15話『夕烏~靂と吉原~』
「女遊びってのは男にとって必要なことではあると、俺ァ思うわけだ」
甚八丸がそう口走った瞬間に屋敷の奥から棒手裏剣が飛んできて、彼の臀部に突き刺さった。
褌一丁で逞しい体を見せつける格好だったのでダイレクトヒットだ。
「アヒィ! 俺様の尻が謂れ無き迫害を受けている!」
がくがくと数秒震えた後で甚八丸は振り向いて、姿の見えない敵に叫ぶ。
「馬鹿野郎ィ! いまお客と真面目な話してるんだから攻撃するない!」
「浮気の算段なら巻き込むなよ。ところでそれ刺さってるの大丈夫なのか」
「ケツ筋で受け止めたからなんとかな……」
棒手裏剣が当たる瞬間は力を抜き、中にめり込んだときに筋肉で掴みとるようにして受け止めたのである。食い込んでいるように見えたが、ぽろりと尻タブから棒手裏剣が抜け落ちる。
甚八丸は尻を撫でながら嫁の居る方に向かって「神社に行く用事があるっつってただろうが!早く行ってください!」と拝んだ。
ここは千駄ヶ谷にある根津甚八丸の屋敷。彼は農民ではあるが、土地を多く持っていて小作農も抱えているので家はかなり広く、家族以外にも彼の部下が住み込んでいる。
九郎は新聞配りに来たお花からの伝言でその日、甚八丸のところに呼び出されているのであった。
「で、なんだっけか。女遊び?」
禄でもなさそうな要件だなと思いながら九郎は尋ねる。
「そう、単刀直入に要件を云うとな、あの儒学者崩れの隠居小僧を遊郭に連れて行かせてやってくれ」
「……なんで?」
まだ十代なのに儒学者崩れであり、隠居生活に入っている小僧は江戸でもそう居ない。
千駄ヶ谷に住む新井靂のことだ。甚八丸が敵視というか、娘が取られそうなので一方的に因縁をつけている相手であった。
それを遊郭に連れて行くとはどういうことか、と九郎が話を聞くと、
「あの超つまんねえ少年時代を送ろうとしている真面目君に、悪い遊びを教えさせてちっとは人生の経験を積ませようと思ってな。ここ数日ヒマだったから、あいつの生活を見張ってみたんだが……」
「何やってんだおっさん」
九郎は呆れる。生活に困らぬ土地持ちだがいい年した男が娘の彼氏を見張るなど、大人げない上に厄介だ。
ともあれ甚八丸は懐から紙を取り出して読み上げる。
「夜明けに目覚めて本を読み始め、茨の作った朝飯を食って本を読み、昼間は何やら筆を取って戯作を書き始めつつ本を読んだり、お遊の作った夜飯を食って暫く本を読んで就寝。昼間の行動が道場に行くか行かないかで変化する程度で、他は何も変わらねえ」
「本読んでばかりだな」
「屋敷には風呂場もついてて、茨やお遊が盥に入れた水で体洗ってやがるのに助平な出来事も起きやがらねえ!」
「おい待ておっさん。ひょっとしてあの二人の入浴を覗いたりはしてないよな」
妙な自白をかました甚八丸の尻に棒手裏剣が再び突き刺さって悲鳴が上がった。飛んできた方を九郎が見るが、やはり甚八丸の嫁は姿を見せない。
「ばぁぁぁっきゃろう! 覗いてねえよ! むしろあの野郎が幼馴染の入浴を覗けよ! 年頃の男だっつーのに枯れてんのか!」
「ふぅむ、確かに天爵堂か母親の影響かもしれんが、靂の奴はやたら枯れておるのう」
「しかぁし、時折何やら書物をしていて、そこで助平な心を発散させてるのかと考え部下に命じて入手させてみた。長次郎!」
「はっ! ここに」
頭に頭巾を被り顔を隠している甚八丸の手下が天井から静かに降り立った。
彼は胸元から古ぼけた冊子を取り出して開き、読み上げる。靂の書いた日記か何かだろうか。
『今日いやらしい春画本を買って読んだ。
出てくる男達のイチモツがみんな怖かった。
自分の股間を見るととてもかわいらしい物がニコッとほほえみかける。
お前は悪くない。悪くないよ』
甚八丸が突然頭を抱えてブリッジした。
「あ゛~!! てめえそれっ俺様が純心少年だった頃の日記じゃねえか!! どこから探しだしやがった!!」
「現在進行形で女の子と同棲してる恵まれた少年の日記なんて憎くて読みたくありませんよ! 大体そんな充実野郎に女遊びさせるぐらいならおれにさせてくださいよ! 吉原の遊女と真実の恋を!」
「うるせえ童貞野郎!」
「ちんこに話しかけた内容を日記に残すなよ……」
無駄にマメな男であるが、まったく感心はしない。
頭領と部下の室内忍びバトルを数秒見守り、話を戻した。
「とにかく。あの真面目でクソつまんねえ小僧の生活を見るに、うっかりうちの小唄が嫁にでも行ったときを想像すると寒気がするぜ。面白みもねえ枯れた男の元に嫁がせるのは断固反対だね俺様!」
「もう半分ぐらい小唄が嫁に行くの認めておるようだのう」
「ええいそれは置いといて。とにかく、若い年頃の男が女体に興味を持たねえなんて異常だ! 刺激療法として吉原に叩き込んで助平の本能を呼び覚ます! というわけで金を出すから連れて行ってやってくれ。俺様が吉原行くと嫁に殺されるから」
「うーむ」
九郎は唸りを上げて、差し出された十枚の小判を見た。かなりの大金であり、吉原の太夫を揚げるには充分だ。
その小判は不忍池で潜っていたら見つけた金なので別に使っても懐は傷まないのだという。
さておき、甚八丸の思惑を九郎は考えてみた。
例えばヤクザなどの親分が、新入りの下っ端を風俗に行かせたりするのはあり得なくはない。
それにしても甚八丸は気前の良い支払いである。十両となれば80万円相当を、近所の──ひょっとしたら義息子になるかもしれないが──少年の筆おろしに使い込んでやるものだろうか。
彼の思惑では女遊びを覚えた靂は女体に興味を持つ。まあ、これは悪いことではないと九郎は考えた。
