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挿話『歌麿とふたよ』

15話から続いています

 ──靂を騙して吉原に連れてきた時のことである。

 帰ろうとしたときに彼の幼馴染に見つかれ纏めて説教を食らい、閉口しながらもどうにか歌麿と九郎のみは説教の席から中座することに成功した。

 

「己れは薬研堀に行ってくる」


 と、報復の為の唐辛子(一本4文)を購入しにさっさと出かけて行った。

 昨晩はお楽しみだったのに元気だなあと歌麿は感心しつつ、欠伸を噛み殺して自分は吉原にある茶屋兼版元兼貸本屋の二階でも借りて昼寝をしようかと、揚屋を後にする。

 その時だった。

 帰ろうとする歌麿は何者かに手を引かれ、空き座敷にさっと引っ張りこまれた。


「マロっ!?」


 一晩で依頼されていた複数枚の美人画を完成させようと奮闘していて疲れていた歌麿は、抵抗する間も無く座敷に入れられて戸を閉められる。

 いや、案外にこう我慢できなくなった遊女が助平目的でナンパしてきたのではないかウヘヘなどという意識も確かにあっただろう。

 戸を締めた相手の後ろ姿を見れば、襦袢の上から緋色の振り袖を纏い、薄緑色の菖蒲柄をした帯をつけた十六歳ほどの女であった。 

 

(振袖新造だ)


 と、ひと目で歌麿は判別する。

 小さいうちに吉原に売られ、下働きの禿かむろから昇進してなる遊女である。 

 まだ指名されたり客を取ったりしないのが普通だが、客の中にはこちらの方が初々しくて良いというのでこっそりと部屋に呼ぶこともある。その場合の値段は一晩で二朱ほど。花魁の百分の一程度の値段だ。そこまで歌麿はパッと知識で思い浮かべた。

 客を取るための練習として、歌麿を誘った──と呑気で自分に都合のいいことを思い浮かべたが、歌麿は相手の表情を見て考えを切り替える。

 その振袖新造は、決意を込めた目をしていた。

 彼女は頭を下げて告げて来た。


「突然申し訳ありません。歌麿様は江戸の街で噂の[助屋]であるというのは本当でしょうか」


 そう聞かれた。

 無論、助屋と云えば兄貴分の九郎のことであり歌麿は時折協力する程度の相棒とも言えない関係性ではある。

 というよりも、九郎のお助けというのは大抵彼個人で依頼をどうにかするのではなく、彼の伝手からその分野が得意だったり根回しのできる知り合いに協力させて物事を解決することが多いので、助屋の関係者というのは存外に多い。

 なのでどう応えるべきか僅かに逡巡したが、


(違いまーす! って言って笑ってくれそうな雰囲気でもないよなあ……)


 相手は真剣な頼みごとがあって、こうして歌麿に告げているのだろう。

 それを悲しませることはできないし、まず話を聞いてみようと思った。自分に解決できない案件ならば九郎を頼れば良いだろう。

 

「何か悩み事ですかお嬢さん。ボクで良ければ事情を聞かせて欲しいマロ」

  

 歌麿が相手を安心させる微笑みを浮かべて云うと、その遊女は懐からぐしゃぐしゃの紙を取り出して広げる。

 そこには書き殴ったような汚い平仮名で文字が書かれていて、すぐには読み取れなかった。普段まったく字を書かない誰かが、どうにか書いた手紙のようだ。


「あたしは駿府小島から吉原に連れてこられた[ふたよ]と申します。家は貧しい農家で、おっ父とおっ母に弟が居ました。暮らしが大変だったので、身売りをして吉原に来たのです」

「ふむ……」

 

 吉原のみならず、宿場町や岡場所でも珍しくない話ではあった。

 案外に地方から売られた少女は江戸に流れ着き、こうして春をひさぐ仕事に付くことがある。年齢によって付く仕事は違い、最初から十五、六ならば見習いもそこそこに客を取らされるが、十前後ならばしばらく下働きであった。

 なので下手をすれば吉原で女を買ったは良いものの、碌に教育もされてない「あります」とか「のんた」とか方言丸出しの田舎娘が相手になってしまったということもあるという。

 

