13話『町方岡引勤務要項/鹿屋の妖怪』
前半後半繋がり無く別々の掌編です
[町方岡引勤務要項]
「うらやまァ──ッ!!」
居間に膝をついて畳を何度も叩く、大の大人が駄々っ子のような仕草をしている同心の菅山利悟を九郎と、茶を運んできたスフィは気味悪そうに見ていた。
神楽坂の屋敷。その応接間でのことである。
部屋には九郎が大工に作らせたちゃぶ台が置かれている。ちゃぶ台が主に日本で使われるようになるのは明治期で、それまでは床に膳を置いて食っていたのだがどうも俯いて食いにくいと現代的な感覚で思った九郎がちゃぶ台を作らせたのだ。ただ彼が大工に金を払った覚えがないのに納入されていた。大工はもう代金は受け取ったというが、誰が払ったのか定かではないので少しばかりもやもやした。
余談だが、九郎がこの屋敷や緑のむじな亭の座敷などにもちゃぶ台風のテーブルを置いていることで、便利そうだと見て感じた一部の者たちの間には静かなちゃぶ台ブームが訪れて、主流ではないがちゃぶ台文化が早いうちから根付くことになる。
それはさておき、スフィが茶をちゃぶ台に置きながら首を傾げた。
「う、うらやま? なんじゃ? ああ、あれか。確かお伽話の載ってあった本の話かのー? ええとタイトルは[うらやま太郎]」
「欲しがりすぎるだろ」
「『うらやま太郎が浜辺に釣りに出かけると、子供たちが亀をいじめていました。それを見て云いました。「う、うらやま……!」』」
「誰だそんな本を読ませたのは。というか読めたのかスフィ」
「エルフはIQが高いからのー。[浦島太郎]の方もちゃんと読んだぞ。しかしあの話、鯛やヒラメの舞い踊りを見ながら鯛やヒラメのサシミを食う宴ってなんか凄く感じ悪くないかの」
「脅されて踊らされてるみたいだな」
異世界人なスフィがしっかりとこちらに馴染もうとしている姿勢をありがたく感じながら九郎はひとまず茶を啜った。何故か利悟がうらやま太郎みたいな顔でこちらを見ているのに、鬱陶し気な目線を返す。
利悟は苦々しい声で告げてくる。
「九郎! お前というやつは……! 美少女と楽しそうにおしゃべりしやがって……! 拙者にわけてくださいお願いします」
「なんだ面倒くさいなお主」
「前世でどういう徳を積んだらこんな美少女と同居してんだ! あと小石燕ちゃんまで! どんな特典だよ! 飢饉を救って神様にでも会って頼んだのか!」
「魔王様には会ったが……こいしつばめちゃんて」
小さい方の石燕だろう。家族以外には、石燕の従姉妹として紹介することにしている。
石燕が死んだ年と、小石燕の見た目年齢からして邪推されるのでその辺りはしっかり従姉妹だと言い含めなければならない。なにせ石燕が死んだのが四、五年前。小石燕の見た目が四歳か五歳。すると、石燕の実の娘ではないのか。死んだのは産後の肥立ちが悪かったのでは。じゃあその父親って誰だ……とまで言及されると九郎の立場がやばいからだ。
「クロー、こやつは? 確かこの前、托鉢に財布を突っ込んだ男じゃのー?」
「町奉行所……警察署みたいなところで働いておる男でな」
「菅山利悟です! 好みの女性は小さい子!」
びしりと背筋を伸ばして挨拶をする利悟。
「いきなりなんで好みの女性なんぞを自己紹介しておるのじゃ。というか小さいというと、背が低いとか……」
「いえ! 年の若い少女を!」
「……うわあロリコン?」
堂々と主張する利悟に、率直にスフィは云う。九郎は頷いて、「気をつけろよ」と告げる。
きらきらとした眼差しで彼は美少女を見ていて、思わず体を数寸ほど引くスフィである。
[良く馴染む]という効果のある耳飾りをつけているので、銀髪や木の葉のような長い耳、北欧人めいた顔立ちに関しては[そう見えない]というよりも[受け入れられる]と周りに見られているので、スフィの可愛らしい容姿自体が目を引くことには変わりはないのだ。
「うーみゅ、個人の趣味嗜好にはあんまりケチを付けたくないのじゃが、私はクローのアレじゃからな」
具体的に関係が何かだと云おうとすると、本当のことを云うには情けないし嘘を云うには忌避感があるので適当にぼやかしてスフィは云う。
だがそれでも十分だったようで、利悟は取り乱した。
「九郎お前ーっ! こんな小さい子をなーっ! アレでなーっ! ゆるさーん!!」
「泣きながら怒鳴るな。というか年の若い少女をなんつったら、スフィは範囲外であろう。こやつは己れより年上だぞ」
「……ま、またまた~」
一瞬動揺して動きを止めた利悟であるが、笑い飛ばそうとする。
九郎は適当に、相手が納得しそうなことを考えて云う。
「スフィはううむ、仙女とかそういう類の女でな。年を殆ど取らぬのだ。見た目は十幾つかだが、もう150年は生きておる」
「そのうち50年以上はクローと一緒に居たのじゃよー」
「……本当に?」
荒唐無稽というかもしれないが、江戸の時代では仙人どころか亡霊の嫁やら狐の嫁やら怪奇な話には事欠かなかったのだ。
おまけに目の前にいる少年は、どこまで本当かは不明だが百歳ほどだという。そう説明されている江戸の知り合い達も、百歳が嘘だとしても見た目通りの年齢ではなく老人めいていることは誰もが認めているのだ。
