10話『稚児趣味は二度死ぬ/鳥山石燕妖怪記『一本だたら』/ズル狐』
「──ここか。なるほど、事件の匂いがプンプンする」
それは比喩ではなく、実際に鼻を鳴らして男は目の前の現場を見つめた。
視線の先にあるのは屋敷だ。門はないが、作りは新しく中々に立派なところであった。少なくとも、彼の住む同心の組屋敷よりは。
す、と鼻孔から匂いを感じ取る。
目の前の屋敷には幼児特有の乳臭さと、アポクリン汗腺の未発達な薄い汗の匂いがある。体がまだ小さい子供は汗腺の具合も違い、匂いが大人とはまったく異なる。つまりは子供ならば脇をペロペロしても平気だ。彼はそう知識として知っていた。実行したことはないが。いや、別に実行してもいいのだ。幼女の脇をペロペロするぐらい何が罪であろうか。暴力を振るう(考えるだけで悍ましい!)わけでもなく、体に無理をさせるわけでもない。例えばあのクソ犬を連れた稚児趣味の風上にも置けぬ同心・小山内伯太郎などは偶然か野生の行動と見せかけ犬をけしかけさせ幼女の股間に犬の顔を突っ込ませたりペロペロしてくすぐり悶える幼女を見て興奮している知能犯だが、それを考えれば犬がペロペロするのも拙者がペロペロするのもまったくもって幼女に対する状態は変わらないわけだ。何ならペロった後丁寧に布で拭い洗ってもいい。そう考えれば犬よりも上等なぐらいである。ああ幼女にペロペロしたい。嫌がられるのではなく冗談めかして喜ばれつつ。つまり犬になれれば。くそう。どうして拙者は犬ではないのだ。それにしても日差しが暑い。なんだって日差しが目に掛かるんだ。はあ、はあ。しかしペロペロは難しいとしてもこないだ無垢な幼女の頭を撫でる機会があったけど良かった……!尊い……!やはり最高だな。ドヤ顔で同心の拙者に褒めて貰えている幼女の髪の毛さっらさら。もうね。たまりませんわ。」
「おい……なんかあそこで一人ブツブツ云ってる奴が居るぞ」
「根来寺から坊主でも連れてくるか?」
「射殺してもらおうか……」
途中から溢れ出る思考が駄々漏れになり口走っていた男を、気味が悪そうに通行人が見ていた。
血走った目で幼女がどうとか、間違いなく不審者である。
「一人……いや、二人か。情報通りだ」
ごくり、と息を呑む。期待とか色々他のものとかを膨らませて、男──菅山利悟は僅かに浮かんだ汗を拭った。
同心・菅山利悟。
町奉行所の方で、九郎とコンビを組んで仕事をすることがあった見廻り同心である。
彼は九郎が江戸の街に戻ってきたという話を聞き、会いに行こうかと思いつつも後回しにしていたのだが──
同僚である小山内伯太郎から新たな情報が回ってきた。
彼の元飼い犬である[明石]が九郎らの住む屋敷では番犬をしているのだが、時折勝手に散歩をして伯太郎のところにも顔を出すのだ。
そこでの報告──犬から報告ってなんだと思いつつ、町奉行所では伯太郎が犬と会話するのは有名である──によれば、屋敷には九郎が旅先から連れてきた少女と幼女が住むことになったらしい。
伯太郎の方は現在、十二歳の少女と交際をしている(およそ伯太郎は相手が十三歳ぐらいになれば諭して別れ次の相手を探すという、一瞬のきらめきを追い求め続ける真性である)ので確認には行けていないということだったが。
「九郎も人が悪い。幼女を連れてきたなら教えてくれてもいいものを……! フフウフウ」
息も荒く、頬を両手で押さえてニヤつく顔を矯正しようとしている。
「どんな子かな。ひょっとしたら拙者の母になってくれるような、小さいくて母性ある幼女じゃないかなフフウフフウ。そもそも幼女に母性と云っても色々種類があるものだけれど、自分が理想の母を演じて自分よりも大きい相手である男を甘やかすという奇妙さに楽しさを覚える幼女が増えてもおかしくはない。普通の年増母と幼女おかーさんの違いはやはり現実感だよな。年増は現実が見えてしまっているから素直に全開で甘やかせない。収入のこと。子供のこと。老後のこと。両親の介護。家事の疲れ。老いていく体。それらを見てしまっている。一方で幼女おかーさんはそれらを気にすることはない。男を甘やかしつつ、それ以外の全ては庇護される。ただ甘やかすと好意を返されるという純粋な関係がそこにはある。疲れたよおかーさん。いいのよ、頑張ったわね。息子はまあ今のところ可愛いけど嫁との関係がつらいよおかーさん。今日は甘えていいのよ。酒を呑んだとき嫁についおかーさん的な存在が欲しいとか漏らしたら、嫁が歌麿くんから性の助言貰ってきておかーさん風な甘やかしをしてきて泣きたくなったよ。泣いてもいいのよ。何が悲しくて年増の嫁に授乳をされないといけないんだ……うあああ!」
一人二役で路上にて大変気色の悪い寸劇をしていた利悟である。
殆どサイコだ。
稚児趣味であるのだが洗脳・説教・外堀埋葬の三段攻撃にて陥落させられ、二つ年下の幼馴染と祝言を上げてからもう四年以上になる。
美少女、美少年でしか興奮しない難儀な性癖を催眠術で歪められ、ついに彼からすれば年増である甲斐甲斐しい嫁と子作りまでしてしまった辺りで精神が若干不安定になっているのだろう。
なお年増というがまだ嫁の瑞葉は二十代前半であるし、多少感情表現が不器用だが同僚が羨む美人である。
精神の不安定さから来る主な症状としては独り言が増えた。それに伴い、通報されることも多くなった。
「僧兵さん! こっちです!」
「仏敵殺すダブツ」
「寺に連れて行って石を抱かせ説教するダブツ」
あまりに見かねた通行人が近くの寺から長い棒を持っている僧を六人も連れてきた。
