(儂が昔に手を出した側女を知っていて、女に志津三郎兼氏を渡していたことも知っている……一介の坊主や浪人がそれらを知れるとは思えぬし、用意して謀ろうなどとは並の度胸では出来まい)


 天一坊は本物ではないと確信してはいるが、どうもその辺りに辻褄が合わない。

 大体、それらしい道具を用意したところで天一坊が最終的に認められる可能性はゼロである。落胤と名乗って浪人を勝手に集め、役職を与えている時点で駄目すぎる。

 或いは、と吉宗は思う。

 こうした騒ぎを起こすことそれ自体が目的なのではないだろうか。

 紀州徳川家の吉宗へ醜聞を押し付けることで得をする者。そして、将軍ゆかりの品や話を調べられる者。そして吉宗へ嫌がらせをするのに躊躇いがない、そんな派閥には心当たりもあった。

 

(存外に根は深いか……まあ良い)

 

 根が如何に這い出てこようが、盤石を整えてしまえばそれらは表に出ることはなくなるのだから。






 *******






 品川宿は目黒川を境に、北品川と南品川に分かれている。

 北品川から高輪あたりに宿場と女郎屋が多いが、南品川も繁華街として多くの店が立ち並び旅人が行き交っている。そもそも品川という名が、目黒[川]の流域で[品]が行き交っていたからとされているほどである。

 九郎とお八は、江戸から納涼の小旅行として夫婦でやってきたという設定で品川に入った。景色の良い御殿山があるし、釣りのスポットであり料理も旨いので案外にそう云う者も珍しくなかったようである。

 

「うーむ」


 街に入って言われるがままにお八と寄り添い歩きながら、九郎は通りを見回した。


「どことなく前に来たときより活気が無いような……」

「それに妙に剣呑な気配も感じるぜ」

「威張り散らした浪人が多いしのう。やはり、その天一坊が浪人を集めて好き放題にしているという噂通りか」

 

 普通ならば呼び込みの客引き女や、茶屋の娘が通りまで出てきて人を集めているのにどうもひっそりとしていた。

 しかしながら開けっ放しになった飯屋などでは、昼間から酒を呑んでいる浪人の姿が外からも伺える。

 

「今の段階で天一坊と知り合いになっておけば侍として返り咲けると云うので、続々と集まっているらしいが」


 それを警戒して勘定奉行が見張りも置いているのだから、宿場の雰囲気が物々しくなるのも当然ではあった。

 硬直したこの状況を打開というか、横やりを入れて手柄を奪う為に影兵衛は九郎に赤川大膳の別件逮捕を指示したのである。

 以前の罪で逮捕してそのまま拷問し、天一坊の件に関しても偶然余罪として自白させることで事態を解決する算段であった。

 勿論火盗改メ長官、高田正孝が「構わん! やれ!」とノリノリで影兵衛に許可したのだが。


「へっ。こんな昼酒呑む連中が役人にでもなるってのか? ぞっとしないぜ」

「まったくだ。昼酒なんぞ呑みおって。碌な男ではない」

「うん。あたしが悪かったからそう自分を傷つけちゃいけないぜ」

「気を使うな」


 昼間から呑むことに定評のある九郎はお八の優しい目線を見ないようにして顔をそむけた。

 

「しかし天一坊か……ギトギトのラーメンが好きそうな名前だのう」

「なんだそれ。まあ……公方様が[天下一]って呼ばれてるからそう名乗ったんじゃねーかな」

「別のチェーン店になったな。己れはあそこのジャンボギョーザが好きだったのう……ところで、なんで徳川吉宗が天下一なのだ?」

「うん? 確か……[天下一]の画数が八文字だろ……そして公方様は八代将軍……もうわかったな」

「雑だな繋がりが!」

「別にあたしが言い始めたんじゃねーし!」


 お互いに突っ込み合って、肩を竦めて笑った。

 とりあえず神楽坂からぶらりと歩いてきたので休憩も兼ねて茶屋に入る。

 

「茶と何かつまめるものを」

でたそら豆がありますよ」

「……」

「九郎……別に昼間から酒頼んでいいんだぜ?」

「……茹でそら豆に茶の組み合わせは無いから仕方ないのだ」

 