「この前に座敷遊びで、駿府まで行って帰ってくる用事がある紙問屋の旦那様がおりまして……無理を云って、実家への文を頼んだんです。父は元浪人で、字が読めましたから」

「家族への連絡マロか。いい話マロ」


 何せ、大抵は実家から売られて離れた地に連れて行かれるのだからもはや縁も切れているので連絡を取らない遊女ばかりだ。 

 身売りされたら再三に渡って教育係や楼主に、帰る場所など無いのだと脅される。幼く学もない子供は心の奥底までその言葉が染み渡り、吉原という隔絶された小さな世界に染まってしまうのだ。 

 しかし、と歌麿は思う。

 まだ客を取っていないからかもしれないが、目の前のふたよは他の遊女よりも浅い(・・)位置にいるようだ、と見た。


「文の内容は、元気にしているかとか、こっちはなんとかやっているとか他愛の無いことでした。その旦那様も人の良い方で、使いをやって実家に文を届けてくれたのですが……」

「どうしたマロ?」

「この返ってきた文は、字の書けない母が、寝たきりになって筆も持てない父から指示され、どうにかこうにか書いていたのを使いが見ていたと、旦那様から言われて……!」


 広げた紙にぽつりと水滴が落ちた。

 平仮名を文字ではなく図形として捉えて書いたような、江戸では子供でも書かない悪筆であった。それでも必死に書いたのだろう。ゆっくり一文字ずつ読めば、『からだにきおつけ ながいきしろ』とだけ書かれているようだ。

 

「貧しい農家では父が動けなくなったら、家族も長くは生きられません……! あたし程度の細腕でも、今ではどうにか畑を手伝えると思うと、こうして吉原に居るのが嫌になって……!」

「……なるほど。ふたよちゃんは、どうにか吉原を足抜けして田舎に帰りたいマロね?」


 両親が娘を売ったのか、娘が家族の為に売られたのか、詳しい事情はわからないが。

 彼女には帰る場所があり、それは失われつつある。帰れるのは今しかない。

 当然ながら吉原では遊女が逃げることに敏感になっており、冗談で靂には云ったが逃げた遊女ならば囲んで棒で殴られることもあるし、井戸に吊るされてしまうこともある。

 歌麿も昔に経験しているのでわかっていた。


「おっ父と、おっ母を助けたいんです……でも、どうすればいいのかわからないんです……!」


 吉原は人の法では動かない。幕府の法では動かない。仏の法では動かない。吉原は吉原の法で動く。

 江戸の浅草裏で夜も輝く異郷のようだというが、まさに小さな異世界なのだ。

 足抜けさせるのは本人にも大きなリスクがある。しかし、


「いいじゃないか」


 歌麿は歯を見せて笑いながら云う。


「吉原の法なんてくだらないな。君に何もかも捨てて歩き出す決意があるのなら、ボクが手伝うよ」


 その下で過ごす吉原御用達の絵師であるが、そんな法よりも大事なことは確かにあると歌麿は思っている。

 すがるように彼の手を取って、ふたよは消え入る声で云う。


「歌麿様……」

「大丈夫。こんなところ余裕で抜け出せるさ。ボクを信じろ」


 何度も娼年時代に、無断か騙して出入りしている歌麿は胸を叩いた。

 自分だって手が差し伸べられて吉原を出たのだ。こうして自分が誰かを抜けさせるのを断る道理は無い。

 誰も彼も救えるわけじゃないけど、手の届く誰かの差し伸ばされた手ぐらいはつかめるようになったはずだと。

 過去の自分を助けるつもりで、歌麿は請け負った。




 ********




 吉原の大門は、怪しいやつを棒で殴り縛り付ける番人を置いている。彼らは遊女が出て行くのを見張るのも仕事のうちだ。

 吉原に出入りする道はその大門しかなく、周囲はおはぐろどぶという汚い水路で囲まれている。ここは他の水路に繋がっているわけでもない水堀のようなもので、泳いでいたら即座に見つかる。

 更にこの時期、玉菊灯籠の季節は吉原の外からも女性が灯籠の見物にやってくることがある。

 彼女らが大門を出入りするのは遊女の足抜けと紛らわしくて非常に門番に負担であった。なので、外から入る女性は専用の切手を購入して入場券として使っているのだ。

 