一糸乱れぬ動きで近寄ってくる、杖術用の重たい七尺棒を構えた筋骨隆々な男らを見て、
「まずい!」
と、利悟は咄嗟に逃げる体勢に入ったのだが。
そんな彼を、屋敷の庭からやってきた番犬の明石が膝を真横から体当たりをして転ばせる。
「犬ェ──!!」
怨嗟の叫びを上げながら這い逃げるが、やおら僧兵に追いつかれて首根っこを捕まれ持ち上げられた。
そしてまじまじと利悟の顔を見る。
立てば稚児趣味座れば犯行、歩く姿は淫行条例と言われる利悟であるが。
どういうわけかネジ曲がった性癖が容姿に表れないので、それなりに精悍な若者の顔立ちをしている。月代や髭もつるりと剃っていて、見栄えが良いのだ。
僧らは顔を見合わせて、頷いた。
そして利悟の肩を叩いて、
「君、良い肉体してるね。下駄組に入らないか?」
「ダブツ」
[下駄組]というのは隠語で、男色をすることである。下に駄という漢字の連なりから、特に[受け]の男性を示した。
[下駄を預ける]という言葉の意味は相手に全てを委ねるということだが、それも男色的な意味合いが元はあったという。
「ひっ!? ちょ、待て! 拙者をどこに連れて行くつもりだああああ!?」
「これは僧として悩む衆生の者に説教を行うために寺に向かうだけで深い意味は無い」
「苦情は寺社奉行を通してからにしてもらおうか」
「うあああ! たすけっ助けて! 助けてー! 幼女おかーさーん!!」
引きずられながら屈強な僧らに連れられて、利悟は屋敷の前から去っていく……
そして、ひょこりと屋敷の玄関からスフィが顔を出してきょろきょろと見回した。
「なんか変な声が聞こえたのじゃが、うちじゃなかったのかのー?」
「ぶふっ」
無愛想な顔で吹き出すようないつもの鳴き声を出す明石が近寄って、首をゆるく振った。
「おお。明石よ。門番ご苦労なのじゃよ。よしよし」
しゃがんで筋肉質な中型犬の頭を撫で回す。
微妙に毛並みに皮脂が付いている手触りで、スフィは撫で回した手のひらを嗅いで「うっ」と犬臭さに顔を顰める。
「……今日は暑いし、お主をタライで洗ってやろーかのー」
「ぶふっ」
「石鹸が無いのが難点じゃな。今度作るかの」
──その日、屋敷の庭で大きなタライを使い犬と水浴びをしているスフィが見れたのだが。
寺に連れ込まれた利悟がそれを知る由はなかった。
********
[助屋九郎]
という名前は、実際の店ではないが江戸の一部で噂される存在であった。
彼に頼むと売れない店が儲けるようになった、仇討ちを手伝った、悪徳の無頼を叩きのめした、好いている相手と祝言を取りまとめてくれた、火事から人を助けたなどなど。
世話になった者がそこかしこに居て、九郎という存在が江戸で語られるようになりつつあるが、実在しているにも関わらずその正体に関しては様々に怪奇を含み、さながら都市伝説のようですらあった。
曰く、己の背丈ほとの刀を持った少年だ。いや見上げるような大きな青年だ。空を飛んでいたから天狗だ。仙術を使う仙人だなどと好き勝手に語られ、それ故に曖昧模糊になっているのだという。
後に九郎天狗などと呼ばれることになるが、それはさておき九郎が江戸に戻ってきての依頼者が現れた。
最初、その女を見たときに九郎は相手が誰だかわからなかった。
日に焼けた肌で伝法肌の顔つき、髪の毛を切り前髪にしてじれった結びで雑に纏めている。単衣を素肌に着ている姿は涼しげだが、町人の女というにはあまりにさっぱりとした格好だった。
農家の姐さん、といった風なやたらと決まった姿に見えた彼女と玄関で会って、
(はてどこかで見たことがあるような)
と、九郎が首をかしげていると不思議そうに女は云った。
「何をジロジロ見ているんだい?」
「ああ、いや。はじめまして?」
「そういや化粧を取った姿は見せていなかった……ええと、ちょっと待って」
女は言うと左褄を取る──左裾を右手で軽くたくし上げて、左手を懐に入れる格好をして身を僅かによじった。
芸者の娘がする仕草で、表情も慣れた媚び顔にすれば粋の良い活発な印象の女が、一気にむせ返るような色気を帯びているようになった。
「ようお出でなんし、旦那様。妾も今日はあがりじゃ。ゆっくりいまんせ?」
よく通る綺麗な声でそう言われて、九郎はピンと来た。
「お主、紫太夫か。わからんかった。健康的になったのう」
「うふふ、毎日土いじりしてりゃこうもなりんす。今の妾はただの農家の嫁、紫ちゃんじゃ」
くすくすと笑う女は紫太夫──吉原で最高位の太夫にまでなって、すっかり借金は払い終えたので仕事を辞した女である。
歌麿が小さい頃から世話になっていた姉貴分でもあり、九郎は何度か彼の近況を報告するためなどで彼女の元に足を運ぶことがあった。
そこで会うときは、紫太夫は肌を白粉で塗り髪には無数の珊瑚や瑠璃のついた簪を付け、羅紗や緋色の着物を重ね着していたのでこのような蓮っ葉な姐さんといった風貌からは、目つき程度しか共通点が見当たらないのも当然だ。
「常連なんだ……」
「九郎くんは私からのお小遣いで吉原に通うことに定評があったからね……」
冷やかすように九郎の背後から豊房と石燕がひそひそと言い合うが、ばっさりと九郎は言い返した。
「もはや一々突っ込まぬからな」
「何せ突っ込まれたのは妾の方で」
「お主も乗るな。まあ、とにかく上がって茶でも呑むが良い。外は暑かったろう」
とりあえず紫を招き入れ、応接間として使っている玄関近くの部屋へ入る。