そうすると年頃の女二人と同棲している事実を改めて認識し、茨やお遊を意識するようになるのではないだろうか。通いの小唄よりも身近なのがポイントだ。
やがて二人にお手つきをして責任を取り嫁にする。小唄ちゃんは負け組ヒロインで残念だったねになる。甚八丸大勝利。そういう図式が浮かんだ。
果たして何に勝利しているのか不明で、本当にそれでいいのかとも思うが。
(ふむ……まあいいか)
九郎は雑に受け入れた。彼が行うのは精々、靂を吉原に連れて行くまでだ。それ以降は不確定の未来である。
「しかし、靂の奴が素直に吉原についてくるかのう……吉原まで行ってから嫌がりだしたら向こうにも迷惑がかかる。そうだ、歌麿にも知恵を借りるか。あやつは詳しい」
前に吉原で女装娼年として人気を集めていただけではなく、近頃は吉原にある脱法版元で美人画などを描いているので内部事情に詳しい。
甚八丸は長次郎に命じて、歌麿を連れて来てもらうことにした。
暫く甚八丸の[忍法尻筋のみで床を移動する術]や[忍法記憶喪失になった振りをして女を引っ掛ける術]などの解説を聞いて待っていると、歌麿が駆け込んできた。
「靂きゅんの童貞を筆おろしすると聞いて駆けつけてきたマロ! 今解かれる……! ボクの封印された女装技術……!」
「お主がするな、お主が!」
「待って欲しい。つまりこういうことマロ? ──靂きゅんも女装させて、ボクも女装する。初心者にも優しい女装和合……!」
「男色から離れろ!」
張り切りすぎだった。
今ではすらりとした体つきをした線の細い青年だが、元々は女装娼年である歌麿は余裕の両刀使いである。
むしろ一時期、雨次にセクハラをするのを楽しんでいたこともあった。筆おろしを頼まれたら軽くつまむ感覚で童貞を奪ってくるだろう。
ひとまず落ち着かせた歌麿に、斯く斯く然々と事情を話して聞かせる。
「なるほど……吉原でひとつ上の男にする計画マロね。ふむふむ、だったら良い相手を頼まないといけないマロ」
「ついでに靂をどう説得して連れて行き、床入りさせるかだな」
「なあに、ちょっと騙くらかす方法は幾らでもあるマロ。予め、遊郭にも話を通しておけば……そうだ。こういう遊びは藪入り前なら頼めばやってくれると思うマロ」
藪入りは7月16日にある盆休みのようなものだ。江戸の多くの商店がこの日は休みになり、住み込みの奉公人などが実家に顔を出しに帰省することも多かった。
吉原の女郎もこの日は休みなことが多く、家に帰れるわけではないがゆっくりと年に僅かしかない休日を過ごす。
同時に休みの日に予定が無いので、前日から多少羽目を外した遊びが出来た。
「下準備はボクに任せるマロ。決行日は15日の夕方から! 兄さんとボクで連れて行くマロ! なあに吉原に行けば、どんなカチコチにお硬い男でも凄腕手管の太夫がぐにゃぐにゃに柔らか~くしてくれるマロ! あ、勿論一部は硬いままだけど」
そこまでしないでも、と思わなくもないが。
とにかく任せた方が話が早く進むので九郎は頷いた。
「頼りになるのう。無駄に」
「全くだ。助平な絵師というだけじゃねえんだな」
「あ。ところでこれ頼まれてた春画持ってきたマロ」
「うわ馬鹿こんなところで出すない──ああああ! 手裏剣が飛んできた!」
「春画に罪はない! 春画に罪はないマロ!」
「凝りぬのう……」
飛んできた手裏剣を必死で受け止める甚八丸の技量も然ることながら、毎回屋敷で攻撃される夫婦生活を延々続けている状況に呆れた。
見た目で云うのならば甚八丸の嫁は殆ど暴力的には見えない、物静かな方なのだが。
娘の小唄曰く、極度の照れ屋なのだという。照れが手裏剣にワープ変換されているのだろうか。
*******
「稲荷神社にお参り?」
靂は本から顔を上げて、珍しくやってきた九郎と歌麿を見た。
その日も彼は朝から読書を続けていた。天爵堂の蔵書はほぼ全て読み終えたのだが、他の本などで新たな知識を得たり時間を置いて書かれている内容を充分に思索した後で読み直すとまた違った見方ができるので、何度でも読む価値がある。
「そうそう。靂くんは勉強漬けだけど実際の知識はやっぱり実地で経験するのが良いと思うマロ」
「天爵堂の爺さんも、晩年は引きこもりだがアレで案外若い頃はあちこちに出掛けて学んでいたというしのう」
「それで、ちょいと風変わりな稲荷神社があるんだけど一緒に行かないかと思って」
言われて、靂は既に太陽がかなり傾いている外をちらりと見た。
「しかし、もう出かけるには遅いし……」
「いやいや、向こうさんの神社は宿坊もついていてな。一泊お籠もりをしながら話を聞くという行事を行っているのだ」
「霊験あらたかでご利益あるマロ~? ボクも随分とお世話になって、危うく豊房ちゃんに勘当されかけて泣いて謝ったりしたなあ……!」
「おい。怖いこと云うなよ。これから行くのに」
「兄さんも怒られないように気をつけて!」
靂を吉原に連れて行く計画は当然ながら女衆には内緒にしている。
連れて行って引き渡してはい終わり、とは行かないだろうから別室で九郎も一晩ぐらい酒でも飲んで明かそうとは思っているので、言ってみれば「九郎も女遊びに出掛けて吉原で一泊してきた」ということになってしまう。
「はあ、しかしお籠もりをする稲荷神社……? 江戸にそんな場所ありましたか?」
「浅草にある観音様の裏手にある場所で、賑やかなところマロ」
「うーん……あの辺りは爺さんの墓参りぐらいでしかあんまり出掛けないからなあ……」
首をひねる靂。基本的にインドア系なので、江戸で生まれ育っていても地理には疎いのである。