 まず歌麿はその入場切手を使って入ってきた、靂の幼馴染三人娘を引き止めた。

 

「これこれこう云う事情があるので、足抜けに協力して欲しいマロ」

「なに!? ……それは可哀想だな。両親想いを無碍にはできまい」

「孝行者には手を貸さないとね」

「大変だなー」

「……」


 と、あっさり協力を取り付けた。

 とは云っても三人の切手を借りるわけではない。そんなことをしても即座にバレてしまうだろう。

 なので歌麿は使っていない座敷でふたよを男装させることにした。男ならばノーパスで出入りできるのだ。


「大抵の揚屋なんてのは、客の脱ぎ忘れていった衣服が一枚二枚はあるものマロ」


 そして探せば箪笥に男性用の着流しが見つかる。

 豪奢な着物を脱ぎ捨てさせ──靂は見張りとして廊下に出された──晒布で胸と尻を押さえつけて体の凹凸を隠した。喉にも布を巻いて喉仏が無いことを隠した。

 次に鋏でばっさりとふたよの髪の毛を切り落とす。


「ああああ」

「うおー……」


 と、女性陣は驚いているぐらい無造作に、美しく伸ばした髪の毛を首辺りまで切った。

 以前に述べたように、江戸では髪の毛の結い方で年齢や未婚既婚、身分までわかるようになっているのでバッサリ短くするというのがそもそも信じられないことなのだ。

 

「遊女を捨てて逃げるんだから、この髪の毛と一緒に吉原での何もかも捨てていくんだ」

「……はい!」


 続いて歌麿はふたよの化粧を落とさせ、眉や睫毛を整えて顔をほぐしながら表情の指導を入れる。


「ふむ……もうちょっとマロ」


 歌麿は筆を取り出して極薄く溶いた墨で顔に陰影を付けて行き、一晩頑張って疲れたような顔色に変えていく。 

 ついでに女性らしい手指も黒っぽく塗りつけてひと目には汚いように変える。

 髪の毛をぐしゃぐしゃと水で癖を付けた。


「よし、大体こんなものマロ」


 ピカピカに磨かれた吉原の鏡でふたよが姿を確認すると、疲れてむすりとした表情をしている髪の毛がボサボサの少年みたくなっているのがわかった。

 

「これがあたし……」


 感心して少女らも云う。


「ふむ……随分と変わったな。少なくとも遊女には見えない」

「女っぽくなーい」

「逃げようとする遊女の多くは、女を捨ててまでは逃げないマロ。精々化けて、普段着の町娘ぐらい。これなら充分騙せる」


 何せここまで髪の毛をバッサリ切ってしまっては、もし捕まったら商品にならないとしてどんな責めを食らうかわからないのだ。

 髪が伸びるまで勤めなければならない年季も伸びるだろうし、失敗を考えれば行えないのも当然だろう。

 

「後は歩き方に気をつけるマロ。吉原では延々と太夫の後ろについてまわる歩き方を教えられ、染み付いているかもしれないけど外でやったらすぐにわかってしまう。はい部屋の中で練習。いっちに、いっちに」