屋敷の中は九郎の術符で気温が二十五度程度に保たれていて快適なので紫はきょろきょろと見回すほどだ。洞窟の中にでも入ったかのような涼しさがあった。
スフィなどは「冷房は体に悪いぞ」と無茶をする老人のようなことを云いながら外に出たりするのだが。庭からはタライで犬と水浴びをしている声が聞こえた。
夕鶴に持ってきて貰った番茶も冷たく、使っている水が旨いので上等の部類だ。
く、と喉を鳴らして茶を飲み干して紫は気持ちよさそうに息を吐いた。
「はぁー……この屋敷は涼しい。なんぞ、小川でも通っているのかや?」
「ここはかの妖怪絵師鳥山石燕の屋敷だからのう。背筋が涼しくなる青い人魂を屋根裏に飼っているので夏でも涼しいのだ」
「……ま、まさか~」
「確か、鎌倉あたりではよくある冷やし方だぞ」
九郎は適当に説明する。術符を使っているというよりは、妖怪が冷やしているというほうがわかりやすいし面倒が無い。
紫は素直に奇妙な感心をするやらで天井を見上げている。事情を知っている女衆は「どんな魔境よ鎌倉」などとヒソヒソ言い合っていた。
「ところで吉原を抜けて目黒かどこかに嫁いだと歌麿に聞いておったが」
「そうとも。さんざっぱら吉原で使った体だけど、それでも良いって昔馴染みが居てね。うちの旦那、浮気だけはしない性分だからそれ以外多くは望まないさ」
「まあ……吉原にお主を買いに来て引き取ろうとする助平親爺では浮気どころの話ではないからのう。しっかり知っておる相手ならばよいが」
云いながら、九郎は意識のスイッチを切り替えて僅かに赤くなった目で紫の体を見た。
口などの粘膜周辺の病原菌を確認し、厄介な性病などは残っていないことに安堵する。以前に江戸の毒をある程度消した際にしっかり彼女の住居も範囲に入っていたようだ。目黒は現代で云う目黒区の区分よりも昔はかなり広かったので、念の為であった。
「タマにも時々会いに行くんだけど、やっぱり姉離れができてないのか色々と複雑な顔をしてくれるよ。しっかりお祝いは貰ったけど」
「時間が解決するであろう。あやつももう大人だしな」
「ほんとに。あの小さかった子供が立派になってるんだもんねえ……お嫁とか探してやらないと」
「お主から紹介されると色々傷つくから」
「なんならうちの娘が大きくなったらとか」
「余計傷つくから」
九郎的にも、歌麿には早いところ嫁をあてがってやりたいところではある。
なんというか生来の助平心と見た目の良さでこのままでは女を食い散らかしては金をせびる男の敵になりかねない可能性を抱えているのだ。
弟分を、娘であるイリシアの生まれ変わりをそんなザ・人間のクズにしてはいけない。
「それはそうと、今日は何の用だ? 茶飲み話でも歓迎するが」
「ああ、そうだった。いやね、九郎の旦那はほら江戸の怪事件やらを解決するのが趣味なんしょ?」
「別に趣味ではないが……とにかく話を聞こうか」
紫は頷いて告げる。
「妖怪が出るって話があるんだよ」
「ほほう……それは確かに……己れら向きか?」
居住まいを正して九郎の左右に出てくる豊房と石燕。
部屋の隅で話を聞いていたお八は「げ」と嫌そうな声をあげる。彼女は妖怪や幽霊が大の苦手だ。
そそくさと、六天流の道場へ向かうことにした。新しく入った小唄をしごくのが先輩としての役目であると言い訳がましいことを思いながら。
「北沢のあたりでは赤松が良く植えてあってね、毎年松茸が取れるわけさ」
「松茸。そりゃあいいのう」
九郎はあまりまともに食べたことがないが、素直にそう思った。
一応中国産なら食べたことがある。ただそれは若いころに手伝った商売品の余りであって、鮮度も悪かったので大した味ではなかった。中国産の松茸を『売出し中 国産マツタケ5000円!!』というポップを付けて産地偽装し売るギリギリな仕事であったが。
江戸でも庶民の味でありながら、将軍御用達の「松茸様」と云う護衛付き駕籠で運ぶものまであって、身分を問わぬ人気の食材である。
若干時期的には早い気もするが、江戸当時の気候条件ならば今ぐらいの時期に生えていてもおかしくはない。
「土地の者も楽しみにしていてね。北沢あたりは人口も少ないから取り合いになることもないし。それで今年も取りに行こうという話になったのだけれど……出たんだよ、化け物が」
「化け物……?」
「まず出会ったのは目黒に住むおかみさんでね。松茸を取りに行ったら、地響きを聞いたっていうんだ。すわ地震かと木の根っ子にしがみついたんだけど、どうもそれは足音みたいだ。恐ろしくなって頭を下げていたら、ばん、ばんって木を殴りつけるような音も聞こえてくる。
山の物の怪相手には呼びかけたり場所を教えたりしちゃいけない。連れて行かれるから。そう聞いていたおかみさんは口を押さえて、籠を被って慌てて逃げたそうな。
で、逃げる途中に見たものは……固い岩で殴って折ったみたいになった太い松の木と、熊よりも大きな足跡。そして逃げる背中にはやっぱりまたどん、どんって足音が聞こえてくる。
決して振り向かないようにおかみさんは逃げて、目黒の古老に話をしたのだけど……」
と、そのときに石燕が身を乗り出して告げた。
「はいそこまで!」
「ええ!?」
「ふふふこの妖怪たちが夏を刺激するのを待ち構えていた私には、その妖怪の形が読めたよ! そして豊房──いや、鳥山石燕!」
「なによう」
「鳥山石燕を名乗る君ならば当然ながらこれまでの話で、どんな妖怪か判別できただろうね?」
「うぐっ……」
言葉に詰まる豊房。