 欲に耐えきれずに、酒を注文する九郎であった。

 店員の老婆が恐る恐るといった様子で運んできて、九郎が差している腰の物をちらりと見ていた。

 その視線に気づいてどこか伺うような様子をした相手に九郎は友好的に笑いかけて告げる。


「いやいや、己れは噂を聞きつけてやってきた浪人ではないぞ。江戸で商売をしている者でな。ちょいと遊びに来てみただけだ」

「そうでございましたか」


 ほっとした様子の老婆に九郎は酒を口にした。さすがに繁盛している宿場の大通りに面しているだけあって、味の良い酒を置いてある。

 隣で器用にそら豆の皮を剥がしていたお八が渡してきたので、それを口に放り込んだ。ほろ苦く、塩水を十分に吸い込んだ豆の味が酒と互いに引き立てるようだ。


「うまい。……ところで人の噂程度に聞いていたのだが、浪人が多いのう。どれほど居るのだ?」

「さてねえ……北品川の旅籠にも沢山泊まっているからわからないけれど、百人以上は居るんじゃないかい」

「そんなにか」


 僅かに顔を顰めた。探し人が居るのに宿もバラバラで人数も百人以上では捜索も捗らないだろう。

 それに下手に探りを入れていることがバレるのも面倒なことになりそうだ。


「噂の天一坊様とやらはどこにおるのだ?」

「常楽院らしいけど、柄の悪い浪人らが沢山集まってるから近づいちゃいけないよ」

「わかっておる」


 頷いて、九郎は飲み干した酒の徳利を老婆に返した。


「はやっ!? 九郎もう呑んだのかよ!」

「ほら……昼間とはいうがもう昼下がりではあるしのう」

「一泊二泊はするつもりで用意してきたからいいけどよ……」


 折角お八も連れて行くのだから、パッと行って即拉致して帰ってくるのでは忙しない。

 そう思って余裕を持って任務に当たることにしたのである。大体、百人以上の浪人から探して回るのを焦っても足がつく。

 

「ま、今日は宿に行くばかりだのう。ハチ子も呑んで良いぞ」

「……ならちょっとだけ貰うか」


 酔いやすいので茶碗で酒を呑む九郎とは違い、小さな猪口でちびちびと呑むお八であった。

 それを見ていると、九郎が何やらしんみりした顔をしているのでお八は目を向ける。


「なんだぜ」

「いや、ハチ子も酒が呑める年頃になったのだなあと思って」

「そりゃちょっとぐらいはな。豊房はあたしより年下なのに飲み過ぎだぜ」

「男というものは、小さい頃から見ていた子供と酒を飲み交わすとこう嬉しいような切ないような気分になるものなのだ」

「まーた子供扱いしやがって」

「いや、お主らを大人として認識を改めようとは思うのだが……どうも寂しくてのう」


 ずっと見守っていたわけではなかったが。

 いつの間にか大人になっていく少女に諭すようにして、九郎は酒を呑んだ。

 酒の影響で僅かに頬を赤らめているお八が、


「じゃあ……ゆっくり改めて行けばいいぜ」


 と、そう応えた。これから、幾らでも改めていけると信じている。そんな思いが込められていた。




 店を出てひとまず宿に向かうことにした。

 赤川大膳を探して品川をうろつくのに、毎日同じ服では目につくかもしれないと思い数着の着物をお八は持ってきている。

 折角なので宿もケチらずに、内湯のある旅籠に泊まることにした。

 部屋に荷物を置き、女中に酒を頼んでおく。さすがにお八と二人連れならば飯盛女が誘いに来ることもなかった。

 

「風呂にでも入ってきたらどうだ? さっき入れた一番風呂だと云っておったぞ」

「ああ、そうだな。こう暑いと埃が体にべたつくよな……」


 お八は胸元をパタパタとして、僅かに汗で湿った髪の毛を掻き上げた。

 そして着替えを纏めつつ、突然びしりと動きを止めた。大事なことに気づいたからだ。

 彼女は目を泳がせまくった挙句に、今でなければ言えないとばかりに意を決して告げる。


「そ、そうだ。九郎。い、一緒に湯に入ろうぜ」

「……は、ハチ子?」

「もももも勿論変なことは全然しねえけどほらあれだよ! 普通湯屋とか同じ屋敷とか機会ありまくったはずなのに、あたしは九郎と風呂入ったことないな~と思ってさ!」

 