「い、いっちに、いっちに」

「ナンバ歩きになってるマロ」


 多少歩き方の指導をする。何周か部屋を歩き回らせている間に、


「小唄ちゃん。この後吉原を出たら、ひとまず彼女を甚八丸さんのところに連れて行かせてもらうマロ」

「ああ、そうだな。父さんなら力になってくれるはずだ」

「騙し打ちした借りもあるし、手伝ってもらうマロ」


 吉原の外に出したら任務達成ではない。彼女を駿府まで送らねばならないのだ。

 歌麿が胸を張って有利に動き回れるのは吉原界隈ぐらいで、遠国まで連れ出すのは荷が重い。

 だが彼は今まで、九郎が自分ではできぬことをできる者に丸投げしているやり方をよく見ている。

 困ったら人を頼ればいい。

 世話になったら恩を返せばいい。

 たったそれだけのことなのである。


 さて、ふたよを加えて六人で吉原の大通りへ出て、大門へと向かう。

 自然な歩みで一行は大門から出る客の流れに乗った。


「待て」


 と、呼び止められるのは小唄、お遊、茨の三名である。

 入門切手を確認するのに番人がじろじろと眺め回す。足抜けが無いように、念の入った注意であった。

 そして番人が三人へと気を取られているうちに、ちらりとした確認だけで歌麿、靂、ふたよの三名は門を抜けることが出来た。

 歌麿などは見られ慣れている常連なので目につくだろうが──ここで番人は錯覚する。

 入るときによく見る顔の歌麿は三人連れで入ってきた。そして今、出るときも三人連れだ。ならば何も問題はない。

 靂を騙した理屈そのままで、歌麿が目立つことと同時に出る三人娘に気を取られることを合わせて、ふたよは何の咎めも無く吉原を脱出したのであった。

 ついでに云えば、若干ふたよの水でぐしゃぐしゃにした髪型も今は居ない三人目──九郎に似せている。


「余裕のよっちゃんマロ。さあ、息を整えて。胸を張って。君は怪しまれない」

「は、はい」


 背中をぽんぽんと叩きながら、歌麿は笑った。

 それを見て靂も感嘆の息を吐く。

 

「大した度胸だなあ……」

「あっはっは。笑顔笑顔。外にさえ出れば、振袖新造一人居なくなったぐらいじゃそうそう追手も出してこないマロ。稼ぎまくる花魁ならまだしも」

「そ、そうなのですか?」

「うん。でも執拗に逃げたら追われて殴られ吊るされると聞かされ、見せしめに何人かやられたり、死んだ遊女を回向院に捨てに行ったり……そういう恐ろしい目に会うから、そのうちに誰も逃げる気が失くなってしまうんだ」


 大体、殆どの遊女は吉原以外に身を寄せる場所など無いのだから。

 年季が明けて借金を返し終えても、吉原に残って他の女郎の世話などをしたりする者が居るのもそのせいである。


「行こうか。市中ならまだしも、千駄ヶ谷まで行けば完全に安心だ」


 大門の切手確認を終えて出てくる三人娘がやってきたので、一行は歩みを進めた。


 吉原の灯りと客の群れから徐々に離れて、色街との空気が消えてくるところまで来るとふたよは洟をすすって涙をこぼし始めた。

 様々な感情が浮かび上がってくる。

 故郷に残してきた父母への心配と、望郷の念。

 吉原でつらかったこと思い出。

 初対面でここまで手を貸してくれる自分と同年代の皆の優しさ。

 こらえきれず、涙になって溢れてくる。

 靂に三人娘らはなんと声を掛けていいものやらと、気まずそうにあわあわとしたが。

 歌麿は、ふたよが通りかかる人に泣き顔を見せないように肩を抱いて云う。


「大丈夫。もう泣きたくなるようなことは無いよ」


 そう諭す普段はちゃらんぽらんで、助平で、馬鹿をしている年上の少年の顔が──四人にはとても大人びて見えた。

 六人はゆっくりと、千駄ヶ谷へと向かっていった…… 



 


 *******





 甚八丸の屋敷につくと、局部を押さえながら辛子のついた褌を振り回し威嚇する甚八丸と、唐辛子汁を入れた水鉄砲を乱射する九郎が居た。

 報復のバトルである。怒りは収まらない内に殴りかかれという言葉通り、寝不足でしんどい体を引きずり九郎が仕掛けていたのだ。


「この大人たちは……」


 歌麿の意外な年上力を見た少年少女らはまるで子供のようにはしゃいで戦う二人に呆れて呟いたが、とにかく連れてきたふたよの事情を説明する。

 さすがに面倒事に手慣れた忍びの頭領と百歳超えの九郎は事情を呑み込んで、てきぱきと駿府へ送り出す準備を整える。

 甚八丸が顎に手を当てながら、ふたよの故郷あたりの情報を思い出していた。


「駿府小島か……ちょいと貧しい藩で、領民への税や賦役が近頃増えてきつくなったらしいな」

「賦役?」


 九郎が聞くと甚八丸は頷いて説明する。


「アレだ。労働の義務ってやつだな。新田開墾したり治水工事したりする労働力として使われる。それ自体は珍しくねえんだが、ケチるところは無償どころかメシ代も領民の自腹にするからこれを増やされれば相当生活が苦しくなるだろ。それで嬢ちゃんのところの親父さんも体を壊したのかもな」