彼女の妖怪知識は主に、先代である石燕の描いた妖怪図と又聞きした話、そして書物から得た知識によるものだ。
しかしながらやはりときには旅をして妖怪探しに怪談集めを行っていたアラサー先代には知識量で劣る。
本格的に妖怪絵を描き始めてまだ五年ほどなのだから仕方ないものはあるのだけれども──負けず嫌いな豊房は筆と紙を取り出して、妖怪図を描いて見せた。
そこにあるのは──手足と妙に冷めたジト目のついた巨大なキノコが拳を振り上げている場面である。
「ま、[松茸大将]よ。迂闊に近づくと黄金の右拳が飛んできて殴り殺される危険な妖怪だわ」
「そんな堕悪なやつじゃないよ!」
適当すぎる妖怪を出したことに、石燕はやれやれと肩をすくめた。
「まったく。改めてよく考えてみたまえ。山の中で出会う妖かし。音や足跡で存在を示す。近くに松林がある。おまけに北沢の近くには有名な妖怪の名がついた場所があるだろう」
「北沢……ええと……あっ! だいだらぼっちの足跡があるの!」
だいだらぼっち。
神話級の妖怪であり、一説には国造りの神が一柱だとも言われている巨人である。
日本全国にその逸話が残っており、彼が地面を削って作った湖や盛って作った山、体を洗った海や川などが九州から東北地方まで存在する。
江戸近郊に置いてはその足跡があり、その周囲の地名を「代田村」と呼ばれていた。現代でも代田橋という名が残っている、そこである。
「私も見に行ったが、大きさは百間(約180m)はありそうな窪地がかの大巨人の足跡だという。だいだらぼっちの伝説が残る場所に出没する山の妖怪となれば特定は容易い。北沢あたりに出た妖怪は──[一本だたら]だろうね」
確認するように紫へと視線を向けると、彼女は饒舌に語りだしている幼女に驚きつつも頷いた。
確かに土地の古老に確認を取ったところ、一本だたらが現れては危険なので山に入らぬようにと言われ村中に通達があったのだ。
音で驚いて逃げるまではまだ良い。
その姿を見たとき、取って殺されるのだという。
九郎が頭に妖怪の姿を思い浮かべながら尋ねる。
「一本だたらというと……あの片足で一つ目の妖怪か。ビックリドッキリメカみたいな」
「そうね。熊野とか飛騨あたりの妖怪だわ。特に果ての二十日──忌日である十二月の二十日に山に入ると襲われることから、山の神の一種と目されているわね。確かに……特徴としては、大きな音で人を脅かしたり、足跡が残っていたりするの」
「ふむ……それが何故、だいだらぼっちと関係が?」
石燕は解説を始めた。
「一本だたらは山の神と言われているが、その名からたたら製鉄と関係がありそうだということも知られているね? 炉をじっと見つめて、鑪を踏み続けていると片目片足を悪くする──その姿だという」
「それは知ってるわ。確か神話の神様でも似た姿のが居るもの」
「一方でだいだらぼっちも[だいだら]はたたらのことではないかと推測される。
この場合は日本全国に出没していたことから、移動して製鉄技術を伝えていた技術者集団のことを神話的解釈でだいだらぼっちになったのではないだろうか。
山を崩した、川を掘ったという伝説は砂鉄の調査、採集を行う際の比喩だったかもしれない。
巨人という姿についても──そうだね、見越し入道は知っているね? 入道雲の妖怪とも云うが、条件さえ揃えば雲であろうが巨人妖怪として見られることがあった。
一方で製鉄に関しては作業に於いて薪や炭を燃やし続けることはざらで、その煙が常に立ち上っているのが遠くから見れば白い巨人が立ち尽くしているように見えたからかもしれないね」
一度石燕は茶で喉を潤した。子供になって若干言葉が舌足らずになるが、それでも相変わらずの弁舌である。
「だいだらぼっちが製鉄に関係する妖怪だとすれば、その出現地域には同じく製鉄に関係する一本だたらが現れる可能性もある。とはいえ、一本だたらはそれこそ主に熊野の妖怪だから他の地方に関しては別の名前、別の特徴で製鉄に関係する山の怪が居るのだろう。
実際、代田のあたりで昔に製鉄をしていたことは間違いない。まずそこに自生していないはずの松の木がたくさんあるのは、松脂のおかげで燃料に良い松を製鉄に関わる人が植えたからだ。
土地の砂利にも僅かに赤いものが見られるのは鉄が含まれているからだろう。近くに川があるのも条件に適している」
「ほう……製鉄や鍛冶をしていたと聞いたことがあるか?」
「無いねえ……そもそも代田のあたりは殆ど農家も無くて、道しか無いから」
「そうだろうね。こういう妖怪は今も鍛冶をやっているところには出ないのが普通だ。既に寂れてしまっているのだろう。農家が少ないのは製鉄の影響で土地が荒れているからかもしれない」
石燕の説明を聞くと確かに納得が行くものがある、と九郎は頷いた。
はるか古代に巨人が居て山を均したというのはさすがに現実とは思えないが、何らかの人物集団によって山を崩されたというのならば十分あり得る話である。
特に鉱山に関わる技術者は大陸渡りであることが多く、土地土地を旅して鉄を探し求めていたので謎が多い。それらが比喩的に伝わったとなれば、妖怪として語り継がれることもあるだろう。
「つまりはその妖怪をどうにか退治して欲しいということだね?」
「あ、ああ。そりゃ土地の近くに化け物が居るってなると不安でねえ。うちの子も外に出せないし……」
立ち上がり、幼女は胸を叩いて自信満々に告げる。
「ふふふ、任せておきたまえ! 久しぶりの妖怪事件、九郎くんと共に見事解決して見せようではないか!」