 早口だった。

 確かに、お八と過ごしたこれまでで距離は近かったにも関わらず何故か湯を共にすることは無かった。

 そして九郎は混浴にも慣れているので別段女が一緒でも気にしない方なのだが。

 

「そそそ、それにほら。いざって時にいきなり見て驚くよりは予め確認しとけば心の準備とか出来るだろ! うん!」


 ──相手が自分の嫁にならんとしているとなると、気の持ちようが違ってくるのであった。

 お八も真剣だ。屋敷で一緒に入ろうとしたら確実に邪魔が入る。


「えー……あー……」


 九郎は気まずそうに言い淀んだが、断る理由次第ではお八が悲しむような気がして。

 それも拙いのだが、喜々として切り裂き魔が襲ってきそうなのも危険だ。

 

(そもそもあやつ、こう云う展開を狙って送り出しただろう)


 お八の父親との約束場面にも狙って居合わせた通り、影兵衛はお八の支援に回っているのである。

 とりあえず九郎はがりがりと頭を掻きながら、


「そうだのう。背中でも流してやるよ」

「よ、よろしくお願いします……ぜ」

「三つ指をついて頼まんでくれ……」


 その後、風呂場からのぼせたお八を担いで部屋に戻る九郎の姿があった。


「大丈夫……あたしは鍛えてるから大丈夫……痛みとか強いはずだぜ……」

「そこまで覚悟するようなことか」


 色んな意味で先が不安になる九郎であった。





 *******





 家屋が密集し、その殆どの高さが変わらぬ江戸に比べれば品川は涼しいものであった。

 旅籠の二階で窓もあるので涼しい夜風が部屋に入ってきて、風呂から上がった際はだらしない格好だったお八も襦袢を着直すほどだ。

 

「い、いいか。別に九郎のにブルったわけじゃなくて、酒呑んで風呂入ったもんで酔いが回っただけだからな」

「別に言い訳せんでも」

「大丈夫なんだからな!」

「……」


 虚勢を張るように云うお八の態度に、


(いざという時泣いたりするんじゃなかろうかこの娘……)


 と、九郎の中で加虐欲めいた何かが一瞬発生しそうになったがひとまずそれを抑えた。

 とりあえず九郎は疫病風装を身に纏い、


「常楽院の方を少し見てくる」

「あたしも行こうか?」

「いや、飛んだり消えたりして様子を伺うから大丈夫だ」

「九郎の妖術って地味にヤバいよな……」


 まさか天一坊も、空を飛ぶ透明の斥候がやってくるとは思うまい。

 落とすといけないので刀も置いて、部屋の中で[隠形符]を発動させて窓から出ていく。

 予め確認していた方角に夜の帳が下りた空を進む。流石に女郎屋が多いだけあって品川は夜でも提灯の明かりがあちこちに灯っていたが、常楽院は寺内に明々と篝火が灯りすぐに目についた。

 寺というよりも大きな道場に、蔵が並んでいるようであり道場を囲むようにしてある明かりで闇夜に異様な雰囲気を浮かび上がらせている。

 ここは山伏が修行を行う為の場であり、本堂らしいところの入り口近くでは護摩を焚いている臭いが鼻についた。

 中を覗くと山のように酒が積まれていて、煌々と燃えている無数の蝋燭の前に山伏の格好をした男が一人、そして堂内には沢山の浪人らが酒を呑み、飯を食らい、花札やサイコロに興じて騒いでいた。


(とても仕官の志があって集まった浪人には見えぬな……)


 思いながら、九郎は踏まないように浮いて中に入り、よく浪人らが見渡せる場所──山伏男のすぐ近くに降り立った。


(こやつが天一坊か……?)