年齢不詳の少年が連れてきた年齢不詳の少女。それならば、実際の年齢がいかほどか知れたものではない。
利悟は暫く言葉の真偽を脳内会議して、やがて確認するように神妙な顔で九郎に聞いた。
「……つまり、九郎はその……拙者でも際際いけそうな少年姿で成長を止めていて、拙者の超好みな上に成長しない美少女とこれまで何十年も、そしてこれからも暮らしていく……と」
「微妙に事情のズレはあるが……」
正確には九郎が子供の体になってからはあまり一緒に居なかったのだ。一旦老人になり若返ってからは長いこと旅生活で、時々会う程度だった。
「……まずお前が己れをギリギリセーフだと思っていたことに殺意が浮かぶ」
ゴキブリを見た時のような嫌悪感を覚えた。早く潰さねばならないが、なるたけ近寄りたくない。そんな感じだ。
この時代では陰間趣味は珍しくなかったとはいえ自分がそう云う風に見られるとさすがに九郎も気色悪い。
とりあえず子孫も残せたようだし去勢でもしてやろうかと九郎が考えていると、利悟は頭を抱えてごろごろと畳を転がり始めた。
「ずるいずるい! 普通幼馴染なんて一緒に年食っておっさんとババアになるだけなのに、少年少女のままずっと一緒だなんて! そりゃ拙者だって瑞葉が十年前と変わってなければ狂喜乱舞するよ! 祖霊を祀って仏に感謝してキリシタンにでもなるよ!」
「祖霊も仏もキリストも、まったくお主が不老になるのには手を貸さんと思うが」
「まー気にするでない。長命種がよく受ける謗りのテンプレみたいなもんじゃよ」
スフィは慣れたようにひらひらと手を振って九郎に云う。
ペナルカンドでも人型の種族としてはエルフ・オークが長命で有名であり、他の短命な種族から羨ましがられることも多かったのだ。
なお不死者の類は肉体の寿命が無いが魂が摩耗していくのでその殆どはエルフほど長くは生きられないという。中には一万年以上生きている暗黒魔道士の吸血鬼も居たが、ほぼボケていた。
「恨みの力よおおおおお……! 今世では無理でも、来世の魂を九郎の因果に近づけて拙者もお稚児の充実を……! 生まれ変わってでも九郎に絡んで子供といちゃついてやる……!」
「変な呪いを掛けるな!」
危うく来世にまで呪ってきそうな利悟の雰囲気に九郎はアダマンハリセンを取り出して、彼の頭で快音を立てた。
妙な身震いすら感じた。なにせ、魔女の生まれ変わりという存在がいるのだ。知り合いの稚児趣味が生まれ変わらないとは限らない──
「うん? どうしたのじゃクロー」
「いや……とても嫌な未来視が見えた気がしてな……」
そういえば石燕の持っていた未来視の魔眼はどこに行ったのだろうなあと益体もないことが浮かんだが、それはともかく。
「で、今日はお主、何の用だったかのう?」
「正式に同心の岡引としての説明だよ。普通、こういうのって九郎の方を呼びつけるものなんだけど……」
「まあいいではないか。奉行所よりこっちの方が涼しいし」
江戸唯一の氷結符付き屋敷であり、当時の人の感じたことのない室内外の温度差は、軽く驚きを通り越して怖がられるほどではあった。
なにせ涼しい説明として「青い人魂を天井裏に入れておくと涼しくなる」と臆面もなく云っているので鳥山石燕の妖怪屋敷ということも相まって、入った者の背筋のみではなく肝まで冷やす。
噂を気にしてか利悟も天井の方を気にしていた。
「……とにかく、小者にするか岡引にするか詮議されたけど一応岡引にしておいたから」
「小者と岡引はどう違うのだ?」
「まあ……大雑把に分ければ、小者は給金が出て岡引は出ない」
「タダ働きか……」
九郎の場合は未遂とはいえ食中毒を引き起こした罪を見逃してもらったという面倒くさい立場なのであまり強く請求は出来ない。
なお、物の本や記述によると[小者][岡引][下引]の分類方法がバラバラで、どれが最も正しいとは断言しにくい。二百五十年も続いた江戸なのだから時代によって役割や職名が変化もしたのだろう。
なのでこの江戸の場合では、
・小者:給料が出る同心の部下。町の協力者というより同心の家に奉公人として雇われる形。
・岡引:給料が出ない同心の部下。逮捕や盗賊の発見などの協力した場合、礼金が渡される。大体、嫁などが働いて生活費を稼いでいる。
・下引:岡引の部下。普段は別の仕事をしている。これを持つと岡引もでかい顔ができる。
のように扱われる。
「小者になると、十手も渡されるんだけどその代わり拙者の長屋で暮らすことになる」
「うわそれは嫌だな。よいよい。手伝ってやるから岡引で十分だ」
「すごい偉そうな部下ができた……!」
「む? 今更そう云うのを気にするのか……何ならお主を大名相手のように扱ってやろうか。これでもいざというときのために歌麿から喋り方を教えられたことがある」
誰にでも──大名にすらそういう喋り方をしているので今更ではあるが。
なおペナルカンド世界では仰々しい敬語はあまり使われなかったので、スフィが物珍しそうに聞いてみた。
「ほほー。クロー、どんなのじゃ?」
「うむ。大体は単語の前に[お]を付けて、最後に[たてまつります]みたいな語尾にすれば良いと聞いた」
「つまり?」
「おったてまつります」
「下ネタかよ!!」