本を多数読んでいるので地名は頭に入っているのだが、そこがどう歩いて行く場所かなどはよくわかっていない。精々出かける場所が新宿あたりまで買い物に行くか、日本橋の鹿屋に仕事の発注へ行くか、道場に向かうかだがその道中さえ寄り道をしないのでいまいちわかっていない。
「安心せよ。宿坊を使うのも含めて賽銭は己れの方で用意してある」
「何せあそこは賽銭が少ないとご利益が無いマロ」
「お賽銭の用意まで……どうして僕を?」
九郎と歌麿は悪魔的な優しい表情を浮かべて、それぞれ靂の肩に手をぽんと置いた。
「喪の期間も終えて、これから家を支えて生きていくお主に少しでも良きことがあれば、と思ってのう」
「お稲荷様は芸能上達、健康祈願なんかのご利益があるマロ……靂くんもお稲荷様でおいなりさんを上達! 健やか!になるマロ……!」
「え? ええ、と。わかりました。二人がそこまでお世話をしてくれるなんて……僕も真剣にお籠もりしようと思います」
「ぶふっ……真剣に、真剣にね」
「これ。笑うでない」
歌麿が小さく吹き出し、ニヤついた口元を手で隠した。
「それでは早速出掛けましょうか」
「いや、待つマロ! まずは服装!」
びしりと歌麿は手のひらを向けて靂を制止した。
「あそこのお稲荷様は、服装がぼろだと軽く見られてご利益が下がるマロ!」
「うむ。それもそうだのう。天爵堂のことだから、着ておらぬ良い着物の何着か箪笥にでも放り込んでおるのではないか? それに着替えるが良い」
「ふ、服装まで厳しい稲荷神社なんですか!?」
妙なところだなあ靂は頭を掻く。
基本的に彼は楽な着流しで過ごしているので滅多に正装などすることはない。
のそのそと背筋を丸めて、応対していた部屋の隅に置かれている箪笥へ向き直りながら声を上げた。
「お遊ー、茨ー、ちょっと来てくれー」
「はーい? どうしたー?」
「……」
靂が呼ぶと台所の方からひょこりとお遊と茨が顔を出して、廊下を歩いてきた。
「袴を着付けるんだけど、手伝ってくれないか」
「おー。雨次、どっか出かけるのかー?」
「ああ。ちょっと九郎さんと歌麿さんと一緒に神社にね。一晩泊まってくるから、今晩は留守を頼むよ」
「ふーん? 神社かー……お土産よろしくなー」
「……」
茨の方はじっと瞳を九郎に向けて、伺うようにしている。
騙そうとしている性根を見ぬかれそうな気がして、九郎は誤魔化すように笑った。
「安心せよ。己れがついていれば危ないことなど何もない」
「……」
「うむ。本当に。大丈夫」
「……」
「うっ……」
「兄さんが気まずそうに目を逸らした!」
「無言で疑われるのは苦手なのだ……!」
何十年か前、無口な知り合いの残していたプリンを勝手に食べてシラを切ったときなどひたすら無言で凝視されたことを思い出して、軽く怯んだ。
「茨ちゃん結ぶよー」
「……」
お遊から云われて茨は離れ、靂の袴を結ぶのを手伝った。
腰帯を巻いたり結び目を水平にしたり袴紐を帯に並べたりと、普段から全く着付けをしていない上に習ったわけでもない靂一人では袴も着れないのである。
「小唄だけ着付けの仕方を知っていて、何やら自慢気にしていたらあっという間にお遊と茨が覚えたことがあって」
「女に頼りっぱなしだのう」
「兄さん……いや、なんでもないマロ」
そうして靂が袴を身につけた。浪人身分とはいえ、武士は武士である。しかし月代を沿っておらず、軽く頭の上で結んでいるのですぐに浪人か儒学者とはわかるだろう。
一応刀も差して置く。武士の格好をしているのだから刀も必要だ。そろそろ体力づくりも効いてきて、刀の重さで腰が曲がるなどということは無くなったようだ。
「うむ。これで良いか」
「これなら行っても馬鹿にされないマロ。あんまりにも貧乏な身なりだと入り口で追い返されるかもしれないから」
「どんな神社ですかそれは」
「今頃はお祭りみたいな状態だから賑やかでいいところマロー」
言いながら、出かけようと玄関まで向かった。
靂は玄関先で振り向いて、見送りに出たお遊に告げる。
「明日帰ってくるから、戸締まりと火の元に気をつけるんだよ」
「もーわかってるよー。っていうかいつも戸締まりも火の元も気をつけてるの、あたしじゃーん」
「ははは、そうか」
家事は大体二人に任せているのだから今更ではあった。靂の家での役割は置物のようなものだ。
ふと思いついたように、お遊が靂を手招きした。
「? どうしたんだい」
何か話でもあるのかと顔を近づける。
と。
靂の唇をついばむように、お遊が口付けをした。
ぱちくりと目を開閉させて、靂は呆然とする。口を離して、お遊は「にへへっ」と笑みを浮かべた。
「おお」
「やった」
九郎と歌麿が拳を握り、突然の行動に感嘆の声を漏らす。
「離愛充爆発撃ィ──!!」
唐突に、何の前触れもなく大きな叫びが夕暮れ前の千駄ヶ谷に鳴り響く。
呆気に取られて皆の視線が向くと、近くの畑を耕している覆面の男──長次郎が怒りに震えながら鍬を地面に突き刺していた。
彼の正面の畑は災害でもあったかのように破壊されている。
「はあ……! はあ……! 離愛充への怒りで、畑を一畝(約99平方メートル)ほど消し飛ばしてしまったぜ……!」
離愛は恐らく仏教用語でいうところの離愛金剛から来ているのだろう。或いは単に魂の叫びかもしれない。
嫉妬心が爆発した哀れな忍びは、かといって少年少女の純愛を邪魔するほど邪悪でもないのだ。彼の怒りは大地に叩きつけられた。この大いなる星の質量は、そんな救われぬ者の嘆きも当然のように受け止めてくれる。