「おっ父が倒れたら、母と弟が……」

「ああああ、泣くんじゃあねえよ。悪くない。おめえさんは何も悪くねえんだから……それに日の本をあちこち移動するなんざ、俺様達の得意分野よ。すぐに関所の通行手形を用意してやらぁ」

「今日は体力の付くものでも食べて休み、明日に出立するといい。実家の父母に渡す土産に、江戸の薬でも買うてくる」


 短くなった髪の毛を一応程度に結い上げさせて、甚八丸に連れられ息の掛かった寺と役人の元へ連れて行った。

 ふたよを甚八丸の元で拾って働いていた農家の娘ということで戸籍を得て、その身分で女手形を作らせたのだ。 

 入り鉄砲に出女というように、江戸から遠国へ女が出て行くには顔格好髪型にホクロの位置まで記した手形が必要だが、それでも庶民であるという身分が保証されているのならば難しいことではない。

 

 その間に九郎は歌麿を連れて江戸の土産として名物になっている薬を購入することにした。

 

「[牛黄丸]に[鮮地黄丸]は万病に効く漢方薬マロ」

「伊吹山のもぐさも人気商品だのう」


 昌平橋近くの紀伊国屋と、鎧橋近くの釜屋でそれぞれ購入した。両方共江戸時代から現代まで続いている老舗であり、江戸に旅してきた人にとっては定番のお土産でもあった。

 

「それにしても、上手いことやったな歌麿」

「吉原から逃がすぐらいは簡単マロ。その後の、実家に返したり居場所を用意したりするのはボクだけでは難しいけど……」


 鮮やかな手並みでふたよを足抜けさせてきた歌麿を素直に九郎は褒めた。

 安易に自分の力を頼らずに、己の力で解決できると判断して行ったのも頼もしく感じる。

 確かに九郎に云えば、透明化させるとか空から連れ出すとか非常識な方法で外に連れ出すこともできるのだが──

 庇護されるだけの少年ではなく、弟分は自分の力だけで他人を救う行動を起こせる行動力と覚悟があるのだ。

 

(子供は成長して大人になるものだのう……)


 目の前を歩く歌麿には、少年姿の九郎はもう背丈も追い越されていたことを感じるのであった。



 それから準備も整い、翌日の事。

 九郎と歌麿も再び甚八丸の屋敷に集まり、ふたよを送り出す場にやってきた。

 甚八丸は手下の一人──覆面を脱いだ、真剣な顔をしている三十前後の男に強く言い聞かせている。


「いいか長次郎。こいつは俺様からてめえに与える忍務だ。忍びの務めだ。必ず無事にふたよを実家まで送り届けろ。もし道中で手を出すような事をしたら、忍びの掟に依って俺様直々にぶち殺しに行くから解ってるだろうな」

「は、はい頭領!」


 背筋を正して、手下の一人──靂に浮かべた嫉妬の感情を物理的爆発に変換させる忍術を使ったりしていた長次郎は勢い良く返事をした。具体的には硝石とか硫黄とか使って変換する。火遁の使い手でもある。

 彼も旅装に着替えている。笠に風呂敷、葛籠に脇差しまで用意していた。旅人は武士身分でなくとも盗賊への警戒などから脇差しや竹光を腰に差していることも珍しくなく、ある程度は煩く言われない。

 幾ら何でも女一人旅で駿府まで行かせるのは不安なので、暇をしている甚八丸の手下に護衛をさせることが決まったのだ。

 誰も候補が居なければ歌麿が行くことになっただろうが、彼とて江戸で絵師としての生活がある。助けた面倒を最後まで、と云う意識も無いではなかったが、実際のところ長次郎も大喜びで立候補したのであった。