 と、見てみる。

 しかしその顔つきは、どことなくお多福に似ているような下膨れののっぺりとした雰囲気としか言いようがない。

 恐らくは一番の家臣なのであろう、天一坊へと酒を酌してやっている僧体の男が側に居て、そちらは浅黒く焼けた肌に髭面であり、腕は天一坊の倍は太いという体つきなので彼の迫力が完全に天一坊を食っている。

 

(まあ……一番偉いやつが一番強く無くてはならないという決まりはないのだが)


 そう思いながら、場にいる浪人の顔を確認している。目的は、額に傷のある男だ。

 この場で見つけて連れていくほど急ぎではないが、居るかどうかの確認だけでもできれば良い。

 目立つ特徴で良かったと思いながら一人ひとり見て行くが、どうもこの本堂には赤川大膳という男は居ないようであった。

 大体、集まった浪人の数が百を越えているはずなのにここには三十か四十人。残りは色街で遊んでいるのだろう。ここに居るのは、金が尽きたが天一坊様の威光で飯と酒には困らないとやってきた浪人らばかりだ。


「天忠や、本当に大丈夫なのじゃな」


 か細い声でヒソヒソと筋骨隆々の僧へ天一坊が話しかけているので、九郎も聞き耳を立てた。

 

「無論。ご安心めされよ」

「しかし、奴らが強硬手段に出ぬとも……幕府の犬が嗅ぎ回っているそうではないか」

「なに、こちらには[あのお方(・・・・)]のご助力があるのですぞ。御身の安全は保証されたも同然」

「そ、そうであるな。あのお方さえいれば……」


([あのお方(・・・・)]? 誰のことだ……?)

 

 気になるが、それ以上は二人共語らないようだ。

 道場には浪人の出入りがあるようなので、九郎はもう暫く赤川大膳がやってこないか座って待つことにした。

 そして暫くすると、


「天忠様! 天一坊様! 驚きの助っ人を見つけましたぜ!」

「おお、どうした伊賀亮いがすけ──ってデッカ!」


 素で驚いた声を天忠が出して、浪人らも入り口を見やり感嘆の声を漏らした。

 伊賀亮という浪人が連れてきたのは、身の丈七尺を越えている上に手足は丸太のような巨体を持つ僧だった。頭には深く、虚無僧の被るような深編笠を被っているがその大きさも野菜を入れる籠のようであった。

 それだけ巨大なのに、伊賀亮に手を引かれて若干おどおどした仕草で道場に入ってきたのである。

 シンだ。

 

「外で見つけたんですがね、どう見ても幕府のやつじゃないし強そうだから連れてきたんですよ」


 伊賀亮がペシペシと太い彼の体を叩きながら、シンを道場の上座へ連れて行く。

 野太い足が床を進むと無秩序に寝転がっていた浪人らが道を開けるために慌てて退いていく。見たこともない巨体の迫力に飲まれているようだ。

 象を受け止める巨漢の噂話は流れているがそれも現実のことではない、怪談奇談の類だと思われているのでシンの姿を知るものは少ない。


「ご、御坊はどちらの方かえ?」


 すぐ目の前まで来て云われた天一坊の問いにシンは予め用意されていた応えを返す。


「ちょ、長保寺の僧で徳新と云います」

「長保寺? 紀州のか」

「はい。上様に老朽化した建物の修理をして頂いたので、その御礼に参る途中だったのですが……」

 

 長保寺は吉宗が紀州藩で藩主をしていた頃から関わりがあった寺なので、色々と都合が利くからこうして名乗ることにしたのだ。勿論、吉宗の入れ知恵である。

 徳新という名も徳田新之助──シンに最初つけようと思った名前──の略だ。

 天一坊は顔に笑みを浮かべて、


「そうか、父上の元へのう」

「父上と申しますと、もしや貴方は、いえ──貴方様は……!」

「左様。余は公方様の落とし胤である天一坊改行なるぞ」


 案外ノリノリで吸血鬼ハンターDみたいな事を云うシンに気分を良くしたのか、天一坊はそう名乗った。

 

(天一で食べる坊主は行いを改めよ……か)


 何かラーメン屋がディスられているような名前だなあと九郎は思う。

 それにしても、この巨体の僧はどこかで見たことがあるような気がした。それにしても大きい。江戸で最も巨体だと思っていた甚八丸よりも一回り大きいだろう。九郎も他の者同様に見上げながら口を半開きにした。


「まあ座られよ」


 と、天忠がシンに促す。

 従ってシンがその場に胡座をかくと、天忠は近づいてきてじろじろと彼を眺めた。 

 