その偉大さに涙ぐみ、破壊した畑はまた明日から作りなおさないといけない手間に長次郎は嗚咽を漏らした。
これも彼がモテないのが悪いのだ。女が居ないのが悪いのだ。あのお花ですら長次郎の元には通っていなかったという残念な事実がある。
(何アレ……こわっ)
見ていた九郎達は一様に身を引いて、そそくさと三人はその場を離れ、お遊と茨は屋敷の玄関を閉ざした。
「……それにしても、お熱いことだのう。出かけるときはいつもアレか? 行ってらっしゃいのちゅーか」
「い、いえ。今日始めてで……お遊の奴も何を考えているのやら」
「かぁーっ、そりゃ近所の人も離愛充爆発しろって思うマロ」
妙な直感を覚えて、口付けをするという行動に出たお遊であったが。
一応は靂をどきどきさせる効果はあったようで、何度も口元に手を当てる彼の姿に九郎と歌麿はニヤニヤしていた。
*******
普段街をあまり歩かぬ靂からすれば、薄暗くなった街などどこをどう歩いているかイマイチ解らぬ。
とりあえず誤魔化す効果もあるだろうと、大川橋の近くにある屋台で酒を一杯引っ掛けていくことにした。
「いやあの、僕はあまり酒は……」
「稲荷神社に行くのだからお神酒のようなものだ。まったく呑めぬというわけでもあるまい」
「そうそう。あそこならぐっとお猪口から飲み干せば、あらよとばかりにお酒を注いでくれるマロよ」
「え? 誰が?」
「巫女さんが」
遊女はとりあえず巫女さんということで通す予定の二人であった。
いや、絶対バレることは百も承知なのだが。
遊郭の中に連れ込んだ段階までバレなければ後はどうとでもなると算段している。
酒で軽く体を温めて日本堤を進んだ。九郎も、女遊びをしないのならば酒を飲むしかないので酔いが覚めやすくなる疫病風装は脱いできているから酒が心地よかった。
この辺りに来ると人がごった返し、駕籠は忙しく行き来をして女郎屋の引き込みが声を掛けている。
吉原に入る金が無い者はこの日本堤の女郎屋で済ますことも多かったようだ。
「もう夕暮れなのに人が多いなあ……これ全部、神社のお籠もりの人ですか?」
「お籠もりが多いけど、最近はちょんの間で楽しむ参拝者も多いマロね」
「冷やかしの参拝者もそこそこ居るかものう」
「変わった神社だなあ……」
まだ信じている様子な靂を二人は面白がっているようだ。
「おお、鳥居が見えたぞ」
吉原の入り口、大門である。
「鳥居? あれは……門じゃないんですか? 赤くないですよ」
「ここの神社の鳥居は赤くないマロ」
「いやしかし稲荷神社は鳥居が赤いもので……これだけ参拝客の多い神社なら鳥居に使う朱を節約するなんてしないはずだけれど……それに鳥居に門番みたいなのが居ますよ?」
「細かいことを気にするでない。江戸だけで稲荷神社が幾つあると思っておるのだ? そこら辺を眺めればあるモノとして[伊勢屋、稲荷に犬の糞]と云うではないか。それだけ沢山稲荷神社があれば、変わったものもあるのだ」
「はあ……」
そう云われれば靂とて確証も無く、言われるままに大門をくぐって吉原に入った。
さて吉原。大通りを日本橋以上の人が行き交い、夕闇を照らすように道の端にはずらりと並んだ飾り灯籠が色鮮やかな光を浮かび上がらせている。
茶屋には笹が涼しげに飾られ、人々の着物の色も江戸で最も鮮やかで多種多様だ。傘持ちなどの連れと共にあるく遊女は何枚も重ね着をした高価な着物を見せびらかしているようであった。
香の匂いと三味線の音が立ち込め、異郷の如き雰囲気を出していた。
「お、お祭りの日なんですか?」
「そういえば今日は人が多いのう。歌麿、どうなのだ?」
「マローン。この灯籠を見て欲しいマロ」
歌麿は道に飾られた灯籠をポンと叩いて楽しそうに云う。その灯籠ですら華やかに飾りがついており、幾らするのか靂は想像もつかなかった。
「この神社はいま、[玉菊灯籠]の期間マロ!」
「玉菊……灯籠?」
「死んだ名妓……ええと、巫女さんの玉菊の霊を鎮めるためにこうして灯籠を飾っているマロ。で、7月の間は灯籠見物に普段は女人禁制なこの神社にも見物の女人が入れるので混雑してるマロ!」
享保の頃に吉原に居たとされる遊女、玉菊太夫のために行われる祭りであった。
若くして死んだ玉菊太夫は吉原でもその死に謎が多く、様々な噂が語られた為に幽霊として化けて出ないように、或いは玉菊がまた会いに来てくれるようにこうして祀っているという。
九郎は自分が居ない間に始まった風習に白目を剥いた。
「う、歌麿はどう思うのだ? この祭り」
「ほくそ笑む!」
「そうか……」
などと会話していると、徐々に顔に疑いの色が濃くなってきている靂が聞く。
「じゃあこの三味線の音は……」
「ああ、ええと弁天様も祀ってるマロ。だから三味線」
「稲荷神社で弁天様!?」
どうにかその二つを繋げて考えようと、ぶつぶつ靂が一人で呟きながら思案しているのを九郎と歌麿は引っ張って連れて行く。
予め話を通してある揚屋に入り、遣手という女将のような仕事をする三十過ぎの女と顔を合わせる。
「どうも歌麿です!」
「あらあら、いらっしゃい。ええと、どちらが噂の?」
「こっちの眼鏡の方が世話になる若旦那です! ほら靂くん。こちらは神社の巫女頭さん。挨拶を」
「巫女頭ですって」
照れたように笑う遣手の女。歌麿が既に金を渡して、これこれ云う堅物の少年を連れてくるので簡単な演技で話を合わせてくれと頼んでいたのだ。
案外にこの揚屋の浦里太夫という女が乗り気で「堅物で真面目少年の筆おろし!? 大好物でありんす!」と請け負ってくれたので遣手も含めて何名かは、嫌がるかもしれない靂を連れて来て相手をしてもらうことに承諾をしていた。