スフィと利悟から同時にツッコミが入る。九郎は笑いながら肩をすくめる。
「歌麿が教えてくることはだいたいシモだ。そういえば、十手といえば影兵衛から貰ったのがあるからあれでいいか」
「……一応、火付盗賊改方では岡引を使っちゃいけない規則があるんだけど……」
「ヒツケトーゾク何たらというのはクローの悪そうな友達の居る方じゃな。なんでそっちは民間の部下を禁止しとるのかえ?」
「それはねスフィ様」
「様付け!?」
「ばかっ! 九郎! 少女だけど相手は年上だから様付けして呼ぶ絶好の潮時だ! 彼女は拙者のババ様になってくれるかもしれない女性なんだ!」
「ちょっと面白いやつじゃな……」
態度をコロコロと変えている利悟にスフィは小さく笑いながら湯のみへ茶を注いでやった。
「色々理由はあるんだけど、火付盗賊改方はやりたい放題斬りたい放題な特権的立場なんだ。容疑者を斬り殺しても状況にもよるけど殆ど問題にならないのが一番やばい。そんな特権を、そこらの町人や元罪人に関わらせるわけにはいかない。町方は基本的に生け捕りだからいいけど」
「ほえー……」
「同じような仕事をしているように思うかもしれないけど、町奉行所は文官、火盗改メは武官ということだね。まあ手が足りないから、非公式には密偵を向こうも使ってるんだけど」
「ふむ……では町方では己れを連れて数名で盗賊の根城に侵入して暴れ放題な仕事は無い、と?」
「そんなことやらせてたの」
利悟が別部署の所業に白目を剥いた。
「岡引の仕事は情報収集と報告まで。九郎の担当は神楽坂近辺だけでいいけど、九郎はあちこちで事件を見つけるからなあ」
うんうんと頷いてスフィが同意した。
「事件体質じゃな。ほれ、随分昔には皆を連れて旅行とか出かけておったじゃろ」
「三十四十の頃か」
九郎が傭兵団から役場騎士団などで働いていた頃である。
「クローをどこかに連れて行くと吊橋が落ちて帰れなくなったり、田舎の村に不釣り合いな館を見つけたり、土地に伝わる不気味な童歌があったり、過去に惨劇があったことが語り出されたり、第一の犠牲者がだいたい団長だったり……」
「ちょっと待て! それはオーク神父のせいだろ! というかそれ全部一連の事件だ!」
「お主ら二人がつるんだら事件が起きると傭兵仲間では笑い話じゃった」
ここ数年、オーク神父とも久しぶりに仲間として活動していたのだがその際もやはり事件続きであったようにスフィは懐かしく思った。
まだ居世界の仲間と別れて数ヶ月と経っていないのだが、随分昔に感じたのだ。
「……ともかく、他所で事件と関わってそこの岡引と揉め事にならないように鑑札を渡しておくから」
「この札を見せれば良いのだな」
町奉行の許可印が入った木札を受け取る。
「それと町方の管轄はあくまで江戸市中だから、街道筋の宿場町から先の事件は報告しないでいい」
「というと……どのあたりだったか」
「南は品川、北は千住、西は新宿以降は町方の管轄外で勘定奉行の役目になる。火付盗賊改方はそんな管轄をぶっちぎって盗賊を探しだして襲いかかるから影兵衛さんに通報するように」
「お役所仕事だのう」
「この範囲だけでも大変なんだからね!? お奉行様なんて毎日二刻ぐらいしか寝てない仕事漬けだから死んじゃうって!」
町方の仕事は主に訴訟沙汰の裁判だが、治安維持や盗賊逮捕、火消し、養生所の運営、橋や土木など公共工事の手配、町名主などの支配など非常に多岐にわたる。
それらの書類の認証だけでも大変な中、毎日江戸城に行かねばならない上に火事が起きたら夜中でも出動することもある町奉行は非常な激務であったという。
「とにかく、事件の種を見つけたらお主に報告すればいいのだろう? 空から鮫が降ってきた……とか」
「そんなの報告されても困るんですけど!?」
「薩摩武士が奇声を発している……とか」
「武士のことは町方じゃなくて目付けの仕事だから止めて!」
「そこで放火してるやつが居たぞ。ああほら今ぼうぼう燃えてる火事の……とか」
「その場で止めろよ!」
利悟は肩で息をして大きく咳払いをしながら僅かに目線を逸らして云う。
「……ところで町奉行所では大岡様が出した令で、当事者間で解決できる民事問題はなるべく奉行所に持ち込まずに当事者間で決着を付けるように、という御触れがあったんだ」
「ふむ」
「だから九郎が見つけた事件で、九郎の裁量で解決できる町人同士の喧嘩や商売なんかの問題は、九郎が解決してくれていいから」
「お助け屋じゃったっけか? よかったのークロー。権力のお墨付きがもらえたぞ」
「利悟……お主実は仕事持ち込まれたくないのだろう」
「ベッ別に拙者はそんなこと……あっ! 子供に関係してる事件ならバンバン持ち込んでくれよな!」
露骨に話を終わらせようとしている利悟である。
「そうなのかのー? 警察なんて手柄を上げて出世を狙うものじゃなかろーか」
「己れが影兵衛から聞いた話では同心与力は出世しないのだそうだ」
「そうか。それじゃーやる気も出なかろー」
「い、いや拙者ちゃんと仕事してるし……ただこれ以上仕事増えると子供との触れ合いの時間が減るし……」
「おまわりさーん!」
「はい」
「くっ……」
まあこの場合触れ合う子供は自分の子供のことであるのだが。