 そして彼に旅費にも使う小判や金粒を渡しておく。九郎と甚八丸が餞別として用意したものだった。ある程度迷惑料として甚八丸に多く出させてやったが。

 農家の娘と遊女しかやったことのないふたよに渡すよりも、護衛や金の管理も含めての忍務として彼に預けた。


「前金は渡しておく。後金は帰ってきたら渡すが、実家まで送り届けたらその時点で任務達成として帰ってくるも留まるもてめえの自由だ」

「え……じゃあ頭領、おれは……」

「向こうの迷惑にならなければ、の話だ」


 長次郎的には美女の元遊女と道中むふふ旅程度で、あわよくばとは思っていたが。

 彼の身分は甚八丸の小作農だ。甚八丸の下で働く分には食うに困らないようにさせてもらっているが、そういった自由を認められなくて当然の立場である。

 だが甚八丸の言葉では──ふたよの家族さえ認めてくれれば男手として、或いは婿として彼女の実家に留まれるかもしれない。

 小作農から貧農へという身分は夢もへったくれも無いが。

 何よりふたよは器量が非常に良く、性格も父母想いの優しい娘である。


「よっしゃ──!! 任せてください頭領!! おれは命懸けで頑張りますよ!!」

「現金なやつだのう……まあ、良いか」

「頼もしいマロ」


 満足そうに歌麿は頷いた。

 ふたよが実家に戻ったとて、病気の両親を抱えて百姓をするのは大変だろう。そこに鍛えられた男手が居着いてくれるのならば、どれほど楽になることか。

 体から漲る力を叫んでいる長次郎を尻目に、甚八丸は声を潜めてふたよにも云う。


「ふたよ。実家に付くまでは、あいつにはお礼だとかそう云うので体を許そうなんてやらないように。そう云う行動を起こさないように言い含めているが、童貞なんで惑わされると苦しむんでな」

「は、はい。わかりました」

「ちょいと馬鹿だが気のいい奴だ。旅の話し相手ぐらいだと思って気楽にな」


 甚八丸も、恐らくはかなり高い確率で長次郎はふたよの実家を助けるために留まるだろうし、やがてふたよとくっつくだろうとは思っている。

 ただでさえ父母の心配で心が弱り、吉原から逃げている怖さもある中で男が旅の護衛をしてくれるのだ。余程、男か女の性格が破綻していなければ好意を抱くのも当然だろう。

 嫉妬の心で爆破とかする馬鹿だが長次郎は女相手には人一倍誠実である。多少恋愛にヘタれているが、それでもなんとかなるはずだ。

 

(女遊びをさせてはやれなかったが、こんだけ良い遊女と逃避行ができるんだからおつりが出らあ)


 次の忍び会議では長次郎の話題で紛糾しそうだと思いつつ、送り出す時間となった。

 ふたよは再び歌麿の手を握り、何度も何度も泣きながら感謝を述べていた。


「本当に、本当にありがとうございました……! 歌麿様のおかげで、こんなに……!」

「……君が助かろうと思って頼ってくれたからだよ。これを持って行ってくれるかい?」


 そう云って歌麿が手渡したのは一枚の絵である。 

 弁財天を神々しく、色気たっぷりに描いた一作であった。薄目を開けている天女の顔は慈愛を感じつつも、どこか笑っているように見える。色も鮮やかに使い、僅かにきらめいてさえ見えるのは顔料に雲母を砕いて混ぜるという歌麿の実験的な手法によってだ。

 

「綺麗……」

「いずれ江戸に名高い凄腕絵師になる予定の、喜多川歌麿の肉筆マロ! ふたよちゃんに、福が訪れるように願いを込めて描いたマロ。元気で、長生きするんだよ。子供、いや孫ができるぐらいまで……」

「大事に、宝物にします……!」


 泣きじゃくるふたよの肩に手を置いて、澄んだ笑顔を見せて歌麿は静かに告げた。

 自然と彼の心から出てきた、これから先を行く人に送る言葉だった。



「楽しいと思うことをいっぱいしなさい。好きに生きて、好きに死ぬこと。辛いことがあっても、最後は笑って──」



 歌麿の笑顔は、ふたよを泣きながらの笑みに変えて送り出していく。

 長次郎について歩き出したふたよは最後に振り向いて、大きく手を振った。


「歌麿様! この御恩は、孫子まごこの代まで──二代ふたよ過ぎても忘れません! 本当に、お世話になりましたぁ──!」


 ──歌麿も、後ろ姿が小さくなるまで手を振り続けた。

 そしてふと九郎の様子に気づく。

 彼は呆然と見送りながら、目から涙を流していた。


「に、兄さん、どうしたマロ? 悲しいことでもあったの?」


 心配し、そう云ってきた歌麿の体を抱きしめてやり九郎は云う。


「いいや。悲しいことなど無いよ……」


 忘れられた誰かの告げた最後の言葉は。

 きっと忘れられてなんか、居なかったのだと。

 彼も何も見えない暗闇と朦朧とした意識の中で聞いた言葉を、思い出したのである。

 九郎は歌麿の背中を撫でて呟いた。

 