「笠を取ってもらおうか」

「あの……僕ちょっとこれなんですけど」


 シンは僅かに笠を上げて、白布で隠した顔の一部のみを露わにする。妙な形をした耳や口元から飛び出た牙は見せないようにして。

 ぶよぶよに肥大化して豚のようになっている肌は、病気であるというには説得力のあるものである。天一坊が「ひ」と声を上げて僅かに下がった。

 なお九郎の知り合いであるオーク神父の肌色は浅黒いが、こちらのシンは赤みがかっているのでその僅かな肌では九郎が見てもオークとは気づかなかったようだ。

 天忠は手で制して、


「いや、失礼をした。その体に皮膚の病となれば、これまで苦労してきたであろう」

「ええ……まあ」

「安心されよ。天一坊様は、迫害された醜き者であろうとも使ってくださる」


(僕連れてこられただけなのにもう仲間に入るの確定してないかな!?)


 シンは唖然としながら「ありがとうございます」とだけ自動的に口から出していた。

 江戸城からやってきて、とりあえず短刀に近づこうと天一坊を探していたら即スカウトされてここに居るのである。

 天一坊は若干顔を青褪めさせて、天忠を呼んでやや離れたところへ下がっていった。内証話をするのかと九郎も近づく。


「あんな気持ちの悪いやつまで仲間にするのか」

「長保寺といえば将軍ゆかりの寺。将軍に挨拶へ向かう立場もあることから、あの化け物を味方に引き込んでおけば将軍に近づきやすくなる」

「しかしなあ、病気でも感染りそうだ」

「全ては将軍と対面するまでの辛抱。それに、何者かから襲われた場合の壁にでもなる」


 などと相談しているのだから九郎も胸糞悪く肩を竦めた。

 そして二人が戻ってきて、作り笑いでシンを歓迎する旨を改めて伝える。

 どこかおかしげに首をひねっていたシンは気もそぞろに返事をして、


「ところで──」


 そう云って、自然な動作で大きな手を伸ばした。

 さっきから妙に気になっている感じがあったのである。目の錯覚を連続で見ているような、小さな違和感を覚える空間。

 これは彼が元々魔力を操るのが得意であったエルフだから、普通人よりもより目についたのだろう。

 シンは、


「ここに何か……」


 と、云って近くに居た九郎の両肩を掴んだ。

 これに焦ったのが消えていた九郎である。更に拙いことに、隠形符の効果が乱れた。


「なっ!?」


 最初から人二人分の姿を消すことは出来るが、途中で体に誰かが触れると、その触れた相手も見えなくなる範囲に入れるかどうかで術式が混乱し、結果として九郎の姿が顕となったのである。

 九郎に増して慌てたのがシンだ。何か違和感を掴んだら人だったのである。

 そして、即座に反応したのが天忠であった。


「其奴を押さえつけろッッ!!」

「ええ!? は、はいいい!?」


 いつの間にか入っていた曲者。それを、掴んだままのシンに押さえるように命令した。

 混乱しつつもシンはひとまず従うことにして、小さく折れそうな体を壊さないように力を入れた。

 だが、


「いかん──! ええい、離せ!」


 掴まれていては絶対回避も飛行も出来ない。九郎は大慌てで両肩に掛かっている腕を掴んで引き剥がそうとした。

 首に巻いた[相力符]が出力を上げて彼に怪力をもたらす。

 とんでもない力で小さい腕から掴まれているシンは慌てる。


(なんなのこの人!? どっかで見たことあるような気もするけど!?)


 みしみしと間接が悲鳴をあげるシンは、歯を食いしばって耐えた。自分も腕に力を込めつつ、体内の術を発動させる。


(肉体強化──二倍!)


 それはこの体になってから唯一使えるようになった魔法だ。魔力による肉体強化はオークの頑強な身体ポテンシャルと相まって高い効果を出す。

 象と相撲を取る男の力が倍化したのだ。もはや普通の人類に抗える腕力ではない。

 しかし急に圧力が増した九郎も負けておらず、術符の効果で徐々に力を増していくが、


(この僧侶、どんな馬鹿力をしておるのだ……!)


 人外の腕力に晒されて、お互いがお互いを、


(何こいつ怖っ……!)