気色悪い妄想はして声掛け案件までは起こすものの、彼は手は出さないセーフな男である。
「ま、クローがいつも通りして時々面倒な事件だったらとっしーに教えればいいのじゃろ」
「とっしー!? いきなりアダ名を呼び合う関係に深まりました!? よっしゃ! 拙者よっしゃ!」
「うわーウザいのーこやつ」
「キツイこと云われた! もう拙者死ぬ! ババ様ァー! 拙者の腸を十字に割いて取り出すので許してくだされー!!」
「ええい、ほれ飴ちゃんでもやるから黙っておれ」
あまりに感情が瞬間湯沸し器の如くハイになる利悟へ面倒くさそうにスフィがちゃぶ台の上に置かれた黒砂糖飴を一粒取って握らせてやった。
150歳を越えたスフィからすれば、二十代半ばの利悟など子供のようなものである。
喜んで受け取った利悟は飴を口に放り込んで、ちゅぱちゅぱとねぶりながら真摯な視線をスフィの手に向けていた。
その異様な雰囲気に九郎が渋面を作りながら尋ねる。
「な、何をしておるのだ利悟」
「ところで九郎。最近、この屋敷で握り飯を作ったことがあったかな」
「握り飯なら朝に炊いた残りを、スフィとお八が頑張って作っておったが」
石燕と豊房は絵を描くのに墨や顔料を使って手に染みている場合があるのであまり素手を料理には使わず、夕鶴は性格からやけに大きな握り飯を作るのであった。
日本料理に早く慣れたいスフィがお八から指導を受けて、熱い飯を頑張って丸めて昼飯の用意をしていたのを覚えている。
その光景を思い出して、九郎はハッと気づいた。
「まさかお主……!」
「握り飯をババ様が握る。指に必ず米粒が付くのでそれを自分の口に入れる。つまりババ様の指にはつばがついていた。それが乾いたり手ぬぐいで拭われたりしていても、ごく少量のつば成分があることは確かだ。その指で握った飴にも極々僅かにつばに触れたのと同じ状態であると云える。つまり! この飴をしゃぶるということはババ様のつばをしゃぶるのと同じ───!!」
「気色悪いわァ──!!」
九郎のアダマンハリセンがすくい上げるような打撃を放ち、空中にぶっ飛ばされて両手両足を広げたまま半回転して頭から床に落ちる利悟であった。
だが、彼はとても満足している表情だった……
「ゆ、指を舐めた後でも握り飯は作っておったし……それを食ったクローと、か、か、間接ちっすしたってことじゃなかろーか!?」
スフィはスフィでダメになっていた。
**********
[鹿屋の妖怪]
神楽坂にある鳥山石燕の屋敷には、時折九郎に頼み事を持ち込んでくる客がやってくる。
助屋九郎。看板を掲げているわけではないが、誰が呼んだかそういう呼び名もある。暇を持て余していて、生活費に不思議と困らない九郎が頼みごとを聞いて、助言や手伝いをしてやるという趣味のような仕事であった。
儲けはまちまちで、調査費が掛からないことで依頼者にけちをするつもりが無いのならば大根を報酬に仕事を受けたりする。その分、責任も然程取らないことは予め告げておくが。
更にここが鳥山石燕の屋敷であるというので、怪談関連の事件に関してはよく持ち込まれるのである……
「妖怪画から妖怪が出てきた?」
とある日にやってきた客から聞いて、応対をしていた九郎と豊房は並んで目を丸くした。
客と云っても見知った顔である。でっぷりとした恰幅の良い男で、薩摩商人の鹿屋黒右衛門であった。
屋敷を訪ねてきた時はまた薩摩問題が起きたかと九郎も思ったのだが、意外な相談だ。
「妖怪画っていうとアレよね。わたしが肉筆画で描いた妖怪[山姫]よね」
「え、ええ。鳥山石燕先生にお願いして頂いたあの山姫です」
「山姫? とはどういう妖怪なのだ」
九郎の質問に豊房はふふんと胸を張って解説をする。その仕草や得意げな顔は師匠にそっくりだな、と九郎も苦笑しながら聞いた。
「山姫ってのは全国的に出没する妖怪で、その名の通り山に出てくる姫様みたいな美しい女性の姿をしているわ」
「薩摩では[山サァの姫]とも云われてまして」
「ふむ……男ばかりの登山サークルに入って人間関係をぐちゃぐちゃにする女部員みたいだな」
山サーの姫。勿論それは関係ない。
「山の中で美女が出てくるってだけで異様よね。だって異様だもの。問答無用で猟師が山姫を射殺した話もあるぐらいよ」
「容赦無いな!」
「山姫に会うと血を吸われたり精力を吸われたりするの。だから危険な妖怪よね」
「ふむ……それで?」
「?」
九郎の促す言葉に豊房は首を傾げた。
「いや……何かこう、その正体はチュパカブラだ!とか第5の力だよ!とか……そういう考察が石燕ならあるのだがと──うわ、すまぬ。頬を膨らせて怒るなフサ子!」
「どうせお姉ちゃんより知識が無いのよ。ふんだ。血を吸われたんだからヒルか何かじゃない?」
「悪かった。だがそう云うのを考えておくのも、妖怪絵師としては大事だぞ」
「むー……」
豊房も痛いところを突かれたとは思っているのだろう。彼女が見せている不満気な表情は、まだ半人前の[鳥山石燕]としての自分に向けられている。
無論、先代の石燕が考察していること全てがそれらしいものばかりではないのだが。九郎も半分は眉に唾をつけて聞いていたぐらいで。