太夫はそのためにこの日他の客からの指名を完全に突っぱねて靂に備えているのである。かなり物好きなようで、吉原の女に詳しい歌麿が選ぶだけはあった。
靂は会釈をして名乗る。
「僕は千駄ヶ谷に住む浪人、新井靂卿です。今日はお籠もりのお世話になります」
「ぷふーッ」
「ああっ、巫女頭さんが耐え切れずに吹き出した!」
「何なのこの神社!?」
あまりに真面目くさった挨拶で、遣手は満面の笑みを浮かべて軽く腹を押さえた。
「ええ、ええ。これはもう、思ったより顔も可愛らしく……うちのお稲荷様が大喜びしますよ」
「は、はあ……?」
とりあえず揚屋の座敷に上がり、見世という普段遊女らが待っている場所から太夫が来るまで部屋で飲み食いでもして待つことになった。
遣手に連れられて二階の廊下を進む。かなり広い揚屋で、幾つも座敷が並んでいた。
しかしながら、予約のようなことはしていたとはいえ揚屋に来るのは彼らだけではない。
他の客が座敷で待っていれば当然、それに呼ばれた遊女も廊下を歩いていたりする。
横兵庫だとか立兵庫だとか文金だとか、靂が見たことも無いような髪型の簪を六本ばかりも挿し、豪奢な着物に室内だというのに派手な履物を履いてしゃなりしゃなりと歩いているのだ。
それを見て、流石に靂も気づいた。
「九郎さああああああん!! ここ神社じゃないよ!?」
「神社だよ。廊下で大声を出すでない靂」
「なんでここまで証拠揃ってて真顔で嘘を吐くのかな!? ここ吉原だよね!? 本で読んだことある!」
「百聞は一見にしかずというだろう」
「今まさに一見してるところだよ! 帰るぞ僕は! バカバカしい!」
「まあ待て靂。話を聞け。ほらこっちの座敷来て座って」
九郎は踵を返した靂の手を引っ張り、予約の座敷へと入った。
酷く不満そうに座る靂は唾を飛ばさんばかりに云う。
「どういうつもりですか! 僕をこんな、不埒なところに連れ込んで! 帰って本でも読んでたほうがマシだ!」
「落ち着け。良いか、別に厭らしいことをさせようとして吉原に案内したのではない。大体お主がどんな本を読んだか知らぬが、この店とて助平をするためだけのものではないと知っておったか? 知らぬだろう」
「ボクも始めて聞いた」
「しっ」
歌麿が笑いながら茶化す。
「既にメシ代は払ってしまったのだ。とりあえず、帰る帰らないは酒と肴を味わってからでもよかろう。吉原の女と会話するのも、お主の物語作りには役立つと思ってのことだったのだ。お主の何倍も様々な職業の者と言葉を交わしている女だぞ。得る知識も多いはずだ」
「ううっ……でも僕は、こういう職業の人が苦手で……母さんを思い出して」
「お主の母親がそうであったからこそ、苦手意識はいつか取り除かねばならないものだよ。よいか、酒と肴を食う。その後来るお主と話をしたがっている太夫と二人で話をする。そして帰る。どこに厭らしい要素が介入する余地があるものか」
「二人っきり、座敷の布団、何も起こらないはずはなく──!!」
「しっ」
ニヤニヤとしている歌麿の声を遮り、九郎は説得を行った。
「いや……それでも……お遊と茨が家で留守を待ってるのにそんなことは……僕だけでも帰って、九郎さん達が相手をしてくれれば……」
「自分一人だけ帰る? それは難しいぞ靂」
「え?」
「さっき鳥居と云った大門をくぐっただろう。大門には番人もおったな。あの髭面のいかにも怖そうな男だ。あやつらは出入りする者をじっくりと観察して吉原で怪しからぬことが起こらぬようにしておるのだ。
そこで、ついさっき三人組で入った男達のうち一人だけで吉原を抜け出ようとしたならば、『貴様怪しいやつだな!』と棒で袋叩きにあった挙句に縛られ晒し者にされるのだ」
「ええ!? この国の司法はどこに!?」
「(笑)」
歌麿は声も無く腹を抱えて俯いている。
「吉原は法の及ばぬところでな。三人で入ったならば三人で出るのが筋というものだ。だからお主一人だけではここから出ることもできぬ」
「そ、そんな恐ろしいところだったなんて……!」
「だからまあ、とにかく暫くは待て。太夫が来て、お主と座敷に行って会話をし、それでも帰りたいとなれば仕方ない。己れも歌麿も一緒に出てやる」
「……わかりました」
がくんと肩を落として溜息をつく靂である。
「こんなにがっかりと太夫を迎える客は初めて見たよ」
「大門怖いマロ」
笑いが堪えられない顔で遣手と歌麿は言い合った。
それから座敷に酒と肴が運ばれてきて、芸者衆もやってきて三味線をかき鳴らした。
場に慣れている歌麿がそれを盛り上げ、九郎も高い酒をカパカパと空けていくのだが。
「靂がお通夜モードすぎる……」
「こっち来て飲もうよ! 楽しいし美味しいマロよ!?」
壁に持たれてぐったりと虚空を眺めて居る靂には、豪華な宴会の席でも居心地の悪さしか感じていなかった。
手にはお猪口が持たれて、酒だけは舐めるようにちょろちょろと呑んでいる。
「何が楽しいんですか……歌麿さんはまだ十代なのに、九郎さんはうちの爺さんより年寄りだったのにこんなところに入り浸って……いいですか。孔子の弟子の顔回は狭い家に住み一盛りの飯とひょうたん一杯の水だけでも学問を尊び一生懸命勉強して生活していて、一番の弟子だったのに早死してしまったように、人の一生は儚く終わるかもしれないのだから悔いの残らぬように短い人生でも学ぶことが大事で……」
「悪い酔い方をしておるのう」
「女遊びで孔子の話題を出す人はそう居ないマロ」