「良い子に育ったなあ……」

「ちょっ、兄さん子供扱いして……!」


 珍しく恥ずかしがる歌麿は、何故か温かい気持ちでいっぱいだった。




 それから。

 暫くの月日が経って、忍務を達成した長次郎から文が届いたと甚八丸に教えられた。

 やはり長次郎はふたよと一緒になり、彼女の父母に弟を養うようにして農家で働くのだという。

 暮らしは大変だが、つらくはない日々を過ごしているそうだ。

 何卒とふたよが何度もお礼を告げていたことが文にも書かれていた。

 決して楽ではない暮らしだろうが──それで良かったのだ。



「『からだにきおつけ ながいきしろ』よ──」



 文を読んで、歌麿はそれから長屋の屋根に登ってごろ寝をしながらそんなことを呟いた。

 嬉しそうな、周りの者が見ればいつも楽しそうにしていると言われる歌麿の緩んだ表情をして。

 いつも通りに彼は江戸で美人画を描き、助平をして、面白おかしく生きている。



「さて! 今日はひとつ──ふたよちゃんの絵でも描いてめっちゃシコるかな!」

 

 

 いずれ江戸でも一等となる絵師の日々は続いていく。

  

 





 ****** 

 




 ──数十年後のことである。


「師匠師匠~!! 私の絵が出来ました見てくだい評価してください歌麿って名前入れてください~!」

「と、飛びついて来るなマロー!!」

「そしておもむろに私を認めて抱いてください好きです師匠好き好きー!! 子供作ろー!!」

「ぎゃああああ!! 老人虐待マロ! 社会の闇──!」


 家に入ってくるなり飛びついてきた少女に抱きつかれながら、老齢に差し掛かっている体には堪えるとばかりに喜多川歌麿は悲鳴を上げた。

 根津に小さな家を構える歌麿の元には門下生が多数集まり、日々絵を描いているのだがその少女は普段知り合いの戯作者のところに居るというのに、こうして時折やってきてはぶつかってくるのだ。