気弱げな黒右衛門の声が差し込まれる。
「あのー」
「ああ、すまぬ。山姫の絵な。そもそもなんでそんなものを」
「うちの男衆にある程度女慣れしてもらおうと、それでいて話だけは知ってる薩摩にも出る女妖怪の絵を見てまず恥ずかしがらないようにさせようかと思いましてな」
「絵で恥ずかしがるのか」
「屋敷の開け放った部屋に飾ってみたところ、廊下をそわそわと往復する姿が見えたり、こっそり中を覗いて絵を眺めたり、まじまじと見た若い丁稚を助平男といじめてみたり」
「男子小学生か」
「いえ、これも鳥山先生の肉筆が素晴らしい出来なこともありまして。要件を話した上で、普段の妖怪画とは異なった画風で美人画の要素も取り入れ、官能的でありながらぞっとするような絵は大変素晴らしく……」
「ふむ。で、それが動いたと」
黒右衛門は頷いた。
彼が説明するところ、夜中に店の用心棒であるさつまもんが行灯を手に廊下を歩いていた。
山姫の絵が置かれている間は常に開け放たれているのだが、その夜は閉ざされていたのだという。
男は妖怪も女も苦手であった。どこか得体のしれないのは同じだし、女は穢らわしいものだと教育されている。
さて、彼は閉ざされている部屋の前に立ち止まった。
おかしいな、誰かが閉ざしたのだろうか。昨日の晩もその前の晩も開いていたはずなのに。
そう思った彼は、嫌な気配を感じながらもそっと障子を開けていく。
すぐ目の前には正面を向いている山姫の掛け軸絵が掛かっているはずだった。
だが、彼の目に入ったのは行灯の光の照り返しを受けている白い背中であった。
長い髪を垂らして。上半身は殆ど裸の女が絵と向い合って立っていて──ゆっくりと振り向いて、白い歯を見せて嗤った。
「ちぇええええええい!」
突然叫んだ黒右衛門に、九郎と豊房はびくっと背筋を震わせる。
「──と、用心棒先生は叫んで卒倒してしまいました。その声に驚いた店の者が駆けつけたときには出てきた山姫の姿はなく……」
「頼りない用心棒だのう」
「本人は、怯えたのではなく穢らわしいものを見たので目を逸らしただけだと証言しておりますが、まあ察しましょう」
「見間違いとかじゃないの?」
「いえ、それで店の者が部屋を改めたときに……この長い髪の毛が出てきたのです」
紙に包んだ一本の毛髪をちゃぶ台の上に出して見せた。
「お主の嫁などが入った際に落ちたとか……」
「私の妻は心労からか、めっきり髪の毛を白くしてしまっていまして……」
「そうか……それは大変だのう」
「どうも夢の中で自分がさつまもんに入れ替わるという悪夢にうなされることが多いそうで」
「それは怖いのう」
「ショセキバンで出番を奪われたとかどうとか」
「それは知らんが」
話を髪の毛に戻して、
「今のところ店にこの長さの髪の毛をしている女中もおりませんのでまさに怪奇。その夜以降、自分も見たという者が次々に現れまして……」
「ほう……」
「おまけにその後も、他のさつまもん達が藩邸からもやってくるようになりうちの店は肝試しの場と化してしまっております! 九郎殿! どうか事件を解決してくだされ!」
「ああ……それが迷惑なのだな」
毎晩薩摩人が押しかけてくる店。
しかも大の大人が肝試しをしようものならば飲酒率は百%。更に妖怪を見ただの見てないだので奇声を発し、時には暴れることもあるだろう。
「わたしが描いた絵がそんなことになってるなんて。わたしのせいじゃないけど、やるしかないわね」
自分の胸を軽く叩いて豊房が名乗りを上げた。
「そうだのう。解決できるかどうかはともかく、やってみるか」
「うん。ちゃんと九郎は何か危ないことがあったら守ってよね」
「わかっておる。ところで妖怪の知識参考に、石燕も連れて行くか?」
こういう妖怪関連はいつも石燕と一緒に行っていたものだが、と九郎は当然のように提案した。
豊房は心底意外そうに、そして慌てて否定をする。
「え。それはダメよ。だってダメだもの」
「どうしてだ?」
「……妖怪が絵から出てくるのは夜中なんでしょ。だったら、先生は起きていられないわ。夜五ツ(午後八時ぐらい)にはもう眠るもの」
「ああ、確かに」
「お八姉さんは怖いのダメ。夕鶴さんと将翁さんはお仕事がある。スフィさんは……うーん、あんまり巻き込むのってどうかと思うのよね。わたしの仕事だもの。わたしの仕事を手伝ってくれる九郎がいるなら、無理に夜更かしが必要な仕事に参加させることもないわ。違うかしら」
「まあ……そうだな。それなら己れとお主の二人で探りに行くとするか」
「そうよ。それがいいの」
何やら結論に満足したように、豊房はにこりと笑みを浮かべた。
その二人の様子を見ていた黒右衛門は「うーむ」と悩ましげに、
「夫婦仲睦まじいですなあ」
というので九郎はすぐ否定した。
「いや、夫婦ではないから」
「おや違うので? 九郎殿が嫁を二人ばかり取ったと風の噂で」
「まあ当たらかずとも遠からじなの」
「つまり当たっておらぬということだから」
「なんでしたら、うちの姪も嫁にどうです。純粋なさつま娘ですよ」
「さつまモン娘のいる日常はちょっと」
九郎の脳内で全身を墨絵で描いたような迫力満点な目の光っているさつまもん(スカート装備)が剣を蜻蛉に構えて毎朝庭の立ち木を殴りつけている図が想像された。