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代田の辺りは現代でこそ普通のコンビニも京王線の駅もある街になっているが、江戸時代では閑散とした村であった。
それなりに江戸から近い土地なのだからもっと開墾されていてもおかしくはないと思うかもしれないが、農家が数件と寺がひとつあり、道が通っているだけの場所である。
当然ながら道以外には草木が生え茂り、小さな川の流れる谷がある以外は高低差が無いものの殆ど山の中のようである。
九郎と石燕、それに豊房は妖怪退治の依頼を受けてここにやってきた。
報酬は特に無いが元より石燕が乗り気な上に、松茸を好きに取っていい場所の確保という点でも関わる理由はあった。
「キノコ好きのスフィに食わせたいしのう」
などと九郎も考えているので賛成であった。
江戸では生キノコはあまり流通しておらず、干したものもそれなりに高い上に種類が雑多で変なのが混じっている。
椎茸などは高級品であり、栽培には運が絡むのだ。九郎が大山の旅籠でやったように、木に直接菌を打ち込む方式はまだ思いつかれていない。
「キノコね。先生はあんまり食べないほうがいいんじゃないかしら。毒に中って死んじゃいそうだもの」
「松茸では当たらないよ!」
「一応云うておくが、松茸あれ古くなったら毒キノコに変わるからな。気をつけろよ」
「九郎くんが実感のこもった様子で顔を歪めている……!」
だからしっかりとした松茸を九郎も食いたいのだが。
「ちなみに己れが若いころに行った長野県……信州はえらくキノコ王国でな。そこらの道端でキノコが売っているばかりか、何故か服屋にキノコが売ってたり、旅館の中でキノコが売ってたりしていた。どうあってもキノコを売ろうとする勢いを感じるのう」
「ふむ……信州では案外、食用キノコの同定が進んでいるのかもしれないね。何せ信州人は江戸でも大食いで有名でね。とにかくなんでも食べるから、毒キノコなども一通り食べているので、食用に適しているかいないかの違いがわかっていてキノコを売っているのではないだろうか」
「おまけに塩っぱいものも好きだから案外お父さんの味付けを気に入るのよね、お店に来ても。よく来る近所の大工の手伝いさんは、醤油ご飯を注文していたわ……ところで先生」
転ばぬように手を繋いで歩いている石燕に豊房は問いかけた。
「なんで江戸なのに、熊野や飛騨の妖怪である一本だたらの話が伝わっているのかしら。だって箱根からこっち側には殆ど居ないはずよ」
「ふふふ、まだまだだね。いいかい豊房。この代田のある世田谷近くは元々、北条家臣の吉良氏が所領としていたのだよ」
「吉良って……あの赤穂浪士の?」
「同系の親戚といったところだね。それでここを所領とした吉良氏の先祖は三河を本拠としていた。つまりは、一本だたらの出る土地だ。その一族が入植したのでここに一本だたらが伝わり、形を成したのだろう」
「むう……そんなに詳しく知らないもの」
頬を膨らませる豊房に、石燕は面白そうに笑みを浮かべた。
一人前になって体の大きさも抜かれたとはいえ、まだ師匠ぶれるのが嬉しいのかもしれない。
「九郎くんはどう思うね? 一本だたら」
「山に住んでいるらしいが転んだら大変そうだのう」
「どうでも良さそうだ……」
石燕から渡された一本だたらの妖怪図を見ながら、どうも思い出せないので唸っているようだった。
なお造形は、紡錘型の体に野太い野牛のような一本足と厳つい両腕が生えていて、毛むくじゃらの胴体には瞼のない巨大な一つ目と大きな口が直接付いている。
「三本足の猪のようだ」
「そうだね。山の神というのは猪がなっていることが多いのだよ。それに上方から熊野のあたりまでは猪を使った神事も多い。聞いたことが無いかね? 猪の頭の皮を被る祭り。[猪頭]なんて率直な地名も向こうにはあるしね」
「飢饉のときのエグい奇祭ではなかったかそれ……」
「ふふふ……実は享保の頃にも行われていたという記録があってね」
「──あっ! そういえばこの川の上流にあるのは……[井の頭]だわ!」
「よく気づいたね豊房! でもまあそれは全然関係なくて徳川家光が『この辺り湧き水が豊富だから井戸の頭にしよう』って言い出して名付けただけだから」
「むー!」
不満そうに豊房は唸った。しかし偶然ではあるが、その名付けが言霊となり妖怪という現象をもたらすこともある。
「……それで、一本だたらは猪でもあるのか?」
「一説によればね。猪笹王という背中から笹の生えている猪の亡霊が一本だたらだという話もある」
「ふむ……しかしあれだのう。勢い込んで退治すると出てきたのだがどうするのだ?」
相手が芝ニャンのように、妖怪のふりをした犯罪者などであれば話は早い。それか、特に退治する依頼を受けずに物味遊山で見物に来る分もその正体がなんであろうと構わないのだったが。
実在するかしないかよくわからないものを退治となると、それこそ屏風の虎だ。将軍に頼んで立体化してもらわねばならない。
石燕は気楽そうに云う。
「なあに、何も居なければ居ないで退治したと報告すればいいのさ。妖怪が居た場合の解決策も用意している」
「というと?」
「まず一本だたらが鍛冶の妖怪だった場合。九郎くんの持っている謎の名刀が役に立つね。作りの良い刀は鍛冶者の目を引くだろう。それに直刀に近い反りの少ない太刀というのは元来神事に使われていたものだ。妖怪には効果が抜群だ。
次に一本だたらが猪だった場合。九郎くんが頑張って倒せば牡丹鍋が食べられるよ!