 そう思っている九郎とシンである。

 力比べで生じる重さが百貫を軽く越え、二人が踏ん張っている床板が周囲ごと弾け飛んだ。

 

「うわっ!?」


 その拍子にシンの手が外れたので九郎は急いで離れ、窓を蹴破った。そして人目に付く前に夜空へ舞い上がり消えていく。


「待て!」

「どこに行った!? 探せ!」


 などと刀を抜いた浪人らが道場から外へ出て九郎を探すが見つかるはずもなく。

 見つかったがなんとか逃げおおせた九郎は、


「姿を見られたのう……明日からちょいと変装して歩くことにするか」


 割りと呑気な事を考えて宿に戻っていくのであった。

 一方で侵入者を逃したものの、騒動で仲間と認められたシンは、


(どうにか短刀を盗んで逃げないとなあ……)


 などと思いながら胃を痛めていた。





 ******





 宿に戻ると部屋でお八が男をふん縛って座っていた。

 見た目は品川に大量発生している浪人その一といった風で、だいぶ酒の臭いがきつい。手足を縛られて、気を失ったまま床に転がされていた。


「ただいま、ハチ子。こやつは?」

「なんか部屋にやってきて相手をしろだの、胸が小さいが我慢してやるだの喚き散らしたからしてやった。たちの悪い浪人だな。女中に聞いた話だと、品川じゃ今多いらしいぜ」

「頼りになるのう……」


 連れてきていたのが豊房や石燕など他の女だった場合、ごろつき相手に抵抗が出来るかと想像すると背筋が冷えた。

 

「大体なんだ我慢て。ムカつく。胸が小さくて悪いか」

「悪くない悪くない」

「本当だな……」

「本当だとも」


 適当に応えながら、お八が転がした男を引っ張り起こしてみる。


「ところで常楽院はどうだったぜ?」

「いや、目的の男はおらんかったな。上様の御落胤とやらはイマイチ小者であった。しかし、何か裏で糸引くものがいそうだ」

「うーん、まあ面倒な裏事情は全部影兵衛のおっさんのところに任せちまうか」

「そうだのう。しかしこやつ、赤川大膳の居場所を尋問しようにも随分呑んでおる。これではまともに話もできんな」

「どうするんだ?」

「山に捨ててこよう」


 そう決めて、適当に山の方向へ九郎は全速力で飛行して男を持っていき、暗くて位置も解らぬ山中に放置して帰ってきた。


「今晩はもう寝るか……怪力虚無僧と力比べをして疲れた」

「怪力虚無僧!?」


 並んで敷かれてある布団に入る。お八も九郎の方を見ながら横になり、


「あー、ところで九郎……」

「なんだ? また人のちんちんをまさぐるのはやめろよ」

「またって何だよまたって!? あ、あ、あたしそんなことしたこと無いんですけど!?」

「む? ……ああ、すまぬ。まさぐってきたのはお七の方だった」

「何やってんだお前ら!?」


 顔を真っ赤にして、手で押さえるお八である。

 そして指の隙間からちらちらと九郎を見て、


「……何もやってないよな?」


 そう確認した。一部108話で添い寝しに来た際にお七が悪戯をしただけなので、まったく猥褻は無いことをお八に伝える

 安心した様子をして、暫く無言になった後で九郎が尋ねた。


「ところで、何だ?」

「好きだ。おやすみ」

「……ああ、おやすみ」


 ばさりと、お八は布団を頭まで被ってしまった。

 九郎はなんとも云えない表情で、天井を見て目を瞑る。

 

(昔はフサ子やハチ子に好きだと云われても、笑って返していたのだがな……)


 今では、意味合いの変わった[好き]に躊躇いを覚えてしまう。

 決して二人の事を嫌っているわけではないのだが、孫ほど年齢が離れた女から好き好きと言い寄られるとどうしても勢いに怯んでしまう部分が男にはあるに違いないと九郎は思う。その想いに共感してくれるのは、数十年後の歌麿ぐらいだろうが。

 そんなことを考えていたらゆっくりと眠気はやってきた。

 しかし微睡みの中でも、小さなしこりが記憶に残っている。


 [あのお方(・・・・)]


 果たして関わりの無いままで、この事件を解決できるのか。

 見えぬ何者かの幻影が纏わりつくようであった。




 <続く>


 


  



あのお方「わしじゃよ」

あのお方が誰か予想してみよう

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