いや、黒右衛門の姪など見たことはないので想像上のさつまモン娘なのだが。
そうこうして、九郎と豊房は家族に泊まりがけになるかもしれないと説明して鹿屋の事件解決へ動き出すのであった。
日本橋の鹿屋へとやってきて、顔なじみの店員との挨拶もそこそこに奥へと通される。
豊房が描いた山姫のある間だ。障子は爆ぜたように壊れていて、鴨居や柱は斬りつけたような跡が残されている現場であった。何度も肝試しが来る度に、錯乱したさつまもんに破壊されたのだろう。
部屋に入って九郎は初めて、豊房──二代鳥山石燕の描いた山姫を見た。
「む……これは上手いのう。絵に疎い己れでもわかる」
「ふふん」
「美人画のような表情でありながら、異様に伸びて広がった髪の毛は物の怪のようであるし、背景の山とは馴染まぬ薄着は確かにこんなのに出会ったら妖怪の類だと思うのう」
「そうでしょ。想像としては、大人の先生を裸にひん剥いて山に投げ捨ててきた感じで描いたの」
「……ああ、そんな感じそんな感じ。微妙に表情に哀れさが見えるのも」
酷い作者と評価者であった。
それはさておき、掛け軸に描かれた絵は大きなものだ。五尺はある絵の中に、等身大とは云わないが大きく山姫の絵が描かれている。
豊房が妖怪の特性を説明したとおり、怖さというよりも奇妙さを描き出した雰囲気だった。初見では美人の色っぽい絵なのだが、不協和音のようにじっくりと鑑賞していると現実がずれていくような不思議な感覚に陥る。
「確かに、今にも動き出しそうな絵だのう」
「本当に動いたのかしら。動かれたら困るわね。だって絵から妖怪が出てくる絵師なんて、割りと迷惑だもの」
「そりゃあなあ」
「この前落書きで描いたけどどこかに紛失した銀河皇帝が実体化していたらこの宇宙の危機よ」
「そこまではならんと思うが。というか何だ銀河皇帝って」
適当に言い合いながら、掛け軸の裏を開けてみたりしたが特におかしな点は見つからなかった。
「夜までまだ少し時間があるわね」
「ここの従業員に聞きこみをしてみるか。何かわかるかもしれん」
店に寝泊まりする従業員や薩摩藩の者などから話を聞くことにした結果、様々な事実が判明した。
まず目撃証言が分かれていた。概ね、絵そのままの女が現れたというものだが一部ではもっと若い女だったという。
殆どの場合は目撃者は気を失うか、急いで逃げているので実際に絵から出てきた妖怪に触れたりした者は居ない。
豪胆な者が泊まり込みで部屋の前に座り込んで一夜を明かしたときは出てこなかった。
店の者の中には気味が悪いので供養か処分を望む者も居るが、黒右衛門は二十両も払ったので置いておきたい。
「……妖怪画を買っといて気味が悪いだなんて難癖を付けられたらたまらないわ。九郎。これは私に対する挑戦よ」
「そ、そうか……ふむ、しかし分かったことといえば、本当にここでは[絵の山姫]は現れたものとされているということぐらいか。これだけ証言が多ければ、皆が信じている状態だ」
「もう一つ分かったことがあるわ」
「なんだ?」
「ここのお店の女中さんが山姫の正体じゃないわね。ここで働いている人は、聞いた話だと若い女を入れると男達の調子が悪くなるから既婚者を雇ってるの」
「……?」
九郎はいまいちピンと来なかったが、豊房が続けて云う。
「わからない? 最初の目撃者の証言で、『白い歯を見せて嗤った』ってあったじゃない。人妻はお歯黒をつけてるから白い歯じゃないもの」
「そんなお主、今更お歯黒をつけてるとかつけてないとか……初めて設定に出てきたぞ!?」
「なんのことかしら」
豊房は遠い目をした。彼女も今更感があることは否めない。
江戸では人妻はお歯黒をつけて眉を剃り、髷も既婚女性独特のものにする為にひと目でわかったらしい。
ただ現代的な目線で見ると歯が真っ黒で眉毛がないとか怖いので、殆どどの時代劇でも採用されていない。
「お雪も石燕も子興なども全然お歯黒付けてないし、眉も剃ってないであろう」
「それはそう云う趣味なのよ。似合わないからしないだけなのだわ。わたしもしないけど。とにかく、この御店で働く女の人は歯が真っ黒だったわ。あれじゃあ、この部屋で妖怪のふりをしても白い歯には見えないの」
かなり薄暗くなった夕暮れが部屋に差し込んできて、山姫の絵が赤く染まる頃合いだった。
「……とにかく今日はこの部屋で番をしてみましょう」
「そうだな。飯の用意を頼むか」
二人は掛け軸のある間に並んで座り、妖怪が出るのを待つことにした。
中には心配したのか、
「九郎ドン本気じゃっどかあああああ!?」
「声を立ててくぃたらすぐに太刀を持って駆けつけっどおおおお!!」
「おいは火縄じゃあああ!」
などと叫ぶさつまもんも居た。それだけ妖怪は恐れられているのである。
暫くすれば飯桶を持っている十四か五ぐらいの若い丁稚が入ってきた。小袖に前掛けをしていて、頭に手拭いを巻いている。
「どんぞ。九郎どん方ぁ来るってきーさりちょって、昼っから作っておいた寿司じゃっどー」
勢い良く言葉を激高したように吐き出すさつまもんらとは違って、柔らかい口調でやや間延びした声なのでまだ意味は通じやすい薩摩弁であった。