そうしていると遣手の女がやってきた。
「浦里太夫の準備が整いましたのでお籠もりに連れて行きますね」
「やめてください! 孔子も女と小人は度し難いと云っている!」
「はいはい。そこら辺は太夫にどうぞ」
と、靂を引っ張って別の座敷に連れて行ったので九郎と歌麿も胸をなでおろした。
「叫びだして引き取ってくれとはならんかのう」
「大丈夫マロ。太夫ぐらいになると手管ですぐに丸め込むから。天爵堂のおじいさんぐらい偏屈ならまだしも、まだ若い靂くんはやり込められるマロ」
二人が話し合っていると、見世から太夫が連れてきた他の遊女も今日の仕事は終わり、明日は休みという状況なので変わった客に興味深いのか九郎と歌麿の座敷に何人か入ってきた。
「おこんやす」
「浦里姉さんのお相手のお連れさん? あちきらもどうなるか待っていようと思っているでありんす」
「おう。まあ飲め飲め。腹は減っておらぬか? 歌麿、食い物でも注文するか」
「いやー役得役得マロ」
綺麗どころの遊女に囲まれて歌麿は機嫌よく、幇間の一人に食事の膳を頼んだ。
様々な着物を纏った遊女らによって部屋がとても華やいでいる。
「えー、お兄さん何やってはりますのん?」
「色々だな。人から頼みごとをされて解決する仕事をやっておってな。今回のも、親心から頼まれたことだ」
「頼みごと? あら、お客から噂で聞いたことあるわー。お助け屋がおるって」
「ボクはその弟分として手伝ってるマロ!」
「歌麿さーん、今度あちきの絵を描いて金持ちに売ってきてよーう」
「今度と言わず今この場で描いてあげるマローさささっ首元緩めて見せて」
などと、葬式会場より暗かった靂がいなくなった途端に場は賑やかになっていく。
九郎も枯れていてさっぱり女を買おうという欲はないが、賑やかなところは嫌いではない。爺になってもお店で女の子にちやほやされるのはそれなりに楽しいものだ。
「どーん!」
と、声を出してあぐらを掻いている九郎の膝に、一人の遊女が無遠慮に座って抱きついてきて。
問答無用で九郎にほっぺたを引っ張られた。
「いひゃい!? 何このノータイムカウンター!?」
……その遊女は、髪の毛と眼の色が通常ではあり得ない虹色をしていたのだ。
眼鏡の奥の目に涙を浮かべながら九郎の手を外す、異世界の魔王ヨグ。遊女と似た分厚い着物を着て簪も挿しているが、どう見ても日本人ではないのがまるわかりである。
九郎は小脇に抱えて部屋の隅に持って行き、小声で話す。
「どこから湧いて出た」
「くーちゃんを座標にすればどこからでも来れるよ?」
「なんで出てきた」
「暇だったし……くーちゃんの様子見たらキャバクラで遊んでるみたいだったから、我混じっても大丈夫かなーって」
「目立つだろう」
「大丈夫! 認識阻害の道具を装備しているから! ほらあそこにイモータルも来てるし。今晩だけですぐ帰るからさあ」
九郎が離れた座に視線を戻すと、同じく遊女の格好をしたイモータルが持参した甘納豆をリズミカルに歌麿の口に詰め込んでいるところであった。
「む、むう……イモ子は結構似合っておるな」
元々黒髪で、肌色も白いイモータルはやたら姿勢が良いが和服がよく似合っている。メイド服以外の格好を見るのも新鮮なので、九郎の評価も甘くなるのだが。
「我は!?」
「沖縄の成人式に出てそう」
「和服纏った可能性の獣じゃん!?」
不満そうなヨグを連れて再び場に座った。
彼女は相変わらず九郎の膝に座って抱きついたまま、
「はい! それじゃ我の持ってきたお菓子[甘納豆]を皆食べてー!」
「納豆?」
「納豆なんてよう食べませんが……」
と、言いながらイモータルが小さな椀に小分けして遊女にも甘納豆を配る。
見たことのない菓子であった。江戸時代、甘納豆が作られたのは1800年に入ってからのことであり極めてシンプルな菓子ではあってもこの享保の時代では誰も口にしたことがないだろう。
恐る恐る、遊女の一人が口にして肩をビクリと跳ねさせた。
「甘い。美味しい……!」
その言葉で他の遊女も口にして、濃厚な甘みとほろりとした食感に舌鼓を打つのであった。
「そうか、甘納豆か。作れば売れるかのう」
「うんうん。製法もシンプルだしね。くーちゃんに教えてあげようと思って」
甘納豆は豆類を砂糖で煮詰めて、更に砂糖をまぶして乾燥させるだけの簡単なものだ。
紛らわしい名前だが発酵食品の納豆とは関係がない。この時代でも充分に作れるだろう。
ただし、
(簡単に作れるが故に価格競争になると原価がネックになるな……鹿屋に製法を売りつけるか)
砂糖というと薩摩から買わねばならないので江戸で作らせた場合は、鹿屋ならば他の店が真似をしても追いつけぬだろう。
「このフボッ遊女さんモモッ兄さんのモゴッ知り合いモゴゴッ?」
「ああ、まあな。と言うかイモ子。歌麿の口に甘納豆突っ込みすぎだ。喋れておらぬ」
「了解致しました。甘いモノが好きそうな雰囲気を致しておりましたので」
「ボクは女の人から食べさせてもらえるなら幾らでも食べるマロ~!」
嬉しそうに歌麿は云う。実際彼は甘いものが好きな方だ。
「くーちゃーん! 我にもあーんして食べさせてー!」
「イモ子。一番デカイ豆を」
「世界一大きな豆類[藻玉]で甘納豆を用意致しました」
シュバババと歌麿の口に甘納豆を放り込みながら、イモータルは九郎に言われたとおりの物を取り出して渡した。
「でかっ!? ちょっと何その手のひらぐらいの大きさの甘納豆!?」
「ほれヨグ。あーん」
「ふぐー!?」
「ちなみに藻玉は食用の豆ではないと解説致します」
「ふべー!? ペッペ!!」