 もう慣れたもので、他の歌麿の弟子も溜息混じりに見ている。


「ほらほら! 見てくださいよこの吉原風景画! 師匠の画風にそっくりじゃないですか!」

「う、うーん。確かに似てるけど、なんか見たような構図というか……」

「師匠の絵を見て描きましたら!」

「いやさ、そういうの辞めようよ……絵を見て絵を描いたとか、読本ラノベを読んで読本を書いたとかそういうちょっと薄い感じが出てるみたいな……」


 歌麿が苦言を呈するが、目を輝かせて少女は云う。


「私の最大目標は師匠なのでそれでいいんです!!」

「……ああ、そうなの」

「沢山描いて持ってきましたから見てください──あっ」


 不意に少女が腹を押さえると、ぐーと長い音が鳴った。

 呆れたように老人は聞く。


「この前、ご飯代上げたよね? それに春町さんからも生活費貰ってるはずだけど」

「全部画材を買うお金に消えました! あはは、絵を描いてるときは全然苦しくないんですけどね!」

「……はあ。よし、とりあえず蕎麦でも食べに行こうか……奢ってあげるから」

「し、し、師匠に奢ってもらえるなんて! これはもう受精して恩を返さないと! 子供欲しいですよね! 何人ですか!」

「そんな返し方無いから。ううう、兄さんが少女に好かれて困ってた気分、今ならわかるなあ……! 結構しんどいものがある……!」


 などと言いながら、歳の割には矍鑠とした歌麿に先導されて少女も外へと向かった。

 残された歌麿の弟子らは、慣れた者とまだ日の浅い者で反応が変わっている。

 新しく弟子になった男が、弟子の中でも一番の者に尋ねた。


菊麿きくまるさん。あの少女は?」


 聞かれた喜多川菊麿は応える。


「あいつは二代ふたよって言って、恋川春町先生のところの門人だ。うちの先生にも一方的に一番弟子だと名乗ってつきまとってる。昔に歌麿先生が助けた人の孫とからしいな」


 歌麿が助けたふたよの孫であった。

 彼女は物心ついたときから家に飾っていた歌麿の弁財天図を見て心を惹かれ模写を繰り返し、教養もあって尊敬している祖母から教育を受けていた。

 戯作者の恋川春町は文も書き絵も描く、おまけに身分は小島藩の侍という変わり者なのだがそんな彼が二代を見つけて弟子にし、江戸に連れてきたのであった。


「へえ~……でも二代ちゃん、結構可愛いですよね」


 祖母の容姿が隔世遺伝したのか、二代は農家の娘とは思えないほど顔が整っていてそこらの遊女より余程美少女である。

 むさい男が揃っている江戸の絵師業界でも狙っている者が多いが、そこは恋川春町の庇護により手は出されずに居る。


「まあな。絵の腕前は……先生を意識しすぎて模写の域を越えないけど」

「そしたらどうして、あの老人になっても助平全開で女遊びが大好き、初対面の相手に卑猥な言葉で誘う歌麿先生はあんなに嫌がって接してたんでしょうか。先生なら、言葉巧みに誘って助平しそうなのに」


 枯れ老人とは歌麿から最も遠い言葉である。

 今でも年甲斐なく女遊びを繰り返し、閨もばっちりやっている。むしろ江戸でも超有名な美人画の絵師になった歌麿と寝れば宣伝になるとばかりに、吉原では大人気で浮き名を馳せまくっている。

 だというのに、二代に誘惑されても歌麿は戸惑うばかりでどうにか避け続けているのであった。

 一番事情を知っている菊麿が解説をするに、


「色々事情があるんだろうが……俺が思うに、先生は自分から『好き好き~』って寄って行ってはけなされる方だろ?」

「ええ、まあ」

「だからこそ、相手の方から純粋な好意をぶつけられまくるのに慣れてないんだ。客商売としてちやほやされるのは割りきれて楽しめるんだが、素人相手にあそこまで好かれるのは気後れするんだろう。浮気は易し本気は難しだな」

「意外と面倒な人なんですね……」

「それに年を取れば小さい娘の情に素直に応え難くなる。年が離れてたら先に死ぬのは自分であるし……まあ、もっと先生と親しい人なら別の理由を上げるかもしれないがな」


 蔦屋の主人や、或いは歌麿の兄らしきヤクザの親玉で天狗だと噂の老人などを思い浮かべた。


「しかし良いんですか? 菊麿さん」

「何がだ」

「あの子、[二代春町]とか[二代歌麿]とか名乗っちゃってますよ。菊麿さん、筆頭弟子ですよね。絵の腕も上なのに」

「……あの性格の娘と名について議論してみろ。凄く鬱陶しいぞ。それに、実際名前は[二代(ふたよ)]何だから仕方無いだろう。恋川先生も歌麿先生も別に煩く云ってないのだし」

「そう云うものですかねえ」


 諦めたような溜息が歌麿の家で静かに繰り返された……



「師匠おおおお! お婆ちゃんからも是非師匠に恩返ししろって言われてるので、師匠の子供を残しましょう!!」

「うん……君まずね、絵の勉強を真面目にしなさいよ……マロ」

「えっ!? 師匠の筆で夜の勉強会ですか!? やったー!」

「兄さあああん!! ちょっとこの子の婿とかどっかから見つけて来てええええ!!」


 

 二代目歌麿。

 歌麿の弟子の中でも突出する腕を持っているわけでもなく。

 江戸の一世を風靡した超有名絵師の二代目としては謎の襲名をした浮世絵師であるが。

 一説によれば、何やら歌麿と特殊な関係があったのではないかと噂されている……。



「師匠、だぁぁい好きです!」

「あと五十年若い頃に云ってくれマロ!!」



 頬ずりしてくる少女に、歌麿は気分的にげっそりとなりながら嘆くのであった。


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