最後に、山の神だった場合だが……その場合は捧げ物をして鎮まって貰おう。そのために米と海の魚を持ってきたからね」
「何か買い物をしていたが……なんの魚を?」
「秋刀魚だよ。目黒といえば秋刀魚だね!」
そんな会話をしながら進んでいくと、次第に松の木が目立つようになってきた。
松林になると木々の隙間も開いて見通しも良い。下草は殆ど無く、落ち葉などは払われていて地面が見える。
「松茸はある程度管理された山でなければ取れにくいのだね。具体的には、落ち葉を放置して勝手に堆肥になるような環境では生えてこないのだ。落ち葉を燃料に利用する目的で掃いて回収し、土壌を貧栄養状態にさせておくのが大事だという。
この辺りは農地に向かない貧しい土地であることも松茸の生育条件に合っているのだろうね」
「ふーん。じゃあ、とりあえず噂のなぎ倒された松の木とやらを探しながら松茸も見つけましょう」
「うむ」
そうして松林の中を進んでいくと、案外その辺にポコポコと松茸が生えているのに九郎は驚いた。
豊房と石燕はキノコ狩りをしたこともあるのでそこまでは意外でもないのだが、やはり楽しそうに傘の開いていないものを選んで松茸を背負った籠に入れていく。
江戸に於ける庶民女の趣味は潮干狩りやキノコ狩りというハンター系のことであったとされている。
「採り尽くさんようにな。古くなっても困るし、また取りに来ればよいのだから」
「はーい。今日は松茸ご飯なの」
「松茸の天ぷらもいいかもしれないね。ふふふ、背が低いと取りやすい! やったね!」
ちょこちょこと歩きまわって二人が取ってくれるので、九郎は自分が探すよりも周囲に一本だたらが居ないか警戒をすることにした。
──やがて。
ゆっくりと移動していると、件の松が目の前に現れた。
確かに人の胸ほどの高さからへし折れている松で、九郎が断面を確かめるが松食虫などで柔くなっていた形跡も無い。
石燕を持ち上げてじっくり見させるが、
「ふむ……例えば毛の痕などは付着していないね。野生の猪が飛び上がり、体当たりで破壊したというわけでもないらしい」
「局地的な竜巻などは?」
「それはなさそうなの。ほら、倒れている方の枝には葉っぱがたくさん残っているもの。大風じゃないわね」
「しかし腕力でこれを破壊するとなると、熊以上に必要に思うが……む?」
そのとき。
遠くで、音が聞こえた。
どん、どんと足音のようなものだ。
九郎は石燕と豊房を背中に隠し、その方向を見る。隙間の開いた松林ではかなり先まで見通せるが、何も視界に動くものはない。
音が近づいてくる。近くから鳥どころか蝉すら飛び去り、足音のみが林に響いている。
「なんだ……? 見えるか?」
「むう……残念ながら私は新しい体になって霊視能力のある魔眼を失っているので……」
「見えないけど、鳥肌が立ってきたの」
近づいてくる。
音の響きは大気を揺らし、肌に感じるほどになっている。
まるで太鼓を鳴らしているようだ。しかしそれは、狸囃子といった安全な妖怪とは思えない。
どん、と音がする。
同時に、前方の地面の一部が大きな槌で殴ったようにへこんだ。
「見えていてもおかしくない場所に、もう居るぞ……!?」
「九郎くん! 刀を抜きたまえ!」
「わかった……!」
慌てて腰に掃いていた太刀を抜刀し、片手で前に突き出し構えた。
もう片方の手はいつでも二人をひっつかんで逃げ出すように空けている。
どん。
音が近づく。足跡が近づく。
地面をえぐる、鉄の足跡。
「鎮まりたまえ山の神よ! 何を怒っているのか! ええと秋刀魚を上げよう──!」
どん。
更に接近してくる。躊躇いがない。効果があるとされた九郎のどうたぬき+3をまったく解していないように。
もう、足跡の距離は五間(約9メートル)も離れていない。
ぞわり、と九郎の背筋が粟立った。
菌類毒類などを見る感覚の目で前方を見ても何も見えないのだ。
足跡の真上には問題なく大気があり、大気中を漂う自然の菌が存在している。
そこには何も居ないというのに。
何かが居るのだ。
どん。
音はもはや肌がびりびりと震えるほどに近かった。
「く、九郎……なんかまずいの。だってまずい気がするもの!」
もはや秋刀魚だとか刀だとか言っている場合ではない。
九郎は拾い上げていた石塊を前方にぶん投げた。
余人の放った石塊ではない──のだが、前を素通りする。
同時に[炎熱符]から火炎放射を前方に放出したが、やはり何かに触れることもなく炎は素通りした。
そして──。
音。
と認識するにはあまりにも大きな、大気の振動。
が、九郎の目の前──体の一寸前方の地面に食い込んだ。
嫌な味が口に広がるような、とてつもない危機感。
「[起風符]凌駕発動……!」
咄嗟に取り出した風を生む術符を、暫く使い物にならなくなるぐらいに魔力を放出させ瞬間的に爆風を作った。
石燕と豊房を一気に片手で抱き上げて、その爆風に乗り現場から離脱。
勢いのまま上空まで逃げて地上を見遣るが、やはり上から見下ろしてもどこにも妖怪の姿はなかった。
ただ、数メートル置きに地面に数十センチの足跡らしいものが付いているだけだ。
──その時、どこか遠くから鳥笛のような音が鳴り、その音に向かって今度はどん、どん、という音は離れていくようであった。
九郎はほっと息を吐く。
「姿も見えぬし実体もないのに迫ってくる……なんだあれは、妙に恐ろしかったぞ」
「ひょっとして向こうも周りが見えてないのかしら。音につられてるみたい」
「ふむ……」