「寿司?」
と、九郎が飯桶を受け取る。江戸ではまだ酢もそこそこに高級品で、酢飯を使った寿司などは殆ど出されていない。
以前に九郎が教えた稲荷寿司の店は、コストを考えて工夫し酢飯の代わりにおからを油揚げで包んだ稲荷を出すようになっているがこれはこれで旨い。
飯桶の蓋を開けると、ふわりと醸された匂いが立ち上った。
しかし熟れ鮨のような強烈な発酵臭と、変質した米粒ではない。桶の中にはしっかりと形を保った飯があり、海鮮ちらしのように魚の漬けが混ざっている。
「おお、なんだ美味そうだのう」
「お酒の匂いがするの」
「薩摩ん寿司は、酒を混ぜて作っとー。島津ん殿様がうまかー云うて広めた方法じゃ」
薩摩の[酒寿司]という料理であった。
焼酎がまだ作られていない頃からある、地酒を使った半なれ寿司だ。
簡単に云えば寿司飯を作るのに、酢と砂糖ではなく酒と塩を混ぜ込み、その中に魚介類を入れて酒の作用で急速に発酵させた寿司であった。
米もまだ十分に食べれる程度の発酵なので、まさに海鮮ちらしのような見た目で出来上がるのだ。
「むう……醤油を垂らさずとも塩味が効いているな。魚の旨味も増しいている。初めて食うがいけるぞ」
「あら本当に美味しいわね。鮨っていうとお米の部分がグズグズなのが多いけれど、これは食べごたえがあるわ」
「そいはよかったとー。おいも作った甲斐があったどー」
「お主が作ったのか? 上手なものだ。味付けが実に絶妙だのう」
丁稚の者が行灯を用意している間にも、二人は飯桶からお代わりを続けて夕食に舌鼓を打っていた。
そして。
「むふー……いい? 九郎。聞きなさい。ちゃんとわたしだって山姫について考察したのよ。だって九郎が先生と比べるんだもの。仕方ないわよね。ほら、ちゃんと褒めなさい」
「酔っ払っとる!」
酒寿司はその名の通り──子供が食べ過ぎると酔うのである。
幾ら悪い姉の真似をして普段から酒を呑んでいるとはいえ十五、六歳の娘だ。満腹感と同時に襲い掛かってくる酩酊感で、すっかり気分がよくなってしまっていた。
「──だから、血を吸うってのは実際のところ血を交えるとかそう云う意味なの。精を奪うはそのままね。知ってるわ。だって習ったもの。最近仕入れた体の仕組みの知識で、多くの疑問が氷解したもの。というわけで山姫は山から山へと移動する山窩の民が、他所の血を引き入れるために女を使って土地土地の男を誘ってるのよ。日本中に同じような話があるのも、山窩が日本中居るし移動していることと関係があるのだわ。他にも妖怪山童なんかも女を攫う山妖怪だけど、これも性別を逆転させた同じことだと考えれば──」
「ああ、うむ。うむ。そうだのう」
「そうなのよ! 九郎! わたしもうむのよ! うめるんだからね! ちゃんと勉強したんだから! えへへ」
「話が飛んでおる……」
あぐらを掻いた九郎の膝に頭を載せて、袖や襟元を引っ張りながら豊房は九郎に絡んでいた。
早口でまくし立てたかと思うと何か照れたように笑い、完全に酔っぱらいの所業であった。
他に誰も居ないのも九郎への絡みが加速している理由かもしれない。
「それよりフサ子。絵から妖怪が出てくることに関しては、そういう妖怪がおるのか?」
「うーん……画霊ってのはいるけど、これは絵自体が付喪神になった霊よね。わたしの絵はそんなに長いこと念を受けてるわけじゃないし。絵自体が動く話はあるけど、絵の内容が実体化ねえ……」
「屏風の虎退治とか」
「出せてないじゃない。ま、でもしかし絵は心を映す鏡だというの。わたしの心を写して描いた絵だもの。出てくるのも、そんなに悪いものではないわ」
「そう云うものかのう」
九郎が絵を見上げると、行灯の光以外真っ暗になった室内に浮かびあがる山姫の絵は一層に雰囲気が出て見えた。
「……わたしの絵が悪いんじゃないもの」
もう一度呟く豊房の声は、どこか怯えた響きを出していた。
「頑張って、描いたんだから。お姉ちゃんみたいに、笑いながら何でもできるわけじゃないもの。ずっと頑張って、勉強もして、頑張っているのに……」
彼女はすこしばかり、潔癖な仕事を求めてしまう癖があるのだろう。それが故に、絵が訳の分からない状態になっているという苦情のようなものが来て弱っている。
今度は泣き上戸か。九郎は珍しく感情のブレが激しい少女の額に手を当てながら云う。
「大丈夫だ。不安になるな。お主の努力はちゃんと実るよ」
「……本当に?」
「ああ。己れが保証する」
「……ありがと」
そうして、目を閉じて暫くし呼吸が落ち着いて静かに眠る豊房を見て九郎は大きく息を吐いた。
まだ小さい時から、大人びようと張り詰めた努力をする娘だった。
それが時々緩んで、頼る相手が九郎であったのだ。
実の父親に泣きつけば彼は必要以上に心配をして仕事にも手がつかなくなってしまう。
そんな際に、兄代わりのような彼が居た。その相手に少なからず好意を抱くのは当然の関係ではあるが。
「……初恋をこじらせておるだけだと思うのだがなあ」
小さくそうつぶやくと、『それは何も悪いことでないと判断致します』と書かれた看板を持った、アホ毛の生えた薩摩芋のきぐるみが廊下から二人を見ていた。