吐き出す。涙目でヨグは九郎を睨んだ。
甘納豆のクールタイムで飲み込み、酒で口の中を洗い流した歌麿が云う。
「まったく。兄さんも子供みたいなことをするマロね」
「……ああ、たまにはな」
「兄さん?」
九郎は呆れたような顔をした歌麿の頭を撫でてやり、僅かに懐かしい気持ちに浸った。
歌麿は歌麿だが、イリシアの生まれ変わりでもある。
十年ほど前までは、九郎とヨグとイモータル、そしてイリシアで毎日こうして菓子などを食いながら堕落した生活をしていた。
イモータルの作った菓子を甘党のイリシアが次々に口に放り込んで、九郎に絡んできたヨグがあしらわれてイリシアが呆れる。
そうした日常の最後は、イモータルは消えてイリシアは死に、九郎は一人江戸に放り出されたのであったが。
(……またこうして集まることも、あったのう)
そう考えて彼は少しだけ目元を揉んだ。
「──くーちゃん、我はずっと見てるし、いつでも会えるよ」
ヨグはそう囁いて、九郎に顔を寄せた。
********
カナブンの夢を見て九郎が朝早くに目を覚まし、部屋に敷かれた温かい熱の残る布団を這い出た。
朝まで飲むつもりだったが、思ったより酒が回って酔ったらしい。イモータルが持ち込んだ、度数の高い酒が振るわれたのも原因だ。
微妙に寝不足気味であり、若干忌々しい気分でもある。二日酔いも珍しい。屋敷に戻ったら疫病風装を着て昼寝をすれば治るはずで、さっさと帰ろうと思った。
汗の匂いも残っていて風呂も浴びたい。とても微妙な顔で布団をもう一度振り返ってみてから、とりあえず部屋を出て歌麿の座敷へ行った。
「おはよう……お主のところは女郎が来なかったのか?」
「いやー、昨晩は似顔絵描きみたいだったマロ。次から次へと自分を描いてくれって子が集まって……助平どころじゃなかったマロ」
「そうか……大変だのう」
頭痛をこらえながら、九郎は水差しの水を飲み干す。
「おっ、甘納豆が残っておるな。包んで靂に持って帰らせるか」
「神社のお土産マロ」
「甘いものがあれば大抵誤魔化せるというものだ。さて、靂のやつを迎えに行くかのう。昨晩は騒ぎにはならなかったか?」
「いやー大人しいもので。逃げたら大門で捕まるってのが効いたのかな?」
「顔を青くしておったな……」
苦笑いを浮かべる。騙しては悪いので帰る段階で明かしてやろうと思った。
「ところで兄さん。昨日の兄さんの知り合いの二人は……」
「ん? いや。別に。何も。しておらぬが」
「なんでいきなり否定から始まるマロ……? 単に、どこか変わってるけど親しみ易い人たちだったなあって」
「そうか」
安心して九郎は歌麿を連れ、奥にある本座敷へと向かった。
太夫や花魁が使う豪華な部屋で、控えの間まで付いている座敷である。
九郎が軽く襖を叩いて中に声を掛けた。
「おーい、靂よ。起きておるか。そろそろ帰るぞ」
「……返事が無いマロね」
「あんまり踏み込みたくはないのだがのう。己れはさっさと帰って二度寝したい」
「ボクも眠いマロ……入るよー」
そろーっと歌麿が襖を開けると、頭まで掛け布団を被って何やら呻き声を上げている物体と、その隣で半裸の二十前後な美しい女──浦里太夫が眠そうに座っていた。
靂の尋常ならざる様子に、歌麿と九郎は心配そうに遊女へ顔を向けたが彼女は快活な笑みを浮かべ、無言でサムズアップした。
あれよこれよと太夫の手管で事を進めたのだが、寝て起きたことで正気に戻って色々と後悔しているのだろう。
「これ。帰るぞ靂よ。お主も帰りたい帰りたいと言っておっただろう」
「ぼ、ぼ、僕はなんて事を……」
布団の中で震えるばかりだ。とても童貞捨ててヒャッハーとは行かないようだ。
歌麿がひっそりと浦里太夫に聞く。
「どうだった?」
「超良かった」
「ぷぷぷ……良かったじゃないか靂くん。ここで一番お高くて腕のいい浦里の姉さんに褒められるなんて、自信を持つマロ自信を」
「僕はもう世間様に顔向けできない……!」
「女遊びした程度で顔向けできなかったら江戸の街なんぞ閑散としておる。ほれ、さっさと起きろ。服を着ろ」
「やめてください。引っぱり出さないください」
布団から顔だけ出して抵抗する靂。九郎は眠気によりかなり面倒くさそうである。
「浦里の姉さんも何か言ってやって欲しいマロ」
「うーん……布団から出ないなら、もう一勝負しとくれる?」
「え……あ……う……」
「悩むところか。見ろ歌麿。昨晩、孔子がどうの顔回がどうのと曰った男だぞ」
「呆れて物も言えないマロね。もうボクらだけ帰ろうか……」
一応、既に目的は果たしたと云えなくもないので九郎と歌麿は靂を置いて帰ろうかと、立ち上がり背中を見せると慌てたように靂が叫んだ。
「ちょっと! 二人だけじゃ帰れませんよ! 三人居ないと大門の門番に叩かれるんですからね!」
──流石に我慢できず爆笑したのは九郎と歌麿も悪いと思って、靂の機嫌が直るまで謝ることになったのだが。
******
靂が己にも殺意が生まれる時があると初めて知ったのは、母を切ったごろつきに復讐したとき。
二度目は嘘をつかれて吉原に連れてこられた挙句騙されて爆笑されたときだ。
それぐらいキレたのだが、なんとか宥められて三人で帰ることになった。
(騙したのは許しがたいけど、自発的には行えない体験をしたのも確かだ)
九郎の言葉によれば、あくまで靂の人生経験を深めさせる為に連れてきたのであって、方便として嘘をついたのだという。
物は言いようである。だが、確かにそこまで騙されなければ靂は途中で帰っていたであろうし、高いと噂の吉原など来ようとも思わなかっただろう。