もはや妖怪というより足跡を刻む現象だ。交渉も会話も不可能な人知を越えた意味不明の存在に、どう対応するというのか。
近くの木の天辺付近にちょうど座れそうな枝があったので、そこに一旦九郎は降りた。
石燕も豊房も落ちないように九郎の服にしがみついたまま、枝に腰掛ける。九郎も一旦二人を下ろして刀を腰に戻した。
「一つ目の妖怪というものは視覚が何らかの重要な意味合いを持つ。一本だたらの場合、見てはいけない妖怪と云われている」
「見てはいけない?」
「一本だたらの大きな一つ目は、常にこちらを見返している。正面から見ればどうあっても目を合わせてしまい、そうすると襲われ食われるという。そう、こちらと目を合わせてくる妖怪なのだよ。だが今は姿を消している……すると、合わせるべき目も閉じられているから見えないのではないだろうか」
「……とすると?」
「九郎くんの超カッコいい刀で脅しても見ていないから効果がない」
溜息をつく。
世の中にああいう、不可思議な存在があっても──この際だから認めようとは思うが。
しかしそれがうろつく場所で安全に松茸を取るのは難しいだろう。
石燕も妖怪絵師であって除霊師でも退魔師でもないのだ。インチキ妖怪を看破することは出来ても、現象を鎮めることはできない。
「これはもう将翁あたりの領分だろう」
「お呼びですかい」
「うむ。普通に返事をするな」
九郎の言葉に、三人が腰掛けている隣の木からいつの間にかにやら現れた阿部将翁が声を掛けてきた。
相変わらずの格好と高下駄で、木に登って近くに潜んでいたようだ。
びくっと九郎の背中を掴んでいる豊房と石燕が身を震わせた。
「何がびっくりって、声を掛けられるかどうかわからないのにわざわざ木の上に登って隠れて出る場面を見計らってたところなの」
「神出鬼没が行き過ぎて粘着気味だね」
「おっと勘違いしちゃいけねえ。あたしも依頼を受けて妖怪退治にしけこんでいて、偶然出くわしただけですぜ。何せここは将軍の鷹狩り場からそう遠くない。物の怪が徘徊しているとなりゃ、大変なことで」
阿部将翁は徳川吉宗からの信頼も受けている本草学者としての一面も持っていて、幕府の命を受けて薬草の栽培などをしている。
そして更に彼女──或いは彼女らは、京の公家から正式な印を受けた陰陽師でもある。
実際にこの時代では陰陽師が建物の吉兆を測り、病魔退散の祈祷を行い、占卜を独占していたのだから幕府・朝廷公認の霊能者と云えるだろう。
「で、どうするのだ?」
「あの物の怪は、この土地に住んでいた鍛冶師の一族が昨年に途絶えたことで生まれた妖かしだ。とはいえ、鍛冶師の本業はとっくに廃れていたんですがね。ここじゃ新たに鍛冶場を作るわけにもいかないので、熊野へ向かわせようかと……」
「勝手に送り込んでいいのか?」
「一本だたらの居る果無の山はその名の通り、霊的な意味で果てが無いある種の結界になっている。だから妖怪の一体や二体増えても問題はありません、よ」
彼女はそう云うと、木から飛び降りた。体術で着地の衝撃を和らげ、ふわりと地面に降り立つ。
「キノコでも取って待っているといい。今晩はあたしも、松茸を食べにお邪魔しましょうかね」
「ふむ……まあ、退治してくれるのならば飯を食わせるぐらい構わんが……」
「くくく……」
「なんで今笑った?」
「九郎殿の松茸的な冗談が思い浮かんで……」
「普通に最低だな!」
「今晩は股間が一本だたら」
「露骨に下品だろ!」
会う度にセクハラ発言をしてくるな……と九郎が睨む。その視線を背中に受けて、阿部将翁は音の鳴る方へと向かっていった。
「やれやれ。目には見えない妖怪となればこれはもう、餅は餅屋に任せるしかないね」
「見えないのだから絵にして形を作らないといけないわ」
「そうだね豊房。ちなみにどういうのがいい?」
「この[松茸大将]がいいんだけど」
「気に入ったのそれ!?」
「将翁さんが退治しているところも想像で描いちゃいましょ」
一本だたら。
たたら製鉄に関係していると云われるが、似た妖怪の名称としては全国では単に[一本]という名で呼ばれる足一本の妖怪が多い。
その中で──
江戸の代田にて現れた一本は、キノコが一本直立しているようだと後世に伝えられるようになることを。
真面目に祝詞を唱えて舞を踊り、妖怪退散させている阿部将翁は知る由も無い。
「方位をつかめ。反閇にて悪しき方角を踏み切る。幽かにして遠き、果ての無い道へと戻れ。
朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝禹、文王、三台、玉女、青竜──」
キノコ妖怪の前で踊る巫女として、妖怪画にして出されることなど。
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西洋人は松茸の匂いが苦手だと云われている。
三日ぐらい履いた後で裏返しにして更に三日履いた靴下の臭いだとかそんな評価を受けている。
松茸の学名からしてTricholoma nauseosum(吐き気を催すキシメジ)と言われるぐらいだ。
西洋的には罰ゲーム扱い。近所の山に生えていても誰も食べる人は居ない。え?日本が輸入してくれるの?どうぞどうぞみたいな存在だった。
九郎も多少はそのことを知っていて、スフィに食べさせる段階になって不安になった。
人種的にはエルフなのだが、見た目は西欧系白人のスフィは果たして松茸を好んでくれるだろうか。
「うみゃーみゃー! クロー! このキノコご飯うみゃーみゃー!!」
大成功! スフィは松茸ご飯を食べながら大喜びだ!