暗いところで見るとぎょっとする造形なそれを九郎はジト目で見た。
「ええと、ここから若い女の妖怪が出たり消えたりすると聞いてきたのが、イモ子ではなかったのか?」
尋ねると、ふるふると全身を横に揺さぶった。
九郎はてっきり、薩摩のきぐるみを隠れ蓑にしているイモータルが異世界から出現するポイントがこの辺りになっていて、それを見て妖怪だと勘違いしたのだと思っていたが。
それだけ応えるとイモはスタスタと何処かへ歩き去っていく。
(とすれば妖怪は一体……)
そう考えていた九郎だったが。
夜半も周り、店中が静まり返った頃合いにその妖怪は訪れた。
「よかすか」
あたりを伺うように部屋に入ってきたのは、酒寿司を持ってきた丁稚の少年だ。
九郎は部屋の隅に豊房を寝かせて、一人でまんじりともせずに過ごしていたところだったが。
「なんだ?」
「妖怪のことじゃけんども」
「……お主か?」
「へえ。つまりはこげんこって」
丁稚は小さい風呂敷の中から、長い髪の毛の鬘を取り出して見せた。
そして頭の手拭いを外すとベリーショートに近いとても結えないような短髪で、頭に鬘を載せて糸で固定すれば長髪の女へと変わった。
更に小袖を肌蹴て脱ぎ、胸に巻いていた晒布を外すと押しつぶされていた乳房がたゆんと存在を主張したのには九郎も驚いた。
丁稚の小僧だと思っていた相手は、女だったのだ。
まだ年若いからお歯黒などもしていないのだろう。声変わりをしていないかと思って、豊房も彼女に気づかなかったらしい。
「他ん男んしぃを惑わさんようにち黒右衛門さぁから云われ、髪ん毛をみじこう切って胸も隠して男ん格好しちょったけどよう。
こん絵をば見てっと、おいもこういう女らしい姿にも成りたか思うて、小遣いで鬘を買ってきてこうして目の前で服を脱いで女の姿に成ってみてたとよ。
そしたら見つかって大騒ぎになり、今更名乗りも出れんで、どげんすっか思うちょったんでよか風にお願いもす」
「う、うーむ? ちょっと待て」
九郎はゆっくりと意味を膾炙して事情を把握しようと務めた。
つまり。
このさつまモン娘は意図的に店主から男装をさせられてここで働いていたのだが、豊房の描いた色気のある女の絵に見惚れて、自分も鬘を買って同じような格好してみようとこの部屋で実行したところを用心棒に見られて今回の騒動の発端になった。
今更それを言ったら罰が与えられるに違いないのでどうにかして欲しい。
「──ということだな」
「じゃっど」
「しかし目撃例が何度もあるのは?」
「おいがやったのは一回限りじゃ。後は幻でも見たんじゃなかか」
「ふむ……あり得るな」
妖怪が出た!と噂される絵の前に夜中訪れる。恐らくは殆どの肝試し参加者は酒も飲んでいただろう。アルコールの酩酊と、恐怖からくる錯覚。暗い中で僅かな灯りに照らされる、不可思議な感覚に陥らせる山姫の絵を見れば妙なものが見えたと感じてもおかしくはない。
最初のみが本物の絵から出てきた者で、後は目撃者の恐怖心から生まれた妖怪。
「これも立派な妖怪案件ではあるのう」
「どげんすっと」
「まあ、原因さえわかったのだから『妖怪は退治した、もう出てこない』と言って本当に出てこなければ収束するだろう。しかしそれよりもお主だ」
「おい?」
「女らしい格好をしたいのにこの店じゃできんとなると多少不憫だのう。奉公先を変えるのはどうだ? 黒右衛門に交渉してみるが。うちの屋敷でふりかけを作っておる女が居てな。そろそろ人を増やしたいと言っておったが」
男の奉公人ならば、手代となり暖簾分けを目指すものだが女ならばそうは行かない。
いつまでも短髪で男装では嫁の貰い手も無くなりそうなものだ。
「黒右衛門さぁがよかち云うなら、おいもよかが」
「そうか。まあ一応聞いてみよう」
九郎は肌蹴たままのさつまモン娘の小袖を掴んで、着なおさせてやる。
「ともあれこれで、妖怪退治終了だ。豊房は寝たまんまだったがのう」
「起きたら云うちくり。先生の絵が良か絵じゃったから、おいが妖怪になったちな」
「そうだな。励みになるかもしれん」
──こうして、絵からは二度と妖怪山姫は現れることは無くなった。
絵は人の心を写すもの。
それは作者の心であり、絵を見た者の心である。
絵に魅せられた妖怪が妖怪を産み、その実体は本物になっていったのである……
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翌日。鹿屋黒右衛門にはすっかり事情を話して、さつまモン娘の待遇改善か別の就職先を紹介した。
そうすると彼は快く夕鶴のわかめしそ作りの手伝いに使ってくれと太鼓判を押してくれた。
大店から個人営業の店へと移るのに、一応は提案したがそんなにあっさりといいのかと思ったが。
「九郎殿。さすがですな。いらないと云っておきながら私の姪っ子を囲い込むとは」
「あれお主の姪かよ……ちゃんとしてやれよ……」
「いや姪だからこそ、変な虫がつかないようにしておったのです」
「あと囲い込んで無えからな。ちゃんとそっちの婿はそっちで探せ」
「えー……」
「なんで不満そうなんだ。まったく。頼むぞ」
微妙に罠に掛けられた感があった九郎であった……