悪いことばかりではなかった、とどうにか自分を納得させる靂であった。
「さて、帰って寝るか」
「いやーちょっと楽しかったマロ」
「二人から何か誘われたときは今後気をつけよう……」
思えば昔も、九郎に賭場へ連れて行かれた記憶があった。悪い遊びを教えてくる大人の典型である。
三人が廊下を歩いていると。
一階から、三人組の少女が上がってきて道を塞いだ。
目を細めて小刀を手に持っているお遊。縛り付ける縄を持っている茨。ただ只管笑顔が怖い小唄。
玉菊灯籠でこの時期だけ吉原に女も入ってこれるのだ──浮気の現場を見つけられた記録も残っている。
「スゥ───」
「ああっ兄さんが迷わず透明化して逃げようとしてる!」
「逃げるな九郎さん! あ、クソ! もう手が届かないどこかに逃げた!」
[隠形符]の効果を使って即座に消える九郎。
そのまま素早く正面に向かい、女三人を飛び越えて出ていこうとするが──
「ぐー」
と、唸り声のようなものをあげて茨が正確な動きで、見えない九郎に体当たりしてよろめいたところを縄で縛った。
ステルスが解除されて九郎は床に倒れたままキリッとした顔で云う。
「年長者からの助言だが……まずは話し合ったほうが良いぞ」
説得力がゼロだった。
藪入りで揚屋も休みなので、そのまま座敷を借りて男三人は正座で説教された。
「雨次いいいい! お前という奴は、その年からこういう店に入り浸ってまともな人生を送れると思っているのか!」
「こ、小唄……呼び名が昔に戻ってるから」
叱り飛ばすのは小唄だ。彼女は腕を組んで顔を恥ずかしさと怒りで若干赤くしながら靂に厳しく怒鳴る。
お遊は見える位置で小刀をちらつかせ、茨は無言で三人を指差していた。この無言で指を差されるのが無駄に圧力が強く、惨めな気分にさせられる。
「うるさい! お前なんか雨次で充分だ! 大体お前は稼ぎもろくに無いのに、家にお遊ちゃんと茨ちゃんを残して自分はお座敷遊びとは経済観念もどうかしている! 幾ら掛かったんだ!」
「く、九郎さんの奢りだったし……」
「九郎先生!!」
「折角だから全部使っちまうかと十両……」
「十両だぞ雨次!! お前の好きな本が百冊は買えるんだぞ! それを一晩で使うなど……大体、その、お前も年頃だから興味があるのはわかるが、他に方法があったはずだ! わかるか!?」
「そんなこと言っても……別に僕だって好きで来たわけでは……」
「口答えをしない! 私の質問に応えろ雨次! お金を使わずに、問題を解決する方法は!?」
「……小唄ちゃん勢いで何かまったく関係ないこと言わせようとしてないマロ?」
「歌麿さんは黙っていてくれ!」
疲れと眠気と酒精の残り、そして孫のような年下から叱られる精神的重圧で九郎は酷く疲れたような声を出した。
「のう……確かに女遊びは褒められたことではないし、靂も反省しておると思うのだが……お主ら、どこで己れ達が吉原に居ると聞いたのだ?」
「今朝うちの父さんが『九郎の奴があの小僧と吉原できゃっきゃってしたりうふふってしたり遊んでるぜ』と情報を流してくれて」
「わかった。後で甚八丸ぶっ殺してくる」
彼の策略であった。
女遊びの現場を娘に目撃させて幻滅させる作戦であろう。九郎はまんまと罪をなすりつけられたようだ。
ただしこの悪戯には、九郎が報復に来るところまでは考慮されていない。
「とにかく! いいか雨次!」
「何だよ……悪かったって」
小唄は不貞腐れたような顔の靂を引き寄せ、その頭を胸元で抱いた。
「……もうするなよ。茨ちゃんはお前の帰りを待って寝ていないそうなのだぞ」
「そうなのか……」
靂が茨を見ると、どこか疲れた目元にも見えた。
小唄にもお遊にも家族が居て、靂と離れて暮らしていたが。
茨が茨として暮らすようになってからは、ずっと彼と一緒だったのだ。不安にもなるだろう。
だが彼女は怒らないし、不平不満を口にはしない。だからこそ小唄は口喧しく言ってしまうのだ。彼女の分まで。
「ごめんな、茨」
「うー……」
「ありがとう、小唄」
「別に礼を言われることはしていない。大体、まだ説教は家でも続けるからな。それにお前は監視が必要なようだ」
小唄がそっぽ向きながら告げる。さり気なくストーカー案件を通そうとしているのはさすがである。
そしてお遊が──
正座した靂に屈んで、唇を軽く合わせた。
「──それじゃ、帰ろっか雨次ー。今日ぐらいはあたしもゆっくり雨次と過ごすぞー」
「ゆゆゆゆゆゆゆ、お遊ちゃん今の謎めいた行動は? 私の見間違い?」
「あれれー? ネズちゃんも疲れてるの? お屋敷に帰って昼寝しよー」
「……」
「い、いや待て! これは有耶無耶にしないぞ! 雨次もそこに直れ! 説明を要求する!」
再び説教が始まりそうな雰囲気に、九郎と歌麿はしんどそうな顔を向きあわせた。
「ダシにいちゃつかれたのう」
「僕らは退散するマロ」
「うむ。そうしよう。己れは怠いが甚八丸に効く唐辛子などを薬研堀で買いに行くから、ここでな」
「僕も知り合いの版元に顔を出してから帰るマロ……」
その後、甚八丸の褌が一つ残らず唐辛子漬けになった上に、小唄が靂の屋敷に入り浸り泊まることも多くなった。
ついでに靂も三人の幼馴染に対して、これまでになかった初々しい反応を見せる程度に情緒がついたのだが───
それはまた、別の話。
ヨグ「フーンフーンフフーン。どりゃああーびゅーんバビー! くーちゃんのーツンデレー! 」
イモ「魔王様があの日以来、照れやら恥ずかしさを隠すのに無理やりテンションを上げている判断致します」