九郎もにんまりとして、バクバクと食べるスフィの茶碗におかわりを盛ってやる。
松茸の香り成分は特有ではなく、濃度が薄いだけで他の食用キノコにも含まれていることが多い。
つまりスフィのように普段からキノコを食べ慣れている者ならば、濃厚な香りになった松茸も十分に美味しい匂いとして認識できるのだ。
「うむ、うむ。良かったのう。松茸は逃げぬから、たんとお食べ」
「いい香りじゃのー! 歯ごたえもシャキシャキしてて、最高じゃ!」
「ふふふ、松茸の天ぷらもあるよ」
「お吸い物も作ったの」
差し出されるおかずに感動して、スフィは涙目で九郎を見る。
「クロー……私、別世界にまで来て良かった……!」
「いや、松茸でそこまで感動しても」
異世界でも見なかった勢いでキノコ料理を食べているスフィであり。
九郎は松茸を持ってきた甲斐があった、と喜ばしい気持ちになった。
夕飯に相伴している将翁がスフィを見ながら云う。
「スフィ殿。キノコがお好きならば、今度松茸以外もキノコ狩りにどうですかね」
「なぬ! 行く! クローも行くぞ!」
「お、おう……」
すごい勢いで決めるスフィに、九郎も思わず呻いた。
「キノコの種類判別ならば、あたしにお任せあれ」
「ふむー、確かにこっちのキノコは私も知らんからのー……勉強にもなるからこれは是非に行かねばな!」
やる気満々のスフィに、九郎もそう悪い気はせずに笑いながら行く約束を交わしたのだった。
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その晩、女子一同は同じ部屋に集まり何やら会議を開いている。
九郎のみ除け者というか、彼は部屋でだらだらと黄表紙の文を推敲している。早速、活動を再開しようと靂から渡されたものだ。奇しくも内容はキノコに関することで、森で転んで膝を切ったところひと月後には膝の内側にキノコがびっしりという、どこかで見たようなホラーだった。
さて、将翁も泊まることになった女達が話し合う議題は、
「ここは一つ、しっかりとした知識というか体験談を知っておく必要があると思うのよね。このままお嫁に行ったら恥を掻きそうだもの」
「ああ、そりゃ確かにそう思うぜ」
「やれやれ、小娘達は随分と初心なものだ」
「初心ちんであります!」
鼻で笑うように云う石燕と夕鶴を豊房はジト目で見た。
「黙るの。先生は三十路になっても未通女だったでしょ」
「うぐっ……い、一応未亡人ではあったから……」
「子供作んなきゃ同じよ。夕鶴さんは男が近づいてくるのを見たことがないわ」
「あんまりであります! 世間の男は見る目が無いであります!」
「でかすぎるからなあ……あたしは師匠で見慣れてるからいいけど」
何せ夕鶴の背丈は六尺(約180cm)ほどもある。彼女以上に背丈があるのは、録山晃之介か根津甚八丸か九郎の大人形態ぐらいだろう。
話してみれば朗らかなのだが、近寄りがたいのは間違いない。
「ちなみにスフィさんは?」
「わ、わわわわわわしはそんなクローとだなんて手順を踏めばあれじゃがもっと長期的な視点からじゃな!」
「これは駄目ね」
ひと目でわかるおぼこっぷりである。
「とにかく。それでさっぱり経験が無いものだから人に聞いてみたいのだけど、聞く相手が家族だと何かちょっとね……お雪母さんに聞いたらなんかお父さんとのアレを想像しちゃいそうだし」
「あー、確かに。あたしも子興姉と師匠があれこれしてるのはちょっとな。イチャコラしてるぐらいはいいんだが子作りは生々しいというか」
「というわけで将翁さんに聞いてみようと思ったの」
話を向けられて、皆の真ん中にある布団に座っている将翁は。
邪悪さすら感じる、艶のある笑みを浮かべた。
「なるほどねえ」
「色々体験談とか教えてくれる? 人生経験豊富っぽいものね」
「ま、確かに長生きしてりゃそういうこともありますぜ。よござんしょ。あたしの体験談で良ければ──」
僅かに、彼女も頬を紅潮させながら、云う。
「教えてさしあげましょう」
それから暫く。
ぼそぼそと語られる将翁の猥談が続いた。
例えば四十八手などの体位は豊房も石燕も知識などでは知っているが、半分ぐらいギャグだと思っていた。
しかしながら、そう云う決められた方法論ではなく。
将翁が実際に体験した──というよりも、彼女も一方的にやり込められた風であった、その生々しい数々の、圧倒的リアルさを持って語られる言葉は。
「知らなかったのじゃそんなの……」
女衆の知識を打ちのめし。
「え!? そんなことするのかね!?」
と、常識を破壊し。
「だ、大丈夫なの? そんなところ……汚かったりしない?」
などと不安を煽りまくり。
「絶対痛いぜ……怖いぜ……でも……」
期待と恐怖に混乱させ。
「卑猥であります……不義であります……」
理解を拒むほどだった。
九郎が恐怖のキノコ人間の妖怪黄表紙案を纏めあげてさっさと寝た後も、女衆の悶々とした勉強会は続き。
翌朝、寝不足で全員ぼんやりして九郎に心配されるのであった。
それはそうと、少しばかりその日から暫くの間は女達に慎みが生まれたような気がして九郎はそこはかとなく心落ち着いた。
一人以外は。
「最近、あやつらがお主を畏怖の目で見ているのだが」
「さて? 心当たりはありませんが……ま、一時のことでしょうがね」
「ふうむ。で、何故己れの布団に」
「いやはや、彼女らはどうも最近お年ごろでね、あたしの体験談に興味津々。同じ部屋で話をしていたら、根掘り葉掘り聞き返されそうなので……それでもよろしいので?」
「……なにもせんなら、今日のところは己れの部屋で寝ていい」
「どうも。そうだ、九郎殿。九郎殿の代わりに妖怪を鎮めたのだから、褒美があっても良さそうなものじゃありませんかね」
九郎は大きく溜息をついて、珍しく狐面を外している将翁の、あまり人に見せない額を撫でる。
犬がやられるように、目を細めて彼女も九郎の手に擦りついてきた。
近くの寺から、連日誰かの叫び声が聞こえる夜だった……
他のヒロインのエロポイントを狐が吸収していく・・・卑しい
スフィを制したものが九郎を制する




